2024/02/25

主日礼拝メッセージ「葬られた神」ヨハネの福音書19章38-42節 大頭眞一牧師 2024/02/25


十字架で息をひきとった主イエスの葬り 。この日、神が、人となられた神が、 死んで葬られたのでした。神が死ぬことは無理です。けれども神はその無理を押して死んでしまわれたのでした。私たちのために。

【アリマタヤのヨセフ】

「その後で(イエスの脇腹が槍で突き刺された後で)、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。 」 (38)とあります。ルカの福音書によればこのヨセフは「議員の一人」 (ルカ 23:51)すなわち裁判所を兼ねた議会である最高法院の一員でした。ルカは「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。 」(ルカ23:52)と記していますから、このヨセフは裁判で主イエスの死刑に反対しました。

ところがヨハネは最高法院でのこの裁判についてはなにも 語っていません。そして「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ 」 と 記すのです。ヨセフは勇気をふりしぼってイエスの死刑に反対しました。でも自分がイエスの弟子であることは隠していました。ヨハネはそこにあった恐れを見逃さないのです。

【ニコデモ】

アリマタヤのヨセフといっしょに主イエスを葬ったニコデモもまた恐れゆえに主イエスの弟子であることを隠していました。ニコデモは「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 (ヨハネ 3:2)と言いました。主イエスは神から来た、神がともにおられるお方だと知っていました。けれども、彼が来たのは夜。人びとの目を恐れて。 ヨハネは「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」 (39)と ニコデモの恐れも 見逃さないのです。

【葬られた神】

恐れていた二人、アリマタヤのヨセフとニコデモは、けれども、白昼、人びとの前に姿をさらしました。ニコデモは「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持って」。これが 32 キログラムにもなります。そんなものをかついで来たのです。マタイによればこの墓はアリマタヤのヨセフのもの。ヨセフは自分の墓に主イエスを葬ったのです。こうして二人はついに自分たちが主イエスの弟子であることを明らかにしたのでした。

【恐れからの解放】

この二人はなぜ恐れから解放されたのでしょうか。悔い改めたからとか、祈ったからとか、私たちは何か理由を知りたいと思います。そしてその手段の通りにしようと思います。けれども、いつも 申し上げる通り、主語は神さま。私たちが何かをしたからではなく主イエスが恐れを取り去るのです。恐れは、神への愛と信頼を揺らがせます。

恐れは、人と人との交わりをさまたげ、心のつながりを奪い、愛を失わせます。人を受け入れ、理解し、共感することができなくなり、疑心暗鬼が生まれます。人から批判され、責められているという思いが私たちの心を支配し、そのために、逆に、人を批判し、責める思いが募ります。

だから 神は人となって来てくださいました。何度も何度も何度も読む箇所ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 」(へブル 2:14-15)。神は私たちを、神との交わりが損ねられ、人との交わりがさまたげられたままで放っておくことがおできになりませんでした。それゆえどこまでもご自分を与えてくださいました。十字架で死に、葬られた神!

私たちはこの解放にすでにあずかっています。ですから恐れに捕らえられるときに、たがいに思い出させ合うことができます。もはや恐れはその元凶である悪の力とともに滅ぼされ、今あるのはその残滓(のこりかす)に過ぎないことを。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/02/18

主日礼拝メッセージ「突き刺された神」ヨハネの福音書19章31-37節 大頭眞一牧師 2024/02/18


このところの説教題はなんとも言えないものが続いています。「捕らえられた神」「むち打たれた神」「十字架に架けられた神」「渇く神」そして今朝は「突き刺された神」これらは、みな私たちの神がどのような神であるかを突きつけ、その愛へと招きます。

【折られなかった脚】

ヨハネによるならば十字架は安息日の前日。この日の日没からは安息日です。十字架に架けられた死体は汚れたものと考えられていたので、ユダヤ人たちは埋葬を急ぎました。そんなときには死期を早めるために、脚の骨を折ることが行われていたようです。

ところが「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」(33)とあります。他の二人はまだ息があり、脚を折られたのですが。ヨハネはこれについて「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するため」と記します。ここで言われている聖書は出エジプト記12章でしょう。過越の小羊の食し方について「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(46)とある箇所を指していると考えられます。ヨハネはここで主イエスが過越の小羊であることを、その死によってすべての人を救うことを明らかにしようとしたのでした。

【救いの四つ顔その4「癒し」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、これまで「和解」「赦罪」「解放」と語ってきました。今朝は、「治癒(癒し)」。これは「きよめ(聖化)」と深いかかわりがあります。「和解」「赦罪」「解放」がなしとげられてとして、では私たち自身は変わることがないのでしょうか。罪を犯し続けるしかないのでしょうか。

聖書は、罪を病としても捉えています。これは特に、ギリシャ正教やロシア正教で強調されるイメージです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)とあります。この見方は十字架だけではなく、イエスの生涯全体を一連の救いのわざと考えます。受肉(神が人となること)によって、無限の神が有限な人間の苦悩を身にまといました。そして罪に病む人間の存在を自分の中に引き受けて癒すのです。誕生から幼児期、青年期、壮年期そして死にいたるまでの全生涯において、人がどっぷり漬かっている罪という病をイエスが引き受けました。イエスを受け入れる人を、毒に対する血清を受けた人になぞらえることができるでしょう。人はみな罪に冒され病んでいます。その病をイエスが癒して健やかにし、その健やかさに私たちを与らせるのです。

以上、新約聖書にある四つの主な贖いの側面を見てきました。どの見方にも共通していることがあります。それは罪によって損なわれたものを、神自身が犠牲を払って回復させること。その動機は愛であって、その愛は十字架の滅びをも厭わない愛であることです。神と人とを一つにするために十字架はどうしても必要だったのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本90-91ページ)

病人には自分の病がどのようにして生じたのかわかりません。癒されたときも、その癒しがどのようにして起こったのかわかりません。罪という病もまた、私たちの理解と許容量を超えた悲惨で、根深く、処置のしようがないものです。けれども患者にはわからなくても、医師はその病を知って治療します。主イエスは医者です。名医です。私たちのすべての病を、傷を、問題をすべてご存じで、その上で引き受けて癒してくださいました、癒してくださっています、癒し続けてくださいます。医師とのちがいは、医師が感染防護服やマスクに身を包んでいるのに対し、主イエスはご自分で罪という病を引き受けてくださったことです。そして私たちのために突き刺されてくださいました。そのお方が神であることを、突き刺された神であることを、私たちは深い痛みと、その奥から湧き上がるほのかな喜びをもって語り合います。語り合い続けます。いのち果てるまで、果てたならばなおさらに。


(ワーシップ:「変わらぬ愛(オリジナル曲)」Bless)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/02/12

当教会の Bluesky アカウントを開設しました(関連サイトも合わせてお知らせします)

このほど、当教会の Bluesky アカウントが開設されました。

合わせて、当教会の関連サイトを案内いたします。

どうぞご利用ください。

2024/02/11

主日礼拝メッセージ「渇く神」ヨハネの福音書19章25-30節 大頭眞一牧師 2024/02/11


十字架で息を引き取られたイエス。ヨハネはその最後の言葉が「完了した」であり、先立つ言葉が「わたしは渇く」であったと記します。今朝は、この二つの言葉の間に起こったできごとを聴き取ります。

【渇く神→完了した神】

酸いぶどう酒を受けたイエス。けれどもイエスの渇きは肉体の渇きだけではなかったでしょう。そこには神であるイエスが人となって、この世に来られた目的、すなわち三つの破れの回復、そこに渇いておられました。神と人との破れ、人と人との破れ、人と被造物の破れ、がそれです。

けれども破れの繕いは十字架の上で成し遂げられました。完了しました。至聖所の幕は上から下へと裂けました。神と人との関係が回復されたのです。また、さきほど読んでいただいた27節に「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」とあります。神の家族として生きる教会、人と人との関係の回復です。被造物との関係の回復もそこから始まりました。

始まったこれらの回復は今も続いています。だから「完了した」というのは言いすぎだと感じられるかもしれません。けれども、完了したことがひとつあります。それは私たちを破れの中に閉じ込めようとする悪の力からの解放です。

【救いの四つ顔その3「解放」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週、先々週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは解放。

人はみな罪の中にあります。罪とは、あの罪この罪というように数え上げることができるものというよりは、神を離れた存在のあり方そのものです。罪から離れようと思っても離れることができず、愛そうと思っても愛することができない理由がそこにあります。私たちを罪に縛りつけている力があると聖書は教えています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」。(へブル2:14〜15)

罪の奴隷であった私たち。死は罪の結果ですから、私たちは死に支配された死の奴隷でもありました。奴隷というのは主人の強い力に支配されている者たちです。そのように自分よりも強い罪と死という悪の力の支配の下にあった私たちを、十字架が解き放ちました。それは暴力による解放ではありませんでした。逆に罪と死の力の暴力が、イエスに対して費やし尽くされることによる解放だったのです。こうして解放された者たちは、イエスと同じように生きることへと招かれています。悪に対して悪で酬いず、罪の連鎖を自分でとどめ、かえって悪に対して愛をもって酬いて生きる生き方です。そのためには人と自分を比べて優越感や劣等感を抱いたり、それを跳ねのけるために自分を駆り立てて生きる罪深い習慣が妨げとなります。神に愛され、神に受け入れられている恵みに安心して生きる習慣へと移ることが必要なのです。これには時間がかかるかもしれません。けれども、イエスを受け入れるとき、その人の中にはこの変化がすでに始まっているのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」89-90ページ)

このことは神さまの長い間の願いでした。創世記3章14節で、神はヘビが象徴する悪の力に対して宣言されました。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と。世界の始まりから抱いておられたこいの願いを、ついに神ご自身が人となって、十字架の上で完了してくださったのでした。

アメリカでは1862年9月、リンカーンによって奴隷解放宣言が出されました。けれども自分が自由であることを、長い間信じることができなかった奴隷たちが多くいたそうです。イエスによる「神の国」の宣言についても同じことがあり得るのです。新しい時代が始まったことに気づかないでいることも、大いにあり得るのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」79ページ)

主イエスによる悪の力からの解放を私たちが忘れることのないようにと願います。私たちの家族や友人、地域の方がたも一人残らず、この解放を知らないでいることがないようにとも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/02/05

主日礼拝メッセージ「十字架に架けられた神」ヨハネの福音書19章16b-24節 大頭眞一牧師 2024/02/04


いよいよ十字架。十字架に現れた神さまの恵みの一端を今日も受け取らせていただきます。

【主ひとり】

他の福音書では、ゴルゴタへ向かう途中で、シモンという人が主イエスの十字架を無理やり担がされたと語られています。ところがヨハネはそれを語らず「自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた」(17)と記します。ヨハネの意図は、主イエスがおひとりで十字架を、つまりおひとりですべての人の苦しみを、引き受けられたことを明らかにすることでした。

私たちは十字架の救いにも条件があるかのように考えがちです。私たちがちゃんと罪を悔い改めなければ救われないとか、私たちがしっかり信じなければ救われないとか。けれども私たちには、思い出すことができない罪がたくさんあります。また、思い出した罪もその重大さをどれほどわかっているか、心もとないものです。私たちの信仰もしばしば揺るぎます。ときには主イエスを見失ってしまったように思うことも。しかし主イエスはおひとりで十字架を引き受けました。おひとりで、私たちに悔い改めを、信仰を造り出したし、造り出しているし、造り出し続けるのです。

【ユダヤ人の王】

主イエスの十字架の上には罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」(19b)と。ここでもヨハネは他の三つの福音書とちがって「ナザレ人」の一句を記しています。主イエスが人となったのは事実でした。神が、ナザレという町にほんとうに生き、実際の人としての悲しみ、喜び、苦しみを経験したのでした。

そしてこれもヨハネだけが「それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」(20b)と記します。ユダヤ人のへブル語、ローマ帝国のラテン語、地中海沿岸世界の共通語であるギリシア語。つまり世界のすべての人に対して、主イエスがユダヤ人の王であること、つまり神がアブラハムに約束された、世界すべての人の救い主であることを宣言しているのです。私とあなたとそしてすべての人の。

【救いの四つ顔その2「赦罪」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは罪の赦し。ルターによるなら「罪とは自分の内側に折れ曲がった心」。神への愛、他者への愛からそれて自分に向かう私たちの心のありようが罪。引用します。

では神は人が犯してきた罪をただ見過ごされるのでしょうか。そうだとするなら神は虐げられた者たちの叫びに対して耳を閉ざすお方なのでしょうか。もちろん神はそんなお方ではありません。神は私たちよりも、はるかに正義を愛します。悪がはびこるのを許しません。このことは私たちには両刃の剣となります。なぜなら私たちは罪を犯してきたからです。神が正しいお方であるならば、私たちが傷つけてしまった人々の心の痛みや、私たちが愛を出し惜しんだゆえの人々の悲しみをそのまま見過ごすことはなさらないでしょう。私たちは自分の罪を償わなければならないのです。ところがここに問題があります。私たちには罪の償いをすることができません。もっている財産のすべてや命を差しだしたところで、すでに犯してしまった罪の償いとすることはできないのです。

イエスが十字架上で発したもう一つの言葉は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)です。この問いに父なる神は完全な沈黙を貫きました。イエスという子なる神が見捨てられたのです。見捨てたのは父なる神。神に見捨てられるということは、永遠の滅びを意味します。滅びとは絶望です。愛も交わりもないばかりか、いつか絶望が終わるという希望もない絶望が滅びです。宇宙船で船外活動をしている宇宙飛行士を考えてみてください。事故で彼と宇宙船をつないでいたロープが切れてしまったらどうでしょう。彼はどこまでも宇宙船から遠ざかっていきます。宇宙の彼方へとどこまでも。もう愛や交わりの中に戻ることができる見込みのない絶望の中で。滅びとは、血の池や針の山といったものではなく、神から切り離される絶望なのです。

ただし、この絶望は神が望んだものではないことを忘れてはならないでしょう。すでに見たように神は和解の手を差し伸べています。この手を払いのけ続け、拒み通した者だけが滅びます。ですから滅びは自分で選び取るものです。神を選ばないということが滅びを選ぶことです。私たちの意志に反して私たちを救うことは神にもできないのです。また、「結局のところ、イエスは3日後に復活した。だからイエスの経験した滅びは、みせかけ。本当の滅びではないのではないか」と考える人もいるかもしれません。けれども後に復活するからといってこの滅びが茶番だとは言えません。イエスの三日間の滅びは、その中では復活の望みも断たれてしまう絶望であったにちがいないからです。

こうして子なる神は、父なる神に見捨てられて滅びました。本来、滅びなければならないのは私たちでした。けれども、私たちが滅びることに耐えることができない神は、私たちの代わりにご自分で償いをしてくださいました。イラストが助けになるかもしれません(イラスト参照)。父の審きである断絶の剣が盾に突き刺さって防ぎ止められています。盾がかばっているのは罪人である私たち。その盾に描かれている十字架、この十字架には子なる神が架けられています。父なる神が子なる神を見捨てることによって、いわば自分を罰することによって私たちを赦したのでした。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」88-89ページ)

赦された私たち。たがいに赦し合いながら、この救いのいのちを喜びます。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/01/28

主日礼拝メッセージ「むち打たれた神」ヨハネの福音書19章1-16a節 大頭眞一牧師 2024/01/28


また、心が痛む説教題にしてしまいました。語るのもつらい箇所です。けれどもやはり目をそらしてはならないとも思うのです。十字架こそが神の私たちへの愛のクライマックスなのですから。

【この人を見よ】

他の福音書では、イエスのむち打ちは、十字架の死刑判決の後です。ところが、ヨハネは裁判の始まる前に、ピラトの命令で行われたと記します。ピラトはイエスが無実だと思っていましたから、むち打たれボロボロになったイエスの姿をユダヤ人たちに見せ、「もう十分だ」と思わせて、イエスを釈放しようとした。これがヨハネの言おうとしているところです。ところがユダヤ人たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」(6a)と叫びます。ピラトは「私にはこの人に罪を見出せない。」(6c)と言い、「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」(12a)のですが、結局は十字架刑に同意してしまったのでした。

ピラトの言葉「見よ、この人だ。」(5c)は、もともとは「このみじめな男をみろ、ボロボロじゃないか。十字架に架けてもしようがないから、ゆるしてやれ」という意味でした。けれどもキリスト教会はピラトの言葉に、ピラトが思ってもいなかった真実を見出したのでした。それをよく表すのが、新聖歌99「馬槽の中に」です。4節「この人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ」。この人を見よ、このボロボロのみじめな男を。なんとこの男は神! ぼろぼろの神、むち打たれた神。私たちのためにボロボロになることをいとわない神、私たちのためにむち打たれることをいとわない神。この神を見よ、この神を受け入れよ、この神とともに生きよ、と。

【見よ、神の子羊】

いよいよ主イエスの裁判が始まりました。ヨハネはここで「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時(正午)であった。」(14b)と記します。過越の備え日、すなわち過越の小羊を屠り、過越の食事の準備する日の午後に、主イエスは十字架に架けられたのでした。まさに過越の小羊が殺される時間。思い出されるのは、かつてバプテスマのヨハネが主イエスについて語った「見よ、神の子羊」(ヨハネ1:36)です。ヨハネは一貫して、主イエスは過越の小羊だと記します。過越の小羊によって、イスラエルの民のエジプトでの奴隷の苦しみからの解放、救いが実現しました。そのように、主イエスの十字架と復活によって私たちの救いも実現したのでした。

【救いの四つ顔その1「和解」】

主イエスが十字架と復活によってなしとげてくださった恵みは巨大です。私たちにはその全体を知ることはできません。それでも教会は、二千年の歴史を通してさまざまな恵みを発見してきました。そのうちの主な四つを、一年12回で聖書を読む会のテキスト「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」に載せています。今日はそのうちの第一番めのものを取り上げることにしましょう。

それは、「神と人との交わりの回復の十字架(和解)」です。神が人を創造した目的は、人と愛し合い、喜び合うため。けれども、この愛の関係は人が神に背を向けたために損なわれてしまいました。これまで何度も、最初の人の名前「アダム」は固有名詞ではなく、「人」という意味の普通名詞だと申し上げてきました。ですから聖書によれば人はみな神に背を向けており、神との関係が損なわれています。神には、このままで私たちを放っておくことができません。そうするには神はあまりに愛に満ちているからです。けれども、私たちにはそんな神の愛がわかりません。目で見ることができるならば、わかるかも知れないのですが……。いったい、どこで神の愛を見ることができるのでしょうか。それが十字架です。十字架に架けられたイエスは神。父なる神とは区別される子なる神。人となった神です。この神が十字架の上で発した言葉の一つが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)です。自分の苦しみを省みず、人のためにとりなす神の姿がここにあります。イエスのとりなしは、自分を十字架に架けたユダヤ人やローマ人のためだけではありません。神に背を向けているすべての人のためのとりなしです。このとりなしの愛を知るときに、人は心を開いて、神との関係を回復することを望み始めます。和解はすでに神から差し出されています。神の愛の迫りを知るときに、人は心を開き始めます。その和解を受け入れ始めるのです。強いられてではなく、愛にとかされて。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)とあります。この幕とは神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕です。この幕の中の至聖所には大祭司が一年に一回入る以外はだれも入ることは許されていませんでした。そこは神が人に会う場所とされていました。けれどもイエスの十字架の死と同時に隔ての幕は裂かれました。このことは神と人との和解が可能になったことの象徴です。(同書87-88頁)

罪を赦すばかりか、和解さえも望み、共に生きてくださる神。人となりたる活ける神をこの朝も喜びます。


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2024/01/14

礼拝メッセージ「王である神」ヨハネの福音書18章28-40節 大頭眞一牧師 2024/01/14


新しい気持ちで始まった新年ですけれども、さっそく困難や痛みにぶつかった方がたもおられることでしょう。その中に、その中にこそ響き渡る主イエスのみ声を聴き取ります。

【ユダヤ人たちとイエス】

「彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。」(28c)。主イエスをローマ帝国のユダヤ総督ピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちは、異邦人の家に足を踏み入れると、汚れてしまい、過越の食事ができなくなるので、中には入りませんでした。本来世界のすべての国民を神に会わせる使命のユダヤ人に歪みが生じてしまっています。

彼らとは逆に、イエスは官邸の中で、堂々とピラトに真理を語ります。ユダヤ人の憎むローマの総督をも神に会わせようとなさったのです。この朝も主イエスはすべての人を神に会わせてくださいます。罪あればあるほど。聖餐がまさにそのことを示しています。

【イエスとピラト】

そんなイエスの前で、ピラトは揺れています。彼は「私はあの人に何の罪も認めない。」(38d)と言い、「あなたはユダヤ人の王なのか。」(33b)と核心をつきながらも、ユダヤ人の暴動を恐れて流されてゆきます。官邸の中からユダヤ人のところに出て(29)、中に入ってイエスを呼び(33)、再び出る(38)ピラトの姿には、ユダヤの最高権力者の権威はありません。主イエスのあわれみに気づかないゆえに、揺れるひとりのあわれな人が際立ちます。そのピラトに主イエスを静かに語り続けます。私たちにもそうしてくださり、今もしてくださっているように。

【真理とは何か】

ピラトは「真理とは何なのか。」(38)と言います。核心です。けれども彼は答えを待ちませんから、真剣に主イエスに問うたのではありません。つぶやきです。ある牧師はピラトを代弁してこういう意味のことを書いています。「真理か。ひさし振りに聞いた青臭い言葉だな。そんなものはない。自分は修羅場をくぐって生きているうちに、とうの昔に、真理を問うことはなどやめてしまった。しかし、この男はなんだろう。大まじめで命の瀬戸際で真理を語っている。忘れていた何かを思い出させるような、そんな懐かしさを感じる」と。

ピラトが払いのけようとしても払い切れない真理、ピラトが心の深いところで慕う真理、それはイエス・キリストでした。この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さのすべてを取り除く主イエス・キリストこそが、真理そのものなのです。

【世の罪を取り除く神の子羊】

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:28)と、バプテスマのヨハネはイエスについて、語りました。実はヨハネと他の三つの福音書では十字架が一日ずれています。他の福音書では、最後の晩餐が過越の食事。十字架はその翌日です。けれども、ヨハネでは十字架の当日が過越なのです。ヨハネの意図は明白です。主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」、過越の小羊であることを強調しているのです。ヨハネはまた、3章で主イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と語ったことを記しています。民数記21章で荒野の旅に我慢できなくなったイスラエルが、神とモーセに逆らったときのことです。猛毒の蛇が送られ、多くの者が死ぬ。民が罪を認め、モーセが祈ったところ、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民21:8)のみ言葉があり、その通りになりました。

ヨハネは、主イエスはこの青銅の蛇と同じなのだ、主イエスを仰ぎ見る者は生きる、どんな罪にもかかわらず生きることができると、語っています。それは私たちの悔い改めが真剣であるから、ではありません。私たちには思い出すことができない多くの罪がある。直視することができない大きすぎる罪がある。弱さや愚かさにいたっては数えきれず、それらのために私たちは息もできないぐらい、ぐるぐる巻きにされている。けれども、そこに主イエスの「生きよ」とのみ声が響きます。あなたのすべての問題を、あなたのすべてのねじれと歪みをわたしが引き受けよう。わたしの王としての力、神としての力を、あなたの罪を取り除くために注ぎつくそう。そう主イエスはおっしゃり、そのために十字架に架かってくださいました。だから私たちは生きることができます。愛する自由に解き放たれて。そのことの証しである聖餐にあずかります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/01/08

礼拝メッセージ「捕らえられた神」ヨハネの福音書18章12-27節 大頭眞一牧師 2024/01/07


明けましておめでとうございます。元旦から北陸に地震が起こるという年明けになりました。けれどもやはり、このときも、どんな状況をも貫いている神さまの愛を覚えていることができるように、と思います。

【捕らえられた神】

捕らえられた神、この説教題は衝撃です。そもそも人が神を捕らえることができるのか、神を縛り上げて、無理やり連れていくことができるのか。もちろんできないはずです。なぜなら神は人が自由にできないお方だからです。それが神の定義だからです。ところが、私たちの神は、実際に捕らえられました。「平手でイエスを打った。」(22)ともあります。私たちの神は、捕らえられたり、打たれたりする神。ですから聖書を読むことは、神の定義を、定義しなおすことです。神とは、私たちのためには、捕らえられ、打たれ、十字架に架けられることをいとわないお方なのです。

【神の完全、私たちの不完全】

主イエスがまず、連れていかれたのは、アンナスのところ。ときの大祭司カヤパのしゅうとです。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(14)とあります。カヤパは、「主イエスを支持する人びとが反乱を起こしたら、ローマによってユダヤが滅ぼされてしまう。それより、主イエスを死へ追いやって反乱の芽を摘んだほうがよい」と言ったのでした。実際は主イエスはローマへの反乱を企てていたのではなく、世界が神に立ち帰り、破れた世界が回復するために来られました。ですから、カヤパの助言は的外れでした。けれども神さまは、そんな人の愚かさをも用いて、それを主イエスの死による世界の救いの預言となさいました。神さまのなさることは、完全な部品から完全な製品を作ることではありません。不完全な、たとえば欠けと弱さだらけの私たちの不完全さも、組み合わせ、生かして用いて、自在に、完全な結果を作り出すことができるお方。大胆に信頼しましょう。自分ではなく、神さまを。

【イエスとペテロ】

この個所には、イエスとペテロの様子が交互に描かれています。12-14節はアンナスの前のイエス、15-18節はイエスを否むペテロ、19-24節は再びアンナスの前のイエス、25-27節は再びイエスを否むペテロ。ヨハネの意図が、主イエスとペテロを対比することにあったのは明らかでしょう。

イエスは、脅しと暴力によって従わせようとするアンナスに屈しません。「わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。」(21b)と誤りを指摘し、「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。」(23b)と諭します。打たれても「正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」(23c)といさめます。アンナスどころではない権威が、主イエスにはあります。その権威に向き合うことができずに、腰がくだけるように、アンナスは主イエスをカヤパに送るのです。

一方ペテロは、三度イエスを知らないと言います。その相手は大祭司ではありません。門番をしていた召使いの女や下役といった権威からはほど遠い人びと、そんな人びとを恐れました。大祭司(アンナスは元大祭司)を圧倒した権威あるイエスと権威なき人びとを恐れたペテロの姿は、正反対です。

先週はイエスが「わたしである」とおっしゃった箇所を読みました。神さまは人間の思いの中に納まらないお方。私たちの想像をはるかに超えた祝福を与えるお方だと。ここでもイエスは、人間の目論見を超えて、すべての人を祝福する道を歩み続けます。すべての人を祝福し続ける存在として「ある」のです。けれどもペテロは「私ではない」と言い続けます。私は弟子ではない、私はイエスといっしょではない、と。それは祝福である主イエスとの関係を否定することでした。祝福から自分を切り離すことでした。「ある」イエスと「ない」ペテロ、その断絶をつなぐのは、もちろんイエスです。

私たちもまた、主イエスを裏切ってきました。愛する者たちを愛しきれず、覆いきれなかったことも胸を刺します。ヨハネは他の三つの福音書とは違って、ペテロの涙を記していません。泣くことさえもできない絶望の中にペテロは青ざめて立ち尽くしていました。胸が痛みます。けれども、主イエスはペテロの裏切りを知っていましたから「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:31)とおっしゃっていました。

けれども「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)ともあります。ペテロの裏切りは主イエスに知られており、ペテロの裏切りのためにも主イエスは十字架に架かってくださったのでした。もちろん私たちの青ざめる罪のためにも、痛みのためにも。この愛ゆえにペテロは、やがて立ち上がり歩き始めます。泣いて悔い改めたからではなく、主イエスのあわれみゆえに。私たちもまた。何度でも、何度でも、何度でも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)