(本日は礼拝メッセージの要約はありません)
ヨハネが語ったのは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2)。他の福音書での「神の国」ですが、マタイはユダヤ人に向けて、「神」を「天」に言い換えたともいわれます。神のご支配という意味です。今、神が人となってこの世界に来られ、その支配を確立するときがいよいよ来ました。主イエスが、人びとの心を解き放ち、新しいいのちに満たすために来られたのです。ヨハネはそんな主イエスの道を備えるために現れました。人びとの心を主イエスに向けるために。
主イエスが求めておられるのは悔い改め。罪の悔い改めです。けれども、罪とは盗んだとか嘘をついたというような実際の行いだけではありません。ルターによるなら「罪とは、自分の内側に折れ曲がった心」です。自分の利益だけを考える折れ曲がりも、自分など価値がないと落ち込む折れ曲がりも、神さまの目には罪なのです。神さまは罪びとの私たちをあわれみ、どんなことをしてでも私たちを罪から救い出したいと願われ、御子を与えてくださいました。十字架にまで。
「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(5-6)とあります。彼らはユダヤ人でしたから、ユダヤ教に改宗したというわけではありません。自分を王とする生き方、神さまを王としない自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わるバプテスマを受けたのでした。こうして、主イエスを迎える準備は整ったのでした。
ところが、ヨハネは「大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると」(7)、厳しい言葉を口にします。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」(7)や「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(10)と。
それはパリサイ人やサドカイ人の悔い改めが不十分であったというわけではなさそうです。ヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)とも言っていますから。カギになるのは彼らがユダヤの指導者であったこと。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(9)とあります。アブラハムの子孫であるユダヤ人には、神と共に世界の回復のために働く使命があります。だからヨハネは彼らを励ますのです。「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。世界の破れを回復するために、立ち上がれと。そのために来られた王と共に働け、と。民に告げよ」と。
パリサイ人やサドカイ人は、たじろいだかもしれません。「どうして私たちにそんなことができるだろうか、ローマの属国であるユダヤで」、と。
そこへ良き知らせが響きます。「私(ヨハネ)の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(11)と。私たちを聖霊に満たして神の友とし、私たちの罪を、自分のうちに折れ曲がった心を、引き受けてくださる主イエスがもう来られたのです。
私たちの心を内側に折り曲げようとする力は今も働きます。けれども「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」る(12b)お方、私たちをたいせつに抱きしめ、悪しき力を焼き尽くされるお方、私たちの王なのです。
自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 」 (16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。 恐れゆえに。こうして、 王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。 自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。 それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。
けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。
ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲に生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。 神であるイエスが難民となりました。 ヘロデが死んだ後も、 彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが! 世界の片隅で身をひそめて! それは私たちのためでした。
マタイはここでエレミヤ書を引用します。 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 (18)。これはエレミヤ31:15 からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。
イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。 「主はこう言われる。 『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。 』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。
バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、 むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。 自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。 バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも 、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。
だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。
※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」に関するお知らせです。
【白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】
いよいよ明日、6/23(日) 14:00-15:15 に「白鞘慧海ゴスペルコンサート」が行われます。詳しい内容は 白鞘慧海ゴスペルコンサートのご案内(2024/06/23) の記事をご覧ください。
そのコンサートは「会場で直接聴く」以外にも「YouTubeでライブ配信を聴く」ことも出来ますので、京都信愛教会に来ることが出来ない方も是非、ご覧になってください。
ライブ配信をご覧になる方は 京都信愛教会チャンネル からご覧ください。
ライブ配信はそのまま録画としても公開されますので、後日に観ていただくことも出来ます。どうぞお楽しみに!
天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。
ここまで神の国の地上での成長を願い、そのために自分を差し出す祈りを祈ってきた私たち。その私たちに戸惑いを感じさせるのが、今日の箇所です。毎日の生活の必要を満たしてください、といういわずもがなのことを願っているように聞こえるのです。けれども、そもそも主イエスは「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)と言うのです。それなのになぜ私たちは主の祈りで「日用の糧を与えたまえ」と祈るのでしょうか。
イザヤは告げています。「万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を呑み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。」(イザヤ25:6-8)と。これは終わりの日、再臨のときに実現する宴会です。そのとき「万民のために」、つまりすべての人のために、死が滅ぼされ、神との隔てのベールが取り除かれ、すべての涙がぬぐい取られるのです。主イエスが取税人たちを招き、断食すべき安息日に祝宴を設けたのは、この終わりの日の祝宴が、もう主イエスの到来と共に始まったことを示すためでした。私たちが「我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。」と祈るとき、私たちは主イエが始めたこの祝宴を、今日も続けてください。明日も続けてくださいと願うのです。文字通りの日常の必要のことではなく、死と罪と恥と涙、すなわち世界の破れの回復を思い、主イエスが初めてくださった破れの回復を今日も、明日も進めてください、と願うのです。日用の糧とはそんな主イエスのいのちです。私たちに注がれているいのちです。
もちろん世界には、あるいは日本にも食物がなくて飢えている人びとがいます。世界の破れの回復には、現実に飢えている人びとへのケアも含まれています。「我らの日用の糧〔かて〕を」と祈るとき、その「我ら」は、私たちの家族や教会の仲間のことだけではありません。神の国の民である私たちは、世界を代表しています。だから、私たちは、この世界のために神に助けを求めるのです。神は祈りを聞いてくださるお方。それも思いもかけないスケールで。ナオミが嫁のルツに夫を求めると、神はルツをダビデの曾祖母としました。そして世界の回復を前進させたのです。神は世界の飢えのための私たちの祈りも、思いもかけないスケールで聞いてくださいます。私たちを用いて、私たちと共に働いて。思いもかけない筋道で。
世界の破れの回復のための「日用の糧」として主イエスが与えてくださったのは、ご自身のいのち。聖餐に連なるとき、私たちは主イエスの祝宴にいます。その死と復活のいのちに与り、私たちを差し出します。そんな私たちを用いて、祈る以上のことをしてくださる父を喜びながら、世の終わりまで聖餐に与り続けるのです。つまり、主イエスのいのちを生きるのです。
ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。
けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。この王とともにイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。
私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがいないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。
こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。
ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界への。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。
主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。
けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。
※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」のお知らせです。
【白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】
CD「BLOSSOM」より
ハンガーゼロ テーマソング
ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。
「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。
神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。
ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事,生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。
イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ』とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。
創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死にます。こうした場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死にます。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけたのでした。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。
けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えられました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださったのです。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことがおできになります。私たちの罪を主の手に置きましょう。そして祝福と変えていただきましょう。
ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。
神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。
ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死にます。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。
サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。
神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。
ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。
この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。
天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。
主の祈りの今日の箇所は私たちを面食らわせます。もし私たちが「御国」や「天」という言葉を、死んでから行く「天国」のことだと思っているなら、「御国が来る」とか「天になるがごとく」は意味不明です。いわゆる天国は、この世と交わらないから天国なのですから。
「御国」や「天」は、「神の国」「神の王国」。この世界(「地」)にイエスと共にやってきた「神の支配」です。主イエスが来られたと共に「神の国」が、地に始まりました。二つの誤りを避けてください。
神の国はこの世界と私たちの破れを回復する壮大な神の働きなのです。
イエスがご自分の働きの中心テーマとされたのはイザヤ書52章。
三つのことが起こりました。
神と同じ景色を見た私たちにとって、「地にもなさせたまえ」の祈りは、ただ神の奇蹟を座して待つ祈りではなくなりました。それは献身の祈り。「この私たちを通して、地上の教会を通して、この世界を回復してください。癒してください」と自分を差し出す祈りなのです。ときには身近なところで静かに愛のわざに励むことによって、ときには声をあげて世界の悪と非道にノーと叫ぶことによって。
みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。
この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。いつもお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。
神さま三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。
「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデも強調されています。
ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。
王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。
神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。
けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。
だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。
けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われてたときには成しえなかった、たいせつな働きです。
使徒の働き10章でペテロはローマの兵隊コルネリウスと出会います。これは歴史が変わる瞬間です。当時のユダヤ人の一般的な考え方は、ユダヤ人のみが正式な神の民と考えていたようです。とは言え、異邦人も神殿に入ることできました。しかし、神殿の中でも礼拝をする場所が、ユダヤ人男性、ユダヤ人女性、異邦人で区別されていました。イエス様の十字架の時、神殿の幕が裂かれたのは、すべての人が神に近づくことが、大胆に恵みの御座に近づくことが許された象徴です。ユダヤ人と異邦人の区別なく神の民になることができるというのは、すべての区別がなくなったということです。男、女、国籍、お金のある人ない人、罪人も善人も、あらゆるセクシャリティの人々がイエス様に信頼することで神の民とされるのです。
コルネリウスたちに聖霊が降ります。すべての人類、被造物の回復が完成しました。神はすべての人をご自身の愛に招きいれるのです。そして、聖霊が私たちを神様へと導きます。私たちも神様の愛に抱かれています。
ペテロが神様の素晴らしい御業を見たからと言って、それで万事問題なしとはなりません。ペテロが恐れていたことが現実になります。異邦人と食事をしたことで難癖をつけられました。
ローマ軍の百人隊長と会うことはペテロにとって決して簡単に決断できることではありませんでした。この時代、ユダヤ人には2つの大きなタブーがありました。それは安息日を正しく過ごさないこと、そして、異邦人や罪人と食事を共にすることでした。神様はペテロをコルネリウスのところに導くために、不思議な幻を見せます。「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥」を屠って食べなさいと言います。ペテロは言います。「私は汚れた物を食べたことはない。」神様は言います。「これは汚れたものではない、だから、ためらわないでコルネリウスのところに行きなさい。」
ここは伸るか反るかです。神様に導かれたにもかかわらず、コルネリウスと会うことを拒否するか、それとも、ユダヤの友人たちとの関係を断ち切る覚悟でコルネリウスに会うかです。ペテロはコルネリウス、彼の家族、家来たちと会い、食事をします。ペテロは知っていました。それこそ、イエス様がなさっていたことだと。
イエス様の愛が勝ちます。ペテロにコルネリウスに会う信仰を与えてくださるのは神様です。ペテロの信仰が素晴らしいという話ではありません。ペテロもコルネリウスも、悪と罪の世界から救い出したいという神の熱心・愛が、このストーリーを進めています。その愛が私たちに宿り、私たちの中で大きくなっていくのです。
ペテロの報告を聞いたエルサレム教会の人々は黙り込んでしまいます。沈黙の後に出てきた言葉は、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」神様は異邦人も愛に生きるように導いてくださったということです。この神様の導きと働きを誰にも止められません。
このことはペテロにとって大きな励ましとなります。ペテロとともに困難な道を歩んでいくことを決めました。エルサレム教会の人々は神を賛美しました。教会全体に喜びが溢れます。神の物語、神の愛の物語のうちを歩むときに与えられる喜びです。そこには愛ゆえの苦しみがあるでしょう。教会が素晴らしいのは、礼拝式を行うことだけではなく、教会が互いに励まし合い、互いの苦しみを負うことができることです。そういう信仰を神様は与えてくださいます。私たち皆が神様の御腕に抱かれているからです。一人だけが抱かれているわけではない。ここにいるすべての人が共に神様の御腕に抱かれているからです。神様の暖かさやお互いの息吹を感じながら、神様の懐にいる互いを知りたいと願い、知ることができます。互いの困難や苦しみを負い合うことができます。喜びを分かち合うことができます。三位一体の神の愛は、教会の交わりの中に現れます。その教会で生まれる愛の関係が、この世界に、被造物全体に広がっていくのが神様の願いです。この愛の働きに私たちもますます関わっていきたいと思います。
20章で主イエスはペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい。」と言いました。カトリック教会ではこれによって、ペテロは全世界の教会を牧する権威が与えられたと考えます。その後継者が歴代のローマ教皇なのだと。一方プロテスタントは、ペテロ個人への任命ではないと考えます。ペテロのように、自分の罪、ルターによれば(心ならずも)自分の内側に折れ曲がった心を、知った人。ペテロのように、そんな自分を何度でも何度でも何度でも、赦してくださる主イエスを知った人。ペテロのように、主イエスに愛を注ぎ込まれ、その愛をあふれ出させることを知った人。そんな人なら、だれでも主イエスの羊を牧することができる、牧しなさい、そうお命じになったのでした。
「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。」(20a)も、ヨハネがペテロの指揮下にあるということを意味しません。ヨハネがついて行くのはペテロのように見えます。けれどもペテロは主イエスについて行くわけですから、ヨハネがついて行くのは実は主イエスです。歴史の中でローマ教皇が教会を導く大きな働きをしたことも多くあります。それは彼らが主イエスについて行ったから。カトリックとプロテスタントとどちらが正しいか、ということではありません。私たちが主イエスについて行っているかどうか、福音のいのちは、そこにかかっています。
18-19節にこうあります。「『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。』イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」
主イエスはペテロが今度こそ、主イエスに従いぬくことができること、それも殉教の死までまっとうすることができる、とおっしゃいました。決して、ペテロにそうできるようにがんばれ、と言ったのではありません。そうではなくて「ペテロ、あなたが私わたしを愛していることをわたしは知っている。それはわたしがあなたに注いだ愛だから。ずっとわたしはあなたに愛を注ぎつづけてあげよう。あなたにはできない殉教ができるまでに。その愛によって、あなたはわたしと共に働くことができる。愛の破れたこの世界を回復する栄光を現すのだ」と招かれたのでした。
ペテロの「主よ、この人はどうなのですか」(21)は、とうとつで興味本位の問いのように見えますがそうではありません。ヨハネは非常な高齢まで生きました。そのため後に、ヨハネは死なない、不死だといううわさがあったようなのです。もちろんヨハネは不死ではありません。ですから聖書は「しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく」(23b)とはっきり否定しています。
この福音書が告げる最後のたいせつなことは「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」にあります。「イエスが行われたこと」は、イエスが三十年あまりの地上の生涯で行ったことばかりではありません。主イエスがいのちを与えた者たち、主イエスを愛する者たち、つまり私たちを通して行われたすべてのことを指しています。だから世界もその記録を収められないのです。その「主イエスの行われたこと」は今も、行われています。私たちによって、私たちを通して、仲間と共に、主イエスと共に。主イエスが「あなたは、わたしに従いなさい。」と招くすべての人を通して。そして、主イエスの招きは、ひとりひとりにオーダメイドなのです。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8:26)。何をどう祈ったらよいかわからない!あのパウロにして!だったら私たちはどう祈ればよいのでしょうか?
けれどもだいじょうぶです。私たちには主イエスが教えてくださった主の祈り(マタイ6章とルカ11章)があります。この祈りを祈るときに聖霊が働いてくださいます。そして私たちの心もとない祈りを、御霊と共に祈る祈りとしてくださるのです。
聖書が神を父と呼ぶとき、そこには驚くべき希望がこめられています。旧約聖書で最初に神を父とする箇所は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。」(出4:22-23b)。モーセが語った神の言葉です。エジプトの奴隷として苦しむイスラエル。神は、そのイスラエルを子、自らを父と呼んで、イスラエルを自由になさいました。父とは子を自由にするお方。「父よ」と祈ることを教えるとき、主イエスは私たちにおっしゃっているのです。「父よ、と呼べ。父は『子よ』と答えてくださる。『わたし(父)は、あなたがたに自由を与える。罪からの自由、恐れからの自由、頑なさからの自由を』と答えてくださるのだ」と。
そしてこの父は「天にまします」父なのです。アブラハムとその子孫を通して世界のすべての国民を祝福する父。その父はイスラエルを解放し、いま、私たちを解放します。ただ、私たちを個人的な罪から解放するというだけではありません。世界を解放する。正義を実現し、飢えた者たち、虐げられた者たちを解放する。飢えから、虐げから。それだけではありません。奪う者たち、独占する者たちも開放する。貪欲から、失うことの恐れから。天にまします父の領域は、地に及び、地に拡大し、地を覆うのです。神の国が!
「天にまします我らの父よ」と呼ぶとき、私たちの祈りが変わります。新しくなります。かつては、自分の個人的な願望を祈り、付け足すように世界のために祈っていた私たち。けれども「天にまします我らの父よ」で始まる祈りは、逆転の祈りです。今や私たちは、破れてしまった世界の回復のために祈り始めます。そのために喜びに胸をときめかせながら、自分を差し出しながら。そして、自分の個人的な願望を持ち出します。その願望がどのように世界の回復につながるかわからないままに。父がその願望を思いのままに、世界の回復のために用いてくださることに胸を躍らせながら。
主イエスはペテロに「あなたはわたしを愛していますか。」(15,16,17)と三度繰り返して訊ねます。三度!ペテロは十字架前夜、自分が三度、「主イエスを知らない、主イエスとは関係ない」と言ったことを思い出します。ですからペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めて」(17b)と、悲しくなったのでした。
けれども主イエスは、もちろんペテロを責めるために三度繰り返したのではありません。ペテロは主イエスに問われるごとに、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(15,16,17)と答えることができました。主イエスがペテロから愛の言葉を引き出してくださったのです。これはペテロから言い出すことはできない言葉。イエスが、愛を否定したペテロに、その否定の言葉を言い直させてくださった。上書きするように。そして言い直すたびにペテロの痛みは癒されていきました。主イエスは私たちからも愛の告白を引き出してくださいます。そうするごとに私たちを癒し、私たちの愛を増し加えてくださるのです。宣伝のようですが今月「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)の第二刷が出ました。三度で終わりでなく何度でも主イエスは私たちに愛を注ぎ、私たちの愛を増し加えてくださっています。
ここでペテロの三度の答は「はい、私はあなたを愛しています」ではなく、「はい、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」でした。かつては「あなたのためなら命を捨てます」と言い切ったペテロ。けれども裏切ったペテロは、もはや自分には「はい、愛しています」などと言い切る自信がありません。ペテロのうちには愛はないのです。
けれども主イエスはそんなペテロに現れ、パンと魚を裂き与え、愛といのちを注いでくださいました。だからペテロは答えることができました。「はい、主よ。あなたが愛を注いでくださった。あなたがあなたへの愛を私に注いでくださった。ですからその愛で私はあなたを愛することができます。あなたがご存じのとおりです。あなたがそうしてくださったのですから」と。
そもそも主イエスの問い、「あなたはわたしを愛していますか。」は、「あなたはがんばってわたしを愛するか」ではなかったのです。「今、わたしはあなたに愛を注いでいる。わたしを愛する愛を。だからあなたはわたしを愛することができる。さあ」という招きだったのです。主イエスは私たちにも、愛を告白させてくださいます。もうすでに。さらになおなお。私たちが「主よ、私はあなたを愛します」と申し上げるとき。その言葉は主から与えられた黄金の言葉であることを知ってください。
そんなペテロに主イエスは使命をくださいました。「わたしの子羊を飼いなさい。(15)」「わたしの羊を牧しなさい。」(16)「わたしの羊を飼いなさい。」(17)と少しずつ言葉はちがいますが、「わたしの羊」つまり、主イエスの教会を養い、守り、導くことをゆだねてくださったのでした。もともと教会の牧者(羊飼い)は主イエスです。10章で主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(10:11)とおっしゃいました。ペテロは、そして私たちは主イエスの同労者として働くのです。それは牧師だけではありません。役員もそうです。役員でない人も。私たちはたがいがたがいの牧者です。愛を注ぎ合って、愛するいのちを注ぎ合って。
先週は信愛、今週は明野で教会役員任命式が行われます。「私にはとても無理です」と言う方がよくおられます。自分が罪のない、清く正しい立派な人でなければならないと思うのです。けれども教会役員の資格はただひとつ。「主イエスが自分に愛を注いでくださっており、その愛を神と人へあふれ出させてくださっている」これを知っていることだけです。これはすべてのキリスト者がすでに知っていることです。みなさんもすでに。
私たちが立派なキリスト者になって立派に使命を果たそうと考えるなら、それは教会を立て上げることになりません。競争と落胆と高慢をもたらすだけです。主語が自分になっているからです。主語は主イエスであることを忘れないなら、主イエスが教会を立て上げてくださいます。私たちを通して。
この福音書の中で、ヨハネは自分のことをたびたび、「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。ひとつには、すべてのキリスト者は「イエスが愛された弟子」であることを、ヨハネが代表して述べています。けれどもそこにはもうひとつの意味が。
弟子たちのリーダーはやはりペテロ。ヨハネもまたペテロのリーダシップを尊重していました。イエスの墓に先に着いても、中に入らずにペテロの到着を待ったことからも、それはうかがえます。伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの迫害によってローマで紀元67年ごろ殉教したとされます。一方でヨハネにまつわる伝承は、12弟子の中でヨハネが唯一殉教をまぬがれ、現在のトルコ西部のエペソの町を中心とする諸教会を牧した、とします。そんな辺境の小さな群れに対して、ヨハネは「私たちもまた『イエスが愛された弟子』なのだ」、と語ったわけです。
地域教会の歩みはさまざまです。明野キリスト教会にも京都信愛教会にもそれぞれの歴史があり、それぞれの習慣があり、それぞれの文化があります。けれどもどの教会にも、共通点があります。それは「イエスが愛された弟子、イエスが愛された教会」だということです。
ところがヨハネの群れに異端が現れます。キリストの十字架が私たちの罪のためであることを否定する人びとです。ヨハネの手紙第一にあります。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)。ヨハネの群れは、この「罪がない」という人びとによって傷つき弱ります。そんな中で異端に立ち向かい、主イエスの十字架による罪からいのちへの回復を信じる人びとは苦闘を続けます。そしてやがて、ペテロを中心とする群れと交わりを強めて行ったといいます。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(6)と主イエスが網を打つことを命じ、その結果、引き上げることができなかったほどの百五十三匹の大きな魚が入ったのに網が破れなかったできごと。その記事をヨハネが付け加えたのには、そんな事情がありました。ペテロの群れとヨハネの群れ、そのみんなが一つの教会です。そして網は破れないのです。主イエスが教会をひとつとするのです。ひとつとし続けるのです。
「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」(13)を、教会は伝統的に聖餐を意味すると理解してきました。ペテロの群れとヨハネの群れの間にはたくさんのちがいもあったでしょう。たとえばヨハネの福音書の独特な語り口は、慣れない人びとにとっては難しく感じられたはずです。ですからペテロの群れとヨハネの群れがひとつの群れとして生きていくのは、理解の一致ではありませんでした。結束し連帯しようという人間の努力による一致でもありませんでした。それはいのちの一致。
聖餐は見えない神の恵みの見えるかたち、といつも申し上げています。私たちが弱り果てているときにも、信じることができないときにも、主イエスが一方的に私たちにいのちを注ぎ、信仰を注いでくださる、それが聖餐。
たがいに異なる人びとが、異なる群れが聖餐に与るときにも同じことが起こります。主が起こしてくださいます。考え方のちがい、礼拝のちがい(たとえば明野では献金後の感謝祈祷は起立、信愛では着席)があっても、いえ違いがあるときにこそ、主イエスが注ぐいのちが、ひとりひとりからあふれて仲間へと向かうのです。そして「よくぞあなたもいのちを注がれた。そんなあなたを私は喜ぶ。あなたの住む場所にも、主イエスは近づいてくださったのか。異なる器を通して、異なる言葉を通して。そのようにして、あらゆる手段で私たちに、私とあなたに届いてくださった主イエスを喜ぼう」と。
たがいに一致できるから聖餐を共にするのではありません。聖餐によって注がれるいのちによって、一致が生まれるのです。一致し得ないように思われるさまざまな違いを、主イエスのいのちはそのままにしておかないのです。自らの伝統にしがみつくのではなく、主イエスのいのちに持ち運ばれて、違いがあるからこそ生み出すことができる、すぐれた合金のような交わりを、教会を生きるのです。
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永遠のベストセラー 聖書は何を語っているか
今日の箇所はまるでヨハネの福音書の結論のようなところ。続く21章の意味については来週語りますが、20章まででヨハネは一度、筆を置きました。ヨハネはここまでで自分の目的は達成されたと考えたからです。そしてその目的とは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(31)、つまり読者がイエスを信じていのちを得るため。いのちは成長するもの。生まれた赤ちゃんはそのままではなく、日々大きくなっていきます。同じように、神の子となった私たちのいのちが、ますます成長すること、それがヨハネの、そして神さまの願いです。
ヨハネの福音書には七つの奇蹟が記されています。そのひとつひとつが、いのちとは何かを語っています。喜びのイースターに、私たちのうちにあるいのちの豊かさを振り返ることにしましょう。
これら七つのしるしに加えて、ヨハネは最大のしるしである主イエスの十字架と復活を記しました。過ぎ越しの小羊として、主イエスがご自分をお献げくださいました。それは私たちにいのちを注ぐためでした。いのちを注がずに、私たちをそのままにしておくことが、おできにならなかったからです。そして主イエスは復活されました。私たちを主イエスなしで放っておくことが、おできにならなかったからです。
拙著「聖なる神の聖なる民」(レビ記)の第二版がもうすぐでます。帯は初版と同じで、日本イエス出身のブックデザイナー長尾優さんの作。
聖者って、きよい、っていうよりか、はみ出すほどの激しく愛しちゃう人。ささげ物と掟が満載、律法の要塞のようなレビ記。そこに描かれた聖を、神に激しく愛されているから、過剰な激しい愛で愛するようになる人の姿だと読み解くパスター・オオズが失敗しても愛の実験を、愛のリハビリを繰り返し続けようと語りかける講解第4弾。
私たちのいのちのすばらしさは、そのいのちが私たちのうちにとどまらないところにあります。自分の過去・限界・制約・恐れからはみ出すようにして、神へ・仲間へ・世界へと愛があふれ出します。もうすでにそのようにされている私たち。さらにますますそのようにされていく私たちたがいを喜びましょう。神から人へとはみ出してくださったお方によって。
こちらでのお知らせが事後になってしまいましたが、3/18-24(月-土)の7日間、井上 直さんの聖書絵画展「贖いの路」が行われ、様々な方にご来場いただき、ありがとうございました。
本格的な絵画展を行うのは、当教会では初めての事であったと思います。会堂1階と2階を上手くレイアウトくださり、大小71枚の油絵を出展くださいました。明日より京都信愛教会で個展「贖いの路」がはじまります。
— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) March 17, 2024
皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。
作家は全日、牧師もほとんどの日に在廊しております。https://t.co/F9gTKTyYlF pic.twitter.com/lRRqnTO5Ww
個展「贖いの路」4日目を迎えました。
— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) March 21, 2024
昨日の春分の日は雪混じる春の嵐でしたが、たくさんの方にご来場いただきました。
引き続き作家は在廊しております。
本日もよろしくお願いします。
「二日目の夜」
キャンバスに油彩 pic.twitter.com/976CxDacM6
個展「贖いの路」
— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) March 24, 2024
ご来場をいただき心より感謝申し上げます。
京都だけでなく海を渡りアメリカからお越しいただいた方も。とても励みになりました。
次回は10月14日〜20日
日本キリスト教団主恩教会で個展「Light」開催予定です。
引き続き宜しくお願い致します。
ありがとうございました pic.twitter.com/CI2oP966gS
今回は特にレント(受難節)の時期に行われたことで、神さまの愛を視覚を通しても味わうことが出来、教会員一同、感謝でした。
これからの井上 直さんの創作活動にも主の豊かな導きがありますようにお祈りいたします。
「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。」(26a)とあります。ユダヤでは足掛けで日数を数えますから、当時の八日後は、今でいう七日後です。つまり復活の主日(日曜日)の次の主日です。その日、主イエスは復活を信じた弟子たちと、まだ信じることができないトマスに現れたのです。
キリスト教会は、このことが礼拝を象徴しているのだと語り継いできました。礼拝はすべての人に開かれています。礼拝に集う人びとのなかには、すでにイエスに出会い、イエスを主と告白し、復活したイエスと共に歩む人々もいます。しかし礼拝に集うのは、そのような人びとだけではありません。イエスに会いたい、イエスを信じたいと願いながらも、信じることができない人びともいます。あるいは、聖書の教えやキリスト教に興味はあるのだけれども、まだ納得できない、分からないという人びとも。
けれども主イエスはそんなすべての人びとを訪ねてくださいます。「戸には鍵がかけられていたが、」(26b前半)は、恐れや疑いに閉ざされた私たちの心も表しているのでしょう。そこへ、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」(26b後半)と言われたのでした。
ですから私たちはまだ信じることができないでいる人びとも礼拝に招きます。たとえその心が閉ざされていたとしても、主イエスが入ってくださいます。先週も申し上げましたが、信愛の召された方の言葉が心を離れません。「信仰は神さまが与えてくださるものだよ」と。信仰のないトマスに、信仰のない私たちに、主イエスが信仰を与えてくださるのです。私たちをあわれんで。主イエスを知らないままにしておいけなくて。
主イエスの愛はトマスの告白を引き出しました。「私の主、私の神よ。」(28)は、人類の口から出た最もすばらしい言葉。さまざまな異端がイエスが神であることを否定する中で、この告白は教会の信仰の道しるべのひとつとなってきました。主イエスに出会うことは、主イエスの愛に出会うこと。そのとき私たちは愛をこめて「私の主、私の神よ」と申し上げます。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29)はトマスを、また不信仰な者を叱咤する言葉だと誤解されがちです。けれども、「見ないで信じる人たち」とは私たちのことです。使徒たちのように復活の主イエスを肉眼で見たわけではないけれども、主イエスに出会い、主イエスの愛に出会い、主イエスの傷によって癒され、主イエスの復活のいのちに生きる私たち。その私たちに、主イエスは「あなたがたは幸いだ。わたしはあなたがたを喜ぶ。力の限り生きよ、力の限り愛せよ」と祝福してくださっているのです。
弟子たちが恐れたのは、自分たちが主イエスのように処刑されるのではないか、ということ。私たちもこの個所を読むとき恐れを感じます。そして「命の危険に迫られるときに私たちは殉教することができるだろうか。いやできそうにない。つまり自分には信仰が足りないのだ。だからもっと祈って、もっと聖書を読んで、堂々と殉教できる人になろう」とと考えたりします。
けれども、紀元155年ごろに殉教の死をとげたポリュカルプスという司教がいます。その殉教伝は「殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきで、それでも神によってえらばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださる」と記しているのです。弟子たちの恐れを取り除いたのも、弟子たち自身の努力や決心ではありませんでした。主イエスが彼らのいる部屋の戸を通り抜け、彼らの心の恐れの戸を通り抜けて、彼らにお会いくださったのでした。
主イエスが繰り返された「平安があなたがたにあるように。」(19と21)の「平安」は単に争いや戦いがない、ということではありません。神の祝福が満ちている、ということ。神の祝福は恐れていた弟子たちに満ちました。「イエスは手と脇腹を彼らに示された」(20)、そのときに。
主イエスの手と脇腹の傷は、弟子たちの心の傷でもあります。主イエスを見捨てた自分たちの不信仰と愛のなさを思い出させるからです。しかし主イエスはその傷を見せながら「平安があなたがたにあるように。神の祝福をあなたがたに満たしてあげよう」とおっしゃるのです。彼らの罪、不信仰も愛のなさも赦されました。主イエスは彼らを心から受け入れてくださったのです。今、彼らは祝福に満たされています。主イエスに傷があるゆえに。自分たちが主イエスを裏切らなかった場合よりも、はるかに大きな祝福に。罪のどん底に、自分でも赦すことができない裏切りの真ん中に、主イエスは祝福を造り出し、祝福で満たしてくださったのでした。私たちも。
「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22)は、創世記2章を想起させることを意図しているのでしょう。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)とあります。聖霊によって私たちは生きるものとなります。いのちを回復されます。神を愛せず、仲間を愛せず、自分を責める思いの中で、恐れに支配されていた私たちが、生きるものとなったのです。
そのようないのちの生活のすばらしさを主イエスは続けて語ります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」もちろん、私たちに罪を赦す権威がある、というのではありません。罪を赦すことができるのは、神おひとりです。主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21c)と私たちを派遣なさいます。私たちが、家族に、地域に、職場や学校に派遣されて行くとき、そこにいのちがもたらされます。愛なき言葉と思いと行いの私たち。私たちは、それにもかかわらず神に赦されて、神の祝福に満たされて、癒されつつあります。そんな私たちを通して、神さまは周囲の人びととの間に新しい関係を造り出してくださいます。赦された私たちを通して、世界が変わり始めるのです。
そこにあるのは罪の記憶による自責の念に、孤独にうずくまる生き方ではありません。「あなただって」と責め合う生き方でもありません。「私は神に赦された。神の祝福に満たされた。あなたもこの赦しを知ることができるように。赦す主イエスに出会うことができるように。そしてあなたと私が、共に赦し合い、覆い合い、癒し合う仲間となることができるように」と招く生き方です。そのように招くとき、主イエスが働いてくださいます。私たちの遣わされて行く人びとに祝福を満たすために。
主イエスの墓でひとりで泣き、自分を慰めたいと願ったマリア。けれども墓は空。マリアは絶望の涙を流していました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」(13b)と御使いたち。これは理由を訊いているのではありません。「喜びのできごとが起こった。もう悲しまなくてよい」と立ち上がらせようとしたのです。けれどもマリアは「だれかが私の主を取って行きました。」(13d)というのです。「私の主」とマリアが呼ぶのは主イエスの遺体。死んだイエスがマリアの主なのです。マリアは墓の外にいます。墓の外から墓の中をのぞき込んでいます。イエスとの日々をなつかしんでいるのです。
ところがマリアの後ろから主イエスの声が響きます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(15bc)は、「あなたは遺体を探しているが、それは間違っている。わたしは生きている」という意味。そしてマリアは振り返ってイエスを見るのですが、「それがイエスであることが分からなかった」(14b)とあります。
もちろん主イエスはマリアをそのままで放っておきません。「マリア。」(16b)と呼ばれたのです。御使いたちの「女の方」ではなく、マリアを名で呼んでくださり、そのときマリアは主イエスに出会いました。私たちもまた主イエスに名前を呼ばれたひとりひとり。だから信じることがきました。主イエスにお会いすることができました。今も、主イエスは私たちの名前を呼び続けてくださっています。だから私たちはだいじょうぶなのです。信仰が揺らいだとしても。
ところが主イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。」(17b)と。さっきまでマリアは主イエスの遺体を探していました。自分の思うようになる遺体。遺体は動かないからです。今もイエスの体にすがりついて思うようにすることがないように、とイエスはとどめました。私たちにもあります。私たちはしばしば、「主イエスが教えたのはこれだ」と自分の理解を握りしめる。でもそんな理解は多分に自分の思いや体験に色づけされている。まるで動かない遺体を自分の思うままにするように。
ところが主イエスは生きておられます。復活されたからです。生きておられる神はやっかいです。私たちが思っているところにいるわけでもなければ、私たちが願っている通りのことをして下さるわけでもないからです。いえ、主イエスは私たちが思ってもいないところにいて下さいます。たとえば、悲しみのどん底に。たとえば、とんでもない罪を犯してしまった私たちのかたわらに。そして主イエスは、私たちが願っている以上のことをしてくださいました。災害の中であってもそこに愛し合う思いを造り出し、かえって世界の回復を進めてくださるのです。
「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」(17c)と主イエスは重ねて言われます。復活の後の主イエスの昇天のことですが、その後ペンテコステに聖霊が降りました。主イエスはこの聖霊を待て、とおっしゃったのです。
私たちは主イエスにすがりつけたらどんなによいだろうか、と思います。主イエスが守ってくださるし、もう思考を停止してもかまわないからです。けれども、聖霊による恵みははるかに確かなものです。聖霊によるなら、私たちはいつでも、どこにいても、主イエスと共に生きることができるのです。主イエスと共に、主イエスのうちに。もうすでに。そして聖霊によって、私たちは主イエスと共に働く者とされます。もうすでに。ますます主イエスの心を知る友として、私たちの思考も感性も強められ、活き活きとされる。そして、主イエスは私たちの提案を、喜んで世界の回復のプログラムに加えてくださいます。もうすでに。
「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(17d)の名によって、聖餐にあずかります。
これまでもヨハネの福音書には、他の福音書と異なる記述があることをお話してきました。この個所も他の福音書では、イエスの遺体に香料を添えて丁寧に埋葬し直すために何人かの女性が墓に行ったとあります。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは一人だけです。またニコデモとアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されたイエスのお体は埋葬し直す必要はありませんでした。ですからマグダラのマリアは、ただ主イエスにそばにいたかった、墓で悲しみに浸り、涙を流したいと願ったのでした。私たちまた大きな痛みに出会うとき、ひとりで涙を流したいと思います。そうすることで、しだいに癒され、喪失を受け入れ、少しずつ前に進んで行くことができるようになるからです。
ところが墓の入口をふさいでいる大きな石が取りのけられている見たマリアは動揺します。そして走り出します。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行って」(2)と。知らせを受けたペテロとヨハネも走り出します。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」(4)とありますから、ヨハネはペテロよりも早く着いたのですが、ペテロの到着を待ちます。そんなことをするぐらいなら、ペテロのスピードに合わせて走ればよさそうなものですが、ヨハネは力いっぱい走りました。墓にはいない主イエスに向かって。愛ゆえに。愛ゆえの疾走。こうして静かなはずだった日曜日の朝は、だれの予想も超えた騒ぎになりました。イエスを愛する者たちが一斉に走り出したのでした。
墓に着いた彼らは「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」(6-7)のを見ました。そこに主イエスのお体はなかったのです。もぬけのからだったのです。マリアは「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)と言いましたが、これが当然の反応でしょう。死体がなければ、だれかが動かしたのだろうと考えるのが常識です。けれども、「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」(8)とあります。ヨハネは信じたのです。主イエスがよみがえって生きておられることを。次の節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)とありますから、ヨハネは頭でわかったのではありません。頭ではなく、心で、存在で、主イエスの復活を知ったのでした。このとき信じたのは、マグダラのマリアでもなく、弟子筆頭のペテロでもなく、ヨハネだけでした。ヨハネは「イエスが愛された弟子」と呼ばれています。ヨハネがイエスの復活を知ることができたのはイエスに愛されたからでした。マリアやペテロはイエスに愛されていなかった、といういのではありません。イエスの愛がイエスの復活を信じさせる、そのことが語られているのです。
ですから私たちはイエスの復活を信じています。理解できないのですが信じている。それは私たちが信仰深いからでも、霊的にすぐれているからでもありません。ただ、主イエスが私たちを愛してくださって、私たちにどうしてもご自分が生きておられることを知らせたて、理解できない私たちの存在に働きかけ、働きかけ続けてくださっているのです。信仰とは今も続いている神さまの働きかけです。そんな復活の光の中を私たちも走り出しました。今週も走っていきます。仲間とともに、愛に向かって。
「その後で(イエスの脇腹が槍で突き刺された後で)、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。 」 (38)とあります。ルカの福音書によればこのヨセフは「議員の一人」 (ルカ 23:51)すなわち裁判所を兼ねた議会である最高法院の一員でした。ルカは「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。 」(ルカ23:52)と記していますから、このヨセフは裁判で主イエスの死刑に反対しました。
ところがヨハネは最高法院でのこの裁判についてはなにも 語っていません。そして「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ 」 と 記すのです。ヨセフは勇気をふりしぼってイエスの死刑に反対しました。でも自分がイエスの弟子であることは隠していました。ヨハネはそこにあった恐れを見逃さないのです。
アリマタヤのヨセフといっしょに主イエスを葬ったニコデモもまた恐れゆえに主イエスの弟子であることを隠していました。ニコデモは「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 (ヨハネ 3:2)と言いました。主イエスは神から来た、神がともにおられるお方だと知っていました。けれども、彼が来たのは夜。人びとの目を恐れて。 ヨハネは「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」 (39)と ニコデモの恐れも 見逃さないのです。
恐れていた二人、アリマタヤのヨセフとニコデモは、けれども、白昼、人びとの前に姿をさらしました。ニコデモは「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持って」。これが 32 キログラムにもなります。そんなものをかついで来たのです。マタイによればこの墓はアリマタヤのヨセフのもの。ヨセフは自分の墓に主イエスを葬ったのです。こうして二人はついに自分たちが主イエスの弟子であることを明らかにしたのでした。
この二人はなぜ恐れから解放されたのでしょうか。悔い改めたからとか、祈ったからとか、私たちは何か理由を知りたいと思います。そしてその手段の通りにしようと思います。けれども、いつも 申し上げる通り、主語は神さま。私たちが何かをしたからではなく主イエスが恐れを取り去るのです。恐れは、神への愛と信頼を揺らがせます。
恐れは、人と人との交わりをさまたげ、心のつながりを奪い、愛を失わせます。人を受け入れ、理解し、共感することができなくなり、疑心暗鬼が生まれます。人から批判され、責められているという思いが私たちの心を支配し、そのために、逆に、人を批判し、責める思いが募ります。
だから 神は人となって来てくださいました。何度も何度も何度も読む箇所ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 」(へブル 2:14-15)。神は私たちを、神との交わりが損ねられ、人との交わりがさまたげられたままで放っておくことがおできになりませんでした。それゆえどこまでもご自分を与えてくださいました。十字架で死に、葬られた神!
私たちはこの解放にすでにあずかっています。ですから恐れに捕らえられるときに、たがいに思い出させ合うことができます。もはや恐れはその元凶である悪の力とともに滅ぼされ、今あるのはその残滓(のこりかす)に過ぎないことを。
ヨハネによるならば十字架は安息日の前日。この日の日没からは安息日です。十字架に架けられた死体は汚れたものと考えられていたので、ユダヤ人たちは埋葬を急ぎました。そんなときには死期を早めるために、脚の骨を折ることが行われていたようです。
ところが「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」(33)とあります。他の二人はまだ息があり、脚を折られたのですが。ヨハネはこれについて「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するため」と記します。ここで言われている聖書は出エジプト記12章でしょう。過越の小羊の食し方について「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(46)とある箇所を指していると考えられます。ヨハネはここで主イエスが過越の小羊であることを、その死によってすべての人を救うことを明らかにしようとしたのでした。
救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、これまで「和解」「赦罪」「解放」と語ってきました。今朝は、「治癒(癒し)」。これは「きよめ(聖化)」と深いかかわりがあります。「和解」「赦罪」「解放」がなしとげられてとして、では私たち自身は変わることがないのでしょうか。罪を犯し続けるしかないのでしょうか。
聖書は、罪を病としても捉えています。これは特に、ギリシャ正教やロシア正教で強調されるイメージです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)とあります。この見方は十字架だけではなく、イエスの生涯全体を一連の救いのわざと考えます。受肉(神が人となること)によって、無限の神が有限な人間の苦悩を身にまといました。そして罪に病む人間の存在を自分の中に引き受けて癒すのです。誕生から幼児期、青年期、壮年期そして死にいたるまでの全生涯において、人がどっぷり漬かっている罪という病をイエスが引き受けました。イエスを受け入れる人を、毒に対する血清を受けた人になぞらえることができるでしょう。人はみな罪に冒され病んでいます。その病をイエスが癒して健やかにし、その健やかさに私たちを与らせるのです。
以上、新約聖書にある四つの主な贖いの側面を見てきました。どの見方にも共通していることがあります。それは罪によって損なわれたものを、神自身が犠牲を払って回復させること。その動機は愛であって、その愛は十字架の滅びをも厭わない愛であることです。神と人とを一つにするために十字架はどうしても必要だったのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本90-91ページ)
病人には自分の病がどのようにして生じたのかわかりません。癒されたときも、その癒しがどのようにして起こったのかわかりません。罪という病もまた、私たちの理解と許容量を超えた悲惨で、根深く、処置のしようがないものです。けれども患者にはわからなくても、医師はその病を知って治療します。主イエスは医者です。名医です。私たちのすべての病を、傷を、問題をすべてご存じで、その上で引き受けて癒してくださいました、癒してくださっています、癒し続けてくださいます。医師とのちがいは、医師が感染防護服やマスクに身を包んでいるのに対し、主イエスはご自分で罪という病を引き受けてくださったことです。そして私たちのために突き刺されてくださいました。そのお方が神であることを、突き刺された神であることを、私たちは深い痛みと、その奥から湧き上がるほのかな喜びをもって語り合います。語り合い続けます。いのち果てるまで、果てたならばなおさらに。
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酸いぶどう酒を受けたイエス。けれどもイエスの渇きは肉体の渇きだけではなかったでしょう。そこには神であるイエスが人となって、この世に来られた目的、すなわち三つの破れの回復、そこに渇いておられました。神と人との破れ、人と人との破れ、人と被造物の破れ、がそれです。
けれども破れの繕いは十字架の上で成し遂げられました。完了しました。至聖所の幕は上から下へと裂けました。神と人との関係が回復されたのです。また、さきほど読んでいただいた27節に「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」とあります。神の家族として生きる教会、人と人との関係の回復です。被造物との関係の回復もそこから始まりました。
始まったこれらの回復は今も続いています。だから「完了した」というのは言いすぎだと感じられるかもしれません。けれども、完了したことがひとつあります。それは私たちを破れの中に閉じ込めようとする悪の力からの解放です。
救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週、先々週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは解放。
人はみな罪の中にあります。罪とは、あの罪この罪というように数え上げることができるものというよりは、神を離れた存在のあり方そのものです。罪から離れようと思っても離れることができず、愛そうと思っても愛することができない理由がそこにあります。私たちを罪に縛りつけている力があると聖書は教えています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」。(へブル2:14〜15)
罪の奴隷であった私たち。死は罪の結果ですから、私たちは死に支配された死の奴隷でもありました。奴隷というのは主人の強い力に支配されている者たちです。そのように自分よりも強い罪と死という悪の力の支配の下にあった私たちを、十字架が解き放ちました。それは暴力による解放ではありませんでした。逆に罪と死の力の暴力が、イエスに対して費やし尽くされることによる解放だったのです。こうして解放された者たちは、イエスと同じように生きることへと招かれています。悪に対して悪で酬いず、罪の連鎖を自分でとどめ、かえって悪に対して愛をもって酬いて生きる生き方です。そのためには人と自分を比べて優越感や劣等感を抱いたり、それを跳ねのけるために自分を駆り立てて生きる罪深い習慣が妨げとなります。神に愛され、神に受け入れられている恵みに安心して生きる習慣へと移ることが必要なのです。これには時間がかかるかもしれません。けれども、イエスを受け入れるとき、その人の中にはこの変化がすでに始まっているのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」89-90ページ)
このことは神さまの長い間の願いでした。創世記3章14節で、神はヘビが象徴する悪の力に対して宣言されました。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と。世界の始まりから抱いておられたこいの願いを、ついに神ご自身が人となって、十字架の上で完了してくださったのでした。
アメリカでは1862年9月、リンカーンによって奴隷解放宣言が出されました。けれども自分が自由であることを、長い間信じることができなかった奴隷たちが多くいたそうです。イエスによる「神の国」の宣言についても同じことがあり得るのです。新しい時代が始まったことに気づかないでいることも、大いにあり得るのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」79ページ)
主イエスによる悪の力からの解放を私たちが忘れることのないようにと願います。私たちの家族や友人、地域の方がたも一人残らず、この解放を知らないでいることがないようにとも。
他の福音書では、ゴルゴタへ向かう途中で、シモンという人が主イエスの十字架を無理やり担がされたと語られています。ところがヨハネはそれを語らず「自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた」(17)と記します。ヨハネの意図は、主イエスがおひとりで十字架を、つまりおひとりですべての人の苦しみを、引き受けられたことを明らかにすることでした。
私たちは十字架の救いにも条件があるかのように考えがちです。私たちがちゃんと罪を悔い改めなければ救われないとか、私たちがしっかり信じなければ救われないとか。けれども私たちには、思い出すことができない罪がたくさんあります。また、思い出した罪もその重大さをどれほどわかっているか、心もとないものです。私たちの信仰もしばしば揺るぎます。ときには主イエスを見失ってしまったように思うことも。しかし主イエスはおひとりで十字架を引き受けました。おひとりで、私たちに悔い改めを、信仰を造り出したし、造り出しているし、造り出し続けるのです。
主イエスの十字架の上には罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」(19b)と。ここでもヨハネは他の三つの福音書とちがって「ナザレ人」の一句を記しています。主イエスが人となったのは事実でした。神が、ナザレという町にほんとうに生き、実際の人としての悲しみ、喜び、苦しみを経験したのでした。
そしてこれもヨハネだけが「それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」(20b)と記します。ユダヤ人のへブル語、ローマ帝国のラテン語、地中海沿岸世界の共通語であるギリシア語。つまり世界のすべての人に対して、主イエスがユダヤ人の王であること、つまり神がアブラハムに約束された、世界すべての人の救い主であることを宣言しているのです。私とあなたとそしてすべての人の。
救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは罪の赦し。ルターによるなら「罪とは自分の内側に折れ曲がった心」。神への愛、他者への愛からそれて自分に向かう私たちの心のありようが罪。引用します。
では神は人が犯してきた罪をただ見過ごされるのでしょうか。そうだとするなら神は虐げられた者たちの叫びに対して耳を閉ざすお方なのでしょうか。もちろん神はそんなお方ではありません。神は私たちよりも、はるかに正義を愛します。悪がはびこるのを許しません。このことは私たちには両刃の剣となります。なぜなら私たちは罪を犯してきたからです。神が正しいお方であるならば、私たちが傷つけてしまった人々の心の痛みや、私たちが愛を出し惜しんだゆえの人々の悲しみをそのまま見過ごすことはなさらないでしょう。私たちは自分の罪を償わなければならないのです。ところがここに問題があります。私たちには罪の償いをすることができません。もっている財産のすべてや命を差しだしたところで、すでに犯してしまった罪の償いとすることはできないのです。
イエスが十字架上で発したもう一つの言葉は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)です。この問いに父なる神は完全な沈黙を貫きました。イエスという子なる神が見捨てられたのです。見捨てたのは父なる神。神に見捨てられるということは、永遠の滅びを意味します。滅びとは絶望です。愛も交わりもないばかりか、いつか絶望が終わるという希望もない絶望が滅びです。宇宙船で船外活動をしている宇宙飛行士を考えてみてください。事故で彼と宇宙船をつないでいたロープが切れてしまったらどうでしょう。彼はどこまでも宇宙船から遠ざかっていきます。宇宙の彼方へとどこまでも。もう愛や交わりの中に戻ることができる見込みのない絶望の中で。滅びとは、血の池や針の山といったものではなく、神から切り離される絶望なのです。
ただし、この絶望は神が望んだものではないことを忘れてはならないでしょう。すでに見たように神は和解の手を差し伸べています。この手を払いのけ続け、拒み通した者だけが滅びます。ですから滅びは自分で選び取るものです。神を選ばないということが滅びを選ぶことです。私たちの意志に反して私たちを救うことは神にもできないのです。また、「結局のところ、イエスは3日後に復活した。だからイエスの経験した滅びは、みせかけ。本当の滅びではないのではないか」と考える人もいるかもしれません。けれども後に復活するからといってこの滅びが茶番だとは言えません。イエスの三日間の滅びは、その中では復活の望みも断たれてしまう絶望であったにちがいないからです。
こうして子なる神は、父なる神に見捨てられて滅びました。本来、滅びなければならないのは私たちでした。けれども、私たちが滅びることに耐えることができない神は、私たちの代わりにご自分で償いをしてくださいました。イラストが助けになるかもしれません(イラスト参照)。父の審きである断絶の剣が盾に突き刺さって防ぎ止められています。盾がかばっているのは罪人である私たち。その盾に描かれている十字架、この十字架には子なる神が架けられています。父なる神が子なる神を見捨てることによって、いわば自分を罰することによって私たちを赦したのでした。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」88-89ページ)
赦された私たち。たがいに赦し合いながら、この救いのいのちを喜びます。
他の福音書では、イエスのむち打ちは、十字架の死刑判決の後です。ところが、ヨハネは裁判の始まる前に、ピラトの命令で行われたと記します。ピラトはイエスが無実だと思っていましたから、むち打たれボロボロになったイエスの姿をユダヤ人たちに見せ、「もう十分だ」と思わせて、イエスを釈放しようとした。これがヨハネの言おうとしているところです。ところがユダヤ人たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」(6a)と叫びます。ピラトは「私にはこの人に罪を見出せない。」(6c)と言い、「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」(12a)のですが、結局は十字架刑に同意してしまったのでした。
ピラトの言葉「見よ、この人だ。」(5c)は、もともとは「このみじめな男をみろ、ボロボロじゃないか。十字架に架けてもしようがないから、ゆるしてやれ」という意味でした。けれどもキリスト教会はピラトの言葉に、ピラトが思ってもいなかった真実を見出したのでした。それをよく表すのが、新聖歌99「馬槽の中に」です。4節「この人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ」。この人を見よ、このボロボロのみじめな男を。なんとこの男は神! ぼろぼろの神、むち打たれた神。私たちのためにボロボロになることをいとわない神、私たちのためにむち打たれることをいとわない神。この神を見よ、この神を受け入れよ、この神とともに生きよ、と。
いよいよ主イエスの裁判が始まりました。ヨハネはここで「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時(正午)であった。」(14b)と記します。過越の備え日、すなわち過越の小羊を屠り、過越の食事の準備する日の午後に、主イエスは十字架に架けられたのでした。まさに過越の小羊が殺される時間。思い出されるのは、かつてバプテスマのヨハネが主イエスについて語った「見よ、神の子羊」(ヨハネ1:36)です。ヨハネは一貫して、主イエスは過越の小羊だと記します。過越の小羊によって、イスラエルの民のエジプトでの奴隷の苦しみからの解放、救いが実現しました。そのように、主イエスの十字架と復活によって私たちの救いも実現したのでした。
主イエスが十字架と復活によってなしとげてくださった恵みは巨大です。私たちにはその全体を知ることはできません。それでも教会は、二千年の歴史を通してさまざまな恵みを発見してきました。そのうちの主な四つを、一年12回で聖書を読む会のテキスト「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」に載せています。今日はそのうちの第一番めのものを取り上げることにしましょう。
それは、「神と人との交わりの回復の十字架(和解)」です。神が人を創造した目的は、人と愛し合い、喜び合うため。けれども、この愛の関係は人が神に背を向けたために損なわれてしまいました。これまで何度も、最初の人の名前「アダム」は固有名詞ではなく、「人」という意味の普通名詞だと申し上げてきました。ですから聖書によれば人はみな神に背を向けており、神との関係が損なわれています。神には、このままで私たちを放っておくことができません。そうするには神はあまりに愛に満ちているからです。けれども、私たちにはそんな神の愛がわかりません。目で見ることができるならば、わかるかも知れないのですが……。いったい、どこで神の愛を見ることができるのでしょうか。それが十字架です。十字架に架けられたイエスは神。父なる神とは区別される子なる神。人となった神です。この神が十字架の上で発した言葉の一つが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)です。自分の苦しみを省みず、人のためにとりなす神の姿がここにあります。イエスのとりなしは、自分を十字架に架けたユダヤ人やローマ人のためだけではありません。神に背を向けているすべての人のためのとりなしです。このとりなしの愛を知るときに、人は心を開いて、神との関係を回復することを望み始めます。和解はすでに神から差し出されています。神の愛の迫りを知るときに、人は心を開き始めます。その和解を受け入れ始めるのです。強いられてではなく、愛にとかされて。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)とあります。この幕とは神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕です。この幕の中の至聖所には大祭司が一年に一回入る以外はだれも入ることは許されていませんでした。そこは神が人に会う場所とされていました。けれどもイエスの十字架の死と同時に隔ての幕は裂かれました。このことは神と人との和解が可能になったことの象徴です。(同書87-88頁)
罪を赦すばかりか、和解さえも望み、共に生きてくださる神。人となりたる活ける神をこの朝も喜びます。
「彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。」(28c)。主イエスをローマ帝国のユダヤ総督ピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちは、異邦人の家に足を踏み入れると、汚れてしまい、過越の食事ができなくなるので、中には入りませんでした。本来世界のすべての国民を神に会わせる使命のユダヤ人に歪みが生じてしまっています。
彼らとは逆に、イエスは官邸の中で、堂々とピラトに真理を語ります。ユダヤ人の憎むローマの総督をも神に会わせようとなさったのです。この朝も主イエスはすべての人を神に会わせてくださいます。罪あればあるほど。聖餐がまさにそのことを示しています。
そんなイエスの前で、ピラトは揺れています。彼は「私はあの人に何の罪も認めない。」(38d)と言い、「あなたはユダヤ人の王なのか。」(33b)と核心をつきながらも、ユダヤ人の暴動を恐れて流されてゆきます。官邸の中からユダヤ人のところに出て(29)、中に入ってイエスを呼び(33)、再び出る(38)ピラトの姿には、ユダヤの最高権力者の権威はありません。主イエスのあわれみに気づかないゆえに、揺れるひとりのあわれな人が際立ちます。そのピラトに主イエスを静かに語り続けます。私たちにもそうしてくださり、今もしてくださっているように。
ピラトは「真理とは何なのか。」(38)と言います。核心です。けれども彼は答えを待ちませんから、真剣に主イエスに問うたのではありません。つぶやきです。ある牧師はピラトを代弁してこういう意味のことを書いています。「真理か。ひさし振りに聞いた青臭い言葉だな。そんなものはない。自分は修羅場をくぐって生きているうちに、とうの昔に、真理を問うことはなどやめてしまった。しかし、この男はなんだろう。大まじめで命の瀬戸際で真理を語っている。忘れていた何かを思い出させるような、そんな懐かしさを感じる」と。
ピラトが払いのけようとしても払い切れない真理、ピラトが心の深いところで慕う真理、それはイエス・キリストでした。この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さのすべてを取り除く主イエス・キリストこそが、真理そのものなのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:28)と、バプテスマのヨハネはイエスについて、語りました。実はヨハネと他の三つの福音書では十字架が一日ずれています。他の福音書では、最後の晩餐が過越の食事。十字架はその翌日です。けれども、ヨハネでは十字架の当日が過越なのです。ヨハネの意図は明白です。主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」、過越の小羊であることを強調しているのです。ヨハネはまた、3章で主イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と語ったことを記しています。民数記21章で荒野の旅に我慢できなくなったイスラエルが、神とモーセに逆らったときのことです。猛毒の蛇が送られ、多くの者が死ぬ。民が罪を認め、モーセが祈ったところ、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民21:8)のみ言葉があり、その通りになりました。
ヨハネは、主イエスはこの青銅の蛇と同じなのだ、主イエスを仰ぎ見る者は生きる、どんな罪にもかかわらず生きることができると、語っています。それは私たちの悔い改めが真剣であるから、ではありません。私たちには思い出すことができない多くの罪がある。直視することができない大きすぎる罪がある。弱さや愚かさにいたっては数えきれず、それらのために私たちは息もできないぐらい、ぐるぐる巻きにされている。けれども、そこに主イエスの「生きよ」とのみ声が響きます。あなたのすべての問題を、あなたのすべてのねじれと歪みをわたしが引き受けよう。わたしの王としての力、神としての力を、あなたの罪を取り除くために注ぎつくそう。そう主イエスはおっしゃり、そのために十字架に架かってくださいました。だから私たちは生きることができます。愛する自由に解き放たれて。そのことの証しである聖餐にあずかります。
捕らえられた神、この説教題は衝撃です。そもそも人が神を捕らえることができるのか、神を縛り上げて、無理やり連れていくことができるのか。もちろんできないはずです。なぜなら神は人が自由にできないお方だからです。それが神の定義だからです。ところが、私たちの神は、実際に捕らえられました。「平手でイエスを打った。」(22)ともあります。私たちの神は、捕らえられたり、打たれたりする神。ですから聖書を読むことは、神の定義を、定義しなおすことです。神とは、私たちのためには、捕らえられ、打たれ、十字架に架けられることをいとわないお方なのです。
主イエスがまず、連れていかれたのは、アンナスのところ。ときの大祭司カヤパのしゅうとです。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(14)とあります。カヤパは、「主イエスを支持する人びとが反乱を起こしたら、ローマによってユダヤが滅ぼされてしまう。それより、主イエスを死へ追いやって反乱の芽を摘んだほうがよい」と言ったのでした。実際は主イエスはローマへの反乱を企てていたのではなく、世界が神に立ち帰り、破れた世界が回復するために来られました。ですから、カヤパの助言は的外れでした。けれども神さまは、そんな人の愚かさをも用いて、それを主イエスの死による世界の救いの預言となさいました。神さまのなさることは、完全な部品から完全な製品を作ることではありません。不完全な、たとえば欠けと弱さだらけの私たちの不完全さも、組み合わせ、生かして用いて、自在に、完全な結果を作り出すことができるお方。大胆に信頼しましょう。自分ではなく、神さまを。
この個所には、イエスとペテロの様子が交互に描かれています。12-14節はアンナスの前のイエス、15-18節はイエスを否むペテロ、19-24節は再びアンナスの前のイエス、25-27節は再びイエスを否むペテロ。ヨハネの意図が、主イエスとペテロを対比することにあったのは明らかでしょう。
イエスは、脅しと暴力によって従わせようとするアンナスに屈しません。「わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。」(21b)と誤りを指摘し、「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。」(23b)と諭します。打たれても「正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」(23c)といさめます。アンナスどころではない権威が、主イエスにはあります。その権威に向き合うことができずに、腰がくだけるように、アンナスは主イエスをカヤパに送るのです。
一方ペテロは、三度イエスを知らないと言います。その相手は大祭司ではありません。門番をしていた召使いの女や下役といった権威からはほど遠い人びと、そんな人びとを恐れました。大祭司(アンナスは元大祭司)を圧倒した権威あるイエスと権威なき人びとを恐れたペテロの姿は、正反対です。
先週はイエスが「わたしである」とおっしゃった箇所を読みました。神さまは人間の思いの中に納まらないお方。私たちの想像をはるかに超えた祝福を与えるお方だと。ここでもイエスは、人間の目論見を超えて、すべての人を祝福する道を歩み続けます。すべての人を祝福し続ける存在として「ある」のです。けれどもペテロは「私ではない」と言い続けます。私は弟子ではない、私はイエスといっしょではない、と。それは祝福である主イエスとの関係を否定することでした。祝福から自分を切り離すことでした。「ある」イエスと「ない」ペテロ、その断絶をつなぐのは、もちろんイエスです。
私たちもまた、主イエスを裏切ってきました。愛する者たちを愛しきれず、覆いきれなかったことも胸を刺します。ヨハネは他の三つの福音書とは違って、ペテロの涙を記していません。泣くことさえもできない絶望の中にペテロは青ざめて立ち尽くしていました。胸が痛みます。けれども、主イエスはペテロの裏切りを知っていましたから「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:31)とおっしゃっていました。
けれども「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)ともあります。ペテロの裏切りは主イエスに知られており、ペテロの裏切りのためにも主イエスは十字架に架かってくださったのでした。もちろん私たちの青ざめる罪のためにも、痛みのためにも。この愛ゆえにペテロは、やがて立ち上がり歩き始めます。泣いて悔い改めたからではなく、主イエスのあわれみゆえに。私たちもまた。何度でも、何度でも、何度でも。