2024/12/02

第1アドベント礼拝メッセージ「心のきよい者の主」マタイの福音書5章8節 大頭眞一牧師 2024/12/01


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【心のきよいとは】

聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。

ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちのこころが、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。

ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。

今年の10月には岡山の水島で行われたナザレン山陽四国聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、主催者が参加者にアンケート調査を行ったのですが、先日その結果が送られてきました。それを見てとても嬉しくなりました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。

【神を見るとは】

「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。

自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。

【ますます心きよく】

今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/11/28

「たかはしだいち作品展」開催中です!

 先日お知らせしたとおり、「たかはしだいち作品展」が 12/1(日) まで開催中です。

どれも温かみのある素晴らしい絵画が展示されています。

どなたもどうぞお越しになってご覧ください。期間中毎日、作者が在廊しています。

12月1日(日)まで、10:00~18:30(ただし日曜日は 13:00~18:30)

どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)

2024/11/25

主日礼拝メッセージ「あわれみ深い者の主」マタイの福音書5章7節 大頭眞一牧師 2024/11/24

 


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第五の祝福、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(7)です。「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけ、親切にすれば、その情けや親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、という意味。もちろん主イエスは、そんな処世訓のようなことを言ったのではありません。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【あわれみ深いとは】

「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。

【あわれみ深くない私たち】

けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。もっともあわれみ深いのは主イエスであることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。

そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。

「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。

【幸いな私たち】

私たちはすでにあわれみ深い者とされています。そしてさらにあわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。

私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。

けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。


(ワーシップ「聖なる神の聖なる民」Bless)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/11/18

主日礼拝メッセージ「使徒信条①我は信ず」創世記15章5-6節 大頭眞一牧師 2024/11/17


我は
天地の造り主、全能の父なる神を信ず我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

【その成立】

今日から三要文の二つめ、使徒信条。他の二つは、主の祈りと十戒です。使徒信条の原型は洗礼時の信仰の定式で、教会の中で長い時間をかけて形成され、8世紀に今の形になりました。主日礼拝の中で告白されるようになったのは11世紀。16世紀の宗教改革以後も用いられ続けてきました。キリスト教信仰の真髄と言えます。原文はラテン語です。

【信ず】

「信ず」の語源は「心を与える」という意味の言葉。信仰とは心を差し出すこと、つまり愛すること。ですから例えば、「天動説を信じる」という場合とは「信じる」の意味がまったく異なります。その場合は「天動説が正しいと考える」という理性の働きに過ぎないからです。それに対して、人が他の人に「私はあなたを信じる」と言う場合は「私はあなたを信頼します、寄り添います、いっしょに生きます」という意味です。使徒信条の「信ず」はそんな人格的な関係を表す「信ず」なのです。

【信じたアブラハム】

けれども「天地の造り主である神」や「処女から生まれたキリスト」は簡単には信じることができません。いったい私たちはどうして信じることができたのでしょうか。信仰の父と呼ばれるアブラハムの場合を見ましょう。

「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:5-6)

アブラハムは信じました。けれどもその信仰はアブラハムが修行をしたり、努力したりして手に入れたものではありません。神さまが天幕の中に入ってこられ、手を引くようにして、アブラハムを外に連れ出し、空を仰がせました。そのときアブラハムに信仰が生まれました。神がアブラハムに信仰を与えました。アブラハムが地から天にはしごをかけたのではなく、神が天から地にはしごをかけました。だから信仰は確かなのです。私たちの信仰がいかに揺らいだとしても、神が私たちに信仰を与え続けてくださるからです。神さまは、迷子のような私たちを放っておくことがおできにならなかったのでした。

「アブラムは主を信じた。」は、「アブラハムは主をアーメンした、アブラハムは主をその通りだとした」とも訳せる言葉。アブラハムは神さまをそのまま受け入れました。自分を愛し、自分を通して世界を愛して回復させる神さまに、自分を差し出し、神さまを愛したのでした。

【我は】

使徒信条は教会の信仰告白。礼拝の中で仲間と共に告白します。だから「我々は信ず」の方がよいようですが、「我は信ず」なのです。洗礼のときにひとりひとりが「我は信ず」と告白したことが思い出されます。あのとき私たちはほかのだれかが信じているから、ではなく、他のだれもがそうでなくても、神さまに自分を差し出しました。なぜそうできるのか自分でも不思議なように感じながら、神の愛を受け入れたのでした。

だから今日も、「我は信ず」と告白する私たちがここにいます。告白するたびに、ますます神の愛が私たちに注ぎ込まれます。注ぎ込まれた愛は、いまとなりにいる仲間たちにもあふれます。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」(Ⅰコリント12:13)とあるように、「われは信ず」と告白するひとり一人が一つのからだ、一つの教会に結ばれています。御霊によって、愛によって。そしてその愛は世界へとあふれ出します。

それが三位一体の神の望みだからです。父が子の十字架と復活によって聖霊を注いでくださいました。それは私たちが「我は信ず」と告白して、その告白通りに生きるため。ますます、なおなお、愛のいのちの中を。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/11/11

召天者合同記念礼拝メッセージ「義に飢え渇く者の主」マタイの福音書5章6節 大頭眞一牧師 2024/11/10


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第四の祝福。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6)です。八つの祝福で繰り返して語られているのは、イエスと共にいることの祝福。今日もこの祝福に心を開きます。

【義に飢え渇く者】

私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えや今年あちこちで起こった大雨に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。

【主イエスによって】

けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。

【もはや叫ぶだけでなく】

「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。先週は明野、今週は信愛の召天者記念礼拝。この2年半の間に、両教会を合わせて9名の愛する方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/11/04

礼拝メッセージ「柔和な者の主」マタイの福音書5章5節 大頭眞一牧師 2024/11/03


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第三の祝福。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(5)です。

【主イエスが幸い】

第一の祝福「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(4)には、共通点がありました。それは、私たちにはとてもさいわいには思えない現実の中に、主イエスがさいわいを造り出してくださる、ということでした。つまり、主イエスご自身が私たちのさいわいなのです。今日もまた主イエスが私たちのさいわいであることを聴き取りたいと思います。

【柔和な人たち】

「柔和」という言葉を聞くと、弱弱しく軟弱なことをイメージするかもしれませんが、それはまちがいです。「柔和」と日本語に訳されている聖書の言葉は「中庸」という意味。怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らない「中庸」という強さを持っているのが柔和なのです。

ところが私たちは、いつも怒りをコントロールすることができるかというと、そうではありません。ときに限度を超えて怒ってしまい、また、ときに怒るべき時でないときに怒ってしまうことがあります。そんなとき、私たちは、自分は柔和でない、だめだ、と落ち込んでしまうことがよくあります。

【自分が正しくても】

今日のマタイ5章5節は、主イエスが詩篇を引用された箇所。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37篇11節)そこに描かれているのは、神の民でありながら、神に従わない者たちによって苦しみを味わわされている人たちのことです。ですから詩篇、そして主イエスは、自分が正しくても、怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らないさいわいを語っているのです。自分が正しくても柔和!これはますます難しいことに思えます。

【柔和な主イエス】

私たちはどうすれば、柔和であることができるでしょうか。反省してもまた怒ってしまう私たち。気をつけようと思っていても、怒るとそれを忘れてしまう私たち。けれども主語は神さま。自分から目を離してイエスを見るのです。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)とあります。柔和なお方は主イエス。そして主イエスの柔和は十字架にいたるまで変わりませんでした。「『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と。柔和な主が私たちの重荷を下ろしてくださった。いやしてくださっている。十字架まで柔和な主が。

【怒った後で】

しばらく前ですが、私はひさしぶりに怒ってしまいました。限度を超えて。その後、牧師なのに、とても情けなくなりました。そんなとき「柔和な人たちはさいわい」と今日の箇所を思いました。主イエスは私を責めておられるのだろうか、とふと思ったのです。人はなぜ怒るのか。自分の正しさや思いが受け入れてもらえない、そんなとき私たちは「どうしてわかってくれないんだ」と悲しみ、怒ります。でも私は、主イエスがそんな悲しみもすべてご存じで受け入れてくださっていることを思い出しました。そして怒りの相手もまた主イエスに受け入れられていることも。振り返ってみれば、ずいぶん怒ることが少なくなってきたな、とも思うのです。主イエスによっていやされているのだと感じました。

【地を受けつぐ者】

柔和な人たちの幸いは「地を受けつぐ」こと。これは大きな土地を相続することではありません。この「地」は世界。世界には多くの破れがあり、怒りが満ちている。けれども、主イエスの胸で癒されつつある私たちは、世界の破れを回復するために働くことができます。たがいに受け入れ合い、いやされることを経験することを通じて。今日は明野の、来週は信愛の召天者記念礼拝。召天された仲間もまたそんないやしの中を生きたのでし


(CSメッセージ「放蕩息子」ルカの福音書15:11-24)



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2024/10/28

礼拝メッセージ「私たちを形作る恵み」コリント人への手紙第一15章9-11節 藤森旭牧師 2024/10/27


先週、東海聖化大会が名古屋インマヌエル教会で行われました。現在能登地方で牧会をしておられる羽咋聖書教会の永井仁志先生が、自身も被災者でありながら能登で災害援助に当たっているクリスチャン達の現状を聞かせて下さいました。「何故、神は災害が起こるのを許されるのか」という問いは、クリスチャンだけに限らず、人間全体にとっての大きな疑問であるように思われます。しかし、その解答は明確に出るものではありません。そして解答が得られずとも、現実の対応には追われます。そのように悩みながら苦闘するクリスチャン達の体験の中にこそ、私たちが見過ごしてはならない大切な真理があるのではないでしょうか。

今日の箇所で自身について独白するパウロも、元々は教会の迫害者でした。彼はステパノへの迫害に加担し、多くの教会を破壊し、聖徒達を捕らえ、ついにはダマスコの教会までも遠征して打ち壊そうとした元反キリストの急先鋒でした。「何故このような男の存在が許されているのか」「何故、ステパノを殺し、多くの兄姉を捕らえる前に神はパウロを殺してくださらなかったのか」「何故このような男をこの世に生まれさせたのか」当時の教会に生きていた兄姉達は、そう考えずにいられなかったと思われます。しかし、それはパウロ本人にすら判らないことで、神様以外の誰にも解き明かすことが出来ない神秘なのでした。後の重要人物だから神様は生かすしかなかったのでしょうか。それはパウロ本人が、あくまで神の恵みに過ぎず必然性は何もないと否定しています(10節)。もしかすれば、神学や聖句を駆使すれば、解答の予測ぐらいは立てることが可能かもしれませんが、それを出したところで、結局は仮説の域を出ることはありません。神様側の事情など、私たちの知恵で解き明かせるものではないからです。しかし、私たちの心の内には罪があるので、苦難の中のヨブのように、どうしても答えの出ない疑問に固執し、それを自身の知恵で解決できかのように思い込んでしまいます。そして最終的には神様に対し、したり顔で評価を下そうとするのです。ここに人間の罪があります。

では、答えの出ない問題に対して、私たちはどのように向き合うべきなのでしょうか。能登地方のクリスチャン達は、地震が起こり、故もなく突然被害を受け、自身も被災者であるのに他の人々の救援に向かい、ようやく希望が見えてきたところで集中豪雨の被害を受けて希望が打ち砕かれ、常に絶望と隣り合わせの中で今も戦い続けています。しかし、その中でも他の地方のクリスチャン達が救援に駆け付けてくれたり、地道な努力が能登地方の人々に受け入れられて、今までにないぐらいに教会の存在が認められたりと、絶望の中でも、一つ一つ神様の恵みの御業が積みあがる様子を目撃できていると永井先生は言われました。先生はその中で、「私たちがくずおれた時にこそ、主は立ち上がってくださる」と言う確信が与えられ、「何故災害が起こったのか」という答えの出ない疑問について考えるのは止めて、今困難の中で寄り添って下さる神様の愛と恵みの御業のみに目を向けて行こうと思われたのだそうです。

パウロも、結局何故自分が生かされたのかという問いの答えを見いだせなかったようです。しかし、せめて自身に与えられた恵みを無駄にはすまいと懸命に働きました。答えの出ない疑問にしがみつくよりも、自分を形作る神様の恵みにのみ目を向け、それに応答することに集中したからです。私たちの人生は常に理不尽だらけで、答えの出ない疑問もたくさんあります。しかし、その中でこそ、答えの出ない疑問にしがみ付くのではなく、今の私たちを形作っている神様の恵みの御業にのみ、目を向けるべきなのではないでしょうか。今、確実に存在する恵みに目を向けて感謝し、応答することが出来る。そのような信仰をいつも持ち続けましょう。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/10/26

たかはしだいち作品展のご案内(2024/11/24-12/1)

 ※この記事は 11/24-12/1に開催される「たかはしだいち作品展」のお知らせです。


【たかはしだいち作品展 2024/11/24-12/1】


京都信愛教会ではこのたび、「たかはしだいち作品展」を開催いたします。


クリスチャンとして作品を発表されているたかはしだいちさんの作品は、どれも温かみのある素晴らしいものです。

どなたもどうぞお越しになってご覧ください。期間中毎日、作者が在廊しています。


どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)


詳しくは、下のチラシをご覧ください。




■アーティスト紹介

たかはしだいち

1985年京都生まれ 東京在住

アニメーション背景会社の手伝いつつ、作品制作をしている。

吉祥寺などでイラスト作品展を開催している。


形にならない愛、この世界に生まれた喜びの表現を探求している。


〜キリスト教との出会い〜

キリスト教とは無縁の家庭に生まれ、西洋キリスト教に感覚的な反感を持ちながら育つ。

京都の美術大学でクリスチャンの友人と出会いで、知識と実際の信仰者とのギャップに驚く。

キリスト教に対して無知な偏見があったことを痛感。

興味を持ち三浦綾子エッセイなどで学びを深めていく。

大学卒業後東京に上京イエス・キリストを救い主と受け入れ、信仰を持ちクリスチャンとなる。


■日時

2024年11月24日(日)~12月1日(日) 10:00~18:30

(ただし日曜日は 13:00~18:30)

期間中毎日、作者が在廊しています


■会場

日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会

京都市北区大将軍坂田町21番地12

TEL: (075)461-1938

牧師: 大頭眞一


どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

ファミリーコンサートのご案内(2024/11/17)

 ※この記事は 11/17に開催される「ファミリーコンサート」のお知らせです。


【ファミリーコンサート 2024/11/17】

京都信愛教会では昨年に引き続き「ゴスペルコンサート」を行います。


今年も地域の方々、そして京都信愛教会の教会員や家族が、それぞれ楽器や声楽で、いろいろな音楽を奏でます。

賛美歌を始め、クラシックやポップス、ヘルマンハープまで、いろんな音楽を楽しみましょう♪

 

ご家族、ご友人の方々もぜひ、お越しください!


どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)


詳しくは、下のチラシをご覧ください。



■日時

2024年11月17日(日) 開場13:00、開演13:30~15:00


■会場

日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会

京都市北区大将軍坂田町21番地12

TEL: (075)461-1938

牧師: 大頭眞一


どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

2024/10/21

礼拝メッセージ「主の祈り⑥国と力と栄えとは」ルカの福音書2章1-14節 大頭眞一牧師 2024/10/20


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【ふたりの王】

イエス誕生のとき、ローマ皇帝アウグストゥスは、すでに四半世紀にわたって、地図のように広大な領土を支配し、平和をもたらしました。しかしその平和は独裁制と税という対価を強いるものでした。

一方、この地上最強の王の命令によって、人口調査が行われ、その結果、ユダヤのベツレヘムで、もう一人の王が誕生しました。貧しく、弱く、十字架に架けられることになる王です。そして御使いと天の軍勢はこの赤ん坊をほんとうの王だと、賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と。

【大逆転】

「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」という主の祈りの最後の頌栄は、実はマタイ6章にもルカ11章にもありません。けれどもイエスの時代から1世紀以内には定着しています。ですから、教会が祈るとき、祈りとしてはこの頌栄を加えて祈られていたと見て、まちがいないでしょう。そしてこの頌栄を祈るとき、私たちの生き方が逆転するのです

異教の帝国は「私の王国を支持しなければ、お前を殺す」と脅迫します。イエスの王国は、すべての人を赦し、受け入れるあわれみ深い王によって、異教の帝国に浸透していきます。

異教の力はピラトのように「真理とは何か?」と問いながら、答えであるイエスを知ろうとせず、殺します。イエスの力は、すべての力はいと高き所から来ることを静かに思い起こさせ、世界の救いのために神の愛を真(しん)に生き続ける力です。

異教の栄光は数々の戦勝記念碑ですが、イエスの栄光は、私たちにいのちを与え、私たちをご自分と似た生き方に招く十字架と復活です。

【主の祈り】

ですから主の祈りを祈ることは、イエスのメッセージ、イエスの計画、イエスの生涯そのものを受け止めて自分のものにすることです。

  1. そのために、私たちはカエサルの王国の力と栄光に黙って従うことをしません。イエスの王国の力と栄光を身に帯びて働きます。この世のルール、この世の価値観、この世の生き方をそのまま受け入れるのではなく、聖書からイエスの心を知り、その心を生きます。
  2. そのために、私たちは油注がれた御子にあって、イエスに油注がれ、聖霊の力を求めます。人を支配されたり、支配したりすることから解放されて、もっとも自分らしく、おたがいらしく、生き生きとともに歩んでいきます。
  3. そのために、私たちはイエスの名を呼び、イエスに訴えます。私たちが自分の計画や願いを保留し、軽く握って、それを神に作り直していただく心構えを与えていただくことによって。そのとき私たちの見たことがないような、経験をはるかに超えたできごとが、実現していきます。

アーメン! アーメン! アーメン!


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2024/10/14

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2024/10/13


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。


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2024/10/07

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2024/10/06


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」というのは祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったのだから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。

けれどもそこにイエスの御声が響きます。イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


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2024/09/30

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2024/09/29


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。

「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)

これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。

でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


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2024/09/23

礼拝メッセージ「漁師にする主(従わせる主)」マタイの福音書4章18-25節 大頭眞一牧師 2024/09/22


私の説教の説教題は前の月の中ごろに決めます。次月の信愛の月報や明野の礼拝案内に載せるためです。すると実際に説教するときには、 ちがう題のほうがよかったかな、と思うことがあります。今日もほんとうは「従わせる主」がよかったかな、とも思います。その理由は今日の聖書箇所を貫いているの「イエスに従った」だからです。 20 節でペテロとアンデレが、 22 節でヤコブとヨハネが、 25 節で大勢の群衆が「イエスに従った」のでした。

【なぜ?】

これらの人びとはなぜ、イエスに従ったのでしょうか。一見すると、群衆が従った理由はわかりやすく思えます。「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。 」 (24)とあるからです。イエスが人びとを癒したので、人びとはイエスに従ったのだろう、そんな気がするのです。

けれども、弟子たちの場合は、なにかよいことがあったからイエスに従ったわけではありません。ただイエスに招かれ、それだけで従ったように見えるのです。 実はルカの福音書には、ペテロたちが従ったいきさつを異なる描き方をしています。イエスが網が破れそうな大漁の奇蹟を行っているのです。

ルカとちがって、 マタイ が大漁の奇蹟を記さないのには理由があります。それは弟子たちが奇蹟を見たからではなく、 福音を聞いたから従ったことを明らかにするため。今日の箇所の直前の 17 節。「この時からイエスは宣教を開始し、 『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから 』 と言われた。 」とあります。 イエスが、神の国(天の御国)の到来を告げ、主イエスに向き合うように(悔い改め)招いたから、弟子たちは従ったのでした。

実は群衆も同じでした。確かに主イエスは癒しの奇蹟を行ないました。けれども「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。 」 (23)とあります。まず「御国の福音」が宣言されているのです。だから群衆は従ったのでした。私たちの中にも、病やいろいろな困難がきっかけで教会に足を踏み入れた人も多くいるでしょう。そして福音を聞き、新しいいのちを受け取り、主イエスに従いました。もともとの病や困難が解決した場合もあり、そうでない場合もあるでしょう。けれども、 主イエスが福音によって私たちの歩みを変えてくださいました。ご自分に従う者としたのです。 ここでも主語はイエス、その動機は愛です。

【来なさい、わたしの後ろに】

「わたしについて来なさい」 (19)は、もっと原語のニュアンスを出せば「来なさい、わたしの後ろに」となります。長距離走や自転車レースなどでは、先頭を走る人が風除けになります。 先頭はもっともたいへん。私たちはイエスについて行くことは、たいへんだと身構えるのですが、逆です。私たちの先を行くのは十字架と復活のイエス。私たちのために何も惜しまないお方が私たちの風除けとなってくださいます。この破れてしまった世界で、暴風雨の中を、イエスなしに自分の力で歩こうとして疲れ切ってしまった私たちであったことを思います。そんな私たちをイエスは招きます。「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」と。

【すぐに捨てて】

「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。 」(20)とあります。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。 」 (22)とも。 ここを読むと、私たちは「自分はすべてをすぐに捨てているだろうか」と不安になったりします。けれども心配はいりません。イエスは、私たちみんなが仕事をやめて牧師になったり、財産のすべてを献金したりすることを願っておられるのではありません。

主イエスが願っている のは、私たちが主イエスの後を、主イエスの足跡を踏みながら一歩一歩ついて行くこと。そうするうちに、何かを手放さなければこれ以上ついて行くことができない、そういうときがきたら、それを手放せばよいのです。私たちが持っているものはすべてよいものです。神さまがくださったよいもの。それを軽くにぎって、主イエスについていくのです。そうするときに、私たちのまわり の人びと も主イエスを知ることになるのです。


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2024/09/16

礼拝メッセージ「主の祈り⑤悪より救い出したまえ」マルコの福音書3章26-27節 大頭眞一牧師 2024/09/15

天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【悪とは?】


悪は罪とは異なります。罪は、悪によって引き起こされる私たちの反応。悪はそれ自体、現実に存在する強い力、破壊と悪意の力です。そして人間が神ではないものを崇拝するとき、それが破壊と悪意の力に権威を与えることになるのです。サタンはこの悪の力を擬人化したものです。

「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈るのは、悪が神の良き創造世界、特に私たち人間に敵対しているからです。悪は私たちと神のあいだに、私たちおたがいのあいだに、私たちと被造世界とのあいだに破れを造り出し、分断して、切り離そうとします。

けれども主イエスは悪の力に勝利されました。十字架と復活によって。マルコの「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」(3:27)は、まさにそんな主イエスの勝利を語っています。イエスが悪の力(サタン)を縛り上げ、家財やその家(私たち)を悪の力から略奪して解放するのです。したのです。

ですから私たちもその勝利に与ることができます。「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈ることによって、十字架の勝利を自らの内に取り込み、それによって自分自身と世界の中にある破壊の力に対して、さらもう一瞬、さらにもうひととき、さらにもう一日、と対抗することができるのです。

【こころみにあわせず】

「こころみにあわせず」とは試練や誘惑に合わせないでください、ということばかりではないでしょう。なぜなら、このように祈る私たちも、多くの試練や誘惑に直面するからです。(さらに言えば、私たちの知らないところで、どれだけの試練や誘惑から守られたかはわからないのです。)

マリアは受胎を告知されたとき、「ご覧ください。私は主のはしためです。」と言いました。処女降誕という大きなこころみのなかで、痛みを受け入れ、その痛みを通して、神の新しい世界が誕生することを願ったのです。ですから私たちも祈ります。「こころみにあわせず」と。試練や誘惑の中にあって、そこから逃げ出そうとする「こころみ」にあわせないでください、と。神さま、あなたとともに、世界の破れの回復のために働かせてださい、と。

【悪に向き合う私たち】

悪に向き合うまちがった方法が、三種類あります。

  1. 「悪というものは実際に存在しないか、存在しても大した問題ではない」(イエスの時代のサドカイ派)というふりをすること。悪の過小評価ですが、私たちはそれが偽りであることを身に染みてしっているはずです。
  2. 「我々は悪に呑み込まれ、すべてが悪に覆われていると思い込むこと」(イエスの時代のエッセネ派)。この考え方はすでに悪に屈服し、悪に支配されているのです。
  3. 「主よ、私がほかの人々とは違うことを感謝します。確かに悪は存在しますが、我々は正しく、聖なる者であり、悪と戦うために出陣するように召されています」(イエスの時代のパリサイ派)。この考え方は自分たちだけは正しいとする自己正当化です。

けれど、主イエスは、どの間違った方法にも与しませんでした。主イエスは、悪の現実と力を認めながらも、神の国の現実と力によって立ち向かいました。そして弟子たちに、私たちに「我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈りつつ、主イエスの勝利を、自分たちの中に、世界の破れに、実現していくことを教えて、その力を与えてくださったのでした。


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2024/09/09

明野キリスト教会創立記念礼拝メッセージ「驚くべき希望」ヨハネの黙示録21章1-4節 後藤真牧師 2024/09/08


(本日は礼拝メッセージの要約はありません)

(CS礼拝メッセージ「盲人のいやし」ルカの福音書18:35-43)



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2024/09/02

礼拝メッセージ「必要なことは一つだけ」ルカの福音書10章38-42節 佐藤直哉牧師 2024/09/01

①主の足もとに座るマリア

39節「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

イエス様が弟子たちにみことばを語られている中に、マリアは大胆にも弟子たちとともにイエス様の足もとに座って、みことばに聞き入ります。マリアは、イエス様がすべての人を分け隔て無く特別な存在として愛してくださるお方であり、自分のためにも語ってくださると信じていました。それで彼女は主の足もとに座りました。主が私を愛し、私のために語ってくださると信じて、主の語りかけを聞く者はさいわいです。

②心が落ち着かないマルタ

40節「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』

マルタは弟子たちと自分は違うと意識していたのではないでしょうか。それで、マリアの大胆な行為をよく思っていなかったのでしょう。ただでさえ、いろいろなもてなしに落ち着かずにいたマルタは、イエス様に自分が正しいことを主張します。それは、場を支配し、イエス様さえも支配しようとすることばになってしまいました。マルタは主の愛に留まることより、自分が正しくあることを求めてしまったのです。

③必要なことは一つだけ

41~42節「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」

自分の力で正しくあることを求めると、主の愛を見失って多くのことに捕らわれて、心を乱してしまいます。必要なことは一つ、主の臨在に感謝して、ともに主の足もとに座り、主の愛に満たしていただくことです。それは奉仕を否定するものではありません。主の愛のための奉仕も必要とされます。そして、たとえみことばに聞き入っていたとしても、愛がなければ無に等しくなってしまいます。

イエス様が「それが彼女から取り上げられることはありません」と言われたことは、なんとさいわいなことでしょうか。私たちが主の足もとに座ることができるのは、イエス様が私たちを愛するがゆえに全てを捨て、人となられてこの地上に来てくださったからです。この世のどんな力も、私たちから主の臨在、主の愛を取り去ることはできません。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/08/26

礼拝メッセージ「光である主」マタイの福音書4章12-17節 大頭眞一牧師 2024/08/25


今日の箇所で、主イエスは人びとに語り始め宣教を開始しました。ここから心を開いて神の愛を聴きましょう。

【ヨハネが捕らえられたと聞いて】

ベツレヘムで生まれたイエスはナザレで育ちました。そして、30歳のころ、公の生涯の始まりに、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けました。ところが「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)とあります。ヨハネはヘロデ・アンテパス(かつて赤ん坊のイエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)が、兄弟の妻を奪って結婚したことを批判したために捕らえられました.ところがヘロデ・アンテパスは、当時ガリラヤの領主。私たちは、「イエスが退かれた」と聞くと、イエスが安全のために身を隠した、と思いがちです。ところがイエスはヨハネを捕らえたヘロデのお膝もとに行ったわけですから、かえって危険に身をさらしているのです。そしてそのガリラヤで宣教を開始されたのでした。

この「退かれた」は、主イエスが父なる神と向き合うために一人になったことを意味します。ヨハネの苦難に、ご自分の将来を重ね合わせて、これからのことを深く見つめられた。ご自分もまた、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、ローマに引き渡され、蔑みと罵りの中で十字架に架けられることに思いをめぐらされたのでした。

【人となられた神の苦しみ】

十字架を前にゲッセマネの園で、イエスは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。その後に「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と続くのですが、この二つの祈りは、すんなりとつながったのではなかったでしょう。苦しみの中で主イエスはご自分を差し出します。そして、苦しみの中で、父はイエスを受け取られたのでした。神が人となることのゆえに、そうでなければ味わうことがない苦しみを通りました。私たちに福音を与えるために。

【天の御国が近づいた】

福音とは何か。「天の御国が近づいた。」(17b)です。「天の御国」は、「神の国」つまり神の支配。世界はもともと神の支配のもとにあります。けれども、神の支配が、いま、新たな勢いをもって、この世界を覆います、イエスによって。イエスの十字架を通して。神の苦しみを通して。

「悔い改めなさい。」(17a)は、「自分の罪を認めて反省し、もう二度と繰り返さないように努めること」と考えられることが多いです。しかし聖書の悔い改めは、今まで背を向けていた神に正対し、心を開いて、その愛を受け入れること。「いま始まった新しい神の愛の迫りに、心を開け」と主イエスは招かれたのでした。私たちもその招きに応えたひとりひとりです。

【闇の中に大きな光が】

マタイはここでイザヤ書8章から9章を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(15-16)と。マタイは異邦人だけが闇の中に住んでいたと言っているのではありません。「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは自分たちのことだと言うのです。それは私たちのことでもあります。罪ゆえの闇の中で、手探りで進み、しばしばぶつかり合い、たがいに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きる私たち。どうしてこんなに苦しいんだろう、とうめくのだけれども、出口の見えない闇の中で、のたうつしかなかった私たち。けれども、そこに大きな光が!イエスの光が!そして私たちも、小さな光として、世界を照らすものとされたのでした。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/08/21

教会の会堂の紹介動画が公開されました。ぜひご覧くださり、お越しください!

 京都信愛教会の会堂を紹介します!


当教会の青年を中心に、KGK(キリスト者学生会)の山口翔主事にも協力いただきまして、当教会の会堂内を紹介する動画を公開しました。

「教会に行ってみたいけど、どんな様子か分からないから不安だなあ」とお思いの方はぜひ、動画をご覧になって事前にご確認ください。

集会は毎週日曜日午前9:30より教会学校が、10:30より主日礼拝が行われています。どなたもぜひ、お越しください。教会へのアクセスも合わせてご参照ください。

2024/08/19

礼拝メッセージ「主の祈り④我らの罪を」ルカの福音書15章11-32節 大頭眞一牧師 2024/08/18


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【罪の赦し?】

罪を赦すとはどういうことなのでしょうか。それは、罪が無かったことにすることではありません。罪人が受けるべき刑罰を免れさせることもまた、赦しの一部にすぎません。罪のゆるしとは、罪があるにもかかわらず、罪人を受け入れ、罪人を立てあげ、罪人を世界の回復のために仕える者とすること。その人本来の居場所、役割、使命にもどるのをゆるすこと。罪の奴隷から神の同労者にもどることをゆるすことです。

主イエスはこのことを放蕩息子のたとえで語られました。年老いた父は、赦しを乞う悔い改めの言葉をみなまで言わせません。そして、後継ぎのしるしの指輪までも身に着けさせるのです。もともと弟なので、後継ぎではないのに。また、主イエスは「あなたの罪は赦された」と語り、取税人や罪人と食事を共にしました。こうして罪の赦しが、罪びとの回復が、神の国が始まったのです。赦された私たちは罪悪感から解放されていきます。罪悪感に対する三つの誤った向き合い方に注意しましょう。

  1. 内向的になって想像上の罪悪感を生み出して悩む
  2. 罪悪感を否定する
  3. 罪悪感を抱えて自分を責め続ける

主イエスは十字架の上で、私たちを解き放ってくださったのですから。

【私たちが赦され、赦す】

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」には、気をつけなければならないことがあります。それは、私たちは神の赦しを得ることを目的に、他の人を赦すのではないことです。神に赦され、神の子とされた私たちの、自然な生き方が赦し合う生き方なのです。そんな生き方を通して、世界が新しくなっていくのです。

主の祈りを祈るとき、私たちの目はうめいている世界に向かって開かれて行きます。災害や戦争に痛んでいる人びとや、莫大な負債に苦しむ地域や国にも。神が私たちを通して、しようとしておられることが私たちの願いとなっていきます。祈りと生き方がひとつになるのです。

【負い目の赦し?】

マタイ版の主の祈りは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6:12)と「負い目」という言葉を用います。私たちに負い目を負っている人たちの中には、故意ではなく、偶発的に私たちを傷つけてしまった人もいるでしょう。けれどもその傷は残っています。そして私たちを苦しめます。けれども、神は癒しの神。時間をかけ、深いところから傷を癒してくださいます。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈るごとに、その祈りを用いて。

【放蕩息子の兄】

放蕩息子の兄もまた傷ついた人でした。弟の放蕩によって、苦労を背負わされたことによって。父が弟を喜んで迎えたことによって。そんな傷が、兄の心を頑なにします。けれども、父は、つまり神は語りかけます。「わたしといっしょに喜んでほしい。わたしと同じ心をもってほしい」と。この兄もまた癒され変えられていきます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」と、主の祈りを祈ることによって。



(ワーシップ「花も」MEBIG cover by Bless)



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2024/08/12

礼拝メッセージ「主を試みるな」マタイの福音書4章1-11節 大頭眞一牧師 2024/08/11

今週も「荒野の誘惑」の個所。先週は第一のパンの試みから聴きました。今日は第二と第三の試みから。

【下に身を投げなさい】

第二の試みは神殿の屋根の上。ただの高いところというわけではありません。神殿には多くの人びとが集まっています。悪魔は「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)と言います。「この多くの人たちに、天使たちに支えられて地上に降り立つ姿を見せてやれ。そうすればだれもが、あなた(イエス)を救い主だと認めるだろう」と誘惑したのです。主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(7)と答えました。イエスが引用したのは申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」です。荒野を旅するイスラエルがマサという場所で、飲み水がなくなった、と、モーセと神に向かってつぶやきます。単に水を与えよ、と言っただけではありません。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:3)と、モーセを、つまりモーセを遣わした神をののしるのです。神の愛などわからないふりをするのです。このことは神とモーセにとって、これ以上ない痛みでした。神の愛を世界に伝えるイスラエルの使命は崩壊しようとしていました。このとき神はモーセに命じて、岩から水を出します。愛ゆえに。対照的に、愛なきイスラエルは、愛なき救いを求めました。水がなければ神には愛がない、と疑い、断じたのです。悪魔の第二の試みは、まさに愛なき救いへの誘惑でした。天使に支えられたイエスの着地を見て、人びとは熱狂するでしょう。自分の望みもかなえてくれるにちがいない、と。けれども、それは愛なき救いです。神の心で、神と共に世界の破れに身を置いて、世界を回復するために働く救いではないのです。そもそも愛なき救いなどあり得ません。私たちにも愛なき救いへの誘惑はやってきます。神を愛する神の子である私たちです。けれども大きな危機、大病や災害、経済的な欠乏、精神的なスランプなどで、愛を忘れることがあるでしょう。こんなことが起こるなんて、自分は神に愛されていない、と。けれども神は愛です。そんな私たちをも抱きしめて、凍りついた愛をとかすのです。そして私たちの問題に解決を与えます。ただ解決するだけではなく、私たちの愛を成長させ、世界を回復しながら。

【ひれ伏して私を拝むなら】

第三の試みは非常に高い山で、この世のすべての王国とその栄華を見せることでした。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)と悪魔は誘います。けれども、ここには根本的な偽りがあります。悪魔は世界が自分のものだと言っているからです。世界は神のものです。神が愛をもって造り、愛をもって運営し、愛をもって贖っておられる神のもの。ところが悪魔は、自分は世界を思うようにできる、だから自分の支配の下に入れ、と言うのです。イエスの答は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10)。申命記6章13節の引用です。ここは「あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:11-12)に続く箇所。すべての良きものは神から与えられました。私たちが神の愛を知り、世界の破れの回復を願う神の心を知り、神と共に働くために。

【十字架の主】

第二の試みで、イエスはマサの欠乏を引いて、愛なき救いを拒みました。第三の試みでのイエスは、出エジプトの恵みを引いて、神との愛の歩みを励ましました。愛に生きるその果てには十字架が待ち受けていることを知りつつ。十字架によって私たちの愛の歩みを造ることを喜びつつ。そのことを知る私たちは幸いです。



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2024/08/05

礼拝メッセージ「荒野の主」マタイの福音書4章1-11節 大頭眞一牧師 2024/08/04


今週と来週は「荒野の誘惑」の個所。豊かな恵みがあるので、二回にわたって聴くことにします。

【悪魔=試みる者】

今、イエスがもたらす神の国。けれども世界には神の国を阻もうとする力が存在します。私たちを誘惑し、神から視線をそらさせ、神と共に生きさせまいとする力です。主イエスはそのお働きの始めに、この力と対決されました。第一の試みは「パン」。「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(2)イエスに、悪魔はささやきます。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)と。

【神の子なら】

この試みの本質は、「神の子なら」にあります。先週は、父の「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)というみ声を聴いたイエスです。そのイエスに「では、あなたがほんとうに神の子であることを確認したらいい。そしたら世界の破れを回復する働きを、堂々と始めることができるぞ」と誘う試みだったのです。

けれどもこの誘いは、決して応じてはならないものでした。なぜなら主イエスの使命は十字架によって世界を贖うこと。神としての力によって、力づくで世界の破れをつくろうことではなく、破れに身を投じて、わが身をもって破れをつくろうこと。悪魔は十字架からイエスを逸らせようとしました。そうして世界の救いを覆そうとしたのでした。

【神の口から出ることばによって】

イエスの答は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)でした。申命記8章3節の引用です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。申命記のこの個所は、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒野の旅をふりかえっています。荒野のイスラエルは、実際には飢えることがありませんでした。マナが降ったからです。ですからこの個所は「神はあなたがたをマナで養ってくださった。あなたがたが自ら労して食物を得るのではなく。それは、食物もみな神の恵みであることを分からせるため。そして食物よりも大きな恵みを分からせるため。神のあわれみを知り、神の心を知って、世界の回復のために神と共に生きる恵みを。」との意味。

私たちは「人はパンだけで生きるにあらず」などと言います。それを「物質だけに目を奪われてはいけないよ」という意味で使います。しかし真意はちがいます。「パンを与えてくださる神は、さらに大きな恵みを差し出してくださっている。それは神の心を知り、神と共に生き、神と共に世界の回復のために働くこと」なのです。

【神の子だから】

主イエスは、悪魔の誘いを拒絶しました。「神の子なら」と挑発されても「神の子だから」父の心を知り、父の心を生きました。主イエスの十字架によって神の子とされた私たちも、「神の子だから」父の心を生きます。

もちろん悪魔は私たちに、石をパンにしてみよ、とは言いません。けれども悪魔は私たちの目の前の石を用いて、私たちを神から引き離そうとします。その石とは、病気や貧困、地位や生きがいが得られないことなど。悪魔はそこに付け込んで、「お前が神の子なら、神がそんな石をパンに変えてくださるはずだ。お前の不足を神が満たしてくださるはずだ」と煽ります。けれども私たちはもう知っています。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)と。私たちには確かに不足があるかもしれません。

けれども神は、私たちに必要をご存じです。日々満たしてくださいます。たとえ、そうでないように見えるときも。そしてなにより、神は私たちにご自身の心を分からせてくださった。私たちは、神の子だから。だから私たちは、不足の中でも、神がこの世界の回復を進めておられることを知っています。私たちがその回復のために共に働いていることも。世界の破れのただ中で、神はよきことを造り出すことがおできになるし、今も造り出してくださっているのです。私たち抜きではなく、私たちを通して。私たちと共に。



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2024/07/29

礼拝メッセージ「父の子である主」マタイの福音書3章13-17節 大頭眞一牧師 2024/07/28


ゲスト説教者が続いたので、3週ぶりとなるマタイ。前回はバプテスマのヨハネが「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)、すなわち「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。『世界の破れを回復するために、立ち上がれ。そのために来られた王と共に働け』と民に告げよ」と人びとを励ましたことを見ました。今日の箇所では「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。」(13a)と。いよいよ主イエスの登場です。

【イエスの洗礼?】

イエスが来られたのは「彼(バプテスマのヨハネ)からバプテスマを受けるためであった。」(13b)とあります。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(14b)ととどめようとします。

前回、語ったようにバプテスマとは「自分を王とする生き方、神さまを王としない、自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わる」こと。だとするなら神であるイエスにはバプテスマは必要ないはずです。ヨハネがいぶかったように、確かにイエスのバプテスマは不思議な出来事でした。

【正しいことをすべて実現する】

ところがイエスはヨハネに「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15a)と言います。命じるのではなく、ヨハネを招くように。そしてバプテスマを受けられたのでした。

「正しいこと」とは、神さまと同じ思い、同じ心で、神さまと共に生きること。主イエスは、今、神でありながら人となり、世界の破れの回復の新しい段階を始めようとしています。力まかせにではなく、人びとの心を神に向けさせることによって。だから先頭に立ってバプテスマを受けました。神さまの心を受け取り、神さまと共に生きる人びと。その先頭に立ってくださったのでした。私たちが後に続くことができるように。聖霊によって。そのために神が人となりました。愛ゆえに。

【天からの声】

イエスがバプテスマを受けたとき、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と、告げました。聖書に通じたユダヤ人ならイザヤ書が頭に浮かんだはずです。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」(イザヤ42:1)の部分。旧約聖書を通して人びとが長く待ち望んでいた救いが、今、実現するのです。だれよりも神ご自身が長く待ち望んでおられました。ただそれは、神の敵がたちどころに倒される、といった救いではありませんでした。

【主のしもべの歌】

イザヤ書42章以後には「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所が四ケ所あります。その四つ目の、クライマックスの歌が52章13節から53章12節。特に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。イエスは十字架に架けられた神、十字架に架けられた救い主、十字架に架けられた癒し主なのです。何からの癒しか?信愛のCSでは月に一度、中高科と幼小科が合同で「信仰の学び」のときを持っています。いまは「十字架の意味」シリーズで、全四回。どうして四回も、と思うところですが、私はいつも子どもたちに語ります。「イエスさまはぼくたちの問題のすべてを解決する。罪も、罪の原因も、罪の傷も、罪の結果も。ぼくたちが新しい問題に直面するたび、その解決も十字架にある。だから十字架はたくさんの意味を持っている。ぼくたちをすべての問題から解放し、癒すから。じっくりと、根本から。」と。

【聖霊が】

バプテスマを受けた主イエスに聖霊が降りました。神と共に生きることを可能にする、この癒しの聖霊は私たちにも注がれました。だから神は私たちをも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と喜んでくださっているのです。私たちのすべての問題を担ってくださって。


(教会学校メッセージ「不信仰を取り除く」)



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2024/07/08

礼拝メッセージ「造り出す主」マタイの福音書3章1-12節 大頭眞一牧師 2024/07/07


「そのころ」(1)は不思議です。直前の2章の終わりは、幼子イエスがナザレに行って住んだところで終わっていますから、バプテスマのヨハネの出現まで30年近い歳月が経っているはず。けれども、マタイが思わず「そのころ」と記したのには理由があります。ユダヤ人が待ち望んだ救い主がついに来ました。ずっと長く待ち望んだ期間を思えば、救い主の誕生から始まるできごとはあまりにすばらしくて、またたく間に起こったと思えたのでした。

【主の道を】

ヨハネが語ったのは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2)。他の福音書での「神の国」ですが、マタイはユダヤ人に向けて、「神」を「天」に言い換えたともいわれます。神のご支配という意味です。今、神が人となってこの世界に来られ、その支配を確立するときがいよいよ来ました。主イエスが、人びとの心を解き放ち、新しいいのちに満たすために来られたのです。ヨハネはそんな主イエスの道を備えるために現れました。人びとの心を主イエスに向けるために。

主イエスが求めておられるのは悔い改め。罪の悔い改めです。けれども、罪とは盗んだとか嘘をついたというような実際の行いだけではありません。ルターによるなら「罪とは、自分の内側に折れ曲がった心」です。自分の利益だけを考える折れ曲がりも、自分など価値がないと落ち込む折れ曲がりも、神さまの目には罪なのです。神さまは罪びとの私たちをあわれみ、どんなことをしてでも私たちを罪から救い出したいと願われ、御子を与えてくださいました。十字架にまで。

【ヨハネの水のバプテスマ】

「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(5-6)とあります。彼らはユダヤ人でしたから、ユダヤ教に改宗したというわけではありません。自分を王とする生き方、神さまを王としない自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わるバプテスマを受けたのでした。こうして、主イエスを迎える準備は整ったのでした。

【主イエスの聖霊と火のバプテスマ】

ところが、ヨハネは「大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると」(7)、厳しい言葉を口にします。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」(7)や「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(10)と。

それはパリサイ人やサドカイ人の悔い改めが不十分であったというわけではなさそうです。ヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)とも言っていますから。カギになるのは彼らがユダヤの指導者であったこと。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(9)とあります。アブラハムの子孫であるユダヤ人には、神と共に世界の回復のために働く使命があります。だからヨハネは彼らを励ますのです。「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。世界の破れを回復するために、立ち上がれと。そのために来られた王と共に働け、と。民に告げよ」と。

パリサイ人やサドカイ人は、たじろいだかもしれません。「どうして私たちにそんなことができるだろうか、ローマの属国であるユダヤで」、と。

そこへ良き知らせが響きます。「私(ヨハネ)の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(11)と。私たちを聖霊に満たして神の友とし、私たちの罪を、自分のうちに折れ曲がった心を、引き受けてくださる主イエスがもう来られたのです。

私たちの心を内側に折り曲げようとする力は今も働きます。けれども「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」る(12b)お方、私たちをたいせつに抱きしめ、悪しき力を焼き尽くされるお方、私たちの王なのです。



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2024/06/30

礼拝メッセージ「涙をぬぐう主」マタイの福音書2章13-23節 大頭眞一牧師 2024/06/30


三週間ぶりのマタイです。前回は東方の星占いたちを通して、神がすべての人を、それぞれに届く方法で招かれていることを見ました。そのとき、星占いたちはイエスを王として受け入れ、自分を献げました。ところがヘロデとエルサレムの人びとは自分を王として、イエスを拒んだのでした。

【大惨事】

自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 」 (16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。 恐れゆえに。こうして、 王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。 自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。 それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。

けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。

【難民イエス】

ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲に生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。 神であるイエスが難民となりました。 ヘロデが死んだ後も、 彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが! 世界の片隅で身をひそめて! それは私たちのためでした。

【涙をぬぐう主】

マタイはここでエレミヤ書を引用します。 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 (18)。これはエレミヤ31:15 からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。

イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。 「主はこう言われる。 『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。 』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。

【癒し主イエス】

バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、 むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。 自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。 バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも 、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。

だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/24

礼拝メッセージ「礼拝者の勝利」ヨシュア記6章1-20節 谷口卓嗣牧師 2024/06/23

 



(今回はメッセージの要約はありません)


(白鞘慧海ゴスペルコンサート)




(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/22

「白鞘慧海ゴスペルコンサート」は YouTubeでのライブ配信が行われます(2024/06/23)

  ※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」に関するお知らせです。


白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】



いよいよ明日、6/23(日) 14:00-15:15 に「白鞘慧海ゴスペルコンサート」が行われます。詳しい内容は 白鞘慧海ゴスペルコンサートのご案内(2024/06/23) の記事をご覧ください。

そのコンサートは「会場で直接聴く」以外にも「YouTubeでライブ配信を聴く」ことも出来ますので、京都信愛教会に来ることが出来ない方も是非、ご覧になってください。

ライブ配信をご覧になる方は 京都信愛教会チャンネル からご覧ください。

ライブ配信はそのまま録画としても公開されますので、後日に観ていただくことも出来ます。どうぞお楽しみに!




2024/06/17

礼拝メッセージ「主の祈り③」イザヤ書25章6-8節 大頭眞一牧師 2024/06/16


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【日用の糧?】

ここまで神の国の地上での成長を願い、そのために自分を差し出す祈りを祈ってきた私たち。その私たちに戸惑いを感じさせるのが、今日の箇所です。毎日の生活の必要を満たしてください、といういわずもがなのことを願っているように聞こえるのです。けれども、そもそも主イエスは「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)と言うのです。それなのになぜ私たちは主の祈りで「日用の糧を与えたまえ」と祈るのでしょうか。

【神の国の宴会】

イザヤは告げています。「万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を呑み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。」(イザヤ25:6-8)と。これは終わりの日、再臨のときに実現する宴会です。そのとき「万民のために」、つまりすべての人のために、死が滅ぼされ、神との隔てのベールが取り除かれ、すべての涙がぬぐい取られるのです。主イエスが取税人たちを招き、断食すべき安息日に祝宴を設けたのは、この終わりの日の祝宴が、もう主イエスの到来と共に始まったことを示すためでした。私たちが「我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。」と祈るとき、私たちは主イエが始めたこの祝宴を、今日も続けてください。明日も続けてくださいと願うのです。文字通りの日常の必要のことではなく、死と罪と恥と涙、すなわち世界の破れの回復を思い、主イエスが初めてくださった破れの回復を今日も、明日も進めてください、と願うのです。日用の糧とはそんな主イエスのいのちです。私たちに注がれているいのちです。

【飢えている者と共に】

もちろん世界には、あるいは日本にも食物がなくて飢えている人びとがいます。世界の破れの回復には、現実に飢えている人びとへのケアも含まれています。「我らの日用の糧〔かて〕を」と祈るとき、その「我ら」は、私たちの家族や教会の仲間のことだけではありません。神の国の民である私たちは、世界を代表しています。だから、私たちは、この世界のために神に助けを求めるのです。神は祈りを聞いてくださるお方。それも思いもかけないスケールで。ナオミが嫁のルツに夫を求めると、神はルツをダビデの曾祖母としました。そして世界の回復を前進させたのです。神は世界の飢えのための私たちの祈りも、思いもかけないスケールで聞いてくださいます。私たちを用いて、私たちと共に働いて。思いもかけない筋道で。

【そして、聖餐】

世界の破れの回復のための「日用の糧」として主イエスが与えてくださったのは、ご自身のいのち。聖餐に連なるとき、私たちは主イエスの祝宴にいます。その死と復活のいのちに与り、私たちを差し出します。そんな私たちを用いて、祈る以上のことをしてくださる父を喜びながら、世の終わりまで聖餐に与り続けるのです。つまり、主イエスのいのちを生きるのです。



(新聖歌430「われ主に従いまつらん」Bless【ワーシップ】)


(教会学校メッセージ「天の父への祈り」マタイの福音書7:7-12)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/10

礼拝メッセージ「星である主」マタイによる福音書2章1-12節 大頭眞一牧師 2024/06/09


主イエスの誕生の記事。マタイはとても簡潔に記します。「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節前半)と。けれどもここにも大きな恵みがあります。ごいっしょに聴き取りましょう。

【ヘロデ王の時代に】

ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。

けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。この王とともにイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。

私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがいないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。

【東の方から博士たちがエルサレムに】

こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。

ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。

【黄金、乳香、没薬を】

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界への。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。

主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。

けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/05

白鞘慧海ゴスペルコンサートのご案内(2024/06/23)

 ※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」のお知らせです。


白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】



京都信愛教会では約5年振りとなる「ゴスペルコンサート」を行います。

ゴスペルシンガー&ソングライターの白鞘慧海さんをお迎えして、オリジナルソング、賛美歌、ポピュラーソングの各曲を披露いただきます。

どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)。

詳しくは、下のチラシをご覧ください。



■日時


2024年6月23日(日) 開場13:30、開演14:00~15:15

YouTubeチャンネルでもライブ配信します: https://youtube.com/@kyotoshinai

■出演:白鞘慧海(しらさや えみ)


ゴスペルシンガー&ソングライター、上野芝キリスト教会協力牧師、昭和音楽大学講師、日本国際飢餓対策機構「ハンガーゼロ」親善大使。早稲田大学在学中より、シンガー&ソングライターとして活動を始め、1995年 ビクターエンタテインメントよりデビュー。NHK教育TV『みんなのうた』で楽曲がオンエアされる。キューンソニーに移籍後、カネボウCMソング『Summer Kiss』などリリース。2001年にはニューヨークにて様々なライブハウスに出演。2014年よりゴスペルアーティストとして音楽活動を開始。各地でコンサート活動を始める。2017年CD「BLOSSOM」発売。チャペルコンサート、ゴスペルコンサート、病院や少年院、福祉施設訪問などを行っている。
 

■演奏予定曲


CD「BLOSSOM」より

  • 「輝く日を仰ぐ時」聖歌480番
  • 「Amazing Grace ~I Belive~」など

ハンガーゼロ テーマソング

  • 「ぼくらの世界」
賛美歌より
  • 「うるわしの白百合」讃美歌496番
ポピュラーソングより
  • 「You Raise Me Up」
  • 「翼をください」
  • 「見上げてごらん夜の星を」など 


■会場


日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
京都市北区大将軍坂田町21番地12
TEL: (075)461-1938
牧師: 大頭眞一

  • どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。
  • 当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

2024/06/03

礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイによる福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2024/06/02


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事,生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ』とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/05/26

礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイによる福音書1章1-17節(後) 大頭眞一牧師 2024/05/26


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる祝福の系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例中の異例。今朝はそこにある神さまのお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死にます。こうした場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死にます。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけたのでした。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。

けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えられました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださったのです。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことがおできになります。私たちの罪を主の手に置きましょう。そして祝福と変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死にます。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/05/20

ペンテコステ礼拝メッセージ「主の祈り②」イザヤ書52章7-10節 大頭眞一牧師 2024/05/19

 

天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【御国、そして天と地】

主の祈りの今日の箇所は私たちを面食らわせます。もし私たちが「御国」や「天」という言葉を、死んでから行く「天国」のことだと思っているなら、「御国が来る」とか「天になるがごとく」は意味不明です。いわゆる天国は、この世と交わらないから天国なのですから。

「御国」や「天」は、「神の国」「神の王国」。この世界(「地」)にイエスと共にやってきた「神の支配」です。主イエスが来られたと共に「神の国」が、地に始まりました。二つの誤りを避けてください。

  1. 神の国を私たち個人のたましいの救いに矮小化すること
  2. 神の国を軍事力で他を支配する地上の帝国に矮小化すること

神の国はこの世界と私たちの破れを回復する壮大な神の働きなのです。

【やってきた御国】

イエスがご自分の働きの中心テーマとされたのはイザヤ書52章。

  • 52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
  • 52:8 あなたの見張りの声がする。彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、【主】がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。
  • 52:9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。
  • 52:10 【主】はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

三つのことが起こりました。

  1. 神の民の解放。私たちを支配していた悪の力は、十字架と復活によって打ち破られ、私たちは神の子とされました。(ここでのエルサレムは神の民の象徴です。イスラエルとハマスのどちらの肩をもつか、とは関係ありません。)
  2. イエスは王。悪の力にはるかに優る王なのです。
  3. けれどもイエスの支配は苛烈な武力による支配ではありません。優しいケアに満ちた愛の支配なのです。

【すでに、そしてまだ】

主イエスの支配はすでに始まりました。神の国、御国は主イエスと共にやって来ました。けれども、まだ完成はしていません。今はまだ、全世界が癒され最終的に完全に回復する途上なのです。いつもDデイとVデイのたとえで語っているとおりです。すでに回復されつつある世界の美しさを喜んで神をあがめ、まだ痛み苦しんでいる世界のうめきを見て、神と共に嘆く。それが主の祈りです。神がこの世界に見ておられる景色を、私たちも見るのです。

【地にもなさせたまえ】

神と同じ景色を見た私たちにとって、「地にもなさせたまえ」の祈りは、ただ神の奇蹟を座して待つ祈りではなくなりました。それは献身の祈り。「この私たちを通して、地上の教会を通して、この世界を回復してください。癒してください」と自分を差し出す祈りなのです。ときには身近なところで静かに愛のわざに励むことによって、ときには声をあげて世界の悪と非道にノーと叫ぶことによって。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/05/13

礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイによる福音書1章1-17節(前) 大頭眞一牧師 2024/05/12


今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。いつもお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

神さま三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデも強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われてたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/05/07

礼拝メッセージ「神が与える喜び」使徒の働き11章1-18節 村島健一郎神学生 2024/05/05


【広がる福音】

使徒の働き10章でペテロはローマの兵隊コルネリウスと出会います。これは歴史が変わる瞬間です。当時のユダヤ人の一般的な考え方は、ユダヤ人のみが正式な神の民と考えていたようです。とは言え、異邦人も神殿に入ることできました。しかし、神殿の中でも礼拝をする場所が、ユダヤ人男性、ユダヤ人女性、異邦人で区別されていました。イエス様の十字架の時、神殿の幕が裂かれたのは、すべての人が神に近づくことが、大胆に恵みの御座に近づくことが許された象徴です。ユダヤ人と異邦人の区別なく神の民になることができるというのは、すべての区別がなくなったということです。男、女、国籍、お金のある人ない人、罪人も善人も、あらゆるセクシャリティの人々がイエス様に信頼することで神の民とされるのです。

コルネリウスたちに聖霊が降ります。すべての人類、被造物の回復が完成しました。神はすべての人をご自身の愛に招きいれるのです。そして、聖霊が私たちを神様へと導きます。私たちも神様の愛に抱かれています。

【ペテロの不安】

ペテロが神様の素晴らしい御業を見たからと言って、それで万事問題なしとはなりません。ペテロが恐れていたことが現実になります。異邦人と食事をしたことで難癖をつけられました。

ローマ軍の百人隊長と会うことはペテロにとって決して簡単に決断できることではありませんでした。この時代、ユダヤ人には2つの大きなタブーがありました。それは安息日を正しく過ごさないこと、そして、異邦人や罪人と食事を共にすることでした。神様はペテロをコルネリウスのところに導くために、不思議な幻を見せます。「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥」を屠って食べなさいと言います。ペテロは言います。「私は汚れた物を食べたことはない。」神様は言います。「これは汚れたものではない、だから、ためらわないでコルネリウスのところに行きなさい。」

ここは伸るか反るかです。神様に導かれたにもかかわらず、コルネリウスと会うことを拒否するか、それとも、ユダヤの友人たちとの関係を断ち切る覚悟でコルネリウスに会うかです。ペテロはコルネリウス、彼の家族、家来たちと会い、食事をします。ペテロは知っていました。それこそ、イエス様がなさっていたことだと。

イエス様の愛が勝ちます。ペテロにコルネリウスに会う信仰を与えてくださるのは神様です。ペテロの信仰が素晴らしいという話ではありません。ペテロもコルネリウスも、悪と罪の世界から救い出したいという神の熱心・愛が、このストーリーを進めています。その愛が私たちに宿り、私たちの中で大きくなっていくのです。

【教会の反応】

ペテロの報告を聞いたエルサレム教会の人々は黙り込んでしまいます。沈黙の後に出てきた言葉は、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」神様は異邦人も愛に生きるように導いてくださったということです。この神様の導きと働きを誰にも止められません。

このことはペテロにとって大きな励ましとなります。ペテロとともに困難な道を歩んでいくことを決めました。エルサレム教会の人々は神を賛美しました。教会全体に喜びが溢れます。神の物語、神の愛の物語のうちを歩むときに与えられる喜びです。そこには愛ゆえの苦しみがあるでしょう。教会が素晴らしいのは、礼拝式を行うことだけではなく、教会が互いに励まし合い、互いの苦しみを負うことができることです。そういう信仰を神様は与えてくださいます。私たち皆が神様の御腕に抱かれているからです。一人だけが抱かれているわけではない。ここにいるすべての人が共に神様の御腕に抱かれているからです。神様の暖かさやお互いの息吹を感じながら、神様の懐にいる互いを知りたいと願い、知ることができます。互いの困難や苦しみを負い合うことができます。喜びを分かち合うことができます。三位一体の神の愛は、教会の交わりの中に現れます。その教会で生まれる愛の関係が、この世界に、被造物全体に広がっていくのが神様の願いです。この愛の働きに私たちもますます関わっていきたいと思います。


(ワーシップ:「イエスは清く美しく」Bless)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/29

礼拝メッセージ「共にいる神」ヨハネの福音書21章20-25節 大頭眞一牧師 2024/04/28


2年間ごいっしょに読み進めてきたヨハネの福音書の最終回となりました。2022年4月に兼牧が開始。明野キリスト教会ではすでに途中までヨハネを読んでいたのですが、もう一度1章にもどり、二つの教会が心をひとつに読みすすめてきました。20章の終わりには「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(20:31)とありました。二つの教会の歴史が大きく舵を切ったこの時期に、この福音書によって私たちが養われ、またそれぞれの教会で受洗者も与えられたことを感謝したいと思います。

【主イエスについて】

20章で主イエスはペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい。」と言いました。カトリック教会ではこれによって、ペテロは全世界の教会を牧する権威が与えられたと考えます。その後継者が歴代のローマ教皇なのだと。一方プロテスタントは、ペテロ個人への任命ではないと考えます。ペテロのように、自分の罪、ルターによれば(心ならずも)自分の内側に折れ曲がった心を、知った人。ペテロのように、そんな自分を何度でも何度でも何度でも、赦してくださる主イエスを知った人。ペテロのように、主イエスに愛を注ぎ込まれ、その愛をあふれ出させることを知った人。そんな人なら、だれでも主イエスの羊を牧することができる、牧しなさい、そうお命じになったのでした。

「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。」(20a)も、ヨハネがペテロの指揮下にあるということを意味しません。ヨハネがついて行くのはペテロのように見えます。けれどもペテロは主イエスについて行くわけですから、ヨハネがついて行くのは実は主イエスです。歴史の中でローマ教皇が教会を導く大きな働きをしたことも多くあります。それは彼らが主イエスについて行ったから。カトリックとプロテスタントとどちらが正しいか、ということではありません。私たちが主イエスについて行っているかどうか、福音のいのちは、そこにかかっています。

【この人はどうなのですか】

18-19節にこうあります。「『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。』イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」

主イエスはペテロが今度こそ、主イエスに従いぬくことができること、それも殉教の死までまっとうすることができる、とおっしゃいました。決して、ペテロにそうできるようにがんばれ、と言ったのではありません。そうではなくて「ペテロ、あなたが私わたしを愛していることをわたしは知っている。それはわたしがあなたに注いだ愛だから。ずっとわたしはあなたに愛を注ぎつづけてあげよう。あなたにはできない殉教ができるまでに。その愛によって、あなたはわたしと共に働くことができる。愛の破れたこの世界を回復する栄光を現すのだ」と招かれたのでした。

ペテロの「主よ、この人はどうなのですか」(21)は、とうとつで興味本位の問いのように見えますがそうではありません。ヨハネは非常な高齢まで生きました。そのため後に、ヨハネは死なない、不死だといううわさがあったようなのです。もちろんヨハネは不死ではありません。ですから聖書は「しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく」(23b)とはっきり否定しています。

この福音書が告げる最後のたいせつなことは「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」にあります。「イエスが行われたこと」は、イエスが三十年あまりの地上の生涯で行ったことばかりではありません。主イエスがいのちを与えた者たち、主イエスを愛する者たち、つまり私たちを通して行われたすべてのことを指しています。だから世界もその記録を収められないのです。その「主イエスの行われたこと」は今も、行われています。私たちによって、私たちを通して、仲間と共に、主イエスと共に。主イエスが「あなたは、わたしに従いなさい。」と招くすべての人を通して。そして、主イエスの招きは、ひとりひとりにオーダメイドなのです。


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2024/04/22

礼拝メッセージ「主の祈り①」出エジプト記4章22-23b節 大頭眞一牧師 2024/04/21


天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

【どう祈ったらよいのか…】

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8:26)。何をどう祈ったらよいかわからない!あのパウロにして!だったら私たちはどう祈ればよいのでしょうか?

けれどもだいじょうぶです。私たちには主イエスが教えてくださった主の祈り(マタイ6章とルカ11章)があります。この祈りを祈るときに聖霊が働いてくださいます。そして私たちの心もとない祈りを、御霊と共に祈る祈りとしてくださるのです。

【父よ】

聖書が神を父と呼ぶとき、そこには驚くべき希望がこめられています。旧約聖書で最初に神を父とする箇所は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。」(出4:22-23b)。モーセが語った神の言葉です。エジプトの奴隷として苦しむイスラエル。神は、そのイスラエルを子、自らを父と呼んで、イスラエルを自由になさいました。父とは子を自由にするお方。「父よ」と祈ることを教えるとき、主イエスは私たちにおっしゃっているのです。「父よ、と呼べ。父は『子よ』と答えてくださる。『わたし(父)は、あなたがたに自由を与える。罪からの自由、恐れからの自由、頑なさからの自由を』と答えてくださるのだ」と。

【天にまします】

そしてこの父は「天にまします」父なのです。アブラハムとその子孫を通して世界のすべての国民を祝福する父。その父はイスラエルを解放し、いま、私たちを解放します。ただ、私たちを個人的な罪から解放するというだけではありません。世界を解放する。正義を実現し、飢えた者たち、虐げられた者たちを解放する。飢えから、虐げから。それだけではありません。奪う者たち、独占する者たちも開放する。貪欲から、失うことの恐れから。天にまします父の領域は、地に及び、地に拡大し、地を覆うのです。神の国が!

【我らの】

けれども忘れてはならないのは、父は第一に主イエスの父であること。分かつことができない三位一体の父と子の愛と信頼が、ゆるぎなく、まず存在する。そして子なる神が人となることによって、私たちと一つになってくださって、私たちを抱え上げるようにして神の子としてくださった。父の子としてくださった。そのために分かつことができない三位一体を危険にさらして。そんな「我ら」なのです。図は三位一体のイメージです。一体となって踊る愛のダンスに私たちも招き入れられています。

【主よ、祈りを教えてください】

「天にまします我らの父よ」と呼ぶとき、私たちの祈りが変わります。新しくなります。かつては、自分の個人的な願望を祈り、付け足すように世界のために祈っていた私たち。けれども「天にまします我らの父よ」で始まる祈りは、逆転の祈りです。今や私たちは、破れてしまった世界の回復のために祈り始めます。そのために喜びに胸をときめかせながら、自分を差し出しながら。そして、自分の個人的な願望を持ち出します。その願望がどのように世界の回復につながるかわからないままに。父がその願望を思いのままに、世界の回復のために用いてくださることに胸を躍らせながら。


(ワーシップ:聖歌397番「遠き国や」Bless)


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2024/04/15

礼拝メッセージ「羊を飼わせる神」ヨハネの福音書21章15-19節 大頭眞一牧師 2024/04/14


20章でいったん終わったかのように思えるヨハネの福音書。けれども今日の箇所を読むとき、21章が付け加えられていて本当によかったと思います。福音の真髄がここにあるからです。

【三度繰り返して】

主イエスはペテロに「あなたはわたしを愛していますか。」(15,16,17)と三度繰り返して訊ねます。三度!ペテロは十字架前夜、自分が三度、「主イエスを知らない、主イエスとは関係ない」と言ったことを思い出します。ですからペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めて」(17b)と、悲しくなったのでした。

けれども主イエスは、もちろんペテロを責めるために三度繰り返したのではありません。ペテロは主イエスに問われるごとに、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(15,16,17)と答えることができました。主イエスがペテロから愛の言葉を引き出してくださったのです。これはペテロから言い出すことはできない言葉。イエスが、愛を否定したペテロに、その否定の言葉を言い直させてくださった。上書きするように。そして言い直すたびにペテロの痛みは癒されていきました。主イエスは私たちからも愛の告白を引き出してくださいます。そうするごとに私たちを癒し、私たちの愛を増し加えてくださるのです。宣伝のようですが今月「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)の第二刷が出ました。三度で終わりでなく何度でも主イエスは私たちに愛を注ぎ、私たちの愛を増し加えてくださっています。

【あなたがご存じです】

ここでペテロの三度の答は「はい、私はあなたを愛しています」ではなく、「はい、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」でした。かつては「あなたのためなら命を捨てます」と言い切ったペテロ。けれども裏切ったペテロは、もはや自分には「はい、愛しています」などと言い切る自信がありません。ペテロのうちには愛はないのです。

けれども主イエスはそんなペテロに現れ、パンと魚を裂き与え、愛といのちを注いでくださいました。だからペテロは答えることができました。「はい、主よ。あなたが愛を注いでくださった。あなたがあなたへの愛を私に注いでくださった。ですからその愛で私はあなたを愛することができます。あなたがご存じのとおりです。あなたがそうしてくださったのですから」と。

そもそも主イエスの問い、「あなたはわたしを愛していますか。」は、「あなたはがんばってわたしを愛するか」ではなかったのです。「今、わたしはあなたに愛を注いでいる。わたしを愛する愛を。だからあなたはわたしを愛することができる。さあ」という招きだったのです。主イエスは私たちにも、愛を告白させてくださいます。もうすでに。さらになおなお。私たちが「主よ、私はあなたを愛します」と申し上げるとき。その言葉は主から与えられた黄金の言葉であることを知ってください。

【羊を飼わせる神】

そんなペテロに主イエスは使命をくださいました。「わたしの子羊を飼いなさい。(15)」「わたしの羊を牧しなさい。」(16)「わたしの羊を飼いなさい。」(17)と少しずつ言葉はちがいますが、「わたしの羊」つまり、主イエスの教会を養い、守り、導くことをゆだねてくださったのでした。もともと教会の牧者(羊飼い)は主イエスです。10章で主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(10:11)とおっしゃいました。ペテロは、そして私たちは主イエスの同労者として働くのです。それは牧師だけではありません。役員もそうです。役員でない人も。私たちはたがいがたがいの牧者です。愛を注ぎ合って、愛するいのちを注ぎ合って。

先週は信愛、今週は明野で教会役員任命式が行われます。「私にはとても無理です」と言う方がよくおられます。自分が罪のない、清く正しい立派な人でなければならないと思うのです。けれども教会役員の資格はただひとつ。「主イエスが自分に愛を注いでくださっており、その愛を神と人へあふれ出させてくださっている」これを知っていることだけです。これはすべてのキリスト者がすでに知っていることです。みなさんもすでに。

私たちが立派なキリスト者になって立派に使命を果たそうと考えるなら、それは教会を立て上げることになりません。競争と落胆と高慢をもたらすだけです。主語が自分になっているからです。主語は主イエスであることを忘れないなら、主イエスが教会を立て上げてくださいます。私たちを通して。


(教会学校メッセージ「イエスの受洗」ルカの福音書3:15-22)


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