2024/06/30

礼拝メッセージ「涙をぬぐう主」マタイの福音書2章13-23節 大頭眞一牧師 2024/06/30


三週間ぶりのマタイです。前回は東方の星占いたちを通して、神がすべての人を、それぞれに届く方法で招かれていることを見ました。そのとき、星占いたちはイエスを王として受け入れ、自分を献げました。ところがヘロデとエルサレムの人びとは自分を王として、イエスを拒んだのでした。

【大惨事】

自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 」 (16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。 恐れゆえに。こうして、 王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。 自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。 それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。

けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。

【難民イエス】

ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲に生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。 神であるイエスが難民となりました。 ヘロデが死んだ後も、 彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが! 世界の片隅で身をひそめて! それは私たちのためでした。

【涙をぬぐう主】

マタイはここでエレミヤ書を引用します。 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 (18)。これはエレミヤ31:15 からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。

イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。 「主はこう言われる。 『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。 』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。

【癒し主イエス】

バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、 むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。 自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。 バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも 、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。

だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/24

2024/06/22

「白鞘慧海ゴスペルコンサート」は YouTubeでのライブ配信が行われます(2024/06/23)

  ※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」に関するお知らせです。


白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】



いよいよ明日、6/23(日) 14:00-15:15 に「白鞘慧海ゴスペルコンサート」が行われます。詳しい内容は 白鞘慧海ゴスペルコンサートのご案内(2024/06/23) の記事をご覧ください。

そのコンサートは「会場で直接聴く」以外にも「YouTubeでライブ配信を聴く」ことも出来ますので、京都信愛教会に来ることが出来ない方も是非、ご覧になってください。

ライブ配信をご覧になる方は 京都信愛教会チャンネル からご覧ください。

ライブ配信はそのまま録画としても公開されますので、後日に観ていただくことも出来ます。どうぞお楽しみに!




2024/06/17

礼拝メッセージ「主の祈り③」イザヤ書25章6-8節 大頭眞一牧師 2024/06/16


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【日用の糧?】

ここまで神の国の地上での成長を願い、そのために自分を差し出す祈りを祈ってきた私たち。その私たちに戸惑いを感じさせるのが、今日の箇所です。毎日の生活の必要を満たしてください、といういわずもがなのことを願っているように聞こえるのです。けれども、そもそも主イエスは「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)と言うのです。それなのになぜ私たちは主の祈りで「日用の糧を与えたまえ」と祈るのでしょうか。

【神の国の宴会】

イザヤは告げています。「万軍の【主】は、この山の上で万民のために、脂の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い脂身とよくこされたぶどう酒の宴会を開かれる。この山の上で、万民の上をおおうベールを、万国の上にかぶさる覆いを取り除き、永久に死を呑み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。」(イザヤ25:6-8)と。これは終わりの日、再臨のときに実現する宴会です。そのとき「万民のために」、つまりすべての人のために、死が滅ぼされ、神との隔てのベールが取り除かれ、すべての涙がぬぐい取られるのです。主イエスが取税人たちを招き、断食すべき安息日に祝宴を設けたのは、この終わりの日の祝宴が、もう主イエスの到来と共に始まったことを示すためでした。私たちが「我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。」と祈るとき、私たちは主イエが始めたこの祝宴を、今日も続けてください。明日も続けてくださいと願うのです。文字通りの日常の必要のことではなく、死と罪と恥と涙、すなわち世界の破れの回復を思い、主イエスが初めてくださった破れの回復を今日も、明日も進めてください、と願うのです。日用の糧とはそんな主イエスのいのちです。私たちに注がれているいのちです。

【飢えている者と共に】

もちろん世界には、あるいは日本にも食物がなくて飢えている人びとがいます。世界の破れの回復には、現実に飢えている人びとへのケアも含まれています。「我らの日用の糧〔かて〕を」と祈るとき、その「我ら」は、私たちの家族や教会の仲間のことだけではありません。神の国の民である私たちは、世界を代表しています。だから、私たちは、この世界のために神に助けを求めるのです。神は祈りを聞いてくださるお方。それも思いもかけないスケールで。ナオミが嫁のルツに夫を求めると、神はルツをダビデの曾祖母としました。そして世界の回復を前進させたのです。神は世界の飢えのための私たちの祈りも、思いもかけないスケールで聞いてくださいます。私たちを用いて、私たちと共に働いて。思いもかけない筋道で。

【そして、聖餐】

世界の破れの回復のための「日用の糧」として主イエスが与えてくださったのは、ご自身のいのち。聖餐に連なるとき、私たちは主イエスの祝宴にいます。その死と復活のいのちに与り、私たちを差し出します。そんな私たちを用いて、祈る以上のことをしてくださる父を喜びながら、世の終わりまで聖餐に与り続けるのです。つまり、主イエスのいのちを生きるのです。



(新聖歌430「われ主に従いまつらん」Bless【ワーシップ】)


(教会学校メッセージ「天の父への祈り」マタイの福音書7:7-12)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/10

礼拝メッセージ「星である主」マタイによる福音書2章1-12節 大頭眞一牧師 2024/06/09


主イエスの誕生の記事。マタイはとても簡潔に記します。「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節前半)と。けれどもここにも大きな恵みがあります。ごいっしょに聴き取りましょう。

【ヘロデ王の時代に】

ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。

けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。この王とともにイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。

私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがいないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。

【東の方から博士たちがエルサレムに】

こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。

ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。

【黄金、乳香、没薬を】

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界への。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。

主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。

けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/06/05

白鞘慧海ゴスペルコンサートのご案内(2024/06/23)

 ※この記事は 6/23の「白鞘慧海ゴスペルコンサート」のお知らせです。


白鞘慧海ゴスペルコンサート 2024/06/23】



京都信愛教会では約5年振りとなる「ゴスペルコンサート」を行います。

ゴスペルシンガー&ソングライターの白鞘慧海さんをお迎えして、オリジナルソング、賛美歌、ポピュラーソングの各曲を披露いただきます。

どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)。

詳しくは、下のチラシをご覧ください。



■日時


2024年6月23日(日) 開場13:30、開演14:00~15:15

YouTubeチャンネルでもライブ配信します: https://youtube.com/@kyotoshinai

■出演:白鞘慧海(しらさや えみ)


ゴスペルシンガー&ソングライター、上野芝キリスト教会協力牧師、昭和音楽大学講師、日本国際飢餓対策機構「ハンガーゼロ」親善大使。早稲田大学在学中より、シンガー&ソングライターとして活動を始め、1995年 ビクターエンタテインメントよりデビュー。NHK教育TV『みんなのうた』で楽曲がオンエアされる。キューンソニーに移籍後、カネボウCMソング『Summer Kiss』などリリース。2001年にはニューヨークにて様々なライブハウスに出演。2014年よりゴスペルアーティストとして音楽活動を開始。各地でコンサート活動を始める。2017年CD「BLOSSOM」発売。チャペルコンサート、ゴスペルコンサート、病院や少年院、福祉施設訪問などを行っている。
 

■演奏予定曲


CD「BLOSSOM」より

  • 「輝く日を仰ぐ時」聖歌480番
  • 「Amazing Grace ~I Belive~」など

ハンガーゼロ テーマソング

  • 「ぼくらの世界」
賛美歌より
  • 「うるわしの白百合」讃美歌496番
ポピュラーソングより
  • 「You Raise Me Up」
  • 「翼をください」
  • 「見上げてごらん夜の星を」など 


■会場


日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
京都市北区大将軍坂田町21番地12
TEL: (075)461-1938
牧師: 大頭眞一

  • どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。
  • 当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

2024/06/03

礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイによる福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2024/06/02


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事,生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ』とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)