2023/07/30

礼拝メッセージ「場所を用意する神」ヨハネの福音書14章1-11節 大頭眞一牧師 2023/07/30


「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2b)と、新約聖書の至聖所(ヨハネ13章-17章)に慰めの言葉が響きます。実際このお言葉によってどれほど多くの人びとが力づけられて来たことかと思います。

【心を騒がせるな】

私たちが励まされるのは、そこに私たちへの愛があるから。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」(1a)と言ったイエスは、ご自身が心を騒がせた神。ラザロの死に泣くマリアを見て、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、涙を流してくださった神(11章)。来るべき十字架を思い、「今わたしの心は騒いでいる。」(12:27)と口に出された神。私たちのために、私たちをご自身から隔てる死の力、悪の力を打ち砕くことを、ご自身のただひとつの願いとしてくださった神の心が騒いだのです。ですから「心を騒がせてはなりません。」は、ただの指示ではありません。「あなたがたを恐れさせ、不安にさせるすべて。恐れも、不安も、罪も、弱さも、すべてわたしが負った。だから、あなたがたの心は騒がない。それを忘れるな」とおっしゃるのです。

【主よ、どこへ】

「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、主イエスの昇天と再臨を意味しています。トマスは、それがわからないので、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(5)と訊ねます。

このトマスの問いへの主イエスの答は、父に目を向けさせようとするものでした。「どこへ?」に対する答は、「父のみもとへ」なのですが、その父について言葉を重ねるのです。「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)と。イエスは、父と子の分かつことができない交わりに目を向けさせようとします。「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(11c)ともあります。主イエスの生涯を通して注がれた私たちへの愛、その生涯の終わりの十字架を通して私たちに注がれる愛は、父と子が心ひとつに注ぐ愛だというのです。私たちのために、心を騒がせるのは子なる神だけではありません。父なる神の心もまた、私たちへの愛おしさのゆえに騒ぐのです。心騒ぐ父と子が、うなずきあって、私たちに子なる神を与えてくださった、投げ出してくださったのでした。

【わが故郷、天にあらず】

そんな父と子の騒ぐ心を知るとき、「あなたがたのために場所を用意しに行く」は、新たな光を放ちます。この世は天国行き列車の待合室ではなくなるのです。


ときどき信愛教会に来られる島先さんが、以前訳した「わが故郷、天にあらず」という良書があります。私たちがこの世を天国の待合室とみなすなら、

「積極的に善を行おうとするよりも、受身になって罪を避けようとする。このため、恐る恐る、慎重に生きるようになってしまう。つまり、規則を破らないように安全を期して、何もやらなくなる」(同書19ページ)

でしょう。けれども父と子の心を知るなら「主が命じられた事を忠実に行うことによって、私たちは主の再臨を待つ…そのため、私たちは祈り、御言葉に聞き、御言葉を伝え、子どもを育てる。主が来られるまで生計をしっかり立て…その他あらゆる面で責任ある生き方をする。マルティン・ルターは、

『あす主が戻られるなら、きょう何をするか』と尋ねられたとき、「木を植える」と言ったことで有名だ」(同書272ページ)。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6b)は、私たちにそんな生き方を鮮やかにします。主イエスはこう言うのです。「いのちであるわたしを飲み、真理であるわたしを食らい、道であるわたしを踏んで、歩け。あなたのうちに、いのちと真理と道であるわたしが満ちる。わたしがそうさせる。あなたは愛を注ぎだしながら、世界の回復となる。わたしがそうさせる。その先にわたしが用意している場所がある。その場所はもう始まっている。父と子の交わりの内に招き入れられたあなたがたの中に。父と子の招きに応じて、交わりのうちに入ったあなたの毎日に。あなたがたの毎日に」と。そんな互いをこの朝も喜び合います。


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2023/07/23

礼拝メッセージ「ひとりぼっちの神」ヨハネの福音書13章31-38節 大頭眞一牧師 2023/07/23


「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(38c)。新約聖書の至聖所で語られた、あまりにも心に痛い言葉。ひとりぼっちの神の心を今日も聴きます。

【なんという神だろう】

ユダが主イエスを裏切るために出て行ったとき、主は不思議なことを言いました。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」(31b-32)と。人の子とはイエスのこと。神が人となってくださった。子なる神が、私たちと同じ人に。そして、十字架に架けられることをご自分の栄光だと言ってくださる。私たちのために十字架に架けられることを。父もまたイエスの十字架をご自分の栄光だと言ってくださる。いったい…いったい…なんという神だろう!

【あなたがたは来ることができません】

けれども続いて、弟子たちをはっとさせる言葉が語られます。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(32d)と。また、ペテロにも「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。」(36d)と言うのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(37c)、と申し上げたペテロ。人間に可能な限りの熱心でも、主イエスについて行くことはできない、という厳しいお言葉が語られたのでした。このことは私たちは、みな、身に沁みて知っていること。熱心に主について行こうと願いながらもそうすることができなかった悔いがあります。そんなことはもう無理かもしれない、そんなあきらめに似た思いを味わうことも、しばしばです。

【しかし後には】

けれどももちろん、主イエスはあきらめません。たとえ私たちがあきらめたとしても。だからイエスは、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(36a)というのです。「後には」とは、十字架と復活、そしてペンテコステによって、聖霊により生きる者とされるとき。例によって言葉を補って言い換えるとこうなります。「わたしは明日には十字架に架けられる。自分を与える栄光のときだ。あなたがたが愛のいのちに生きることが、わたしの、そして父の栄光だからだ。無上の喜びだからだ。弟子たちよ、けれども、あなたがたは、今はわたしについて来るこができない。ペテロよ、あなたも、わたしについて来ることができない。どんなに熱心であっても。わたしはひとりぼっちで死んでいく。けれども、やはり、それは栄光のときなのだ。なぜなら、あなたがたは後にはついて来ることができるようになるからだ。わたしがそうさせてあげるからだ。いや、わたしたちが。父と子と聖霊の神が、あなたがたに、愛のいのちを満たすからだ。」と。

【愛のいのちに】

そう言われてもまだ、「私は主イエスについて行くことができていない。もうあきらめるしかないのでは」と言いたくなる私たちです。しかし、それは私たちの見方。主イエスはあなたをそんなふうにご覧になってはいないのです。主は、あなたの失望をそのままにしておかれない。そこに恵みの雨を注ぎ、みことばを注いでくださっている。あなたは主について行くことに、確実に成長しています。そうは思えなくても。

【私が私たちに】

先週は教区賛美セミナーの3回目。後藤真牧師が幸いなお証しをしてくださいました。その中で、ある勉強会で、救いとは「私が私たちになること」だと気づかされたことを話してくださいました。その勉強会には、私(大頭)もいたのですが、言われて思い出しました。神さまとの、そして人との関係が損なわれ、それでも、自分がなんとか、と苦しんでいた人びと。ペテロもそうでした。ユダもまた。けれども、主イエスがご自分を与えてくださることによって、そんな者たちが二重の「私たち」になりました。第一に、神の子とされ、主イエスを長兄とする私たちなりました。愛のいのちを注がれて、主イエスについて行く、いえ、主イエスと共に歩むのです。第二に、仲間たちと共に歩み私たちに。主イエスについて行く旅は、仲間と支え合い、励まし合い、赦し合い、覆い合う旅です。主が「ひとりぼっちの神」になってくださり、私たちをひとりぼっちから解き放ってくださったのでした。


ワーシップ「主の御手の内に生かされて」Bless



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2023/07/17

礼拝メッセージ「裏切られた神」ヨハネの福音書13章21-30節 大頭眞一牧師 2023/07/16


新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。ところがその至聖所で裏切りが起こります。神が裏切られたのでした。

【心を騒がせる神】

18世紀ごろの東欧では、イースターに「裏切り者のユダ」の人形を吊るして焼くことが行われていたのだそうです。キリストを裏切ったユダ憎し、というわけです。けれども、主イエスご自身はユダを憎みませんでした。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。」(21a)とあります。心が騒いだ!神の心が!主イエスはユダの裏切りに不安や恐れを感じたのではありません。もとより十字架を覚悟しておられるのですから。主イエスの心、神の心が騒いだのは、光の中から暗闇の中へ去って行こうとするユダを思ってのことです。ユダを愛し、ユダを惜しんで、無関心ではいられず、心を騒がせ、あわれみに胸を熱くしてくださったのでした。ここまでにも、何度も主イエスはユダの裏切りを口にされました。主イエスはそのたびごとにユダを惜しみ、ユダのために心を騒がせてくださっていたのでした。

私たちが罪をおかすとき、神の心は騒ぎます。私たちを愛し、私たちを惜しんで、無関心ではいられないからです。罪をおかした者の最大の苦しみはここにあります。罪は、神の心を騒がせること、神の心を繰り返し痛め、悲しませることだからです。

【サタンが…】

「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。」(27)とあります。私たちはこの個所を読むと、「サタンが入ったのならしかたがない、主イエスもユダをあきらめて、『あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。』(27c)といったのだろう」と思ってしまうかもしれません。

けれども、主イエスはしばしば悪霊を追い出されてきました。そして十字架の上で、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(へブル2:14b-15)。ですからサタンには勝てないと思ってはなりません。ユダはサタンのそそのかしに、やはり自分で同意してしまったのでした。

ユダはなぜ主イエスを裏切ったのでしょうか。お金をごまかしていたから、ユダヤが、武力でローマから独立することを望んでいたから、そういったこともあったでしょう。しかし何よりも、ユダは主イエスが開かれた神の国を見ていませんでした。主イエスは、ユダ以上の革命家でした。武力によってローマを追い出すのではなく、世界を神の国にしたのです。それをさまたげるサタンを滅ぼすことによって。サタンは、ユダの心を将来への不安や、自分が今なんとかしなければという恐れや焦りによって縛りました。ユダの破れ、神との関係の破れを通して入り込みました。

「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」(30)。何もいわずに闇の中へと去っていったユダ。私たちの心も騒ぎます。痛みます。主イエスの心とともに。裏切られてもなお愛する神の心とともに。

【イエスが愛しておられた弟子】

「イエスが愛しておられた弟子」(25b)は、ヨハネが、好んで用いた言葉。ヨハネ自身のことですが、それだけではありません。「イエスが愛しておられた弟子」は、私たちのことでもあり、ユダのことでもあります。

ユダの最大の問題は、自分が「イエスが愛しておられた弟子」であることを忘れたことにあります。闇の中に出ていくその背中にも、主イエスの愛のまなざしが痛いほど注がれていたのに、それがわからなかったのです。苦々しい思いで、たったひとりで、背筋を伸ばして、伸ばした背筋に悲壮感をみなぎらせてユダは去っていきました。

それに比べてヨハネはあまり毅然としているようには見えません。「イエスの胸元に寄りかかったまま」(25a)でくつろいでいるのです。当時は身を横たえての食事の習慣であったとはいえ、なんともほほえましい光景です。ヨハネは、主イエスの愛の中にひたっているのです。仲間と共に。

「ユダにはなるまじ」という賛美があります。ユダにならないための秘訣は、主イエスの愛の中にいることです。仲間とともに。それは今、私たちがしていることです。いっしょに集まり、主イエスの愛のことばに耳を傾け、私たちの愛を、仲間とともに献げる。仲間どうしで注ぎ合う。そんなたがいを喜びましょう。光の中で。



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2023/07/09

礼拝メッセージ「仕える神」ヨハネの福音書13章12-20節 大頭眞一牧師 2023/07/09


新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。今日もここから主イエスの心の言葉、愛の言葉を聴かせていただきます。

【たがいに足を】

弟子たちの足を洗ってくださった主イエス。上着を脱いでしもべとなって。「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き」(12a)ました。上着をまとって、権威ある主として、語ったのです。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(12b-14)と。主イエスの権威は、愛の権威。主イエスが「互いに足を洗い合わなければなりません。」とおっしゃなら、それは「がんばって足を洗い合いなさい。そうしなければいけない」と強制しているのではありません。「わたし(主イエス)がそうさせてあげる。このわたしが、あなたがたが足を洗い合うことができるようにさせてあげる」と励ましているのです。

なにも問題のないときに、たがいにあいさつをしたり、親切にするのでしたら、私たちも抵抗がないでしょう。いつもそうしています。けれども、たがいの足が汚れているときに、つまり、わだかまりや、赦せない思いがあるときに、たがいに向き合い、愛をもって相手を受け入れ、赦し、覆い、あるいは愛をもって自分の痛みを伝えることは難しいことです。たがいの頑なさがあります。たがいの恐れがあります。そんなとき、私たちは、たがいの関係を健やかにすること、たがいの足を洗い合うことにしり込みしてしまうのです。

【しもべは主人にまさらない】

そこに主イエスのみ声が響きます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」(15-16)と。主イエスは模範。けれども、単なるお手本ではありません。「イエスがしていることを、がんばって真似しなさい」というのではないのです。主イエスは父から遣わされ、父との交わりのうちに、私たちの足を洗ってくださいました。私たちも、主イエスから遣わされ、主イエスとの交わりのうちに、たがいの足を洗い合うことができるのです。いつものように言葉を補って、言い替えてみましょう。「わたし(主イエス)は、父から遣わされ、父との愛の交わりのうちに、あなたがたの足を洗った。あなたがたも、同じようにすることができる。わたしがあなたがたを遣わし、わたしがあなたがたに愛を注ぐ。だからあなたがたは、足を洗い合うことができる。わたしがそうさせてあげる。遣わされた者は遣わした者にまさらない。あなたがたの頑なさや恐れは、わたしの愛にまさらない。『わたしと同じように生きよ』とわたしが言うのだから、あなたがたはそうできるのだ。わたしがそうさせてあげよう」と。

【かかとを上げる者】

けれどもそんな主イエスの愛は、苦しみなしに注がれるのではありません。「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」(18)とあります。直接にはユダのことでしょう。けれどもその背後には、私たちを愛から遠ざけようとする大きなが存在します。罪と死の力といってもよいでしょう。主イエスはこの力によって十字架に架けられました。けれども復活によって、この力を打ち砕かれたのでした。だから、愛し合う生き方は、今、私たちのものとなっているのです。

【わたしはある】

そうは言っても、とおっしゃるかもしれません。主イエスのように愛することはできていないです、と。たしかにそうです。しかしいのちの成長には時間がかかります。私たちの頑なさや恐れには、自分でもよくわからない傷や痛みといった原因があるのですから。

「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」(19)もまた主イエスの愛の言葉。「わたしはある」は単なる「神はいる、神は存在する」という意味ではありません。「わたしはあるようにする」という意味も持つ言葉。神は、あるようにさせる神。神は私たちをご自分がそうあらせたいと思うようにさせる神。ですから、神は私たちを、「足を洗い合うことができるようにする神なのです。


By adriatikus, CC BY-SA 2.5
ロシア正教などの正教会では、写真のように三本の指を合わせ、残りの二本の指を折って、十字を切ります。キリスト教会にとってももっとも大切なふたつのことの表現です。合わせた三本の指は三位一体を、折った二本はキリストがまったき人であり、同時にまったき人であることを表しています。私たちがたがいに愛し合うことができる理由は、ここにあります。私たちは三位一体の神の愛の交わりに招き入れられました。そこであふれるほどに愛を注がれています。そんな愛の中で、人となった神であるイエスによって癒され続けています。神が人となって、私たちの傷や痛みを、いわば内側からご自分のものとして、受け取って、癒してくださっているのです。だから私たちはたがいに愛し合うことができます。今よりもさらに。自分のがんばりとはちがう次元で。聖餐のうちにさらに主イエスのいのちを受け取ります。


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2023/07/01

礼拝メッセージ「足を洗う神」ヨハネの福音書13章1-11節 大頭眞一牧師 2023/07/02


今日の聖書箇所から17章までは、最後の晩餐の記事。受難週の木曜日のできごとです。こうして最後の数時間を弟子たちと過ごした後、主イエスは捕らえられます。13章から17章を新約聖書の至聖所(ホーリー・オブ・ホーリー)と呼ぶ人もいます。主イエスの心の奥からあふれ出る愛の言葉に聴き入りましょう。

【心とたましいに刻むことば】

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1)。主イエスの心の至聖所にあったものはなにか。それは「世にいる自分の者たち」への愛。これは弟子たちのことですが、私たちのことでもあります。私たちはまさに「世にいるイエスの者たち」だからです。私たちは主イエスの宝もの。玉ねぎの皮をむくように主イエスの心をむくと、そこには私たちへの愛があるのです。


7月に教区の賛美集会があります。信愛の方がたが3曲用意してくださっていますが、うち一曲は私が作詞して、信愛の方が作曲してくださった「神さまの宝物」という賛美です。そこで繰り返されるのが『心とたましいに刻むことば、それは愛のことば。神の愛のことば』です。私たちも主イエスの愛を胸に刻みたいと思います。いえ、すでに刻まれています。だからこうして礼拝に集っているのです。

【足を洗う神】

「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(4-5)足を洗うのは、奴隷の仕事。ペテロがあわてて止めようとしたのも無理はありません。神に、自分の汚(よご)れた足を洗わせるなど、とんでもないことだからです。けれども私たちの汚れは、神であるイエスにしか洗うことができない汚れ。私たちを神から遠ざけ、たがいから遠ざけ、自分をも嫌いにさせる汚れを主イエスは放っておくことがおできになりません。そのための受肉と十字架でした。「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。」(3)とあるとおり。

【ユダの足も】

足を洗っていただいた者たちの中に、ユダもいたことを思います。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」(2)主イエスはこのことを、ご存じだったにもかかわらず。主は「こいつめ、こいつめ」と思いながらユダの足を洗ったのではないはずです。ユダの足をいつくしむように、ていねいに洗ってくださったでしょう。ユダはその主イエスの手のぬくもりを感じていたはずです。その愛を。それなのにユダはイエスに背を向け続けてしまいました。それは主イエスにとってなんとも大きな痛みでした。

【あなたがたはきよい】

先週は名古屋の東海聖化大会で語りました。あらためて感じたことは、自分がきよめられているのかどうか、で悩んでいる方がたが多い、ということ。主イエスはレプタ二枚を献げたやもめを喜ばれました。我を忘れて神を愛したやもめの自由な心を喜ばれたのでした。体験はさまざまです。はっきりしたきよめの体験がある人もいれば、そうでない人もいます。けれども、神さまはそれぞれに、オーダーメイドの導き方をしてくださって、神と人への自由な愛を解き放ってくださるのです。神と人へ精一杯の愛の前傾姿勢をとらせてくださるのです。

聖会の後、YouTubeライブで視聴した友人から連絡がきました。「私は、かなり前のめりに歩けるはずなのに、イエスさまや友の助けを拒むあまりに、軽くしか前傾姿勢を取れない」と。そんな私たちの足を主イエスは洗ってくださいます。すでにキリスト者とされた私たちは全身を洗っていただく必要はありません。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」(10b)との記事には、洗礼がイメージされているでしょう。すでにキリスト者、キリストのものとされ、キリストのいのちを生きる私たち。そんな私たちは日々主イエスに洗っていただきながら、仲間とともに歩みます。さらに愛を増し加えられながら、さらに癒されながら。私たちの恐れも、罪も、傷や痛みも、主に差し出して、今、聖餐に与ります。

                    
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