「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2b)と、新約聖書の至聖所(ヨハネ13章-17章)に慰めの言葉が響きます。実際このお言葉によってどれほど多くの人びとが力づけられて来たことかと思います。
【心を騒がせるな】
私たちが励まされるのは、そこに私たちへの愛があるから。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」(1a)と言ったイエスは、ご自身が心を騒がせた神。ラザロの死に泣くマリアを見て、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、涙を流してくださった神(11章)。来るべき十字架を思い、「今わたしの心は騒いでいる。」(12:27)と口に出された神。私たちのために、私たちをご自身から隔てる死の力、悪の力を打ち砕くことを、ご自身のただひとつの願いとしてくださった神の心が騒いだのです。ですから「心を騒がせてはなりません。」は、ただの指示ではありません。「あなたがたを恐れさせ、不安にさせるすべて。恐れも、不安も、罪も、弱さも、すべてわたしが負った。だから、あなたがたの心は騒がない。それを忘れるな」とおっしゃるのです。
【主よ、どこへ】
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、主イエスの昇天と再臨を意味しています。トマスは、それがわからないので、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(5)と訊ねます。
このトマスの問いへの主イエスの答は、父に目を向けさせようとするものでした。「どこへ?」に対する答は、「父のみもとへ」なのですが、その父について言葉を重ねるのです。「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)と。イエスは、父と子の分かつことができない交わりに目を向けさせようとします。「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(11c)ともあります。主イエスの生涯を通して注がれた私たちへの愛、その生涯の終わりの十字架を通して私たちに注がれる愛は、父と子が心ひとつに注ぐ愛だというのです。私たちのために、心を騒がせるのは子なる神だけではありません。父なる神の心もまた、私たちへの愛おしさのゆえに騒ぐのです。心騒ぐ父と子が、うなずきあって、私たちに子なる神を与えてくださった、投げ出してくださったのでした。
【わが故郷、天にあらず】
そんな父と子の騒ぐ心を知るとき、「あなたがたのために場所を用意しに行く」は、新たな光を放ちます。この世は天国行き列車の待合室ではなくなるのです。
ときどき信愛教会に来られる島先さんが、以前訳した「わが故郷、天にあらず」という良書があります。私たちがこの世を天国の待合室とみなすなら、
「積極的に善を行おうとするよりも、受身になって罪を避けようとする。このため、恐る恐る、慎重に生きるようになってしまう。つまり、規則を破らないように安全を期して、何もやらなくなる」(同書19ページ)
でしょう。けれども父と子の心を知るなら「主が命じられた事を忠実に行うことによって、私たちは主の再臨を待つ…そのため、私たちは祈り、御言葉に聞き、御言葉を伝え、子どもを育てる。主が来られるまで生計をしっかり立て…その他あらゆる面で責任ある生き方をする。マルティン・ルターは、
『あす主が戻られるなら、きょう何をするか』と尋ねられたとき、「木を植える」と言ったことで有名だ」(同書272ページ)。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6b)は、私たちにそんな生き方を鮮やかにします。主イエスはこう言うのです。「いのちであるわたしを飲み、真理であるわたしを食らい、道であるわたしを踏んで、歩け。あなたのうちに、いのちと真理と道であるわたしが満ちる。わたしがそうさせる。あなたは愛を注ぎだしながら、世界の回復となる。わたしがそうさせる。その先にわたしが用意している場所がある。その場所はもう始まっている。父と子の交わりの内に招き入れられたあなたがたの中に。父と子の招きに応じて、交わりのうちに入ったあなたの毎日に。あなたがたの毎日に」と。そんな互いをこの朝も喜び合います。