2022/11/25

第1アドベント礼拝メッセージ「捨てられる神」ヨハネの福音書6章60-71節 大頭眞一牧師 2022/11/27



今日から待降節(アドベンド)。クリスマスを待ち望む喜びの季節です。そんな日の説教題が「捨てられる神」とは!けれどもクリスマスにお生まれになったのは、まさに捨てられるために生まれた神。今日もその神のことばを聴きます。

【弟子たちのうちの多くの者が】

この個所はほかの三つの福音書にはありません。ヨハネだけが「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60b)という弟子たちの、しかも多くの弟子たちの言葉を記しています。パリサイ派や群衆ならまだしも、「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(66)とあるのです。

ひどい話とは「わたしは天から下って来たパンです」(41)というおことばでしょう。つまち主イエスがご自分を「天から下って来た神だ」と言ったことを受け入れることができなかったのです。なぜなら人びとがイエスに求めていたのは、当時のユダヤを支配していたローマからの解放をもたらし、食物を与える革命家でした。ところがイエスのなさろうとしたことは、はるかに根源的な革命でした。罪と死の力から解放し、永遠のいのちのパンとしてご自分を与えたイエス。そのイエスは、永遠のいのちを与えられた私たちと共に、愛によってこの世界の破れをつくろわれるのです。けれども、人びとは、多くの弟子たちさえも、このことを受け入れることができなかったのでした。もしみなさんのうちに、このことがもう一歩よくわからない、という方がおられましたら遠慮なく、お知らせいただきたいと思います。ごいっしょに聖書を開き、祈るときを持たせていただきたいと思います。

【いのちを与えるのは御霊】

「祈るときを」と申し上げたのは、「いのちを与えるのは御霊です。」(63a)だからです。神ご自身、聖霊なる神ご自身だけが、私たちに永遠のいのちをあたえることができます。私たちを愛して、いのちを与えない神。私たちをほうっておくことができないで、クリスマスに地上に来てくださった神ご自身が、聖霊によって私たちにいのちを与えてくださったのです。今、すでに私たちのうちに始まっていて、死を超えてその向こう側にまで続く、永遠のいのちを。

【わたしがあなたがた十二人を選んだ】

去っていった多くの弟子たちがいる一方で、シモン・ペテロは答えました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(68b-69)と。それに対して、主イエスは「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」(70b)とお答えになりました。ペテロが「あなたが神の聖者」と告白することができたのは、ペテロがすぐれていたからではありません。努力したからでもありません。主イエスがペテロたちを選んだからです。

ここで、ペテロが「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と語り、主イエスが「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」といずれも複数が用いられていることもたいせつです。神さまは私たちがたがいに支え合い、励まし合って、永遠のいのちにとどまるようにと、仲間を与えてくださっているのです。

【あなたがたのうちの一人は悪魔】

それにつけても不思議なのは、主イエスによって選ばれたはずの弟子たちのうちから多くの者が離れ去ってしまったことです。こういうところを読むと、私たちは「自分はだいじょうぶだろうか。主イエスを離れたりしないだろうか」と不安になるときがあるかもしれません。けれども、聖書は神のことば。私たちのために捨てられることをいとわぬ神のことばです。ヨハネは、そしてヨハネを通して神さまが、私たちに「あなたがたは選ばれている。だからわたしはあなたがたを決して手放さない」と語っていてくださるのです。その神のあわれみによって、離れ去った弟子たちからも、主イエスに立ち帰る者たちが起こされたことでしょう。当のペテロたちもそうであったように。

ユダに対する「あなたがたのうちの一人は悪魔」(70c)も痛みを覚えさせます。しかしこのことばも、死と悪魔に勝たれた主イエスからの招きのことばだと、私は信じます。



新聖歌171「今日まで守られ」ワーシップソング(賛美) Bless




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2022/11/18

主日礼拝メッセージ 2022/11/20 「自分をあたえる神」ヨハネの福音書6章52-59節 大頭眞一牧師


今日の説教題は、「自分を与える神」。このところ「いのちのパンである神」といった同じような題が続いています。聖書そのものが、私たちのために自分を与えた神を繰り返し語っているから。そんな自分を与える神こそ、ヨハネが私たちにどうしても伝えたいこと、ヨハネを通して神さまが伝えたいこと。かつて、「心とたましいに刻むことば」という説教をしたことがあります。年明けに出る説教集に載る予定です。心とたましいが別べつにあるというわけではありません。神さまには、私たちの存在に刻みたいと願っておられることばがあります。今朝もそんなことばを聴き、心とたましいに刻みたいと思います。

【はるかに力強く】

主イエスは語ります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(6:53b-55)

もちろん私たちは実際に二千年前の主イエスの血と肉を飲食するわけではありません。それにもかかわらず、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言うのです。食べ物は、私たちに噛み砕かれて、私たちの体の一部となります。イエスのいのちを受け取るということは、ただ、頭の中でイエスを理解するということではありません。また、ただ感情的に動かされるということでもありません。主イエスの与えるいのちは、私たちの一部となります。私たちの存在の一部となるのです。

明野キリスト教会では、木曜日の午後、「一年12回で聖書を読む会」をオンラインで行っています。私の著書『聖書は物語る一年12回で聖書を読む本』を用いて、聖書を読むのですが、今は二年目なので、『聖書はさらに物語る一年12回で聖書を読む本』を読んでいます。先週はヨハネ3章から、ニコデモのところを読みました。「新しく生まれるということはどういうことですか?」とうめくニコデモに、主イエスは不思議な答をしました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネの福音書3:8)と。

私たちがほほで風を感じるとき、私たちに知ることができるのは、風が吹いていることだけです。風がどこで発生し、どこに向かうのかは、わかりません。けれども、確かに風は私たちに届いたのです。イエス・キリストが「新しく生まれさせる神」だということは、私たちにはなぜそうなのかは、よくわかりません。理屈はわからないけれども、でも、主イエスが私たちに届くとき、いのちが始まる。始まったいのちが成長する。そうお話ししました。そして、「このことがおわかりでしょうか?」とお訊ねしました。これは、そもそも無理な質問だと思います。ことばで言い表すことのできないことを語っておいて、「わかったかどうか、ことばで答えてください」というのですから。けれども、受講しておられた方はたいへん賢明な答をしてくださいました。「ことばを超えた大きな神の愛を思っています」と、そういう意味のことを言われたのです。いちぱん大切なことを受け取ってくださったなあ、と私はうれしく思いました。今日の箇所でいうならば、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」という、主イエスの激しい愛が差し出されていることに気づいておられるのだな、と思ったのです。

私たちはきちんと言葉で説明できないもの、数学の数式のようにきちんと書きあらわせないものを、あやふやなもののように思ってしまう傾向があるようです。だから神さまがいるなら証明してほしい、とそんなことを考えます。けれども、神さまは数式よりもはるかにすばらしいお方。はるかに力強いお方です。私たちを新しく生まれさせ、私たちの新しいいのちを成長させ、ご自分が愛するように、私たちをも愛する者としてくださいます。主イエスの肉と血を食する者、主イエスをまるまま、理解できるところも理解できないところも、まるまま食し、受け取る者は、そんなはるかな力強さの中を歩んでいくのです。

【愛は論理を超えて】

なぜなら、愛は説明できないから。愛が論理的でない、というのではありません。愛は、私たちの論理より大きく、私たちの論理を超えているのです。私たちを赦し、癒し、立ち上がらせる。そんな愛が私たちに注がれています。それが自分を与える神の愛。今、ここで、私たちに注がれている愛です。

旧約聖書は「動物の血を飲んではならない」と教えています。血はいのちであって、いのちは神にお返ししなければならないという教えです。主イエスはこの教えをじゅうぶんにご存じのうえで、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」と命じました。旧約聖書をくつがえして、神ご自身のいのちを与えてくださったのです。それは、実は旧約聖書の目指すゴールを達成するためでした。神と人がともに生きること。そのゴールは、このように私たちに成就しています。


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2022/11/12

主日礼拝メッセージ 2022/11/13 「永遠のいのちの神」ヨハネの福音書6章41-51節 大頭眞一牧師


永遠のいのちをめぐって主イエスとユダヤ人たちとの問答が続いています。ヨハネがこれらのことを記しているのは、読む私たちが永遠のいのちを生きるため。私たちは今日も主イエスのお言葉を聴きます。永遠のいのちを生き生きといきるために。

【ナザレのただ人】

イエスは「わたしは天から下って来たパンです」(41)と言いました。自分は神から遣わされた子なる神であるという宣言です。けれども人びとは文句を言い始めます。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(42)と。それはイエスがただの人であったから。人びとと、そして私たちと何もかわるところがないただの人だったからです。主イエスは私たちと同じように飢えや病に苦しみ、涙を流し、ほかの人の助けを必要としました。そんな主イエスを神だと、人びとが信じることができなかったはむしろ当然です。私たちのまわりのまだ信仰を持っていない人は、「イエス・キリストは立派な人だ。イエスにならって生きなさい」という教えだったら受け入れやすいのに、と言います。けれども聖書は妥協しません。イエスは十字架に架かった神。いかに信じることが難しくても、その信仰告白を要求するのです。

【引き寄せる神】

人はどうしたら「イエスが十字架に架けられた神」だと告白することができるでしょうか。人間にはできません。私たちは信じようと努力しても信じることはできないのです。けれども、聖書は記します。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(44a)と。ですから「父が引き寄せて」くださるなら私たちは信じることができるのです。先週は、ひとりの兄弟が病床洗礼を受けました。はっきりと「イエスが十字架に架けられた神」であることを告白したのです。それは「父が引き寄せて」くださったから。私たちも「父が引き寄せて」くださったひとりひとりであることを思い起こしましょう。

【だれでもこのパンを食べるなら】

今日は信愛の方がたと聖餐に与ります。先週は明野キリスト教会の方がたと。しかし、明野の方がたは、今日は聖餐に与かっていない、ただ見ているだけ、というのではありません。たしかに明野方がたの前には、目に見えるパンやぶどう汁はありません。けれども、明野の方がたもいわば「霊的な」聖餐に与るのです。それは、明野で聖餐をするときの信愛の方がたにとっても同じです。

聖餐に与るとは、どういうことなのか。先週も申し上げました。パンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまいます。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしが支払ったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

先週は求道中のもうひとりの方とお話しすることがありました。その方は自分には罪があると言います。自分には、愛に欠ける言葉と、思いと、行いがあると。けれども「そんな私の罪を、きよいイエスに負わせることは申し訳なくてできません」そう言うのです。私はその方の誠実さに感銘を受けました。けれどもやはり思うのです。主イエスに負わせることなどできない私たちの罪。だからこそイエスが負ってくださった。私たちには、そして、ほかのだれにも決して負うことができない罪だからこそ。そのために主イエスは天からのパンとして来てくださり、ご自分を差し出してくださっています、今。私たちが、永遠のいのちにあずかり、そのいのちを生きるために。

ごいっしょに聖餐にあずかります。


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2022/11/05

主日礼拝メッセージ 2022/11/06 「みもとに招く神」ヨハネの福音書6章32-40節 大頭眞一牧師


先週に続いて、主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日のできごとです。人びとは主イエスからパンをもらいたいと願って、主イエスを追ってきました。イエスが与えるパンが、目に見えるパンではなくて、イエスご自身であることが、なかなか分からない人びと。けれども、イエスは忍耐強く語り続けます。愛ゆえに、あわれみゆえに、人びとを、私たちをそのままにしておくことができなくて。

【いのちのパンを食べるために】

主イエスといういのちのパンを食べるとは、どういうことであるのか。35節にそれが記されています。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」つまり、イエスを信じること。イエスが神から遣わされ、十字架で死んで復活した神であることを信じることなのです。

【選びか自由意志か】

人はどのようにして信じるのか。片方には、「人間には信じることができない。信じることができるとするなら、それは神に選ばれているからだ」と考える人びとがいます。これが予定論。今日の聖書で言えば、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。」(37a)はそのように解釈することもできます。

もう一方にあるのは、自由意志論。「神さまが、恵みによって、私たちがいのちを選ぶことができるようにしてくださっている」と考える人びとです。今日の聖書なら「しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。」(36)がこれに当たるでしょう。

予定論か自由意志論か。これは古代から教会を二分してきた議論でした。けれども聖書を神の愛の物語として読むならそこに見えてくるものがあります。罪を犯したくないと思いながらも、犯してしまう私たち。そんな私たちを「信じなさい」と招き続け、信仰を贈り、信じた私たちを「あなたは選ばれている」と抱きしめてくださる神さまの姿です。「そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(37b)とあるとおりです。ある牧師はこう言いました。「救いの門の外側には『信じなさい』と書いてある。ところが門をくぐって振り返ると『あなたは選ばれている』と書いてあるのです」と。今、こうして礼拝に集う私たちは選ばれているのです。主イエスは決して、私たちを手放すことはなさいません。

【食べられるパン】

けれども忘れてはならないことがあります。それはパンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまうということです。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。今日は聖餐。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしがしはらったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

【天国ではなく復活】

「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(39-40)とあります。「終わりの日のよみがえり」が永遠のいのちだと強調されています。私たちは死んで、この地上とは関係のない天国に、たましいだけでいくのではありません。そうではなくて、この地上、終わりの日に回復された地上に復活するのです。肉体をもって。

いつもいつも申し上げることです。人は生きたように死に、死んだように復活します。神さまに招かれ、信仰を贈られ、「あなたは選ばれている」と抱きしめられている私たちは、安心して神さまとともに冒険しています。世界の回復のために。そんな私たちは神さまの胸の中に倒れこんで死に、神さまの胸の中でよみがえります。そして、今しているように、神さまと仲間を愛する愛に生き続けます。さあ、仲間とともに主の食卓につきましょう。


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2022/10/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/30 「いのちのパンである神」ヨハネの福音書6章22-31節 大頭眞一牧師



主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日。人びとは主イエスを追って、舟で湖を渡りました。それは主イエスからパンをもらいたかったから。それも一回や二回ではありません。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(31)とあります。出エジプトの後、神さまは荒野で40年間、毎日マナを与えてくださいました。人びとは「そのように自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と、そう願ったのでした。

【いのちのパンである神】


主イエスの答えは「ノー」でした。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)と言ったのです。「永遠のいのちに至る食べ物」とはイエス。小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありました。ご自分を与え、しかも十字架の上で与えてくださった神が、「さあ、わたしのいのちを受け取れ」と招いてくださったのです。

こうして礼拝に集っておられるみなさんは、「永遠のいのちに至る食べ物」であるイエスを受け取った方がたです。イエスといういのちのパンを食べたのです。そんなたがいを喜びたいと思います。私たちに食べられるために、喜んでご自分を与えてくださったイエスを想いながら。

【奇跡ではなくしるしを】


ヨハネは七つの「しるし」を記していると前にも申し上げました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26c)とあります。人びとが見たのは、イエスがたくさんの人びとにパンを食べさせる奇跡。けれどもイエスは、人びとが奇跡は見たが「しるし」は見ていないというのです。「奇跡」とは、常識では起こると考えられない不思議な出来事。けれども「しるし」はちがいます。ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、主イエスが「神が遣わした者」(29b)、神から遣わされ、十字架に架かって、復活した神であるという信仰をもたらすもの。「奇跡」は、ご自分を与える神の愛の光で見るときに「しるし」となるのです。

【律法ではなくいのちを】


イエスが永遠のいのちを語られたとき、人びとは「「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」28bと訊ねました。当時の多くの人びとは律法を誤解していました。律法を守れば救われ、破れば罰せられる。そういうふうに考えていたのです。けれども実際は、律法はそうではありません。まず出エジプト、そして律法。律法を知らないで、救い出されたイスラエル。そのイスラエルに神さまが「わたしといっしょに歩こう。わたしといっしょに愛し合おう。その歩きかた、愛し合いかたを、教えてあげよう」と、与えてくださったのでした。

それがわからない人びとが「何をすべきでしょうか。」28bと訊ねたのは当然でした。何かをすることによって神の承認を得ようとするのです。それは私たちも同じです。どこかで「自分はもっと何かをすべきではないのか」と自分を責める思いが起こってきます。とくに失望の朝、落胆の夜には。

ところがそこへイエスの声が響きます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)と。「信じること」については、いつもお語りしている通りです。私たちは自分で信じようとしても、信じることはできません。信仰そのものが神さまからの贈り物なのです。ですから、ここで主イエスは「今、あなたがたに信仰を贈る。それはもうあなたがたの中に起こっている。わたしを飲み、わたしを食べよ。わたしはあなたがたにいのちを与える食べ物である。」言ったのでした。

【アスランのくだされた冒険に】


荒野の毎日のマナのように、「自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と願った人びと。私たちも同じように祈ります。健康のため、生活のため、安全のために。けれどもイエスは、それらのことを思いわずらうな、と教えられました。それは、私たちの安心など、どうでもよいからではありません。イエスが差し出されているのは、もっと大きな安心。嵐のない安心ではなく、嵐のなかでもなくならない安心。死の向こう側でもなくならない安心です。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)はたいせつです。イエスが信仰を与えるとき、それは私たちの内側の心の動きにとどまりません。あふれる愛が私たちを行動へと押し出すのです。愛の冒険へと。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。

冒険というとなにか恐ろしいことのように思うかもしれません。けれどもそれは、自分が置かれた場所でていねいに生きる、ただそのことです。先週は明野に外国から方がたが出席されました。私は信愛での説教でしたのでお会いしていないのですが、明野の方がたが、とても暖かく歓迎してくださいました。世界につながる小さな冒険が始まったのです。イエスの招きによって。それぞれの場所で。

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2022/10/22

主日礼拝メッセージ 2022/10/23 「わたしだと言う神」ヨハネの福音書6章16-21節 大頭眞一師


今日は主イエスの五つめのしるし、湖の上を歩いた主イエスの奇蹟です。4月から信愛と明野の合同礼拝が始まり、ヨハネの福音書の最初から読んだために、明野の方がたは、去年読んだのと同じ個所を二度聴くことになりました。それも先週で終わり、きょうの箇所から、明野の方がたもはじめての箇所となります。お待たせしました。

【来ておられなかったイエス】


「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」(16-17)とあります。ほかの福音書は、イエスが強いてそうだせた、と記していますが、ヨハネは理由をなにも記しません。ヨハネがこの福音書を書いた紀元1世紀末は、教会が迫害の中にありました。教会に連なる人びとは「主イエスは自分たちと共におられないのではないだろうか。自分たちはイエスなしで教会という舟で航海しているのではないか」と思ったことでしょう。そんな教会の姿が、弟子たちに重ねられているのです。

明野は最近大きな痛みを経験しました。私たちの愛する友である兄弟を失った。あまりの不条理に言葉がありません。ご高齢の方がたが「私たちがいくらでも代わってあげるのに」と話しているのを聞いて、私の心はずきずきと痛みました。私たちの人生の旅には「強風が吹いて湖は荒れ始めた。」(18)というときがある。そんなときにしばしば私たちはイエスが共におられないのではないかと思うのです。

【湖の上を歩いて来られるイエス】


「そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」(19)はおよそ5キロ。浅瀬を歩いて来るならまだしも、沖合5キロの深い水の上を歩くことは考えられないことです。しかしイエスは来られた。5キロの水も主イエスを妨げることができなかった。主イエスの弟子たちへの思いが5キロの水よりまさったからです。主イエスが来てくださった。主イエスは来ることを望んでくださったのでした。

私たちの兄弟にはお孫さんたちがいます。こういう場合に幼い人びとになんと話したらよいのか、と私たちは思います。いや、私たち自身が、どう受け止めたらいいのか聞きたいのです。そんなことを思ううちにふと浮かんだことがある。それは「神が」兄弟を休ませた。もう、よくやった、と休ませた、いうこと。私たちには、そんなことを言われても納得などいくはずもないのだけれども、けれども、主語は神さま。神が兄弟を小学生のころに招き、神が生涯の使命を与え、神が伴侶を、子どもたちを、孫たちを与え、神が明野に導いた。その生涯を貫いたのは「神」という主語。愛に満ちた「神」という主語。兄弟も「神」という主語を受け入れた。神を主語として生きた。兄弟の生涯にもさまざまな嵐があっただろう。けれどもどの一つの嵐も神がおられない嵐はなかった。神はいつもそこに来られていた。兄弟の生涯の最後の嵐の中でももちろん。

【わたしだ】


湖の上を歩くイエスを恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(20)と声が響きます。「わたしだ」はギリシア語で「エゴーエイミー」有名な言葉です。主イエスがこの言葉を使われるときには出エジプト記を思い浮かべておられました。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(3:13-14b)

「わたしはある」英語で言えば「アイアム」、ギリシア語では「エゴーエイミー」。神がご自分で名乗られた名前が出エジプト記の「わたしである」であり、ヨハネの「わたしだ」です。けれども神は、ただ置き物のように「ある」のではありません。出エジプトではイスラエルの苦しみを黙って見ていることができないで、身をかがめるようにしてモーセに現れてくださった神。嵐の中の弟子たちに、5キロの水を乗り越えて来てくださった神、迫害下のヨハネの教会にも「わたしだ」と言って励ましてくださった、愛ゆえに行動する神。それが「わたしだ」と言う神なのです。

【イエスを迎え入れようと】


「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」(21)は、協会共同訳のほうがよいでしょう。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21)つまり、弟子たちがしたことは何もないのです。ただイエスを迎え入れようとした。迎え入れたのでもない、ただ迎え入れようとした。嵐の中にうずくまるときの私たちにできることはほとんどありません。強い信仰を持てと言われても無理です。ただ、そんな私たちでも「わたしだ」と言う声のするほうに、わずかに顔を向けようとすることはできるかもしれません。それは、ほんのわずかなこころの動きにすぎません。でも、それでよいのです。それでじゅうぶんなのです。

「すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21b)とあります。ヨハネは強風がおさまったとは記しません。ヨハネの生きている間に、教会への迫害がおさまることもありませんでした。けれども、主語である神さまは、愛ゆえに、目指すところを成し遂げられるのです。私たちの生も死もそのために用いてくださるのです。そのなさり方は、私たちの理解も想像も超えていますから、それを理解しようとはしないでください。私たちにはわからないのですから。それでも光の方角にわずかに顔を向けようとするとき、それが単に今までの習慣から、無意識に祈りや賛美を口ずさむことであったとしても、愛なる神さまがその先を引き取ってくださいます。いえ、もうそしてくださっています。

ワーシップ「アブラハムと神さまと星空と」Bless (詞:大頭眞一牧師)




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2022/10/16

主日礼拝メッセージ 2022/10/16 「豊かに与える神」ヨハネの福音書6章1-15節 大頭眞一師

  (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日は主イエスの四つめのしるし。五つのパンと二匹の魚の奇蹟です。今までもヨハネの福音書の二階建て構造について語ってきましたが、ここ にもそれが鮮やかです。一階では、パンや魚によって人びとは満腹になります。けれども、主イエスの願いは二階にあります。ひとびとがいのちのパンに与って、新しいいのちに生きることなのです。

【しるしを見たから】


5章の舞台はエルサレムでしたが、6章は再びガリラヤ湖。「大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。 」 (2)のとおり、群衆は新しいいのちを求めたわけではありません。 病人たちのいやしを見て、それに引きつけられたのです。主イエスの与えるいのちには関心が向いていないのです。

けれどもそれは弟子たちも同じでした。 主イエスはピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 (5)と言います。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 」 (6)とあります。 主イエスの願いは、人びとに新しいいのちを与えることです。病のいやしは、新しいいのちのしるしであって、 ほんとうに与えたいのは、新しいいのちなのです。主イエスは弟子たちにも、このことを知って欲しいのです。だからあえて「どこから買って来るか」と試されました。ここで思い出すのは、スカルの井戸のできごとです。弟子たち がイエスに「先生、食事をしてください」(31)と勧めたとき、 イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 (32)と言いました。 もしピリポがこのときのことを覚えていたら、「主イエスよ、新しいいのちにいたるパンはあなたがお持ちです。あなたがいのちのパンです」と答えることができたでしょう。けれども、ピリポは食べるパンのことしか考えることができませんでした。主イエスのテストに不合格だったのです。

その点ではアンデレも同じでした。主イエスがいのちのパンであることを忘れて「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」 (9)と言ったのです。空腹を満たす食物のことしか考えられなかったのでした。

【五つのパンと二匹の魚】


けれども 、主イエスはしんぼうづよい愛のお方です。 ピリポやアンデレを失格だ、と斥けることはしません。 差し出されたパンと魚を用いて、弟子たちと群衆にいのちを与えようとなさいました。二階建てと 言うならば、一階では五千人の満腹というできごとが起こっています。けれども二階では、主イエスの与える新しいいのちが差し出されているのです。

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。(11)はたいせつです。この「感謝の祈り」は過越の祭りでささげられる祈り。出エジプトで、神さまはエジプトの奴隷であったイスラエルを救い出しました。エジプトじゅうの長子が殺されたとき、過越の小羊の血によって、イスラエルだけが救われたのです。こうして解き放たれたイスラエルがその恵みを記念するための、過越の祭り。その祭りの感謝の祈りを、主イエスはささげました。それはご自分が過越の小羊として十字架に架けられること。それによってすべての人が罪と死から、永遠のいのち へと解き放たれることを知っておられたからでした。ですから、主イエスが配られたパンと魚はただ空腹を満たす食物というのではありません。 新しいいのちを与えるためのいのちのパンです。そしてそれは主イエスの十字架の血と肉を表しているのです。

【十字架の王】


「人々はイエスがなさったしるしを見て、 『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』 と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 」 (14-15)。人びとは主イエスを王にしようとします。けれども主イエスはそれに応じませんでした。 食物で満腹することだけを求める群衆の言いなりにはならなかったのです。それは、彼らが求めることさえしない新しいいのちを与えるため。そのためにご自分を十字架に与えるため。そのお姿は外見では王には見えません。けれども、その愛はまぎれもなくまことの王である神の愛でした。そんな十字架の王を見上げつつ、私たちは聖餐に与ります。 先に召された者たちとともに、やがて主の食卓に連なる日を思いながら 。

2022/10/07

主日礼拝メッセージ 2022/10/09 「愛を求める神」ヨハネの福音書5章41-47節 大頭眞一師

 (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人の、ベテスダの池でのいやしとその後のできごとの最終回です。実は、今日の箇所は牧師泣かせの箇所。語られていることが抽象的で、しかも謎めいているので、つい説明するようなメッセージになりやすいからです。そうならないで、福音の宣言を鳴り響かせたいと思います。語られていることは5章全体を貫く「主イエスとはだれか。神である」です。

【人からの栄誉】


主イエスはご自分を受け入れないユダヤ人たちを惜しまれます。そして彼らに忍耐づよく語り続けます。「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」(43a)と嘆き、「もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」(43b)と指摘します。「その人自身の名で」とは、「自他ともに認める人間的な評価で」ということでしょう。ですから、「あなたがたは、多くの人が『これはよい、すばらしい』と言えば、それを受け入れる」という意味。人間がどう評価しているのかが、判断の基準なのです。だからユダヤ人たちは、主イエスが神であることを否みました。

このユダヤ人たちは、律法を厳格に守るならば『これはよい、すばらしい』と言って、たがいに受け入れ合いました。「互いの間では栄誉を受け」(44)がそれです。律法を厳格に守っているおたがいを『これはよい、すばらしい』と称賛し、栄誉を与え合うのです。こうしてとても人間的なつながりが、できていきます。すると今度は、自分たちの基準に当てはまらない人を排除するようになります。「唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(44)とあります。ユダヤ人たちは。神からの栄誉、すなわち神が『これはよい、すばらしい』とおっしゃることから外れてしまっているのです。彼らの交わりもほんとうの愛の交わりではなく、基準に当てはまらない人を排除し、仲間うちでもどこかでたがいに競い合う、いつわりの交わりになってしまっているのです。

【神への愛】


だから主イエスは語ります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」(42)と。問題はやはり愛です。人からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神への愛に生きるのではなく、人とのいつわりの交わりに生きることになります。けれども、神からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神とのほんとうの愛の交わりに生きるのです。

【主イエスの愛】


では、私たちはどうしたら神とのほんとうの愛の交わりに生きることができるのでしょうか。私たちはすでにその答を知っています。答は主イエス。「わたしは人からの栄誉は受けません。」(41)とおっしゃる主イエスが答です。主は人からの『これはよい、すばらしい』を求めませんでした。主が求めたのは父からの『これはよい、すばらしい』でした。父との愛の交わりに生き、父への愛を貫き、十字架の死にいたりました。そして私たちにその愛を注いでくださったのでした。主イエスの愛を受取った者たちがここにいます。それが私たちです。

【訴えるモーセ】


ユダヤ人たちは熱心でした。けれどもその熱心は、彼らをほんとうの神との交わりには導きませんでした。彼らはモーセの律法を聖書の大きな物語からとらえるのに失敗しました。十誡を誤解して、守れば神の好意を得、破れば神のさばきを受ける戒律としてとらえてしまったのでした。

けれども聖書は神の愛の物語。愛ゆえに世界を造り、愛ゆえに人の罪を何度でも赦す神。そんな神が与えたモーセの十誡は、私たちをどこまでも愛する神の、ご自分とともに歩く歩き方の教え。いつも申し上げる通り、まず出エジプト、そしてシナイなのです。私たちがなにかをしたから救われたのではないのです。「信じたら救われる」と言いますが、信仰さえも神さまからの贈り物なのですから。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。」(45)とあります。神の愛の大きな物語の中で、神の与えるほんとうの愛の交わりに生きようとしないならば、それはモーセが語ることを否むことになります。そしてモーセの語る大きな物語の極みは主イエスの十字架と復活です。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。」(46)とあるとおりです。

今日から京都聖会が始まります。三回にわたってお語りしますが、つまるところは、神に愛されている私たちが、その愛を生きることができるように回復されること。そしてその回復が世界に及んでいくことです。神さまと共に、世界の破れの回復のために働くことができる、そのようないのちに生きている不思議を喜びつつ。

ワーシップ(賛美) 「花も」 Bless





2022/09/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/02 「聖書が証しする神」ヨハネの福音書5章31-40節 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人を、べテスダの池で、いやした主イエス。先週の箇所に続いて、敵意をもったユダヤ人たちに、真正面から向き合い、語り続けられます。問題になっているのは、イエスが「ご自分を神と等しくされた」(18)、すなわはち、ご自分は神だと宣言されたことでした。主イエスはこのことの、四つの証しを語ります。「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。」(32)と新改訳2017では「方」という敬語が使われていますが、これは訳しすぎでしょう。「ほかにも証人がいる」というのが原文です。

【第一の証しバプテスマのヨハネ】


「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」(33)とあります。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と証ししました。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」(34)とあるように、ヨハネの証しだけで、主イエスが神であることが十分にわかるわけではありません。実際にヨハネは殺されてしまいました。それでも、主イエスはその証しを意味あるものと認めてくださいました。私たちの証しもそのように見てくださっています。

【第二の証し主イエスのしるし】


「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」(36)が、第二の証し。主イエスの奇蹟、ヨハネの福音書では「しるし」と呼ばれているわざです。ここまで見てきた「カナのぶどう酒」「カナでの王室の役人の息子のいやし」「べテスダの池の三十八年も病気にかかっていた人のいやし」がそれです。これらはただ目に見えて起こったことだけではなく、神が私たちに愛を注ぎ、永遠のいのちを与えてくださる、それも今、与えてくださっていることを表わすものでした。それこそ神でなければなし得ないことでした。

【第三の証し父なる神の証し】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」(37a)とあります。ヨハネの福音書は全体として、父が主イエスを復活させ、死の力を打ち破ったこと、それによって私たちの罪を贖って、救いをなしとげてくださったことを証ししています。この5章ではまだ復活は描かれていませんが、ヨハネが「父ご自身の証し」と語るとき、それは主イエスの復活を意味していたと考えられるのです。その復活のいのちは、すでに私たちのうちに始まっています。

【第四の証し聖書】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。」(37-38)は、ユダヤ人たちに向けられた言葉です。けれども、ひょっとしたら私たちの中に、「自分も父なる神さまの御声を聞いたことも、見たこともない。みことばをあまり読んでいないし、読んでも自分のうちにとどめていない。自分はだめなのかな」と思ってしまう方がおられるかもしれません。

しかし、それはとんでもないことです。そんな私たちのために聖書は証しします。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(39)とあります。ここでいう聖書は旧約聖書。旧約聖書には、神が愛するために世界と私たちを造り、人が神に背を向けても何度でも何度でも何度でも赦して愛を語り続け、やがて傷つけられながらも世界を贖っていやす不思議な救い主を送ってくださると預言しています。この大きな物語については教区で鎌野直人校長をお招きした「聖書を読もう!」の動画をぜひご覧ください。

そして私たちはさらに、旧約聖書の続編である新約聖書を手にしています。そこには神である主イエスの、十字架と復活による預言の成就が鮮やかです。どうか「自分はだめだなあ」などと思わないでください。こうして礼拝に集い、あるいは後から動画や録音で視聴するみなさんは、聖書をとおして父の御声を聞き、御姿を見ているのです。「今日は、あるいは、今日も、集中できないな」と感じたとしても心配はいりません。みことばを私たちのうちにとどめるのは神。神が、どうしても私たちのうちににみことばをとどめ、私たちを愛の交わりのうちにとどめたいと願って、そのようにしてくださるのです。

【そして第五の、私たちの証し】


四つの証しは、主イエスが神であることの証しですが、それはまた私たちにいのちが与えられていることの証しでもあります。そんな私たちは世界に対して、主イエスが神であることを証しします。神との、仲間とのいのちと愛の交わりにいることを喜びながら。これが第五の証しです。

この証しを胸に私たちは生きます。今日を。昨日を生きようとしないでください。私たちの過去は主イエスによって贖われています。明日を生きようとしないでください。私たちの未来は主の手にあります。今日、心を尽くして、力の限り主イエスのいのちを生きるのです。Alivetoday!


2022/09/23

主日礼拝メッセージ 2022/09/25 「父なる神の子なる神」ヨハネの福音書5章19-30節

  • タイトル: 父なる神の子なる神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章19-30節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。けれども、そのことをきっかけにユダヤ人たちとは主イエスを迫害し殺意を抱きました。その彼らに対して、主イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(19b)という言葉を持って答え始められました。「まことに」を2回繰り返すことによって「今、わたしはほんとうに真剣に語られるべき、そして真剣に受け取られるべき真理を告げる」との思いを表されたのでした。批判する者たちに真正面から向き合われたのです。

【父と子のこころ】


神とはいかなるお方であるのか。その外見や能力などは私たちにはとらえることができません。けれどもそんな私たちにもとらえ得るものがあります。それは、神がいちばんたいせつにしていることは何か、ということ。神のいちばんの関心事はなにか、神のこころの深いところに何があるのか、ということです。

新改訳聖書2017の新しい点のひとつはローマ書3章の22節に脚注が加えられたことです。本文は「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」となっていますが、脚注は「すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と下線部が異なる訳になっています。これによるなら、人が救われるのは「イエス・キリストの真実」によります。今日の聖書の個所はこのことをよく表していると思います。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(19c,d)。主イエスは父が行うとおりに行う。父が行うとおりとは、この世界を、そして私たちを愛すること。主イエスは父のこころに真実です。父が私たちを愛するとおり、私たちを愛する。十字架にいたるまで私たちを愛しぬく。これが主イエスの真実です。

「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(20b)ともあります。この驚くべき大きなわざとは「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(21)このことです。主イエスは復活し、そしてその復活のいのちが私たちにも与えられる、これがより大きな驚きのわざです。こうして主イエスの真実が私たちを救います。それが父と子のこころです。神のいちばんの関心事、神のこころのいちばん深いとことにある願いなのです。

【さばきは子に】


そんな主イエスは、ご自分に敵意を抱くユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(24a、25a)をとさらに二度繰り返します。そして「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(25)と宣言するのです。ここでの死人とは神に背を向け、いのちに背を向けている人のことでしょう。ユダヤ人たちは律法には熱心ですが、いのちの源である主イエスを憎んでいるのですから、いのちにつながっていません。死人なのです。そんな彼らに主イエスはしんぼう強く語り続けます。招き続けるのです。

「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」(23)も招きです。子を敬うというのは、はいつくばっておじぎをすることではありません。主イエスを喜び、その愛を受け入れ、父と子の愛の交わりに加わることです。もし、それをあくまで拒み続け、いのちの源に背を向け続けるなら、さばきがあります。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(29)がそれです。けれどもこれは、脅かして、恐れの奴隷にして、信じさせようというのではありません。その日が来るまでに、主イエスを受け入れよ、との招き。そうでなければ、自分でさばきを選び取ることになってしまうという主イエスの嘆きなのです。

【世界の破れをつくろうために】


エリザベス2世が召されました。私はニュースで報じられていることしか分かりませんが、平和や人権のためにいろいろと動いた方のようです。有名なのはアパルトヘイトの南アフリカでマンデラ氏の解放のために尽力したことでしょう。

葬儀での讃美歌や聖書箇所にはご本人の希望がはいっているということで、その信仰をうかがうことができるようでした。読まれた聖書は、まずⅠコリント15章20-26節、53節。キリストの復活が初穂であり、私たちは死に勝利したものとして終わりに日に新しいからだでよみがえると約束されている箇所。

その後、詩篇42篇1-7節のことばが聖歌隊によって歌われました。「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか、私のうちで思い乱れているのか…」という有名なところ。

そして、先日就任したばかりのリズ・トラス首相が、ヨハネによる福音書14章1-9aを美しい声で朗読しました、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(6-7)です。

続くカンタベリー大司教による説教は、20分ほど。その中心は、女王の生き方は、「国に仕える者としての生き方であった」、そしてそれは「人々に仕えることにおけるリーダシップ」であった、と。特に印象的だったのは、「どのように生きるか」というよりも、「どなたに仕えていたか」という視点の大切さです。女王は、終生キリストに仕えるとともに国民に仕えて来たというのです。

さきほど「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(24)と聞きました。すでにいのちに移った私たちはさばきを恐れて生きるのではありません。天国へ行くことが目的ではないのです。そうではなくて、キリストのいのちを生きる私たちのこころは、世界の破れを見るときに、神のこころと共振します。世界を惜しみ、痛みを感じる父と子とともに、私たちのこころもわななきます。それが主のいのちに生きていることの証しでもあります。女王もまたそのように世界の破れをつくろうために自分を献げた人ではなかったかと思うのです。

もうひとつ。女王が召されたことが報じられた後、バッキンガム宮殿に美しい虹が見られたとのことです。友人の牧師が、聖書に親しんで英国人の感じ方を教えてくれました。それは「女王の死を悲しむように、雨が降っている。でも、神はそこに美しい虹を見せてくださった。それは神がこの世界を守っているという契約のしるしだ。神は英国と英連邦王国の王政を引き続き祝福してくださると約束してくださっているかのようだ…」と。もちろん、神の祝福の約束は英国と英連邦王国だけのものではありません。キリストのいのちを生きるすべてのキリスト者、その中には私たちもいます、を通して世界に注がれています。


2022/09/17

主日礼拝メッセージ 2022/09/18 「父の子である神」ヨハネの福音書5章9b-18節

  • タイトル: 父の子である神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章9b-18節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった」(9b)ので、「ユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った」(10)のでした。

【ほんとうの安息日】


ユダヤ人たちの言葉は十誡の第四誡に基づいています。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:9-10)を根拠に、このユダヤ人たちが癒された病人をとがめたのでした。この人が癒されたことを祝うのであればともかく、おそらくはゴザのような敷物を持っていただけなのに、それを責めるのは、理不尽で冷酷非情です。滑稽とも言えます。

本来、律法は神の恵みによって救い出された民が、神と共に歩くための歩き方の教えです。いつも申し上げるように、まず出エジプトそしてシナイ山です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、二度と奴隷のくびきにつながれることがないために、神さまを喜び、神さまと共に歩く歩き方を教えられたのです。ですから、病気であった人が癒され、床を取り上げて、家族や仲間のところに帰って行くことは安息日にふさわしいことです。ところがこのユダヤ人たちは、恐れの奴隷となっていました。十誡を破る、あるいは少しでも疑わしい行為をするなら、神の怒りをかうのではないか、と恐れていたのです。これは不幸なことでした。神さまというお方がいかなるお方であるのかを見失ってしまったのです。世界のすべての人に神さまを紹介する使命を与えられたイスラエルにとって、これは致命的な逸脱でした。

同じようなことは私たちにも起こります。たとえば、礼拝出席。もし私たちが礼拝に出席しなければ神さまに罰せられる、と恐れるならば、そこには喜びはありません。けれども礼拝は解放のときです。神さまが私たちを礼拝の中で解き放ってくださる。神とのわだかまり、人とのわだかまりを引き受けてくださって、私たちにほんとうの安息を、休みを与えてくださる。このことを知るならば、すすんで礼拝に行くでしょう。神さまに私たちのたましいを休ませていただけるのですから。

【見つけてくださるイエス】


この癒された人は群衆に取り囲まれたようです。「しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。」(13)。囲まれている間に主イエスは立ち去られました。けれどもそれは、病が癒されればそれでよい、と思われたからではありません。主イエスはこの人のたましいをも癒し、安息を与えたいと思っておられました。しかし奇蹟に興奮した大騒ぎの中ではじっくりと語りかけることもできませんでした。

だから後で、主イエスはこの人を見つけました。主イエスがこの人を見つけてくださったのです。救いとは何か。死んだら天国に行くことというのは、じゅうぶんではありません。救いとは、主イエスとの愛の交わりに生きること。その交わりは死を超えて、その向こう側に続くのです。主イエスはその愛の交わりの招くために、この人を見つけてくださったのでした。

「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14)は、この人の病が罪のせいだと言っているのではありません。聖書にそんな考えはありません。主イエスは「わたしとのこの愛の交わりにとどまりなさい」と励ましてくださっているのです。主イエスとの交わりに背を向けることが罪です。それはいのちの源と自分とのつながりを絶つことです。それが「もっと悪いこと」なのです。

【何度でも何度でも何度でも】


けれども「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)とあります。癒された後、この人は安息日に床を取り上げたため、ユダヤ人たちに責められました。そのとき、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」(12)と問い詰められて、答えることができませんでした。このときの恐れは、この人を覆っていたようです。だからこの人は、ユダヤ人たちに主イエスを通報しました。「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)のでした。これが主イエスへの迫害と殺意のきっかけになったのです。

その通報こそ、主イエスとその愛の交わりに背を向ける罪でした。自分のいのちの源とのつながりを絶つことでした。では彼に「もっと悪いことが」起こったのでしょうか。私はそうは思いません。主イエスはこの人のこの罪のためにも十字架に架かってくださいました。そして、そのたましいに語りかけ続けてくださったにちがいありません。何度でも何度でも何度でも。

【父の子なる神】


そもそも安息日は、天地創造で完成した世界で神が人と交わるために設けてくださいました。そうでなければ、生活の不安や自己実現に駆り立てられて、際限なく働き続けるであろう私たちの弱さをあわれんでくださったのです。いちばんたいせつなこと、神さまとの愛の交わりを第一にするようにと、特別な日を造り出してくださったのです。ですから安息日は「○○をしない日、○○をしてはならない日」ではありません。「神さまと交わる日、神さまと交わることができる日」なのです。もちろん、神さまとはいつだって交わることができます。けれども安息日は、神さまとの交わりのために世界をあげて備える日です。みんなが神さまと交わることができるように社会や仕事の機能も停止したり、制限したりして整えるのです。

だから神さまは安息日にも休んでおられるわけではありません。私たちを交わりに招いておられるのです。私たちと交わってくださっているのです。

その交わりをもたらしてくださったのは主イエス。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17)と、父と子の愛の働きに応じるようにと招いたのです。これに反発したユダヤ人たちですが、彼らが見のがさなかったたいせつなことがありました。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」(18)がそれです。

ユダヤ人たちの思いをはるかに超えて、ここにひとりの神が、ひとりであるのに父と子として(そして聖霊として)働いて、愛を注いでくださる神秘が現れていたのです。神の三重の愛がそこにあります。今このときもその三重の愛が私たちに注がれているのです。

2022/09/09

主日礼拝 2022/09/11 「起き上がらせる神」

  礼拝メッセージ「起き上がらせる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書5章1-9a節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



主イエスは再びエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りとあります。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」のどれかであったでしょう。神殿は多くの人びとでごったがえしていました。けれども神殿の北側の裏には重苦しい静けさが支配している場所がありました。裏面のエルサレムの地図を見てください。ベデスダの池がその場所です。「エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。」(2)とあります。五つの回廊を復元したのがこの絵です。長いほうの辺は二つに分かれているように見えますが、これを一つと数えると、全部で五つになるわけです。

【悲しみの池】


この池は二重の意味で悲しみの池でした。第一に「その中(五つの回廊の中)には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」(3)です。病人や障害のある人びとがそこに大勢いました。中には三十八年も病気にかかっている人もいました。かれらのため息がこもったような場所だったのです。

しかしこの池はもう一つの意味でも悲しみの池でした。池の水が動いたかのように見えると、いきなり争いが起こります。人びとは、他の人を押しのけたり、ひっぱったりして、われ先にと池に殺到するのです。新改訳聖書2017では4節が欠けていますが、これは印刷ミスではありません。欄外脚注にこうあります。「異本に3節後半、4節として次の一部または全部を加えるものもある。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのだが、水が動かされてから、最初に水に入った者が、どのような病気にかかっているものでも、癒されたからである。』」。つまり、人びとは先を争って最初に池に入ろうとしたのです。自分が癒されるために他の人びとを押しのける。そのたびにたがいの関係が傷ついていく、そういうもう一つの悲しみがこの池に凝っていたのでした。もちろんこれは迷信です。このように病や生涯、そして迷信による争いという二重の悲しみの池に主イエスが来てくださいました。

【主イエスのまなざし】


「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』」(5-6)の「見て」は「じっと見つめて、相手の状態をしっかり理解した」という意味。主イエスはこの人の三十八年間の病とそれにともなう苦しみを理解しました。「良くなりたいか。」もありきたりの質問ではありません。この人のこころを知った主イエスが、この人の本当の願い、本当のあこがれを引き出そうとしたのでした。そんな主イエスの愛のまなざしの中でこの人のこころは開かれていきます。そして「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7)と答えるのです。この人の悲しみは病もさることながら、助け手がいないことにありました。それはそうでしょう。家族や友人にしても働いて生活していかなければなりません。いつ動くかわからない水をずっと眺めているわけにはいかないのです。そんなことはわかっているのですが、それでも、押し合いながら水に入っていく人びとを見るとき、世界の破れを感じるのです。こうではない生き方、こうではない世界があるはずだというあこがれを抱くのです。

私たちも世界の破れの中に生きています。コロナや自然災害、経済的な問題など。けれども何よりも私たちを最も苦しめているのは人間関係でしょう。助け合うことができないばかりか、押しのけ合い、傷つけ合ってしまう。そこには私たちの心がけが悪いといったことをはるかに超えた、世界の破れ、社会の破れ、人間関係の破れがあります。「だれも助けてくれない。だれもほんとうにはわかってくれない」というこの病人の叫びは私たちの叫びでもあります。

【起きて歩け】


そこへ主イエスの声が響きます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8)、と。そのときこの人は立ち上がりました。主イエスはこの人に「ペテスダの池に入れてあげよう」とはおっしゃいませんでした。破れた世界のシステムのなかで、そのシステムに従って生きることを助けてあげようと言ったのではないのです。そうではなくて、「あなたはわたしのシステム、わたしのルールで歩きなさい」と言いました。「押しのけ合い、傷つけ合う生き方から、立ち上がれ。床とともにあなたの今までの生き方をたたんで、新しいいのちへと歩み出せ。」と言ったのです。

主イエスはそのために来られました。今も私たちに、この礼拝のなかで「立ち上がれ、愛の破れをつくろう者として歩き出せ」と招いてくださっています。そうさせてくださるのは、主イエスの愛とその復活のいのちです。それらはもうすでに私たちに与えられています。

2022/09/03

主日礼拝 2022/09/04 「活かす神」

 礼拝メッセージ「活かす神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章43-54節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの町の人びとと二日間を過ごし、彼らに命の水を飲ませた主イエスは、ガリラヤへと向かわれました。

【人びとの歓迎】


主イエスが故郷のカナに着かれました「それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」(44)とあります。人びとは主イエスを歓迎したのですが、その理由は彼らがエルサレムでのできごとを見ていたからでした。そのできごととは2章の「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(2:23)のことです。神殿の宮清めの後、主イエスはいくつかのしるし、つまり奇蹟をなさいました。おそらくは病気の人びとをいやされたのでしょう。

エルサレムでそんな奇蹟を見た人たちが、主イエスがスカルに滞在している間に、先にガリラヤに帰っていました。そして主イエスの癒しの奇蹟を期待して待っていたのです。「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。」(46)ともあります。ぶどう酒の奇蹟の記憶は、人びとの期待をさらに高めました。そして「さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。」(46-47)と続くのです。

【尊ばれない預言者】


ところが主イエスはこの父親に不思議なことを言います。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(48)。なんだか冷たい、突き放したようにも聞こえます。44節にも「イエスご自身、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言なさっていた。」とあります。

主イエスは人びとの心をごぞんじでした。みな、しるしや不思議なわざを期待して主イエスのところへやってきます。それを見たら信じるし、それがなされないなら主イエスに失望して去って行くのです。

【いのちを与える主イエス】


けれども、主イエスがこの世に来られたのは、私たちにいのちを与えるためです。神との愛の交わりのうちに生きるいのち、死の向こう側にまで続く永遠の愛の交わりに生きるいのちです。主イエスは、どうしてもこのいのちを与えたいのです。ですから、この父親に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と厳しく思える言葉を発せられたのでした。

しかし、この父親は、息子の癒しのことで頭がいっぱいです。永遠のいのちのことなど考えられません。いかに主イエスといえども、そんな状態の父親に永遠のいのちを与えることなど、できそうにありません。ところが、主イエスにはできました。なしとげられたのです。「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(50)。このとき、父親は「どうしてもカペナウムに来て、息子を癒やしてください」と言い張り続けることはしませんでした。そうではなくてイエスが語ったことばを信じました。しるしと不思議を見ないで、信じたのです。信じることができたのは、主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださったから。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」という主イエスの声を聞いたとき、この父親の心に、主イエスの愛が響きました。「わたしはあなたを愛する。あなたの息子も愛する。だから今、わたしの愛を受け入れなさい。わたしに愛のうちに行きなさい。そうしたら、わたしの愛を見るだろう。そして、ずっとわたしの愛のうちに生き続けなさい」と。こうして主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださいました。

私たちもしばしば主イエスとの愛の交わりを見失います。けれども心配はいりません。私たちの心を知る主イエスが、私たちのうちに信仰を造り出さしてくださいます。何度でも何度でも何度でも。

2022/08/27

主日礼拝 2022/08/28 「救い主である神」

礼拝メッセージ「救い主である神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章39-42節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの四回目、今日が締めくくりになります。このようにていねいに読んできましたのも、このサマリアの女性には主イエスの驚くべき恵みが現れているからです。その恵みはまさに今、私たちのうちに現れているものと同じです。今日はこのできごと全体の恵みを振りかえることにしましょう。湖西教会の方がたもご安心ください。

【証言する教会】


ヨハネの福音書が書かれた目的は、この福音書の最後のところに記されています。「これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:24-25)がそれです。つまり、ヨハネの福音書はイエスが行われたあがないのわざを証しする(証言する)ために書かれたのです。その証言によって世界が救われるために。この証しと同じ言葉が、サマリアの女にも使われています。「さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」(39)主イエスは、ご自分からこの女性に語りかけられました。真実に愛し合う関係をだれとも作り出すことができず、もはや自分にも他人にも絶望していたこの女性に。ところが主イエスが語りかけることによって、女はいのちの水を飲みました。主イエスを飲んだのです。そして変えられました。それまでは人目を避けて真昼に水を汲みに来ていたのに、自分から町へ行って、主イエスを証言したのです。まさにヨハネの福音書の目的はこの女性のうちに実現しました。この女性は主イエスを証言する私たち、教会の姿の先取りと見ることができるのです。人々から見下されていたこの人が、証言することばによって多くの人びとが信じたことは、大きな希望です。神さまは私たちを用いることができます。私たちがどんなに小さな、不完全な者であっても、神さまがそうなさるのです。

【いのちの喜びによって】


けれども不思議なことがあります。それはこの女が「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」(39)と言っただけで、人びとがイエスを信じたことです。私たちの経験からはあまりありそうにないことです。しかし、人びとはただことばによってのみ動かされたのではありません。彼女のことばはただ情報を伝えたのではありませんでした。そのことばにはいのちの喜びが宿っていました。彼女の様子や表情もまた主イエスが与えたいのちの喜びに満ちていたことでしょう。女の負ってきた罪と痛み、後悔と自暴自棄、それらすべてを主イエスが負ってくださいました。だから女は解放されました。その軽やかな喜びが人びとを動かしたのでした。喜びを意識して作り出すことはできません。その人の内から湧き出るものです。私たちも証しをしなければならないから、証しをするのではありません。主イエスがていねいに、忍耐強く私たちに語りかけ、私たちを解き放つとき、喜びがあふれるのです。ありのままの自分を主イエスに差し出すこと、主イエスが見てくださっているように自分を見ること、主イエスはじっくりとそんな私たちにしてくださいます。すると、証しがあふれます。

【滞在してほしいと】


女の証言によって「信じた」(39)人びとでしたが、その信仰は最初はまだ芽のようなものでした。「それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。」(40)とあります。この二日間、主イエスは彼らの信仰の芽をたいせつに育ててくださいました。いのちの水を飲んだ女を見て、主イエスのところにやってきた人びとですが、彼らに主イエスがいのちの水、ご自分を飲ませてくださったのです。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(42)は、女を軽んじている言葉ではありません。「あなたが主イエスから飲んだように、私たちも主イエスからいのちの水を飲みました。主イエスを飲みました。この方は私たちも、罪と痛み、後悔や恐れから解き放ってくださいました。このお方を共に喜ぼうではありませんか」、そう言ったのでした。主イエスに滞在して欲しい、と願うことは、主イエスとの愛の交わりに身を置くことです。その愛の交わりが彼らの信仰の芽を成長させたのでした。

【礼拝の中で】


イエスのもとに来たスカルの町の人びとは二日間主イエスとの愛の交わりに身を置きました。主イエスと語り合い、食事を共にしたのです。そうするうちに彼らは主イエスからいのちの水を飲みました。いのちの水である主イエスが、彼らのうちにいのちを作り出してくださったのです。私たちも、今、礼拝の中で、主イエスとの愛の交わりに身を置いています。こうしているうちにも信仰といのちを育てていただいているのです。主イエスはこの礼拝の中で、ご自分を差し出し、私たちにいのちを作り出してくださいます。そして愛を生き、神と共に世界の回復のために働くものとして遣わしてくださるのです。主イエスを証言させてくださるのです。


2022/08/19

主日礼拝 2022/08/21 「宣教の幻」

 (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



(本日は都合により説教要旨はありません)


2022/08/16

聖書研究祈祷会 休会のお知らせ (2022/08/17, 09/07, 10/19)

毎週水曜日19:30-21:00 に行われている 聖書研究祈祷会 ですが、以下の日程で休会を予定していますので、お知らせします。


  • 2022/08/17(水)
  • 2022/09/07(水)
  • 2022/10/19(水)


上記に関わらず、初めて聖書研究祈祷会に参加される方は、あらかじめ教会に電話 (075-461-1938) いただくのが確実です。

2022/08/13

主日礼拝 2022/08/14 「収穫の神」

  礼拝メッセージ「収穫の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章31~38節(新約P.183)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの三回目。主イエスが語りかけた女性は、真実に愛し合う関係に絶望していました。けれども主イエスは彼女に寄り添い、その心を包んで「その水を私に下さい」(15)というほどに回復を与えてくださいました。同時に彼女に、神を礼拝し、神と交わりたいという願いが起こしてくださいました。彼女はイエスという渇くことのない水を飲んだのでした。

【あなたがたが知らない食べ物】


ヨハネの福音書の2階建てについては何度かお話ししてきました。ここでも弟子たちは「先生、食事をしてください」(31)とか「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」(33)とか、目に見える食物のことを話しています。けれども主イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」(32)と、たましいに関わる言葉を語るのです。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(34)が、それです。父のみこころとわざは、すでに3章で示されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17)。世界を救うため、私たちが永遠のいのちに生き、そのいのちへと回復されていくことです。そのために神であるイエスは人となり、人として生き、十字架に架けられました。主イエスはこの父のみこころとわざによって神の子、救い主として生きました。父のみこころとわざを食物として生きたのです。

【いのちの水といのちの食べ物】


父のみこころを行い、そのわざを成し遂げることが主イエスの生きるためのいのちの食べ物でした。言い換えれば、主イエスは父との愛の絆のなかで、私たちのためにご自分を注ぎだして生きたのでした。主イエスにあって、行いと愛はひとつです。父との愛の交わりから力を得て贖いを成し遂げ、贖いを成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

主イエスは弟子たちを、そして私たちを、招きます。「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。」(38)とあります。父が御子イエスを遣わされたように、主イエスも私たちを遣わされます。私たちも、父との愛の交わりから力を得て使命を成し遂げ、使命を成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

そんな生き方を始めてくださるのは主イエスです。サマリアの女に差し出されたいのちの水、すなわちイエスご自身が、私たちに父との交わりを与え、使命を成し遂げさせるのです。「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。」(37)はたいせつです。種を蒔く人は主イエス。すでに主イエスの十字架によってすべての贖いは成し遂げられています。私たちはその収獲を刈り入れます。私たちは、主イエスの流された血、そうして注がれたあわれみの実を刈り入れるだけなのです。その刈り入れとは、私たちが今、身を置いている父との愛の交わりに人びとを招くことです。これはなにも、ちらしを配ることだけではありません。何よりも私たちが父との愛の交わりを喜んでいること。父の愛の中で、たがいの愛の交わりに癒されていることが、人びとへの招きなのです。

サマリアの女は主イエスに出会い、主イエスを受け入れました。主イエスといういのちの水を飲んだのです。そして自分の水がめを置いたまま町へ行き、人びとに主イエスを伝えました。その表情や言葉は喜びにはずんでいたことでしょう。人びともこの女性の変化を見たことでしょう。主イエスとの愛の交わりが、女性を満たしました。いのちの水が潤したのです。渇きをいやされて、女性は使命のために生き始めました。主イエスを喜ぶ愛を生き、見せ、そこへと招いたのです。使命を果たさなければならないと、自分に強いたのではありません。そうではなくて、主イエスとの愛の交わりに入れられた女性の最も自然な生き方は、主イエスの愛を喜び、見せ、招くことだったのです。

私たちも同じいのちの水を飲んでいます。これまでも飲んできましたし、今この礼拝でも飲んでいますし、これからも飲み続けます。そして父と子の愛に満たされ、喜び、見せ、招くのです。


2022/08/07

主日礼拝 2022/08/07 「まことの礼拝の神」

 礼拝メッセージ「まことの礼拝の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章16~30節(新約P.182)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今週も引き続きスカルの井戸に現れた主イエスの恵みを聴きます。主イエスは、サマリアの女にご自分から近づき、女はだんだん目が開かれて「その水を私に下さい。」というまでになりました。

【心を知る神】


けれども主イエスは「さあ、飲むがよい」ではなく、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と意外なことを訊かれました。もちろん女の答を知っておられて、のことです。女には「夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」(18)のです。これが真昼に女が、人目を避けて水を汲みに来ていた理由でした。この時代のことです。女はふしだらな人として軽蔑され、人から口もきいてもらえなかったのでしょう。

しかし主イエスはそんな女の人生のみならず、心をご存じでした。ある牧師がこの女の心をこう推測しています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」と。なかなか厳しいです。けれども、この女がボロボロになってしまったのにも原因があったはずです。その結果、いろいろな男と結婚してみるのですが「これはちがう」「これも私の求めるものではない」「この生活ではない」と、のたうちまわるようにして生きてきたのでした。愛を求めながら、愛の関係をつくりあげることができなかったのです。日常のいろいろな局面で愛を貫くことができない私たちもまた感じるところがあるのではないでしょうか。

ところが主イエスはこの女の心をご存じでした。その渇きを、傷を、痛みを、闇をご存じでした。主イエスが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、女を責めるためではありません。彼女の闇を明るみに出すことによって、渇きを、傷を、痛みをいやすためでした。彼女重荷から解放し、新しいのちを注いで、愛に生きる人にするためでした。主イエスは、そのために人となり、十字架に架けられた神だからです。主イエスは私たちもいやしてくださるのです。

【御霊と真理による礼拝】


このときの女の反応はとうとつです。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」(19)。続く「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)は、さらにとうとつに思えます。

「この山」とはゲリジム山。スカルの町はその近くにありました。二王国分裂時代、南王国ユダは、エルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人びとは、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のイスラエルの人びとが混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らは、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

女は、自分の痛みを言い当てたお方を、神からの預言者だと感じました。このとき、長い間忘れていた、心の叫びが沸き上がってきたのでしょう。「神よ、私を救ってください。私を満たし、私にほんとうの愛の関係をつくりあげてください。」不思議なことに神にはできる、と女は感じました。そして「今、神を礼拝したい。神との交わりを、今、回復したい。どのように礼拝したらいいでしょうか。」と問うたのでした。

幸いなことに、主イエスは単なる預言者ではありませんでした。神です。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(23)とあります。主イエスは「もはやユダヤ人もサマリア人も問題ではない。エルサレムもゲリジム山も。すべての人が、御子であるわたし、主イエスを通して礼拝をささげることができる、その時が来た。今、ここで神を礼拝せよ」と宣言されたのでした。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)は。私たちに新しい重荷を負わせるものではありません。まことの礼拝を成り立たせるためには、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めなければならない、ということではないのです。すでに神が御霊を送ってくださっています。真理とは主イエスです。御霊によって、主イエスとその父なる神を礼拝している私たちは、今、ここで御霊と真理による礼拝を献げているのです。この礼拝は、御霊と真理による礼拝なのです

【サマリアの女、その後】


女は水がめを放り出して町へ行きました。そして「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(29)と語りました。「私のかかえている罪の闇を、愛への渇きを、全てお見通しの方が、私に出会ってくださり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さいました。イエスがその生きた水です。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」と。

女のその後については、想像するしかありません。けれども私たちおたがいを見れば見当がつきます。女は主イエスという生ける水、いのちの水を飲み続けたことでしょう。主イエスとの交わりによって、満たされ、いやされ続けるほどに、ほかの人との愛の関係をつくり上げていったことでしょう。自分が神に愛され、赦されたゆえに、他の人びとに心を開くことで。自分が神に愛され、赦されたように、他の人を愛し、赦すことで。


2022/07/29

主日礼拝 2022/07/31 「生ける水の神」

礼拝メッセージ「生ける水の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章1~15節(新約P.181)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所はスカルの井戸でのできごと。今日から何回かにわたってここに現れた主イエスの恵みを聴きます。

【サマリアのスカル】


スカルの場所を確認しましょう。

「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」(3-4)とあります。最初の地図、主イエスはユダヤにあるエルサレムから上方(北方)のガリラヤに向かいます。その途中、通らなければならないのがサマリアです。「通らなければならない」とあるのには理由があります。「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」とあるように、両者はたがいに敵意をいだいていました。そうなったのはバビロン捕囚のときに、サマリアの人びとが異邦人との混血になったことに原因があります。次に「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。」(5)とあります。出エジプトした12部族がカナンを割り当てられたとき、ヨセフの子孫であるマナセ族とエフライム族が、ちょうどサマリアにあたる地域を割り当てられました(二番めの地図)。ユダヤ人である主イエスとサマリア人であるスカルの住民の間には、そんな民族の壁がありました。

けれども、主イエスはその壁を事もなげに乗り越えました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(9)とサマリアの女が驚くほどに。それはサマリアの女をほっておくことができなかあったから。だから主イエスはサマリアの女のそばに来て、語りかけたのでした。

主イエスはあらゆる壁を超えるお方。自由に壁や制約を超えるお方。そんな主イエスが超えたもっとも大きな壁は神と人との壁でした。だから主イエスはどこにでも来てくださいます。いえ、もう来られて、語りかけておられます。どうかすべての人が主イエスの語りかけに気づくことができるように。私たちもなおなお主イエスの語りかけを聴くことができるように、と願います。

【主イエスの逆転】


最初、主イエスは女に「わたしに水を飲ませてください」(7)と語りかけました。けれども後になると女が主イエスに「その水を私に下さい。」(15)と言います。逆転しているのです。もちろん逆転させたのは主イエス。

会話の始まりで、女は「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」(11)と言っています。主イエスの与える水をただの水だと思っていたのです。けれども女は次に「あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」(12)と口にします。自分の祖先ヤコブが井戸を与え、生きる場所を与えたことを持ち出して、主イエスと比べているのです。主イエスが与える「生ける水」(10)に関心が向き始めています。ただの水以上の、自分の生きる場所、言い換えればいのちを与えてくださるのですか、と問うのです。その後も女は「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(15)などと言っていますから、実にゆっくりとしか理解が進んでいないことがわかります。けれども、主イエスはそんな女に寄り添い、同じ歩調で歩んでくださって、ついには「その水を私に下さい。」と女が願うようにしてくださいました。

先ほどは、主イエス私たちは主イエスの語りかけを聴くことができるように、と語りました。けれども、私たちはたびたび聴くことを忘れてしまいます。多忙の中で、あるいは神さまに失望して。でもだいじょうぶです。焦らないで深呼吸することです。祈れないときでも、深呼吸して、息をつくことができる余地をつくりましょう。そうするなら主イエスが逆転を与えてくださいます。主イエスを求める思いをじっくりと育ててくださり、「その水を私に下さい」と言わせてくださるのです。


2022/07/22

主日礼拝 2022/07/24 「上から来られる神」

礼拝メッセージ「上から来られる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書3章31~36節
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書から福音を聴きます。上からすなわち天から来られたイエス・キリストこそがその福音です。

【小福音書の語り直し】
ヨハネ3章には小福音書と呼ばれる、福音の凝縮された箇所がありました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)です。今日の箇所はその語り直しとも言えます。たいせつなことだから繰り返されているのです。

「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(35,36)。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているは、わかりやすいです。私たちの現在の姿そのままです。続く、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる、の部分には、どきっとさせられます。すべえてのことにおいて、御子に聞き従っているか、と言われると目を伏せるしかない私たちだからです。愛の反対は無関心、と言います。世界の問題、日本のさまざまな問題、家族や友人のさまざまな問題。私たちはそれらにそれなりに思いをめぐらしてはいるのですけれども、やはりいつもそういうわけではない。自分のことに気をとられて、ふと気が付くと関心が薄れてしまっていることもよくあると思います。やはり、私たちは愛を貫くことができない者たちだと思わずにはおれません。

【神の怒り】
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。けれども、罪と人を分けることはできません。私の無関心は、私の生い立ち・性格・生き方と深く結びついています。「神の怒り」(35)とあります。神の怒りは私の罪だけでなく、その罪と分かちがたく結びついた私そのものに向けられる、そう認めざるを得ません。がくぜんとさせられます。

けれども、ここに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」(16)の愛が響きます。神は罪ある私たちを怒りつつも、その怒りは愛とあわれみに包まれています。私たちの無関心は神に知られています。無関心の原因は複雑で、私たちには解きほぐすことはできません。けれども神はそんな私たちを丸ごと抱きしめてくださいました。そしてその怒りは御子の上に、上から来られた神の上にくださりました。十字架の上で。どうしてだれかがだれかの罪の身代わりになることができるのか。それは私たちにはわかりません。けれどもルールを決めるのは神さまであって、私たちではありません。神さまは、ご自分に最も不利なルールを定めました。それはすべての人の罪とその罪への怒りとさばきを御子の上に置くことでした。そしてそこから私たちの新しいいのち、永遠のいのちを始めるというルールも定めてくださったのでした。

【地に属する者】
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」(31)の地から出る者とは、私たちのことです。地に属する、というのは否定的な言葉ではありません。私たちは地から出たのですが、今や永遠のいのちをいただいて、地上で主イエスを証しします。私たちの言葉は拙いのですが、私たちの上には上から来られる方、主イエスがおられます。「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」(35)のですから。私たちの証しは、ただ救いの体験を語ることだけではありません。主イエスにならって、言葉と愛によって神を指し示す証し。御霊がそうさせてくださいます。

【今、ここで】
そんな圧倒的な福音は、私たちをどんな生き方へと招いているのでしょうか。

第一に、私たちは生きることの意味を知っています。傷ついた世界に、私たちは世の光として置かれています。私たちの小さな祈りと愛のわざは世界の回復にとって必要なのです。どうか自分など価値がないなどと思わないでください。あなたは神さまの宝もの。神さまがこの世界に向けた秘密兵器なのです。

第二に、私たちに与えられている永遠のいのちはすでに私たちを造り変えつつあります。だから愛が不完全であることをいたずらに嘆くことはありません。私たちの愛の不完全を、無関心を、みことばと聖霊によって、じっくりと解きほぐしていただきましょう。礼拝や祈祷会、聖書通読はその助けになります。

第三に、神さまは私たちに共に歩む仲間を与えてくださいます。ひとつの教会だけではなかなか難しいものですから、教団や教区でさまざまな企画がなされています。心を開いて、いや、心を開く開きき方を実験してみてはいかがでしょうか。

厳しい状況にあるときも恐れる必要はありません。深呼吸してじっくりと構えてください。足りないものを数えるのではなく、すでに与えられている恵みの中に次の一歩は備えられています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」私たちを愛してくださっているのですから。


2022/07/16

主日礼拝 2022/07/17 「栄えの神」

  礼拝メッセージ「栄えの神」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章22~30節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日もヨハネから福音の喜びを聴きます。

【主イエスとバプテスマのヨハネ】
「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」(22-24)は、あれっ、と思うところです。例えば、マルコの福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(1:14)と記します。いったい主イエスの宣教はバプテスマのヨハネの宣教と、時期的に重なっていたのかどうか。ほんとうのことは今となってはわかりません。けれどもときどき申し上げますように、ヨハネの福音書には二階建ての構造があります。目に見える具体的なことがら(一階)を語りながら、目に見えない霊的なことがら(二階)を伝えるのです。この箇所でも、ヨハネの福音書の真意を聴き取りましょう。

【とまどい?ねたみ?】
このとき、バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネのところに来て「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」と。ヨハネの弟子たちの思いは想像できます。とまどい、ねたみ、そういった負の感情です。彼らは、バプテスマのヨハネと主イエスの関係についてもつかみかねているようです。主イエスがどなたであるのか、はっきりとはわかっていなかったのです。

【喜ぶヨハネ】
けれども、バプテスマのヨハネは、自分は「喜びに満ちあふれています。」(29)と言います。そして弟子たちにもその喜びを伝えようとしています。この喜びこそが、この箇所でヨハネの福音書が伝えようとしていることなのです。
「『私(バプテスマのヨハネ)はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身(バプテスマのヨハネの弟子たち)が証ししてくれます。」(28)とあるように、バプテスマのヨハネの役割は主イエスを指し示すことにあります。だから、皆が自分を離れて主イエスに行くのは、バプテスマのヨハネの本望です。それでこそ彼は使命を果たしたことになるのですから。彼は自分の弟子たちにも主イエスのもとへ行ってもらいたいのです。福音著記者ヨハネも、また、私たちに主イエスのもとへ行くようにと、主イエスを指し示しています。

【満ちあふれる喜び】
けれども、バプテスマのヨハネの喜びはそれだけではありません。さらに大きなものでした。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(29)は、バプテスマのヨハネの言葉。花婿は主イエス。そして彼は、花婿である主イエスに付き添う友人だと言うのです。ここで思い出すのは、ヨハネ15章です。「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:14-15)と。私はよく、神さまの「お心」と「みこころ」について語ります。私たちは神さまのピンポイントの指示をもらいたい、仕事選びも、学校選びも、こまごまと間違いのない道を、と望みます。けれども、それは言われたことだけをするしもべ。主イエスは私たちに、あなたがたはそれ以上の者だ、と言ってくださいます。友は、主イエスのように、父の「お心」、つまりひとり子をお与えになった愛の「お心」を知っています。そして、命じられたかれらではなく、そうしたいから、そうすることが喜びだから、父と御子と共に、聖霊によって、自分を注ぎだします。十字架の主イエスの友だからです。復活の主イエスのいのちに与っているからです。すでにそのような主の友とされているおたがいを喜び、支え合って歩みを進めてまいりましょう。そのためにも今、聖餐にあずかり、いのちを新しくしていただきましょう。信愛教会も心を合わせます。


2022/07/09

主日礼拝 2022/07/10 「御子を与えた神(第二主日)」

 礼拝メッセージ「御子を与えた神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章16~21節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




3章16節は、マルティン・ルターが「小福音書」と呼んだ箇所。聖書全体のメッセージが要約されていると言われる箇所です。ここから神の恵みの総括を聴きましょう。

【世を愛された】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)。「世」は、ヨハネの福音書に特徴的な言葉。この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。1章9-10節には「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。「世」は神によって造られました。神に愛され神を愛する、愛の交わりのために。ところが「世」は神に背を向け、神がわからなくなり、神の愛がわからなくなっています。愛なき闇に覆われているのです。
そんな「世」を神は愛してくださっています。それはこの世界が立派だからでもなく、私たちがすばらしいからでもありません。神さま造った世界はよき世界なのに、痛みに満ちています。神さまが造った私たちは、神のかたちなのに、自分の罪、他人の罪に心を痛めています。「神さまが造った世界になぜ痛みや罪があるのか?」と訊ねたくなります。聖書はそれが神のせいではなく、私たちの責任であると語っています。アダムとエバが、というのではありません。私たちみなが神の愛を軽んじ、神の愛がわからなくなってしまっていたのです。そんな私たちを神は愛してくださいました。愛することができない私たちを愛してくださいました。

【ひとり子をお与えになったほどに】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)は私たちをとまどわせます。「ほどに」と聞かされても、それがどれほどのことなのか見当がつかないからです。私自身もクリスチャンになったときからずっとこのことに思いをめぐらし続けています。その中で出会ったのが「神の狂おしいほどの愛」という表現です。14世紀に用いられるようになったこの表現はピリピ書を思わせます。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)。これは普通のことではありません。死ぬことがない神が死ぬために人となったことは、どうにも私たちの理解を超えた、決してそんなことがあってはならない、けれども実際に起こってしまった狂おしいほどの愛なのです。

【さばかれない私たち】
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(18)とあります。理解を超えた狂おしいほどの神の愛に入れられた私たちはさばかれないのです。
かつて藤本満牧師がこんなことを言っていました。ヨハネ1:10の「世はこの方を知らなかった。」を取り上げて、「世があなた(神)を知ろうとしないように、私たちの内に存在する世があなたの存在を拒みます」と思いめぐらしを加えておられました。私たちは神の子とされているのですが、それでもまだ工事中です。不信仰やさまざまな苦労に圧倒されて「神さまがいるのなら、もっとうまくいくはずなのに…」とうなだれるのです。けれども私たちは真っ暗な闇の中にいるのではありません。光の中を歩んでいます。たとえ雲が日光をさえぎることがあったとしても、光は私たちを照らし続けています。
自分の力でがんばって光の中にとどまろうとしないでください。神さまを信頼し、その愛に自分をゆだねてください。私たちを光の中にとどまらせるのは神の狂おしいほどの愛です。その愛を感じてください。私たちのために「ひとり子をお与えになった」父の愛、「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」にご自分をお与えになった御子の愛が、愛そのものである聖霊によって、私たちを光の中にとどまらせ、私たちに光の中を進ませ、私たちを世の光としてくださるのです。召された姉妹はそのように歩みました。私たちもいっしょに、この光のなかを今週も歩みます。

2022/07/01

主日礼拝 2022/07/03 「天に上げられた神(第一主日)」

礼拝メッセージ「天に上げられた神(第一主日)」

  • 聖書:ヨヨハネの福音書3章11~15節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日の明野では去年のクリスマスにも語った個所。クリスマスには、主の降誕の聖書箇所を語られることが多いと思います。けれども私はいつものように連続講解説教です。クリスマスであってもイースターであっても。それには理由があります。それは聖書のどの箇所にも、キリストの降誕と十字架・復活が語られているから。言い換えれば、毎週クリスマスやイースターのメッセージが語られていると言えるのです。
先週は、夜主イエスを訪ねたニコデモが、御霊によって生まれることがわからず、主イエスに叱られたところを読みました。続く今日の箇所でも、主イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。」とたいせつなことを語りました。

【人の子も上げられなければ】
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(14-15)これがそのたいせつなことでした。ここに出てくる荒野の蛇は民数記に出てきます。荒野で座り込んでしまったイスラエル。神さまとの愛の交わりを忘れ、イスラエルを通して世界を回復するという神さまの計画も忘れてしまったイスラエル。そのイスラエルに神さまが毒蛇を送った。私の説教集「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)にもありますが、蛇はイスラエルを滅ぼすためではありませんでした。そうではなくて、蛇によって神さまの愛に無感覚になっていたイスラエルの目が覚めた。ここまでイスラエルを守り育てきた神さまの愛に戻った。ヨハネは「永遠のいのち」と記します。永遠のいのちとは単なる不老不死ではありません。神さまと永遠の愛でかたく結び合わされて、ひとつの心で生きること。クリスマスに主イエスが来られたのは愛の交わりのため。十字架で主イエスが上げられたのもまた、私たちとの愛の交わりのためでした。永遠のいのちがただの不老不死なら、それは退屈なことかもしれません。けれども永遠のいのちに生きる主イエスとの日々は、毎日がどきどきするような喜びに満ちています。そしてその喜びは、もうすでに私たちのうちに始まっていることを、私たちは知っています。

【天から下って来た者】
「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」(13)とあります。神さまに造られた世界は、神さまに愛され、支えられて存在しているにもかかわらず、神さまを忘れてしまっています。神さまの愛がわからなくなっているのです。神さまはそれを惜しまれます。神さまは、私たちを支配できないことを惜しんでいるのではありません。支配というなら神さまは今も私たちを支配しておられます。神さまが惜しんでおられるのは愛の交わり。私たちとの愛の交わりを回復するために、神である主イエスが天から下って来たのです。そして地上の生涯で、主イエスはありったけの愛を注いでくださいました。病を癒し、心を癒やし、飢えた者に食べさせ、愛に無感覚になっていた人びとを目覚めさせました。それは彼らもまた愛を与え合う者になるためでした。そんな愛の頂点が十字架。そこで主イエスはご自分を与え尽くされたのでした。今日は礼拝後、信愛と明野の合同役員会で聖餐を学びます。主イエスが流された血、裂かれた御からだによって私たちは永遠のいのちを贈られました。このことをますます心に刻むためです。

【わたしたちとあなたがた】
不思議なことがひとつ。今日の箇所は主イエスとニコデモとの会話です。本来なら「わたし」と「あなた」という言葉が使われるべきです。ところが主イエスは「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」(12)と言います。「わたしたち」と「あなたがた」という複数形が使われているのです。キリスト教会は、「わたしたち」には、主イエスと、そのからだである教会が重ね合わせて語られているのだと受け止めてきました。教会は主イエスを証しします。主イエスが開いた愛の交わりを伝えます。それでも多くの人々は信じようとしないのです。教会はそれを嘆きます。けれども絶望して証しすることをやめたりはしません。なぜなら自分たちもまた、天上のこと=永遠のいのち=神との愛の交わりなど、なにも知らなかったのに、今は天上の喜びに生きる者とされているから。この喜びが私たちを語らせます。この喜びを携えて出て行かせるのです。

2022/06/24

主日礼拝 2022/06/26 「霊から生まれさせる神(第四主日)」

 礼拝メッセージ「霊から生まれさせる神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章1~10節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所で主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。」と二度繰り返します。これは主イエスがとてもたいせつなことを語るときに用いる言葉。「今から言うことは大事なことだからよく聞きなさい」というのです。私たちもこのたいせつなことを聴き取りましょう。

【新しく生まれなければ】
主イエスのたいせつなこととは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)でした。主イエスは私たちが新しく生まれることを求めるのです。「神の国」というのは、死んでから行く天国ではありません。いま、この地上に始まっている神の支配。こうしているうちにも広がって、やがて完成する神の支配です。神の国を「見る」というのは、ただ傍観者として眺めることではありません。神の国に入ることです。神の支配の国に入って、神の支配を体験し、神の支配のもとで神と共に神の国を広げること、それが神の国を見ることです。主イエスは死んで天国に行くことができるために、信仰をもつよう努力しない、と言っているのではありません。「新しく生まれなさい。そしたら、今すぐの神の国に入ることができる」と言っているのです。

【どうしてそのようなことが】
けれどもニコデモには新しく生まれることも、神の国に入ることもわかりませんでした。彼は、旧約聖書に精通し、律法に従って生き、人びとにもそう教えていたパリサイ人。ユダヤ人の議員、すなわち大祭司を議長とする71人からなる最高法院のメンバーでもありました。当時としては最高の学識と道徳を備えたニコデモですが、それでも彼には新しく生まれることがわかりません。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4)と言うのです。「新しく生まれる」を私たちは聞き慣れていますが、考えてみれば実に不思議なことばです。私たちがこのことをわかっていることのほうが不思議なのです。

【水と御霊によって】
私たちはなぜこの不思議なことがわかったのでしょうか。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5-6)とあります。主イエスを知らない者、「肉によって生まれた者」には新しく生まれること、神の国に入ることはわかりません。「水(洗礼)と御霊によって生まれた者」だけがわかるのです。これは困ったことです。御霊によって生まれなければ、つまり、新しく生まれなければ、新しく生まれることはわからないのです。どんなに努力しても。これでは神の国の入り口は閉ざされているように見えます。

【風の音を聴け】
神の国への入り口は私たちが見つけるのではなく、主イエスが与えてくださいます。私たちにはわからない「霊」を、主イエスは風にたとえて教えました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(8)と。風は私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に吹いてきます。霊(欄外註を参照。風と霊は同じプネウマという語)も同じです。私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に働いて、そして、私たちを新しく生まれさせます。ふりかえってみれば、まさに私たちもそのように新しく生まれたのでした。私たちがしたのは風の音を聴こうとしたこと。神さまの私たちへの招きを期待して心を開いて耳を傾けたことです。

【神の大きな物語の中で】
これがわからなかったニコデモに主イエスが「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」(10)と言ったのは重要です。教区では、鎌野直人師から神の壮大な計画を学んでいます。神さまは傷ついてしまったこの世界を回復しておられます。その計画の要がイスラエルであり、そこから出た主イエスです。旧約聖書に通じたニコデモこそがこの大きな計画を知り、神さまと共に生き、人びとを招くべきだったのです。幸いなことにニコデモは新しく生まれることができました。十字架に架けられた主イエスの葬りに尽くしたのです。私たちもまた御子のご降誕と十字架に与りました。神の国に入り、神の国のために働くものとされています。置かれたそれぞれの場所で。

2022/06/17

主日礼拝 2022/06/19 「人の心を知る神(第三主日)」

礼拝メッセージ「人の心を知る神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章23~25節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




先週の箇所で、過越の祭りの最中に、エルサレムで宮清め事件を起こされた主イエス。今日の箇所ではそれに続く箇所。人びとを見つめる主イエスのまなざしが、いわば内側から描かれています。そのまなざしは、もちろん愛のまなざしです。

【人の心を知る神】
主イエスは過越の祭りの間、いくつかの奇蹟を行ったようです。「多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(23)の「しるし」が複数形であることからそれがわかります。ところが「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(24)とあります。実はこの「お任せになる」という語は、「多くの人たちが…信じた」とある語と同じ単語です。つまり、人々はイエスを信じたのですが、イエスはその人びとを信じなかったというのです。せっかく信じた人々がいるのに、主イエスはその人々を信じなかったというのです。行動を共にされようとしなかった、というのです。不思議に思えるのですが、そこにはもちろん理由がありました。
それは主イエスが「すべての人を知っていた」(24)からでした。主イエスは人の心を知る神。「人についてだれの証言も必要とされなかった」(25)とあるように私たちが自分について語る言葉よりも、あるいは、他の人が私たちについて語る言葉よりも、私たちをよくご存じです。「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)のです。
このことは恐ろしく思えるかもしれません。けれども神さまが私たちのうちに何があるかを知っていてくださっていることは大きな慰めでもあります。私たちはときに他の人から誤解されたり、厳しい言葉で責められたりすることがあります。けれども神さまはすべての人を知っておられます。だからどんなときも私たちを支えてくださいます。あるいは私たち自身が不当に自分を責めたり、落ち込んだりすることもあります。けれども神さまは私たちを私たち自身よりもよく知っておられます。そして私たちを励まし、ご自分に結び合わせてくださるのです。

【自分をお任せに】
主イエスが知っておられたエルサレムの人々の心は底の浅い表面的な心でした。彼らは奇蹟を見て、その奇蹟によって与えられる恩恵を求めてついていきました。後に登場する五つのパンと二匹の魚によって養われた人々もそうでした。そしてそのような人々は去っていくのです。彼らには主イエスとの愛の絆を求める思いがないからです。私たちの人生に意味を与えるものは、愛の絆。神との愛の絆、人との愛の絆です。たがいをたいせつにし、自分を与え合う愛の絆こそ、主イエスが与えてくださるもっともよきもの。主イエスが、人となり、十字架で死に、イースターに復活して、ペンテコステに聖霊を与えたのは、愛の絆のためであり、それ以下のことのためではないのです。主イエスは、私たちに愛の絆をお求めになります。そしてそのようにご自身を愛する者に「自分をお任せに」なるのです。

【人の心を知る神だからこそ】
そう聞くと、私たちは思います。私は主イエスを愛しているだろうか。主イエスが私たちに「自分をお任せに」なることができるほどに、主イエスを愛してきただろうか、と。するといろいろなことが思い浮かびます。やはり自分は本当の信仰者ではない、本当の愛の絆を持たないものだとしゃがみ込んでしまいたくなります。
けれども忘れてはならないことがあります。それは、主イエスが「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)ことです。主イエスは私たちのうちに何があるかを知っておられます。私たちが罪ある者であること、神との愛の絆、人との愛の絆を、しばしば簡単に切り離してしまう者であること、そのことを痛みながらもまた繰り返してしまうものであること、しばしば神のお心よりも自分の願いの実現を求め、そのために神と人を利用してしまう者であること、それらをみな知っておられるのです。
そして主イエスはそんな私たちのすべてを知った上で、この世界に来てくださいました。私たちをほうっておくことができなかったら。私たちを罪から解き放ち、新しいいのちを与えて、愛の絆に生きるものとするために。エルサレムでは人々にご自分をお任せにならず、人々を信じなかった主イエスを、今は私たちにご自分を、そしてご自分の使命をお任せになり、私たちと共に生きてくださっています。御霊によって。

2022/06/10

主日礼拝 2022/06/12 「礼拝を与える神(第二主日)」

      

礼拝メッセージ「礼拝を与える神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章13~22節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




この直前のところにはガリラヤのカナの婚礼。主イエスの最初の奇蹟が喜びの婚礼の祝宴で行われたことを語っていました。主イエスはそこからエルサレムへ移動され、過越の祭りに臨まれます。そこでは、うってかわってたいへん厳しいお姿をお見せになりました。主イエスが暴力的にも見える行動をとられたのはここだけ。なぜそれほどに怒られたのでしょうか。今朝は、その怒りの背後にある愛を聴き取りましょう。

【わたしの父の家】
神殿では「牛や羊や鳩」(14)を売っていました。遠方からやってくる礼拝者たちに、祭司認定済ずみの犠牲の動物を提供するためでした。また「両替人」(15)がいました。神に献げることができるのはローマの貨幣ではなく特別な貨幣だけだったからです。どちらも神殿での礼拝に必要なものです。手数料を取っていたにせよ、それほど責められることでもないように思えます。
ここにはヨハネの福音書に顕著な二階建て構造とも呼ぶべき書き方があります。一階では、神殿での商売が問題にされています。けれども、主イエスは商売人のひとりひとりに怒っているのではありません。二階では神殿での礼拝そのものが扱われています。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)と。直訳すれば「私はそれを立ち上がらせる」となります。「それ」とは神殿のことではありません。礼拝。「四十六年かかった」(20)というのはヘロデ大王が行った神殿の大拡張工事。目を見張るような壮大なものです。けれどもそこで行われる礼拝は本来の姿を失っていました。礼拝の中で神の民がいのちと喜びに満たされ、世界の主である神さまをたたえ、傷ついた世界の回復のためにそこから遣わされる。そんな礼拝ではなくなってしまっていたのです。でもイエスはまことの礼拝を立ち上がらせると言います。一階の宮清めは、二階のまことの礼拝の再建に目を向けさせようとしているのです。主イエスの願いはそこにあったのです。

【あなたの家を思う熱心が】
主イエスの願いは熱烈でした。弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(17)という詩篇69篇を思い出しました。そこには「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)とあります。まさにこの嘲りは十字架で実現しました。唾をかけられ、罵られて。けれども主イエスは、自ら望んでそこに身を置いてくださいました。私たちのいのちを回復し、喜びを回復し、礼拝を回復するために。

【ご自分のからだという神殿】
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)は新改訳2017。以前の新改訳第三版では「三日でそれを建てよう」となっていました。2017は訳しすぎのようにも思いますが、気持ちは分かります。礼拝の再建は、主イエスの十字架と復活によってなされます。神を愛することができず、たがいを愛することができず、自分を愛することができない私たち。そんな私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世に来てくださいました。そして、神に受け入れられた私たちに神を受け入れさせ、たがいを受け入れ合うことができるようにさせ、私たちが私たち自身を受け入れることができるようにさせてくださいました。そこから愛の回復を始めてくださったのです。
だからいま、私たちはここにいます。礼拝に。この礼拝はまことの礼拝です。なぜならこの礼拝は主イエスが与えてくださり、主イエスがまことの礼拝としてくださった礼拝だからです。

【過越の小羊イエス】
宮清めが過越の祭りで起こったのは偶然ではありません。主イエスご自身が過越の小羊としてご自分を献げてくださったのです。ヘンリー・ナウエンの言葉を思い出します。「イエスのように、解放を宣言する者は、自分自身の傷や他者の傷をケアするのみではなく、自らの傷を癒やしの力の大きな源泉たらしめるべく呼ばれています」(『傷ついた癒し人』より)。傷ある私たち。癒されつつある私たち。完全ではない私たち。強がるのではなく、このありのままの私たちを通して、主イエスは働かれます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちに働くことができます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちを通して世界を回復させることができます。このまことの礼拝から私たちを遣わしてくださるのです。

2022/06/03

ペンテコステ礼拝 2022/06/05 「祝福する神(第一主日)」

     

礼拝メッセージ「祝福する神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章1~12節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



ヨハネの福音書が記す主イエスの最初の奇蹟です。これが結婚式の祝宴で行われたことは主イエスの使命が喜びをもたらすためであったことをよく表しています。このとき主イエスは、決してしかめっつらではなく、人びとと共に談笑し、喜びを分かち合っておられたことでしょう。主イエスは喜びの主なのです。

【あなたはわたしと何の関係がありますか】
婚礼のさなか、ぶどう酒が尽きてしまいました。新郎新婦側にとってこれはとても不名誉なことであったようです。主イエスの母マリアは、イエスに「ぶどう酒がありません」(3)と言います。ところが主イエスの答は不思議です。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」(4)は冷たく聞こえます。ところが実際には主イエスは水をぶどう酒に、それも良いぶどう酒に変えてくださっているのです。
このことは主イエスのこの奇蹟が、ただ母の願いをかなえた、というだけのものではないことを示しています。イエスさまは、私たちの願いをなんでも聞いてくださるすごいお方、ということではないのです。

【主イエスのしるし】
「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(11)とあります。「しるし」はヨハネの福音書で多く用いられている言葉。20章「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが…これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(30-31)とあります。私たちを愛して、そのままにしておくことができず、人となってこの世に来てくださった神であるイエス。その愛のしるしが奇蹟です。主イエスは水をぶどう酒に変えてくださったのは、すべての人が主イエスの愛を知るため、そしてその愛によっていのちを得るためでした。

【わたしの時はまだ来ていません】
主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(4)と語ります。私たちにいのちを与えるのは、主イエスの十字架と復活であることを示されたのです。主イエスが来られたのはいのちを与えるため!
母マリアは婚礼のぶどう酒の欠乏を訴えますが、主イエスの関心はいのちの欠乏にあります。世界が愛の欠乏にあえいでいるからです。主イエスはマリアの目を、そして私たちの目をほんとうの欠乏、愛の欠乏に向けさせようとします。
私たちは求道中の方がたの受洗のために祈っています。「私などはまだまだ」と受洗をちゅうちょなさる方も多いです。けれども、受洗は新しいいのちの始まり。与えられたいのちは日々成長します。主イエスが成長させてくださるからです。神を愛する愛、人を愛する愛、自分を愛する愛、三つの愛の成長です。自分を愛する愛とはあまり耳にすることがないかもしれません。神に赦され、受け入れられた自分を自分も受け入れることです。神がたいせつにしてくださる自分をたいせつにし、神が用いようとされる自分を、神に差し出すことです。そして世界の愛の欠乏を補うために、神と共に働くのです。置かれた場所で、ていねいに、きちんと愛するのです。
水がぶどう酒に!この水は「ユダヤ人のきよめのしきたり」(6)に用いるものでした。衛生のために手洗いをするのではありません。神の民として生きるためには、神に喜ばれない汚(けが)れを洗い落とさなければならないとされていたのです。けれどもほんとうの汚(けが)れとは愛の欠乏です。洗っても、洗っても愛は満たされませんが、主イエスは満たしてくださいます。十字架の血潮で洗い、復活のいのちの喜びとともに満たすのです。

【水汲むしもべは知れり】
「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(9)とあります。水がぶどう酒に変わるさまを見たのは、水を汲んだ者たちだけでした。六つの大きな水がめに水を満たすのは、たいへんに骨の折れること。けれども主イエスと共に働くときに主イエスの愛がますます分かってきます。愛の欠乏に苦しむ世界のために、主イエスがどれほど痛んでおられるかを知るのです。それは弟子である私たちの特権です。主イエスと共に痛み、主イエスと共に注ぎだすことは、私たちの特権なのです。


2022/05/28

主日礼拝 2022/05/29 「あなたを招く神(第五主日)」

    

礼拝メッセージ「あなたを招く神(第五主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章43~51節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



先々週も申し上げました。ヨハネの福音書で最初に主イエスの弟子になったのは、アンデレともうひとりの名前の記されていない人。他の福音書ではペテロとアンデレがガリラヤで主イエスに招かれて最初の弟子となっています。大きく異なる描き方なのです。けれども、これを矛盾と見る必要はありません。それぞれの記述には意味があります。主イエスが私たちに生涯にしてくださることを、それぞれが異なる強調点で訴えているのです。今日もヨハネの強調点を聴き取りましょう。

【招く神】
先週の箇所ではバプテスマのヨハネの証しにより、アンデレともうひとりが主イエスの弟子となりました。今日の箇所では主イエスに招かれたピリポの証しにより、ナタナエルが主イエスの弟子となりました。ここにヨハネの強調点があります。神さまは私たちを招く神。けれどもその招きは主イエスに出会った人びとを通しての招き。私たちもそのように招かれました。私たちもそのように招きます。
ピリポは「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(45)と招きます。「私たち」に注目。「私はイエスに会った」ではなないのです。ヨハネはここで伝道が教会のわざであることを語っています。証しとはただの体験談ではありません。いつどのようにして私は主イエスにあった、ということ以上なのです。教会という交わりが、愛し合い支え合い赦し合う主イエスの愛の現われを見せるとき、主イエスが証しされるのです。

【ナザレから何か良いものが】
私たちが主イエスを証しするときにしばしば拒絶を経験します。エルサレムなら、あるいは、旧約聖書の預言にあるベツレヘムなら、ナタナエルも少しは心を動かされたかもしれません。けれどもとてもナザレから救い主が出るようには思えない、と感じたのです。私たちが証しするとき、人びとの通常の反応は拒絶です。私たちが証しの仕方に工夫したり、力を込めて語ったりすれば、人びとが受け入れるというわけではありません。人びとに証しするとき、拒絶は想定内の反応であることを知っておきましょう。失望してはなりません。

【会ってくださるお方】
たいせつなのは拒絶にあってからです。ピリポはナタナエルを理屈で説得しようとはしませんでした。「来て、見なさい。」(46)と招いたのです。それは、「教会に来なさい。私にはうまく説明できないけれど、牧師ならできるから」ということではありません。私たちが主イエスに会うことができるとしたら、それは主イエスが、私たちに会うことを願ってくださるから。私たちに会うために人となってこの世界に来てくださった主の熱心によるのです。ですから私たちは、ノンクリスチャンの人びとに、「来て、見なさい」というとき、それは「主イエスがあなたに会いたいと願ってくださっている。そのことはあなたにはよくわからなくても、主イエスに会うことを期待しなさい。心を開いて。」と語ることです。その人その人の事情によって、なかなか進まないように思えるときもあるでしょう。けれども私たち自身がまず期待することです。主イエスがお会いくださるのですから落ち着いて。子どもたちへの信仰継承も同じです。子どもたちが思うようにならないときも、主イエスに期待すればよいのです。きっとお会いくださいます。

【まさにイスラエル人】
主イエスはナタナエルに「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」(47)と言います。これは決してナタナエルが特別な人だからではありません。主イエスは「わたしがあなたをまさにイスラエル人にする。偽りのない神の民にする」とおっしゃったのです。信仰とは主イエスが与えるもの。来週は信愛で、その次は明野で聖餐に与ります。聖餐は神の見えない恵みの見えるかたち。差し出されるパンとぶどう汁を、ただ受け入れるだけで私たちはいのちを新たにされます。その理由は、主イエスがそう望まれるからです。

【それよりも大きなこと】
主イエスはナタナエルに「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」(50)と言いました。それはナタナエルが主イエスにお会いすることよりもさらに大きなこと。神の民である教会に加えられ、世界の回復のために主イエスと共に働くことです。そのための主イエスの十字架を思いつつ、今週も教会の、つまり私たちの旅路は続きます。喜びのうちに。



2022/05/20

主日礼拝 2022/05/22 「主イエスを愛する者として(第四主日)」

礼拝メッセージ「主イエスを愛する者として(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書12章1~8節
  • 加藤郁生師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




※本日分は説教要旨はありません。ご了承ください

※礼拝の中で大頭牧師の任職式が行われます


2022/05/13

主日礼拝 2022/05/15 「弟子とする神(第三主日)」

   

礼拝メッセージ「弟子とする神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章35~42節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の個所では、シモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてもう一人が主イエスの弟子に。このできごとを通して、主イエスの弟子となるとはどういうことであるかが語られています。主イエスの弟子となった私たちも、主が私たちにしてくださったことを、たがいに確認し合いましょう。


【ヨハネの弟子からイエスの弟子へ】

「その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。」(35)とあります。このふたりはヨハネが「見よ、神の子羊」(36)と言うのを聞いてイエスについて行きました。イエスの弟子となったのでした。ヨハネの福音書では、このようにアンデレともうひとりの名前の記されていないひとが弟子となりました。他の福音書ではペテロとアンデレがガリラヤで主イエスに招かれて最初の弟子となっていますから、ヨハネの福音書とは大きく異なる描き方になっています。これを矛盾と見る必要はありません。それぞれの記述には意味があります。主イエスが私たちに生涯にしてくださることを、それぞれが異なる強調点で訴えているのです。

ヨハネの福音書が強調するのはバプテスマのヨハネの役割です。彼の「見よ、神の小羊」という言葉が主イエスがふたりを弟子とする手助けになったのです。いつもお語りする通り、主語は神さま。人が主イエスに会うことができるのは、主語である神のわざです。けれども、神さまは人を通して働かれます。私たちも家族や友人といっただれかを通して主イエスへと招かれました。神さまは同じように、私たちを通して私たちのまわりのだれかに働かれます。私たち抜きでではなく、私たちを通して、私たちと共に働かれるのです。決算総会に向けて、信愛と明野の資料の準備を進めています。出席者名簿をチェックしていますと、召された方がたのことを思うのです。コロナの中で、どの方の葬儀もご家族だけで行われざるを得ませんでした。なんとも言えない思いです。けれどもこれらの人びとがキリストを受け入れ、キリストのいのちを生きていることに静かな喜びを感じます。こんな不思議を神さまがしてくださいました。神さまが家族や友だちといったキリスト者を通して、キリスト者と共に働いてくださったのでした。小さな私たちを通して、小さな私たちと共に。それが神さまの好むやり方なのです。


【何を求めているのですか】

そんな二人を振り向いて、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか。」(38)と訊ねました。主イエスは私たちを振り向いてくださるお方。そして私たちの望みをお訊ねくださる方です。

そんな主イエスへの二人の答は拍子ぬけがするようにも聞こえます。「私を救ってください」とか「世界を救ってください」ではなく、「どこにお泊まりですか。」(38)と訊ねたのです。しかし実は、この答はとてもよい答でした。彼らは、主イエスがどのようなお方かよくわからなかったのですが、それでもいっしょにいたいと願ったのです。

私たちも主イエスを受け入れたときには、主イエスについてそれほどよく知っていたわけではありません。頭の理解ではなく、むしろ心のうなずきを感じて、それもためらいながら、主イエスを受け入れました。けれども、主イエスはそのままにはしておかれません。私たちとじっくりと歩んでくださって、私たちの心の求めを呼び覚ましてくださいます。呼び覚まして実現してくださるのです。

私たちの中には、あの悩み、この苦しみを解決して欲しい、と願って教会に来た人もいます。けれどもしばらく教会に通ううちに気づかされます。教会に来たからといって、悩みや苦しみに対する直接の解決があたえられるわけではないのです。主イエスを信じたからと言ってすぐに病気が治るわけではないし、人間関係が急に改善されるわけでもありません。そういう意味では、私たちの求めは聞かれなかったことになります。けれども主イエスといっしょにいたいと願った二人のうち、アンデレは、兄弟であるシモン(ペテロ)に「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41)と言うのです。主イエスといっしょにいるうちに、主イエスがキリスト(救い主)であると気づきました。そしてアンデレの求めは「私はこの方によって救われたい。この方に世界を救って、世界の痛みをいやしていただきたい」という求めに変わっていました。主イエスといっしょにいることによって、主イエスが変えてくださいました。すでに変えられ、今も変えられ続けているたがいを喜ぼうではありませんか。



2022/05/06

主日礼拝 2022/05/08(母の日) 「子羊である神(第二主日)」

  

礼拝メッセージ「子羊である神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章29~34節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



ヨハネの福音書で主イエスの言葉やわざが記されているのは2章以後。ですから1章は、この福音書のプロローグ(序章)にあたると言えます。ヨハネの福音書を読み進めるための心備えをさせる役割を担っているのです。私たちも続いてのための備えをさせていただきましょう。


【イエスが来られるのを見て】
「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て」(29)とあります。バプテスマのヨハネが主イエスを見つけたのではありません。主イエスのほうからヨハネに会いに来てくださったのでした。このことはたいせつです。私たちのうちでクリスチャン・ホームに生まれた人は、そのように神さまが備えをしてくださったことを感謝するべきです。またクリスチャン・ホームに生まれたのではない人びとは、神さまがそんな私たちを訪ねてくださったことを感謝するべきです。どちらも神さまが備えをしてくださいました。私たちではありません。


【私自身もこの方を知りませんでした】
「私自身もこの方を知りませんでした」は31節と33節に繰り返されています。これは不思議です。ヨハネは主イエスが来られる前から、主イエスを証ししていました。自分は、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』(23)だと言っていたのです。それなのに自分は主イエスを知らなかった、と言うのです。そんなヨハネが主イエスを知ったのは、「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(34)とあるように、「それ」を見たときです。「それ」とは『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』(33)にあるように、主イエスがバプテスマを受け御霊が主イエスの上にとどまったことです。つまり、バプテスマのヨハネは主イエスを知らないで、主イエスの道ぞなえをし、主イエスを知らないでバプテスマを授け、そのとき初めて主イエスを知ったというのです。なんだかいい加減なような気がしますが、もちろんそうではありません。主イエスを知らなかったヨハネが主イエスを証しすることができました。それは神さまのみわざです。自分が知らない主イエスを証しせよ、と言われたヨハネ。ヨハネがとまどいながらした証しが、神さまによって整えられ、証しとして役割を果たすことができたのでした。
私たちも同じです。私たちが主イエスを受け入れたとき、どれほど主イエスのことを知っていたでしょうか。とまどいながら、半信半疑といってもよい状態で受洗し、キリスト者としての歩みを始めたのではないでしょうか。そもそも主イエスを十分に理解し、揺るがない決断をしなければ信仰者になることができないとするなら、だれにもそんなことはできません。けれども幸いなことに私たちを導いてくださるのは神さまです。神さまがとまどう私たちを歩みださせ、そうして歩むうちに私たちは主イエスを知ったのです。今も、知り続けているのです。歩んでみてわかることがあります。歩まなければわからないことがあるのです。


【見よ、世の罪を取り除く神の子羊】
バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(29)と語りました。これこそが彼の証しの中心です。聞いた者たちの中にはイザヤ書53章7節を思い浮かべた者たちもいたことでしょう。こうあります。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と。私たちの罪と弱さ、傷と痛みを負って、十字架に架けられた主イエスのお姿です。私たちが罪の中で、神の赦しを知らず、たがいに傷つけ合っていることを見ていることができないで、この世界に来てくださった主イエスのお姿です。
今日、母の日。なにかそれにちなんだことを、とも思いましたが、やはりルターのことを語ることにします。前回、明野でこの個所から語ったのは、去年の10月31日。ちょうど宗教改革記念日でしうた。宗教改革の先頭に立ったルターが、その四年後に盟友メランヒトンに宛てた手紙は有名です。

あなたが恵みの説教者であれば、つくりものの恵みでなく、ほんものの恵みを説教しなさい。もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪でなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人を救いたまいません。罪人でありなさい、大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。(中略)たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎると、あなたは思うのですか。大胆に祈りなさい、もっとも大胆な罪人になりなさい。

「大胆に罪を犯しなさい」とか「日に千度」といったルター特有の表現は賢く聞いてください。ルターは、キリストの贖いがそこそこのものとして受け取られることにがまんができませんでした。キリストにあって、神が全力を挙げて私たちを赦してくださったからです。贖ってくださったからです。そして「世の罪を取り除く神の子羊」が、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪から回復させ、愛に生きるものにしてくださっていることはいつもお語りしているとおりです。


2022/05/01

主日礼拝 2022/05/01 「後に来られる神(第一主日)」

      

礼拝メッセージ「後に来られる神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章19~28節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書の続きから聴きます。連続講解説教ではありますが、この箇所にはここでなくては聴くことができない、たいせつなメッセージが込められています。耳を傾けましょう。

【わたしは〇〇ではない】
バプテスマのヨハネに、エルサレムから遣わされて来た祭司たちとレビ人たちが「あなたはどなたですか」(19)と訊ねます。ただ、この訳はていねいすぎるように思えます。彼らはヨハネがバプテスマを授けていることを問題にしているのですから「お前はいったい何様のつもりだ。なんの権威があってバプテスマを授けているのか」と責めたのでした。
ヨハネの返答は「わたしは〇〇ではない」でした。自分はキリストではない、エリヤではない、あの預言者ではない、と言ったのです。あの預言者、とは申命記に「あなたの神、【主】はあなた(イスラエル)のうちから、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申18:15)とある人。イスラエルはこの預言者の到来を待ち望んでいました。けれどもヨハネは「わたしではない」と言います。「キリストではない」のは当然としても、ヨハネが「あの預言者でも、エリヤでもない」と言ったのは不思議です。特にエリヤ。マルコ9章などを見ると、主イエスはヨハネがエリヤだと言っているのにもかかわらず。バプテスマのヨハネが「わたしはエリヤではない」と言い続けるには、もちろん理由があります。その理由は、ヨハネがついに「私は〇〇です」と言ったとき明らかになります。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」(23)。ヨハネは自分はだれでもなく「声」だと言うのです。声には姿はありません。ただ、思いを届けるだけです。ヨハネは「私はただの声だ。だれであるかは問題ではない。」と「ためらうことなく告白し」(20)たのでした。私たちも「私は○○です」と言い張るときにさまざまなトラブルを起こします。自分の立場や役職、実績、体験などに固執することが、神さまからゆだねられている役割をさまたげることがないようにと願います。今、ここで、神さまと共に生きるために。

【声が語るもの】
「声」であるヨハネが語ったのは「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(26)でした。後に来られる神、まことの救い主である主イエスを指し示したのでした。
ヨハネが自分のことを「エリヤ」だなどと語っていたなら、人びとの注目はヨハネに集まってしまったことでしょう。そうなるとキリストを証しするという役割を、ヨハネは果たせなくなってしまいます。ところがヨハネは「私はただの声だ。何者でもない」と告白することによって、神さまからゆだねられた役割を果たすことができました。ヨハネの人生が最高の意味に満ちたものとなったのです、不思議なことです。人が自分の人生を握りしめようとするとき、握った手から意味がこぼれ落ちていきます。けれども、軽く握って、その手で主イエスを指し示すときに、私たちの人生は神さまに用いられていきます。人生が意味を持つのです。神さまの願いである世界の回復のお役に立つことができるのです。
「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(27)は、単なる謙遜だと読んではならないところ。主イエスは、ほんとうに私たちをはるかに超えたお方。次元がちがうお方。愛を循環させることが出来ない私たちをほうっておくことができないあわれみにおいて。十字架でご自分を与える激しい愛において。世界を回復させるという壮大な望みにおいて。だから謙遜にふるまわなければ神さまの不興を買う、といったことではないのです。
私は主イエスのことを思うときにターン・オーバーという言葉が頭に浮かんでくることがあります。ひっくり返すという意味ですが、目玉焼きにもターン・オーバーというのがあります。両面焼きです。ターン・オーバーすると上が下に、下が上にさかさまになります。そのように主イエスを受け入れた私たちはひっくり返ってしまっています。もはや主イエスの願いが私たちの願いとなっているのです。履き物のひもを解くのは当時の奴隷の仕事。罰を恐れていやいやしていた奴隷たちもいたでしょう。けれども主イエスの奴隷はターン・オーバーした奴隷。喜びにあふれつつ、自ら進んで、主イエスを指し示す自由なしもべです。


2022/04/24

主日礼拝 2022/04/24 「ひとり子の神(第四主日)」

   

礼拝メッセージ「ひとり子の神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章14~18節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



【ことばは人となって】

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)。この「ことば」は主イエス。天地創造を担われたまことの神が、人となって私たちのところに来られたのです。人となることには覚悟が必要です。人は死にます。十字架の上で死ぬことさえも、覚悟のうえで神は人となりました。そんなにしてでも私たちのところに来ることを望んでくださったのでした。
なぜなら「私たちはこの方の栄光を見た」(14)、これを神が望んだから。旧約聖書を通して、人間は神の栄光、すなわち神を見ることはできない、それを見たら罪ある存在である人間は死んでしまう、そう語られています。「いまだかつて神を見た者はいない。」(18)のです。神は本来見ることができないお方です。だから「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18)とあるように、主イエスが来てくださいました。説き明かすというのは、単に言葉で説明したのではありません。主イエスにおいて人間が神を知り、神のお姿を実際に見ることができたのでした。私たちにご自分を見させ、触らせ、愛し合わせ、神と共にいきることができるようにと、神が望んでくださったのでした。
けれどもそれは当時の弟子たちだけに起こったことではありません。私たちにも起こっています。それが教会です。神さまは私たちに会わずに満足なさることができないお方。ですから、主イエスの体である教会を与えてくださいました。私たちと会うことを神さまは望んでおられます。この礼拝は神が望まれた礼拝です。いま、ここで神が私たちに会ってくださっているのです。そして、神は私たちと共に生きることを望んでおられます。礼拝が終わると、神は私たちと共に、それぞれの場所に出て行ってくださるのです。なぜなら教会は建物ではなく、主イエスと結び合わされた者たちの群れだからです。

【恵みとまこと】
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17)とあります。主イエスが人となってくださったので「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(18)のです。その恵みとまことは、モーセによって与えられた律法の実現です。律法は神と共に歩く歩き方を教えるもの。けれどもイスラエルはそんな歩みに失敗し続けてきました。しかし、いま、主イエスが来られました。恵みとまことをたずさえて。その「恵み」は大きな恵み。神が人となって私たちに会い、私たちと共にいてくださることを望んで、実行してくださったのです。その「まこと」はさらに驚くべきまこと。人となった神が私たちの罪のために十字架に架かってくださったのでした。
私たちの罪。私たちは愛し合いたいと願いつつも、愛を循環させることができないで、苦しみます。率直に語り合い、悔い改め合い、赦し合い、慰め合う循環がどこかで遮られてしまって悲しむのです。たがいを信頼して心を開くことができない恐れが原因であることが多いようです。そうやって立ち尽くす私たちの間に、主イエスが立っています。そして私たちの恐れも歪みも痛みも、そのすべてを十字架で担い、十字架で処分してくださったことを思い出させてくださるのです。

【聖霊によって】
主イエスの恵みとまことは、あまりに私たちの深く、せんさいな部分に届くできごとであるために、表現することも、腑に落ちることも、なかなか時間がかかることもあります。けれども、私たちはみな、どこかでそんな恵みとまことに触れたひとりひとりです。それは理解して納得したからというよりは、聖霊によって知らされたのでした。聖霊は今も私たちに、恵みとまことをさらに満ちさせ、さらに豊かに注いでいます。
私たちは工事中です。まだ完成してはいませんから、しばしば罪、すなわち愛の循環が遮られることを経験します。けれどもこの工事は、世界の回復のための工事。破壊のための工事ではなく、やがて完成する工事です。工事中というとサクラダ・ファミリア教会をイメージする方も多いでしょう。すでに130年も工事中ですが、コロナでさらに遅れているようです。それでもこの傑作はやがて完成します。工事中の私たちも主語である神さまが、愛を動機として、心を開く私たちを通してますます愛する者へと日々変えてくださっています。そんな私たちを通して世界を変えてくださっているのです。

2022/04/17

イースター礼拝 2022/04/17 「証しされた神(イースター)」

  

礼拝メッセージ「証しされた神(イースター)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章6~13節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



イースターおめでとうございます。

これまで2回、ヨハネの福音書の冒頭の部分から聴きました。そこでは1「言(イエス・キリスト)」は人格的な「あなた」と呼びかける存在であること2イエス・キリストは天地創造に関わっていたまことの神であること3イエス・キリストは私たちを生かすいのちであり、暗闇にいる私たちを照らす光である、と語られていました。今日は続く部分から聴きます。

【天から地へ】
「言」「いのち」「光」など天的な語を用いていたヨハネは「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。」(6)と地上のひとりの人に視点を移します。抽象的ともいえる5節までの神さまが、実際に地上に力を及ぼすさまが6節以下に、描かれるのです。
ここでもヨハネの福音書は他の三つの福音書とは異なる記し方です。他の福音書ではバプテスマのヨハネは、罪を責めて、人びとに悔い改めを促し、悔い改めのしるしとしいて洗礼を授けました。ところがヨハネの福音書には、「この人(バプテスマのヨハネ)は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)とあります。この福音書におけるバプテスマのヨハネの視線は「言」「いのち」「光」である主イエスに注がれています。そして私たちの視線も持ち上げさせて主イエスを見させようとするのです。私たちは証しというと、自分の信仰の体験談という意味で使うことが多いと思います。それはいいのですが、問題はそこで主イエスに視線が向けられているかです。そこがたいせつなのです。

【証しするということ】
このように、証しとは、光である主イエスを指し示すことなのですが、それはただの客観的な知識を伝えることとは異なります。証しは決断を迫ります。11節には「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあり、12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。証しを聞いた者たちの反応はふたつに分かれます。光を見たときに、その光の中にとどまるか、それとも暗闇の中に戻るか、に分かれるのです。
すべての人を照らすそのまことの光」(9)とあります。それなのに受け入れない人がいるのは不思議でもあり、痛みでもあります。けれども最も痛んでおられるのは神さまであること、そして、神さまはどこまでもあきらめないで照らし続けてくださっていることを覚えておきたいと思います。

【神の子どもとなる特権】
子どもとなる特権をお与えになった」(12)とあるとおり、神の子となることは、神から与えられた特権です。そもそも特権というのが、権威をもっている人から与えられるものです。自分で自由になるものではないのです。ここに自由意志と神さまのあわれみの緊張関係があります。キリスト教会ではずっと二つの立場がありました。(1)私たちは自由意志で救いを選び取ったから救いに入れられた(2)私たちが選び取ることができたのは神の予定による、この二つです。けれども、この二つは補い合うことによって、私たちへのより大きな神さまの愛を浮かび上がらせているように思えます。私たちが選び取ったといえばそうなのだけれども、けれども私たちが選び取るために、神さまがずっと語りかけ、聖霊によって励まして、選び取らせてくださったこと。また、神さまが特権を与えたという意味では、神さまの予定と言えなくもないのだけれど、やはり神さまは私たちに選び取る余地を残しているのです。神さまの愛は大きくて、言葉では語りつくすことができません。神さまは私たちの意志に呼びかけながら、同時に応答する力も注いでくださっています。
神さまの大きな愛は、今は応答することができない人びとにも、注ぎ続けられています。すべての人をあきらめきれないあわれみのゆえに。御子を十字架に架けるあわれみのゆえに。そのあわれみに気づくようにと、神さまは忍耐強く優しく招き続けてくださっているのです。私たちの愛する人びとをも。ですから、未信の家族や知人のために焦ってはなりません。神さまが彼らをどれほどに愛しておられるのかを覚えていましょう。彼らのためにどれほど痛んでおられるのかも。
北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」で知られます。神が痛むなんて!エレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤(あわれ)むべし」(文語訳聖書)。はらわたが痛むほどの愛が私たちにも彼らにも注がれているのです。心に血と書いてあわれむ。神の心が血を流すほどに私たちをあわれんでくださっているのです。そのあわれみが凝(こご)って、子なる神であるイエスは、ほんとうに十字架の上で痛み、血を流されました。だから私たちは救われました。神の痛みによって、今、神の子とされているのです。
未信の家族や知人にも、神のはらわた痛む愛が注がれています。だから落ち着いて、彼らをよく見て、よく耳を傾けましょう。そこから必ず何かが始まります。

【証し人として】
主イエスは、バプテスマのヨハネは「ヨハネは燃えて輝くともしび」(5:35)だと言いました。私たちも主イエスの置かれた場所で光として輝いて、主イエスを指し示します。もうすでに、指し示しています。復活の主イエスを見上げ、復活の主イエスを証ししているのです。