2022/08/07

主日礼拝 2022/08/07 「まことの礼拝の神」

 礼拝メッセージ「まことの礼拝の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章16~30節(新約P.182)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


今週も引き続きスカルの井戸に現れた主イエスの恵みを聴きます。主イエスは、サマリアの女にご自分から近づき、女はだんだん目が開かれて「その水を私に下さい。」というまでになりました。

【心を知る神】


けれども主イエスは「さあ、飲むがよい」ではなく、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と意外なことを訊かれました。もちろん女の答を知っておられて、のことです。女には「夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」(18)のです。これが真昼に女が、人目を避けて水を汲みに来ていた理由でした。この時代のことです。女はふしだらな人として軽蔑され、人から口もきいてもらえなかったのでしょう。

しかし主イエスはそんな女の人生のみならず、心をご存じでした。ある牧師がこの女の心をこう推測しています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」と。なかなか厳しいです。けれども、この女がボロボロになってしまったのにも原因があったはずです。その結果、いろいろな男と結婚してみるのですが「これはちがう」「これも私の求めるものではない」「この生活ではない」と、のたうちまわるようにして生きてきたのでした。愛を求めながら、愛の関係をつくりあげることができなかったのです。日常のいろいろな局面で愛を貫くことができない私たちもまた感じるところがあるのではないでしょうか。

ところが主イエスはこの女の心をご存じでした。その渇きを、傷を、痛みを、闇をご存じでした。主イエスが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、女を責めるためではありません。彼女の闇を明るみに出すことによって、渇きを、傷を、痛みをいやすためでした。彼女重荷から解放し、新しいのちを注いで、愛に生きる人にするためでした。主イエスは、そのために人となり、十字架に架けられた神だからです。主イエスは私たちもいやしてくださるのです。

【御霊と真理による礼拝】


このときの女の反応はとうとつです。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」(19)。続く「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)は、さらにとうとつに思えます。

「この山」とはゲリジム山。スカルの町はその近くにありました。二王国分裂時代、南王国ユダは、エルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人びとは、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のイスラエルの人びとが混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らは、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

女は、自分の痛みを言い当てたお方を、神からの預言者だと感じました。このとき、長い間忘れていた、心の叫びが沸き上がってきたのでしょう。「神よ、私を救ってください。私を満たし、私にほんとうの愛の関係をつくりあげてください。」不思議なことに神にはできる、と女は感じました。そして「今、神を礼拝したい。神との交わりを、今、回復したい。どのように礼拝したらいいでしょうか。」と問うたのでした。

幸いなことに、主イエスは単なる預言者ではありませんでした。神です。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(23)とあります。主イエスは「もはやユダヤ人もサマリア人も問題ではない。エルサレムもゲリジム山も。すべての人が、御子であるわたし、主イエスを通して礼拝をささげることができる、その時が来た。今、ここで神を礼拝せよ」と宣言されたのでした。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)は。私たちに新しい重荷を負わせるものではありません。まことの礼拝を成り立たせるためには、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めなければならない、ということではないのです。すでに神が御霊を送ってくださっています。真理とは主イエスです。御霊によって、主イエスとその父なる神を礼拝している私たちは、今、ここで御霊と真理による礼拝を献げているのです。この礼拝は、御霊と真理による礼拝なのです

【サマリアの女、その後】


女は水がめを放り出して町へ行きました。そして「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(29)と語りました。「私のかかえている罪の闇を、愛への渇きを、全てお見通しの方が、私に出会ってくださり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さいました。イエスがその生きた水です。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」と。

女のその後については、想像するしかありません。けれども私たちおたがいを見れば見当がつきます。女は主イエスという生ける水、いのちの水を飲み続けたことでしょう。主イエスとの交わりによって、満たされ、いやされ続けるほどに、ほかの人との愛の関係をつくり上げていったことでしょう。自分が神に愛され、赦されたゆえに、他の人びとに心を開くことで。自分が神に愛され、赦されたように、他の人を愛し、赦すことで。


2022/07/29

主日礼拝 2022/07/31 「生ける水の神」

礼拝メッセージ「生ける水の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章1~15節(新約P.181)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所はスカルの井戸でのできごと。今日から何回かにわたってここに現れた主イエスの恵みを聴きます。

【サマリアのスカル】


スカルの場所を確認しましょう。

「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」(3-4)とあります。最初の地図、主イエスはユダヤにあるエルサレムから上方(北方)のガリラヤに向かいます。その途中、通らなければならないのがサマリアです。「通らなければならない」とあるのには理由があります。「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」とあるように、両者はたがいに敵意をいだいていました。そうなったのはバビロン捕囚のときに、サマリアの人びとが異邦人との混血になったことに原因があります。次に「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。」(5)とあります。出エジプトした12部族がカナンを割り当てられたとき、ヨセフの子孫であるマナセ族とエフライム族が、ちょうどサマリアにあたる地域を割り当てられました(二番めの地図)。ユダヤ人である主イエスとサマリア人であるスカルの住民の間には、そんな民族の壁がありました。

けれども、主イエスはその壁を事もなげに乗り越えました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(9)とサマリアの女が驚くほどに。それはサマリアの女をほっておくことができなかあったから。だから主イエスはサマリアの女のそばに来て、語りかけたのでした。

主イエスはあらゆる壁を超えるお方。自由に壁や制約を超えるお方。そんな主イエスが超えたもっとも大きな壁は神と人との壁でした。だから主イエスはどこにでも来てくださいます。いえ、もう来られて、語りかけておられます。どうかすべての人が主イエスの語りかけに気づくことができるように。私たちもなおなお主イエスの語りかけを聴くことができるように、と願います。

【主イエスの逆転】


最初、主イエスは女に「わたしに水を飲ませてください」(7)と語りかけました。けれども後になると女が主イエスに「その水を私に下さい。」(15)と言います。逆転しているのです。もちろん逆転させたのは主イエス。

会話の始まりで、女は「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」(11)と言っています。主イエスの与える水をただの水だと思っていたのです。けれども女は次に「あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」(12)と口にします。自分の祖先ヤコブが井戸を与え、生きる場所を与えたことを持ち出して、主イエスと比べているのです。主イエスが与える「生ける水」(10)に関心が向き始めています。ただの水以上の、自分の生きる場所、言い換えればいのちを与えてくださるのですか、と問うのです。その後も女は「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(15)などと言っていますから、実にゆっくりとしか理解が進んでいないことがわかります。けれども、主イエスはそんな女に寄り添い、同じ歩調で歩んでくださって、ついには「その水を私に下さい。」と女が願うようにしてくださいました。

先ほどは、主イエス私たちは主イエスの語りかけを聴くことができるように、と語りました。けれども、私たちはたびたび聴くことを忘れてしまいます。多忙の中で、あるいは神さまに失望して。でもだいじょうぶです。焦らないで深呼吸することです。祈れないときでも、深呼吸して、息をつくことができる余地をつくりましょう。そうするなら主イエスが逆転を与えてくださいます。主イエスを求める思いをじっくりと育ててくださり、「その水を私に下さい」と言わせてくださるのです。


2022/07/22

主日礼拝 2022/07/24 「上から来られる神」

礼拝メッセージ「上から来られる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書3章31~36節
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書から福音を聴きます。上からすなわち天から来られたイエス・キリストこそがその福音です。

【小福音書の語り直し】
ヨハネ3章には小福音書と呼ばれる、福音の凝縮された箇所がありました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)です。今日の箇所はその語り直しとも言えます。たいせつなことだから繰り返されているのです。

「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(35,36)。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているは、わかりやすいです。私たちの現在の姿そのままです。続く、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる、の部分には、どきっとさせられます。すべえてのことにおいて、御子に聞き従っているか、と言われると目を伏せるしかない私たちだからです。愛の反対は無関心、と言います。世界の問題、日本のさまざまな問題、家族や友人のさまざまな問題。私たちはそれらにそれなりに思いをめぐらしてはいるのですけれども、やはりいつもそういうわけではない。自分のことに気をとられて、ふと気が付くと関心が薄れてしまっていることもよくあると思います。やはり、私たちは愛を貫くことができない者たちだと思わずにはおれません。

【神の怒り】
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。けれども、罪と人を分けることはできません。私の無関心は、私の生い立ち・性格・生き方と深く結びついています。「神の怒り」(35)とあります。神の怒りは私の罪だけでなく、その罪と分かちがたく結びついた私そのものに向けられる、そう認めざるを得ません。がくぜんとさせられます。

けれども、ここに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」(16)の愛が響きます。神は罪ある私たちを怒りつつも、その怒りは愛とあわれみに包まれています。私たちの無関心は神に知られています。無関心の原因は複雑で、私たちには解きほぐすことはできません。けれども神はそんな私たちを丸ごと抱きしめてくださいました。そしてその怒りは御子の上に、上から来られた神の上にくださりました。十字架の上で。どうしてだれかがだれかの罪の身代わりになることができるのか。それは私たちにはわかりません。けれどもルールを決めるのは神さまであって、私たちではありません。神さまは、ご自分に最も不利なルールを定めました。それはすべての人の罪とその罪への怒りとさばきを御子の上に置くことでした。そしてそこから私たちの新しいいのち、永遠のいのちを始めるというルールも定めてくださったのでした。

【地に属する者】
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」(31)の地から出る者とは、私たちのことです。地に属する、というのは否定的な言葉ではありません。私たちは地から出たのですが、今や永遠のいのちをいただいて、地上で主イエスを証しします。私たちの言葉は拙いのですが、私たちの上には上から来られる方、主イエスがおられます。「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」(35)のですから。私たちの証しは、ただ救いの体験を語ることだけではありません。主イエスにならって、言葉と愛によって神を指し示す証し。御霊がそうさせてくださいます。

【今、ここで】
そんな圧倒的な福音は、私たちをどんな生き方へと招いているのでしょうか。

第一に、私たちは生きることの意味を知っています。傷ついた世界に、私たちは世の光として置かれています。私たちの小さな祈りと愛のわざは世界の回復にとって必要なのです。どうか自分など価値がないなどと思わないでください。あなたは神さまの宝もの。神さまがこの世界に向けた秘密兵器なのです。

第二に、私たちに与えられている永遠のいのちはすでに私たちを造り変えつつあります。だから愛が不完全であることをいたずらに嘆くことはありません。私たちの愛の不完全を、無関心を、みことばと聖霊によって、じっくりと解きほぐしていただきましょう。礼拝や祈祷会、聖書通読はその助けになります。

第三に、神さまは私たちに共に歩む仲間を与えてくださいます。ひとつの教会だけではなかなか難しいものですから、教団や教区でさまざまな企画がなされています。心を開いて、いや、心を開く開きき方を実験してみてはいかがでしょうか。

厳しい状況にあるときも恐れる必要はありません。深呼吸してじっくりと構えてください。足りないものを数えるのではなく、すでに与えられている恵みの中に次の一歩は備えられています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」私たちを愛してくださっているのですから。


2022/07/16

主日礼拝 2022/07/17 「栄えの神」

  礼拝メッセージ「栄えの神」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章22~30節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日もヨハネから福音の喜びを聴きます。

【主イエスとバプテスマのヨハネ】
「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」(22-24)は、あれっ、と思うところです。例えば、マルコの福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(1:14)と記します。いったい主イエスの宣教はバプテスマのヨハネの宣教と、時期的に重なっていたのかどうか。ほんとうのことは今となってはわかりません。けれどもときどき申し上げますように、ヨハネの福音書には二階建ての構造があります。目に見える具体的なことがら(一階)を語りながら、目に見えない霊的なことがら(二階)を伝えるのです。この箇所でも、ヨハネの福音書の真意を聴き取りましょう。

【とまどい?ねたみ?】
このとき、バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネのところに来て「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」と。ヨハネの弟子たちの思いは想像できます。とまどい、ねたみ、そういった負の感情です。彼らは、バプテスマのヨハネと主イエスの関係についてもつかみかねているようです。主イエスがどなたであるのか、はっきりとはわかっていなかったのです。

【喜ぶヨハネ】
けれども、バプテスマのヨハネは、自分は「喜びに満ちあふれています。」(29)と言います。そして弟子たちにもその喜びを伝えようとしています。この喜びこそが、この箇所でヨハネの福音書が伝えようとしていることなのです。
「『私(バプテスマのヨハネ)はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身(バプテスマのヨハネの弟子たち)が証ししてくれます。」(28)とあるように、バプテスマのヨハネの役割は主イエスを指し示すことにあります。だから、皆が自分を離れて主イエスに行くのは、バプテスマのヨハネの本望です。それでこそ彼は使命を果たしたことになるのですから。彼は自分の弟子たちにも主イエスのもとへ行ってもらいたいのです。福音著記者ヨハネも、また、私たちに主イエスのもとへ行くようにと、主イエスを指し示しています。

【満ちあふれる喜び】
けれども、バプテスマのヨハネの喜びはそれだけではありません。さらに大きなものでした。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(29)は、バプテスマのヨハネの言葉。花婿は主イエス。そして彼は、花婿である主イエスに付き添う友人だと言うのです。ここで思い出すのは、ヨハネ15章です。「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:14-15)と。私はよく、神さまの「お心」と「みこころ」について語ります。私たちは神さまのピンポイントの指示をもらいたい、仕事選びも、学校選びも、こまごまと間違いのない道を、と望みます。けれども、それは言われたことだけをするしもべ。主イエスは私たちに、あなたがたはそれ以上の者だ、と言ってくださいます。友は、主イエスのように、父の「お心」、つまりひとり子をお与えになった愛の「お心」を知っています。そして、命じられたかれらではなく、そうしたいから、そうすることが喜びだから、父と御子と共に、聖霊によって、自分を注ぎだします。十字架の主イエスの友だからです。復活の主イエスのいのちに与っているからです。すでにそのような主の友とされているおたがいを喜び、支え合って歩みを進めてまいりましょう。そのためにも今、聖餐にあずかり、いのちを新しくしていただきましょう。信愛教会も心を合わせます。


2022/07/09

主日礼拝 2022/07/10 「御子を与えた神(第二主日)」

 礼拝メッセージ「御子を与えた神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章16~21節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




3章16節は、マルティン・ルターが「小福音書」と呼んだ箇所。聖書全体のメッセージが要約されていると言われる箇所です。ここから神の恵みの総括を聴きましょう。

【世を愛された】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)。「世」は、ヨハネの福音書に特徴的な言葉。この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。1章9-10節には「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。「世」は神によって造られました。神に愛され神を愛する、愛の交わりのために。ところが「世」は神に背を向け、神がわからなくなり、神の愛がわからなくなっています。愛なき闇に覆われているのです。
そんな「世」を神は愛してくださっています。それはこの世界が立派だからでもなく、私たちがすばらしいからでもありません。神さま造った世界はよき世界なのに、痛みに満ちています。神さまが造った私たちは、神のかたちなのに、自分の罪、他人の罪に心を痛めています。「神さまが造った世界になぜ痛みや罪があるのか?」と訊ねたくなります。聖書はそれが神のせいではなく、私たちの責任であると語っています。アダムとエバが、というのではありません。私たちみなが神の愛を軽んじ、神の愛がわからなくなってしまっていたのです。そんな私たちを神は愛してくださいました。愛することができない私たちを愛してくださいました。

【ひとり子をお与えになったほどに】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)は私たちをとまどわせます。「ほどに」と聞かされても、それがどれほどのことなのか見当がつかないからです。私自身もクリスチャンになったときからずっとこのことに思いをめぐらし続けています。その中で出会ったのが「神の狂おしいほどの愛」という表現です。14世紀に用いられるようになったこの表現はピリピ書を思わせます。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)。これは普通のことではありません。死ぬことがない神が死ぬために人となったことは、どうにも私たちの理解を超えた、決してそんなことがあってはならない、けれども実際に起こってしまった狂おしいほどの愛なのです。

【さばかれない私たち】
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(18)とあります。理解を超えた狂おしいほどの神の愛に入れられた私たちはさばかれないのです。
かつて藤本満牧師がこんなことを言っていました。ヨハネ1:10の「世はこの方を知らなかった。」を取り上げて、「世があなた(神)を知ろうとしないように、私たちの内に存在する世があなたの存在を拒みます」と思いめぐらしを加えておられました。私たちは神の子とされているのですが、それでもまだ工事中です。不信仰やさまざまな苦労に圧倒されて「神さまがいるのなら、もっとうまくいくはずなのに…」とうなだれるのです。けれども私たちは真っ暗な闇の中にいるのではありません。光の中を歩んでいます。たとえ雲が日光をさえぎることがあったとしても、光は私たちを照らし続けています。
自分の力でがんばって光の中にとどまろうとしないでください。神さまを信頼し、その愛に自分をゆだねてください。私たちを光の中にとどまらせるのは神の狂おしいほどの愛です。その愛を感じてください。私たちのために「ひとり子をお与えになった」父の愛、「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」にご自分をお与えになった御子の愛が、愛そのものである聖霊によって、私たちを光の中にとどまらせ、私たちに光の中を進ませ、私たちを世の光としてくださるのです。召された姉妹はそのように歩みました。私たちもいっしょに、この光のなかを今週も歩みます。

2022/07/01

主日礼拝 2022/07/03 「天に上げられた神(第一主日)」

礼拝メッセージ「天に上げられた神(第一主日)」

  • 聖書:ヨヨハネの福音書3章11~15節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日の明野では去年のクリスマスにも語った個所。クリスマスには、主の降誕の聖書箇所を語られることが多いと思います。けれども私はいつものように連続講解説教です。クリスマスであってもイースターであっても。それには理由があります。それは聖書のどの箇所にも、キリストの降誕と十字架・復活が語られているから。言い換えれば、毎週クリスマスやイースターのメッセージが語られていると言えるのです。
先週は、夜主イエスを訪ねたニコデモが、御霊によって生まれることがわからず、主イエスに叱られたところを読みました。続く今日の箇所でも、主イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。」とたいせつなことを語りました。

【人の子も上げられなければ】
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(14-15)これがそのたいせつなことでした。ここに出てくる荒野の蛇は民数記に出てきます。荒野で座り込んでしまったイスラエル。神さまとの愛の交わりを忘れ、イスラエルを通して世界を回復するという神さまの計画も忘れてしまったイスラエル。そのイスラエルに神さまが毒蛇を送った。私の説教集「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)にもありますが、蛇はイスラエルを滅ぼすためではありませんでした。そうではなくて、蛇によって神さまの愛に無感覚になっていたイスラエルの目が覚めた。ここまでイスラエルを守り育てきた神さまの愛に戻った。ヨハネは「永遠のいのち」と記します。永遠のいのちとは単なる不老不死ではありません。神さまと永遠の愛でかたく結び合わされて、ひとつの心で生きること。クリスマスに主イエスが来られたのは愛の交わりのため。十字架で主イエスが上げられたのもまた、私たちとの愛の交わりのためでした。永遠のいのちがただの不老不死なら、それは退屈なことかもしれません。けれども永遠のいのちに生きる主イエスとの日々は、毎日がどきどきするような喜びに満ちています。そしてその喜びは、もうすでに私たちのうちに始まっていることを、私たちは知っています。

【天から下って来た者】
「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」(13)とあります。神さまに造られた世界は、神さまに愛され、支えられて存在しているにもかかわらず、神さまを忘れてしまっています。神さまの愛がわからなくなっているのです。神さまはそれを惜しまれます。神さまは、私たちを支配できないことを惜しんでいるのではありません。支配というなら神さまは今も私たちを支配しておられます。神さまが惜しんでおられるのは愛の交わり。私たちとの愛の交わりを回復するために、神である主イエスが天から下って来たのです。そして地上の生涯で、主イエスはありったけの愛を注いでくださいました。病を癒し、心を癒やし、飢えた者に食べさせ、愛に無感覚になっていた人びとを目覚めさせました。それは彼らもまた愛を与え合う者になるためでした。そんな愛の頂点が十字架。そこで主イエスはご自分を与え尽くされたのでした。今日は礼拝後、信愛と明野の合同役員会で聖餐を学びます。主イエスが流された血、裂かれた御からだによって私たちは永遠のいのちを贈られました。このことをますます心に刻むためです。

【わたしたちとあなたがた】
不思議なことがひとつ。今日の箇所は主イエスとニコデモとの会話です。本来なら「わたし」と「あなた」という言葉が使われるべきです。ところが主イエスは「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」(12)と言います。「わたしたち」と「あなたがた」という複数形が使われているのです。キリスト教会は、「わたしたち」には、主イエスと、そのからだである教会が重ね合わせて語られているのだと受け止めてきました。教会は主イエスを証しします。主イエスが開いた愛の交わりを伝えます。それでも多くの人々は信じようとしないのです。教会はそれを嘆きます。けれども絶望して証しすることをやめたりはしません。なぜなら自分たちもまた、天上のこと=永遠のいのち=神との愛の交わりなど、なにも知らなかったのに、今は天上の喜びに生きる者とされているから。この喜びが私たちを語らせます。この喜びを携えて出て行かせるのです。

2022/06/24

主日礼拝 2022/06/26 「霊から生まれさせる神(第四主日)」

 礼拝メッセージ「霊から生まれさせる神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章1~10節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所で主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。」と二度繰り返します。これは主イエスがとてもたいせつなことを語るときに用いる言葉。「今から言うことは大事なことだからよく聞きなさい」というのです。私たちもこのたいせつなことを聴き取りましょう。

【新しく生まれなければ】
主イエスのたいせつなこととは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)でした。主イエスは私たちが新しく生まれることを求めるのです。「神の国」というのは、死んでから行く天国ではありません。いま、この地上に始まっている神の支配。こうしているうちにも広がって、やがて完成する神の支配です。神の国を「見る」というのは、ただ傍観者として眺めることではありません。神の国に入ることです。神の支配の国に入って、神の支配を体験し、神の支配のもとで神と共に神の国を広げること、それが神の国を見ることです。主イエスは死んで天国に行くことができるために、信仰をもつよう努力しない、と言っているのではありません。「新しく生まれなさい。そしたら、今すぐの神の国に入ることができる」と言っているのです。

【どうしてそのようなことが】
けれどもニコデモには新しく生まれることも、神の国に入ることもわかりませんでした。彼は、旧約聖書に精通し、律法に従って生き、人びとにもそう教えていたパリサイ人。ユダヤ人の議員、すなわち大祭司を議長とする71人からなる最高法院のメンバーでもありました。当時としては最高の学識と道徳を備えたニコデモですが、それでも彼には新しく生まれることがわかりません。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4)と言うのです。「新しく生まれる」を私たちは聞き慣れていますが、考えてみれば実に不思議なことばです。私たちがこのことをわかっていることのほうが不思議なのです。

【水と御霊によって】
私たちはなぜこの不思議なことがわかったのでしょうか。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5-6)とあります。主イエスを知らない者、「肉によって生まれた者」には新しく生まれること、神の国に入ることはわかりません。「水(洗礼)と御霊によって生まれた者」だけがわかるのです。これは困ったことです。御霊によって生まれなければ、つまり、新しく生まれなければ、新しく生まれることはわからないのです。どんなに努力しても。これでは神の国の入り口は閉ざされているように見えます。

【風の音を聴け】
神の国への入り口は私たちが見つけるのではなく、主イエスが与えてくださいます。私たちにはわからない「霊」を、主イエスは風にたとえて教えました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(8)と。風は私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に吹いてきます。霊(欄外註を参照。風と霊は同じプネウマという語)も同じです。私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に働いて、そして、私たちを新しく生まれさせます。ふりかえってみれば、まさに私たちもそのように新しく生まれたのでした。私たちがしたのは風の音を聴こうとしたこと。神さまの私たちへの招きを期待して心を開いて耳を傾けたことです。

【神の大きな物語の中で】
これがわからなかったニコデモに主イエスが「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」(10)と言ったのは重要です。教区では、鎌野直人師から神の壮大な計画を学んでいます。神さまは傷ついてしまったこの世界を回復しておられます。その計画の要がイスラエルであり、そこから出た主イエスです。旧約聖書に通じたニコデモこそがこの大きな計画を知り、神さまと共に生き、人びとを招くべきだったのです。幸いなことにニコデモは新しく生まれることができました。十字架に架けられた主イエスの葬りに尽くしたのです。私たちもまた御子のご降誕と十字架に与りました。神の国に入り、神の国のために働くものとされています。置かれたそれぞれの場所で。

2022/06/17

主日礼拝 2022/06/19 「人の心を知る神(第三主日)」

礼拝メッセージ「人の心を知る神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章23~25節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




先週の箇所で、過越の祭りの最中に、エルサレムで宮清め事件を起こされた主イエス。今日の箇所ではそれに続く箇所。人びとを見つめる主イエスのまなざしが、いわば内側から描かれています。そのまなざしは、もちろん愛のまなざしです。

【人の心を知る神】
主イエスは過越の祭りの間、いくつかの奇蹟を行ったようです。「多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(23)の「しるし」が複数形であることからそれがわかります。ところが「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(24)とあります。実はこの「お任せになる」という語は、「多くの人たちが…信じた」とある語と同じ単語です。つまり、人々はイエスを信じたのですが、イエスはその人びとを信じなかったというのです。せっかく信じた人々がいるのに、主イエスはその人々を信じなかったというのです。行動を共にされようとしなかった、というのです。不思議に思えるのですが、そこにはもちろん理由がありました。
それは主イエスが「すべての人を知っていた」(24)からでした。主イエスは人の心を知る神。「人についてだれの証言も必要とされなかった」(25)とあるように私たちが自分について語る言葉よりも、あるいは、他の人が私たちについて語る言葉よりも、私たちをよくご存じです。「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)のです。
このことは恐ろしく思えるかもしれません。けれども神さまが私たちのうちに何があるかを知っていてくださっていることは大きな慰めでもあります。私たちはときに他の人から誤解されたり、厳しい言葉で責められたりすることがあります。けれども神さまはすべての人を知っておられます。だからどんなときも私たちを支えてくださいます。あるいは私たち自身が不当に自分を責めたり、落ち込んだりすることもあります。けれども神さまは私たちを私たち自身よりもよく知っておられます。そして私たちを励まし、ご自分に結び合わせてくださるのです。

【自分をお任せに】
主イエスが知っておられたエルサレムの人々の心は底の浅い表面的な心でした。彼らは奇蹟を見て、その奇蹟によって与えられる恩恵を求めてついていきました。後に登場する五つのパンと二匹の魚によって養われた人々もそうでした。そしてそのような人々は去っていくのです。彼らには主イエスとの愛の絆を求める思いがないからです。私たちの人生に意味を与えるものは、愛の絆。神との愛の絆、人との愛の絆です。たがいをたいせつにし、自分を与え合う愛の絆こそ、主イエスが与えてくださるもっともよきもの。主イエスが、人となり、十字架で死に、イースターに復活して、ペンテコステに聖霊を与えたのは、愛の絆のためであり、それ以下のことのためではないのです。主イエスは、私たちに愛の絆をお求めになります。そしてそのようにご自身を愛する者に「自分をお任せに」なるのです。

【人の心を知る神だからこそ】
そう聞くと、私たちは思います。私は主イエスを愛しているだろうか。主イエスが私たちに「自分をお任せに」なることができるほどに、主イエスを愛してきただろうか、と。するといろいろなことが思い浮かびます。やはり自分は本当の信仰者ではない、本当の愛の絆を持たないものだとしゃがみ込んでしまいたくなります。
けれども忘れてはならないことがあります。それは、主イエスが「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)ことです。主イエスは私たちのうちに何があるかを知っておられます。私たちが罪ある者であること、神との愛の絆、人との愛の絆を、しばしば簡単に切り離してしまう者であること、そのことを痛みながらもまた繰り返してしまうものであること、しばしば神のお心よりも自分の願いの実現を求め、そのために神と人を利用してしまう者であること、それらをみな知っておられるのです。
そして主イエスはそんな私たちのすべてを知った上で、この世界に来てくださいました。私たちをほうっておくことができなかったら。私たちを罪から解き放ち、新しいいのちを与えて、愛の絆に生きるものとするために。エルサレムでは人々にご自分をお任せにならず、人々を信じなかった主イエスを、今は私たちにご自分を、そしてご自分の使命をお任せになり、私たちと共に生きてくださっています。御霊によって。

2022/06/10

主日礼拝 2022/06/12 「礼拝を与える神(第二主日)」

      

礼拝メッセージ「礼拝を与える神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章13~22節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




この直前のところにはガリラヤのカナの婚礼。主イエスの最初の奇蹟が喜びの婚礼の祝宴で行われたことを語っていました。主イエスはそこからエルサレムへ移動され、過越の祭りに臨まれます。そこでは、うってかわってたいへん厳しいお姿をお見せになりました。主イエスが暴力的にも見える行動をとられたのはここだけ。なぜそれほどに怒られたのでしょうか。今朝は、その怒りの背後にある愛を聴き取りましょう。

【わたしの父の家】
神殿では「牛や羊や鳩」(14)を売っていました。遠方からやってくる礼拝者たちに、祭司認定済ずみの犠牲の動物を提供するためでした。また「両替人」(15)がいました。神に献げることができるのはローマの貨幣ではなく特別な貨幣だけだったからです。どちらも神殿での礼拝に必要なものです。手数料を取っていたにせよ、それほど責められることでもないように思えます。
ここにはヨハネの福音書に顕著な二階建て構造とも呼ぶべき書き方があります。一階では、神殿での商売が問題にされています。けれども、主イエスは商売人のひとりひとりに怒っているのではありません。二階では神殿での礼拝そのものが扱われています。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)と。直訳すれば「私はそれを立ち上がらせる」となります。「それ」とは神殿のことではありません。礼拝。「四十六年かかった」(20)というのはヘロデ大王が行った神殿の大拡張工事。目を見張るような壮大なものです。けれどもそこで行われる礼拝は本来の姿を失っていました。礼拝の中で神の民がいのちと喜びに満たされ、世界の主である神さまをたたえ、傷ついた世界の回復のためにそこから遣わされる。そんな礼拝ではなくなってしまっていたのです。でもイエスはまことの礼拝を立ち上がらせると言います。一階の宮清めは、二階のまことの礼拝の再建に目を向けさせようとしているのです。主イエスの願いはそこにあったのです。

【あなたの家を思う熱心が】
主イエスの願いは熱烈でした。弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(17)という詩篇69篇を思い出しました。そこには「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)とあります。まさにこの嘲りは十字架で実現しました。唾をかけられ、罵られて。けれども主イエスは、自ら望んでそこに身を置いてくださいました。私たちのいのちを回復し、喜びを回復し、礼拝を回復するために。

【ご自分のからだという神殿】
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)は新改訳2017。以前の新改訳第三版では「三日でそれを建てよう」となっていました。2017は訳しすぎのようにも思いますが、気持ちは分かります。礼拝の再建は、主イエスの十字架と復活によってなされます。神を愛することができず、たがいを愛することができず、自分を愛することができない私たち。そんな私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世に来てくださいました。そして、神に受け入れられた私たちに神を受け入れさせ、たがいを受け入れ合うことができるようにさせ、私たちが私たち自身を受け入れることができるようにさせてくださいました。そこから愛の回復を始めてくださったのです。
だからいま、私たちはここにいます。礼拝に。この礼拝はまことの礼拝です。なぜならこの礼拝は主イエスが与えてくださり、主イエスがまことの礼拝としてくださった礼拝だからです。

【過越の小羊イエス】
宮清めが過越の祭りで起こったのは偶然ではありません。主イエスご自身が過越の小羊としてご自分を献げてくださったのです。ヘンリー・ナウエンの言葉を思い出します。「イエスのように、解放を宣言する者は、自分自身の傷や他者の傷をケアするのみではなく、自らの傷を癒やしの力の大きな源泉たらしめるべく呼ばれています」(『傷ついた癒し人』より)。傷ある私たち。癒されつつある私たち。完全ではない私たち。強がるのではなく、このありのままの私たちを通して、主イエスは働かれます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちに働くことができます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちを通して世界を回復させることができます。このまことの礼拝から私たちを遣わしてくださるのです。

2022/06/03

ペンテコステ礼拝 2022/06/05 「祝福する神(第一主日)」

     

礼拝メッセージ「祝福する神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章1~12節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



ヨハネの福音書が記す主イエスの最初の奇蹟です。これが結婚式の祝宴で行われたことは主イエスの使命が喜びをもたらすためであったことをよく表しています。このとき主イエスは、決してしかめっつらではなく、人びとと共に談笑し、喜びを分かち合っておられたことでしょう。主イエスは喜びの主なのです。

【あなたはわたしと何の関係がありますか】
婚礼のさなか、ぶどう酒が尽きてしまいました。新郎新婦側にとってこれはとても不名誉なことであったようです。主イエスの母マリアは、イエスに「ぶどう酒がありません」(3)と言います。ところが主イエスの答は不思議です。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」(4)は冷たく聞こえます。ところが実際には主イエスは水をぶどう酒に、それも良いぶどう酒に変えてくださっているのです。
このことは主イエスのこの奇蹟が、ただ母の願いをかなえた、というだけのものではないことを示しています。イエスさまは、私たちの願いをなんでも聞いてくださるすごいお方、ということではないのです。

【主イエスのしるし】
「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(11)とあります。「しるし」はヨハネの福音書で多く用いられている言葉。20章「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが…これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(30-31)とあります。私たちを愛して、そのままにしておくことができず、人となってこの世に来てくださった神であるイエス。その愛のしるしが奇蹟です。主イエスは水をぶどう酒に変えてくださったのは、すべての人が主イエスの愛を知るため、そしてその愛によっていのちを得るためでした。

【わたしの時はまだ来ていません】
主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(4)と語ります。私たちにいのちを与えるのは、主イエスの十字架と復活であることを示されたのです。主イエスが来られたのはいのちを与えるため!
母マリアは婚礼のぶどう酒の欠乏を訴えますが、主イエスの関心はいのちの欠乏にあります。世界が愛の欠乏にあえいでいるからです。主イエスはマリアの目を、そして私たちの目をほんとうの欠乏、愛の欠乏に向けさせようとします。
私たちは求道中の方がたの受洗のために祈っています。「私などはまだまだ」と受洗をちゅうちょなさる方も多いです。けれども、受洗は新しいいのちの始まり。与えられたいのちは日々成長します。主イエスが成長させてくださるからです。神を愛する愛、人を愛する愛、自分を愛する愛、三つの愛の成長です。自分を愛する愛とはあまり耳にすることがないかもしれません。神に赦され、受け入れられた自分を自分も受け入れることです。神がたいせつにしてくださる自分をたいせつにし、神が用いようとされる自分を、神に差し出すことです。そして世界の愛の欠乏を補うために、神と共に働くのです。置かれた場所で、ていねいに、きちんと愛するのです。
水がぶどう酒に!この水は「ユダヤ人のきよめのしきたり」(6)に用いるものでした。衛生のために手洗いをするのではありません。神の民として生きるためには、神に喜ばれない汚(けが)れを洗い落とさなければならないとされていたのです。けれどもほんとうの汚(けが)れとは愛の欠乏です。洗っても、洗っても愛は満たされませんが、主イエスは満たしてくださいます。十字架の血潮で洗い、復活のいのちの喜びとともに満たすのです。

【水汲むしもべは知れり】
「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(9)とあります。水がぶどう酒に変わるさまを見たのは、水を汲んだ者たちだけでした。六つの大きな水がめに水を満たすのは、たいへんに骨の折れること。けれども主イエスと共に働くときに主イエスの愛がますます分かってきます。愛の欠乏に苦しむ世界のために、主イエスがどれほど痛んでおられるかを知るのです。それは弟子である私たちの特権です。主イエスと共に痛み、主イエスと共に注ぎだすことは、私たちの特権なのです。


2022/05/28

主日礼拝 2022/05/29 「あなたを招く神(第五主日)」

    

礼拝メッセージ「あなたを招く神(第五主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章43~51節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



先々週も申し上げました。ヨハネの福音書で最初に主イエスの弟子になったのは、アンデレともうひとりの名前の記されていない人。他の福音書ではペテロとアンデレがガリラヤで主イエスに招かれて最初の弟子となっています。大きく異なる描き方なのです。けれども、これを矛盾と見る必要はありません。それぞれの記述には意味があります。主イエスが私たちに生涯にしてくださることを、それぞれが異なる強調点で訴えているのです。今日もヨハネの強調点を聴き取りましょう。

【招く神】
先週の箇所ではバプテスマのヨハネの証しにより、アンデレともうひとりが主イエスの弟子となりました。今日の箇所では主イエスに招かれたピリポの証しにより、ナタナエルが主イエスの弟子となりました。ここにヨハネの強調点があります。神さまは私たちを招く神。けれどもその招きは主イエスに出会った人びとを通しての招き。私たちもそのように招かれました。私たちもそのように招きます。
ピリポは「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(45)と招きます。「私たち」に注目。「私はイエスに会った」ではなないのです。ヨハネはここで伝道が教会のわざであることを語っています。証しとはただの体験談ではありません。いつどのようにして私は主イエスにあった、ということ以上なのです。教会という交わりが、愛し合い支え合い赦し合う主イエスの愛の現われを見せるとき、主イエスが証しされるのです。

【ナザレから何か良いものが】
私たちが主イエスを証しするときにしばしば拒絶を経験します。エルサレムなら、あるいは、旧約聖書の預言にあるベツレヘムなら、ナタナエルも少しは心を動かされたかもしれません。けれどもとてもナザレから救い主が出るようには思えない、と感じたのです。私たちが証しするとき、人びとの通常の反応は拒絶です。私たちが証しの仕方に工夫したり、力を込めて語ったりすれば、人びとが受け入れるというわけではありません。人びとに証しするとき、拒絶は想定内の反応であることを知っておきましょう。失望してはなりません。

【会ってくださるお方】
たいせつなのは拒絶にあってからです。ピリポはナタナエルを理屈で説得しようとはしませんでした。「来て、見なさい。」(46)と招いたのです。それは、「教会に来なさい。私にはうまく説明できないけれど、牧師ならできるから」ということではありません。私たちが主イエスに会うことができるとしたら、それは主イエスが、私たちに会うことを願ってくださるから。私たちに会うために人となってこの世界に来てくださった主の熱心によるのです。ですから私たちは、ノンクリスチャンの人びとに、「来て、見なさい」というとき、それは「主イエスがあなたに会いたいと願ってくださっている。そのことはあなたにはよくわからなくても、主イエスに会うことを期待しなさい。心を開いて。」と語ることです。その人その人の事情によって、なかなか進まないように思えるときもあるでしょう。けれども私たち自身がまず期待することです。主イエスがお会いくださるのですから落ち着いて。子どもたちへの信仰継承も同じです。子どもたちが思うようにならないときも、主イエスに期待すればよいのです。きっとお会いくださいます。

【まさにイスラエル人】
主イエスはナタナエルに「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」(47)と言います。これは決してナタナエルが特別な人だからではありません。主イエスは「わたしがあなたをまさにイスラエル人にする。偽りのない神の民にする」とおっしゃったのです。信仰とは主イエスが与えるもの。来週は信愛で、その次は明野で聖餐に与ります。聖餐は神の見えない恵みの見えるかたち。差し出されるパンとぶどう汁を、ただ受け入れるだけで私たちはいのちを新たにされます。その理由は、主イエスがそう望まれるからです。

【それよりも大きなこと】
主イエスはナタナエルに「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」(50)と言いました。それはナタナエルが主イエスにお会いすることよりもさらに大きなこと。神の民である教会に加えられ、世界の回復のために主イエスと共に働くことです。そのための主イエスの十字架を思いつつ、今週も教会の、つまり私たちの旅路は続きます。喜びのうちに。



2022/05/20

主日礼拝 2022/05/22 「主イエスを愛する者として(第四主日)」

礼拝メッセージ「主イエスを愛する者として(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書12章1~8節
  • 加藤郁生師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




※本日分は説教要旨はありません。ご了承ください

※礼拝の中で大頭牧師の任職式が行われます


2022/05/13

主日礼拝 2022/05/15 「弟子とする神(第三主日)」

   

礼拝メッセージ「弟子とする神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章35~42節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の個所では、シモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてもう一人が主イエスの弟子に。このできごとを通して、主イエスの弟子となるとはどういうことであるかが語られています。主イエスの弟子となった私たちも、主が私たちにしてくださったことを、たがいに確認し合いましょう。


【ヨハネの弟子からイエスの弟子へ】

「その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。」(35)とあります。このふたりはヨハネが「見よ、神の子羊」(36)と言うのを聞いてイエスについて行きました。イエスの弟子となったのでした。ヨハネの福音書では、このようにアンデレともうひとりの名前の記されていないひとが弟子となりました。他の福音書ではペテロとアンデレがガリラヤで主イエスに招かれて最初の弟子となっていますから、ヨハネの福音書とは大きく異なる描き方になっています。これを矛盾と見る必要はありません。それぞれの記述には意味があります。主イエスが私たちに生涯にしてくださることを、それぞれが異なる強調点で訴えているのです。

ヨハネの福音書が強調するのはバプテスマのヨハネの役割です。彼の「見よ、神の小羊」という言葉が主イエスがふたりを弟子とする手助けになったのです。いつもお語りする通り、主語は神さま。人が主イエスに会うことができるのは、主語である神のわざです。けれども、神さまは人を通して働かれます。私たちも家族や友人といっただれかを通して主イエスへと招かれました。神さまは同じように、私たちを通して私たちのまわりのだれかに働かれます。私たち抜きでではなく、私たちを通して、私たちと共に働かれるのです。決算総会に向けて、信愛と明野の資料の準備を進めています。出席者名簿をチェックしていますと、召された方がたのことを思うのです。コロナの中で、どの方の葬儀もご家族だけで行われざるを得ませんでした。なんとも言えない思いです。けれどもこれらの人びとがキリストを受け入れ、キリストのいのちを生きていることに静かな喜びを感じます。こんな不思議を神さまがしてくださいました。神さまが家族や友だちといったキリスト者を通して、キリスト者と共に働いてくださったのでした。小さな私たちを通して、小さな私たちと共に。それが神さまの好むやり方なのです。


【何を求めているのですか】

そんな二人を振り向いて、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか。」(38)と訊ねました。主イエスは私たちを振り向いてくださるお方。そして私たちの望みをお訊ねくださる方です。

そんな主イエスへの二人の答は拍子ぬけがするようにも聞こえます。「私を救ってください」とか「世界を救ってください」ではなく、「どこにお泊まりですか。」(38)と訊ねたのです。しかし実は、この答はとてもよい答でした。彼らは、主イエスがどのようなお方かよくわからなかったのですが、それでもいっしょにいたいと願ったのです。

私たちも主イエスを受け入れたときには、主イエスについてそれほどよく知っていたわけではありません。頭の理解ではなく、むしろ心のうなずきを感じて、それもためらいながら、主イエスを受け入れました。けれども、主イエスはそのままにはしておかれません。私たちとじっくりと歩んでくださって、私たちの心の求めを呼び覚ましてくださいます。呼び覚まして実現してくださるのです。

私たちの中には、あの悩み、この苦しみを解決して欲しい、と願って教会に来た人もいます。けれどもしばらく教会に通ううちに気づかされます。教会に来たからといって、悩みや苦しみに対する直接の解決があたえられるわけではないのです。主イエスを信じたからと言ってすぐに病気が治るわけではないし、人間関係が急に改善されるわけでもありません。そういう意味では、私たちの求めは聞かれなかったことになります。けれども主イエスといっしょにいたいと願った二人のうち、アンデレは、兄弟であるシモン(ペテロ)に「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41)と言うのです。主イエスといっしょにいるうちに、主イエスがキリスト(救い主)であると気づきました。そしてアンデレの求めは「私はこの方によって救われたい。この方に世界を救って、世界の痛みをいやしていただきたい」という求めに変わっていました。主イエスといっしょにいることによって、主イエスが変えてくださいました。すでに変えられ、今も変えられ続けているたがいを喜ぼうではありませんか。



2022/05/06

主日礼拝 2022/05/08(母の日) 「子羊である神(第二主日)」

  

礼拝メッセージ「子羊である神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章29~34節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



ヨハネの福音書で主イエスの言葉やわざが記されているのは2章以後。ですから1章は、この福音書のプロローグ(序章)にあたると言えます。ヨハネの福音書を読み進めるための心備えをさせる役割を担っているのです。私たちも続いてのための備えをさせていただきましょう。


【イエスが来られるのを見て】
「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て」(29)とあります。バプテスマのヨハネが主イエスを見つけたのではありません。主イエスのほうからヨハネに会いに来てくださったのでした。このことはたいせつです。私たちのうちでクリスチャン・ホームに生まれた人は、そのように神さまが備えをしてくださったことを感謝するべきです。またクリスチャン・ホームに生まれたのではない人びとは、神さまがそんな私たちを訪ねてくださったことを感謝するべきです。どちらも神さまが備えをしてくださいました。私たちではありません。


【私自身もこの方を知りませんでした】
「私自身もこの方を知りませんでした」は31節と33節に繰り返されています。これは不思議です。ヨハネは主イエスが来られる前から、主イエスを証ししていました。自分は、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』(23)だと言っていたのです。それなのに自分は主イエスを知らなかった、と言うのです。そんなヨハネが主イエスを知ったのは、「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(34)とあるように、「それ」を見たときです。「それ」とは『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』(33)にあるように、主イエスがバプテスマを受け御霊が主イエスの上にとどまったことです。つまり、バプテスマのヨハネは主イエスを知らないで、主イエスの道ぞなえをし、主イエスを知らないでバプテスマを授け、そのとき初めて主イエスを知ったというのです。なんだかいい加減なような気がしますが、もちろんそうではありません。主イエスを知らなかったヨハネが主イエスを証しすることができました。それは神さまのみわざです。自分が知らない主イエスを証しせよ、と言われたヨハネ。ヨハネがとまどいながらした証しが、神さまによって整えられ、証しとして役割を果たすことができたのでした。
私たちも同じです。私たちが主イエスを受け入れたとき、どれほど主イエスのことを知っていたでしょうか。とまどいながら、半信半疑といってもよい状態で受洗し、キリスト者としての歩みを始めたのではないでしょうか。そもそも主イエスを十分に理解し、揺るがない決断をしなければ信仰者になることができないとするなら、だれにもそんなことはできません。けれども幸いなことに私たちを導いてくださるのは神さまです。神さまがとまどう私たちを歩みださせ、そうして歩むうちに私たちは主イエスを知ったのです。今も、知り続けているのです。歩んでみてわかることがあります。歩まなければわからないことがあるのです。


【見よ、世の罪を取り除く神の子羊】
バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(29)と語りました。これこそが彼の証しの中心です。聞いた者たちの中にはイザヤ書53章7節を思い浮かべた者たちもいたことでしょう。こうあります。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と。私たちの罪と弱さ、傷と痛みを負って、十字架に架けられた主イエスのお姿です。私たちが罪の中で、神の赦しを知らず、たがいに傷つけ合っていることを見ていることができないで、この世界に来てくださった主イエスのお姿です。
今日、母の日。なにかそれにちなんだことを、とも思いましたが、やはりルターのことを語ることにします。前回、明野でこの個所から語ったのは、去年の10月31日。ちょうど宗教改革記念日でしうた。宗教改革の先頭に立ったルターが、その四年後に盟友メランヒトンに宛てた手紙は有名です。

あなたが恵みの説教者であれば、つくりものの恵みでなく、ほんものの恵みを説教しなさい。もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪でなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人を救いたまいません。罪人でありなさい、大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。(中略)たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎると、あなたは思うのですか。大胆に祈りなさい、もっとも大胆な罪人になりなさい。

「大胆に罪を犯しなさい」とか「日に千度」といったルター特有の表現は賢く聞いてください。ルターは、キリストの贖いがそこそこのものとして受け取られることにがまんができませんでした。キリストにあって、神が全力を挙げて私たちを赦してくださったからです。贖ってくださったからです。そして「世の罪を取り除く神の子羊」が、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪から回復させ、愛に生きるものにしてくださっていることはいつもお語りしているとおりです。


2022/05/01

主日礼拝 2022/05/01 「後に来られる神(第一主日)」

      

礼拝メッセージ「後に来られる神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章19~28節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書の続きから聴きます。連続講解説教ではありますが、この箇所にはここでなくては聴くことができない、たいせつなメッセージが込められています。耳を傾けましょう。

【わたしは〇〇ではない】
バプテスマのヨハネに、エルサレムから遣わされて来た祭司たちとレビ人たちが「あなたはどなたですか」(19)と訊ねます。ただ、この訳はていねいすぎるように思えます。彼らはヨハネがバプテスマを授けていることを問題にしているのですから「お前はいったい何様のつもりだ。なんの権威があってバプテスマを授けているのか」と責めたのでした。
ヨハネの返答は「わたしは〇〇ではない」でした。自分はキリストではない、エリヤではない、あの預言者ではない、と言ったのです。あの預言者、とは申命記に「あなたの神、【主】はあなた(イスラエル)のうちから、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申18:15)とある人。イスラエルはこの預言者の到来を待ち望んでいました。けれどもヨハネは「わたしではない」と言います。「キリストではない」のは当然としても、ヨハネが「あの預言者でも、エリヤでもない」と言ったのは不思議です。特にエリヤ。マルコ9章などを見ると、主イエスはヨハネがエリヤだと言っているのにもかかわらず。バプテスマのヨハネが「わたしはエリヤではない」と言い続けるには、もちろん理由があります。その理由は、ヨハネがついに「私は〇〇です」と言ったとき明らかになります。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」(23)。ヨハネは自分はだれでもなく「声」だと言うのです。声には姿はありません。ただ、思いを届けるだけです。ヨハネは「私はただの声だ。だれであるかは問題ではない。」と「ためらうことなく告白し」(20)たのでした。私たちも「私は○○です」と言い張るときにさまざまなトラブルを起こします。自分の立場や役職、実績、体験などに固執することが、神さまからゆだねられている役割をさまたげることがないようにと願います。今、ここで、神さまと共に生きるために。

【声が語るもの】
「声」であるヨハネが語ったのは「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(26)でした。後に来られる神、まことの救い主である主イエスを指し示したのでした。
ヨハネが自分のことを「エリヤ」だなどと語っていたなら、人びとの注目はヨハネに集まってしまったことでしょう。そうなるとキリストを証しするという役割を、ヨハネは果たせなくなってしまいます。ところがヨハネは「私はただの声だ。何者でもない」と告白することによって、神さまからゆだねられた役割を果たすことができました。ヨハネの人生が最高の意味に満ちたものとなったのです、不思議なことです。人が自分の人生を握りしめようとするとき、握った手から意味がこぼれ落ちていきます。けれども、軽く握って、その手で主イエスを指し示すときに、私たちの人生は神さまに用いられていきます。人生が意味を持つのです。神さまの願いである世界の回復のお役に立つことができるのです。
「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(27)は、単なる謙遜だと読んではならないところ。主イエスは、ほんとうに私たちをはるかに超えたお方。次元がちがうお方。愛を循環させることが出来ない私たちをほうっておくことができないあわれみにおいて。十字架でご自分を与える激しい愛において。世界を回復させるという壮大な望みにおいて。だから謙遜にふるまわなければ神さまの不興を買う、といったことではないのです。
私は主イエスのことを思うときにターン・オーバーという言葉が頭に浮かんでくることがあります。ひっくり返すという意味ですが、目玉焼きにもターン・オーバーというのがあります。両面焼きです。ターン・オーバーすると上が下に、下が上にさかさまになります。そのように主イエスを受け入れた私たちはひっくり返ってしまっています。もはや主イエスの願いが私たちの願いとなっているのです。履き物のひもを解くのは当時の奴隷の仕事。罰を恐れていやいやしていた奴隷たちもいたでしょう。けれども主イエスの奴隷はターン・オーバーした奴隷。喜びにあふれつつ、自ら進んで、主イエスを指し示す自由なしもべです。


2022/04/24

主日礼拝 2022/04/24 「ひとり子の神(第四主日)」

   

礼拝メッセージ「ひとり子の神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章14~18節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



【ことばは人となって】

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)。この「ことば」は主イエス。天地創造を担われたまことの神が、人となって私たちのところに来られたのです。人となることには覚悟が必要です。人は死にます。十字架の上で死ぬことさえも、覚悟のうえで神は人となりました。そんなにしてでも私たちのところに来ることを望んでくださったのでした。
なぜなら「私たちはこの方の栄光を見た」(14)、これを神が望んだから。旧約聖書を通して、人間は神の栄光、すなわち神を見ることはできない、それを見たら罪ある存在である人間は死んでしまう、そう語られています。「いまだかつて神を見た者はいない。」(18)のです。神は本来見ることができないお方です。だから「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18)とあるように、主イエスが来てくださいました。説き明かすというのは、単に言葉で説明したのではありません。主イエスにおいて人間が神を知り、神のお姿を実際に見ることができたのでした。私たちにご自分を見させ、触らせ、愛し合わせ、神と共にいきることができるようにと、神が望んでくださったのでした。
けれどもそれは当時の弟子たちだけに起こったことではありません。私たちにも起こっています。それが教会です。神さまは私たちに会わずに満足なさることができないお方。ですから、主イエスの体である教会を与えてくださいました。私たちと会うことを神さまは望んでおられます。この礼拝は神が望まれた礼拝です。いま、ここで神が私たちに会ってくださっているのです。そして、神は私たちと共に生きることを望んでおられます。礼拝が終わると、神は私たちと共に、それぞれの場所に出て行ってくださるのです。なぜなら教会は建物ではなく、主イエスと結び合わされた者たちの群れだからです。

【恵みとまこと】
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17)とあります。主イエスが人となってくださったので「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(18)のです。その恵みとまことは、モーセによって与えられた律法の実現です。律法は神と共に歩く歩き方を教えるもの。けれどもイスラエルはそんな歩みに失敗し続けてきました。しかし、いま、主イエスが来られました。恵みとまことをたずさえて。その「恵み」は大きな恵み。神が人となって私たちに会い、私たちと共にいてくださることを望んで、実行してくださったのです。その「まこと」はさらに驚くべきまこと。人となった神が私たちの罪のために十字架に架かってくださったのでした。
私たちの罪。私たちは愛し合いたいと願いつつも、愛を循環させることができないで、苦しみます。率直に語り合い、悔い改め合い、赦し合い、慰め合う循環がどこかで遮られてしまって悲しむのです。たがいを信頼して心を開くことができない恐れが原因であることが多いようです。そうやって立ち尽くす私たちの間に、主イエスが立っています。そして私たちの恐れも歪みも痛みも、そのすべてを十字架で担い、十字架で処分してくださったことを思い出させてくださるのです。

【聖霊によって】
主イエスの恵みとまことは、あまりに私たちの深く、せんさいな部分に届くできごとであるために、表現することも、腑に落ちることも、なかなか時間がかかることもあります。けれども、私たちはみな、どこかでそんな恵みとまことに触れたひとりひとりです。それは理解して納得したからというよりは、聖霊によって知らされたのでした。聖霊は今も私たちに、恵みとまことをさらに満ちさせ、さらに豊かに注いでいます。
私たちは工事中です。まだ完成してはいませんから、しばしば罪、すなわち愛の循環が遮られることを経験します。けれどもこの工事は、世界の回復のための工事。破壊のための工事ではなく、やがて完成する工事です。工事中というとサクラダ・ファミリア教会をイメージする方も多いでしょう。すでに130年も工事中ですが、コロナでさらに遅れているようです。それでもこの傑作はやがて完成します。工事中の私たちも主語である神さまが、愛を動機として、心を開く私たちを通してますます愛する者へと日々変えてくださっています。そんな私たちを通して世界を変えてくださっているのです。

2022/04/17

イースター礼拝 2022/04/17 「証しされた神(イースター)」

  

礼拝メッセージ「証しされた神(イースター)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章6~13節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



イースターおめでとうございます。

これまで2回、ヨハネの福音書の冒頭の部分から聴きました。そこでは1「言(イエス・キリスト)」は人格的な「あなた」と呼びかける存在であること2イエス・キリストは天地創造に関わっていたまことの神であること3イエス・キリストは私たちを生かすいのちであり、暗闇にいる私たちを照らす光である、と語られていました。今日は続く部分から聴きます。

【天から地へ】
「言」「いのち」「光」など天的な語を用いていたヨハネは「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。」(6)と地上のひとりの人に視点を移します。抽象的ともいえる5節までの神さまが、実際に地上に力を及ぼすさまが6節以下に、描かれるのです。
ここでもヨハネの福音書は他の三つの福音書とは異なる記し方です。他の福音書ではバプテスマのヨハネは、罪を責めて、人びとに悔い改めを促し、悔い改めのしるしとしいて洗礼を授けました。ところがヨハネの福音書には、「この人(バプテスマのヨハネ)は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)とあります。この福音書におけるバプテスマのヨハネの視線は「言」「いのち」「光」である主イエスに注がれています。そして私たちの視線も持ち上げさせて主イエスを見させようとするのです。私たちは証しというと、自分の信仰の体験談という意味で使うことが多いと思います。それはいいのですが、問題はそこで主イエスに視線が向けられているかです。そこがたいせつなのです。

【証しするということ】
このように、証しとは、光である主イエスを指し示すことなのですが、それはただの客観的な知識を伝えることとは異なります。証しは決断を迫ります。11節には「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあり、12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。証しを聞いた者たちの反応はふたつに分かれます。光を見たときに、その光の中にとどまるか、それとも暗闇の中に戻るか、に分かれるのです。
すべての人を照らすそのまことの光」(9)とあります。それなのに受け入れない人がいるのは不思議でもあり、痛みでもあります。けれども最も痛んでおられるのは神さまであること、そして、神さまはどこまでもあきらめないで照らし続けてくださっていることを覚えておきたいと思います。

【神の子どもとなる特権】
子どもとなる特権をお与えになった」(12)とあるとおり、神の子となることは、神から与えられた特権です。そもそも特権というのが、権威をもっている人から与えられるものです。自分で自由になるものではないのです。ここに自由意志と神さまのあわれみの緊張関係があります。キリスト教会ではずっと二つの立場がありました。(1)私たちは自由意志で救いを選び取ったから救いに入れられた(2)私たちが選び取ることができたのは神の予定による、この二つです。けれども、この二つは補い合うことによって、私たちへのより大きな神さまの愛を浮かび上がらせているように思えます。私たちが選び取ったといえばそうなのだけれども、けれども私たちが選び取るために、神さまがずっと語りかけ、聖霊によって励まして、選び取らせてくださったこと。また、神さまが特権を与えたという意味では、神さまの予定と言えなくもないのだけれど、やはり神さまは私たちに選び取る余地を残しているのです。神さまの愛は大きくて、言葉では語りつくすことができません。神さまは私たちの意志に呼びかけながら、同時に応答する力も注いでくださっています。
神さまの大きな愛は、今は応答することができない人びとにも、注ぎ続けられています。すべての人をあきらめきれないあわれみのゆえに。御子を十字架に架けるあわれみのゆえに。そのあわれみに気づくようにと、神さまは忍耐強く優しく招き続けてくださっているのです。私たちの愛する人びとをも。ですから、未信の家族や知人のために焦ってはなりません。神さまが彼らをどれほどに愛しておられるのかを覚えていましょう。彼らのためにどれほど痛んでおられるのかも。
北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」で知られます。神が痛むなんて!エレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤(あわれ)むべし」(文語訳聖書)。はらわたが痛むほどの愛が私たちにも彼らにも注がれているのです。心に血と書いてあわれむ。神の心が血を流すほどに私たちをあわれんでくださっているのです。そのあわれみが凝(こご)って、子なる神であるイエスは、ほんとうに十字架の上で痛み、血を流されました。だから私たちは救われました。神の痛みによって、今、神の子とされているのです。
未信の家族や知人にも、神のはらわた痛む愛が注がれています。だから落ち着いて、彼らをよく見て、よく耳を傾けましょう。そこから必ず何かが始まります。

【証し人として】
主イエスは、バプテスマのヨハネは「ヨハネは燃えて輝くともしび」(5:35)だと言いました。私たちも主イエスの置かれた場所で光として輝いて、主イエスを指し示します。もうすでに、指し示しています。復活の主イエスを見上げ、復活の主イエスを証ししているのです。

2022/04/10

教会での礼拝を再開しています。

・感染症対策(マスクの着用/入退出時の手指の消毒/入口での検温/間隔をあけてのご着席)にご理解とご協力をお願いいたします。 

・不安に感じられる方はご無理なさらず、オンラインの配信をご覧下さい。詳しくは教会にお問い合わせください。 

主日礼拝 2022/04/10 「光である神(棕櫚の主日)」


 

礼拝メッセージ「光である神(棕櫚の主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章1~5節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




ヨハネの福音書お冒頭の部分はたいへんに内容豊かなところです。先週に続き、もう一度聴きます。

【初めにことばがあった】

1:1 初めにことばがあった。この「初めに」という単語には、「時間的に一番はやい」という意味以外にも「起源、根源、土台」と言った意味があります。この世界の起源、根源、土台は「ことば」なのです。私たちの人生の起源、根源、土台は「ことば」なのです。ことばなんかあてにならない、と思わないでください。あてにならないのは人間のことば。けれども神のことば、神の語りかけはちがいます。神のことばは世界を創造したことば。そして神のことばは主イエス。私たちのために人となって私たちの間に来てくださった主イエスが、神のことばなのです。だから神のことばは単なる口先のものではありません。だれも見たことがない愛のあらわれを、この世界に実際にもたらすことばなのです。

私たちの人生は、このことばに起源、根源、土台を置いています。主イエスが私たちの人生の土台なのです。ある牧師は「自分の存在の底がキリストである」と言いました。どんなに私たちが落ちていっても、底より下はありません。その底でキリストが私たちを支えています。「信じたら救われる」とはよく聞かされる言葉です。それはそうなのですが、では、私たちの信仰が心もとないときは、私たちは救われていないのでしょうか。とんでもありません。だめだと思う私たちのまだ下の底にキリストはおられます。そこでだめな私たちを支えてくださっているのです。そして、主イエスに土台を置くときに、私たちの人生は変わります。目に見えるところ、意識している部分よりももっと深いところで私たちは変えられました。変えられ続けています。


【三位一体の神が】

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。ここで「この方」と呼ばれている主イエスは、神とともにおられました。「神とともに」と言われると、主イエスは神ではない、ということになりそうです。実際、教会の歴史にそのように考える人びとは常にいたのですが、ヨハネの福音書は、続けてはっきりと「ことばは神であった。」(1)と記します。主イエスは父なる神とともにおられた神。子なる神。教会は聖霊なる神をこれに加え、三位一体という言葉を、聖書から汲みだして語るようになりました。神は三なのか一なのか。どちらかに決めて納得したいのが人間の思いですが、実際に存在するものは、私たちの納得のために存在しているわけではありません。私たちの理解よりも大きな存在があり、私たちの理解よりも大きな愛があります。子なる神を私たちのために遣わされた父なる神。私たちのために遣わされてくださった子なる神。そんな愛を私たちにわからせる聖霊なる神。私たちの理解を超えた愛ゆえに、ひとりの神が、その三位の総力をあげて私たちを愛してくだっている。そんな愛を知ることが三位一体の神を知ることです。


【このいのちは人の光であった】

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。とあります。主イエスにはいのちがあります。そして主イエスを土台とする人にはいのちが与えられているのです。ヨハネはこのいのちは光、人を照らす光だと言います。今も主イエスのいのち、主イエスの光はすべての人を照らしています。それなのに人は、光に背を向け、神に背を向けて闇を自らつくりだしてしまいます。けれども、ヨハネは続けます。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

そんな闇に主イエスが輝いています。神である主イエスが人となって、闇を照らすために来てくださったのです。この世界を、愛の言葉と愛のわざ、そして十字架と復活によって照らしてくださいました。神の愛のことばは主イエスにおいて、輝きの頂点に達したのでした。

闇は光に打ち勝ちませんでした。神さまに背を向ける私たちの闇に主イエスが打ち勝ってくださったのです。だから私たちは光の中を歩みます。ときには自分は信じているのだろうかと思うときもあります。闇の中にいるのでは、と。それでも光の中にいると信じて歩むのです。やがて光が感じられるときがきます。そんな私たちを通して周囲の人びともまた光に招かれていきます。光である神、主イエスがそうしてくださいます。主イエスはそのために、棕櫚の主日に、ろばにのった王として来られた神なのです。


2022/04/03

主日礼拝 2022/04/03「人となった神(受難節第五主日)」

礼拝メッセージ「人となった神(受難節第五主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章1~5節(新約 P.175)
  • 大頭眞一師


(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


今日からヨハネの福音書を最初から読んでまいりたいと思います。このような説教を連続講解説教と呼びます。これに対して説教者が示された箇所から主題を決めて語るのは主題説教。連続講解説教が成り立つためには条件があります。それは会衆のみなさんが、連続して聴き続けてくださること。マタイ・マルコ・ルカの三つの共観福音書とは趣のことなる、それだけに独特の重要性を持つこの福音書から、ごいっしょに主イエスという神がいかなる神であるのか聴いてまいりましょう。


【ヨハネの福音書の目的】
20 章 31 節には「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」とあります。イエスが神の子、つまり神であるキリスト(救い主)であることを、信じて受け入れ、イエスの与えるいのちに与ること。そのためにヨハネの福音書は書かれました。このことを忘れないで、読み進めることにしましょう。

【初めにことばがあった】
ヨハネの福音書は冒頭からして独特です。
1:1 初めにことばがあった。
「ことば」とは、自分以外のだれかに語りかけ、交わりを求める思いを表すものです。ヨハネ 1 章のこの部分は、創世記 1 章を想い起こさせるところ。

創世記 1 章 3 節はこうです。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

天地創造は「光、あれ。」という神のことばによって始まりました。神さまは無言で光を創造することもおできになったはずです。それにもかかわらず、ことばを用いられた。「聞け。わたしは光があることを望む。光が世界を照らすことを望んで光を創る。光の中で生きよ。光を浴びて、美しい世界を見て楽しめ。」という思いを表されたのです。この「光、あれ。」のことばは、天地創造のときからずっと、今も世界に響いています。光を見るたびに私たちは、神さまの思いを思い起こすことができます。光は、そしてこの世界は、もちろん私たちも、神さまが望んで創ってくださったものであること。神さまが、喜んで創ってくださったことを。

【ことばは神であった】
そして「ことばは神であった。」(1)とあります。イエス・キリストは神!地上を人間として歩まれた神!これがヨハネの福音書が描くイエスの本質、ご正体です。今日の説教題は「人となった神」。イエスは神なのです。神が私たちのために人となってこの世界に来てくださったのです。

【世界の初めからの神】
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(3)とヨハネは、イエスが天地創造に深く関わっておられたことを記します。こう聞くと、私たちはすぐに神は何人いるのか、などと考え始めます。ヨハネはだんだんにそのことも明らかにしていきますが、ここではまず、父なる神がこの世界を、そして私たちを創造するときに、イエスが深く関わってくださったこと。イエスは、世界と私たちを望んで、喜んで創る神の思いがほとばしる「ことば」そのもの「思い」そのものであることを、押さえておきたいと思います。イエスは私たちを望み、喜んでおられるのです。人となるはるか前、そもそもの世界の初めから。

ケセン語訳聖書というのをご存じでしょうか。岩手県のお医者さんが大震災の前後に出版されたものですが、3節はこのように訳されています。

神さまの思いが凝(こご)ってあらゆる物ァ生まれ、
それ無しに生まれだ物ァ一づもねァ。
神さまの思い、それは私たちを望み、喜ぶ思い。
父なる神と御子イエスの、その思いによって私たちはここにいるのです。

【いのちを与える神】
「この方にはいのちがあった。」(4)はヨハネの福音書の目的である「いのち」が与えられることを、明らかにしています。この「いのち」についてもだんだんと深く語られていきます。「このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(4-5)とあるように、主イエスの与えるいのちは私たちを闇から救い出すもの。このこともだんだん私たちに知らされていきます。

罪であれ、死であれ、断絶であれ、争いであれ、すべて闇に属するものを主イエスは打ち負かしました。今も打ち負かします。そのために十字架で死んだ主イエスは、復活して今も輝いているのです。世界はいま、戦争や自然災害でうめいています。暗闇が私たちをおおっているようにも思えます。けれども、闇はこれに打ち勝たなかった!

私の友人がこんなことを言っていました。「聖書のことばとは神の人格そのものだ。それはすなわち、私たちが神との人格的関係=ことばの関係を持つことが出来るために書かれたのだ」と。主イエスは神のことば。主イエスは神であり、同時る神のことばなのです。このお方によって、私たちは神との人格的関係を持ち、その関係に進んでいくことができます。これからヨハネの福音書を、おおよそ2年ほどかけて読んでまいります。読むうちに、イエスという神との交わりが深まり、主イエスが与えるいのちがますます私たちに増し加えられますように。