2023/10/29

礼拝メッセージ「証しする神」ヨハネの福音書15章26節-16章4a節 大頭眞一牧師 2023/10/29


先ほどは幸いなお証しをうかがいました。今後はだいたい毎月おひとりずつ、信愛からも明野からも、と思います。証しは、信仰の体験談だと、説明されることもあります。確かにそうなのですが、それは「自分の体験」であると同時に、とりわけ「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」そして「イエス・キリストはいかなるお方なのか」の証しなのです。

【主イエスを見ていない私たち】

「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」はまだしも、「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることは難しいと思う方が多いかもしれません。なぜなら、私たちはイエス・キリストを肉眼では見ていないからです。使徒信条にあるように、主イエスは十字架に架かり、よみがえり、今は再臨のときまで、父の右におられます。十字架から二千年後に生まれた、私たちは主イエスを見たことがない。そんな私たちが「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しするのは確かに無理なことのように思えます。

【主イエスを見ていなかった弟子たち】

では、イエス・キリストを肉眼で見た弟子たちはどうでしょうか。確かに彼らは、主イエスを見ていました。また時には「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。けれども主イエスが捕らえられたときには、みな逃げ去りました。「生ける神の子キリスト」と告白したペテロも三度、主イエスを知らないと言ったのです。彼らは主イエスを見ているようで、見ていなかった。ほんとうには「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を知らないでいたのでした。

【主イエスを見ている教会】

ところが主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」(27)と。この「あなたがた」は12人の弟子(使徒)のことではありません。教会のことです。そもそも、ヨハネの15章からは、教会に向けて語られた言葉。最後の晩餐の場面なのですけれども、後に迫害に苦しむことになる教会に向かって主イエスが語っておられるのです。

「あなたがたも証しします」と主イエスはおっしゃる。教会は主イエスを証しすると。逃げだした弟子たちも、主イエスを見ていない私たちも、イエスを証しすると。その理由は26節。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」ペンテコステに降った聖霊によって、教会は「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができます。ペテロたち、使徒たちは、聖霊が降って、力強く証しを始めました。同じ聖霊がここにいる私たちにも遣わされています。ですから私たちは主イエスを見ていないのに、主イエスを証しすることができます。「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができるのです。

【イエス・キリストはいかなるお方なのか】

ですから、私たちは「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しできない、などと言ってはなりません。私たちにはできます。見たことはないけれど、聖霊によって。言葉は足りなくても、心と思いとふるまいで。私たちを愛し、私たちをそのままにしておくことができないで、私たちのためにこの世に来てくださった神であるイエス・キリストを。私たちの傷を、重荷を、痛みを、罪を、すべて十字架で負ってくださったお方、イエス・キリストを。

先週は、才脇牧師をお招きして幸いなメッセージをお聴きすることができました。傷ついたひとりの青年に主イエスは会ってくださいました。そして、その傷をいやし、いやし続け、立ち上がらせて、「イエス・キリストは私の救い主、私のためになにも惜しむことをなさらなかったお方。私に尽きない愛を注ぎ続ける人となられた神」と証しさせてくださっているのです。

そんな証しを聴くとき、私たちのたましいも喜びの声を上げます。そんな私たちを通して、主イエスは、世界のうめきに届かれます。神と人の間が破れ、人と人との間が破れ、人と被造物の間が破れている、うめきに。イエス・キリストは世界の救い主。私を救い、私たちを救い、私たちを通して、私たちと共に働いて、世界を救う神であり、王。そして何よりも、イエス・キリストは私たちが愛するお方です。私たちもこのイエスを証しします。そして、ほんとうは証しするのは神ご自身なのです。私たちを通して、私たちと共に。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/10/24

2023/10/16

礼拝メッセージ「憎まれる神」ヨハネの福音書15章18-25節 大頭眞一牧師 2023/10/15


この朝も主イエスの語りかけを聴きます。私たちのために十字架に架かったイエス。そのイエスがどうしても弟子たちに、そして私たち教会の心に刻みたいと願った言葉と愛です。

【世に憎まれる私たち】

「世はあなたがたを憎むのです。」(19d)にはドキリとさせられます。私たちは人から好かれ、仲良く生きるクリスチャンでいたいと思うからです。これから洗礼を受けようとする人は、こういう言葉を聞くと、考え込んでしまうかもしれません。けれども、この「憎む」は「嫌う」という意味ではありません。確かに初期の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが命を落とすことになりました。日本の禁教の時代のキリシタンも。しかし、それは彼らが嫌われていたからではなく、そこにはもっと根源的な理由がありました。

【キリストのものである私たち】

その理由は「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19a-c)です。つまり、私たちは世のものではなく、キリストのものとなっているのです。この世のものは、この世の生き方でこの世の目的を達成しようとします。ローマは軍事力と支配のさじ加減で世界を押さえつけようとします。ローマの繁栄と誇りの維持が目的です。ユダヤ人も、あるものは武力蜂起によって、あるものはローマにすり寄ることによって、ユダヤを解放、少なくとも現状を維持しようとします。ユダヤの誇りと自由が目的です。

ところがキリストのものたちは、まったく異なる生き方でまったく異なる目的を達成しようとします。それは、もちろんキリストの生き方、キリストの目的と同じです。

【キリストの生き方、キリストの目的】

キリストの生き方は、十字架に鮮やかです。こう言うと、「十字架は死に方では?」と思うかもしれません。しかし、主イエスはご自分を与え続けて生きました。ご自分を憎み、敵対す者のためにも。そんな生き方の頂点が十字架なのです。ですから、キリストの生き方は自分を与える生き方。そして、キリストの目的は、世界を回復することです。

ローマもユダヤも、神から離れてしまっています。力や脅し、利益による誘導といった生き方において。そんな生き方は、国際政治だけでなく、企業や地域、家庭や子どもたちにまで及んでいます。また目的とする繁栄や誇りや自由も、神の与えようとしているそれらから離れてしまっています。神と共に、隣人の共に愛に生きることが、神が与える繁栄・自由・誇り。それなのに、世はたがいを押しのけ合うことによって、自分の手でつかみ取ろうとするのです。

そんな世にとって、キリストの生き方と目的は、危険です。なぜなら、世のルールなら、奪われたら奪い返せばよい。痛めつけられたら、痛めつければよいのです。けれども、私たちはちがいます。私たちは、奪われたものを取り戻す以上のことを願います。奪った者たちが与えるようになることを。痛めつけた者たちが、自分が与えた痛みに痛むようになることを。これは確かに、世の生き方にとっては、我慢できないことにちがいありません。生き方そのもの、ルールそのものの変更を求めるからです。これまで誇りとしてきたこがアップサイドダウン(上下反転)することだからです。

【世から選ばれた私たち】

わたしたちが、キリストの生き方、キリストの目的を知り、喜び、そこにとどまるようになったことは不思議なことです。その理由は「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19c)にあります。私たちが選ばれているけれども、教会に来ていない人は選ばれていない、そんなことではありません。神はすべての人に、いのちを与えることを望んでおられます。それなのに、ちっとも特別ではない私たちがそのいのちに与ることができました。理由もなく。その不思議は、神が選び出したとしか言いようがないのです。だから私たちは選び出されたことを誇るのではありません。私たちをほうっておくことができなかった神を誇ります。

私たちには生命を奪われるような迫害はありません。けれども、キリストの生き方、キリストの目的は、世を不安にさせます。これでいいのか、と。不安は反感を、反感は憎しみを生み出すでしょう。その憎しみを受け止め、「だいじょうぶだ。心を開いて、神に抱かれよ」と私たちは語ります。キリストのものだから。聖餐に与ります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/10/10

礼拝メッセージ「友と呼ぶ神」ヨハネの福音書15章11-17節 大頭眞一牧師 2023/10/08


先週に続いてこの個所からもう一度聴きます。教会に語り掛ける主イエスの愛の招きに我を忘れ、何かをしなければならないという思いも忘れて、聴き入りましょう。

【喜びのイエス】

「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(11)とあります。主イエスが来られた目的は、喜び!「わたしの喜び」ですから、主イエスが喜んでおられるのです。父なる神に愛されているイエスの喜び。私たちと愛し合うイエスの喜び。二つの喜びをひとつに結びつけるために、神であるイエスが人となりました。こうして私たちも喜びに満ちあふれるようになりました。もうすでに。さらに、ますます。

【友のためにいのちを捨てる】

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13)については、先週も聴きました。「真に自由な人間として生きよ!痛みのなかでも、愛することができる自由を!」と。

2006年10月3日、アメリカのペンシルベニア州ニッケル・マインズという町で銃による事件が起こりました。アーミッシュ(伝統を大切にするプロテスタントの一派)の学校で非アーミッシュの青年が銃を乱射、女生徒5人が即日死亡、さらに5人が重傷を負ったのです。最年長で13才のマリアンが「私から撃って」と言い、2番目の年長の11才のバービーは「その次は私を」と続けたということも私たちの心を震わせます。けれども、何より世界を驚かせたのはアーミッシュ共同体が、事件後数日以内に、自殺した加害者への赦しを表明したことでした。事件の当夜、加害者の父親を訪ねて抱擁し、「私たちはあなたを赦します」と言ったアーミッシュがいたそうです。また、加害者の葬儀の75人の出席者の半分以上がアーミッシュだったというのです。すぐに同じことをせよ、と言うのではありません。アーミッシュは共同体の生活の中で、何世代にも渡って赦すことがもたらす祝福を体感してきました。赦せないことは加害者に「支配」されていることであり、赦すことは赦す者を癒します。そして赦すことは加害者とその家族を人間として遇して、世界に生じたほころびを繕うことになるのです。

ここには「友のために」にとどまらず「友でない人びとを友とするために」という生き方があります。そんな生き方は私たちのうちに始まっています。もうすでに。さらに、ますます。

【神との友情】

「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(14-15)は、私たちの度肝を抜きます。「自分のようなものは」とひれ伏し、あるいは「なんとかお慈悲を。このささやかな願いをかなえてください」とすがる私たち。主イエスはそんな私たちの手を取って、立ち上がらせ、「あなたがたはわたしの友だ。父のこころを知り、わたしのこころを知っているからだ」と。なんということか、と思います。けれでも、深くうなずきもします。神のかたちにつくられた私たちが、そのかたちに回復されていくのですから。神のこころをもった神の友となるのです。人の創造はまさに神の友となるためでした。よき神はそんなよきことを私たちのために願ってくださったのでした。

先週の「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7)が思い起こされます。初代教会の教父アレクサンドリアのクレメンスは、「祈りとは神との友情を育てること」だと言ったそうです。私たちが願うその願いは、神さまの願いとひとつです。神との友情を育てること。思うにまかせぬことの多い毎日の中で、私たちは悩みます。苦しんでいます。そんな時間が長く続くと、それがまったく無駄な遅延のように感じられます。けれども、そんな無駄に思える時間にも、少なくともひとつ、成長しているものがあります。それが神との友情。苦しみの中で、惑いの中で、もうすでに。さらに、ますます。それこそが、私たちの目的であり、手段であり、喜びであり、生きることなのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/10/03

礼拝メッセージ「愛にとどまらせる神」ヨハネの福音書15章7-17節 大頭眞一牧師 2023/10/01


新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章。なかでも15章以後は、ヨハネが特に教会のために記した箇所と考えられます。今日の箇所はとりわけ内容豊かですので、来週と2回にわたって聴くことにします。

【イエスにとどまる私たち】

先週は、ぶどうの木と枝のたとえでした。イエスは「つながりなさい」と命じているのではありません。私たちは、もうイエスにつながっている。枝である私たちのするべきことは、ただ一つ。木から流れ込んでくるいのちに心を閉ざさないこと。木のなすままにされて、いのちを注がれること。こうして仲間と共に、主イエスのみ前にいることです。もっと祈らなければ、もっと聖書を読まなければ、主イエスにつながれない、ということではないのです。

【何でもかなえられる】

続いて主イエスは約束します。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7)と。もちろん私たちのどんな欲望でもかなえてくださる、というわけではありません。イエスにとどまる私たちは、イエスから流れ込むいのちによって、歪(ゆが)みをいやされ成長しています。それにつれて、私たちのほんとうの欲しいもの、ほんとうの望みが明らかになってきました。それは神と同じ望み。世界の歪みが癒されて、回復することです。神は私たちを通して、私たちと共に、世界の回復を実現してくださるのです。

【愛され愛する私たち】

この個所には愛の本質が描かれています。それは愛された者は愛する者になるということです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(9)では、父からイエスに愛が注がれ、イエスから私たちに愛が注がれます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(12)では、イエスから私たちに愛が注がれ、私たちからたがいに愛が注がれます。私たちの愛の源は、イエスであり、父なる神です。

「私には愛が足りません」といつもうなだれる私たち。しかしその失望は的外れです。そもそも愛の源は私たちのうちにはないからです。私たちの愛は父と子から注がれる愛。無尽蔵の愛。子の十字架をも惜しむことがなかった愛です。この愛が注がれているのです。ぶどうの木であるイエスから枝である私たちに。

【友のためにいのちを捨てる】

それにしても13節は私たちを揺さぶります。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13)。そんなことはとてもできない!と。でも、そう言う前に知っておくべきことがあります。

まず、私たちはたじろぎながらも、友をどこまでも愛することを願っているということです。私たちのほんとうの願いは、愛することなのです。

次に、私たちには無尽蔵の愛が注がれていることです。私たちのために子を惜しむことがなかった父の愛と、ご自分を惜しむことがなかった子の愛が。愛に不足はないのです。

その上で、主イエスの戒めは「死ね」ではなく、「生きよ」という命令であることを心に刻むことがたいせつです。迫害の時代のヨハネの教会では、実際に、自分を犠牲にして友を逃がすといったこともあったことでしょう。けれども、それは彼らが毎日、友のために死ぬ練習をしていたからできたのではありません。そうではなくて、彼らの毎日は与え合う毎日。与え合うことを喜び合って生きる毎日でした。その喜びの日々の延長上に友のために死ぬことがあったのです。

そのころの書物を見ると殉教は奨励されていなかったことがわかります。逆に「迫害にあったら逃げて生き延びよ」と記されています。逃げて、逃げて、それでも、逃げきれずに捕らえられたなら、そのときは、神が殉教させてくださるから心配しないでよい、と。

生きよ! と、今日も主イエスの声は響きます。置かれた場所で、仲間がともにいることを喜び、楽しめ、と。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(8)とあります。私たちは神の栄光です。すでに、もう。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)