2024/10/28

礼拝メッセージ「私たちを形作る恵み」コリント人への手紙第一15章9-11節 藤森旭牧師 2024/10/27


先週、東海聖化大会が名古屋インマヌエル教会で行われました。現在能登地方で牧会をしておられる羽咋聖書教会の永井仁志先生が、自身も被災者でありながら能登で災害援助に当たっているクリスチャン達の現状を聞かせて下さいました。「何故、神は災害が起こるのを許されるのか」という問いは、クリスチャンだけに限らず、人間全体にとっての大きな疑問であるように思われます。しかし、その解答は明確に出るものではありません。そして解答が得られずとも、現実の対応には追われます。そのように悩みながら苦闘するクリスチャン達の体験の中にこそ、私たちが見過ごしてはならない大切な真理があるのではないでしょうか。

今日の箇所で自身について独白するパウロも、元々は教会の迫害者でした。彼はステパノへの迫害に加担し、多くの教会を破壊し、聖徒達を捕らえ、ついにはダマスコの教会までも遠征して打ち壊そうとした元反キリストの急先鋒でした。「何故このような男の存在が許されているのか」「何故、ステパノを殺し、多くの兄姉を捕らえる前に神はパウロを殺してくださらなかったのか」「何故このような男をこの世に生まれさせたのか」当時の教会に生きていた兄姉達は、そう考えずにいられなかったと思われます。しかし、それはパウロ本人にすら判らないことで、神様以外の誰にも解き明かすことが出来ない神秘なのでした。後の重要人物だから神様は生かすしかなかったのでしょうか。それはパウロ本人が、あくまで神の恵みに過ぎず必然性は何もないと否定しています(10節)。もしかすれば、神学や聖句を駆使すれば、解答の予測ぐらいは立てることが可能かもしれませんが、それを出したところで、結局は仮説の域を出ることはありません。神様側の事情など、私たちの知恵で解き明かせるものではないからです。しかし、私たちの心の内には罪があるので、苦難の中のヨブのように、どうしても答えの出ない疑問に固執し、それを自身の知恵で解決できかのように思い込んでしまいます。そして最終的には神様に対し、したり顔で評価を下そうとするのです。ここに人間の罪があります。

では、答えの出ない問題に対して、私たちはどのように向き合うべきなのでしょうか。能登地方のクリスチャン達は、地震が起こり、故もなく突然被害を受け、自身も被災者であるのに他の人々の救援に向かい、ようやく希望が見えてきたところで集中豪雨の被害を受けて希望が打ち砕かれ、常に絶望と隣り合わせの中で今も戦い続けています。しかし、その中でも他の地方のクリスチャン達が救援に駆け付けてくれたり、地道な努力が能登地方の人々に受け入れられて、今までにないぐらいに教会の存在が認められたりと、絶望の中でも、一つ一つ神様の恵みの御業が積みあがる様子を目撃できていると永井先生は言われました。先生はその中で、「私たちがくずおれた時にこそ、主は立ち上がってくださる」と言う確信が与えられ、「何故災害が起こったのか」という答えの出ない疑問について考えるのは止めて、今困難の中で寄り添って下さる神様の愛と恵みの御業のみに目を向けて行こうと思われたのだそうです。

パウロも、結局何故自分が生かされたのかという問いの答えを見いだせなかったようです。しかし、せめて自身に与えられた恵みを無駄にはすまいと懸命に働きました。答えの出ない疑問にしがみつくよりも、自分を形作る神様の恵みにのみ目を向け、それに応答することに集中したからです。私たちの人生は常に理不尽だらけで、答えの出ない疑問もたくさんあります。しかし、その中でこそ、答えの出ない疑問にしがみ付くのではなく、今の私たちを形作っている神様の恵みの御業にのみ、目を向けるべきなのではないでしょうか。今、確実に存在する恵みに目を向けて感謝し、応答することが出来る。そのような信仰をいつも持ち続けましょう。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/10/26

たかはしだいち作品展のご案内(2024/11/24-12/1)

 ※この記事は 11/24-12/1に開催される「たかはしだいち作品展」のお知らせです。


【たかはしだいち作品展 2024/11/24-12/1】


京都信愛教会ではこのたび、「たかはしだいち作品展」を開催いたします。


クリスチャンとして作品を発表されているたかはしだいちさんの作品は、どれも温かみのある素晴らしいものです。

どなたもどうぞお越しになってご覧ください。期間中毎日、作者が在廊しています。


どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)


詳しくは、下のチラシをご覧ください。




■アーティスト紹介

たかはしだいち

1985年京都生まれ 東京在住

アニメーション背景会社の手伝いつつ、作品制作をしている。

吉祥寺などでイラスト作品展を開催している。


形にならない愛、この世界に生まれた喜びの表現を探求している。


〜キリスト教との出会い〜

キリスト教とは無縁の家庭に生まれ、西洋キリスト教に感覚的な反感を持ちながら育つ。

京都の美術大学でクリスチャンの友人と出会いで、知識と実際の信仰者とのギャップに驚く。

キリスト教に対して無知な偏見があったことを痛感。

興味を持ち三浦綾子エッセイなどで学びを深めていく。

大学卒業後東京に上京イエス・キリストを救い主と受け入れ、信仰を持ちクリスチャンとなる。


■日時

2024年11月24日(日)~12月1日(日) 10:00~18:30

(ただし日曜日は 13:00~18:30)

期間中毎日、作者が在廊しています


■会場

日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会

京都市北区大将軍坂田町21番地12

TEL: (075)461-1938

牧師: 大頭眞一


どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

ファミリーコンサートのご案内(2024/11/17)

 ※この記事は 11/17に開催される「ファミリーコンサート」のお知らせです。


【ファミリーコンサート 2024/11/17】

京都信愛教会では昨年に引き続き「ゴスペルコンサート」を行います。


今年も地域の方々、そして京都信愛教会の教会員や家族が、それぞれ楽器や声楽で、いろいろな音楽を奏でます。

賛美歌を始め、クラシックやポップス、ヘルマンハープまで、いろんな音楽を楽しみましょう♪

 

ご家族、ご友人の方々もぜひ、お越しください!


どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)


詳しくは、下のチラシをご覧ください。



■日時

2024年11月17日(日) 開場13:00、開演13:30~15:00


■会場

日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会

京都市北区大将軍坂田町21番地12

TEL: (075)461-1938

牧師: 大頭眞一


どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。

2024/10/21

礼拝メッセージ「主の祈り⑥国と力と栄えとは」ルカの福音書2章1-14節 大頭眞一牧師 2024/10/20


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【ふたりの王】

イエス誕生のとき、ローマ皇帝アウグストゥスは、すでに四半世紀にわたって、地図のように広大な領土を支配し、平和をもたらしました。しかしその平和は独裁制と税という対価を強いるものでした。

一方、この地上最強の王の命令によって、人口調査が行われ、その結果、ユダヤのベツレヘムで、もう一人の王が誕生しました。貧しく、弱く、十字架に架けられることになる王です。そして御使いと天の軍勢はこの赤ん坊をほんとうの王だと、賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と。

【大逆転】

「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」という主の祈りの最後の頌栄は、実はマタイ6章にもルカ11章にもありません。けれどもイエスの時代から1世紀以内には定着しています。ですから、教会が祈るとき、祈りとしてはこの頌栄を加えて祈られていたと見て、まちがいないでしょう。そしてこの頌栄を祈るとき、私たちの生き方が逆転するのです

異教の帝国は「私の王国を支持しなければ、お前を殺す」と脅迫します。イエスの王国は、すべての人を赦し、受け入れるあわれみ深い王によって、異教の帝国に浸透していきます。

異教の力はピラトのように「真理とは何か?」と問いながら、答えであるイエスを知ろうとせず、殺します。イエスの力は、すべての力はいと高き所から来ることを静かに思い起こさせ、世界の救いのために神の愛を真(しん)に生き続ける力です。

異教の栄光は数々の戦勝記念碑ですが、イエスの栄光は、私たちにいのちを与え、私たちをご自分と似た生き方に招く十字架と復活です。

【主の祈り】

ですから主の祈りを祈ることは、イエスのメッセージ、イエスの計画、イエスの生涯そのものを受け止めて自分のものにすることです。

  1. そのために、私たちはカエサルの王国の力と栄光に黙って従うことをしません。イエスの王国の力と栄光を身に帯びて働きます。この世のルール、この世の価値観、この世の生き方をそのまま受け入れるのではなく、聖書からイエスの心を知り、その心を生きます。
  2. そのために、私たちは油注がれた御子にあって、イエスに油注がれ、聖霊の力を求めます。人を支配されたり、支配したりすることから解放されて、もっとも自分らしく、おたがいらしく、生き生きとともに歩んでいきます。
  3. そのために、私たちはイエスの名を呼び、イエスに訴えます。私たちが自分の計画や願いを保留し、軽く握って、それを神に作り直していただく心構えを与えていただくことによって。そのとき私たちの見たことがないような、経験をはるかに超えたできごとが、実現していきます。

アーメン! アーメン! アーメン!


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/10/14

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2024/10/13


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/10/07

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2024/10/06


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」というのは祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったのだから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。

けれどもそこにイエスの御声が響きます。イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)