2022/06/24

主日礼拝 2022/06/26 「霊から生まれさせる神(第四主日)」

 礼拝メッセージ「霊から生まれさせる神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章1~10節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所で主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。」と二度繰り返します。これは主イエスがとてもたいせつなことを語るときに用いる言葉。「今から言うことは大事なことだからよく聞きなさい」というのです。私たちもこのたいせつなことを聴き取りましょう。

【新しく生まれなければ】
主イエスのたいせつなこととは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)でした。主イエスは私たちが新しく生まれることを求めるのです。「神の国」というのは、死んでから行く天国ではありません。いま、この地上に始まっている神の支配。こうしているうちにも広がって、やがて完成する神の支配です。神の国を「見る」というのは、ただ傍観者として眺めることではありません。神の国に入ることです。神の支配の国に入って、神の支配を体験し、神の支配のもとで神と共に神の国を広げること、それが神の国を見ることです。主イエスは死んで天国に行くことができるために、信仰をもつよう努力しない、と言っているのではありません。「新しく生まれなさい。そしたら、今すぐの神の国に入ることができる」と言っているのです。

【どうしてそのようなことが】
けれどもニコデモには新しく生まれることも、神の国に入ることもわかりませんでした。彼は、旧約聖書に精通し、律法に従って生き、人びとにもそう教えていたパリサイ人。ユダヤ人の議員、すなわち大祭司を議長とする71人からなる最高法院のメンバーでもありました。当時としては最高の学識と道徳を備えたニコデモですが、それでも彼には新しく生まれることがわかりません。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4)と言うのです。「新しく生まれる」を私たちは聞き慣れていますが、考えてみれば実に不思議なことばです。私たちがこのことをわかっていることのほうが不思議なのです。

【水と御霊によって】
私たちはなぜこの不思議なことがわかったのでしょうか。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5-6)とあります。主イエスを知らない者、「肉によって生まれた者」には新しく生まれること、神の国に入ることはわかりません。「水(洗礼)と御霊によって生まれた者」だけがわかるのです。これは困ったことです。御霊によって生まれなければ、つまり、新しく生まれなければ、新しく生まれることはわからないのです。どんなに努力しても。これでは神の国の入り口は閉ざされているように見えます。

【風の音を聴け】
神の国への入り口は私たちが見つけるのではなく、主イエスが与えてくださいます。私たちにはわからない「霊」を、主イエスは風にたとえて教えました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(8)と。風は私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に吹いてきます。霊(欄外註を参照。風と霊は同じプネウマという語)も同じです。私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に働いて、そして、私たちを新しく生まれさせます。ふりかえってみれば、まさに私たちもそのように新しく生まれたのでした。私たちがしたのは風の音を聴こうとしたこと。神さまの私たちへの招きを期待して心を開いて耳を傾けたことです。

【神の大きな物語の中で】
これがわからなかったニコデモに主イエスが「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」(10)と言ったのは重要です。教区では、鎌野直人師から神の壮大な計画を学んでいます。神さまは傷ついてしまったこの世界を回復しておられます。その計画の要がイスラエルであり、そこから出た主イエスです。旧約聖書に通じたニコデモこそがこの大きな計画を知り、神さまと共に生き、人びとを招くべきだったのです。幸いなことにニコデモは新しく生まれることができました。十字架に架けられた主イエスの葬りに尽くしたのです。私たちもまた御子のご降誕と十字架に与りました。神の国に入り、神の国のために働くものとされています。置かれたそれぞれの場所で。

2022/06/17

主日礼拝 2022/06/19 「人の心を知る神(第三主日)」

礼拝メッセージ「人の心を知る神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章23~25節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




先週の箇所で、過越の祭りの最中に、エルサレムで宮清め事件を起こされた主イエス。今日の箇所ではそれに続く箇所。人びとを見つめる主イエスのまなざしが、いわば内側から描かれています。そのまなざしは、もちろん愛のまなざしです。

【人の心を知る神】
主イエスは過越の祭りの間、いくつかの奇蹟を行ったようです。「多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(23)の「しるし」が複数形であることからそれがわかります。ところが「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(24)とあります。実はこの「お任せになる」という語は、「多くの人たちが…信じた」とある語と同じ単語です。つまり、人々はイエスを信じたのですが、イエスはその人びとを信じなかったというのです。せっかく信じた人々がいるのに、主イエスはその人々を信じなかったというのです。行動を共にされようとしなかった、というのです。不思議に思えるのですが、そこにはもちろん理由がありました。
それは主イエスが「すべての人を知っていた」(24)からでした。主イエスは人の心を知る神。「人についてだれの証言も必要とされなかった」(25)とあるように私たちが自分について語る言葉よりも、あるいは、他の人が私たちについて語る言葉よりも、私たちをよくご存じです。「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)のです。
このことは恐ろしく思えるかもしれません。けれども神さまが私たちのうちに何があるかを知っていてくださっていることは大きな慰めでもあります。私たちはときに他の人から誤解されたり、厳しい言葉で責められたりすることがあります。けれども神さまはすべての人を知っておられます。だからどんなときも私たちを支えてくださいます。あるいは私たち自身が不当に自分を責めたり、落ち込んだりすることもあります。けれども神さまは私たちを私たち自身よりもよく知っておられます。そして私たちを励まし、ご自分に結び合わせてくださるのです。

【自分をお任せに】
主イエスが知っておられたエルサレムの人々の心は底の浅い表面的な心でした。彼らは奇蹟を見て、その奇蹟によって与えられる恩恵を求めてついていきました。後に登場する五つのパンと二匹の魚によって養われた人々もそうでした。そしてそのような人々は去っていくのです。彼らには主イエスとの愛の絆を求める思いがないからです。私たちの人生に意味を与えるものは、愛の絆。神との愛の絆、人との愛の絆です。たがいをたいせつにし、自分を与え合う愛の絆こそ、主イエスが与えてくださるもっともよきもの。主イエスが、人となり、十字架で死に、イースターに復活して、ペンテコステに聖霊を与えたのは、愛の絆のためであり、それ以下のことのためではないのです。主イエスは、私たちに愛の絆をお求めになります。そしてそのようにご自身を愛する者に「自分をお任せに」なるのです。

【人の心を知る神だからこそ】
そう聞くと、私たちは思います。私は主イエスを愛しているだろうか。主イエスが私たちに「自分をお任せに」なることができるほどに、主イエスを愛してきただろうか、と。するといろいろなことが思い浮かびます。やはり自分は本当の信仰者ではない、本当の愛の絆を持たないものだとしゃがみ込んでしまいたくなります。
けれども忘れてはならないことがあります。それは、主イエスが「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)ことです。主イエスは私たちのうちに何があるかを知っておられます。私たちが罪ある者であること、神との愛の絆、人との愛の絆を、しばしば簡単に切り離してしまう者であること、そのことを痛みながらもまた繰り返してしまうものであること、しばしば神のお心よりも自分の願いの実現を求め、そのために神と人を利用してしまう者であること、それらをみな知っておられるのです。
そして主イエスはそんな私たちのすべてを知った上で、この世界に来てくださいました。私たちをほうっておくことができなかったら。私たちを罪から解き放ち、新しいいのちを与えて、愛の絆に生きるものとするために。エルサレムでは人々にご自分をお任せにならず、人々を信じなかった主イエスを、今は私たちにご自分を、そしてご自分の使命をお任せになり、私たちと共に生きてくださっています。御霊によって。

2022/06/10

主日礼拝 2022/06/12 「礼拝を与える神(第二主日)」

      

礼拝メッセージ「礼拝を与える神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章13~22節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




この直前のところにはガリラヤのカナの婚礼。主イエスの最初の奇蹟が喜びの婚礼の祝宴で行われたことを語っていました。主イエスはそこからエルサレムへ移動され、過越の祭りに臨まれます。そこでは、うってかわってたいへん厳しいお姿をお見せになりました。主イエスが暴力的にも見える行動をとられたのはここだけ。なぜそれほどに怒られたのでしょうか。今朝は、その怒りの背後にある愛を聴き取りましょう。

【わたしの父の家】
神殿では「牛や羊や鳩」(14)を売っていました。遠方からやってくる礼拝者たちに、祭司認定済ずみの犠牲の動物を提供するためでした。また「両替人」(15)がいました。神に献げることができるのはローマの貨幣ではなく特別な貨幣だけだったからです。どちらも神殿での礼拝に必要なものです。手数料を取っていたにせよ、それほど責められることでもないように思えます。
ここにはヨハネの福音書に顕著な二階建て構造とも呼ぶべき書き方があります。一階では、神殿での商売が問題にされています。けれども、主イエスは商売人のひとりひとりに怒っているのではありません。二階では神殿での礼拝そのものが扱われています。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)と。直訳すれば「私はそれを立ち上がらせる」となります。「それ」とは神殿のことではありません。礼拝。「四十六年かかった」(20)というのはヘロデ大王が行った神殿の大拡張工事。目を見張るような壮大なものです。けれどもそこで行われる礼拝は本来の姿を失っていました。礼拝の中で神の民がいのちと喜びに満たされ、世界の主である神さまをたたえ、傷ついた世界の回復のためにそこから遣わされる。そんな礼拝ではなくなってしまっていたのです。でもイエスはまことの礼拝を立ち上がらせると言います。一階の宮清めは、二階のまことの礼拝の再建に目を向けさせようとしているのです。主イエスの願いはそこにあったのです。

【あなたの家を思う熱心が】
主イエスの願いは熱烈でした。弟子たちは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(17)という詩篇69篇を思い出しました。そこには「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)とあります。まさにこの嘲りは十字架で実現しました。唾をかけられ、罵られて。けれども主イエスは、自ら望んでそこに身を置いてくださいました。私たちのいのちを回復し、喜びを回復し、礼拝を回復するために。

【ご自分のからだという神殿】
「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(19)は新改訳2017。以前の新改訳第三版では「三日でそれを建てよう」となっていました。2017は訳しすぎのようにも思いますが、気持ちは分かります。礼拝の再建は、主イエスの十字架と復活によってなされます。神を愛することができず、たがいを愛することができず、自分を愛することができない私たち。そんな私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世に来てくださいました。そして、神に受け入れられた私たちに神を受け入れさせ、たがいを受け入れ合うことができるようにさせ、私たちが私たち自身を受け入れることができるようにさせてくださいました。そこから愛の回復を始めてくださったのです。
だからいま、私たちはここにいます。礼拝に。この礼拝はまことの礼拝です。なぜならこの礼拝は主イエスが与えてくださり、主イエスがまことの礼拝としてくださった礼拝だからです。

【過越の小羊イエス】
宮清めが過越の祭りで起こったのは偶然ではありません。主イエスご自身が過越の小羊としてご自分を献げてくださったのです。ヘンリー・ナウエンの言葉を思い出します。「イエスのように、解放を宣言する者は、自分自身の傷や他者の傷をケアするのみではなく、自らの傷を癒やしの力の大きな源泉たらしめるべく呼ばれています」(『傷ついた癒し人』より)。傷ある私たち。癒されつつある私たち。完全ではない私たち。強がるのではなく、このありのままの私たちを通して、主イエスは働かれます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちに働くことができます。私たちが限りある弱い者であるから、主イエスは私たちを通して世界を回復させることができます。このまことの礼拝から私たちを遣わしてくださるのです。

2022/06/03

ペンテコステ礼拝 2022/06/05 「祝福する神(第一主日)」

     

礼拝メッセージ「祝福する神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書2章1~12節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



ヨハネの福音書が記す主イエスの最初の奇蹟です。これが結婚式の祝宴で行われたことは主イエスの使命が喜びをもたらすためであったことをよく表しています。このとき主イエスは、決してしかめっつらではなく、人びとと共に談笑し、喜びを分かち合っておられたことでしょう。主イエスは喜びの主なのです。

【あなたはわたしと何の関係がありますか】
婚礼のさなか、ぶどう酒が尽きてしまいました。新郎新婦側にとってこれはとても不名誉なことであったようです。主イエスの母マリアは、イエスに「ぶどう酒がありません」(3)と言います。ところが主イエスの答は不思議です。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」(4)は冷たく聞こえます。ところが実際には主イエスは水をぶどう酒に、それも良いぶどう酒に変えてくださっているのです。
このことは主イエスのこの奇蹟が、ただ母の願いをかなえた、というだけのものではないことを示しています。イエスさまは、私たちの願いをなんでも聞いてくださるすごいお方、ということではないのです。

【主イエスのしるし】
「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(11)とあります。「しるし」はヨハネの福音書で多く用いられている言葉。20章「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが…これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(30-31)とあります。私たちを愛して、そのままにしておくことができず、人となってこの世に来てくださった神であるイエス。その愛のしるしが奇蹟です。主イエスは水をぶどう酒に変えてくださったのは、すべての人が主イエスの愛を知るため、そしてその愛によっていのちを得るためでした。

【わたしの時はまだ来ていません】
主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(4)と語ります。私たちにいのちを与えるのは、主イエスの十字架と復活であることを示されたのです。主イエスが来られたのはいのちを与えるため!
母マリアは婚礼のぶどう酒の欠乏を訴えますが、主イエスの関心はいのちの欠乏にあります。世界が愛の欠乏にあえいでいるからです。主イエスはマリアの目を、そして私たちの目をほんとうの欠乏、愛の欠乏に向けさせようとします。
私たちは求道中の方がたの受洗のために祈っています。「私などはまだまだ」と受洗をちゅうちょなさる方も多いです。けれども、受洗は新しいいのちの始まり。与えられたいのちは日々成長します。主イエスが成長させてくださるからです。神を愛する愛、人を愛する愛、自分を愛する愛、三つの愛の成長です。自分を愛する愛とはあまり耳にすることがないかもしれません。神に赦され、受け入れられた自分を自分も受け入れることです。神がたいせつにしてくださる自分をたいせつにし、神が用いようとされる自分を、神に差し出すことです。そして世界の愛の欠乏を補うために、神と共に働くのです。置かれた場所で、ていねいに、きちんと愛するのです。
水がぶどう酒に!この水は「ユダヤ人のきよめのしきたり」(6)に用いるものでした。衛生のために手洗いをするのではありません。神の民として生きるためには、神に喜ばれない汚(けが)れを洗い落とさなければならないとされていたのです。けれどもほんとうの汚(けが)れとは愛の欠乏です。洗っても、洗っても愛は満たされませんが、主イエスは満たしてくださいます。十字架の血潮で洗い、復活のいのちの喜びとともに満たすのです。

【水汲むしもべは知れり】
「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(9)とあります。水がぶどう酒に変わるさまを見たのは、水を汲んだ者たちだけでした。六つの大きな水がめに水を満たすのは、たいへんに骨の折れること。けれども主イエスと共に働くときに主イエスの愛がますます分かってきます。愛の欠乏に苦しむ世界のために、主イエスがどれほど痛んでおられるかを知るのです。それは弟子である私たちの特権です。主イエスと共に痛み、主イエスと共に注ぎだすことは、私たちの特権なのです。