2年間ごいっしょに読み進めてきたヨハネの福音書の最終回となりました。2022年4月に兼牧が開始。明野キリスト教会ではすでに途中までヨハネを読んでいたのですが、もう一度1章にもどり、二つの教会が心をひとつに読みすすめてきました。20章の終わりには「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(20:31)とありました。二つの教会の歴史が大きく舵を切ったこの時期に、この福音書によって私たちが養われ、またそれぞれの教会で受洗者も与えられたことを感謝したいと思います。
【主イエスについて】
20章で主イエスはペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい。」と言いました。カトリック教会ではこれによって、ペテロは全世界の教会を牧する権威が与えられたと考えます。その後継者が歴代のローマ教皇なのだと。一方プロテスタントは、ペテロ個人への任命ではないと考えます。ペテロのように、自分の罪、ルターによれば(心ならずも)自分の内側に折れ曲がった心を、知った人。ペテロのように、そんな自分を何度でも何度でも何度でも、赦してくださる主イエスを知った人。ペテロのように、主イエスに愛を注ぎ込まれ、その愛をあふれ出させることを知った人。そんな人なら、だれでも主イエスの羊を牧することができる、牧しなさい、そうお命じになったのでした。
「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。」(20a)も、ヨハネがペテロの指揮下にあるということを意味しません。ヨハネがついて行くのはペテロのように見えます。けれどもペテロは主イエスについて行くわけですから、ヨハネがついて行くのは実は主イエスです。歴史の中でローマ教皇が教会を導く大きな働きをしたことも多くあります。それは彼らが主イエスについて行ったから。カトリックとプロテスタントとどちらが正しいか、ということではありません。私たちが主イエスについて行っているかどうか、福音のいのちは、そこにかかっています。
【この人はどうなのですか】
18-19節にこうあります。「『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。』イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」
主イエスはペテロが今度こそ、主イエスに従いぬくことができること、それも殉教の死までまっとうすることができる、とおっしゃいました。決して、ペテロにそうできるようにがんばれ、と言ったのではありません。そうではなくて「ペテロ、あなたが私わたしを愛していることをわたしは知っている。それはわたしがあなたに注いだ愛だから。ずっとわたしはあなたに愛を注ぎつづけてあげよう。あなたにはできない殉教ができるまでに。その愛によって、あなたはわたしと共に働くことができる。愛の破れたこの世界を回復する栄光を現すのだ」と招かれたのでした。
ペテロの「主よ、この人はどうなのですか」(21)は、とうとつで興味本位の問いのように見えますがそうではありません。ヨハネは非常な高齢まで生きました。そのため後に、ヨハネは死なない、不死だといううわさがあったようなのです。もちろんヨハネは不死ではありません。ですから聖書は「しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく」(23b)とはっきり否定しています。
この福音書が告げる最後のたいせつなことは「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」にあります。「イエスが行われたこと」は、イエスが三十年あまりの地上の生涯で行ったことばかりではありません。主イエスがいのちを与えた者たち、主イエスを愛する者たち、つまり私たちを通して行われたすべてのことを指しています。だから世界もその記録を収められないのです。その「主イエスの行われたこと」は今も、行われています。私たちによって、私たちを通して、仲間と共に、主イエスと共に。主イエスが「あなたは、わたしに従いなさい。」と招くすべての人を通して。そして、主イエスの招きは、ひとりひとりにオーダメイドなのです。