先週は新年聖会礼拝でガラテヤ書を語りしました。今日からはいつものようにヨハネを読んでいきます。前回までを振り返ります。イエスは仮庵の祭りにエルサレムに来られ、神殿の境内でパリサイ人たちとやりとりをされていました。「イエスの証しは真実でない。イエスは救い主ではない」と言い張る彼らに、主イエスはなおも語りかけます。それが、今日の箇所です。
【来ることができない場所】
「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21bc)は、やがての主イエスの十字架と、復活、そして父なる神のみもとに帰ることを語っています。「あなたがたは父なる神のみもとに行くことができない!」この言葉は神の民であるユダヤ人たしにとって衝撃のはず。ところが彼らは「まさか自殺するつもりでは」と揶揄(やゆ:からかう)のです。
【天からのはしご】
そこにあるのは断絶です。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」(23bc)とあります。神であるイエスと人である私たちは全く異なります。属している世界がちがい、世界を見る目がちがい、神を見る目がちがい、人を見る目がちがいます。超えることができない断絶があるのです。だから主イエスはこの世界に来てくださいました。人となって。以前「天からのはしご」という本を書いたときに作った歌があります。「たとえどんなに祈っても/良いことにはげんでも/ぼくらは神さまに届くことができない/だから/天からのはしごを地にかけて/この世に来られた神さま♪」。絶望的な断絶を神さまが超えてくださいました。
それは私たちが神のいのちを得ることができずに、神に背を向けた罪を抱えたまま、死の支配のもとに縛り付けられることがないため。「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(24b)は断罪の言葉ではありません。招きです。主イエスが「わたしを信じ、わたしを受け入れて生きよ」とお招きくださっているのです。
【「わたしはある」?】
「わたしはある」というのはよくわからない言葉です。私もずっとよくわからなかったのですが、あるときストンと腑に落ちることがありました。
京都大学には国立大学には珍しく「キリスト教学研究室」があります。その第二代の教授が有賀鉄太郎とういうキリスト者です。この人は「わたしはある」を「わたしはあらしめる(あるようにさせる)」と訳しました。これはもともとは出エジプト3章14節でモーセに言われた言葉。この言葉は、ただ神があるとかないとか、そんなことを言っているのではない。神は「わたしはイスラエルをあらしめる。今イスラエルをあらしめ、作り出し、世界の回復のために用いる。わたしはそんなわざをする者だ。そんな愛のわざをする者だ」と語られたのでした。
神は「あらしめる」お方。今、主イエスはこの世界に来られ、「わたしはあなたがたにいのちを与える。あなたがたを生きる者としてあらしめる。あなたがたを世界の回復のために用いる。愛を注ぎ込まれ、注ぎ出すそんなあなたがたをあらしめる」とおっしゃったのでした。
【あなたがたは知る】
けれどもパリサイ人たちは「あなたはだれなのですか。」(25b)と繰り返すばかりです。永遠のいのちが目の前にあるのに、永遠のいのちであるお方が目の前におられるのに、手をのばすことをしないのです。できないのです。主イエスは「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。」と彼らを惜しみます。
そして、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(28b)と十字架によるあがないを宣言されました。あわれみに心を震わせながら。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(30)が、どれほどの数の人びとであったかはわかりません。けれどもあなたは間違いなくその一人なのです。