2023/01/30

礼拝メッセージ「『わたしはある』である神」ヨハネの福音書8章21-30節 大頭眞一牧師 2023/01/29


先週は新年聖会礼拝でガラテヤ書を語りしました。今日からはいつものようにヨハネを読んでいきます。前回までを振り返ります。イエスは仮庵の祭りにエルサレムに来られ、神殿の境内でパリサイ人たちとやりとりをされていました。「イエスの証しは真実でない。イエスは救い主ではない」と言い張る彼らに、主イエスはなおも語りかけます。それが、今日の箇所です。

【来ることができない場所】

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21bc)は、やがての主イエスの十字架と、復活、そして父なる神のみもとに帰ることを語っています。「あなたがたは父なる神のみもとに行くことができない!」この言葉は神の民であるユダヤ人たしにとって衝撃のはず。ところが彼らは「まさか自殺するつもりでは」と揶揄(やゆ:からかう)のです。

【天からのはしご】

そこにあるのは断絶です。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」(23bc)とあります。神であるイエスと人である私たちは全く異なります。属している世界がちがい、世界を見る目がちがい、神を見る目がちがい、人を見る目がちがいます。超えることができない断絶があるのです。だから主イエスはこの世界に来てくださいました。人となって。以前「天からのはしご」という本を書いたときに作った歌があります。「たとえどんなに祈っても/良いことにはげんでも/ぼくらは神さまに届くことができない/だから/天からのはしごを地にかけて/この世に来られた神さま♪」。絶望的な断絶を神さまが超えてくださいました。

それは私たちが神のいのちを得ることができずに、神に背を向けた罪を抱えたまま、死の支配のもとに縛り付けられることがないため。「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(24b)は断罪の言葉ではありません。招きです。主イエスが「わたしを信じ、わたしを受け入れて生きよ」とお招きくださっているのです。

【「わたしはある」?】

「わたしはある」というのはよくわからない言葉です。私もずっとよくわからなかったのですが、あるときストンと腑に落ちることがありました。

京都大学には国立大学には珍しく「キリスト教学研究室」があります。その第二代の教授が有賀鉄太郎とういうキリスト者です。この人は「わたしはある」を「わたしはあらしめる(あるようにさせる)」と訳しました。これはもともとは出エジプト3章14節でモーセに言われた言葉。この言葉は、ただ神があるとかないとか、そんなことを言っているのではない。神は「わたしはイスラエルをあらしめる。今イスラエルをあらしめ、作り出し、世界の回復のために用いる。わたしはそんなわざをする者だ。そんな愛のわざをする者だ」と語られたのでした。

神は「あらしめる」お方。今、主イエスはこの世界に来られ、「わたしはあなたがたにいのちを与える。あなたがたを生きる者としてあらしめる。あなたがたを世界の回復のために用いる。愛を注ぎ込まれ、注ぎ出すそんなあなたがたをあらしめる」とおっしゃったのでした。

【あなたがたは知る】

けれどもパリサイ人たちは「あなたはだれなのですか。」(25b)と繰り返すばかりです。永遠のいのちが目の前にあるのに、永遠のいのちであるお方が目の前におられるのに、手をのばすことをしないのです。できないのです。主イエスは「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。」と彼らを惜しみます。

そして、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(28b)と十字架によるあがないを宣言されました。あわれみに心を震わせながら。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(30)が、どれほどの数の人びとであったかはわかりません。けれどもあなたは間違いなくその一人なのです。


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2023/01/22

新年聖会礼拝メッセージ「御霊による歩み」ガラテヤ人への手紙5章13-26節 大頭眞一牧師 2023/01/22


今日は信愛明野合同の新年聖会の朝を迎えました。聖会というと、さぞ厳しいメッセージが語られるのでは、思われる方もいらっしゃるかもしれません。特にガラテヤ書の「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2:19b-20a)や「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(5:24)には、私もずいぶんと苦しみました。けれどもご安心ください。今日もいつものようにいつもの主イエスを語ります。

【ワン・シットで】

神学校で学んだことのひとつに新約聖書の手紙の読み方があります。たまには「ワン・シットで」、つまり、最初から最後まで一気に読むようにというのです。これにはうなりました。確かに手紙には、書かれたはっきりとした目的があるはずです。ひとつひとつの文章もその手紙の全体の目的にしたがって解釈されるべきだと、そう知ったのです。私もこの手紙をワン・シットで読んで要約してみました。

ガラテヤ地方の諸教会のみなさん私パウロと仲間たちは驚いています。ユダヤ人ではないあなたがたが割礼を受けようとしているという知らせを受けたからです。割礼が悪いというのではありません。ユダヤ人が神の民のしるしとして割礼をたいせつにすることは当然のことです。(そのユダヤ人としてキリストはお生まれになりました)。けれどもあなたがたは、ただキリストを受け入れることによって、神の民とされました。それ以上の何も必要ではありません。これだけは決して譲れません。今、割礼の有無によってあなたがたの間に隔たりが生まれてしまいました。そればかりかあなたがたは福音を見失ってしまった。「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(3:2)。言うまでもなくあなたがたはキリストを受け入れたから、聖霊を受けた。あなたがたはもうすでに聖霊によって歩んでいるのです。割礼とそれに類する律法は私たちが聖霊を受けるための養育係(助走路)のようなもの。もう私たちには必要ないのです。自由なのです。自由とされた私たちは、その自由を、愛するために用います。肉による生き方(自己中心で自己満足を目指す内側に折れ曲がった生き方)ではなく、聖霊による生き方(神を中心として他者を愛する注ぎ出す生き方)を生きるのです。あなたがたの教会で(パウロは具体的に特定していないが5章にさまざまに述べられているような)肉による生き方が問題を起こしています。どうか自分が御霊によって生きる御霊の人(6:1)であることを思い出してください。そしてたがいにただし合いながら御霊によって歩みを進めてください。

【御霊による歩み】

いかがでしょうか。私たちの中には割礼を受けようとする人いないでしょう。けれども、キリストを受け入れて神の子(3:26)とされただけでは不十分だと考えてしまうことがあるかもしれません。キリストは十分です。律法が教えるのは「神と共に歩く歩き方」。私たちは割礼によってではなく、豚を食べないことによってでもなく、御霊によって、神さまの体温を感じながら、神と共に歩いているのです。神と人とに自分を注ぎ出して愛しながら。絶えずこのことを思い出させ合いながら。

自分に向いた肉による生き方ではなく、注ぎ出す聖霊による生き方へ。最初に上げた二か所の聖書も肉による生き方の死では終わっていません。御霊による生き方の喜びへと続きます。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2:19b-20a)→「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(2:20)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(5:24)→「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(5:25)

聖霊による歩みはすでに与えられているいのちによる歩み。そして仲間と共に歩む歩みであることを心に刻んでいただきましょう。


   
ワーシップ:「神さまの宝もの(詞:大頭牧師、曲:奥野信二兄)」Bless



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2023/01/13

礼拝メッセージ「いのちの光である神」ヨハネの福音書8章12-20節 大頭眞一牧師 2023/01/15


先週は信愛で青年祝福の祈り、今週は明野で新成人と青年の祝福の祈りのときを持ちます。高度成長期には、明日は今日よりよくなるという空気があったように思います。それに比べて、今の青年たちはかわいそう、という声も聞かれます。加えてコロナがあり戦争があるこの時代の闇は深いようにも思えます。けれども、今日も主イエスの御声は響きます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12bc)と。

【いのちの光である神】

ご自分を「世の光」と語ったイエスにパリサイ人たちが異を唱えます。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13b)と。無理もありません。もし私たちの前に「自分は救い主だ」と名乗る人が現れたなら、どれだけ疑っても疑いすぎることはありません。

そんな彼らに主イエスは答えます。「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。」(14c)、また、「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」(18)とも。主イエスは父のみもとから来られました。そして十字架と復活を経て、父のみもとに帰っていかれます。主イエスはその意味をよくご存じでした。それは神の大きな物語のゴールのため。天地創造から、世界のあがない、そして、やがて成就するすべての回復という大きな物語のためです。世界には破れがあります。神と人の関係が破れ、人と人との関係が破れ、人と被造物の関係が破れています。その破れをつくろうために、神であるイエスがこの世にきてくださいました。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。」(15-16)は先週の箇所と呼応するところ。姦淫の女性を痛み、その罪と痛みを子である主イエスが負う。それが父と子のさばき。父なる神と子なる神は、心をひとつに「生きろ」と女性にいのちを注ぎました。今日の箇所でも「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12c)と同じ御声が響いています。

【いのちの光となる私たち】

みなさん、ウクライナの戦争には心を痛めておられることでしょう。私たちにはロシアとNATOの対立のように見えるのですが、少し調べてみると、問題は複雑です。ロシアとウクライナの長い痛々しい歴史が関係しています。コロナ禍への対応もまた複雑です。コロナをとどめることと経済との兼ね合いがとても難しい。現代の複雑な問題には、はっきりとしたわかりやすい正解がないことがほとんどです。そこで問われるのは私たちの生き方です。正解がないことにいら立ち、自分と反対の意見を持つ人々を悪と断じるなら、社会の分断は加速されていきます。一方で私たちが、思考停止しないで、意見の異なる人びとと共に、複雑な問題に取り組むことも可能です。先週、ある教会員の方からメールをいただきました。新年のご挨拶とともに「対話を深め共通の議論の土壌を耕す勇気と努力の向こうに、神様の導きが見えてくるのでは」と記されていました。私はこのメールを読んでほんとうにその通りだと思いました。単純ではない複雑な現実は、忍耐強い対話を必要とします。自分とは異なる意見を持つ相手と話し合い続けるには勇気と努力が必要です。その人たちは敵ではなく神さまに愛されている傷ついた人びと。だから私たちは、神さまに期待して対話の土壌を耕し続ける。すぐに道が開かれなくても、コツコツと対話の備えを続けていく、そうするときに闇は明けていくのだと思うのです。問題は、私たちのそんな努力をなにが、いえ、だれが、支えてくれるのか、です。

【いのちの光である神】

「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12c)とあります。私たちを支えるのはイエス。光である主イエスは招かれます。「わたしについて来なさい。わたしがあなたがたに光を注ぎ続ける。だから、あなたがたは決して闇に吞み込まれることはない。わたしがそうさせない。あなたがたは闇の中に光を照らし続ける。仲間と共に。そして夜明けを早めることができる」と。ただ今から聖餐に与ります。光であるお方が卓主である光の食卓にようこそ。


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2023/01/09

礼拝メッセージ「さばきを下さない神」ヨハネの福音書7章53-8章11節 大頭眞一牧師 2023/01/08


今日の説教題は「さばきを下さない神」。十年ほど前のことです。明野にはじめてやって来た近所の小学生が言いました。「ぼく知っとるで。イエスさま信じたら天国行くんやろ。信じなかったら地獄なんやろ」と。この少年にとって神さまは、地獄で脅かして信じさせようとする神、だったようです。この少年だけではないでしょう。多くの人が神はさばきの神だと思っています。けれども主イエスは「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11e)と語りました。今日もこの個所からか、神さまのおこころを聴きたいと思います。

【捕らえられた女】

姦淫の現場で捕らえられた女性。どういう状況であったのかは不明ですが、結婚生活に問題や痛みを抱えていたのでしょう。民を指導する立場の律法学者やパリサイ人たちは、ほんとうならこの女性に寄り添い、彼女の問題の解決を助けるべきだと思います。けれども、彼らはこの女性を、イエスを告発するための道具としてしか見ていません。痛みがないのです。告発するというのは、(1)もしイエスがこの女性を赦せと言ったら、律法に違反することを教えたとして、ユダヤの最高法院に告発する(2)もしイエスがこの女性を石で打ち殺せと言ったら、ローマ帝国の許可なしに死刑を命じたとして、ローマに訴える、という手の込んだ謀略でした。

【第七誡】

そもそも「姦淫してはならない」という第七誡は、姦淫すると石打ちにされる、それが怖いから姦淫しない、そんなことのためではありません。私の説教集「選べ、いのちを」では、第七誡の説教題を「結婚をたいせつに生きる」としました。なぜなら結婚とは二人の人が、神さまの胸の中で、たがいに向かい合い、見つめ合い、愛し合うこと。姦淫とは、向かい合うことをやめること。神さまが与えてくださったかけがえのないパートナーから目をそらして、ほかの人を慕うこと。そうすることによって。パートナーとの関係に大きな痛みをもたらし、自分自身の人生にも痛みをもたらし、そして何より神さまにだれよりも大きな痛みを与えてしまうのです。ですから、神さまが「姦淫してはならない」と言うとき、そのお心は結婚したカップルだけに向けられているのではありません。これから結婚する人も、結婚しない人も、すべての人に、「わたし(神さま)があなたに与えている人びとと向かい合って生きなさい。自分の好きなように、モノのように、it(イット)のように扱うことがないように」と願っておられるのです。

ユダヤ人哲学者のブーバーという人が書いた「汝と我」という本があります。二種類の関係がある。ひとつは、「汝(you)と我」、たがいに向き合う人格と人格との関係です。もうひとつは「それ(it)と我」、これは相手を自分の欲望を満たすためのモノと見てしまう関係。かけがえのないパートナーを取り換えのきくモノ(it)とみなすとき、神さまを自分の願いをかなえてくれるモノ(it)とみなすとき、私たちの生涯は痛みに満ちたものとなってしまうのです。

【うつむく主イエス】

律法学者やパリサイ人たちとちがって主イエスは心を痛めておられました。この女性の破れてしまった結婚のために、群衆の前に引き出された恥と恐怖のために、主イエスは痛んでおられました。そして主イエスは、彼女を責める律法学者とパリサイ人のためにも痛んでおられました。ほんとうだったら、この女性を痛み、この女性と共に嘆くべき彼らが、この女性をさげすみ、主イエスを告発するために利用しているのです。主イエスが指で地面に何を書いておられたかはわかりません。しかしそのお姿は、イエスが味わっておられた痛みを雄弁に語っています。そしてそれは父なる神の痛みと同じひとつの痛みでした。

【身を起して】

やがて女性と二人になったときに、主イエスは身を起して、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11e)と言われました。女性への赦しの宣言です。この赦しは来るべき十字架によって成し遂げられます。主イエスの赦しはご自分を与える覚悟の宣言でした。さらに「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11f,g)が続きます。死を覚悟した女性に主イエスは「生きろ」と語りました。「新しいいのちの中を、まわりの人びとと向かい合い、大切にし合って」と。同じ言葉が今も、私たちに響いています。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)