受難節(レント)に入りました。イースターに向かう6週間、主イエスを仰ぎながら歩んでまいりましょう。
【見つめるイエス】
「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」(1)のご覧になる」は「見つめられた」ということば。主イエスは、立ち止まってこの人を見つめたのです。そのまなざしは、もちろん愛のまなざし。愛ゆえに主イエスは立ち止まり、愛のまなざしを向けました。その愛のまなざしにつられるように、弟子たちのまなざしも目の見えない人に向かいます。そして「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」との問いが生まれました。
【罪の結果?】
ですから弟子たちの問いは意地悪なものではなかったでしょう。当時の人びとは、病気や生まれつきの障がいは罪を犯したことによっておこると考えていたのです。実は私たちも、病や苦難を経験するときに、「これは罪を犯したからではないか」という心の動きを感じることがあります。カルトなどはそんな思いを利用して、人びとを支配しようとします。先祖の罪を清めることを教える旧統一教会などは、その最たるものです。
【神のわざが現れるため】
けれどもそこに主イエスの福音が響きます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」(3b)。主イエスは、だれかが罪を犯したために病になる、という考えを否定します。病だけではありません。東日本大震災のときにも、「これは罪のせいだ」と主張した、一部のクリスチャンがいました。それを聞かされた人びとは、傷口にさらに塩を塗り込まれるような痛みを感じました。しかし主イエスは、「そんなことを言ってはならない」と、毅然としておっしゃいます。そこには悪の力に対する憤りが感じられるようです。悪の力は迷信を利用して、私たちの間に差別と分断をもたらします。たがいに愛し合い、助け合うために造られた私たちであるにもかかわらず。
「なぜこうなったのだろう。自分が罪を犯したせいふぁろうか。あの人が罪を犯したせいだろうか」としゃがみ込む私たち。そんな私たちに主イエスの明るい声が届きます。「この人に神のわざが現れるためです。」(3c)。主イエスは、際限なく過去をさまよう私たちの思いを「今」にひきもどします。そして「今を、生きよ!」と招かれるのです。
【すると、見えるようになり】
神のわざとはいわしのわざ。主イエスはこの目の見えない人をいやしてくださいました。「シロアムの池で洗うように」というのにも意味があります。「シロアム(訳すと、遣わされた者)」(7)とあります。主イエスはこの池へ行かせることによって、いやしのわざを行ったのが神から遣わされたご自身であることを語っておられるのです。そしていやされた者もまた神から遣わされて、世界の破れをつくろうために遣わされて行くことも。いやしと申しました。でも、私たちのすべての病がたちどころにいやされるわけではないことも知っておく必要があるでしょう。なぜある人がいやされ、ある人はいやされないのか。私たちはそれを祈りの多寡で説明しようとしたりしますが、大切なことは、神さまは私たちだけではなく、世界の破れのすべてをいやそうとされていることです。そのためには私たちの病や障がいをも用いることができる。神のわざを現すことができるのです。
【昼のうちに】
そんな私たちと世界のいやしのためには、主イエスは重い言葉を語りました。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」(4)です。夜とは主イエスの十字架のとき。すべてのいやしは人となられた神である主イエスの十字架にかかっています。その十字架へ向かって歩む主イエスは、「わたしはあなたがたをいやす。そしてそんなあなたがたを遣わして世界の破れをいやす」と覚悟をもっておっしゃいます。ご自分のいのちを注ぎつくす覚悟です。そんな主イエスの愛のまなざしは、受難節を歩む私たちの上に、かたときも離れることなく注がれています。主イエスに見つめられているおたがいであることを祝い合いましょう。そして、励まし合いながら、主イエスと共なる歩みを運んでまいりましょう。前へ。