2023/02/26

礼拝メッセージ「わざを現す神」ヨハネの福音書9章1-12節 大頭眞一牧師 2023/02/26


受難節(レント)に入りました。イースターに向かう6週間、主イエスを仰ぎながら歩んでまいりましょう。

【見つめるイエス】

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」(1)のご覧になる」は「見つめられた」ということば。主イエスは、立ち止まってこの人を見つめたのです。そのまなざしは、もちろん愛のまなざし。愛ゆえに主イエスは立ち止まり、愛のまなざしを向けました。その愛のまなざしにつられるように、弟子たちのまなざしも目の見えない人に向かいます。そして「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」との問いが生まれました。

【罪の結果?】

ですから弟子たちの問いは意地悪なものではなかったでしょう。当時の人びとは、病気や生まれつきの障がいは罪を犯したことによっておこると考えていたのです。実は私たちも、病や苦難を経験するときに、「これは罪を犯したからではないか」という心の動きを感じることがあります。カルトなどはそんな思いを利用して、人びとを支配しようとします。先祖の罪を清めることを教える旧統一教会などは、その最たるものです。

【神のわざが現れるため】

けれどもそこに主イエスの福音が響きます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」(3b)。主イエスは、だれかが罪を犯したために病になる、という考えを否定します。病だけではありません。東日本大震災のときにも、「これは罪のせいだ」と主張した、一部のクリスチャンがいました。それを聞かされた人びとは、傷口にさらに塩を塗り込まれるような痛みを感じました。しかし主イエスは、「そんなことを言ってはならない」と、毅然としておっしゃいます。そこには悪の力に対する憤りが感じられるようです。悪の力は迷信を利用して、私たちの間に差別と分断をもたらします。たがいに愛し合い、助け合うために造られた私たちであるにもかかわらず。

「なぜこうなったのだろう。自分が罪を犯したせいふぁろうか。あの人が罪を犯したせいだろうか」としゃがみ込む私たち。そんな私たちに主イエスの明るい声が届きます。「この人に神のわざが現れるためです。」(3c)。主イエスは、際限なく過去をさまよう私たちの思いを「今」にひきもどします。そして「今を、生きよ!」と招かれるのです。

【すると、見えるようになり】

神のわざとはいわしのわざ。主イエスはこの目の見えない人をいやしてくださいました。「シロアムの池で洗うように」というのにも意味があります。「シロアム(訳すと、遣わされた者)」(7)とあります。主イエスはこの池へ行かせることによって、いやしのわざを行ったのが神から遣わされたご自身であることを語っておられるのです。そしていやされた者もまた神から遣わされて、世界の破れをつくろうために遣わされて行くことも。いやしと申しました。でも、私たちのすべての病がたちどころにいやされるわけではないことも知っておく必要があるでしょう。なぜある人がいやされ、ある人はいやされないのか。私たちはそれを祈りの多寡で説明しようとしたりしますが、大切なことは、神さまは私たちだけではなく、世界の破れのすべてをいやそうとされていることです。そのためには私たちの病や障がいをも用いることができる。神のわざを現すことができるのです。

【昼のうちに】

そんな私たちと世界のいやしのためには、主イエスは重い言葉を語りました。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」(4)です。夜とは主イエスの十字架のとき。すべてのいやしは人となられた神である主イエスの十字架にかかっています。その十字架へ向かって歩む主イエスは、「わたしはあなたがたをいやす。そしてそんなあなたがたを遣わして世界の破れをいやす」と覚悟をもっておっしゃいます。ご自分のいのちを注ぎつくす覚悟です。そんな主イエスの愛のまなざしは、受難節を歩む私たちの上に、かたときも離れることなく注がれています。主イエスに見つめられているおたがいであることを祝い合いましょう。そして、励まし合いながら、主イエスと共なる歩みを運んでまいりましょう。前へ。


          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/02/19

礼拝メッセージ「証しをする神」ヨハネの福音書8章48-59節 大頭眞一牧師 2023/02/19


ヨハネの福音書は主イエスがご自分を証したことをたくさん記しています。ここまでも主イエスはご自分が「いのちのパン」「世の光」「いのちの水の源」だと証しされてきました。ところがそれを聞いたパリサイ派のユダヤ人たちは主イエスに反発し続けます。そうであればあるほど増し加わる主イエスの愛。その愛のことばを今日も聴きます。

【決して死を見ることがない】

主イエスの愛のことばの極みは「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51)です。「まことに、まことに、」は主イエスが大切なことを語るときに用いることば。「あなたがたがいのちに生きるために、わたしは来た。わたしのことばで生きよ。わたしがあなたがたを生かす。死を超えてその向こう側まで」と招かれたのです。

【主イエスとはだれか】

ところがこのことばがユダヤ人たちを激怒させました。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48c)とあります。ここでサマリア人というのは悪口。異邦人はもともと神の民でないけれど、その異邦人よりももっとたちの悪い人びと、神のもとから離れ去って行ってしまった人びと、という悪口です。

ユダヤ人たちをこれほど怒ったのは「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51b)が、これ以上ない傲慢(ごうまん)なことばに聞こえたからでした。神の子である主イエス、子なる神である主イエスがいのちを差し出しているのに、彼らは受け取ろうとしません。そして反論を続けるのです。

「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」(53)がその反論です。彼らにとってアブラハムは最も偉大な人間です。アブラハムはユダヤ民族の祖。アブラハムゆえにユダヤ人は神の民とされました。「そのアブラハムも死んだのに、いったいお前は何様のつもりなのか」と怒ったのでした。

【アブラハムの喜び】

彼らに対する主イエスの答は、この個所のクライマックスであると同時に聖書全体のクライマックスとも呼べるところ。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(56)とあります。へブル書の11章にこの個所の解説ともいえる箇所があります。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(11-13)がそれです。アブラハムは、自分の子孫が数えきれないほどになるという約束の成就を見てはいません。そういう意味では途上で世を去った旅人です。けれどもアブラハムは約束してくださった神を信頼しました。だから神さまが自分を通してなそうとしてくださっていることを喜ぶことができました。神さまが世界の回復のために、自分と自分の子孫を用いてくださることを。

そして神の子、子なる神である主イエスはユダヤ人としてこの世界に来てくださいました。アブラハムの子孫として。アブラハムには知るよしもなかった壮大な神さまの愛の計画です。この計画を知らないときも、神さまを喜んでいたアブラハム。ましてやアブラハムがこれを知ったなら、どれほど感激したでしょうか。死んだも同然であった自分と不妊のサラから、こともあろうに子なる神が生まれるのですから。胸が破れるばかりに驚き喜ぶはずです。

けれども同時にアブラハムの胸は、痛みによっても破れんばかりにちがいありません。その子なる神が、十字架に架けられ、父との断絶を味わうのですから。それはアブラハムが、そしてすべての人が、もちろん私たちもが「いつまでも決して死を見ることが」ないためでした。そんないのちが、おたがいの中にもう始まっています。力の限り愛を注ぎ合ういのちです。


          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/02/17

2023年4月より開始される「一年12回で聖書を読む会」の参加者募集中です!



 (クリックするとさらに大きく表示されます)


2023年4月~翌3月までの1年間、毎月第3土曜日10:30-12:00 に開催します。

「京都信愛教会での対面」でも「Zoomでの参加」でも構いません。一部の回のみの出席でももちろん構いません。参加費は無料です。

「聖書は何を語っているか」をテキストを通して、より分かりやすく聖書をともに読んでいきます。

問い合わせは電話でも、メールでも構いません(上のチラシを参照ください)。

2023/02/12

礼拝メッセージ「真理を語る神」ヨハネの福音書8章39-47節 大頭眞一牧師 2023/02/12


今日の箇所は、8章12節から59節まで続く主イエスとユダヤ人たちとの対話の一部です。実は7章にも9章にもそんな対話が記されています。しかしそれが「対話」であったかどうかは怪しいところがあります。ユダヤ人たちはとても頑なだからです。「対話」というよりは、主イエスが招いては跳ね返されるのです。神であるイエスが。けれどもそれでも招き続けるのが、まさに愛なる神の、神さまらしさです。

【主イエスの父】

この個所では「父」が問題となります。ユダヤ人たちは「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。」(41c)と言います。これは主イエスに対するあてこすり。主イエスの母マリアは聖霊によってみごもりましたから、マリアの夫ヨセフと主イエスには血のつながりはありません。そこからイエスはマリアの姦淫によって生まれたのだ、という悪意あるうわさが流れていたようなのです。

けれども主イエスはもちろん神の子、子なる神です。先週の38a節にも「わたしは父のもとで見たことを話しています。」とありました。主イエスは神。父なる神のもとから来た子なる神。私たちにいのちを満たすために、私たちのいのちをあふれさせて世界を回復させるために、人となった神なのです。

【ユダヤ人たちの父】

ところがユダヤ人たちも「私たちにはひとりの父、神がいます。」(41d)と言います。「私たちの父はアブラハムです。」(39b)とも。確かにユダヤ人は神の子として、神に選ばれた民です。神は、破れてしまった世界(神との関係が破れ、人との関係が破れ、被造物との関係が破れた世界)を回復するためにアブラハムを選び、アブラハムからユダヤ人を起されました。神とともに働くために。

ところが彼らはアブラハムのようではありません。神の子なら神の心を知り、神とともに働きます。ところが主イエスが「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。」(40)とおっしゃったとおり、彼らは神の心を知りません。主イエスが神から来られた子なる神であることを知らず、知らないから受け入れようとせず、かえって主イエスを殺そうとします。神の心の実現をさまたげているのです。

【悪魔が父?】

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」(44a)は注意が必要な個所。かつてここから「ユダヤ人は悪魔の子」と考える誤りを、かつての教会はおかしました。ナチスもホロコーストの根拠として利用したようです。

けれども、もちろん主イエスはそんな意味でおっしゃったのではありません。「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。」(44b)、「なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44e)とあります。悪魔とは悪の力です。私たちを支配して真理である主イエスから遠ざける力。いのちである主イエスから私たちを遠ざけて、罪の中で死んだ状態にとどまらせる力なのです。

【いのちを選べ!】

けれども主イエスが「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(47)と言うとき、それは断罪の言葉ではありません。主イエスは選ばれた神の民であるユダヤ人を惜しみ、死ではなくいのちを選べと招いておられます。罪の中で死んだように生きるのではなく、神とともに世界の回復のために神の心を生きることへと。

そして何より忘れてはならないのは、十字架の上で悪魔はすでに打ち砕かれていることです。創世記に「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(3:15)とあります。悪の力が私たちを主イエスから引き離そうと、激しく働くように感じることもあります。けれども、私たちは神さまに抱きかかえられていることを忘れてはなりません。試練も誘惑もさまたげを感じるときも、私たちはそれを神さまの胸の中で感じているのです。そのために主イエスが十字架でご自身を与えてくださったからです。このことを心に刻むために、今、聖餐に与ります。


     ワーシップ(Bless) 「キリストにより(オリジナル曲)」




     (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/02/05

礼拝メッセージ「自由にする神」ヨハネの福音書8章31-38節 大頭眞一牧師 2023/02/05


主イエスは今日の箇所でも、パリサイ人たちを招き続けておられます。ご自分へ、いのちへと。

【わたしのことばにとどまるなら】

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(31b)。救いとは一瞬の回心の体験をいうのではありません。体験は人によってさまざまです。けれどもすべてのクリスチャンに共通しているのは、主イエスの弟子であること。主イエスについて行き、主イエスに養われ、主イエスを喜び、主イエスと共に喜び、主イエスに似せられていくことです。どうしたら主イエスの弟子でいることができるか。それはがんばって、奉仕をするとか、霊的な人になる、というのではありません。「わたしのことばにとどまるなら」とあります。主イエスがここまで語って来られたことば、私たちをいのちある者とすることば、「生きよ」ということば、を忘れるな。心とたましいに刻めとおっしゃるのです。

【真理はあなたがたを自由に】

先週の箇所に「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(24b)とありました。主イエスは私たちをいのちある者とするお方。このお方を受け入れないならば、その人は罪の奴隷で、罪の中に死にます。罪と死の支配のもとにとどまるのです。

けれども、主イエスの弟子は自由です。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」はまさに福音。真理とは主イエス。「生きよ」という主イエスのことばに、つまり主イエスにとどまるものは、罪から解き放たれて愛し合い、死から自由にされて永遠にその愛を生きるのです。もうすでに今から。

しかしユダヤ人たちは言います。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。」(31)。このユダヤ人たちは主イエスを信じた人たちであったことは不思議です。このことは信仰者が歩み続ける者であることを語っています。昨日よりも今日、今日よりも明日、ますます主イエスの「生きよ」のことばにとどまって、ますますいのちある者とさせられていきます。

【ほんとうに自由に】

「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。」(35)と主イエスはなおも語ります。神の子主イエス、子なる神イエスは永遠に父とひとつであって、父の心を実現します。父の心は、私たちを解き放つことを願っています。かつて、エジプトで奴隷であったイスラエルを解き放ったように。

また自分の作った歌で恐縮なのですが、出エジプト記の説教集を出したときに「栄光への脱出」というのを作りました。「つみの奴隷からおそれの奴隷から解き放つ私の神/イスラエルのうめきを腰をかがめて聴き取る神/そのままほうっておけないでモーセを引き出した」。

私たちもうめいています。罪の支配は巧妙で悪らつです。私たちの過去の古傷や痛みにつけこんで私たちを押さえつけます。「お前のようなものはだめだ。あんなことをしたではないか。言ったではないか」と言って顔を上げさせないのです。神を見上げさせないのです。また「あの人を見てみろ。お前にあんなことができるか。できないだろう。そんなお前をみんなも愛していない」と言って、私たちを仲間から切り離します。ほんとうに罪の力、罪の支配は憎むべきものです。

けれどもそんな罪の支配を打ち砕く主イエスのことばが響き渡ります。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(36)と。先週は有賀鉄太郎のことを語りました。神は私たちを「あらしめる神」「あるようにさせる神」。ご自分がそうあらせたいと思うように、私たちをさせる神。神の願いは私たちを自由にすることです。私たちが神と人を愛することを、なにものにも妨げさせないことです。いつも語るみことばですが、「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)と。この自由を私たちは愛するために用います。理性も感情も存在のすべてを傾けて。


     (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)