先週は、主イエスとマルタの対話を聴きました。主イエスを出迎えに行ったマルタは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」という主の宣言を聴きました。自分の中に死を超えるいのちが始まっていることを知ったのです。
【あなたを呼んでおられます】
すぐにマルタは家にいたマリアのもとに帰ります。そして「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28b)と伝えました。「伝えた」とありますから、主イエスがマルタに「マリアにわたしが呼んでいると伝えなさい」と言ったのかもしれません。けれどもひょっとすると、マルタが主イエスの心を察して、主イエスの招きを代弁したのかもしれないとも思うのです。なぜなら私たちも、そのように人びとを招いているからです。私たちは、すべての人を招いておられる神さまのお心を知っています。ですから、神から「あの人を呼んできなさい」「次はあの人を」と言われなくても、人びとに語りかけるのです。シャンパン・タワーがあふれるように。まず自分が主イエスのいのちに満たされて。
けれども私たちの招きは選挙運動がスピーカーの音量を上げるようなものではないことも、知っておきましょう。マルタは「そっと伝えた」(28a)とあります。「密かに言った」という意味です。マルタは絶望の中にうずくまっているマリアに、マリアだけに聞こえるように、マルタだから語ることができる言葉で語りました。私たちが人びとを招くとき、その語りかけは、じっくりていねいにつちかってきた関係の中で起こります。伝道は教会員が少なくなると困るから行うのではありません。目の前の人がいのちに満たされるため、いのちの喜びにあふれるためなのです。
【涙を流す神】
マリアはすぐに立ち上がります。主イエスのところに行ったのです。主イエスの足もとで、マリアは泣きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32b)と言って。死の力にラザロが奪われてしまった絶望の中にいるのです。マリアとともに来た人びとも泣いていました。彼らもまた、マルタとマリアとラザロの家が悲しみの家になったことに無力を感じていたのでした。
「イエスは涙を流された。」(35)。人びとはこの主イエスの涙を完全に誤解しました。彼らは「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36)と言います。主イエスがご自分の無力、愛するラザロをどうすることもできない無力を嘆いて泣いたと思ったのでした。私たちもしばしば「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)などと言って、人生の不条理に納得しようとすることがあるのではないでしょうか。けれども、ヨブ記は1章で終わっていません。そのあと42章まで、ヨブはやはり納得できないのです。神さまはそんな不条理を許されるお方ではないと。三人の友人たちはそのヨブに、これは神さまのなさったことだから、と納得させようとします。けれども神さまがよしとされたのはヨブでした。神さまもヨブをおそった不条理に納得しておられなかったのです。
【憤るイエス】
主イエスのまたラザロの死に納得しておられません。「そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33b)とあります。主イエスの涙は憤りの涙でした。静かな絶望の涙ではありません。心が騒いで我慢できない怒りの涙だったのです。その怒りは死の力への怒り。罪とタッグを組んで、私たちをご自分から切り離そうとする死の力への怒りでした。
涙を流して憤る主イエスは、世界の誕生から世界の終りまでのすべての痛みを感じていたのではないかと思います。それは死と罪の力が絶え間なく、私たちを神さまから引き離そうとすることによる痛み。主イエスはこのとき、アダムから始まって、第一次第二次の世界大戦、ホロコースト、広島長崎の原爆、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争などすべての人類の痛みを思い、感じ、身を震わせるようにして、憤り、心を騒がせて、涙を流してくださった。そして十字架への決意をさらに固くしてくださいました。ご自身の十字架に罪と死の力を必ず道連れにすると。そして復活によって罪と死の力に打ち勝ち、私たちの愛を妨げるすべてのものから私たちを解き放つと。ご自身がどんな犠牲を払っても、神と人を愛する愛を私たちに満たすと。そんな愛がもう私たちの中に始まっています。