2023/04/30

礼拝メッセージ「涙を流す神」ヨハネの福音書11章28-37節 大頭眞一牧師 2023/04/30


先週は、主イエスとマルタの対話を聴きました。主イエスを出迎えに行ったマルタは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」という主の宣言を聴きました。自分の中に死を超えるいのちが始まっていることを知ったのです。

【あなたを呼んでおられます】

すぐにマルタは家にいたマリアのもとに帰ります。そして「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28b)と伝えました。「伝えた」とありますから、主イエスがマルタに「マリアにわたしが呼んでいると伝えなさい」と言ったのかもしれません。けれどもひょっとすると、マルタが主イエスの心を察して、主イエスの招きを代弁したのかもしれないとも思うのです。なぜなら私たちも、そのように人びとを招いているからです。私たちは、すべての人を招いておられる神さまのお心を知っています。ですから、神から「あの人を呼んできなさい」「次はあの人を」と言われなくても、人びとに語りかけるのです。シャンパン・タワーがあふれるように。まず自分が主イエスのいのちに満たされて。

けれども私たちの招きは選挙運動がスピーカーの音量を上げるようなものではないことも、知っておきましょう。マルタは「そっと伝えた」(28a)とあります。「密かに言った」という意味です。マルタは絶望の中にうずくまっているマリアに、マリアだけに聞こえるように、マルタだから語ることができる言葉で語りました。私たちが人びとを招くとき、その語りかけは、じっくりていねいにつちかってきた関係の中で起こります。伝道は教会員が少なくなると困るから行うのではありません。目の前の人がいのちに満たされるため、いのちの喜びにあふれるためなのです。

【涙を流す神】

マリアはすぐに立ち上がります。主イエスのところに行ったのです。主イエスの足もとで、マリアは泣きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32b)と言って。死の力にラザロが奪われてしまった絶望の中にいるのです。マリアとともに来た人びとも泣いていました。彼らもまた、マルタとマリアとラザロの家が悲しみの家になったことに無力を感じていたのでした。

「イエスは涙を流された。」(35)。人びとはこの主イエスの涙を完全に誤解しました。彼らは「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36)と言います。主イエスがご自分の無力、愛するラザロをどうすることもできない無力を嘆いて泣いたと思ったのでした。私たちもしばしば「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)などと言って、人生の不条理に納得しようとすることがあるのではないでしょうか。けれども、ヨブ記は1章で終わっていません。そのあと42章まで、ヨブはやはり納得できないのです。神さまはそんな不条理を許されるお方ではないと。三人の友人たちはそのヨブに、これは神さまのなさったことだから、と納得させようとします。けれども神さまがよしとされたのはヨブでした。神さまもヨブをおそった不条理に納得しておられなかったのです。

【憤るイエス】

主イエスのまたラザロの死に納得しておられません。「そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33b)とあります。主イエスの涙は憤りの涙でした。静かな絶望の涙ではありません。心が騒いで我慢できない怒りの涙だったのです。その怒りは死の力への怒り。罪とタッグを組んで、私たちをご自分から切り離そうとする死の力への怒りでした。

涙を流して憤る主イエスは、世界の誕生から世界の終りまでのすべての痛みを感じていたのではないかと思います。それは死と罪の力が絶え間なく、私たちを神さまから引き離そうとすることによる痛み。主イエスはこのとき、アダムから始まって、第一次第二次の世界大戦、ホロコースト、広島長崎の原爆、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争などすべての人類の痛みを思い、感じ、身を震わせるようにして、憤り、心を騒がせて、涙を流してくださった。そして十字架への決意をさらに固くしてくださいました。ご自身の十字架に罪と死の力を必ず道連れにすると。そして復活によって罪と死の力に打ち勝ち、私たちの愛を妨げるすべてのものから私たちを解き放つと。ご自身がどんな犠牲を払っても、神と人を愛する愛を私たちに満たすと。そんな愛がもう私たちの中に始まっています。


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2023/04/23

礼拝メッセージ「いのちの神」ヨハネの福音書11章17-27節 大頭眞一牧師 2023/04/23



マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。

【もしここにいてくださったなら】

悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。

続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。

【主イエスの宣言】

そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。

ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。


正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。

ゴッホ「ラザロの復活」
そのいのちは私たちのうちにも始まっています。悲しみと絶望の中でも主イエスの宣言は響いています。私たちの耳はしばしばこの宣言を聞き逃します。それでも主イエスの宣言は有効です。そして私たちは聞き逃した仲間にも、この宣言を思い出させ合うことができるのです。



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2023/04/16

主日礼拝メッセージ「死で終わらせない神」ヨハネの福音書11章1-16節 大頭眞一牧師 2023/04/16


先週はイースターをごいっしょに祝いました。主イエスは復活さ れた!今も生きておられる!その喜びの中、今日も主イエスのみ声を聴きます。

【主イエスよ、なぜですか?】

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 」(6)とあります。 その二日後、 主イエスは「ラザロは死にました。 」 (14b)と言ってから、ユダヤに向かわれました。ですから、ラザロの病の重いことを知ったうえで、 助けようとしなかったのです。 それはラザロのことなど、 どうでもよかったからではありません。 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 」 (5)と、あるとおりです。では、なぜ?と、だれもが思います。

私たちも主イエスに愛されています。主イエスと共に踊るいのちに招かれ、もうすでに、踊り始めている。それなのに、病が、死が、困難が、苦しみが私たちを襲います。暴力と戦争や飢えの中にいる人びとも。なぜ、でしょうか。なぜ、主イエスは即座の解決を与えてくださらないのでしょうか。私たちを愛しているのに。

そこに今日の福音が響きます。 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 (14)と。主イエスのおっしゃるのはこうです。「ラザロはこの病気で死ぬ。けれども、それで終わりではない。ラザロの死を通して神の栄光が現れる。」と。主イエスには、このときの弟子たちにはわからない深い思いがありました。「神の栄光は、 わたしがラザロを死からよみがえらせる ことによって現れる。それは神の子であるわたしの栄光でもある。 なぜなら、ラザロの死とよみがえりは、わたしの十字架と復活のしるしだからだ。 わたしの栄光は、十字架に架けられ、墓に葬られて完全な死を経験したのち、復活することによって現れる。恥辱にしか見えない中から栄光が。敗北にしか見えない中から勝利が。 神の栄光はすべての人にいのちを注ぐことであり、神の勝利はすべての人を罪と死の力から解き放つことだから。 だから、今、ラザロが死ぬことに絶望してはならない。神にはできないことがあるなどとしゃがみ込んではならない。ましてや神は自分たちを見捨てたなどと思ってはならない。今のあなたがたの苦しみは神に知られている。その苦しみを通して神の栄光が現れる。 世界が回復されていく。 今は、そうは思えなくても。今は、どのようにして、そんなことが実現するか想像もできなくても。 」

こんな思いを胸に主イエスは招かれます。「さあ、彼のところへ行きましょう。」 (15b )。「さあ、生きよう。苦しみの中でも、生きよ。希望が見当たらないように思える中でも、生きよ。わたしがあなたの人生に栄光を現す。わたしがあなたの苦しみに意味を造り出す」と。

【フランシスコ会修道士の祝祷】

ある牧師が、「フランシスコ会修道士の祝祷」というのを紹介していました。公式なものというよりも一人の修道士によるもののようです。

願わくは、神があなたを「不快感」を通して祝福してくださいますように。 「安易な応答、不誠実な曖昧さ、形式だけの関係」などによっての不快感。それゆえ、あなたは真心を込めて生きられますように。

願わくは、神があなたを「怒り 」を通して祝福してくださいますように。 「不正、圧政、そして人からの搾取」への怒り。 それゆえ、あなたが「公正・自由・平和」のために働くことができますように。

願わくは、神が「」を通して祝福してくださいますように。「苦痛と痛み、拒絶、空腹そして戦争」によって流す「涙」 。 それゆえ、慰めるために手を差し伸べ、苦痛を喜びに変えられますように。

そして、願わくは、神が「存分の愚かさ 」を通して祝福してくださいますように。 「世界に変化をもたらすことが可能だと信じる愚かさ」 。 それゆえ、多くの人達が不可能だと宣言している事柄を成し遂げ、 公正と親切とがすべての子供達、貧しい人たちに届きますように。

「不快感」「怒り」「涙」「存分の愚かさ」、これらはみな、人生の負の要素に思えます。破れた世界においてこのような負は確かに存在します。 けれども 私たちの神は、その負の中に意味を造り出すことができます。いえ、そうしないではいられないお方なのです。あなたを負の場所に置かれた、神の栄光としないではいられないのです。

【主と一緒に】

トマスは主イエスの招きに応えました。 「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」 (16b)と。けれども、私たちはこのトマスの熱意がいかにもろいものであったかを知っています。十字架の前夜、トマスも他の弟子たちも、みな主イエスを捨てて逃げてしまったのですから。 しかし同時に、 私たちは知っています。主イエスは、そんな弟子たちを赦し、招いてくださったことを。何度でも、何度でも、何度でも。私たちまた、そのような主イエスの胸の中で赦され、成長しているのです。


          ワーシップ(賛美) 「谷の白百合(オリジナル)」Bless



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【第1回】一年12回で聖書を読む会「天地創造」が行われました! 2023/04/15

 「一年12回で聖書を読む会」の第1回「天地創造」が 2023/04/15 に行われました。


当日、お越しになれなかった方も以下の動画で内容をご覧いただけます。




以下も参照しながら動画をご覧ください


次回は 2023/05/13 の予定です。


「一年12回で聖書を読む会」について詳しく知りたい方はこちら。どなたでも参加者募集中です!


2023/04/10

イースター礼拝メッセージ「子羊である神」ヨハネの福音書10章31-42節 大頭眞一牧師 2023/04/09


イースターおめでとうございます。約2000年前のこの日、主イエスが私たちの初穂として復活しました。英会話の本で、イースターのあいさつを見ると、〇ハッピー・イースター、△または✘ハッピー・グッド・フライデーとあってります。これには、ていねいに註がついていて「金曜日は人類のすくいのためにキリストが十字架に架けられた日なのでハッピーは使わない方が無難です」とありました。無難どころか、十字架を思うとき私たちの心は痛みます。十字架の痛みを感じつつ同時にイースターの喜びを感じているのです。

【人となった神】

今日の聖書の箇所では、まだ受難週は始まっていません。けれども「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。」(31)とありますから、すでにユダヤ人たちの殺意は満ちています。彼らが怒ったのは「わたしと父とは一つです。」(30)のような主イエスの言葉。「あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」(33)と言うのです。

キリスト教会は2000年の間、主イエスはまったき神で、同時にまったき人だと宣言してきました。外見からはイエスはどう見ても人です。ですからユダヤ人たちが、イエスが神だと信じることができなかったのは、当然のように思えます。けれども彼らはユダヤ人なのです。アブラハム以来、神がご自分の胸で抱き続けたユダヤ人。神と人との境を超えて、神が人となった、そのじっとしていることができないあわれみの心を、知ることができるとしたら、それはユダヤ人をおいていないはずでした。神の愛の極みは人となること。この極みの愛を知らせる切り札であったユダヤ人を、主イエスは惜しみます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。」(37-38a)を言い換えればこうなります。「神のふところに生きてきたユダヤ人、その指導者であるあなたたちなのに、神の愛があふれ出して、人となることがわからないのか。神がその全能の愛を、あなたがたにために使うことがわからないのか。では、せめて奇蹟を信じてほしい。生まれつき目の見えない人の目を開いた奇蹟を。その人と見つめ合い、愛し合うための愛の奇蹟を。あなたがたにはどうしても知ってほしいのだ」と。

【踊るイースター】

主イエスは続いて「それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(38b)と語ります。3月26日にもお見せした神のダンスのイメージ図をもう一度。知ることは、ただ理性で理解することではありません。この神のダンスに招かれ、飛び込み、いっしょに踊ることです。

キリスト教の信仰は、教室に座って勉強して、教理の質問に対して正解が書けるようにすることではありません。キリストのいのちを生きることです。三位一体の神とともに生きることなのです。

以前テレビでキンタローという人が社交ダンスの選手権に挑戦する番組を見たことがあります。踊り方を教科書で学ぶだけでは、ダンスを踊ることはできません。パートナーとのコミュニケーションをとって、息を合わせて押したり引いたり、身を預けたり預けられたり、ダンスに必要な筋肉ができてきたり、問題が起こった時には仲間と励まし合ったり、いわば、心と体と理性のすべて、自分の全存在での他との交わりです。

イースターおめでとうございます。ハッピー・ハッピー・イースター。それはもう私たちが踊り始めているからです。三位一体の神と共に、そして仲間と共に。まだたどたどしいステップでしょう。ときにはたがいの足を踏んでしまったり。けれどもそれでも、赦し合い、支え合い、踊り続けるのです。そうするうちに凍りついていた愛が解けていく、流れていく。世界を潤し、破れをつくろっていく。

聖餐に与ります。私たちの愛の欠けた言葉と心と行いを痛みながら。同時に主イエスの赦しと招きを喜びながら。この聖餐でいのちをチャージしていただき、さらに大胆に踊るために。


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2023/04/02

礼拝メッセージ「羊を知る神」ヨハネの福音書10章22-30節 大頭眞一牧師 2023/04/02


棕櫚の主日を迎えました。今日から始まる受難週も、主イエスの愛の言葉を聴きつつ歩みます。

【あわれみの神】

9章からの主イエスとパリサイ人の会話は今日も続きます。発端は、生まれつき目が見えなかった人を主イエスが安息日にいやしたことです。パリサイ人たちは、主イエスが神から遣わされた救い主(キリスト)であることを否定しましたが、その理由がこの安息日のいやし。パリサイ人たちにとって、神は律法を守る者にはあわれみ深いが、律法を守らない者には厳しい神。安息日に人をいやすことをけっして赦さないお方です。

ところが主イエスは「わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。」(25c-26a)と言います。安息日に人をいやすことこそ、主イエスが神からの救い主であることの証拠なのです。父なる神は、安息日であろうがなかろうが、一刻も早いいやしを願われるあわれみの神。この父から遣わされた者は、安息日にいやしを行うことをためらうはずなどないのです。あわれみにおいて、父とひとつであるからです。

ところがパリサイ人たちにはあわれみの神がわかりません。ですから神が人となったあわれみがわからず、主イエスを十字架へとおいやりました。あわれみゆえに十字架に架かる神など想像することもできなかったのです。

神があわれみの神であることを知らなかったパリサイ人たちは、安息日のいやしをまったく誤って解釈してしまいました。神のあわれみを神の怒りを招く行為だと思ったのです。彼らは熱心でした。けれども熱心さよりもたいせつなものがあります。それは神のあわれみを知っていることです。

【主イエスの羊】

熱心さよりたいせつなものがある。そんな言葉は私たちを居心地わるく感じさせるかもしれません。「あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。」(26b)という主イエスの言葉を聞くとなおさらです。主イエスは熱心なパリサイ人たちにこう言ったのですから。けれども恐れることはありません。主イエスは「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(27b)とおっしゃったからです。主イエスは羊である私たちを知ってくださっている!ここに救いの根拠があります。救いは私たちがそれに値するからではありません。主イエスが私たちを知ってくださっていることにあるのです。

【三重の愛】

私たちは、自分は主イエスの羊だろうか、主イエスの声を聞いているだろうか、としばしばうなだれます。もっとがんばらなければ、と自分を責めて疲れてしまうこともあります。そんな私たちに主イエスの御声が響きます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(28)。だれも、とあります。誘惑も、私たちの弱さも、そして死さえも、私たちを主イエスの手から奪い去ることはできないのです。それは主イエスが私たちを握りしめて離さないからです。愛ゆえに。

それだけではありません。「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(29-30)父なる神もまた私たちを握りしめて離さないのです。愛ゆえに。もうおひとかた、聖霊も同じです。聖霊も私たちを握りしめて離さない。愛ゆえに。こうして私たちは父と子と聖霊の三重の愛の手に握りしめられています。私たちがそれに値するからではありません。私たちが値しなければしないほど、三重の愛の手は私たちを握りしめるのです。離さないのです。

【凍りついた愛が】

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」(28a)こそ、主イエスが人となられた理由でした。今週の木曜日と金曜日は教区のユース+キャンプで湖西祈りの家に行ってきました。まだ信仰を告白していない人も来られるということでしたので、「永遠のいのち」をどのように伝えたらよいか、と思いをめぐらしました。やはり死んでから天国に行くことだと思われやすいからです。永遠にいのちは、もちろん、今始まるいのちです。今、始まって私たちからあふれ出して世界を回復させ、死の向こう側にまで続くいのち。それをどう語ろうかと思ったときに、以前、教団の青年たちに語った「凍りついた愛が解け始める」というメッセージを思い出しました。永遠のいのちは、何よりも私たちの愛の回復に現れます。私たちが受けてきた痛みや苦しみは、私たちの心を閉ざし、愛することに臆病にさせてしまっています。愛が凍りついているのです。けれども、十字架で死と罪の力に勝ってくださった主イエスは、私たちに新しいいのちを注ぎ、凍りついた愛を解かしてくださっています。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな愛を私たちは生きています。復活の主イエスと共に。その手に握りしめられて。


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