2024/01/28

主日礼拝メッセージ「むち打たれた神」ヨハネの福音書19章1-16a節 大頭眞一牧師 2024/01/28


また、心が痛む説教題にしてしまいました。語るのもつらい箇所です。けれどもやはり目をそらしてはならないとも思うのです。十字架こそが神の私たちへの愛のクライマックスなのですから。

【この人を見よ】

他の福音書では、イエスのむち打ちは、十字架の死刑判決の後です。ところが、ヨハネは裁判の始まる前に、ピラトの命令で行われたと記します。ピラトはイエスが無実だと思っていましたから、むち打たれボロボロになったイエスの姿をユダヤ人たちに見せ、「もう十分だ」と思わせて、イエスを釈放しようとした。これがヨハネの言おうとしているところです。ところがユダヤ人たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」(6a)と叫びます。ピラトは「私にはこの人に罪を見出せない。」(6c)と言い、「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」(12a)のですが、結局は十字架刑に同意してしまったのでした。

ピラトの言葉「見よ、この人だ。」(5c)は、もともとは「このみじめな男をみろ、ボロボロじゃないか。十字架に架けてもしようがないから、ゆるしてやれ」という意味でした。けれどもキリスト教会はピラトの言葉に、ピラトが思ってもいなかった真実を見出したのでした。それをよく表すのが、新聖歌99「馬槽の中に」です。4節「この人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ」。この人を見よ、このボロボロのみじめな男を。なんとこの男は神! ぼろぼろの神、むち打たれた神。私たちのためにボロボロになることをいとわない神、私たちのためにむち打たれることをいとわない神。この神を見よ、この神を受け入れよ、この神とともに生きよ、と。

【見よ、神の子羊】

いよいよ主イエスの裁判が始まりました。ヨハネはここで「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時(正午)であった。」(14b)と記します。過越の備え日、すなわち過越の小羊を屠り、過越の食事の準備する日の午後に、主イエスは十字架に架けられたのでした。まさに過越の小羊が殺される時間。思い出されるのは、かつてバプテスマのヨハネが主イエスについて語った「見よ、神の子羊」(ヨハネ1:36)です。ヨハネは一貫して、主イエスは過越の小羊だと記します。過越の小羊によって、イスラエルの民のエジプトでの奴隷の苦しみからの解放、救いが実現しました。そのように、主イエスの十字架と復活によって私たちの救いも実現したのでした。

【救いの四つ顔その1「和解」】

主イエスが十字架と復活によってなしとげてくださった恵みは巨大です。私たちにはその全体を知ることはできません。それでも教会は、二千年の歴史を通してさまざまな恵みを発見してきました。そのうちの主な四つを、一年12回で聖書を読む会のテキスト「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」に載せています。今日はそのうちの第一番めのものを取り上げることにしましょう。

それは、「神と人との交わりの回復の十字架(和解)」です。神が人を創造した目的は、人と愛し合い、喜び合うため。けれども、この愛の関係は人が神に背を向けたために損なわれてしまいました。これまで何度も、最初の人の名前「アダム」は固有名詞ではなく、「人」という意味の普通名詞だと申し上げてきました。ですから聖書によれば人はみな神に背を向けており、神との関係が損なわれています。神には、このままで私たちを放っておくことができません。そうするには神はあまりに愛に満ちているからです。けれども、私たちにはそんな神の愛がわかりません。目で見ることができるならば、わかるかも知れないのですが……。いったい、どこで神の愛を見ることができるのでしょうか。それが十字架です。十字架に架けられたイエスは神。父なる神とは区別される子なる神。人となった神です。この神が十字架の上で発した言葉の一つが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)です。自分の苦しみを省みず、人のためにとりなす神の姿がここにあります。イエスのとりなしは、自分を十字架に架けたユダヤ人やローマ人のためだけではありません。神に背を向けているすべての人のためのとりなしです。このとりなしの愛を知るときに、人は心を開いて、神との関係を回復することを望み始めます。和解はすでに神から差し出されています。神の愛の迫りを知るときに、人は心を開き始めます。その和解を受け入れ始めるのです。強いられてではなく、愛にとかされて。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)とあります。この幕とは神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕です。この幕の中の至聖所には大祭司が一年に一回入る以外はだれも入ることは許されていませんでした。そこは神が人に会う場所とされていました。けれどもイエスの十字架の死と同時に隔ての幕は裂かれました。このことは神と人との和解が可能になったことの象徴です。(同書87-88頁)

罪を赦すばかりか、和解さえも望み、共に生きてくださる神。人となりたる活ける神をこの朝も喜びます。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/01/14

礼拝メッセージ「王である神」ヨハネの福音書18章28-40節 大頭眞一牧師 2024/01/14


新しい気持ちで始まった新年ですけれども、さっそく困難や痛みにぶつかった方がたもおられることでしょう。その中に、その中にこそ響き渡る主イエスのみ声を聴き取ります。

【ユダヤ人たちとイエス】

「彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。」(28c)。主イエスをローマ帝国のユダヤ総督ピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちは、異邦人の家に足を踏み入れると、汚れてしまい、過越の食事ができなくなるので、中には入りませんでした。本来世界のすべての国民を神に会わせる使命のユダヤ人に歪みが生じてしまっています。

彼らとは逆に、イエスは官邸の中で、堂々とピラトに真理を語ります。ユダヤ人の憎むローマの総督をも神に会わせようとなさったのです。この朝も主イエスはすべての人を神に会わせてくださいます。罪あればあるほど。聖餐がまさにそのことを示しています。

【イエスとピラト】

そんなイエスの前で、ピラトは揺れています。彼は「私はあの人に何の罪も認めない。」(38d)と言い、「あなたはユダヤ人の王なのか。」(33b)と核心をつきながらも、ユダヤ人の暴動を恐れて流されてゆきます。官邸の中からユダヤ人のところに出て(29)、中に入ってイエスを呼び(33)、再び出る(38)ピラトの姿には、ユダヤの最高権力者の権威はありません。主イエスのあわれみに気づかないゆえに、揺れるひとりのあわれな人が際立ちます。そのピラトに主イエスを静かに語り続けます。私たちにもそうしてくださり、今もしてくださっているように。

【真理とは何か】

ピラトは「真理とは何なのか。」(38)と言います。核心です。けれども彼は答えを待ちませんから、真剣に主イエスに問うたのではありません。つぶやきです。ある牧師はピラトを代弁してこういう意味のことを書いています。「真理か。ひさし振りに聞いた青臭い言葉だな。そんなものはない。自分は修羅場をくぐって生きているうちに、とうの昔に、真理を問うことはなどやめてしまった。しかし、この男はなんだろう。大まじめで命の瀬戸際で真理を語っている。忘れていた何かを思い出させるような、そんな懐かしさを感じる」と。

ピラトが払いのけようとしても払い切れない真理、ピラトが心の深いところで慕う真理、それはイエス・キリストでした。この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さのすべてを取り除く主イエス・キリストこそが、真理そのものなのです。

【世の罪を取り除く神の子羊】

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:28)と、バプテスマのヨハネはイエスについて、語りました。実はヨハネと他の三つの福音書では十字架が一日ずれています。他の福音書では、最後の晩餐が過越の食事。十字架はその翌日です。けれども、ヨハネでは十字架の当日が過越なのです。ヨハネの意図は明白です。主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」、過越の小羊であることを強調しているのです。ヨハネはまた、3章で主イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と語ったことを記しています。民数記21章で荒野の旅に我慢できなくなったイスラエルが、神とモーセに逆らったときのことです。猛毒の蛇が送られ、多くの者が死ぬ。民が罪を認め、モーセが祈ったところ、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民21:8)のみ言葉があり、その通りになりました。

ヨハネは、主イエスはこの青銅の蛇と同じなのだ、主イエスを仰ぎ見る者は生きる、どんな罪にもかかわらず生きることができると、語っています。それは私たちの悔い改めが真剣であるから、ではありません。私たちには思い出すことができない多くの罪がある。直視することができない大きすぎる罪がある。弱さや愚かさにいたっては数えきれず、それらのために私たちは息もできないぐらい、ぐるぐる巻きにされている。けれども、そこに主イエスの「生きよ」とのみ声が響きます。あなたのすべての問題を、あなたのすべてのねじれと歪みをわたしが引き受けよう。わたしの王としての力、神としての力を、あなたの罪を取り除くために注ぎつくそう。そう主イエスはおっしゃり、そのために十字架に架かってくださいました。だから私たちは生きることができます。愛する自由に解き放たれて。そのことの証しである聖餐にあずかります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/01/08

礼拝メッセージ「捕らえられた神」ヨハネの福音書18章12-27節 大頭眞一牧師 2024/01/07


明けましておめでとうございます。元旦から北陸に地震が起こるという年明けになりました。けれどもやはり、このときも、どんな状況をも貫いている神さまの愛を覚えていることができるように、と思います。

【捕らえられた神】

捕らえられた神、この説教題は衝撃です。そもそも人が神を捕らえることができるのか、神を縛り上げて、無理やり連れていくことができるのか。もちろんできないはずです。なぜなら神は人が自由にできないお方だからです。それが神の定義だからです。ところが、私たちの神は、実際に捕らえられました。「平手でイエスを打った。」(22)ともあります。私たちの神は、捕らえられたり、打たれたりする神。ですから聖書を読むことは、神の定義を、定義しなおすことです。神とは、私たちのためには、捕らえられ、打たれ、十字架に架けられることをいとわないお方なのです。

【神の完全、私たちの不完全】

主イエスがまず、連れていかれたのは、アンナスのところ。ときの大祭司カヤパのしゅうとです。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(14)とあります。カヤパは、「主イエスを支持する人びとが反乱を起こしたら、ローマによってユダヤが滅ぼされてしまう。それより、主イエスを死へ追いやって反乱の芽を摘んだほうがよい」と言ったのでした。実際は主イエスはローマへの反乱を企てていたのではなく、世界が神に立ち帰り、破れた世界が回復するために来られました。ですから、カヤパの助言は的外れでした。けれども神さまは、そんな人の愚かさをも用いて、それを主イエスの死による世界の救いの預言となさいました。神さまのなさることは、完全な部品から完全な製品を作ることではありません。不完全な、たとえば欠けと弱さだらけの私たちの不完全さも、組み合わせ、生かして用いて、自在に、完全な結果を作り出すことができるお方。大胆に信頼しましょう。自分ではなく、神さまを。

【イエスとペテロ】

この個所には、イエスとペテロの様子が交互に描かれています。12-14節はアンナスの前のイエス、15-18節はイエスを否むペテロ、19-24節は再びアンナスの前のイエス、25-27節は再びイエスを否むペテロ。ヨハネの意図が、主イエスとペテロを対比することにあったのは明らかでしょう。

イエスは、脅しと暴力によって従わせようとするアンナスに屈しません。「わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。」(21b)と誤りを指摘し、「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。」(23b)と諭します。打たれても「正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」(23c)といさめます。アンナスどころではない権威が、主イエスにはあります。その権威に向き合うことができずに、腰がくだけるように、アンナスは主イエスをカヤパに送るのです。

一方ペテロは、三度イエスを知らないと言います。その相手は大祭司ではありません。門番をしていた召使いの女や下役といった権威からはほど遠い人びと、そんな人びとを恐れました。大祭司(アンナスは元大祭司)を圧倒した権威あるイエスと権威なき人びとを恐れたペテロの姿は、正反対です。

先週はイエスが「わたしである」とおっしゃった箇所を読みました。神さまは人間の思いの中に納まらないお方。私たちの想像をはるかに超えた祝福を与えるお方だと。ここでもイエスは、人間の目論見を超えて、すべての人を祝福する道を歩み続けます。すべての人を祝福し続ける存在として「ある」のです。けれどもペテロは「私ではない」と言い続けます。私は弟子ではない、私はイエスといっしょではない、と。それは祝福である主イエスとの関係を否定することでした。祝福から自分を切り離すことでした。「ある」イエスと「ない」ペテロ、その断絶をつなぐのは、もちろんイエスです。

私たちもまた、主イエスを裏切ってきました。愛する者たちを愛しきれず、覆いきれなかったことも胸を刺します。ヨハネは他の三つの福音書とは違って、ペテロの涙を記していません。泣くことさえもできない絶望の中にペテロは青ざめて立ち尽くしていました。胸が痛みます。けれども、主イエスはペテロの裏切りを知っていましたから「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:31)とおっしゃっていました。

けれども「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)ともあります。ペテロの裏切りは主イエスに知られており、ペテロの裏切りのためにも主イエスは十字架に架かってくださったのでした。もちろん私たちの青ざめる罪のためにも、痛みのためにも。この愛ゆえにペテロは、やがて立ち上がり歩き始めます。泣いて悔い改めたからではなく、主イエスのあわれみゆえに。私たちもまた。何度でも、何度でも、何度でも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)