2023/12/31

礼拝メッセージ「杯を飲む神」ヨハネの福音書18章1-11節 大頭眞一牧師 2023/12/31


今年、最後の主日を迎えました。痛みと喜びとさまざまな思いのうちに今日を迎えたおたがいです。ただひとつ、それらのすべてを貫いて、主イエスの愛が注がれていたことを思いつつ、み声に耳を傾けましょう。

【闇の力のもとに】

マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。共通の視点から書かれているからです。それに対してヨハネは独特です。この個所でも、「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」(3)に「明かりとたいまつ」と記しているのはヨハネだけです。夜ですから明かりは当たり前です。けれども、ヨハネはこのことによって、世界を覆っている闇の深さを際立たせようとしています。光として世に来られたイエス、そのイエスを闇の力が覆いつくそうとしています。ユダの裏切り、祭司長や律法学者たちの妬み、それらを通して働く悪の力は強大です。私たちもしばしば恐れ、しゃがみ込んでしまいます。

【進み出るイエス】

しかし主イエスは、闇の力に圧倒されることはありません。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた。」(4)と自ら進んで行かれました。ですから主イエスは逮捕されたというよりは、ご自分を進んで、闇の力にゆだねられたのでした。闇の力に飲まれることによって、闇の力を飲みこむために。ご自分のいのちによって、悪の力を滅ぼすために。私たちを闇の力から解放し、いのちを与えるために。

【わたしである】

「イエスが彼らに『わたしがそれだ』と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。」(6)の『わたしがそれだ』は『わたしである』と訳したほうがよいでしょう。モーセが神さまに名前を訊ねたとき、神さまが「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エ3:14)と答えたことに由来します。モーセは、そしてイスラエルの人びとは、神の名を知ろうとしました。神を理解し、分かってしまいたい、自分の心の中にうまく収めてしまいたい、という願いの現れです。そうすれば、神さまに対してハラハラしなくてすむからです。こうやっとけば、だいじょうぶと安心できるからです。

けれども神さまは私たちの心に収められることを拒否します。世界の主人公は神さまだからです。出エジプトのように、私たちを立ち上がらせ、神さまと共に旅立たせます。私たちの想像を超えた祝福に向かって。神さまは私たちが理解できようができまいが「ある」お方です。私たちの想像を超えた喜びと祝福と共に「ある」お方なのです。

【地に倒れた六百人】

ユダが連れて来た「一隊の兵士」は、ローマ兵、通常六百人ほどで、千人隊長に率いられています。イエスが彼らに「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れました。この「地に倒れる」という言葉は、クリスマスの東方の三博士がお生まれになったイエスの前に「ひれ伏した」のと同じ言葉。闇の力はイエスの前にひれ伏したのです。主イエスは神。その権威は圧倒的です。

けれども「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。」(10a)とあります。ペテロは勇敢だったのではなく、恐れのあまりわけがわからなくなって、剣を振り回したのでした。私たちも危機の中で、恐れて、自分を守ろうとして、たがいに傷つけ合います。個人のレベルでも、国家のレベルでも。

けれども、そこに主イエスのみ声が響きます。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(11c)と。「闇の力も、あなたの恐れも、今、わたしが飲み干そう、だから恐れるな。闇は十字架の上で、わたしが滅ぼす。あなたがたは、光の中を歩め。神とともに、あなたの想像をはるかに超えて『ある』神と共に。そして、この世界に、もう闇が敗れたことを、みな顔を上げて光の中を歩むことができることを告げ知らせなさい」と。



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2023/12/26

クリスマス礼拝メッセージ「一つにする神」ヨハネの福音書17章20-26節 大頭眞一牧師 2023/12/24


クリスマスおめでとうございます。今から2千年と少し前に、神が人となってこの世界に来られました。とても信じられないことです。さらに信じられないことに、この神は十字架に架けられて殺されました。死んで三日後に復活したのは、はるかに私たちの理解を超えています。けれども、私たちが信じようが信じまいが、私たちが理解できようが、理解できまいが、これらのことは事実だと、教会は語り継いできました。私たちはこれらを、信じようとする意志によってでもなく、理解しようとする頭脳によってでもなく、それよりはるかに大きく、不思議な、心とたましいで受け入れるのです。

【十字架の前に】

今日の箇所は最後の晩餐の後の、主イエスの祈りの最後の部分。十字架を前に「わたし(イエス)は、ただこの人々(弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(教会、つまり私たち)のためにも、お願いします。」と。主イエスの最大の関心は、私たち。地上のご生涯の最後のときまで、主イエスは私たちを思い、私たちのために祈り、私のために、あなたのために十字架に架けられたのでした。

【一つにする神】

主イエスが私たちのために祈ったのは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」(21abc)でした。二つのことが言われています。第一は、私たち、教会の仲間が一つに結ばれること。第二は、私たち、教会の仲間が三位一体の神のうちにいること。今年、しばしばみなさんにお見せした図をもう一度。父と子と聖霊の三位一体の神が愛のダンスを踊っています。救いとは何か。それは、このダンスに招き入れられ、神とともに踊り始めることです。

悲しみ、困難、痛みのなかで、踊ることができずにしゃがみ込んでいた私たちを、神さまは立ち上がらせ、「さあ、踊ろう」と招いてくださいました。だから私たちの一致は、ただの仲良しではありません。気が合う者どうしのつきあいとはちがいます。三位一体の神の、永遠の愛の関係が、私たちの愛の一致の源であり、動力なのです。ですから、私たちがたがいに「一致しましょう」と語るなら、それは不十分な表現です。私たちは、もうすでに一致しているのです。神の愛の中で。

【一つになれない私たち】

けれども、現実を見るならば、私たちがいつも一つとは言えないことも事実です。そんな経験をするときに、私たちは「聖書なんかきれいごとだ、人間なんだから、うまくいかないことがあって、当たり前だ」と思ってしまうことがあると思います。しかし、三位一体の神に似せて造られた私たちです。そして私たちの一致は、子なる神イエス・キリストの十字架によるものであることを、軽く考えてはならないと思います。キリストの十字架は事実です。キリストが私たちをひとつにしてくださったことも。

ただ、私たちが味わってきたいろいろな痛みや傷のゆえに、まだ凍りついている部分があります。愛せない人がいたり、赦せないことがあったり、自分を守ろうとして愛に欠けた言葉や思いや行動が出てしまうことも。それでもキリストが与えてくださったいのちは、私たちの凍りついた愛を解かし続けています。日々、私たちの愛は回復し続けているのです。

【そして世界へ】

今日は明野キリスト教会でバプテスマが授けられます。受洗なさる方が数えてくださっていたのですが、129回の求道者会がもたれました。いろいろ話したようでも、結局は「ただ神さまが私たちをあわれんでくださった、一方的に恵んでくださった、それだけですね」と語り合ったことでした。ただあわれみゆえに、私たちを放っておくことができなくて、神が人となってこの世界へ。そして十字架へ。

それはバプテスマを受けた後も、何もかわりません。クリスチャンになったから、何かをしなければ、とか、立派であらねば、と思わないでください。今までどおり、ただ神さまの胸の中で、神さまに暖められて、凍りついた愛が解かされるままに、あふれ出るままに。置かれた場所で、神を喜び、周りの人びととともに喜ぶこと。そんな私たちを通して世界は回復していきます。クリスマスおめでとうございます。バプテスマおめでとうございます。



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2023/12/18

第3アドベント礼拝メッセージ「マリアに宿る神の子」ルカの福音書1章26-38節 村島健一郎神学生 2023/12/17


【苦しみのイスラエル・苦しみのマリア】

ガリラヤのナザレという町に住むマリアという女性に天使マリアに告げます。「あなたは身ごもって、男の子を生む。そして、その男の子の名前はイエスと名付けられる。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれる。その子はダビデ王家の王位を継ぐ、聖なる子、神の子である」マリアも天使の言っていることが何のことかは分からなかったでしょう。マリアの関心もどんな子供かよりも、子供を宿すということに向いています。それは大スキャンダルだからです。当時のユダヤ社会で、正式には結婚していない若い女性が妊娠するなどということはあってはなりません。これはマリアには何とも酷すぎる出来事です。そして、経済的にもローマとエルサレムから搾取をされていたと言われています。マリアの生活、マリアの人生は宗教的にも、経済的にも厳しいものでした。

そこに自分の妊娠が知らされます。これ以上の試練があるでしょうか。現代の視点からは、神様はマリアにあまりにも厳しすぎるという人たちもいます。マリアは、まるで当時のイスラエルがかかえるすべての苦悩を象徴するかのようです。

【神の物語の始まり】

神様はイスラエルの苦しみ、嘆きに目を留めておられました。そのようなイスラエルの中で、神はご自身の最終的な愛の物語を始められました。マリアの苦しみ、困惑もご存知でした。神様自身も苦しむマリアと共に苦しんでおられます。「マリア、すまない。でも、こうして子なる神を送らなければ、誰も救い主を信じることはできないのだ。こうしなければ、イスラエルを悪と罪と偶像礼拝という捕囚の世界から救い出すことはできないのだ」と言っておられるようです。これこそ神の最終的な被造物の救いの始まりです。これがまさに新しい出エジプトです。

イスラエルの苦しみに、神様は耳を傾け、モーセを送り、イスラエルをエジプトから脱出させました。今は、マリアを通して、イスラエルを苦しみから解き放とうとされます。これが、イスラエルの救いと解放と回復の始まりです。残念ながら、当時のユダヤ人やイエス様の弟子たちも平和はローマ帝国を滅ぼすことで得られると信じていました。

しかし、神様が私たちを救うというのは、神様の愛が民族的、社会的、性別的、経済的な境界を越えて到達し、隔ての壁を打ち壊すことです。そして、この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすことです。苦しみと悲しみが永遠に続くと思えるような状況の中で、イスラエルの人々はメシアを待ち望んでいた。マリアもその期待を感じていたでしょう。そのイスラエルの声に応えて神様は神の子、救い主、イエス様をお送りくださいました。同時に、神様もマリアを信じ、マリアに期待して、マリアと共に苦悩しながら、マリアに神の子を宿らせました。そして、マリアの応答が神の愛の物語、苦しみからの解放の物語の始まりとなります。

【神の平和】

この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすために、イエス様は世界にいらっしゃいました。世界の回復と和解、聖書はこれを平和、シャロームと呼びます。

神の子が赤ちゃんとしてマリアのお腹に宿る。象徴的です。母親のおなかは赤ちゃんが生まれるまで憩う場所です。私たちは神様を信じて、神様に平安や平和を求めます。しかし、聖書は神様も憩う場所を求めておられると言います。「わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか」(イザヤ66:1)。

神様は今も憩う場所を求めておられます。ルカの福音書では、神様の憩う場所はマリアでした。しかしマリアだけはありません。収税人、罪人、病人、女性のような当時のイスラエルでは疎外されていた人々に、神様は憩いの場所を求めました。神様は私たちを憩う所にしたいと願っていらっしゃいます。創世記の1章に書かれているような、神と神に作られたすべてのものが一緒にいて、平和と憩いに満ち溢れた世界を祝福したいと願っていらっしゃいます。神の愛の物語、世界を苦しみからの解放する物語は、マリアの応答から始まりました。世の中はまだ憩うような所ではありません。苦しみや悲しみが続きます。今神様は私たちのうちに憩う場所を見つけてくださいました。教会も私たちが神様と共に憩う場所でありたいと思います。


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2023/12/11

礼拝メッセージ「とりなす神」ヨハネの福音書17章6-19節 大頭眞一牧師 2023/12/10


待降節第二主日、明野ではろうそくが、信愛ではLEDろうそくが2本ともりました。今年はさまざまな喜びとともに、痛みも覚えた年でした。しかしこのろうそくの灯りは、たとえ暗い夜であっても、そこに主イエスがおられることを証言しています。ますます明るさを増す灯りの中で、今日も御声を聴きます。

【とりなす神】

最後の晩餐での主イエスの祈りの二回目。弟子たちのために主イエスは祈ってくださいました。とりなしてくださいました。しかし「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」(6)、「あなたがわたしに下さった人たち」(9)とありますから、この祈りは、ペテロたちだけではなく、こうして集っている私たちのための祈りでもあります。私たちのために、私のために、あなたのために、主イエスがとりなしてくださったのです。

けれども、父と子は三位一体の神。わざわざ祈らなくても、その願いは一つで、同じであるはずです。でも、私には祈るイエスと耳を傾けるかたむける父の姿が、すぐそこに迫った十字架の悲痛に備えて、歯をくいしばって耐えようとしておられるように思えてなりません。私たちの救いという、父と子の同じ一つの望みをかみしめ、そのための十字架だと言い聞かせ合いながら。

【父と子の願い】

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(15)。これが父と子の同じ一つの望みです。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」(14b)ともあります。私たちが天国に行くように、というのではありません。私たちが、この世にあって、それぞれが置かれた場所にあって、この世のものではない生き方をすること。損なわれ、破れてしまっているこの世界の回復のために生きること。世界の破れや歪みに呑み込まれないで、世の光・地の塩として、破れを繕って生きること。それが主イエスの、そして、父の望みであり、そのための十字架でした。

【赦しと和解】

「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(12)。滅びの子とは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。ユダ以外は滅びない。私たちは滅びない、だれも滅びない、そう主イエスは宣言なさいます。すでに私たちは赦されているのです。

けれども、神は、判決をくだした後は、被告人とかかわりを持たない裁判官のようではありません。赦しの後に、ほんとうの神と私たちの関係が始まります。ユダのことを思い、もし私が主イエスを裏切ったら滅びるのだろうか、と恐れないでください。たとえ私たちが不信仰になろうとも、いえ、そうなったときこそ、主イエスは私たちを守り、保ってくださるのです。そして単なる赦しではなく、私たちと和解して、私たちを神の家族として、いっしょに生きてくださいます。暮らしてくださいます。もうすでに。

「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(11c)とあります。教会に実現している和解は、三位一体に源を持ち、三位一体に似た愛の一致です。神との和解とともに人との和解もまた、すでに十字架の上でなしとげられているのです。主イエスは私たちを守り、保って、その和解を日々解き放ってくださいます。凍りついていた愛を解凍してくださっています。

【主イエスの喜び】

これらすべてのことを主イエスは喜んでしてくださいました。「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。」(13)。十字架に架かろうとしている主イエスのうちには、それでも喜びがあふれていました。私たちのいのちある生き方を思って。満ちあふれる喜び! そんな喜びを私たちにあふれさせるためなら、何も惜しいと思わずに、クリスマスに人となられた主イエスを思い、今、ごいっしょに聖餐にあずかります。


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2023/12/04

礼拝メッセージ「唯一のまことの神」ヨハネの福音書17章1-5節 大頭眞一牧師 2023/12/03


今年もクリスマスに向かう待降節を迎えました。教会暦、教会の暦では、今日から新しい年度が始まります。私たちの歩みは主イエスを待望することから始まるのです。今日もイエスを呼びましょう。

【ご自身のための祈り?】

最後の晩餐で主イエスが語られた言葉は16章で終わりました。17章は主イエスの祈り。5節まではご自身のための祈り、19節までは弟子たちのための祈り、20節から終わりまでが教会のための祈り。今日は、ご自身のための祈りから、主イエスのお心を聴きます。

ここで主イエスが祈っておられるのは、「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(1)です。けれども、その栄光はご自身があがめられることでもなければ、高い位につくことでもありません。そうではない不思議な栄光。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とあります。主イエスが地上で成し遂げたのは、「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与える」(2)こと。すなわち、私たちのために人となり、私たちのために十字架に架けられ、私たちのために復活して、私たちに永遠のいのちを与えることが主イエスの栄光です。

結局のところ、主イエスのご自身のための祈りは、私たちのための祈りでした。主イエスのいちばんの望みは、私たちが永遠のいのちを生きること。それが主イエスの栄光。クリスマスから十字架と復活にいたるまで、主イエスの関心はただただ私たちのいのちにありました。

【神が人となられた理由】

永遠のいのちとはなにか。救いとはなにか。それは、ただ死んでから天国に行ける、というだけではありません。2世紀ごろから教会は「神が人となられたのは、人が神のようになるためである」と語り始めました。「神が人となられたのは、人が神になるためである」という表現も見られます。もちろん、人は神になりません。それにもかかわらず、このような表現が用いられたのには理由があります。

人は神のかたちに造られました。神は目に見えませんから、神のかたちは容姿ではありません。人は神のように全能ではありませんから、神のかたちは能力でもありません。

けれども「神は愛です。」とあります。神さまのもっとも神らしさは、愛し愛される愛の関係に生きることにあります。神のかたちに造られた私たちが、神のかたちを回復される。このことを教父たちは「神のようになる」「神になる」と表現しました。たがいに恐れ合い、傷つけ合う私たちが、そんな生き方から解き放たれるすばらしさ。自分と異なる人びとと受け入れ合い、自分を与え合い、覆い合って生きる、奇蹟のような生き方をそのように表現したのでした。神が人となられたのは、それ以下のことのためではありませんでした。神さまのもっとも神さまらしさである愛、その愛を私たちに満たすために主イエスは最初のクリスマスに人となってくださったのでした。これは確かにめまいがするような恵みです。

【主イエスの栄光】

あまりにもすばらしすぎて、にわかには受け入れがたい恵み。けれども、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とありますから、この恵みはすでに成し遂げられたのです。私たちのうちに。教会の交わりのうちに、すでに。

そして主イエスはさらなる栄光を願います。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(5)と。私たちのうちに始まった主イエスの栄光はますます輝く栄光となるというのです。私たちを通して、私たちからあふれ出して。

私たちの愛があふれ出すのをとどめている傷があるならば、私たちの愛が流れ出すのをせき止めている歪みがあるならば、主イエスはそのこともご存じです。そしてほってはおかれません。ますます私たちに愛を注ぎ、ますます仲間との愛の交わりのうちに働いて、私たちを回復させてくださいます。それがご自身の栄光だから。

今、切ないほどの主イエスの愛のうちに、そのみからだと血潮である聖餐にあずかります。私たちをいやす主イエスのいのちに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)