今年も最後の主日となりました。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福に続く箇所から、今日も主イエスの恵みを聴き取ります。
【うなだれる私たち】
「地の塩」「世の光」と呼ばれている私たち。「塩」がなければ生きることができません。また塩は食べ物が腐るのを防ぎます。だから「地の塩」とは、この世に必要不可欠で社会を腐敗や堕落から守る存在。「世の光」はこの世を明るくする存在。私たちは自分がそうだとは言えないで尻込みしてしまいます。
そこには私たちの誤った思い込みがあります。自分がこの世の腐敗を防いだり、明るくしたり出来ているだろうか。それが出来ていれば、胸を張って私は「地の塩」「世の光」だと言えるのだが、と。例えば、私たちの伝道が実を結んで多くの人びとが礼拝に集ってくるとか、あるいは、私たちによって社会の不正が目に見えて取り除かれていく、そういったことが出来れば、とあこがれ、そうでない自分を見てうつむくのです。
【イエスの宣言】
けれども、イエスの「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」は、明らかに宣言です。「あなたがたは、すでに、今、地の塩であり、世の光なのだ」と断言しています。だから私たちはすでに塩っ気や光を与えられています、主イエスはその塩っ気をなくさないように「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と教え、その光を遮られることがないように「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」(15a)と語るのです。すでに主イエスによって塩とされ、光とされている私たちがそのいのちを曇らされることがないようにと励ましておられるのです。
【八つの祝福ふたたび】
今日の塩と光の箇所は、先週までの八つの祝福に続く箇所。ですから「地の塩」「世の光」の生き方は八つの祝福の生き方です。年末の総集編として振り返れば、
- 「心の貧しい者は幸い」は、自分の心の中には、より頼むべき豊かさが全くない者が、主イエスに抱きしめられている幸い。その幸いは周囲に及んでいきます。
- 「悲しむ者は幸い」は、悲しむ私たちのそばに主イエスがいてくださる幸い。そして、その幸いを伝える幸い。
- 「柔和な者は幸い」は、苦しみの中にある者が、いらだたず神に望みを置き、イエスと共に世界の破れを繕う幸い。
- 「義に飢え渇く者は幸い」は、不正に苦しむ者たちが、イエスの十字架と復活によって実現した悪の力の滅びという義を受けて、神の正義の実現のために生きる幸い。
- 「あわれみ深い者は幸い」は、十字架に現れた神の大きなあわれみを受け、注ぎだす幸い。
- 「心のきよい者は幸い」は、自分ではなく主イエスの十字架を見る者の幸い、今、可能な限りの愛で神と人を愛する幸い。
- 「平和をつくる者は幸い」は、主イエスが十字架で敵意を滅ぼされたゆえに、自分に敵対する人びとの敵意をも癒す生き方の幸い。
- 「義のために迫害されている者は幸い」は、自分を迫害する人びとの破れに主イエスと共に愛を注ぎ、回復をもたらす幸い。
ですから八つの祝福はいずれも、私たちがすでに手にしている幸い。その出どころは主イエスであり、その幸いにあずかる者たちを世界の破れの回復のために送り出します。そんな生き方が「地の塩」「世の光」の生き方です。
【あなたがたの父をあがめるようになるため】
八つの幸いは、私たちの不足に注がれる祝福ですから、私たちの栄光や誉れではありません。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(16)とあります。人びとは、私たちを祝福する神さまをあがめるようになるのです。主イエスと主イエスをお遣わしになった父を喜び、ほめたたえるようになるのです。
そのために「また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」(15)と主イエスは命じます。私たちが「どうか私たちを輝く光、塩っ気のある塩としてくださった主イエスを仰いでください。このお方こそまことの光です。」とすべての人に主イエスを指し示すように、と。