2022/04/24

主日礼拝 2022/04/24 「ひとり子の神(第四主日)」

   

礼拝メッセージ「ひとり子の神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章14~18節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



【ことばは人となって】

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)。この「ことば」は主イエス。天地創造を担われたまことの神が、人となって私たちのところに来られたのです。人となることには覚悟が必要です。人は死にます。十字架の上で死ぬことさえも、覚悟のうえで神は人となりました。そんなにしてでも私たちのところに来ることを望んでくださったのでした。
なぜなら「私たちはこの方の栄光を見た」(14)、これを神が望んだから。旧約聖書を通して、人間は神の栄光、すなわち神を見ることはできない、それを見たら罪ある存在である人間は死んでしまう、そう語られています。「いまだかつて神を見た者はいない。」(18)のです。神は本来見ることができないお方です。だから「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18)とあるように、主イエスが来てくださいました。説き明かすというのは、単に言葉で説明したのではありません。主イエスにおいて人間が神を知り、神のお姿を実際に見ることができたのでした。私たちにご自分を見させ、触らせ、愛し合わせ、神と共にいきることができるようにと、神が望んでくださったのでした。
けれどもそれは当時の弟子たちだけに起こったことではありません。私たちにも起こっています。それが教会です。神さまは私たちに会わずに満足なさることができないお方。ですから、主イエスの体である教会を与えてくださいました。私たちと会うことを神さまは望んでおられます。この礼拝は神が望まれた礼拝です。いま、ここで神が私たちに会ってくださっているのです。そして、神は私たちと共に生きることを望んでおられます。礼拝が終わると、神は私たちと共に、それぞれの場所に出て行ってくださるのです。なぜなら教会は建物ではなく、主イエスと結び合わされた者たちの群れだからです。

【恵みとまこと】
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17)とあります。主イエスが人となってくださったので「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(18)のです。その恵みとまことは、モーセによって与えられた律法の実現です。律法は神と共に歩く歩き方を教えるもの。けれどもイスラエルはそんな歩みに失敗し続けてきました。しかし、いま、主イエスが来られました。恵みとまことをたずさえて。その「恵み」は大きな恵み。神が人となって私たちに会い、私たちと共にいてくださることを望んで、実行してくださったのです。その「まこと」はさらに驚くべきまこと。人となった神が私たちの罪のために十字架に架かってくださったのでした。
私たちの罪。私たちは愛し合いたいと願いつつも、愛を循環させることができないで、苦しみます。率直に語り合い、悔い改め合い、赦し合い、慰め合う循環がどこかで遮られてしまって悲しむのです。たがいを信頼して心を開くことができない恐れが原因であることが多いようです。そうやって立ち尽くす私たちの間に、主イエスが立っています。そして私たちの恐れも歪みも痛みも、そのすべてを十字架で担い、十字架で処分してくださったことを思い出させてくださるのです。

【聖霊によって】
主イエスの恵みとまことは、あまりに私たちの深く、せんさいな部分に届くできごとであるために、表現することも、腑に落ちることも、なかなか時間がかかることもあります。けれども、私たちはみな、どこかでそんな恵みとまことに触れたひとりひとりです。それは理解して納得したからというよりは、聖霊によって知らされたのでした。聖霊は今も私たちに、恵みとまことをさらに満ちさせ、さらに豊かに注いでいます。
私たちは工事中です。まだ完成してはいませんから、しばしば罪、すなわち愛の循環が遮られることを経験します。けれどもこの工事は、世界の回復のための工事。破壊のための工事ではなく、やがて完成する工事です。工事中というとサクラダ・ファミリア教会をイメージする方も多いでしょう。すでに130年も工事中ですが、コロナでさらに遅れているようです。それでもこの傑作はやがて完成します。工事中の私たちも主語である神さまが、愛を動機として、心を開く私たちを通してますます愛する者へと日々変えてくださっています。そんな私たちを通して世界を変えてくださっているのです。

2022/04/17

イースター礼拝 2022/04/17 「証しされた神(イースター)」

  

礼拝メッセージ「証しされた神(イースター)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章6~13節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



イースターおめでとうございます。

これまで2回、ヨハネの福音書の冒頭の部分から聴きました。そこでは1「言(イエス・キリスト)」は人格的な「あなた」と呼びかける存在であること2イエス・キリストは天地創造に関わっていたまことの神であること3イエス・キリストは私たちを生かすいのちであり、暗闇にいる私たちを照らす光である、と語られていました。今日は続く部分から聴きます。

【天から地へ】
「言」「いのち」「光」など天的な語を用いていたヨハネは「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。」(6)と地上のひとりの人に視点を移します。抽象的ともいえる5節までの神さまが、実際に地上に力を及ぼすさまが6節以下に、描かれるのです。
ここでもヨハネの福音書は他の三つの福音書とは異なる記し方です。他の福音書ではバプテスマのヨハネは、罪を責めて、人びとに悔い改めを促し、悔い改めのしるしとしいて洗礼を授けました。ところがヨハネの福音書には、「この人(バプテスマのヨハネ)は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)とあります。この福音書におけるバプテスマのヨハネの視線は「言」「いのち」「光」である主イエスに注がれています。そして私たちの視線も持ち上げさせて主イエスを見させようとするのです。私たちは証しというと、自分の信仰の体験談という意味で使うことが多いと思います。それはいいのですが、問題はそこで主イエスに視線が向けられているかです。そこがたいせつなのです。

【証しするということ】
このように、証しとは、光である主イエスを指し示すことなのですが、それはただの客観的な知識を伝えることとは異なります。証しは決断を迫ります。11節には「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあり、12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。証しを聞いた者たちの反応はふたつに分かれます。光を見たときに、その光の中にとどまるか、それとも暗闇の中に戻るか、に分かれるのです。
すべての人を照らすそのまことの光」(9)とあります。それなのに受け入れない人がいるのは不思議でもあり、痛みでもあります。けれども最も痛んでおられるのは神さまであること、そして、神さまはどこまでもあきらめないで照らし続けてくださっていることを覚えておきたいと思います。

【神の子どもとなる特権】
子どもとなる特権をお与えになった」(12)とあるとおり、神の子となることは、神から与えられた特権です。そもそも特権というのが、権威をもっている人から与えられるものです。自分で自由になるものではないのです。ここに自由意志と神さまのあわれみの緊張関係があります。キリスト教会ではずっと二つの立場がありました。(1)私たちは自由意志で救いを選び取ったから救いに入れられた(2)私たちが選び取ることができたのは神の予定による、この二つです。けれども、この二つは補い合うことによって、私たちへのより大きな神さまの愛を浮かび上がらせているように思えます。私たちが選び取ったといえばそうなのだけれども、けれども私たちが選び取るために、神さまがずっと語りかけ、聖霊によって励まして、選び取らせてくださったこと。また、神さまが特権を与えたという意味では、神さまの予定と言えなくもないのだけれど、やはり神さまは私たちに選び取る余地を残しているのです。神さまの愛は大きくて、言葉では語りつくすことができません。神さまは私たちの意志に呼びかけながら、同時に応答する力も注いでくださっています。
神さまの大きな愛は、今は応答することができない人びとにも、注ぎ続けられています。すべての人をあきらめきれないあわれみのゆえに。御子を十字架に架けるあわれみのゆえに。そのあわれみに気づくようにと、神さまは忍耐強く優しく招き続けてくださっているのです。私たちの愛する人びとをも。ですから、未信の家族や知人のために焦ってはなりません。神さまが彼らをどれほどに愛しておられるのかを覚えていましょう。彼らのためにどれほど痛んでおられるのかも。
北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」で知られます。神が痛むなんて!エレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤(あわれ)むべし」(文語訳聖書)。はらわたが痛むほどの愛が私たちにも彼らにも注がれているのです。心に血と書いてあわれむ。神の心が血を流すほどに私たちをあわれんでくださっているのです。そのあわれみが凝(こご)って、子なる神であるイエスは、ほんとうに十字架の上で痛み、血を流されました。だから私たちは救われました。神の痛みによって、今、神の子とされているのです。
未信の家族や知人にも、神のはらわた痛む愛が注がれています。だから落ち着いて、彼らをよく見て、よく耳を傾けましょう。そこから必ず何かが始まります。

【証し人として】
主イエスは、バプテスマのヨハネは「ヨハネは燃えて輝くともしび」(5:35)だと言いました。私たちも主イエスの置かれた場所で光として輝いて、主イエスを指し示します。もうすでに、指し示しています。復活の主イエスを見上げ、復活の主イエスを証ししているのです。

2022/04/10

教会での礼拝を再開しています。

・感染症対策(マスクの着用/入退出時の手指の消毒/入口での検温/間隔をあけてのご着席)にご理解とご協力をお願いいたします。 

・不安に感じられる方はご無理なさらず、オンラインの配信をご覧下さい。詳しくは教会にお問い合わせください。 

主日礼拝 2022/04/10 「光である神(棕櫚の主日)」


 

礼拝メッセージ「光である神(棕櫚の主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章1~5節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




ヨハネの福音書お冒頭の部分はたいへんに内容豊かなところです。先週に続き、もう一度聴きます。

【初めにことばがあった】

1:1 初めにことばがあった。この「初めに」という単語には、「時間的に一番はやい」という意味以外にも「起源、根源、土台」と言った意味があります。この世界の起源、根源、土台は「ことば」なのです。私たちの人生の起源、根源、土台は「ことば」なのです。ことばなんかあてにならない、と思わないでください。あてにならないのは人間のことば。けれども神のことば、神の語りかけはちがいます。神のことばは世界を創造したことば。そして神のことばは主イエス。私たちのために人となって私たちの間に来てくださった主イエスが、神のことばなのです。だから神のことばは単なる口先のものではありません。だれも見たことがない愛のあらわれを、この世界に実際にもたらすことばなのです。

私たちの人生は、このことばに起源、根源、土台を置いています。主イエスが私たちの人生の土台なのです。ある牧師は「自分の存在の底がキリストである」と言いました。どんなに私たちが落ちていっても、底より下はありません。その底でキリストが私たちを支えています。「信じたら救われる」とはよく聞かされる言葉です。それはそうなのですが、では、私たちの信仰が心もとないときは、私たちは救われていないのでしょうか。とんでもありません。だめだと思う私たちのまだ下の底にキリストはおられます。そこでだめな私たちを支えてくださっているのです。そして、主イエスに土台を置くときに、私たちの人生は変わります。目に見えるところ、意識している部分よりももっと深いところで私たちは変えられました。変えられ続けています。


【三位一体の神が】

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。ここで「この方」と呼ばれている主イエスは、神とともにおられました。「神とともに」と言われると、主イエスは神ではない、ということになりそうです。実際、教会の歴史にそのように考える人びとは常にいたのですが、ヨハネの福音書は、続けてはっきりと「ことばは神であった。」(1)と記します。主イエスは父なる神とともにおられた神。子なる神。教会は聖霊なる神をこれに加え、三位一体という言葉を、聖書から汲みだして語るようになりました。神は三なのか一なのか。どちらかに決めて納得したいのが人間の思いですが、実際に存在するものは、私たちの納得のために存在しているわけではありません。私たちの理解よりも大きな存在があり、私たちの理解よりも大きな愛があります。子なる神を私たちのために遣わされた父なる神。私たちのために遣わされてくださった子なる神。そんな愛を私たちにわからせる聖霊なる神。私たちの理解を超えた愛ゆえに、ひとりの神が、その三位の総力をあげて私たちを愛してくだっている。そんな愛を知ることが三位一体の神を知ることです。


【このいのちは人の光であった】

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。とあります。主イエスにはいのちがあります。そして主イエスを土台とする人にはいのちが与えられているのです。ヨハネはこのいのちは光、人を照らす光だと言います。今も主イエスのいのち、主イエスの光はすべての人を照らしています。それなのに人は、光に背を向け、神に背を向けて闇を自らつくりだしてしまいます。けれども、ヨハネは続けます。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

そんな闇に主イエスが輝いています。神である主イエスが人となって、闇を照らすために来てくださったのです。この世界を、愛の言葉と愛のわざ、そして十字架と復活によって照らしてくださいました。神の愛のことばは主イエスにおいて、輝きの頂点に達したのでした。

闇は光に打ち勝ちませんでした。神さまに背を向ける私たちの闇に主イエスが打ち勝ってくださったのです。だから私たちは光の中を歩みます。ときには自分は信じているのだろうかと思うときもあります。闇の中にいるのでは、と。それでも光の中にいると信じて歩むのです。やがて光が感じられるときがきます。そんな私たちを通して周囲の人びともまた光に招かれていきます。光である神、主イエスがそうしてくださいます。主イエスはそのために、棕櫚の主日に、ろばにのった王として来られた神なのです。


2022/04/03

主日礼拝 2022/04/03「人となった神(受難節第五主日)」

礼拝メッセージ「人となった神(受難節第五主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章1~5節(新約 P.175)
  • 大頭眞一師


(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


今日からヨハネの福音書を最初から読んでまいりたいと思います。このような説教を連続講解説教と呼びます。これに対して説教者が示された箇所から主題を決めて語るのは主題説教。連続講解説教が成り立つためには条件があります。それは会衆のみなさんが、連続して聴き続けてくださること。マタイ・マルコ・ルカの三つの共観福音書とは趣のことなる、それだけに独特の重要性を持つこの福音書から、ごいっしょに主イエスという神がいかなる神であるのか聴いてまいりましょう。


【ヨハネの福音書の目的】
20 章 31 節には「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」とあります。イエスが神の子、つまり神であるキリスト(救い主)であることを、信じて受け入れ、イエスの与えるいのちに与ること。そのためにヨハネの福音書は書かれました。このことを忘れないで、読み進めることにしましょう。

【初めにことばがあった】
ヨハネの福音書は冒頭からして独特です。
1:1 初めにことばがあった。
「ことば」とは、自分以外のだれかに語りかけ、交わりを求める思いを表すものです。ヨハネ 1 章のこの部分は、創世記 1 章を想い起こさせるところ。

創世記 1 章 3 節はこうです。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

天地創造は「光、あれ。」という神のことばによって始まりました。神さまは無言で光を創造することもおできになったはずです。それにもかかわらず、ことばを用いられた。「聞け。わたしは光があることを望む。光が世界を照らすことを望んで光を創る。光の中で生きよ。光を浴びて、美しい世界を見て楽しめ。」という思いを表されたのです。この「光、あれ。」のことばは、天地創造のときからずっと、今も世界に響いています。光を見るたびに私たちは、神さまの思いを思い起こすことができます。光は、そしてこの世界は、もちろん私たちも、神さまが望んで創ってくださったものであること。神さまが、喜んで創ってくださったことを。

【ことばは神であった】
そして「ことばは神であった。」(1)とあります。イエス・キリストは神!地上を人間として歩まれた神!これがヨハネの福音書が描くイエスの本質、ご正体です。今日の説教題は「人となった神」。イエスは神なのです。神が私たちのために人となってこの世界に来てくださったのです。

【世界の初めからの神】
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(3)とヨハネは、イエスが天地創造に深く関わっておられたことを記します。こう聞くと、私たちはすぐに神は何人いるのか、などと考え始めます。ヨハネはだんだんにそのことも明らかにしていきますが、ここではまず、父なる神がこの世界を、そして私たちを創造するときに、イエスが深く関わってくださったこと。イエスは、世界と私たちを望んで、喜んで創る神の思いがほとばしる「ことば」そのもの「思い」そのものであることを、押さえておきたいと思います。イエスは私たちを望み、喜んでおられるのです。人となるはるか前、そもそもの世界の初めから。

ケセン語訳聖書というのをご存じでしょうか。岩手県のお医者さんが大震災の前後に出版されたものですが、3節はこのように訳されています。

神さまの思いが凝(こご)ってあらゆる物ァ生まれ、
それ無しに生まれだ物ァ一づもねァ。
神さまの思い、それは私たちを望み、喜ぶ思い。
父なる神と御子イエスの、その思いによって私たちはここにいるのです。

【いのちを与える神】
「この方にはいのちがあった。」(4)はヨハネの福音書の目的である「いのち」が与えられることを、明らかにしています。この「いのち」についてもだんだんと深く語られていきます。「このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(4-5)とあるように、主イエスの与えるいのちは私たちを闇から救い出すもの。このこともだんだん私たちに知らされていきます。

罪であれ、死であれ、断絶であれ、争いであれ、すべて闇に属するものを主イエスは打ち負かしました。今も打ち負かします。そのために十字架で死んだ主イエスは、復活して今も輝いているのです。世界はいま、戦争や自然災害でうめいています。暗闇が私たちをおおっているようにも思えます。けれども、闇はこれに打ち勝たなかった!

私の友人がこんなことを言っていました。「聖書のことばとは神の人格そのものだ。それはすなわち、私たちが神との人格的関係=ことばの関係を持つことが出来るために書かれたのだ」と。主イエスは神のことば。主イエスは神であり、同時る神のことばなのです。このお方によって、私たちは神との人格的関係を持ち、その関係に進んでいくことができます。これからヨハネの福音書を、おおよそ2年ほどかけて読んでまいります。読むうちに、イエスという神との交わりが深まり、主イエスが与えるいのちがますます私たちに増し加えられますように。