先日お知らせしたとおり、「たかはしだいち作品展」が 12/1(日) まで開催中です。
どれも温かみのある素晴らしい絵画が展示されています。
どなたもどうぞお越しになってご覧ください。期間中毎日、作者が在廊しています。
12月1日(日)まで、10:00~18:30(ただし日曜日は 13:00~18:30)
どなたでも入場無料・予約不要です(信徒かどうかを問いません)
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「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。
けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。もっともあわれみ深いのは主イエスであることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。
そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。
「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。
私たちはすでにあわれみ深い者とされています。そしてさらにあわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。
私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。
けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン
今日から三要文の二つめ、使徒信条。他の二つは、主の祈りと十戒です。使徒信条の原型は洗礼時の信仰の定式で、教会の中で長い時間をかけて形成され、8世紀に今の形になりました。主日礼拝の中で告白されるようになったのは11世紀。16世紀の宗教改革以後も用いられ続けてきました。キリスト教信仰の真髄と言えます。原文はラテン語です。
「信ず」の語源は「心を与える」という意味の言葉。信仰とは心を差し出すこと、つまり愛すること。ですから例えば、「天動説を信じる」という場合とは「信じる」の意味がまったく異なります。その場合は「天動説が正しいと考える」という理性の働きに過ぎないからです。それに対して、人が他の人に「私はあなたを信じる」と言う場合は「私はあなたを信頼します、寄り添います、いっしょに生きます」という意味です。使徒信条の「信ず」はそんな人格的な関係を表す「信ず」なのです。
けれども「天地の造り主である神」や「処女から生まれたキリスト」は簡単には信じることができません。いったい私たちはどうして信じることができたのでしょうか。信仰の父と呼ばれるアブラハムの場合を見ましょう。
「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:5-6)
アブラハムは信じました。けれどもその信仰はアブラハムが修行をしたり、努力したりして手に入れたものではありません。神さまが天幕の中に入ってこられ、手を引くようにして、アブラハムを外に連れ出し、空を仰がせました。そのときアブラハムに信仰が生まれました。神がアブラハムに信仰を与えました。アブラハムが地から天にはしごをかけたのではなく、神が天から地にはしごをかけました。だから信仰は確かなのです。私たちの信仰がいかに揺らいだとしても、神が私たちに信仰を与え続けてくださるからです。神さまは、迷子のような私たちを放っておくことがおできにならなかったのでした。
「アブラムは主を信じた。」は、「アブラハムは主をアーメンした、アブラハムは主をその通りだとした」とも訳せる言葉。アブラハムは神さまをそのまま受け入れました。自分を愛し、自分を通して世界を愛して回復させる神さまに、自分を差し出し、神さまを愛したのでした。
使徒信条は教会の信仰告白。礼拝の中で仲間と共に告白します。だから「我々は信ず」の方がよいようですが、「我は信ず」なのです。洗礼のときにひとりひとりが「我は信ず」と告白したことが思い出されます。あのとき私たちはほかのだれかが信じているから、ではなく、他のだれもがそうでなくても、神さまに自分を差し出しました。なぜそうできるのか自分でも不思議なように感じながら、神の愛を受け入れたのでした。
だから今日も、「我は信ず」と告白する私たちがここにいます。告白するたびに、ますます神の愛が私たちに注ぎ込まれます。注ぎ込まれた愛は、いまとなりにいる仲間たちにもあふれます。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」(Ⅰコリント12:13)とあるように、「われは信ず」と告白するひとり一人が一つのからだ、一つの教会に結ばれています。御霊によって、愛によって。そしてその愛は世界へとあふれ出します。
それが三位一体の神の望みだからです。父が子の十字架と復活によって聖霊を注いでくださいました。それは私たちが「我は信ず」と告白して、その告白通りに生きるため。ますます、なおなお、愛のいのちの中を。
私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えや今年あちこちで起こった大雨に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。
けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。
「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。先週は明野、今週は信愛の召天者記念礼拝。この2年半の間に、両教会を合わせて9名の愛する方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。
第一の祝福「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(4)には、共通点がありました。それは、私たちにはとてもさいわいには思えない現実の中に、主イエスがさいわいを造り出してくださる、ということでした。つまり、主イエスご自身が私たちのさいわいなのです。今日もまた主イエスが私たちのさいわいであることを聴き取りたいと思います。
「柔和」という言葉を聞くと、弱弱しく軟弱なことをイメージするかもしれませんが、それはまちがいです。「柔和」と日本語に訳されている聖書の言葉は「中庸」という意味。怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らない「中庸」という強さを持っているのが柔和なのです。
ところが私たちは、いつも怒りをコントロールすることができるかというと、そうではありません。ときに限度を超えて怒ってしまい、また、ときに怒るべき時でないときに怒ってしまうことがあります。そんなとき、私たちは、自分は柔和でない、だめだ、と落ち込んでしまうことがよくあります。
今日のマタイ5章5節は、主イエスが詩篇を引用された箇所。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37篇11節)そこに描かれているのは、神の民でありながら、神に従わない者たちによって苦しみを味わわされている人たちのことです。ですから詩篇、そして主イエスは、自分が正しくても、怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らないさいわいを語っているのです。自分が正しくても柔和!これはますます難しいことに思えます。
私たちはどうすれば、柔和であることができるでしょうか。反省してもまた怒ってしまう私たち。気をつけようと思っていても、怒るとそれを忘れてしまう私たち。けれども主語は神さま。自分から目を離してイエスを見るのです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)とあります。柔和なお方は主イエス。そして主イエスの柔和は十字架にいたるまで変わりませんでした。「『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と。柔和な主が私たちの重荷を下ろしてくださった。いやしてくださっている。十字架まで柔和な主が。
しばらく前ですが、私はひさしぶりに怒ってしまいました。限度を超えて。その後、牧師なのに、とても情けなくなりました。そんなとき「柔和な人たちはさいわい」と今日の箇所を思いました。主イエスは私を責めておられるのだろうか、とふと思ったのです。人はなぜ怒るのか。自分の正しさや思いが受け入れてもらえない、そんなとき私たちは「どうしてわかってくれないんだ」と悲しみ、怒ります。でも私は、主イエスがそんな悲しみもすべてご存じで受け入れてくださっていることを思い出しました。そして怒りの相手もまた主イエスに受け入れられていることも。振り返ってみれば、ずいぶん怒ることが少なくなってきたな、とも思うのです。主イエスによっていやされているのだと感じました。
柔和な人たちの幸いは「地を受けつぐ」こと。これは大きな土地を相続することではありません。この「地」は世界。世界には多くの破れがあり、怒りが満ちている。けれども、主イエスの胸で癒されつつある私たちは、世界の破れを回復するために働くことができます。たがいに受け入れ合い、いやされることを経験することを通じて。今日は明野の、来週は信愛の召天者記念礼拝。召天された仲間もまたそんないやしの中を生きたのでし