2022/11/25

第1アドベント礼拝メッセージ「捨てられる神」ヨハネの福音書6章60-71節 大頭眞一牧師 2022/11/27



今日から待降節(アドベンド)。クリスマスを待ち望む喜びの季節です。そんな日の説教題が「捨てられる神」とは!けれどもクリスマスにお生まれになったのは、まさに捨てられるために生まれた神。今日もその神のことばを聴きます。

【弟子たちのうちの多くの者が】

この個所はほかの三つの福音書にはありません。ヨハネだけが「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60b)という弟子たちの、しかも多くの弟子たちの言葉を記しています。パリサイ派や群衆ならまだしも、「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(66)とあるのです。

ひどい話とは「わたしは天から下って来たパンです」(41)というおことばでしょう。つまち主イエスがご自分を「天から下って来た神だ」と言ったことを受け入れることができなかったのです。なぜなら人びとがイエスに求めていたのは、当時のユダヤを支配していたローマからの解放をもたらし、食物を与える革命家でした。ところがイエスのなさろうとしたことは、はるかに根源的な革命でした。罪と死の力から解放し、永遠のいのちのパンとしてご自分を与えたイエス。そのイエスは、永遠のいのちを与えられた私たちと共に、愛によってこの世界の破れをつくろわれるのです。けれども、人びとは、多くの弟子たちさえも、このことを受け入れることができなかったのでした。もしみなさんのうちに、このことがもう一歩よくわからない、という方がおられましたら遠慮なく、お知らせいただきたいと思います。ごいっしょに聖書を開き、祈るときを持たせていただきたいと思います。

【いのちを与えるのは御霊】

「祈るときを」と申し上げたのは、「いのちを与えるのは御霊です。」(63a)だからです。神ご自身、聖霊なる神ご自身だけが、私たちに永遠のいのちをあたえることができます。私たちを愛して、いのちを与えない神。私たちをほうっておくことができないで、クリスマスに地上に来てくださった神ご自身が、聖霊によって私たちにいのちを与えてくださったのです。今、すでに私たちのうちに始まっていて、死を超えてその向こう側にまで続く、永遠のいのちを。

【わたしがあなたがた十二人を選んだ】

去っていった多くの弟子たちがいる一方で、シモン・ペテロは答えました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(68b-69)と。それに対して、主イエスは「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」(70b)とお答えになりました。ペテロが「あなたが神の聖者」と告白することができたのは、ペテロがすぐれていたからではありません。努力したからでもありません。主イエスがペテロたちを選んだからです。

ここで、ペテロが「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と語り、主イエスが「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」といずれも複数が用いられていることもたいせつです。神さまは私たちがたがいに支え合い、励まし合って、永遠のいのちにとどまるようにと、仲間を与えてくださっているのです。

【あなたがたのうちの一人は悪魔】

それにつけても不思議なのは、主イエスによって選ばれたはずの弟子たちのうちから多くの者が離れ去ってしまったことです。こういうところを読むと、私たちは「自分はだいじょうぶだろうか。主イエスを離れたりしないだろうか」と不安になるときがあるかもしれません。けれども、聖書は神のことば。私たちのために捨てられることをいとわぬ神のことばです。ヨハネは、そしてヨハネを通して神さまが、私たちに「あなたがたは選ばれている。だからわたしはあなたがたを決して手放さない」と語っていてくださるのです。その神のあわれみによって、離れ去った弟子たちからも、主イエスに立ち帰る者たちが起こされたことでしょう。当のペテロたちもそうであったように。

ユダに対する「あなたがたのうちの一人は悪魔」(70c)も痛みを覚えさせます。しかしこのことばも、死と悪魔に勝たれた主イエスからの招きのことばだと、私は信じます。



新聖歌171「今日まで守られ」ワーシップソング(賛美) Bless




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2022/11/18

主日礼拝メッセージ 2022/11/20 「自分をあたえる神」ヨハネの福音書6章52-59節 大頭眞一牧師


今日の説教題は、「自分を与える神」。このところ「いのちのパンである神」といった同じような題が続いています。聖書そのものが、私たちのために自分を与えた神を繰り返し語っているから。そんな自分を与える神こそ、ヨハネが私たちにどうしても伝えたいこと、ヨハネを通して神さまが伝えたいこと。かつて、「心とたましいに刻むことば」という説教をしたことがあります。年明けに出る説教集に載る予定です。心とたましいが別べつにあるというわけではありません。神さまには、私たちの存在に刻みたいと願っておられることばがあります。今朝もそんなことばを聴き、心とたましいに刻みたいと思います。

【はるかに力強く】

主イエスは語ります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(6:53b-55)

もちろん私たちは実際に二千年前の主イエスの血と肉を飲食するわけではありません。それにもかかわらず、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言うのです。食べ物は、私たちに噛み砕かれて、私たちの体の一部となります。イエスのいのちを受け取るということは、ただ、頭の中でイエスを理解するということではありません。また、ただ感情的に動かされるということでもありません。主イエスの与えるいのちは、私たちの一部となります。私たちの存在の一部となるのです。

明野キリスト教会では、木曜日の午後、「一年12回で聖書を読む会」をオンラインで行っています。私の著書『聖書は物語る一年12回で聖書を読む本』を用いて、聖書を読むのですが、今は二年目なので、『聖書はさらに物語る一年12回で聖書を読む本』を読んでいます。先週はヨハネ3章から、ニコデモのところを読みました。「新しく生まれるということはどういうことですか?」とうめくニコデモに、主イエスは不思議な答をしました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネの福音書3:8)と。

私たちがほほで風を感じるとき、私たちに知ることができるのは、風が吹いていることだけです。風がどこで発生し、どこに向かうのかは、わかりません。けれども、確かに風は私たちに届いたのです。イエス・キリストが「新しく生まれさせる神」だということは、私たちにはなぜそうなのかは、よくわかりません。理屈はわからないけれども、でも、主イエスが私たちに届くとき、いのちが始まる。始まったいのちが成長する。そうお話ししました。そして、「このことがおわかりでしょうか?」とお訊ねしました。これは、そもそも無理な質問だと思います。ことばで言い表すことのできないことを語っておいて、「わかったかどうか、ことばで答えてください」というのですから。けれども、受講しておられた方はたいへん賢明な答をしてくださいました。「ことばを超えた大きな神の愛を思っています」と、そういう意味のことを言われたのです。いちぱん大切なことを受け取ってくださったなあ、と私はうれしく思いました。今日の箇所でいうならば、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」という、主イエスの激しい愛が差し出されていることに気づいておられるのだな、と思ったのです。

私たちはきちんと言葉で説明できないもの、数学の数式のようにきちんと書きあらわせないものを、あやふやなもののように思ってしまう傾向があるようです。だから神さまがいるなら証明してほしい、とそんなことを考えます。けれども、神さまは数式よりもはるかにすばらしいお方。はるかに力強いお方です。私たちを新しく生まれさせ、私たちの新しいいのちを成長させ、ご自分が愛するように、私たちをも愛する者としてくださいます。主イエスの肉と血を食する者、主イエスをまるまま、理解できるところも理解できないところも、まるまま食し、受け取る者は、そんなはるかな力強さの中を歩んでいくのです。

【愛は論理を超えて】

なぜなら、愛は説明できないから。愛が論理的でない、というのではありません。愛は、私たちの論理より大きく、私たちの論理を超えているのです。私たちを赦し、癒し、立ち上がらせる。そんな愛が私たちに注がれています。それが自分を与える神の愛。今、ここで、私たちに注がれている愛です。

旧約聖書は「動物の血を飲んではならない」と教えています。血はいのちであって、いのちは神にお返ししなければならないという教えです。主イエスはこの教えをじゅうぶんにご存じのうえで、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」と命じました。旧約聖書をくつがえして、神ご自身のいのちを与えてくださったのです。それは、実は旧約聖書の目指すゴールを達成するためでした。神と人がともに生きること。そのゴールは、このように私たちに成就しています。


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2022/11/12

主日礼拝メッセージ 2022/11/13 「永遠のいのちの神」ヨハネの福音書6章41-51節 大頭眞一牧師


永遠のいのちをめぐって主イエスとユダヤ人たちとの問答が続いています。ヨハネがこれらのことを記しているのは、読む私たちが永遠のいのちを生きるため。私たちは今日も主イエスのお言葉を聴きます。永遠のいのちを生き生きといきるために。

【ナザレのただ人】

イエスは「わたしは天から下って来たパンです」(41)と言いました。自分は神から遣わされた子なる神であるという宣言です。けれども人びとは文句を言い始めます。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(42)と。それはイエスがただの人であったから。人びとと、そして私たちと何もかわるところがないただの人だったからです。主イエスは私たちと同じように飢えや病に苦しみ、涙を流し、ほかの人の助けを必要としました。そんな主イエスを神だと、人びとが信じることができなかったはむしろ当然です。私たちのまわりのまだ信仰を持っていない人は、「イエス・キリストは立派な人だ。イエスにならって生きなさい」という教えだったら受け入れやすいのに、と言います。けれども聖書は妥協しません。イエスは十字架に架かった神。いかに信じることが難しくても、その信仰告白を要求するのです。

【引き寄せる神】

人はどうしたら「イエスが十字架に架けられた神」だと告白することができるでしょうか。人間にはできません。私たちは信じようと努力しても信じることはできないのです。けれども、聖書は記します。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(44a)と。ですから「父が引き寄せて」くださるなら私たちは信じることができるのです。先週は、ひとりの兄弟が病床洗礼を受けました。はっきりと「イエスが十字架に架けられた神」であることを告白したのです。それは「父が引き寄せて」くださったから。私たちも「父が引き寄せて」くださったひとりひとりであることを思い起こしましょう。

【だれでもこのパンを食べるなら】

今日は信愛の方がたと聖餐に与ります。先週は明野キリスト教会の方がたと。しかし、明野の方がたは、今日は聖餐に与かっていない、ただ見ているだけ、というのではありません。たしかに明野方がたの前には、目に見えるパンやぶどう汁はありません。けれども、明野の方がたもいわば「霊的な」聖餐に与るのです。それは、明野で聖餐をするときの信愛の方がたにとっても同じです。

聖餐に与るとは、どういうことなのか。先週も申し上げました。パンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまいます。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしが支払ったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

先週は求道中のもうひとりの方とお話しすることがありました。その方は自分には罪があると言います。自分には、愛に欠ける言葉と、思いと、行いがあると。けれども「そんな私の罪を、きよいイエスに負わせることは申し訳なくてできません」そう言うのです。私はその方の誠実さに感銘を受けました。けれどもやはり思うのです。主イエスに負わせることなどできない私たちの罪。だからこそイエスが負ってくださった。私たちには、そして、ほかのだれにも決して負うことができない罪だからこそ。そのために主イエスは天からのパンとして来てくださり、ご自分を差し出してくださっています、今。私たちが、永遠のいのちにあずかり、そのいのちを生きるために。

ごいっしょに聖餐にあずかります。


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2022/11/05

主日礼拝メッセージ 2022/11/06 「みもとに招く神」ヨハネの福音書6章32-40節 大頭眞一牧師


先週に続いて、主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日のできごとです。人びとは主イエスからパンをもらいたいと願って、主イエスを追ってきました。イエスが与えるパンが、目に見えるパンではなくて、イエスご自身であることが、なかなか分からない人びと。けれども、イエスは忍耐強く語り続けます。愛ゆえに、あわれみゆえに、人びとを、私たちをそのままにしておくことができなくて。

【いのちのパンを食べるために】

主イエスといういのちのパンを食べるとは、どういうことであるのか。35節にそれが記されています。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」つまり、イエスを信じること。イエスが神から遣わされ、十字架で死んで復活した神であることを信じることなのです。

【選びか自由意志か】

人はどのようにして信じるのか。片方には、「人間には信じることができない。信じることができるとするなら、それは神に選ばれているからだ」と考える人びとがいます。これが予定論。今日の聖書で言えば、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。」(37a)はそのように解釈することもできます。

もう一方にあるのは、自由意志論。「神さまが、恵みによって、私たちがいのちを選ぶことができるようにしてくださっている」と考える人びとです。今日の聖書なら「しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。」(36)がこれに当たるでしょう。

予定論か自由意志論か。これは古代から教会を二分してきた議論でした。けれども聖書を神の愛の物語として読むならそこに見えてくるものがあります。罪を犯したくないと思いながらも、犯してしまう私たち。そんな私たちを「信じなさい」と招き続け、信仰を贈り、信じた私たちを「あなたは選ばれている」と抱きしめてくださる神さまの姿です。「そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(37b)とあるとおりです。ある牧師はこう言いました。「救いの門の外側には『信じなさい』と書いてある。ところが門をくぐって振り返ると『あなたは選ばれている』と書いてあるのです」と。今、こうして礼拝に集う私たちは選ばれているのです。主イエスは決して、私たちを手放すことはなさいません。

【食べられるパン】

けれども忘れてはならないことがあります。それはパンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまうということです。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。今日は聖餐。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしがしはらったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

【天国ではなく復活】

「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(39-40)とあります。「終わりの日のよみがえり」が永遠のいのちだと強調されています。私たちは死んで、この地上とは関係のない天国に、たましいだけでいくのではありません。そうではなくて、この地上、終わりの日に回復された地上に復活するのです。肉体をもって。

いつもいつも申し上げることです。人は生きたように死に、死んだように復活します。神さまに招かれ、信仰を贈られ、「あなたは選ばれている」と抱きしめられている私たちは、安心して神さまとともに冒険しています。世界の回復のために。そんな私たちは神さまの胸の中に倒れこんで死に、神さまの胸の中でよみがえります。そして、今しているように、神さまと仲間を愛する愛に生き続けます。さあ、仲間とともに主の食卓につきましょう。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)