信愛・明野・天授ヶ岡合同礼拝の今日も主イエスのみ声を聴きます。新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に語られた箇所です。
【教会に語られるイエス】
ヨハネ15章を読み始めると気になることがあります。14章の終わりに「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(14:31bc)とありますから、ここで最後の晩餐は終わったように見えます。ところが15章以下もイエスが晩餐で語った言葉が続いていくのです。しかも14章で語られていたことの内容は、15章と16章でも繰り返されています。このことからある人びとは、15章以下はもともとのヨハネ福音書には入っておらず、後で付け加えられたと考えたりもします。
しかし私は、そうは思いません。ヨハネは最後の晩餐でイエスが語られた言葉を忠実に記録しました。そのときそこにいた弟子たちに語られた言葉を14章までに。そしてイエスの十字架と復活・昇天の後に建てられた教会がとりわけ心に刻むべき言葉を15章以下に重ねて記した、と思うのです。ヨハネがこの福音書を記したのは紀元90年ごろ、教会が誕生して60年ほど過ぎたころです。当時迫害の中にあった教会に向けて、ヨハネが励ましに満ちたイエスの言葉を贈ったのは当然のことだと思われるのです。
【つながっている私たち】
今日の箇所は有名なぶどうの木のたとえ。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(5a)が、その中心にあるイエスの励ましです。ご注意ください。イエスは「つながりなさい」と命じているのではありません。私たちは、もうイエスにつながっているのです。いえ、そもそも、イエスという木から生えた枝なのです。神を知らず、知らないままに神に背を向けていた私たち。そんな私たちにイエスは新しいいのちを与えてくださった。十字架と復活によって。そのいのちによって、私たちはイエスという木に生えた枝です。ですからヨハネは全力で教会に語るのです。「あなたがたは枝なのだ。イエスという木の枝なのだ。だからだいじょうぶだ。イエスがあなたがたという枝を切り離すことなどない。決してない」と。
それでも6節の言葉を恐れる人びとはおられます。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(6)。けれども、そもそも枝は自分から木につながっているわけではありません。木にいのちがあって、そこからいのちを注がれて枝がつながっています。ただ、つながっています。枝のするべきことは、ただ一つ。木から流れ込んでくるいのちに心を閉ざさないこと。木のなすままにされて、いのちを注がれることです。「わたし(イエス)にとどまる」とは、私たちが、今、していることです。仲間と共にイエスの言葉に、イエスの心に、心を開くこと。そうするならば、枝は実を結ぶのです。もう、結んでいるのです。豊かないのちの実を。豊かな愛の実を。
【わたしにとどまりなさい】
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(4ab)と主イエスは励まします。そして約束します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5)と。イエスから流れ込むいのちに心を閉ざさない。主イエスのいのちを受け取り続ける。今私たちがしている通り。
8月の教団青年宣教大会はたいへん恵まれたときとなりました。特に第一回の集会は強い印象を残しましたから、信愛でも明野でも祈祷会などで聴きました。あそこで講師は「あなたの最も根本的なアイデンティーはなにか?」「あなたはだれですか?」と問いを発し、「愛されている神の子ども」が答えだと力強く語ってくれました。イエスにとどまるということは、自分が愛されている神の子どもであることを心とたましいに刻んでいることです。神が十字架に架かるほど愛されている神の子どもであることを。私たちは「とどまっていなさい」と言われると、「では帰ってから聖書を読まなくては」「明日からお祈りしなくては」と思うかもしれない。でも、もっとたいせつなことがある。それは、今、この場で、「愛されている神の子ども」であることを思い出すこと。思い出させ合うことなのです。