2014/08/31

主日礼拝「人をえこひいきしない」

礼拝メッセージ 「人をえこひいきしない」 ヤコブの手紙2章1~4節

長谷川和雄師

8/10-11 CSサマーキャンプ
子どもの嫌いな先生の一つが「えこひいきする先生」です。えこひいきとは、偏見を持ち、分け隔て、差別することです。人に対し真に平等で公平にできないのなら、その行為は愛からではありません。医者の心がけで、「病を見て人を見ず」は幸いです。

Ⅰ. キリストの栄光…
「栄光の主イエス・キリストへの信仰」を与えられている者が、もし、教会で分け隔てをしているとすれば(一例が2-3節)、その信仰は問題です(3:17)。
1) 主をみて人を見ない。あらゆる点で、この世の栄誉とか輝きに比べられないものを持たれた方を、主と信じ、仰ぐ者にとって、地上の富や家柄、権力や学歴などは問題になりません。しかし、あってはいけないことですが、それらを問題にし、えこひいきしている人は、主の栄光を正しく見ていないからです。
2) 再臨の主。この世をさばき完成するために再臨される主は栄光に輝いています。聖書は、栄光に輝く主の前で分け隔てをすることは、申し開きができるはずがないことを教えています(マタイ16:27、テトス2:13)。

Ⅱ. 分け隔てを神は喜ばれません…
もし、教会の体質に人を偏り見るようなことがあるなら、その教会は腐敗し始めています。礼拝出席者の健康状態や身体状況、年齢や性別などを配慮して、相応しい席に案内することはありえます。しかし、教会の受け入れ方が見かけや社会的地位などで差別し、不公平であるなら、神は喜ばれません。聖書を貫いている神のご性格であり特質の一つは、神は社会的弱者を顧み、配慮や援助を促しています(1:27、イザヤ25:4)。主はイザヤ書を引用して、ご自分は貧しい人々に福音を延べ伝えるために、神から遣わされていることを自覚していました(ルカ4:18-19、イザヤ6:1)。貧しさは、その人自身の責任というよりも、社会的な構造によって生み出され、押し付けられている場合が多いので、特別に顧みられました。神は身分や地位などで分け隔てをしたり、どのような者をも偏りみないで、福音の宣教をされました(ヨブ34:19、申命記10:17-18、ガラテヤ2:6)。人を偏り見ることをなさらない方でしたから、私たちも神の恵みによって救いに入れていただいたのです。人をえこひいきすることは、神によって罪人が赦され神の子とされるということを否定することに結び付くことになり、えこひいきをしてはいけません(2:9)。

Ⅲ. 神の教会…
教会は人を分け隔てしてはいけません。それは、教会がキリストを頭とする一つの有機的な結び付きをもったからだだからです。一つのからだですから、そのからだには色々な働きを持った肢体が存在します。その違いによって存在価値の違いは生じません(Iコリント12:12-27)。教会には、社会的な影響力、存在の重さなどが異なる人など、様々な立場の人々が集められています。もし、教会において貧しさや弱さのゆえに、この世の苦しみを受けていて、教会で慰めや希望を見いだそうと願っているのに、教会でこの世以上に屈辱と痛みを受けることがあったなら、キリストのからだなる教会とは言えないのに、現代の教会には人を分け隔てする体質が残っています。峯田良雄氏(ノーマン・ヨシオ・ミネタ氏。米国政治家、元商務・運輸長官)が、同時多発テロ対策に人種差別を拒否し多くの非難を受けましたが、最後まで勇気を持って毅然として平等の検査強化で対応しました。主にあって、日々十字架を仰ぎ、神の前に真実な教会として歩み、キリストを頭とする教会であらせていただきましょう。



教会の各活動



午後は、青年会(例会)が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(9月2日)10:30~


聖書:マラキ書1章13節
題:心からの礼拝
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:2,154



○聖書研究祈祷会 水曜日(9月3日)19:30~


聖書:マルコによる福音書11章12-26節
題:クリスチャン生活
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2、203、211



○主日礼拝 来週日曜日(9月7日)10:30~


招詞:イザヤ書45章22節
交読文:14  詩篇37篇
聖書:ヤコブ書2章5-7節
題:貧富と信仰
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:494、340、300

2014/08/24

主日礼拝「純正な信仰」

礼拝メッセージ 「純正な信仰」 ヤコブの手紙1章26~27節

長谷川和雄師

婦人会の特別賛美
純正な信仰からずれている信仰とは、口先ばかりで、信仰深いクリスチャンのような身振りをしますが、心の悪を外に表してしまう、空しい信仰のことです。純正で健全な信仰生活は、十字架の恵みと主の愛の中に生かされ、身の純潔を守ります。

Ⅰ. 熱心な信心・宗教心…
1) 「信心深い」(26)は、新改訳では、「宗教に熱心」となっています。「信心」は、神仏への信仰心の意味で用いられ、「信心が篤い」とは、信仰の対象は問わず信仰に熱心であり、あらゆることを信仰的に考えることを意味します。また、「いわしの頭も信心から」などと、皮肉が込められています。
2) 純正な信仰は、心において大切にしている信頼、確信、希望などを形に表します。純正でない信仰は、礼拝を厳守することなど、外側に見える信仰の行為や宗教儀式などを守り、自分は信心深いと思います。また、完全とは思わなくても、人と比べて自分の信仰は優れており、人の目にもそのように映っていると思います。その様な人は、兄弟たちとの関係において舌を制することができないで、兄弟たちの心を傷つけても平気です(ヤコブ3:9-10)。御霊の人は十字架を仰ぎ、神の愛に感謝し、自分で定めた基準の正しさに立ちません。しかし、神の助けを求めているようであっても神を利用しても平気でいる肉の人は、「自分の心を欺いて」いるのです。そのような信心は空しく(26)無意味です(26・共同訳)。

Ⅱ. 愛の実行…
神の眼差しの中で神が喜ばれる、きよく汚れのない信心とはどのようなものでしょうか。純正な信仰によって礼拝し、神のみこころにかなった信仰の行為は、この世に於ける社会的弱者である孤児ややもめへの配慮や援助、彼らと共に生きる愛のわざとなります(27、詩篇68:6)。現代に於ける社会的弱者の世話をすることは、震災や災害などで苦労している人々、生活が困難な状況で助けを必要としている人々を心にかけ、訪ね、見舞い、励まし、援助することです(マタイ25:31-41)。このような社会的弱者を助ける奉仕を回復することが、現代の教会の課題です。

Ⅲ. 身の純潔を守る…
神に愛され、罪を赦され、主にあって新生し、神の価値観に生かされているクリスチャンとして、神の前に純正な信仰を貫き、世の汚れに染まらないで、身をきよく保つには(27)、社会生活の中で、この世の基準に流され支配されず、また、悪の力に負けることのない歩みができるのです。しかし、この世の基準は、自己本位であり、利益追求主義であり、快楽主義から生じています。その様なものから生じる成果主義は、競争心をあおり、他者を犠牲にしてでも自分を豊かにしようとしてしまいます。主にあって、クリスチャン同士が、この世の流れに流されないで、互いに助け合い、互いに仕え合う喜びを主にあって回復する歩みをしましょう。私たちは、この世の汚れた社会から逃避するのではなく、世の光、地の塩として、十字架の恵みに生かされた、純正で健全な信仰を主によって保ち、主に生かされて福音宣教に励み、光の子らしく歩みましょう(エペソ5:8)。



教会の各活動



午後は、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(8月26日)10:30~


※8月は休会します



○聖書研究祈祷会 水曜日(8月27日)19:30~


聖書:マルコによる福音書11章1-11節
題:柔和な王の入場
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:242、143、465



○主日礼拝 来週日曜日(8月31日)10:30~


招詞:ローマ書12章1-2節
交読文:56  ローマ書12章
聖書:ヤコブ書2章1-4節
題:人をえこひいきしない
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:8、324、聖歌201

2014/08/17

Bless特別賛美「赤いバラ」「鹿のように」など



京都信愛教会の賛美デュオ Blessの二人による特別賛美。

  1. 「赤いバラ」 詞・曲: 山内修一 (友よ歌おう50番)
  2. 「鹿のように」 詞・曲: Martin J. Nystrom
  3. 「神の国と神の義を」 詞・曲: Karen Lafferty
  4. 「ハレルヤハレル」 詞・曲: Bless

京都信愛教会では、毎週第2日曜日の礼拝で Blessが会衆賛美のリードをしています。

また、毎月第4日曜日の礼拝では青年会、婦人会、教会学校、有志月替わりで特別賛美をしています。

どなたでも、どうぞ礼拝にお越しください。

主日歓迎礼拝「ここに愛がある」

礼拝メッセージ 「ここに愛がある」 ヨハネの第一の手紙4章7~11節

長谷川ひさい師

私たちは見えることに関心を払いやすのですが、見えない心を大切に守りましょう(箴言4:23)。人は愛を求め、愛を必要としています。ドイツの詩人は「愛されないということは、この世の地獄だ。しかし、愛することが出来ないということは、永遠の地獄だ」と言いました。しかし、人は愛を求めますが、愛に裏切られ、愛は憎しみに変わり互いに憎んできました。可愛さ余って憎さ百倍となるのです。愛することが出来ないことは本当に辛いことです。

しかし、罪人を永遠に変わらず愛して下さるばかりか、いのち懸けて愛し、私たちを裏切らず、私たちを生かし、新創造して強くし、永遠の世界に連れて行って下さることの出来る、真実の愛がキリストの中にあるのです(10)。

Ⅰ. 神の愛は、キリストに現された絶対無条件の愛です…
神の愛は、人間の裏切る愛や、条件付の愛ではなく、無条件の愛をもって私たちを愛して下さるのです。私たちが神を愛したのでなく、神が罪深い人間を愛し、神ご自身が罪のために贖い供え物として御子をこの世に遣わし、身代わりとなって死んで下さったことによって、神の愛を示しました(ローマ5:8、Iヨハネ4:10)。私もパウロやヨハネのように、キリストを通して示された神の愛を受け取ることが出来ました。神に捨てられ、愛されていない人はひとりもいないのです。この世の最大の不幸の原因は、神の愛を知らないからではないでしょうか。

Ⅱ. 神の愛は、十字架で示された犠牲を払う愛です…
主は、罪深い私たちひとりひとりを愛するあまり、私ちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けて死んで下さいました。そればかりではなく、善い事をしたい、愛し合いたい、悪いことは止めたいと思っても、それらを行うことの出来ない罪の奴隷だった私たちを神は愛し、罪の奴隷から「ご自分のいのち」という代価、身代金を払って罪の奴隷から自由の身となるために買い戻して下さったのです。罪が赦されて、神の前に罪を帳消しにしていただいて、この世で胸を張って生きて行けることは何とすばらしいことでしょうか「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Iヨハネ1:7)。そんな主は、私にしっかりつながっていなさい。私もつながっていますと言われました。み言葉によって主にしっかりとつながっていましょう(ヨハネ15:5,7)。

Ⅲ. イエス・キリストの十字架の愛は、新しいいのちを与えるために、本当によみがえった、本物の救い主の愛です…
主は十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と罪人の私たちを、父なる神に執り成して下さって、私たちの身代わりとなられました。また、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と神に見捨てられたことを叫び、私たちの代わりに罪の刑罰と呪いと辱めを引き受けて下さいました。そして、3日目によみがえり、私たちと共にとこしえまでも共にいて下さいます。なんと感謝な事でしょうか。私自身が自分の罪を認めて、主の十字架は私の身代わりであったことを信じ受け入れた時に、新しいいのちが与えられ、生きる使命と力が与えられ、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」(エレミヤ31:3)と変わることのない真実の愛をもって愛し、真実を尽くして共に歩んで下さいました。神の愛を、心に素直に受け入れましょう。



教会の各活動



午後は、壮年会(親睦会)と婦人会(例会)が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(8月19日)10:30~


※8月は休会します



○聖書研究祈祷会 水曜日(8月20日)19:30~


聖書:マルコによる福音書10章46-52節
題:何をしてほしいのか
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:264、38、282



○主日礼拝 来週日曜日(8月24日)10:30~


招詞:ヨハネによる福音書4章23-24節
交読文:9  詩篇27篇
聖書:ヤコブ書1章26-27節
題:純正な信仰
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:264、428,429

2014/08/10

Bless会衆賛美「罪深きこの身を」



京都信愛教会の賛美デュオ Blessの二人による会衆賛美リード。

  1. 「罪深きこの身を」 詞: Russell K. Carter, 曲: Stephen C. Foster (新聖歌359番)

京都信愛教会では、毎週第2日曜日の礼拝で Blessが会衆賛美のリードをしています。

また、毎月第4日曜日の礼拝では青年会、婦人会、教会学校、有志月替わりで特別賛美をしています。

どなたでも、どうぞ礼拝にお越しください。

主日礼拝「み言葉を行う人に」

礼拝メッセージ 「み言葉を行う人に」 ヤコブの手紙1章22~25節

長谷川和雄師

み言葉に耳を傾けることは神の命令であり(申命記20:3)、信仰はみ言葉を聞くことから始まり(ロー
CSサマーキャンプ
マ10:17)、誠実にみ言葉に接するときに心に喜びが生まれます(詩篇19:8-9)。み言葉を聞くだけでなく、神が何をなして下さったかを深く知って、み言葉の導きに従って、行うべきことを行いましょう。

Ⅰ. み言葉に聴く…
1) 聞くと聴く。
①「聞く」とは、一般に自然に聞こえて来るものを聞きとり、何かを感じ、心を動かされることもありますが、聞き流しても構わない聞き方です。
②「聴く」とは、注意深く耳を傾け、理解しようとし聞く聞き方です。聞く人の意思が伴い、人格を傾け、聞いたことに従う行動が起こり、新しい生き方をする決断が迫られる聞き方です。
2) み言葉を行う。主もみ言葉を聴いて行うことの大切さを教え (マタイ7:21-26)、パウロも記します(ローマ2:13)。み言葉を正しく聴くとき、新しい行動に導かれて実行する者が神の前で正しい者とされます。

Ⅱ. み言葉を聞くだけで行わない者…
1) み言葉を忘れる者。み言葉によって自分の姿を示されても、一時的な感激や感動に終わらせ、み言葉から離れたら忘れることは、神を無視することです。
2) 自分を欺く者。み言葉を通して、自分の生きるべき新しい方向が示されながら、それに従わないことは真実な歩みではなく、自分を欺くことです。
3) 自由の律法。み言葉は神の言葉です(ヨハネ1:1)。神の愛による救いと赦しが示され、新しい命の希望と約束があります。ですから、熱心にみ言葉の語りかけに集中しましょう。その時、自由な生き方に導かれます。主にあっては、み言葉を聴くことと、み言葉を語ることと、み言葉を行うことは一つのことです。主にあって律法に縛られない真の自由に生きる、完全な人間の姿を見ることができます。4)み言葉に生きる。み言葉を深く心にとめ、み言葉に生きる人は、罪やこの世の歪んだ価値観から解放され、自由な生き方が生まれ、主の心を心とした歩みがなされることによって(ピリピ2:21-26)祝福されます。

Ⅲ. 注意点…
「み言葉を聞いて行う」を学んだ時に起こりやすい誤った反応。
1) 「自分にはできない」と考えない。皆が同じ言動することを求めてはいけません。全体主義が大切なのではなく、各自が神と真剣に向かい合い、み言葉を聴く中で示されて選び、決断し、その人自身にふさわしいみ言葉への応答をすることです。
2) 社会的実践、社会的活動。信仰者や教会のあり方として、ひとりよがりな活動を絶対的にしないことです。み言葉に相応しい福音的な行動は、祈りを込めて聖霊に導かれ、各自に与えられている賜物に応じて生まれて来るものです。
3) 他の人の歩みを裁かない。行為は他人の目に見えますが、自分の目に他人の全ての行いが見えているわけではなく、目に見えない所でみ言葉を実践しているかも知れません。4)各自が自分自身に神が語りかけたこととして、み言葉に熱心に聴くことによって、自分は今「神に何を求められているか」を明確にしましょう。また、自分の中で聴くことと、行うことはどのように結び付いているか問い続けましょう。聖書は、「御言を行う人になりなさい」(22)と主に在って勧めています。私たちはみ言葉の光の下で、自分自身のあり方を吟味し、検討することを求められています。み言葉による真摯な吟味と自己検証、そして、祈って従う行為によって、神が、私たちの向かっていくべき方向を明確にして下さいます。



教会の各活動



CSサマーキャンプ
午後は、CSサマーキャンプ(関西セミナーハウス)が行われました。


今週~来週の予定

 

○婦人祈祷会 火曜日(8月12日)10:30~


※8月は休会します



○聖書研究祈祷会 水曜日(8月13日)19:30~


※休会します



○主日礼拝 来週日曜日(8月17日)10:30~


招詞:ヘブル書10章19-22節
交読文:59  Ⅰヨハネ書4章
聖書:Ⅰヨハネ書4章7-11節 中心10
題:ここに愛がある
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:2、230、216

2014/08/03

主日礼拝「聞くに早く、語るに遅く」

礼拝メッセージ 「聞くに早く、語るに遅く」 ヤコブの手紙1章19~21節

長谷川和雄師

親しく呼びかけた後で、「よくわきまえていなさい」(新共同訳)と忠告します。私たちがしっかり受け止め、心に留めておくべきことは、「聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそく」です。格言や諺に、「話し上手は、聞き上手」「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」「短気は損気」などがあります。箴言に、「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある」(10:19)、「怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり」(14:29)など多くあり、聞く重要さ、語ることへの思慮深さ、怒りを制する大切さが教えられています。傾聴ボランティアやいのちの電話等の相談活動でも、相手の思考を妨げずよく聴き、最も良い道を見出すために、心を込めて傾聴することが強調されます。しかし、ここでは新生した者が、「み言葉」を聴く姿勢について教えています。

Ⅰ. 聞くに早く…
「早い」は速度に関する概念ですが、ここではみ言葉に対する心の姿勢を問題にしています。自分の主張や期待にそったみ言葉だけを受け入れるのでなく、内なる声を空にして、今語られるみ言葉に対して素直に、従順に、謙りをもって聞くことが「聞くに早く」との意味です。「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)のです。み言葉への謙虚で鋭い感性と従順さが、ここで求められています。

Ⅱ. 語るに遅く…
み言葉を聞いた後、語ることは遅くあれと命じます。「おそくあれ」とは、聞いたみ言葉を思慮深く受け止め、正しく理解し、語る相手に相応しく語るようにとの勧めです。それは、み言葉がその人に語りかけることに仕えることです。そのために、聖霊の助けによって話す相手の状況や、信仰の状態を正しくわきまえることが必要です。また、語るべきときを待つ忍耐が必要です。それは、み言葉を語ってはいけないということではありません。み言葉によって自分の主張を押し付け、説得しようとすることを止め、相手の人自身で、神のみこころを聖霊によってみ言葉の語りかけを待つことです。

Ⅲ. 怒るにおそく…
1) 聖書は「怒ってはいけません」と記していません。なぜなら、正当な神の怒りが人を悔い改めに導き、永遠のいのちに向かわせました。私たちも、罪や過ちを見たり、神の愛や憐みやきよさが無視されると怒りを覚えます。しかし、み言葉が自分の考えと違うとき、ヨナのように怒ってはいけません(ヨナ4章)。また、カインのように自分のあり方が神に受け入れられないときや(創世記4章)、聞く民のわがままを怒ったモーセになってはいけません(民数記20章)。
2) 自分の義や主張、世の知恵に満たされて怒ると、み言葉を否定し、神のみこころを正しく受け取ることができず、自分に対する正しい判断ができなくなり、悪魔に機会を与えてしまいます(エペソ4:26-27)。3)人の心の中にある欲望が、様々な悪や汚れた思いを生み出し、み言葉を正しく聞けなくし、み言葉に対し激しい怒りを表してしまうので、主によって欲望を取り除いていただきましょう。

Ⅳ. 汚れや悪を捨て去る…
素直にみ言葉の教えを受け入れ、聖書で確認しましょう(使徒17:11-12)。主の血潮は汚れや悪をきよめ、新生に導き、魂を救いに導くみ言葉に、常に心を空しくして聞く姿勢こそが、「聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い」者へと導きます。だから、教会で正しくみ言葉が語られることが何よりも重要で、緊急を要します。私たちはみ言葉に生き、み言葉によって福音を伝えましょう。


教会の各活動



教区ティーンズバイブルキャンプのために祈る
午後は、教会役員会が行われました。


今週~来週の予定

 

○婦人祈祷会 火曜日(8月5日)10:30~


※8月は休会します



○聖書研究祈祷会 水曜日(8月6日)19:30~


※教区ティーンズバイブルキャンプのため、休会します



○主日礼拝 来週日曜日(8月10日)10:30~


招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:37
詩篇119篇
聖書:ヤコブ書1章22-25節
題:み言葉を行う人に
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:237、361、316