2023/06/26

礼拝メッセージ「子を遣わした神」ヨハネの福音書12章44-50節 大頭眞一牧師 2023/06/25


「イエスは大きな声でこう言われた。」(44a)とあります。「イエスは叫んで、こう言われた」という訳もあります。イエスが十字架を前に、大きな声で叫んだこと、今日もその大声に心を開きます。ヨハネの福音書は13章から新しい展開を見せます。一気に十字架に向かっていくのです。今日の箇所はその直前の部分。ここには主イエスがこれまで語ってきたみ言葉のまとめが記されています。私たちもヨハネがここまで述べてきた主イエスの福音を振り返り、確認することにします。

【わたしを遣わされた方を】

「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(44b-45)が、第一の大声です。父は子をこの世に、つまり、私たちに遣わしてくださいました。それは私たちを神との交わりに招くために。以前にもお見せしたイラストをもう一度。父と子と聖霊の三位一体の神は愛のダンスを踊る神。そのダンスに私たちも加わります。父と子が心をひとつに私たちを欲するからです。聖霊によって。第一ペテロにこうあります。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(1:8)

【わたしは光として】

第二の大声は、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(46)です。ヨハネはこの福音書の最初から、主イエスが光であることを語ってきました。この世は闇。世界はあちらこちらで破れてしまっています。神と人との関係が、人と人との関係が、人と被造物の関係が、破れてしまっていて、そこから闇が入り込んでいるのです。けれどもそんな闇から私たちを開放するために、主イエスは光として遣わされて来ました。「アブラハムと神さまと星空と」という歌を作詞したことがあります。そのさびのところは「今夜世界に三つの光、イエス・キリストとぼくたちと星空と」です。この世界にイエスという光が来てくださいました。私たちもその光に照らされて、小さな光として輝いています。罪は私たちに追いつこうとします。私たちを競い合わせ、反目させ、赦し合えないようにしようと。けれども主イエスに照らされ続けるなら、そして仲間でたがいを守り合うなら、「だれも闇の中にとどまることのない」のです。罪を犯したとしても、顔を上げてやり直すことができるのです。何度でも何度でも何度でも。

【さばくためではなく、救うために】

「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」(47)は、第三の大声、そして大きな慰めです。主イエスが来られたのは、私たちを闇の中に放っておくことができなかったから。神を愛することができず、人を愛することができず、自分を愛することができない私たちをそのままにしておくことができなかったからです。自分でも自分を赦すことができないような思いさえする私たちを。例によって言葉を補って言い換えてみます。「わたし(主イエス)はすべての人を招くために来た。わたしたち(三位一体の神)の愛の交わりの中に。招きに応じようとしない人がいても、わたしはその人をさばかない。その人のためになお、わたしのいのちを注ごう。十字架の上で」と。

【主イエスのことばがさばく】

けれども主イエスは「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(48)とも言います。結局のところ、神のさばきを語っていると思えるところです。しかし、思い出すべきは、主イエスの言葉はすべて愛の言葉だということ。主イエスの言葉はご自身のいのちを添えた愛の招きです。その招きを拒み続けることは、主イエスの愛、そして父の愛を拒むこと。神などいらない、と神に背を向けることです。ですから主イエスは、さばきで脅かすのではなく、胸を熱くしながら懇願するかのように語っておられるのです。当時の人びとに、そして私たちに。「父と子の愛に背を向けることがないよう。光に、いのちに背を向けることがないように。お願いだから、わたしと共にいて欲しい。あなたのために差し出したわたしの血によって生きよ」と。


                    
          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/06/19

礼拝メッセージ「栄誉を与える神」ヨハネの福音書12章36b-43節 大頭眞一牧師 2023/06/18


「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。」(36b)とあります。それは「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(37)からです。主イエスの背中が見えるようです。人びとを惜しみ、悲しみ、それゆえに、なおさら十字架への決意をかたく、去って行かれるそのお心には察してあまりあるものがあります。それを見つめる父のお心も。今日、父の日。主イエスの背中に現れた父と子の愛を聴き取りましょう。

【信じないために?】

ヨハネはここで、イザヤ書53章を引用します。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(ヨハネ12:38c)。イザヤ書53章は、人びとに受け入れられず、蔑まれ、見捨てられて殺される「主のしもべ」を語る箇所。主イエスの十字架の預言です。イザヤ53章にはこうもあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4)。来るべきメシア(主イエス)は神に罰せられた、と人びとは考えるのです。けれどもイザヤは続けます。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。「主のしもべ」(イエス)の苦難は、すべての人の救いのためでした。罪と死の支配のもとにあった私たちが癒され、解き放たれるためだったのです。

ヨハネは次いでイザヤ書の別の箇所を引用します。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」(ヨハネ12:40)。これはイザヤ書6章から。イザヤ書6章は、イザヤが幻を見る箇所。自分の汚れを知ったイザヤの唇に燃えさかる炭が触れ、イザヤは神のことばを語るべく遣わされます。ところが神は奇妙なことをイザヤに言うのです。人びとに語れ、でも立ち返ることがないように、と。例によって言葉を補って言い替えてみます。「イザヤよ。わたし(神)はあなたを遣わす。人びとが立ち返るために。けれども覚悟せよ。彼らは立ち返ることがないだろう。あなたは、まるでわたし(神)が、彼らを頑なにしていると感じるだろう。それでも語り続けよ。いつか、彼らは知る。あなたが(イザヤ書6章で)見た神の栄光は、やがて来る『主のしもべ』(イエス)の栄光である。しかし、神であるイエスがこの世界に来ても、人びとは信じないだろう。人びとがあなた(イザヤ)の言葉を信じないように。そして、かえってイエスを十字架に架ける。しかし、イエスの苦難はむだになることはない。その死と復活によって人びとは救われる。神のいのちを生きるようになるのだ。だから、語り続けよ」と。

【神の大きな出来事】

神ご自身が「主は彼らの目を見えないようにされた。」(40a)と言うほどに、頑なな人びと、頑なな私たち。そんな私たちはどのようにして信仰に入ることができたのでしょうか。救いのお証しを聞くときにいつも気づかされることがあります。それは救いにいたる経緯は順序よく語られるのですが、最後の「信じた」という瞬間になにが起こったかは言葉にならない。「そして…信じました」と、ジャンプがあるのです。救いは出来事。私たちには完全に説明することも理解することもできない大きな、大きな出来事を神が起こしてくださったのです。

「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」(42-43)とあります。ヨハネの残念さと痛みがにじみ出ているようです。ヨハネが感じているのは、神の痛み、神の残念さ。信じたけれども、公の信仰の告白に至らなかった人びとを惜しむ痛みです。けれども、神さまはそこでも出来事を起してくださったでしょう。これらの人びとの中からも、主イエスの十字架と復活の後、信仰を告白した人びとを起してくださったにちがいありません。今も、神は、私たちに続いて信仰を告白する人びとをなお、起こしてくださっています。父と子と聖霊なる神が、心をひとつに。

          
          ワーシップ(Bless) 新聖歌420「雨を降り注ぎ」


          
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2023/06/12

礼拝メッセージ「心を騒がせる神」ヨハネの福音書12章27-36a節 大頭眞一牧師 2023/06/11


「今わたしの心は騒いでいる。」(27a)とおっしゃるイエス。私たちはこの言葉を聞くとき、神が心を騒がせるとは、どういうことだろうか、といぶかかしく思います。いったい神の心が騒ぐことがあってよいのか、と。神学校で教会史を教えるときに、神学生がきちんとできるまでしつこいほど行う演習があります。以下の文章に〇か×をつけてください、というものです。

  1. 神の子が十字架に架けられた
  2. 子なる神が十字架に架けられた
  3. 神が十字架に架けられた

いかがでしょうか。ほとんどの人は①は◎、②については少し考えて〇、③は「むむむ」といったところではないでしょうか。答えはすべて◎。③は6世紀ごろさかんに用いられ、その後、「父なる神が十字架に架けられた、という誤りと混同されやすい」という理由であまり使われなくなりましたが、ルターによって再び語られるようになりました。神が十字架に架けられたのです。私たちの神は十字架に架けられた神。だからもちろん「心を騒がせる神」なのです。私たちのためには、平気でいることができず、心を騒がせてくださる神なのです。この私たちのために!

【心を騒がせる神】

主イエスの心は騒いでいます。「何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。」(27bc)と。けれども心騒ぎながらも、主イエスの愛はあふれます。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27d,28a)と。イエスの時が来ました。私たちのためにご自身をあたえる時、栄光の時が。私たちのためにご自身を与える時が、イエスの栄光の時なのです。けれども、それは主イエスだけの栄光ではありませんでした。

そこへ父なる神の声が響きます。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」(28c)。「再び」は「さらに」とも訳せる言葉。言い換えると「子よ。わたしは、あなたを地上に遣わし、あなたにわたしの心を語らせ、あなたに愛のわざをおこなわせてきた。わたしとあなたとが、世界に愛を注いだのだ。そんな愛が、私たちの栄光だ。今、さらに、わたしたちの栄光を現そう。さらに愛を注ごう。あなたの十字架によって。架けられるあなたの痛みと、架けるわたしの痛みをかみしめながら」とおっしゃったのでした。父と子が心をひとつに私たちを愛してくださっています。聖霊もまた。

【この世を支配する者】

けれども父と子の心は同時に喜びにも震えていました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」(31)。「今」「今」と繰り返されるところに父と子のワクワクするような喜びが感じられるようです。私たちの弱さ、勇気のなさ、愛の鈍さ、受けた傷や痛み。そんなさまざまな破れを悪用して、私たちを支配し、私たちを神から遠ざけようとする者がいます。そんな力があります。この世の支配者がそれです。悪魔と呼んでもよいのでしょうが、その実態は罪と死の力。子は、父と心を一つに、そんな支配者を追い出します。いえ、もう追い出されました。十字架によって、罪とその結果をご自身に負い、復活によって死に勝利することによって。そして「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(32)が実現し、私たちは神の子とされました。そうされているのです。

【光はあなたがたの間に】

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(35-36)の主イエスの言葉は、当時の人びとのためでもあり、私たちのためでもあります。

当時の人びとに対しては「わたしが十字架に架けられる日が迫っている。光であるわたしが、あなたがたの間にいる間に、光であるわたしを信じなさい」と語られました。そして、すでに神の子、光の子とされた私たちには「あなたがたは光の中を歩きなさい。父とわたしが追い出した罪と死の力は悪あがきをして、あなたがたを襲おうとする。だから、ますます光の子として歩きなさい。光であるわたしに結びつき、光の子である仲間たちとたがいに守り合うなら、闇に追いつかれることはない」と、励ましてくださっているのです。

          
          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/06/05

礼拝メッセージ「一粒の麦の神」ヨハネの福音書12章20-26節 大頭眞一牧師 2023/06/04


マルタが注いだ香油を香らせ、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたイエス。受難週の最初の日である日曜日のできごとです。5日後の金曜日の十字架はもう目の前に迫っています。

【栄光の時】

ここまでヨハネの福音書は、イエスの時はまだ来ていない、と繰り返してきました。イエスは母マリアに「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と語り、兄弟たちに「わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」(7:8)と言っています。8章でもヨハネは「イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しました。ところが、棕櫚(なつめ椰子)の主日に、主イエスはついに宣言されました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(23)と。

主イエスの時、主イエスが栄光を受ける時は、何人かのギリシア人たちがイエスにお目にかかりたいと、願い出たときに訪れました。ギリシア人がユダヤ人の祭りである過越の祭りに来ていたというのですが、当時、少数ではあってもそういう人びとはいたようです。主イエスはユダヤの人びとがなつめ椰子の枝を振って「イスラエルの王」と呼んだ時ではなく、このギリシア人たちが面会を願った時に、ご自分の栄光の時が来た、とおっしゃったのでした。

主イエスはご自分の十字架、そして復活・昇天・聖霊降臨が、ユダヤ人だけではなく、すべての人のためであることをご存じでした。ですから「わたしは、すべての人に神のいのちを与えよう。このギリシア人たちにも。その時が来た。すべての人にいのちを注ぐ栄光の時が来たのだ。」とおっしゃったのです。その声はユダヤ人でない私たち一人ひとり、ここに集っている日本の、韓国の、カンボジアなどの一人ひとりにも響いています。主イエスはあなたを救うのでなければ満足なさらないのです。あなたが神の民に加えられていないことに耐えることがおできにならないのです。ご自分のそばに、あなたがいるのでなければ!

【一粒の麦】

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(24)と主イエスは語ります。言葉を補えば「わたしは死ななければならない。わたしが死ななければ、あなたがたにいのちをあげることができない。しかし、わたしが死ぬなら、あなたがたは生きる。神と関係を持つことができず、罪の中に、いのちなく死んでいたあなたがたは生きる。あなたがたの中にわたしのいのちを注ぐとき、あなたがたに血がかよい、心が愛の鼓動を打ち始める。そうして、あなたがたから世界に向かって愛があふれだす。そのためにわたしは死のう。あなたのために喜んでいのちを投げ出そう」そうおっしゃってくださったのでした。私たちに注がれたいのちは復活のいのち。私たちの生涯に豊かな愛の実を結ばせるばかりではなく、死の向かう側に永遠に続く、豊かな愛の実を結ばせてくださっているのです。

【いのちを憎む?】

続いて主イエスは、主イエスの与える新しいいのちの生き方を語ります。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(25)と。「いのちを憎む」というのは強い表現ですが、十字架が最上の解説です。主イエスは十字架で私たちにいのちを与えることに夢中でした。ゲッセマネで「アバ、父よ…どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」ともだえながらも「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)と、いのちを手放されたのです。主イエスはいのちを軽くにぎって、父におゆだねになったのです。自分のいのち、自分の思い、自分の好み、それらはみな神さまからの賜物です。けれどもそれらを軽く握って、その時が来たら手放すなら、神さまはその手放されたものから豊かに実を結ばせることができます。あなたが、そして、あなたを通して世界が豊かな実を結ぶのです。星野富弘さんの詩に「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった」(「花の詩画集」より)とあります。いのちより大切なもの、それは神との交わりです。神さまに愛され、愛することです。すでに「いのちよりも大切なもの」を持っている私たちは幸いです。「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。」(26b)とおっしゃる主イエスが、この交わりのうちに私たちを保ってくださっています。

          
          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)