2022/10/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/30 「いのちのパンである神」ヨハネの福音書6章22-31節 大頭眞一牧師



主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日。人びとは主イエスを追って、舟で湖を渡りました。それは主イエスからパンをもらいたかったから。それも一回や二回ではありません。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(31)とあります。出エジプトの後、神さまは荒野で40年間、毎日マナを与えてくださいました。人びとは「そのように自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と、そう願ったのでした。

【いのちのパンである神】


主イエスの答えは「ノー」でした。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)と言ったのです。「永遠のいのちに至る食べ物」とはイエス。小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありました。ご自分を与え、しかも十字架の上で与えてくださった神が、「さあ、わたしのいのちを受け取れ」と招いてくださったのです。

こうして礼拝に集っておられるみなさんは、「永遠のいのちに至る食べ物」であるイエスを受け取った方がたです。イエスといういのちのパンを食べたのです。そんなたがいを喜びたいと思います。私たちに食べられるために、喜んでご自分を与えてくださったイエスを想いながら。

【奇跡ではなくしるしを】


ヨハネは七つの「しるし」を記していると前にも申し上げました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26c)とあります。人びとが見たのは、イエスがたくさんの人びとにパンを食べさせる奇跡。けれどもイエスは、人びとが奇跡は見たが「しるし」は見ていないというのです。「奇跡」とは、常識では起こると考えられない不思議な出来事。けれども「しるし」はちがいます。ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、主イエスが「神が遣わした者」(29b)、神から遣わされ、十字架に架かって、復活した神であるという信仰をもたらすもの。「奇跡」は、ご自分を与える神の愛の光で見るときに「しるし」となるのです。

【律法ではなくいのちを】


イエスが永遠のいのちを語られたとき、人びとは「「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」28bと訊ねました。当時の多くの人びとは律法を誤解していました。律法を守れば救われ、破れば罰せられる。そういうふうに考えていたのです。けれども実際は、律法はそうではありません。まず出エジプト、そして律法。律法を知らないで、救い出されたイスラエル。そのイスラエルに神さまが「わたしといっしょに歩こう。わたしといっしょに愛し合おう。その歩きかた、愛し合いかたを、教えてあげよう」と、与えてくださったのでした。

それがわからない人びとが「何をすべきでしょうか。」28bと訊ねたのは当然でした。何かをすることによって神の承認を得ようとするのです。それは私たちも同じです。どこかで「自分はもっと何かをすべきではないのか」と自分を責める思いが起こってきます。とくに失望の朝、落胆の夜には。

ところがそこへイエスの声が響きます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)と。「信じること」については、いつもお語りしている通りです。私たちは自分で信じようとしても、信じることはできません。信仰そのものが神さまからの贈り物なのです。ですから、ここで主イエスは「今、あなたがたに信仰を贈る。それはもうあなたがたの中に起こっている。わたしを飲み、わたしを食べよ。わたしはあなたがたにいのちを与える食べ物である。」言ったのでした。

【アスランのくだされた冒険に】


荒野の毎日のマナのように、「自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と願った人びと。私たちも同じように祈ります。健康のため、生活のため、安全のために。けれどもイエスは、それらのことを思いわずらうな、と教えられました。それは、私たちの安心など、どうでもよいからではありません。イエスが差し出されているのは、もっと大きな安心。嵐のない安心ではなく、嵐のなかでもなくならない安心。死の向こう側でもなくならない安心です。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)はたいせつです。イエスが信仰を与えるとき、それは私たちの内側の心の動きにとどまりません。あふれる愛が私たちを行動へと押し出すのです。愛の冒険へと。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。

冒険というとなにか恐ろしいことのように思うかもしれません。けれどもそれは、自分が置かれた場所でていねいに生きる、ただそのことです。先週は明野に外国から方がたが出席されました。私は信愛での説教でしたのでお会いしていないのですが、明野の方がたが、とても暖かく歓迎してくださいました。世界につながる小さな冒険が始まったのです。イエスの招きによって。それぞれの場所で。

   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/10/22

主日礼拝メッセージ 2022/10/23 「わたしだと言う神」ヨハネの福音書6章16-21節 大頭眞一師


今日は主イエスの五つめのしるし、湖の上を歩いた主イエスの奇蹟です。4月から信愛と明野の合同礼拝が始まり、ヨハネの福音書の最初から読んだために、明野の方がたは、去年読んだのと同じ個所を二度聴くことになりました。それも先週で終わり、きょうの箇所から、明野の方がたもはじめての箇所となります。お待たせしました。

【来ておられなかったイエス】


「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」(16-17)とあります。ほかの福音書は、イエスが強いてそうだせた、と記していますが、ヨハネは理由をなにも記しません。ヨハネがこの福音書を書いた紀元1世紀末は、教会が迫害の中にありました。教会に連なる人びとは「主イエスは自分たちと共におられないのではないだろうか。自分たちはイエスなしで教会という舟で航海しているのではないか」と思ったことでしょう。そんな教会の姿が、弟子たちに重ねられているのです。

明野は最近大きな痛みを経験しました。私たちの愛する友である兄弟を失った。あまりの不条理に言葉がありません。ご高齢の方がたが「私たちがいくらでも代わってあげるのに」と話しているのを聞いて、私の心はずきずきと痛みました。私たちの人生の旅には「強風が吹いて湖は荒れ始めた。」(18)というときがある。そんなときにしばしば私たちはイエスが共におられないのではないかと思うのです。

【湖の上を歩いて来られるイエス】


「そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」(19)はおよそ5キロ。浅瀬を歩いて来るならまだしも、沖合5キロの深い水の上を歩くことは考えられないことです。しかしイエスは来られた。5キロの水も主イエスを妨げることができなかった。主イエスの弟子たちへの思いが5キロの水よりまさったからです。主イエスが来てくださった。主イエスは来ることを望んでくださったのでした。

私たちの兄弟にはお孫さんたちがいます。こういう場合に幼い人びとになんと話したらよいのか、と私たちは思います。いや、私たち自身が、どう受け止めたらいいのか聞きたいのです。そんなことを思ううちにふと浮かんだことがある。それは「神が」兄弟を休ませた。もう、よくやった、と休ませた、いうこと。私たちには、そんなことを言われても納得などいくはずもないのだけれども、けれども、主語は神さま。神が兄弟を小学生のころに招き、神が生涯の使命を与え、神が伴侶を、子どもたちを、孫たちを与え、神が明野に導いた。その生涯を貫いたのは「神」という主語。愛に満ちた「神」という主語。兄弟も「神」という主語を受け入れた。神を主語として生きた。兄弟の生涯にもさまざまな嵐があっただろう。けれどもどの一つの嵐も神がおられない嵐はなかった。神はいつもそこに来られていた。兄弟の生涯の最後の嵐の中でももちろん。

【わたしだ】


湖の上を歩くイエスを恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(20)と声が響きます。「わたしだ」はギリシア語で「エゴーエイミー」有名な言葉です。主イエスがこの言葉を使われるときには出エジプト記を思い浮かべておられました。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(3:13-14b)

「わたしはある」英語で言えば「アイアム」、ギリシア語では「エゴーエイミー」。神がご自分で名乗られた名前が出エジプト記の「わたしである」であり、ヨハネの「わたしだ」です。けれども神は、ただ置き物のように「ある」のではありません。出エジプトではイスラエルの苦しみを黙って見ていることができないで、身をかがめるようにしてモーセに現れてくださった神。嵐の中の弟子たちに、5キロの水を乗り越えて来てくださった神、迫害下のヨハネの教会にも「わたしだ」と言って励ましてくださった、愛ゆえに行動する神。それが「わたしだ」と言う神なのです。

【イエスを迎え入れようと】


「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」(21)は、協会共同訳のほうがよいでしょう。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21)つまり、弟子たちがしたことは何もないのです。ただイエスを迎え入れようとした。迎え入れたのでもない、ただ迎え入れようとした。嵐の中にうずくまるときの私たちにできることはほとんどありません。強い信仰を持てと言われても無理です。ただ、そんな私たちでも「わたしだ」と言う声のするほうに、わずかに顔を向けようとすることはできるかもしれません。それは、ほんのわずかなこころの動きにすぎません。でも、それでよいのです。それでじゅうぶんなのです。

「すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21b)とあります。ヨハネは強風がおさまったとは記しません。ヨハネの生きている間に、教会への迫害がおさまることもありませんでした。けれども、主語である神さまは、愛ゆえに、目指すところを成し遂げられるのです。私たちの生も死もそのために用いてくださるのです。そのなさり方は、私たちの理解も想像も超えていますから、それを理解しようとはしないでください。私たちにはわからないのですから。それでも光の方角にわずかに顔を向けようとするとき、それが単に今までの習慣から、無意識に祈りや賛美を口ずさむことであったとしても、愛なる神さまがその先を引き取ってくださいます。いえ、もうそしてくださっています。

ワーシップ「アブラハムと神さまと星空と」Bless (詞:大頭眞一牧師)




   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを表示する」の中に記されています)

2022/10/16

主日礼拝メッセージ 2022/10/16 「豊かに与える神」ヨハネの福音書6章1-15節 大頭眞一師

  (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日は主イエスの四つめのしるし。五つのパンと二匹の魚の奇蹟です。今までもヨハネの福音書の二階建て構造について語ってきましたが、ここ にもそれが鮮やかです。一階では、パンや魚によって人びとは満腹になります。けれども、主イエスの願いは二階にあります。ひとびとがいのちのパンに与って、新しいいのちに生きることなのです。

【しるしを見たから】


5章の舞台はエルサレムでしたが、6章は再びガリラヤ湖。「大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。 」 (2)のとおり、群衆は新しいいのちを求めたわけではありません。 病人たちのいやしを見て、それに引きつけられたのです。主イエスの与えるいのちには関心が向いていないのです。

けれどもそれは弟子たちも同じでした。 主イエスはピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 (5)と言います。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 」 (6)とあります。 主イエスの願いは、人びとに新しいいのちを与えることです。病のいやしは、新しいいのちのしるしであって、 ほんとうに与えたいのは、新しいいのちなのです。主イエスは弟子たちにも、このことを知って欲しいのです。だからあえて「どこから買って来るか」と試されました。ここで思い出すのは、スカルの井戸のできごとです。弟子たち がイエスに「先生、食事をしてください」(31)と勧めたとき、 イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 (32)と言いました。 もしピリポがこのときのことを覚えていたら、「主イエスよ、新しいいのちにいたるパンはあなたがお持ちです。あなたがいのちのパンです」と答えることができたでしょう。けれども、ピリポは食べるパンのことしか考えることができませんでした。主イエスのテストに不合格だったのです。

その点ではアンデレも同じでした。主イエスがいのちのパンであることを忘れて「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」 (9)と言ったのです。空腹を満たす食物のことしか考えられなかったのでした。

【五つのパンと二匹の魚】


けれども 、主イエスはしんぼうづよい愛のお方です。 ピリポやアンデレを失格だ、と斥けることはしません。 差し出されたパンと魚を用いて、弟子たちと群衆にいのちを与えようとなさいました。二階建てと 言うならば、一階では五千人の満腹というできごとが起こっています。けれども二階では、主イエスの与える新しいいのちが差し出されているのです。

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。(11)はたいせつです。この「感謝の祈り」は過越の祭りでささげられる祈り。出エジプトで、神さまはエジプトの奴隷であったイスラエルを救い出しました。エジプトじゅうの長子が殺されたとき、過越の小羊の血によって、イスラエルだけが救われたのです。こうして解き放たれたイスラエルがその恵みを記念するための、過越の祭り。その祭りの感謝の祈りを、主イエスはささげました。それはご自分が過越の小羊として十字架に架けられること。それによってすべての人が罪と死から、永遠のいのち へと解き放たれることを知っておられたからでした。ですから、主イエスが配られたパンと魚はただ空腹を満たす食物というのではありません。 新しいいのちを与えるためのいのちのパンです。そしてそれは主イエスの十字架の血と肉を表しているのです。

【十字架の王】


「人々はイエスがなさったしるしを見て、 『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』 と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 」 (14-15)。人びとは主イエスを王にしようとします。けれども主イエスはそれに応じませんでした。 食物で満腹することだけを求める群衆の言いなりにはならなかったのです。それは、彼らが求めることさえしない新しいいのちを与えるため。そのためにご自分を十字架に与えるため。そのお姿は外見では王には見えません。けれども、その愛はまぎれもなくまことの王である神の愛でした。そんな十字架の王を見上げつつ、私たちは聖餐に与ります。 先に召された者たちとともに、やがて主の食卓に連なる日を思いながら 。

2022/10/07

主日礼拝メッセージ 2022/10/09 「愛を求める神」ヨハネの福音書5章41-47節 大頭眞一師

 (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人の、ベテスダの池でのいやしとその後のできごとの最終回です。実は、今日の箇所は牧師泣かせの箇所。語られていることが抽象的で、しかも謎めいているので、つい説明するようなメッセージになりやすいからです。そうならないで、福音の宣言を鳴り響かせたいと思います。語られていることは5章全体を貫く「主イエスとはだれか。神である」です。

【人からの栄誉】


主イエスはご自分を受け入れないユダヤ人たちを惜しまれます。そして彼らに忍耐づよく語り続けます。「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」(43a)と嘆き、「もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」(43b)と指摘します。「その人自身の名で」とは、「自他ともに認める人間的な評価で」ということでしょう。ですから、「あなたがたは、多くの人が『これはよい、すばらしい』と言えば、それを受け入れる」という意味。人間がどう評価しているのかが、判断の基準なのです。だからユダヤ人たちは、主イエスが神であることを否みました。

このユダヤ人たちは、律法を厳格に守るならば『これはよい、すばらしい』と言って、たがいに受け入れ合いました。「互いの間では栄誉を受け」(44)がそれです。律法を厳格に守っているおたがいを『これはよい、すばらしい』と称賛し、栄誉を与え合うのです。こうしてとても人間的なつながりが、できていきます。すると今度は、自分たちの基準に当てはまらない人を排除するようになります。「唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(44)とあります。ユダヤ人たちは。神からの栄誉、すなわち神が『これはよい、すばらしい』とおっしゃることから外れてしまっているのです。彼らの交わりもほんとうの愛の交わりではなく、基準に当てはまらない人を排除し、仲間うちでもどこかでたがいに競い合う、いつわりの交わりになってしまっているのです。

【神への愛】


だから主イエスは語ります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」(42)と。問題はやはり愛です。人からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神への愛に生きるのではなく、人とのいつわりの交わりに生きることになります。けれども、神からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神とのほんとうの愛の交わりに生きるのです。

【主イエスの愛】


では、私たちはどうしたら神とのほんとうの愛の交わりに生きることができるのでしょうか。私たちはすでにその答を知っています。答は主イエス。「わたしは人からの栄誉は受けません。」(41)とおっしゃる主イエスが答です。主は人からの『これはよい、すばらしい』を求めませんでした。主が求めたのは父からの『これはよい、すばらしい』でした。父との愛の交わりに生き、父への愛を貫き、十字架の死にいたりました。そして私たちにその愛を注いでくださったのでした。主イエスの愛を受取った者たちがここにいます。それが私たちです。

【訴えるモーセ】


ユダヤ人たちは熱心でした。けれどもその熱心は、彼らをほんとうの神との交わりには導きませんでした。彼らはモーセの律法を聖書の大きな物語からとらえるのに失敗しました。十誡を誤解して、守れば神の好意を得、破れば神のさばきを受ける戒律としてとらえてしまったのでした。

けれども聖書は神の愛の物語。愛ゆえに世界を造り、愛ゆえに人の罪を何度でも赦す神。そんな神が与えたモーセの十誡は、私たちをどこまでも愛する神の、ご自分とともに歩く歩き方の教え。いつも申し上げる通り、まず出エジプト、そしてシナイなのです。私たちがなにかをしたから救われたのではないのです。「信じたら救われる」と言いますが、信仰さえも神さまからの贈り物なのですから。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。」(45)とあります。神の愛の大きな物語の中で、神の与えるほんとうの愛の交わりに生きようとしないならば、それはモーセが語ることを否むことになります。そしてモーセの語る大きな物語の極みは主イエスの十字架と復活です。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。」(46)とあるとおりです。

今日から京都聖会が始まります。三回にわたってお語りしますが、つまるところは、神に愛されている私たちが、その愛を生きることができるように回復されること。そしてその回復が世界に及んでいくことです。神さまと共に、世界の破れの回復のために働くことができる、そのようないのちに生きている不思議を喜びつつ。

ワーシップ(賛美) 「花も」 Bless