2023/03/28

礼拝メッセージ「良い羊飼いである神」ヨハネの福音書10章11-12節 大頭眞一牧師 2023/03/26


来週は棕櫚の主日そしてその次はいよいよイースター。今週もイースターとそれに先立つ主イエスの受難に思いをめぐらします。

【いのちを捨てる神】

主イエスの譬えは続きます。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(1)とあります。主イエスは羊である私たちのためにいのちを捨てるのです。おそらく私たちは、このことに慣れっこになってしまっているかもしれません。ですからいつも思い出してください。主イエスは神であることを。神が私たちのためにいのちを捨ててくださったのだということを。すなわち、神がいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださっていることを。

イエスの復活の後、教会が誕生しました。初代の教会はパリサイ人たちに迫害されることになります。そんな教会に向かってヨハネの福音書は書かれました。「パリサイ人たちは、あなたがたを迫害している。彼らによって教会は散らされている。けれども彼らはあなたがたのためにいのちを捨てたりはしない。あなたがたのためにいのちを捨ててくださるのは主イエスだけだ。あなたがたがどんなに迫害されても、どこへ追い払われたとしても、主イエスはあなたがたを守り抜かれる羊飼いなのだ」と、そんな思いでヨハネは主イエスの言葉を記しました。私たちもたがいに思い出させ合いましょう。どんな状況でも、どこにいても、主イエスは私たちを守り抜かれる良い羊飼いであることを。

【私たちを知る神】

主イエスはまた「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、」(14a)と言います。聖書の「知る」という言葉は親しい交わりを表す言葉。たとえば、男が女を知ると子どもが生まれます。主イエスは私たちを知ってくださっている。私たちの弱さも罪も、私たち以上に知ってくださって、その痛みや欠けをご自身で埋めてくださる、覆ってくださる。私たちの張り裂けるような悲しみや虚しさをご自分のものとしてくださるのです。そればかりか「わたしのものは、わたしを知っています。」(14b)とも言う。「あなたがたはわたしの愛がわかる者たちだ。そしてわたしを愛しているのだ」とおっしゃるのです。

さらに「ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。」(15a)にいたっては、私たちの理解をはるかに超えています。父なる神と主イエスの愛の交わりと同じ交わりが、私たちと主イエスの間にある!というのですから。キリスト教会の二千年の歴史は、この神秘を伝えるためにさまざまな表現を用いてきました。そのひとつにペリクレーシスという言葉があります。翻訳すればdancingamongeachother(たがいに交差しながら踊る)です。つまり三位一体の神は愛の交わりのうちに踊る神。踊りながら一体である神だとイメージするのです。次のようなイラストが用いられることがあります。
踊る父・子・聖霊は三位でいながら一つです。愛を表すハート型が描かれています。主イエスの与えるいのちは、私たちをこの愛のダンスに招き入れます。私たちは、父と共に、子と共に踊ります。愛のダンスを。こうして仲間と共に神の愛、たがいの愛を喜び味わっているのです。

【ほかの羊たちも】

私たちを喜びのダンスに招きいれてくださったのは主イエスです。私たちには思いも及ばない神との愛のダンスに加えてくださったのです。

そんな主イエスの愛は、まだ主イエスを知らない人たちにも注がれています。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(16)と。

一つの群れ、とあります。私たちの教会に新しい方がたが加わるのは嬉しいことです。けれども、だれかが加わるなら、その集団は前とは同じではなくなることも事実です。今まで暗黙の了解であったことが、問い直されたり、変更をせまられたりすることも起こるでしょう。けれども、それを恐れる必要はありません。良い羊飼いである主イエスを知るものたちは、主イエスの愛によって一つです。いのちのうちに赦し合い、覆い合って成長していくことができるのです。


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2023/03/19

礼拝メッセージ「譬えで語る神」ヨハネの福音書10章1-10節 大頭眞一牧師 2023/03/19


受難節も第四の主日を迎えました。弱さを覚えておられる方がたも多くおられます。主イエスのいのちをいただきながらも、うめく私たちに、今日もみ声が響きます。

【譬えで語る神】

ここで主イエスは譬えで語られました。譬えは単なる例話ではありません。4月から「一年12回で聖書を読む会」が信愛でも明野でも始まります。すでに信愛で7名、明野で4名ほどの申し込みがありました。テキストは「聖書は物語る」ですが、これには続編があって「聖書はさらに物語る」といいます。この「さらに」の中にひとつの章を費やして「譬え」について書いています。まとめると、譬えとは

  1. 人となられた神であるイエスが、人間の言葉で、人間の表現技術を用いて、「神の国」という未知の領域を洞察させるために
  2. イエスの到来とともに始まった「神の国」(神の支配)とそれを受け入れないこの世界との摩擦のただ中で
  3. 私たちを「神の国」の生き方へと招くべく、語ったもの

なのです。ですから譬えは福音そのものです。すでに始まった神の国(神の支配)を力強く宣言し、神の国の生き方へと招くのです。

「摩擦」と言いました。「聖書は物語る」に収められているこの図はたいせつです。


「神の国」が始まったのはイエスがこの世界に最初に来たときです。そして「神の国」が完成するのは、この世の終わりにイエスがもう一度来る再臨のときです。ですから今の時代は、中間の時代だといえます。神の国がもう始まっているのだけれども、まだ完成していない時代だからです。今の時代を第二次世界大戦にたとえて、DデイとVデイの間の時代と説明されることがよくあります。Dデイとは、1944年6月6日、ヨーロッパ大陸から撤退していた連合国軍が、ヨーロッパに再上陸した日です。この日を境に連合国の勝利は確定しました。けれども、枢軸国軍の抵抗は続き、最終的にヨーロッパの戦争が終結するのは1945年5月8日、Vデイと呼ばれる日のことでした。始まったけれども完成していない神の国において、死はいまも存在します。しかし永遠の命は死を超えます。誘惑は今も存在します。けれどもキリストと一つにあるときには、私たちは罪から守られます。病の床も悲しみに終わらず、賛美と祈りの祭壇となります。このように、私たちは完成へ向かう世界の中で苦しみつつ喜び、歌いつつ痛むのです。そうしている内にも神の国は成長しています。そしてやがてイエスが再臨するときに、損なわれた世界に完全な回復が訪れるのです。

【主イエスの声を知っている】

この主イエスの譬えでは、主イエスに従う者たちは羊、パリサイ派の人びとは羊盗人、そして主イエスは牧者であり、羊の門です。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」(1)とあります。パリサイ派の人びとは、門であるイエスから入りません。イエスを受け入れていないのです。そんな彼らは、神の民をイエスに導くことができません。この目の見えなかった人を追い出したように、群れを散らしてしまうのです。けれどもイエスは牧者です。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」(3)がそれです。この目が見えなかった人は、追い出されたように見えますが、実は主イエスが名前を呼んで連れ出してくださったのです。私たちもそのように連れ出された一人ひとりです。

そんな私たちが主イエスからそれないで歩くためにたいせつなことがあります。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(4)です。主イエスの声を知っていて、主イエスの声を聞き分けること。そのためには、聖書を通し、説教を通して、神さまの声を聴くこと。神さまの声のトーンを身につけることです。そうすれば、いつもの神さまとはちがう声にだまされることはありません。特にだまされてはならないのは、いたずらに厳しく自分を責める声です。それは神さまの声ではありません。そして羊は群れで生きる存在であることも覚えておきましょう。私たちは仲間と共に、たがいに神さまの声を思い出させあって、助け合いながら主イエスについていくのです。



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2023/03/12

礼拝メッセージ「見よ、と言う神」ヨハネの福音書9章35-41節 大頭眞一牧師 2023/03/12


明野・信愛それぞれで仲間が召されました。彼らも主イエスによって目が見えるようにされた人びと。彼らが開いた目で見たお方について、今日も聴きます。

【見つけ出すイエス】

主イエスはだれかをめぐる二つの意見。第一は、安息日遵守(じゅんしゅ)を破る主イエスは神から来たのではないとするパリサイ人たち。第二は、主イエスこそ神からのお方であると言う目が癒された人。この対立によって、癒された人は外に追い出されました。会堂の外へ、つまりユダヤ人の共同体から追い出され、村八分にされてしまったのです。

けれども「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。」(35a)とあります。ここでも主語は神さまです。神である主イエスが、村八分にされて途方にくれるこの人を捜し出してくださったのです。主イエスは私たちも見つけ出してくださいます。私たちがどこにも身の置き場がないように感じるときも、いえ、もう自分自身に信仰があるのかないのかわからなくなってしまうときも、主イエスが私たちを捜し出し、見つけ出してくださいます。その動機はもちろん愛。主イエスは私たちを決して、手放すことをされないのです。

【会ってくださる主イエス】

主イエスがこの人を見つけたとき、この人は主イエスが分かりませんでした。最初に主イエスに会ったとき、主イエスはまだ目が見えないこの人の目に泥を塗りました。その泥をシロアムの池で洗ってはじめて、この人の目は見えるようになりました。

ですからこの人は、見えるようになった目で、まだ主イエスを見ていませんでした。このままだったら、この人は一生、「自分の目に泥を塗って目を直した恩人がいる。だれかわからないけれど」と思いながら生きたことでしょう。

けれども主イエスはそれでは満足なさいません。主イエスはこの人を愛し、この人と交わり、この人と共に生きたいと願われました。だからご自分からこの人を見つけ出しました。主イエスの願いは私たちに対しても同じです。私たちがただ主イエスをなんとなく主イエスを信じているというだけではご満足なさいません。私たちを愛し、私たちと交わり、私たちと共に生きたいと願っておられるのです。

こう言うと、私たちは「ではそのために何をしなければなりませんか?お祈りですか?聖書を読むことですか?」と訊きたくなります。でも私は申し上げたいのです。礼拝は「家に帰ってから、もっと祈りなさい。もっと聖書を読みなさい」と毎回責められる時間ではありません。前にも申し上げました。神は人の手で作った建物には住みません。私たちが献げた時間という宮に住みます。礼拝がそうです。今、この瞬間、この礼拝の中で、主イエスは私たちを見つけ出してくださっています。この「今」に集中してください。この「今」を喜んでください。たとえ先週、聖書や祈りを怠ったとしもかまいません。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださいましたから。たとえ今週、聖書や祈りを怠ることになったとしても心配しないでください。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださっているのですから。

【願いを与える主イエス】

主イエスはこの人を見つけ出すと「あなたは人の子を信じますか。」(35b)と言われました。この人は生まれて初めて目が見えるようになった。さまざまな情報が洪水のように飛び込んできたでしょう。そんなあわただしい中です。自分の目を見えるようにしてくださったのはだれか、この問いはそのままになっていました。ほんとうはこの問いこそすべてに先立つ問いです。神から来たお方に会い、その方とともに歩む。「人の子」とは、まさにそのような救い主を指す言葉です。私たちも、日常の生活の中で主イエスをふとなおざりにしてしまうこともあるでしょう。この人は私たち自身のことでもあります。主イエスはこの人に、そして私たちに「あなたは人の子を信じますか。」と語りかけます。そして私たちに救い主主イエスに会いたい、共に歩きたいという願いを与えるのです。

そこへ主イエスの声が響きました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37)と。主イエスは「わたしが救い主だ。わたしはあなたに会いたい、あなたと見つめ合いたいと願って、だからやって来たのだ」と。主イエスはときをご存じです。目が見えるようになった人が興奮の時期を過ぎ、会堂からも追い払われて、主イエスと見つめ合うことができる時期をとらえたのでしょう。そして、この人に主イエスを愛したいという願いをあたえてくださいました。さきほど、今、この礼拝を喜ぶようにと語りました。そう言われても、ほんとうにただ喜んでいていいのか、と思う方もおられるでしょう。それで成長することができるのか、と。だいじょうぶです。主イエスは私たちをご存じです。私たちの成長を、ほかの人と同じではなく、オーダーメイドで計画してくださっています。安心して喜んでいればいいのです。

【そしてすべての人を】

ここにはまた主イエスに言い逆らう人びとの姿もあります。「私たちも盲目なのですか。」(40)と言うパリサイ人たちです。主イエスの「しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(41)は一見、突き放した言葉のように聞こえます。けれども、私たちは知っています。主イエスはこの人びとも愛のまなざしで見つめておられることを。彼らをあわれんで深く痛んでおられることを。ひとりも滅びることがないようにと。このまなざしの中で、いま、聖餐に与ります。


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2023/03/05

礼拝メッセージ「神からの神」ヨハネの福音書9章13-34節 大頭眞一牧師 2023/03/05


受難節の二週目です。主イエスに見つめられている私たちが、主イエスを見つめる、そんな歩みを今週も続けてまいりましょう。

【イエスとはだれか】

主イエスは生まれつき目の見えなかった人をあわれまれました。だから立ちどまって、彼をじっと見つめ、そして、いやしました。ところが「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」(14)だったことから、主イエスについて二つの異なる意見が出てきました。

第一の意見は「十誡には、安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてある。それなのに安息日に人をいやした主イエスは、神さまの命令に逆らう者である」だから「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」(16a)というものです。

第二の意見は、このいやされた人の意見。彼は「あの方は預言者です」(17c)と考えたのでした。「預言者」とは、神のみことばを授けられ、それを人びとに伝えるために神によって遣わされた人。つまり神のもとから来た人です。このいやされた人は、「イエスは神のもとから来たお方だ」と語ったのでした。

【神の心、神の体温】

第一の意見は、パッと見にはまともなように思えます。たしかに聖書には「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と書いてあるからです。けれども私たちはウナギが大好きでしょう。先週出たばかりの私の説教集『神さまの宝もの』の帯にはこうあります。「禁忌があるのは人を縛るためじゃない。新しいいのちに向かって解き放つため。フクロウは食べないけれど、ウナ丼は大好き。イワダヌキに縁はないが、豚肩ロースは食べちゃだめですか?ツッコミどころ満載の食物規定の箇所を、現代の聖書料理人を自認するパスター・オオズ、さぁ、どう料理する!?」と。これは出版社がつけた帯ですが、ウナギを食べないことが大事なことではないのです。そうではなくて、律法は私たちをいのちに向かって解き放つためにある、そこに神さまの心がある。そのことが大切なのです。自分の本ばかりで恐縮ですが、『聖化の再発見』には、「律法は代表例」だとあります。律法の一つ一つをどれだけ厳密に守るか、が重要なのではありません。私たちが神さまの心を知って、その心を生きているか、がたいせつなのです。

安息日のいやしは、表面的には律法を破っているように見えても、実際は神さまの心そのものです。まさに主イエスは神さまから遣わされ、神さまの心を生きたお方なのです。

【神からの神】

私は神学校で教会史を教えています。年間14回の授業を行いますが、その始めの3回はニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)の成立に力を入れて語ります。なぜならこの信条にキリスト教の核心があるからです。いつの時代もキリスト教の異端は「イエスはだれか」をめぐって起こります。「イエスだれか」をそれ以上ない明確さをもって表現したのがこの信条なのです。全文を掲げます。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条

わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みますアーメン

「主は神よりの神」とあります。主イエスは神なのです。この目をいやされた人は主イエスを「預言者」だと言いました。神から遣わされたお方だと。けれどもこれを突き詰めて、「主イエスは神だ」と宣言したのがこの信条。だからとても大切にされているのです。多くの教会が礼拝の中でこの信条を告白する理由はそこにあります

【十字架に架けられた神】

「主イエスとはだれか」という問いの答は、「主イエスは神」。そう告白するとき、私たちは、もうひとつのとんでもない告白を迫られることになります。すなわち「十字架に架けられたのはだれか」という問いに対して「十字架に架けられたのは神である主イエスだ」と答えることになるからです。これは、私たちから一切の言葉を奪うような事実です。私のために、私をいのちに解き放つために、神が十字架に架けられた、と言うのですから。

この大きすぎる神さまの心を、私たちは無理に説明する必要はありません。言葉もなく、差し出されているいのちを受け取るだけでよいのです。それが神さまの心だからです。いま、言葉もなく、聖餐に与ります。主イエスの流された血、砕かれたお体に。


          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)