2023/03/12

礼拝メッセージ「見よ、と言う神」ヨハネの福音書9章35-41節 大頭眞一牧師 2023/03/12


明野・信愛それぞれで仲間が召されました。彼らも主イエスによって目が見えるようにされた人びと。彼らが開いた目で見たお方について、今日も聴きます。

【見つけ出すイエス】

主イエスはだれかをめぐる二つの意見。第一は、安息日遵守(じゅんしゅ)を破る主イエスは神から来たのではないとするパリサイ人たち。第二は、主イエスこそ神からのお方であると言う目が癒された人。この対立によって、癒された人は外に追い出されました。会堂の外へ、つまりユダヤ人の共同体から追い出され、村八分にされてしまったのです。

けれども「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。」(35a)とあります。ここでも主語は神さまです。神である主イエスが、村八分にされて途方にくれるこの人を捜し出してくださったのです。主イエスは私たちも見つけ出してくださいます。私たちがどこにも身の置き場がないように感じるときも、いえ、もう自分自身に信仰があるのかないのかわからなくなってしまうときも、主イエスが私たちを捜し出し、見つけ出してくださいます。その動機はもちろん愛。主イエスは私たちを決して、手放すことをされないのです。

【会ってくださる主イエス】

主イエスがこの人を見つけたとき、この人は主イエスが分かりませんでした。最初に主イエスに会ったとき、主イエスはまだ目が見えないこの人の目に泥を塗りました。その泥をシロアムの池で洗ってはじめて、この人の目は見えるようになりました。

ですからこの人は、見えるようになった目で、まだ主イエスを見ていませんでした。このままだったら、この人は一生、「自分の目に泥を塗って目を直した恩人がいる。だれかわからないけれど」と思いながら生きたことでしょう。

けれども主イエスはそれでは満足なさいません。主イエスはこの人を愛し、この人と交わり、この人と共に生きたいと願われました。だからご自分からこの人を見つけ出しました。主イエスの願いは私たちに対しても同じです。私たちがただ主イエスをなんとなく主イエスを信じているというだけではご満足なさいません。私たちを愛し、私たちと交わり、私たちと共に生きたいと願っておられるのです。

こう言うと、私たちは「ではそのために何をしなければなりませんか?お祈りですか?聖書を読むことですか?」と訊きたくなります。でも私は申し上げたいのです。礼拝は「家に帰ってから、もっと祈りなさい。もっと聖書を読みなさい」と毎回責められる時間ではありません。前にも申し上げました。神は人の手で作った建物には住みません。私たちが献げた時間という宮に住みます。礼拝がそうです。今、この瞬間、この礼拝の中で、主イエスは私たちを見つけ出してくださっています。この「今」に集中してください。この「今」を喜んでください。たとえ先週、聖書や祈りを怠ったとしもかまいません。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださいましたから。たとえ今週、聖書や祈りを怠ることになったとしても心配しないでください。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださっているのですから。

【願いを与える主イエス】

主イエスはこの人を見つけ出すと「あなたは人の子を信じますか。」(35b)と言われました。この人は生まれて初めて目が見えるようになった。さまざまな情報が洪水のように飛び込んできたでしょう。そんなあわただしい中です。自分の目を見えるようにしてくださったのはだれか、この問いはそのままになっていました。ほんとうはこの問いこそすべてに先立つ問いです。神から来たお方に会い、その方とともに歩む。「人の子」とは、まさにそのような救い主を指す言葉です。私たちも、日常の生活の中で主イエスをふとなおざりにしてしまうこともあるでしょう。この人は私たち自身のことでもあります。主イエスはこの人に、そして私たちに「あなたは人の子を信じますか。」と語りかけます。そして私たちに救い主主イエスに会いたい、共に歩きたいという願いを与えるのです。

そこへ主イエスの声が響きました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37)と。主イエスは「わたしが救い主だ。わたしはあなたに会いたい、あなたと見つめ合いたいと願って、だからやって来たのだ」と。主イエスはときをご存じです。目が見えるようになった人が興奮の時期を過ぎ、会堂からも追い払われて、主イエスと見つめ合うことができる時期をとらえたのでしょう。そして、この人に主イエスを愛したいという願いをあたえてくださいました。さきほど、今、この礼拝を喜ぶようにと語りました。そう言われても、ほんとうにただ喜んでいていいのか、と思う方もおられるでしょう。それで成長することができるのか、と。だいじょうぶです。主イエスは私たちをご存じです。私たちの成長を、ほかの人と同じではなく、オーダーメイドで計画してくださっています。安心して喜んでいればいいのです。

【そしてすべての人を】

ここにはまた主イエスに言い逆らう人びとの姿もあります。「私たちも盲目なのですか。」(40)と言うパリサイ人たちです。主イエスの「しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(41)は一見、突き放した言葉のように聞こえます。けれども、私たちは知っています。主イエスはこの人びとも愛のまなざしで見つめておられることを。彼らをあわれんで深く痛んでおられることを。ひとりも滅びることがないようにと。このまなざしの中で、いま、聖餐に与ります。


          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


 礼拝プログラム

■教会学校(9:30-10:15)

  • 「洗足の恵み」ヨハネの福音書13:1~15


■主日礼拝(10:30-11:45)

  • 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
  • 招詞:イザヤ書53章6-7節
  • 賛美:165
  • 交読文:50 イザヤ53章(新聖歌 P.867)
  • 牧会祈祷:大頭眞一牧師
  • 主の祈り:新聖歌 P.826
  • 賛美:105①②④
  • 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
  • 聖書:ヨハネの福音書9章35-41節(新約P.201)
  • 説教:「見よ、と言う神」大頭眞一牧師 ※明野より
  • 賛美・献金:102①②③
  • 聖餐:(心を合わせて加わりましょう)
  • 感謝祈祷:(明野)
  • 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63)
  • 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
  • 祝祷:大頭眞一牧師
  • カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者
  • 祈祷:司会者