2023/08/28

2023/08/21

礼拝メッセージ「愛をあたえる神」ヨハネの福音書14章15-24節 大頭眞一牧師 2023/08/20


今日、大頭牧師は鈴鹿教会で、ご用。いつもは合同礼拝をささげている信愛と明野ですが、今日はそれぞれが動画を用いての礼拝です。今後もさまざまな状況に対応できるように備えを、という意味もあります。ご担当の方がたのご労に感謝します。

【孤児にしない主】

十字架前後の最後の晩餐。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)とあります。最後まで弟子たちを、すなわち、教会を愛されたイエスは、十字架と復活を超えて愛し続けられます。ですから、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(18)と力強く宣言してくださったのです。主イエスがおられなければ、私たちは親のない孤児。思えば、私たちはときに、まるで神さまに見捨てられたかのように錯覚して失望することがあります。けれども、主イエスが孤児にはしない!とおっしゃったのだから、それは錯覚です。どうかたがいに錯覚から目を覚まさせあうことができるように、と願います。

使徒信条には「…天に昇り…父の右に座したまえり」とあるから、戻って来てないのでは?と思うかもしれません。もちろん主の約束にいつわりはありません。三位一体の父・子・聖霊の神は私たちと共におられます。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。(20)にあるように、三位一体の神の交わりのうちに私たちも招き入れられているのです。すでに、もう、今から。

【助け主である聖霊】

三位一体の神のうちでも、特に前面に出て私たちと関わってくださるのが聖霊なる神です。ペンテコステに降った聖霊は、教会の助け主です。教会、すなわち私たちが、神を愛し、たがいを愛し、世界を愛する助け手となってくださるのです。聖書を開くとき、祈るとき、礼拝をささげるとき、仲間と語り合うとき、聖霊が助けてくださいます。神のかたちに私たちをじっくりと成長させ、神のいのちに生きることを助けてくださるのです。

【弁護者である聖霊】

「助け主」という言葉には「弁護者」という意味もあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:1-2)。私たちが罪を犯すとき悪魔は私たちを訴え、責め、そこから立ち上がれないようにさせます。けれども、聖霊は私たちに思い出させます。私たちのために、世界の罪のために十字架に架かってくださった主イエスを。そしてキリストのいのちを生きよ、と語ってくださるのです。

【慰め主である聖霊】

「助け主」という言葉には、また、「慰め主」という意味もあります。パウロは「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)と記しています。ここには神さまの特徴的な、なさり方があります。神が私たちを慰めてくださるとき、私たちは神に似た者へと変えられていきます。今度は私たちが、慰める者となっていくのです。同じように、助け主である聖霊は私たちを助け合う者にします。弁護者である聖霊は、私たちを主イエスのあがないを指し示す者にします。私たち教会を。

【つまるところ愛】

主イエスは「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(23)と締めくくられました。主イエスを愛し、主イエスのことばを守ることが条件だと思ってはなりません。私たちが神を愛するなら、その愛は神が与えたものです。神とともに生きる私たちは、日々深まりゆく神との関係のうちに、ますます愛することに熟練していきます。さらに深く神のうちに住み、神もまた私たちのうちに住んでくださるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/08/13

礼拝メッセージ「うちにいる神」ヨハネの福音書14章12-21節 大頭眞一牧師 2023/08/13


新約聖書の至聖所である13章-17章。その中でもさらに至聖の箇所が今日の箇所。吐露される神のお心に聴き入りましょう。

【さらに大きなわざ】

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(12)は、私たちを驚かせます。この個所にかぎりません。いつも主イエスの言葉は私たちを驚かせ続けます。どんなに私たちが主イエスを知っても、主イエスはさらに大きいのです。それにしても私たちが主イエスよりも大きなわざを行うとは!「私たち」は教会。教会はこの世界でキリストのいのちを生きていきます。神との関係が破れ、人との関係が破れ、被造物との関係が破れた世界で。キリストのいのちによって、愛を回復され、世界の破れを回復させながら。もちろん、それもキリストが教会を通して行うわざです。けれども、主イエスはそれを私たちのわざと呼んでくださいます。主イエスと共に働く私たちを励ましてくださるのです。

【聖霊が降り積もり】

「わたしが父のもとに行くからです。」(12c)とあります。すると「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」(13)と。私たちが主イエスの名によって求めることとは何でしょうか。もちろんそれは神さまをランプの精のように使うことではないではありません。神さまと共に世界の破れをつくろうこと、それが私たちの求め。主イエスはその求めをかなえてくださる。私たちと共に。私たちを用いて。そのために「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16)と。

去年のクリスマスにごいっしょに歌ったワーシップは「HOPE(希望)」。あの歌に「私たちの上に聖霊が降り積もり」というサビがあります。この表現は聞きなれないうちは、不思議に思えていました。けれども何度も聞くうちに、深くうなずきました。聖霊は私たちのうちにおられます。けれども、私たちが聖霊に心を開いて、自分をゆだねるほどに、神さまのお心がわかります。神さまの愛が満ちてきます。雪がだんだん降り積もるように、聖霊がだんだん私たちをご自分のものにしてゆかれます。だんだん私たちのものとなってくださいます。十字架にご自分を与えた主イエスの思いを、私たちの思いとしてくださるのです。

【孤児とはしない神】

主イエスの愛はさらに激しく注がれます。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」(18-19)。私たちのために十字架でいのちを捨てる主の愛は、そこで終わりません。終わるのにはあまりに私たちを愛しているから。死んでも復活し、昇天しても聖霊において私たちのところに帰ってこないではいられない愛です。

【私たちのうちにいる神】

「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(17b)と「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(20)は、まさに至聖所の中の至聖所。三位一体の神と私たちが、たがいがたがいの内にいるように、交差するように、ダンスを踊るように、愛し合っているのです。ここに主イエスが人となられた受肉の目的が、十字架と復活と昇天、そしてペンテコステの目的が、ありました。あまりのことに、私たちにはとらえきれず、表現しきれないのですが、そんなありえないことを、三位一体の神は望み、実現してくださったのでした。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(21)を聴くとき、私たちのいのちは高鳴ります。三位一体の神に抱きしめられて、私たちも神を愛します。仲間を、世界を愛します。すでに今愛しています。こんなにも。高鳴るいのちを寄せ合って、聖餐にあずかります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/08/06

礼拝メッセージ「教会をたてる神」ヨハネの福音書14章1-11節 大頭眞一牧師 2023/08/06


今日も先週と同じ箇所。主イエスのあふれる愛をもう一度心に刻んでいただきましょう。

【信じなさい】

「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1b)が胸に響きます。ただ神の存在を、主イエスの存在を信じなさい、というのではありません。「断腸の思いで、子を十字架に渡す父のあなたがたへの愛を信じなさい。父との断絶を覚悟して十字架に向かう、わたしのあなたがたへの愛を信じなさい。受け取りなさい。その愛に浸り、その愛に身を投じなさい。自分という土台から離れて、わたしに自分を投げ込みなさい」とイエスはおっしゃるのです。

「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)もまた、神の心を語ります。三位一体といいますが、何よりも父と子がひとつなのは、その心において。私たちを愛し、私たちを惜しんで、私たちのためには何も惜しむことをしない、その心において一つなのです。私たちはそんな父と子を信じます。そんな父と子に自分をゆだねます。聖霊によって。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、」(9b)はピリポを責める言葉ではないでしょう。この後、この言葉をピリポは忘れなかったでしょう。この言葉によって、ピリポは主イエスと過ごした日々を何度も思い起こしたでしょう。そして主イエスの地上のご生涯でのすべての言葉とわざが、愛の注ぎであったことを、父と子が心ひとつに注いでくださった愛であることを、喜んだにちがいありません。ヨハネが、主イエスのピリポへの言葉をここに残したにのもそのためです。「こんなに長い間」、こんなに多く、深く、広い愛が、繰り返しピリポに、私たちに注がれてきたことを思い起こさせるためなのです。

【三位一体の、すなわち愛の神】

「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)を図解しようとする人は必ず失敗します。父と子のどちらが内でそちらが外といった位置関係を語っているのではないからです。ここで語られているのは、相互に愛し合う父と子の愛です。神を知るためには、幾何学的な図解ではなく、動的なイメージのほうに分があります。神は方程式ではなく、生きておられる方だからです。いつものイメージをもう一度掲げます。


神は愛です。それは、例えば「神は大きい」というのとは、まったくちがいます。ひとりでは愛することも愛されることもできないから。三位一体の神はたがいに愛し合う神。心をひとつに愛のダンスを踊るように。子が父のうちにいるように、同時に父が子のうちにいるように、たがいに交わりながら愛し合うのです。

【その朝まで】

「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、再臨の約束。では、そのときまで、私たちはどのように生きるのでしょうか。

  1. それは悩みのない生活ではありません。悩みがないふりをして生きるのでもありません。
  2. それは悩みに押しつぶされる生活ではありません。
  3. それは悩みの中で、三位一体の神と共に愛のダンスを踊る生活。悩むこの世に、神の愛を、神との愛を注ぎだす生活です。

【教会をたてる神】

このようなことを申し上げると、「そんなの無理です。私のような信仰のない、力もない者には」という声が聞こえてきます。もちろん、神さまはあなたに世界を救うヒーローになれとは言いません。この世の悩みの中で、この世に愛を注ぐのは、あなたではなく教会です。

さきほどは、愛し合う三位一体の姿のイメージ図を見ました。よくできたイメージ図ですけれども、やっぱり絵にすぎません。動かない絵です。生きている神の生きている姿は教会です。神はご自身の愛の目に見える姿を見せるために教会をたてました。私たちは「とんでもないです。神のかたちなんて。あまりにも力なく醜い私たちの教会が…」と言うでしょう。けれども父と子がすべてを与えてたててくださった教会です。力なく醜い私たちが、やっとの思いでゆるしあい、ぎくしゃくしながら受け入れ合い、失望しても何度でも立ち上がるその姿を、神はよしとしてくださるのです。ご自分のイメージとしてくださり、この世界の回復のモデルとしてくださっているのです。この私たちを!聖餐に移ります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)