2025/02/03

主日礼拝メッセージ「『はい』と言わせる主」マタイの福音書5章33-37節 大頭眞一牧師 2025/02/02


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【誓うな】

イエスはここでも律法学者やパリサイ人たちの生き方とイエスと共に生きる新しい生き方を対比します。「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」(33)が律法学者たち。神に誓いを立てたら必ず実行せよと教えていました。これは十誡の第三誡「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」から出ています。「神に誓って返すからお金を貸して」といったように、神の名を利用して自分の利益を図ることはいつの時代もあること。十誡はそんな生き方を戒め、神と人を愛する生き方を指し示しています。

ところが律法の意図に反してイエスの時代の人びとは、神の名を用いない抜け道を用いていました。「天にかけて」(34c)「地にかけて」(35a)「エルサレムにかけて」(35c)「自分の頭にかけて」(36a)と。ですからイエスはこれらいっさいにノーと言いました。何に誓おうと、あるいは誓わなくても、私たちの言葉はすべて、神の前で発せられています。神が聴いておられるのです。私たちの言葉が愛に満ちた真実な言葉であることを願いながら。ですからコトはもはや「神に誓った」か「神以外のものに誓ったか」ではありません。なにかに誓って自分の利益を図ろうとする生き方が問われているのです。

【解き放つ主】

だからと言って、イエスは私たちに「言葉に気をつけなさい。うっかりしたことを言わないように、なるべく口数を少なくしなさい」と言っているのではありません。主イエスは「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」(36b)と言います。つまり神は私たちの髪の毛一本さえも心にとめていてくださる。愛をもって。だから私たちの言葉の一つひとつが神と人を愛する言葉であるように、手に汗を握るようにして、期待し、聴いてくださっています。

「でも」と私たちは、ここでもたじろぎます。私の言葉にはたびたび愛が欠けている。しばしば怒りやねたみが含まれていて、聞く人に痛みや傷を与えてしまう。神が望まれるようには語っていない、生きていない、と。だから神が私の言葉を聴いておられることに恐れを感じると。

そのとき忘れてはならないことがあります。それはまさに、だからこそ主イエスは十字架に架かり復活してくださったこと。私たちから愛を奪う、心に受けた傷や痛みがあります。だから、だれかの言葉や態度が私たちを苦しめるとき、私たちの言葉は自分を守ろうとする言葉となって愛を失います。けれども主イエスは十字架でそんな傷や痛みをすべて、担(にな)ってくださいました。私たちを愛に欠けた生き方に引きずり込もうとする悪の力を十字架で滅ぼしてしまいました。たびたびの引用で恐縮ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあります。もう私たちは解き放たれているのです。愛に向かって。そしてますます解き放たれていくのです。主イエスが注ぐ復活のいのちによって。

【それでは、誓約は?】

ここまでで、ひょっとしたら「あれ?」と思われた方がおられるかもしれません。教会ではさまざまな誓約が行われます。牧師の任命、役員やCS教師の任命などのときには、任命される人が誓約します。役員の任命の場合には教会員も誓約します。私たちが神の愛に応えて、仲間とともに神に仕えていくという約束です。すると、「それはイエスが『誓ってはならない』と言ったのに反しないか?」と思ってしまいますね。

けれども教会の誓約は、固く約束したからがんばって守る、というものではありません。そんながんばりが効果をもたらさないことはお互いよく知っている通りです。教会の誓約は、私たちの生き方をイエスの手の中に置くことです。イエスの手の中で、私たちがなお解き放たれ、愛に満たされ、そこからあふれ出す愛の言葉を語るようになることの確認なのです。


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2025/01/27

主日礼拝メッセージ「結ぶ主」マタイの福音書5章27-32節 大頭眞一牧師 2025/01/26


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【情欲を抱いて女を見る】

「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(28)は、このみ言葉を真剣に読んだ、特に若い男性たちを悩ませてきた箇所です。としごろになって女性に対してそういう思いを抱かない男性は少ないからです。しかも続く「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。」(29-30)を、情欲を抱いて見る目、情欲を解放する手と解釈して、絶望的な思いに駆られる人びとは絶えませんでした。

けれども、主イエスはほんとうにそんなことをお望みなのでしょうか。異性を見ても心を動かされない、そんな境地に達するように、と命じているのでしょうか。そうだとするなら、それは「姦淫を犯さないために、情欲を抱いて女を見ない」という安全柵をはりめぐらすことになってしまいます。それこそが、まさにイエスが律法学者やパリサイ人たち決定的にちがうところだったはずなのに。

【イエスの願い】

そもそも、聖書には男女の性的関係を汚れたことや罪とみなす考え方はありません。また今回の発端となった「姦淫してはならない」という第七戒の「姦淫」は、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことです。つまり、ここで主イエスが語っておられるのは、「性的な欲望を持つことは罪だ」ではありません。イエスの願いは「自分の夫婦の関係をたいせつにしなさい。他の人の夫婦の関係もたいせつにしなさい」なのです。実際に他の聖書には「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」を「情欲を抱いて他人の妻を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」と訳しているものもあり、こちらの方がイエスの願いをよく表していると思います。

ですからイエスの願いは、ただ姦淫さえしなければよい、というのではありません。イエスの願いは、結婚が、夫婦の関係が、ほんとうにきよい、よいものであること。たがいに心から、たいせつにし合う、その結婚を通して世界に愛が回復されていくことです。私たちはみんな、これまで生きてきた中で傷ついています。その傷を打ち明け合い、共感し合い、神さまに差し出すことを励まし合う、そんな結婚、そんな夫婦であったなら、と思わされます。そのような癒しは、その夫婦だけにとどまらないでしょう。癒された夫婦を通して、世界へと及んでいきます。

【イエスの恵みの中で】

「目をえぐり出して捨てよ、手を切って捨てよ」もまた、私たちを脅かす言葉ではありません。イエスはたがいの関係を「姦淫」によって損なうことがないように、とおっしゃっているのです。「あなたにとって、パートナーはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。ふたりの関係を脅かす姦淫への誘惑よりも。わたしがあなたがたを抱きしめ、わたしの胸の中でそうさせてあげよう」と。

でも、私たちはそんなことを全うできるだろうか、と、たじろぎます。そこで思い出すべきことがあります。それは、いつも愛が欠けてしまう私たち。そんな私たちだからこそ、主イエスが十字架に架かってくださったこと。私たちの傷を、私たちの傷ついた関係は、主イエスの恵みの中に置かれています。だから、主イエスは私たちを赦し、愛を注ぎ、何度でも何度でも何度でも、やり直させてくださるのです。昨日よりは今日、今日よりは明日、愛することに解き放たれて。

【すべての関係が】

私たちのうちには独身の人もいます。結婚していたのだけれども、生別や死別を経験した人もいます。それらの方がたも、主イエスは招いています。「あなたにとって、あなたの周りの人びとはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。」と。その招きに応じるときに、この世界に愛が回復していきます。少しずつゆっくりと。目には見えなくても確実に。


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2025/01/14

主日礼拝メッセージ「和解の主」マタイの福音書5章21-26節 大頭眞一牧師 2025/01/12


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。先週は、私たちには律法学者やパリサイ人たちにまさる義が与えられていると語りました。それはイエス・キリストが与える義。律法学者たちは、いたずらに神を恐れ、その怒りをかうことがないようにと、律法のまわりに何重にも安全柵を張り巡らし、自らもその中に閉じ込められていました。けれどもイエス・キリストは十字架の上で、私たちの過去・現在・未来の救いをなしとげてくださいました。私たちを神と人を愛する自由へと解き放ってくださったのでした。今日の箇所以降で、主イエスは、その自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを語ってくださいました。聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【殺してはならない】

律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれどもこの律法があっても殺人はなくなりませんでした。今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していないのです。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。

けれども主イエスは、律法学者やパリサイ人たちとはちがって、律法のまわりに安全柵を張り巡らすことはしません。外から私たちを規制するのではなく、私たちの内側から心を変えてくださったのです。神であるのに十字架に架けられて。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあるとおり、罪と死の力を滅ぼして、私たちを解き放ってくださいました。だから私たちは愛することができます。

【和解の主】

主イエスは、神の心を知らない律法学者やパリサイ人たちに心を痛めました。だから私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださいました。ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主。

「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。

主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。

【復活の主】

私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけないような、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。思い出すのはカイン。アベルを妬んだカインに神さまは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7c)と語りかけます。カインは罪を治めることができませんでした。けれども、私たちはカインとはちがいます。なぜなら罪の力である悪魔は滅ぼされたからです。そして私たちには、主イエスのいのちが注がれているからです。愛するいのちが。神であるから復活したことによって。

どうか、私たちには神の心、神の願い、自分に痛みを与える者との和解を願う心が、すでに与えられていることを忘れないでください。そしてさらに、その和解を実現することのできるいのちが始まっていることも。

私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。



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2025/01/07

主日礼拝メッセージ「律法を成就する主」マタイの福音書5章17-20節 大頭眞一牧師 2025/01/05


明けましておめでとうございます。今年も、マタイ5章から7章の山上の説教から、続いて聴きます。

【一つでも破り?】

年末感謝礼拝で、「あなたがたは世の光です。」という主イエスの宣言を聴きました。何人かの方がたから「励まされた。うれしくなった」という声がありました。足りない私たちだけれども、すでに世の光とされていて、ますます主イエスが輝きを増してくださる、というのですから躍り上がりたいような喜びです。

ところがそんな方がたが、今日の箇所を読んでがっかりなさらないか、少し心配です。ここには「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(19a)とか「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)といった、とてつもなく高い基準が要求されているように見えるからです。

【律法学者たちの義】

けれども、もちろん、主イエスは私たちを追い詰めるお方ではありません。律法学者やパリサイ人の義とありますが、彼らは主イエスからしばしば誤りを指摘されていたことを忘れてはなりません。

いつも申し上げることですが、「まず出エジプト、そしてシナイ山」。つまり、神さまは律法を守ったからイスラエルを救ったのではありません。なにもわからない、おそらくはエジプトで偶像礼拝にどっぷり浸かっていたイスラエル。神さまは、ただあわれに思って彼らを救い出されました。それが出エジプト。その後で、彼らをシナイ山に導き、神と共に歩く歩き方を教えました。それが律法です。それは神さまが、アブラハムとその子孫を通して、世界のすべての人びとを祝福するため。世界の破れを回復するパートナーとして、イスラエルを育てるためでした。

けれども、バビロン捕囚とそれに続く諸外国の支配の中で、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教指導者たちは、律法を誤解するようになってしまいました。彼らは、律法を破れば、神さまの怒りをかう。すると他国の圧政という罰が続く、と考えたのです。麦畑事件というのがあります。安息日に空腹だったイエスの弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもみながら食べました。するとパリサイ人たちが「麦をもむのは脱穀という労働だから、安息日には禁じられている」と咎めたのです。イエスは「人の子は安息日の主です。」(ルカ6:5)と言います。世界の回復のために、イエスと働く弟子たちは、まさに律法の真髄を行っているのです。それを咎めるのは、神さまの心がまったく分からなくなってしまっているから。律法学者やパリサイ人たちには、神がどれほど世界の破れを痛み、その回復を願っておられるかがわかりません。まるで、神さまをほんの少しの規則からの逸脱もゆるさない、ただ厳格なお方だと思っていたのです。そして実際の律法よりも、さらに厳格な安全柵をめぐらすようにして、その中に自分たちを閉じ込めたのです。

【主イエスのまされる義】

けれども主イエスは私たちの心を、神さまを愛することに解き放ち、まわりの人びとを愛することに解き放ちます。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)は、決してさらに厳格な安全柵を意味するのではありません。イエス・キリストの義のことです。主イエスは、私たちの救い主。大みそかの「今朝の黙想」では、「イエスは私たちの過去・現在・未来の救い主」と発信しました。人となり、十字架に架けられ、復活した神である主イエスの義は、恐れによって神の怒りを免れようとする律法学者の義にはるかにまさっています。主イエスは私たちに新しいいのちを注ぎ、あふれ出すまで愛を注いでくださるからです。

ある方が、「メッセージで、『傷つけられても、傷つけた側の心の破れを繕う私たち』と聞きました。でも私にはそんな大きな心がないです」と思いを打ち明けてくださいました。それは私も同じです。けれども、それでも、主イエスのまされる義は私たちに与えられています。受けた傷が深いときには、相手の破れを繕うどころか、相手の顔を見るのもいやなものです。けれども、そのことを悲しみ、それでも相手の破れを繕うことができたらよいのに、と願うあなたは確かに、律法学者やパリサイ人の義にまされる義に生きています。世の光なのです。主イエスは、そんな私たちをなおなお癒してくださいます。今、この礼拝の中で、またこの年を通じて。私たちの小さな光を喜び、たいせつに時間をかけて、じっくりと育ててくださいます。



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2024/12/30

主日礼拝メッセージ「光とする主」マタイの福音書5章13-16節 大頭眞一牧師 2024/12/29


今年も最後の主日となりました。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福に続く箇所から、今日も主イエスの恵みを聴き取ります。

【うなだれる私たち】

「地の塩」「世の光」と呼ばれている私たち。「塩」がなければ生きることができません。また塩は食べ物が腐るのを防ぎます。だから「地の塩」とは、この世に必要不可欠で社会を腐敗や堕落から守る存在。「世の光」はこの世を明るくする存在。私たちは自分がそうだとは言えないで尻込みしてしまいます。

そこには私たちの誤った思い込みがあります。自分がこの世の腐敗を防いだり、明るくしたり出来ているだろうか。それが出来ていれば、胸を張って私は「地の塩」「世の光」だと言えるのだが、と。例えば、私たちの伝道が実を結んで多くの人びとが礼拝に集ってくるとか、あるいは、私たちによって社会の不正が目に見えて取り除かれていく、そういったことが出来れば、とあこがれ、そうでない自分を見てうつむくのです。

【イエスの宣言】

けれども、イエスの「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」は、明らかに宣言です。「あなたがたは、すでに、今、地の塩であり、世の光なのだ」と断言しています。だから私たちはすでに塩っ気や光を与えられています、主イエスはその塩っ気をなくさないように「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と教え、その光を遮られることがないように「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」(15a)と語るのです。すでに主イエスによって塩とされ、光とされている私たちがそのいのちを曇らされることがないようにと励ましておられるのです。

【八つの祝福ふたたび】

今日の塩と光の箇所は、先週までの八つの祝福に続く箇所。ですから「地の塩」「世の光」の生き方は八つの祝福の生き方です。年末の総集編として振り返れば、

  1. 「心の貧しい者は幸い」は、自分の心の中には、より頼むべき豊かさが全くない者が、主イエスに抱きしめられている幸い。その幸いは周囲に及んでいきます。
  2. 「悲しむ者は幸い」は、悲しむ私たちのそばに主イエスがいてくださる幸い。そして、その幸いを伝える幸い。
  3. 「柔和な者は幸い」は、苦しみの中にある者が、いらだたず神に望みを置き、イエスと共に世界の破れを繕う幸い。
  4. 「義に飢え渇く者は幸い」は、不正に苦しむ者たちが、イエスの十字架と復活によって実現した悪の力の滅びという義を受けて、神の正義の実現のために生きる幸い。
  5. 「あわれみ深い者は幸い」は、十字架に現れた神の大きなあわれみを受け、注ぎだす幸い。
  6. 「心のきよい者は幸い」は、自分ではなく主イエスの十字架を見る者の幸い、今、可能な限りの愛で神と人を愛する幸い。
  7. 「平和をつくる者は幸い」は、主イエスが十字架で敵意を滅ぼされたゆえに、自分に敵対する人びとの敵意をも癒す生き方の幸い。
  8. 「義のために迫害されている者は幸い」は、自分を迫害する人びとの破れに主イエスと共に愛を注ぎ、回復をもたらす幸い。

ですから八つの祝福はいずれも、私たちがすでに手にしている幸い。その出どころは主イエスであり、その幸いにあずかる者たちを世界の破れの回復のために送り出します。そんな生き方が「地の塩」「世の光」の生き方です。

【あなたがたの父をあがめるようになるため】

八つの幸いは、私たちの不足に注がれる祝福ですから、私たちの栄光や誉れではありません。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(16)とあります。人びとは、私たちを祝福する神さまをあがめるようになるのです。主イエスと主イエスをお遣わしになった父を喜び、ほめたたえるようになるのです。

そのために「また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」(15)と主イエスは命じます。私たちが「どうか私たちを輝く光、塩っ気のある塩としてくださった主イエスを仰いでください。このお方こそまことの光です。」とすべての人に主イエスを指し示すように、と。



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2024/12/23

クリスマス礼拝メッセージ「御国を与える主」マタイの福音書5章10-12節 大頭眞一牧師 2024/12/22


クリスマスおめでとうございます。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いていますが、今日は最後の第八の祝福、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(10)です。

主イエスの復活そしてペンテコステの聖霊により誕生したキリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされることになりました。初期の教会の指導者のひとりテルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子」と記しています。迫害されてもキリスト教がなくなることはありませんでした。それどころか、ますます教会に連なる人びとが増し加えられていったのです。そしてついに紀元313年、ローマ帝国でキリスト教は公認されました。

けれども日本のような非キリスト教国では長く迫害が続き、今もその影響には根深いものがあります。ですから私たちは「迫害」と聞くと反射的に「殉教」を思い、自分にはとても無理だ、とうなだれることがしばしばです。

ところがそもそも教会は殉教を奨励していたわけではないようなのです。2世紀の殉教者ポリュカルポスによれば、殉教は自ら願ってするものではなく、なるべく避けるべきものだとされています。ですから殉教の焦点は死ぬことではなく、イエスと共に歩くことにあります。その中でさまざまな不利益をこうむることを避けないことがイエスの願い。その結果、時として殉教にいたることがあったとしても、殉教そのものが目的ではないのです。

【わたしのために】

この箇所が殉教の奨励ではない、では主イエスのおこころはなんでしょうか。この八福にはこれまでの七つとはちがうところがあります。それは11節と12節が続いていることです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(11-12)。

わたしのために」とあります。つまり主イエスのおこころは、私たちが主イエスを愛し、主イエスとともに歩くことを励ますことです。殉教したかどうかで私たちをふるいにかけることではありません。それならば!と私たちは言うことができます。「イエスさま、私たちはあなたを愛してあなたと共に歩んでいます。足りないこともしばしばですが、私たちは自分の心をあなたのおこころに重ねています。あなたのために不利益をこうむることがあっても、それでもあなたのために生きたいのです」と。

【喜べ!】

そんな毎日に「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」ことが起こります。「クリスチャンのくせに」と周囲の人から言われることもよくあることです。それでも私たちは、ののしられてもののしり返さず、悪口に悪口をもってすることなく、愛を注ぎます。私たちを迫害する人びとのうちにある破れの回復のために。

ののしられるときに、喜べ!このイエスの言葉は不思議です。けれども理由があります。イエスは迫害されること自体を喜べと言っているのではありません。「天の御国はその人たち(迫害されている者)のものだから」(10b)、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(12c)が理由。どちらも「もうすでに始まっている神の国(神の支配)、イエスが来られたことによって始まっている神の国。あなたがたはそこに入れられている。もう神と共に、イエスと共に、世界の回復のために働いている。その働きを通して世界は回復されている。だから喜べ!」と語るのです。思えば第一の祝福も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)でした。第一福から第八福を貫いているのは「神の国(神の支配)がすでに始まっており、私たちがそこで働いていることの幸い」なのです。

【預言者たち】

「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(12d)とあります。私たちは預言者たちも迫害されたのだから、みんながんばれ、と命じられているように感じるかもしれません。けれども、私たちが見つめるべきは預言者の中の預言者として来られたイエスです。イエスはその迫害の中で、十字架に架けられて罪と死の力を滅ぼし、復活によって私たちに新しいいのち、愛のいのちを注いでくださいました。だから、私たちは迫害の中で愛することができます。主イエスから愛の注ぎを受けて。そのすべては世界で最初にクリスマスに始まりました。メリー・クリスマス。メリー・メリー・クリスマス



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