2024/10/07

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2024/10/06


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」というのは祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったのだから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。

けれどもそこにイエスの御声が響きます。イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


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2024/09/30

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2024/09/29


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。

「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)

これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。

でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


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2024/09/23

礼拝メッセージ「漁師にする主(従わせる主)」マタイの福音書4章18-25節 大頭眞一牧師 2024/09/22


私の説教の説教題は前の月の中ごろに決めます。次月の信愛の月報や明野の礼拝案内に載せるためです。すると実際に説教するときには、 ちがう題のほうがよかったかな、と思うことがあります。今日もほんとうは「従わせる主」がよかったかな、とも思います。その理由は今日の聖書箇所を貫いているの「イエスに従った」だからです。 20 節でペテロとアンデレが、 22 節でヤコブとヨハネが、 25 節で大勢の群衆が「イエスに従った」のでした。

【なぜ?】

これらの人びとはなぜ、イエスに従ったのでしょうか。一見すると、群衆が従った理由はわかりやすく思えます。「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。 」 (24)とあるからです。イエスが人びとを癒したので、人びとはイエスに従ったのだろう、そんな気がするのです。

けれども、弟子たちの場合は、なにかよいことがあったからイエスに従ったわけではありません。ただイエスに招かれ、それだけで従ったように見えるのです。 実はルカの福音書には、ペテロたちが従ったいきさつを異なる描き方をしています。イエスが網が破れそうな大漁の奇蹟を行っているのです。

ルカとちがって、 マタイ が大漁の奇蹟を記さないのには理由があります。それは弟子たちが奇蹟を見たからではなく、 福音を聞いたから従ったことを明らかにするため。今日の箇所の直前の 17 節。「この時からイエスは宣教を開始し、 『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから 』 と言われた。 」とあります。 イエスが、神の国(天の御国)の到来を告げ、主イエスに向き合うように(悔い改め)招いたから、弟子たちは従ったのでした。

実は群衆も同じでした。確かに主イエスは癒しの奇蹟を行ないました。けれども「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。 」 (23)とあります。まず「御国の福音」が宣言されているのです。だから群衆は従ったのでした。私たちの中にも、病やいろいろな困難がきっかけで教会に足を踏み入れた人も多くいるでしょう。そして福音を聞き、新しいいのちを受け取り、主イエスに従いました。もともとの病や困難が解決した場合もあり、そうでない場合もあるでしょう。けれども、 主イエスが福音によって私たちの歩みを変えてくださいました。ご自分に従う者としたのです。 ここでも主語はイエス、その動機は愛です。

【来なさい、わたしの後ろに】

「わたしについて来なさい」 (19)は、もっと原語のニュアンスを出せば「来なさい、わたしの後ろに」となります。長距離走や自転車レースなどでは、先頭を走る人が風除けになります。 先頭はもっともたいへん。私たちはイエスについて行くことは、たいへんだと身構えるのですが、逆です。私たちの先を行くのは十字架と復活のイエス。私たちのために何も惜しまないお方が私たちの風除けとなってくださいます。この破れてしまった世界で、暴風雨の中を、イエスなしに自分の力で歩こうとして疲れ切ってしまった私たちであったことを思います。そんな私たちをイエスは招きます。「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」と。

【すぐに捨てて】

「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。 」(20)とあります。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。 」 (22)とも。 ここを読むと、私たちは「自分はすべてをすぐに捨てているだろうか」と不安になったりします。けれども心配はいりません。イエスは、私たちみんなが仕事をやめて牧師になったり、財産のすべてを献金したりすることを願っておられるのではありません。

主イエスが願っている のは、私たちが主イエスの後を、主イエスの足跡を踏みながら一歩一歩ついて行くこと。そうするうちに、何かを手放さなければこれ以上ついて行くことができない、そういうときがきたら、それを手放せばよいのです。私たちが持っているものはすべてよいものです。神さまがくださったよいもの。それを軽くにぎって、主イエスについていくのです。そうするときに、私たちのまわり の人びと も主イエスを知ることになるのです。


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2024/09/16

礼拝メッセージ「主の祈り⑤悪より救い出したまえ」マルコの福音書3章26-27節 大頭眞一牧師 2024/09/15

天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【悪とは?】


悪は罪とは異なります。罪は、悪によって引き起こされる私たちの反応。悪はそれ自体、現実に存在する強い力、破壊と悪意の力です。そして人間が神ではないものを崇拝するとき、それが破壊と悪意の力に権威を与えることになるのです。サタンはこの悪の力を擬人化したものです。

「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈るのは、悪が神の良き創造世界、特に私たち人間に敵対しているからです。悪は私たちと神のあいだに、私たちおたがいのあいだに、私たちと被造世界とのあいだに破れを造り出し、分断して、切り離そうとします。

けれども主イエスは悪の力に勝利されました。十字架と復活によって。マルコの「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」(3:27)は、まさにそんな主イエスの勝利を語っています。イエスが悪の力(サタン)を縛り上げ、家財やその家(私たち)を悪の力から略奪して解放するのです。したのです。

ですから私たちもその勝利に与ることができます。「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈ることによって、十字架の勝利を自らの内に取り込み、それによって自分自身と世界の中にある破壊の力に対して、さらもう一瞬、さらにもうひととき、さらにもう一日、と対抗することができるのです。

【こころみにあわせず】

「こころみにあわせず」とは試練や誘惑に合わせないでください、ということばかりではないでしょう。なぜなら、このように祈る私たちも、多くの試練や誘惑に直面するからです。(さらに言えば、私たちの知らないところで、どれだけの試練や誘惑から守られたかはわからないのです。)

マリアは受胎を告知されたとき、「ご覧ください。私は主のはしためです。」と言いました。処女降誕という大きなこころみのなかで、痛みを受け入れ、その痛みを通して、神の新しい世界が誕生することを願ったのです。ですから私たちも祈ります。「こころみにあわせず」と。試練や誘惑の中にあって、そこから逃げ出そうとする「こころみ」にあわせないでください、と。神さま、あなたとともに、世界の破れの回復のために働かせてださい、と。

【悪に向き合う私たち】

悪に向き合うまちがった方法が、三種類あります。

  1. 「悪というものは実際に存在しないか、存在しても大した問題ではない」(イエスの時代のサドカイ派)というふりをすること。悪の過小評価ですが、私たちはそれが偽りであることを身に染みてしっているはずです。
  2. 「我々は悪に呑み込まれ、すべてが悪に覆われていると思い込むこと」(イエスの時代のエッセネ派)。この考え方はすでに悪に屈服し、悪に支配されているのです。
  3. 「主よ、私がほかの人々とは違うことを感謝します。確かに悪は存在しますが、我々は正しく、聖なる者であり、悪と戦うために出陣するように召されています」(イエスの時代のパリサイ派)。この考え方は自分たちだけは正しいとする自己正当化です。

けれど、主イエスは、どの間違った方法にも与しませんでした。主イエスは、悪の現実と力を認めながらも、神の国の現実と力によって立ち向かいました。そして弟子たちに、私たちに「我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈りつつ、主イエスの勝利を、自分たちの中に、世界の破れに、実現していくことを教えて、その力を与えてくださったのでした。


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2024/09/09

2024/09/02

礼拝メッセージ「必要なことは一つだけ」ルカの福音書10章38-42節 佐藤直哉牧師 2024/09/01

①主の足もとに座るマリア

39節「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

イエス様が弟子たちにみことばを語られている中に、マリアは大胆にも弟子たちとともにイエス様の足もとに座って、みことばに聞き入ります。マリアは、イエス様がすべての人を分け隔て無く特別な存在として愛してくださるお方であり、自分のためにも語ってくださると信じていました。それで彼女は主の足もとに座りました。主が私を愛し、私のために語ってくださると信じて、主の語りかけを聞く者はさいわいです。

②心が落ち着かないマルタ

40節「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』

マルタは弟子たちと自分は違うと意識していたのではないでしょうか。それで、マリアの大胆な行為をよく思っていなかったのでしょう。ただでさえ、いろいろなもてなしに落ち着かずにいたマルタは、イエス様に自分が正しいことを主張します。それは、場を支配し、イエス様さえも支配しようとすることばになってしまいました。マルタは主の愛に留まることより、自分が正しくあることを求めてしまったのです。

③必要なことは一つだけ

41~42節「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」

自分の力で正しくあることを求めると、主の愛を見失って多くのことに捕らわれて、心を乱してしまいます。必要なことは一つ、主の臨在に感謝して、ともに主の足もとに座り、主の愛に満たしていただくことです。それは奉仕を否定するものではありません。主の愛のための奉仕も必要とされます。そして、たとえみことばに聞き入っていたとしても、愛がなければ無に等しくなってしまいます。

イエス様が「それが彼女から取り上げられることはありません」と言われたことは、なんとさいわいなことでしょうか。私たちが主の足もとに座ることができるのは、イエス様が私たちを愛するがゆえに全てを捨て、人となられてこの地上に来てくださったからです。この世のどんな力も、私たちから主の臨在、主の愛を取り去ることはできません。


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2024/08/26

礼拝メッセージ「光である主」マタイの福音書4章12-17節 大頭眞一牧師 2024/08/25


今日の箇所で、主イエスは人びとに語り始め宣教を開始しました。ここから心を開いて神の愛を聴きましょう。

【ヨハネが捕らえられたと聞いて】

ベツレヘムで生まれたイエスはナザレで育ちました。そして、30歳のころ、公の生涯の始まりに、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けました。ところが「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)とあります。ヨハネはヘロデ・アンテパス(かつて赤ん坊のイエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)が、兄弟の妻を奪って結婚したことを批判したために捕らえられました.ところがヘロデ・アンテパスは、当時ガリラヤの領主。私たちは、「イエスが退かれた」と聞くと、イエスが安全のために身を隠した、と思いがちです。ところがイエスはヨハネを捕らえたヘロデのお膝もとに行ったわけですから、かえって危険に身をさらしているのです。そしてそのガリラヤで宣教を開始されたのでした。

この「退かれた」は、主イエスが父なる神と向き合うために一人になったことを意味します。ヨハネの苦難に、ご自分の将来を重ね合わせて、これからのことを深く見つめられた。ご自分もまた、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、ローマに引き渡され、蔑みと罵りの中で十字架に架けられることに思いをめぐらされたのでした。

【人となられた神の苦しみ】

十字架を前にゲッセマネの園で、イエスは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。その後に「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と続くのですが、この二つの祈りは、すんなりとつながったのではなかったでしょう。苦しみの中で主イエスはご自分を差し出します。そして、苦しみの中で、父はイエスを受け取られたのでした。神が人となることのゆえに、そうでなければ味わうことがない苦しみを通りました。私たちに福音を与えるために。

【天の御国が近づいた】

福音とは何か。「天の御国が近づいた。」(17b)です。「天の御国」は、「神の国」つまり神の支配。世界はもともと神の支配のもとにあります。けれども、神の支配が、いま、新たな勢いをもって、この世界を覆います、イエスによって。イエスの十字架を通して。神の苦しみを通して。

「悔い改めなさい。」(17a)は、「自分の罪を認めて反省し、もう二度と繰り返さないように努めること」と考えられることが多いです。しかし聖書の悔い改めは、今まで背を向けていた神に正対し、心を開いて、その愛を受け入れること。「いま始まった新しい神の愛の迫りに、心を開け」と主イエスは招かれたのでした。私たちもその招きに応えたひとりひとりです。

【闇の中に大きな光が】

マタイはここでイザヤ書8章から9章を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(15-16)と。マタイは異邦人だけが闇の中に住んでいたと言っているのではありません。「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは自分たちのことだと言うのです。それは私たちのことでもあります。罪ゆえの闇の中で、手探りで進み、しばしばぶつかり合い、たがいに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きる私たち。どうしてこんなに苦しいんだろう、とうめくのだけれども、出口の見えない闇の中で、のたうつしかなかった私たち。けれども、そこに大きな光が!イエスの光が!そして私たちも、小さな光として、世界を照らすものとされたのでした。


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