2025/01/14

主日礼拝メッセージ「和解の主」マタイの福音書5章21-26節 大頭眞一牧師 2025/01/12


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。先週は、私たちには律法学者やパリサイ人たちにまさる義が与えられていると語りました。それはイエス・キリストが与える義。律法学者たちは、いたずらに神を恐れ、その怒りをかうことがないようにと、律法のまわりに何重にも安全柵を張り巡らし、自らもその中に閉じ込められていました。けれどもイエス・キリストは十字架の上で、私たちの過去・現在・未来の救いをなしとげてくださいました。私たちを神と人を愛する自由へと解き放ってくださったのでした。今日の箇所以降で、主イエスは、その自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを語ってくださいました。聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【殺してはならない】

律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれどもこの律法があっても殺人はなくなりませんでした。今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していないのです。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。

けれども主イエスは、律法学者やパリサイ人たちとはちがって、律法のまわりに安全柵を張り巡らすことはしません。外から私たちを規制するのではなく、私たちの内側から心を変えてくださったのです。神であるのに十字架に架けられて。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあるとおり、罪と死の力を滅ぼして、私たちを解き放ってくださいました。だから私たちは愛することができます。

【和解の主】

主イエスは、神の心を知らない律法学者やパリサイ人たちに心を痛めました。だから私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださいました。ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主。

「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。

主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。

【復活の主】

私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけないような、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。思い出すのはカイン。アベルを妬んだカインに神さまは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7c)と語りかけます。カインは罪を治めることができませんでした。けれども、私たちはカインとはちがいます。なぜなら罪の力である悪魔は滅ぼされたからです。そして私たちには、主イエスのいのちが注がれているからです。愛するいのちが。神であるから復活したことによって。

どうか、私たちには神の心、神の願い、自分に痛みを与える者との和解を願う心が、すでに与えられていることを忘れないでください。そしてさらに、その和解を実現することのできるいのちが始まっていることも。

私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。



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2025/01/07

主日礼拝メッセージ「律法を成就する主」マタイの福音書5章17-20節 大頭眞一牧師 2025/01/05


明けましておめでとうございます。今年も、マタイ5章から7章の山上の説教から、続いて聴きます。

【一つでも破り?】

年末感謝礼拝で、「あなたがたは世の光です。」という主イエスの宣言を聴きました。何人かの方がたから「励まされた。うれしくなった」という声がありました。足りない私たちだけれども、すでに世の光とされていて、ますます主イエスが輝きを増してくださる、というのですから躍り上がりたいような喜びです。

ところがそんな方がたが、今日の箇所を読んでがっかりなさらないか、少し心配です。ここには「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(19a)とか「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)といった、とてつもなく高い基準が要求されているように見えるからです。

【律法学者たちの義】

けれども、もちろん、主イエスは私たちを追い詰めるお方ではありません。律法学者やパリサイ人の義とありますが、彼らは主イエスからしばしば誤りを指摘されていたことを忘れてはなりません。

いつも申し上げることですが、「まず出エジプト、そしてシナイ山」。つまり、神さまは律法を守ったからイスラエルを救ったのではありません。なにもわからない、おそらくはエジプトで偶像礼拝にどっぷり浸かっていたイスラエル。神さまは、ただあわれに思って彼らを救い出されました。それが出エジプト。その後で、彼らをシナイ山に導き、神と共に歩く歩き方を教えました。それが律法です。それは神さまが、アブラハムとその子孫を通して、世界のすべての人びとを祝福するため。世界の破れを回復するパートナーとして、イスラエルを育てるためでした。

けれども、バビロン捕囚とそれに続く諸外国の支配の中で、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教指導者たちは、律法を誤解するようになってしまいました。彼らは、律法を破れば、神さまの怒りをかう。すると他国の圧政という罰が続く、と考えたのです。麦畑事件というのがあります。安息日に空腹だったイエスの弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもみながら食べました。するとパリサイ人たちが「麦をもむのは脱穀という労働だから、安息日には禁じられている」と咎めたのです。イエスは「人の子は安息日の主です。」(ルカ6:5)と言います。世界の回復のために、イエスと働く弟子たちは、まさに律法の真髄を行っているのです。それを咎めるのは、神さまの心がまったく分からなくなってしまっているから。律法学者やパリサイ人たちには、神がどれほど世界の破れを痛み、その回復を願っておられるかがわかりません。まるで、神さまをほんの少しの規則からの逸脱もゆるさない、ただ厳格なお方だと思っていたのです。そして実際の律法よりも、さらに厳格な安全柵をめぐらすようにして、その中に自分たちを閉じ込めたのです。

【主イエスのまされる義】

けれども主イエスは私たちの心を、神さまを愛することに解き放ち、まわりの人びとを愛することに解き放ちます。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)は、決してさらに厳格な安全柵を意味するのではありません。イエス・キリストの義のことです。主イエスは、私たちの救い主。大みそかの「今朝の黙想」では、「イエスは私たちの過去・現在・未来の救い主」と発信しました。人となり、十字架に架けられ、復活した神である主イエスの義は、恐れによって神の怒りを免れようとする律法学者の義にはるかにまさっています。主イエスは私たちに新しいいのちを注ぎ、あふれ出すまで愛を注いでくださるからです。

ある方が、「メッセージで、『傷つけられても、傷つけた側の心の破れを繕う私たち』と聞きました。でも私にはそんな大きな心がないです」と思いを打ち明けてくださいました。それは私も同じです。けれども、それでも、主イエスのまされる義は私たちに与えられています。受けた傷が深いときには、相手の破れを繕うどころか、相手の顔を見るのもいやなものです。けれども、そのことを悲しみ、それでも相手の破れを繕うことができたらよいのに、と願うあなたは確かに、律法学者やパリサイ人の義にまされる義に生きています。世の光なのです。主イエスは、そんな私たちをなおなお癒してくださいます。今、この礼拝の中で、またこの年を通じて。私たちの小さな光を喜び、たいせつに時間をかけて、じっくりと育ててくださいます。



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2024/12/30

主日礼拝メッセージ「光とする主」マタイの福音書5章13-16節 大頭眞一牧師 2024/12/29


今年も最後の主日となりました。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福に続く箇所から、今日も主イエスの恵みを聴き取ります。

【うなだれる私たち】

「地の塩」「世の光」と呼ばれている私たち。「塩」がなければ生きることができません。また塩は食べ物が腐るのを防ぎます。だから「地の塩」とは、この世に必要不可欠で社会を腐敗や堕落から守る存在。「世の光」はこの世を明るくする存在。私たちは自分がそうだとは言えないで尻込みしてしまいます。

そこには私たちの誤った思い込みがあります。自分がこの世の腐敗を防いだり、明るくしたり出来ているだろうか。それが出来ていれば、胸を張って私は「地の塩」「世の光」だと言えるのだが、と。例えば、私たちの伝道が実を結んで多くの人びとが礼拝に集ってくるとか、あるいは、私たちによって社会の不正が目に見えて取り除かれていく、そういったことが出来れば、とあこがれ、そうでない自分を見てうつむくのです。

【イエスの宣言】

けれども、イエスの「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」は、明らかに宣言です。「あなたがたは、すでに、今、地の塩であり、世の光なのだ」と断言しています。だから私たちはすでに塩っ気や光を与えられています、主イエスはその塩っ気をなくさないように「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と教え、その光を遮られることがないように「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」(15a)と語るのです。すでに主イエスによって塩とされ、光とされている私たちがそのいのちを曇らされることがないようにと励ましておられるのです。

【八つの祝福ふたたび】

今日の塩と光の箇所は、先週までの八つの祝福に続く箇所。ですから「地の塩」「世の光」の生き方は八つの祝福の生き方です。年末の総集編として振り返れば、

  1. 「心の貧しい者は幸い」は、自分の心の中には、より頼むべき豊かさが全くない者が、主イエスに抱きしめられている幸い。その幸いは周囲に及んでいきます。
  2. 「悲しむ者は幸い」は、悲しむ私たちのそばに主イエスがいてくださる幸い。そして、その幸いを伝える幸い。
  3. 「柔和な者は幸い」は、苦しみの中にある者が、いらだたず神に望みを置き、イエスと共に世界の破れを繕う幸い。
  4. 「義に飢え渇く者は幸い」は、不正に苦しむ者たちが、イエスの十字架と復活によって実現した悪の力の滅びという義を受けて、神の正義の実現のために生きる幸い。
  5. 「あわれみ深い者は幸い」は、十字架に現れた神の大きなあわれみを受け、注ぎだす幸い。
  6. 「心のきよい者は幸い」は、自分ではなく主イエスの十字架を見る者の幸い、今、可能な限りの愛で神と人を愛する幸い。
  7. 「平和をつくる者は幸い」は、主イエスが十字架で敵意を滅ぼされたゆえに、自分に敵対する人びとの敵意をも癒す生き方の幸い。
  8. 「義のために迫害されている者は幸い」は、自分を迫害する人びとの破れに主イエスと共に愛を注ぎ、回復をもたらす幸い。

ですから八つの祝福はいずれも、私たちがすでに手にしている幸い。その出どころは主イエスであり、その幸いにあずかる者たちを世界の破れの回復のために送り出します。そんな生き方が「地の塩」「世の光」の生き方です。

【あなたがたの父をあがめるようになるため】

八つの幸いは、私たちの不足に注がれる祝福ですから、私たちの栄光や誉れではありません。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(16)とあります。人びとは、私たちを祝福する神さまをあがめるようになるのです。主イエスと主イエスをお遣わしになった父を喜び、ほめたたえるようになるのです。

そのために「また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」(15)と主イエスは命じます。私たちが「どうか私たちを輝く光、塩っ気のある塩としてくださった主イエスを仰いでください。このお方こそまことの光です。」とすべての人に主イエスを指し示すように、と。



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2024/12/23

クリスマス礼拝メッセージ「御国を与える主」マタイの福音書5章10-12節 大頭眞一牧師 2024/12/22


クリスマスおめでとうございます。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いていますが、今日は最後の第八の祝福、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(10)です。

主イエスの復活そしてペンテコステの聖霊により誕生したキリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされることになりました。初期の教会の指導者のひとりテルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子」と記しています。迫害されてもキリスト教がなくなることはありませんでした。それどころか、ますます教会に連なる人びとが増し加えられていったのです。そしてついに紀元313年、ローマ帝国でキリスト教は公認されました。

けれども日本のような非キリスト教国では長く迫害が続き、今もその影響には根深いものがあります。ですから私たちは「迫害」と聞くと反射的に「殉教」を思い、自分にはとても無理だ、とうなだれることがしばしばです。

ところがそもそも教会は殉教を奨励していたわけではないようなのです。2世紀の殉教者ポリュカルポスによれば、殉教は自ら願ってするものではなく、なるべく避けるべきものだとされています。ですから殉教の焦点は死ぬことではなく、イエスと共に歩くことにあります。その中でさまざまな不利益をこうむることを避けないことがイエスの願い。その結果、時として殉教にいたることがあったとしても、殉教そのものが目的ではないのです。

【わたしのために】

この箇所が殉教の奨励ではない、では主イエスのおこころはなんでしょうか。この八福にはこれまでの七つとはちがうところがあります。それは11節と12節が続いていることです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(11-12)。

わたしのために」とあります。つまり主イエスのおこころは、私たちが主イエスを愛し、主イエスとともに歩くことを励ますことです。殉教したかどうかで私たちをふるいにかけることではありません。それならば!と私たちは言うことができます。「イエスさま、私たちはあなたを愛してあなたと共に歩んでいます。足りないこともしばしばですが、私たちは自分の心をあなたのおこころに重ねています。あなたのために不利益をこうむることがあっても、それでもあなたのために生きたいのです」と。

【喜べ!】

そんな毎日に「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」ことが起こります。「クリスチャンのくせに」と周囲の人から言われることもよくあることです。それでも私たちは、ののしられてもののしり返さず、悪口に悪口をもってすることなく、愛を注ぎます。私たちを迫害する人びとのうちにある破れの回復のために。

ののしられるときに、喜べ!このイエスの言葉は不思議です。けれども理由があります。イエスは迫害されること自体を喜べと言っているのではありません。「天の御国はその人たち(迫害されている者)のものだから」(10b)、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(12c)が理由。どちらも「もうすでに始まっている神の国(神の支配)、イエスが来られたことによって始まっている神の国。あなたがたはそこに入れられている。もう神と共に、イエスと共に、世界の回復のために働いている。その働きを通して世界は回復されている。だから喜べ!」と語るのです。思えば第一の祝福も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)でした。第一福から第八福を貫いているのは「神の国(神の支配)がすでに始まっており、私たちがそこで働いていることの幸い」なのです。

【預言者たち】

「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(12d)とあります。私たちは預言者たちも迫害されたのだから、みんながんばれ、と命じられているように感じるかもしれません。けれども、私たちが見つめるべきは預言者の中の預言者として来られたイエスです。イエスはその迫害の中で、十字架に架けられて罪と死の力を滅ぼし、復活によって私たちに新しいいのち、愛のいのちを注いでくださいました。だから、私たちは迫害の中で愛することができます。主イエスから愛の注ぎを受けて。そのすべては世界で最初にクリスマスに始まりました。メリー・クリスマス。メリー・メリー・クリスマス



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2024/12/16

第3アドベント礼拝メッセージ「使徒信条②父なる神を」創世記1章26-31節 大頭眞一牧師 2024/12/15

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

【信条】

「信条」とは「信仰の箇条」、すなわち信仰を箇条書きにして端的に言い表した信仰の基準。使徒信条、ニカイア信条、アタナシオス信条を基本信条と呼びます。歴史的には受洗準備教育に用いられてきました。今日は第一項「父なる神」を聴きます。

【愛と情熱と喜びと】

ルターは「これらのこと(創造から救い、再臨にいたるすべて)は、純粋に父としての神の好意と恵みによるもので、何らわが功績と価値によらない」と語りました。神は創造しなければならないからではなく、創造したかったので、愛するために、情熱を注いで世界を造りました。そして「それは非常に良かった」(創世記1:31)と喜びの言葉が!私たちは神が愛し、情熱を注いだ傑作なのです。神さまの喜びである私たち!

【天地の造り主】

「天地」とは、神以外のすべて。被造物すべて、全宇宙です。「天」は目に見えないもの。五感によって認識できる、科学によって把握し得る世界だけが神の被造物なのではありません。人の認識や把握を超えた領域もまた、神に造られたものであり、神の支配下にあります。天地を造られた神を信じるとは、人の思いを超える神の支配を信じ、それに安らぐことなのです。

私たちには、思いもよらない、理由もわからない苦しみがあります。そこに大きな力が働いているのを感じることも。けれども、神さまはすべてを支配しています。恐れることはないのです。神さまがそこに解決をもたらし、回復を与えます。とてもそうは思えなくても。自分の願うようにではなくても。

【全能の父】

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)は、人への使命です。神と共に働いて、世界を「非常に良い」世界に保つこと、破れが生じたならば、愛を注いでつくろう使命です。私たちにはとてもそんな力はありません、と言いたいところですが、全能の神がそうさせるのです。

全能の神なら、どうして災いが起こらないようにすることができないのか。この繰り返される疑問に明確な答えはありません。キリスト教会は「神の摂理」という言葉を用いてきました。災いも神の計画なのだから黙って耐えよ、というのではありません。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28脚注異本)、これが「摂理」の意味です。神は災いのただ中に祝福を造り出すことがおできになります。例えば地震を通してもよりよい共同体を造り出すことができるのです。私たちをご自身と共に働く者とすることがおできになるのです。全能の力によって。

【十字架】

神の全能の力は十字架の上で、もっともよく表されました。神に従う者を引き上げ祝福するよりも、はるかに大きな力が表れました。つまり、罪びとを赦し、罪びとを引き上げて、神の子とすること。これこそが神の全能です。ルターは友であるシュパルテンに宛てた手紙に記しています。「このお方は、最大、最悪の、要するに、地上の罪すべてを犯した者をも救い得る方なのだ」と。自分の小さな罪に思い悩むシュパルテンに向けたルターの言葉を言い換えれば「あなたは神の全能を小さくしてはならない。神の十字架をみくびってはならない。神はきちんとした罪だけしか赦すことができないお方ではない。あなたが犯し得るどんな破廉恥な罪さえも赦すことができるお方だ。担うことができるお方だ。なぜならそれが神の全能だからだ」となるでしょう。つまり神の全能とは単なる力の大きさを表すのではありません。その力を私たちのもっとも弱く恥ずかしい部分を覆うのに用いる愛の全能なのです。そのためにクリスマスが!



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2024/12/09

第2アドベント礼拝メッセージ「平和をつくる者の主」マタイの福音書5章9節 大頭眞一牧師 2024/12/08


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第七の祝福、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(9)です。ここまで読んで来て、これらの祝福には一つのパターンがあることに気がつきます。

  1. イエスが○○な者は幸いだと祝福する→
  2. 私たちにはそうは思えない→
  3. けれどももっとも○○なのはイエスだと気づかされる→
  4. イエスによって私たちのうちにも○○が始まっていることに目が開かれる

そんなパターンです。今日の箇所もそうです。私たちは平和を願っています。争いがないことを願っているのですが、しばしば自分の正しさを主張して、あるいは相手を恐れ自分を守ろうとして、争ってしまうのです。

【平和をつくるイエス】

待降節も第二週となりました。ルカは、御使いと天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と賛美したことを記します。イエスは神。神がこの世界に平和をつくるために来てくださった、それがクリスマスです。さらにエペソ書はこう記します。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)と。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人。彼らの間は敵意によって隔てられていて、とても平和など望めませんでした。けれども神であるイエスが、その敵意を滅ぼし、打ち壊しました。十字架によって。神が十字架に架けられることによって。イエスはすべての敵意をご自分に引き受けてくださり、終わりにしました。そして平和をつくってくださったのでした。

【平和をつくる私たち】

すべての敵意と申し上げました。かつて私たちは神を主と、王としませんでした。かえって神を自分の願いを聞くべきしもべとみなし、聞かれなければ、敵意を抱きました。私たちが王であるかのようにふるまったのです。私たちはまた周囲の人にも王のようにふるまってきました。二人の王は並び立つことができません。ですから互いの間に、しばしば敵意が生まれ、平和が破れたのでした。けれども、イエスによって私たちに新しいいのちが始まりました。新しいいのちは新しい生き方を生み出しました。それは主イエスの生き方。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す生き方です。

マーティン・ルーサー・キング牧師は語っています。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう…しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」と。

「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というのです。ここにイエスが始めた新しい生き方があります。

けれども、と私たちは立ちどまってしまいます。それはキング牧師のような偉人には可能でも、自分には無理だ、と。しかし、本当でしょうか? あなたのうちにはいのちが始まっていないのでしょうか?主の祈りで「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈る私たちには、確かにイエスの生き方が始まっています。だからその生き方を、ますます生きるのです。自分のうちにあるいのちを信頼してさらに大胆に。

【国と国の間にも】

イエスが平和をつくるのは、神と人、人と人との間ばかりではありません。国と国の間にも戦争をとどめ、平和をつくります。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す私たちを通して。苦しむ能力、苦しみに耐える能力によって。長い時間をかけても。



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