2026/09/14

礼拝メッセージ「与える主」マタイの福音書7章7-11節 大頭眞一牧師 2026/08/02


今日もまた有名な、そして誤解されやすいところ。けれどもここには、主イエスの慰めが溢れています。聴き入りましょう。

【おめでたい教え?】

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。」(7ab)と言われても、私たちは現実がそうはいかないことを知っています。がんばって勉強しても希望の学校や就職ができるとは限りません。探してもみつからないこともある。いや、求めるものが得られないどころか、求めていない、そんなことはぜったいいやだと思っている事故や災害に苦しむことがあるのが人生です。そんな私たちには今日の箇所はおめでたい気休めのように聞こえてしまうことがあるのです。

「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7c)も、教会の門をたたくなら、その門は必ず開かれ、信仰を得ることができる、と語られる箇所。けれども、実際には教会を訪れた人の全員が信仰をもつわけではありません。とても残念なことですが。では、これもまたむなしい気休めなのでしょうか。

【与える主】

しかし今日の聖書をよく読むと「与えられます」「開かれます」と、受動態、受け身で書かれていることに気づかされます。つまり、与えるお方がおられ、その方が私たちに与えてくださる。開いてくださるお方がいて、その方が私たちに開いてくださる。そのお方とは神。いつも申し上げているように主語は神さまです。聖書の主語は神さま。世界の主語も、私たちの人生も主語は神さま。その神に目を向けるように、とこの箇所も語っています。

【天におられるあなたがたの父】

神とはいかなるお方なのか?主イエスは続けます。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。」(9-10)。私たちでさえ、子どもにはできるだけよいものを与える。そうであるならば「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(11)。主イエスはここで「神はあなたがたの父であるのだ。天の、全能の、すべてのものを造られた神が、あなたがたの父なのだ。この父があなたがたを愛し、あなたがたに良いものを、もっとも良いものを、これ以上良いものはないものを与えてくださるのだ、与えてくださっているのだ」とおっしゃるのです。

【イエス・キリストの父なる神】

そして、天の父なる神が与えてくださった良いもののうちで、もっとも良いものは、間違いなくイエス・キリストです。神を愛せない、仲間を愛せない、世界を愛せない、そして自分も愛せない私たちをあわれんで、惜しんで、父なる神は子なる神をこの世に送り、十字架に架けてしまわれました。断腸の思いで。それでも私たちがいのちを生きるために。天の父なる神は、イエス・キリストの父なる神。だから私たちは、神を父と呼ぶことができるのです。

【天の父なる神の子として】

子は父の心を知ります。心を知って父と同じように生きようとします。かつて私たちは自分が欲しいものを求め、探し、門をたたいていました。そしてそれが得られないと、聖書の言葉などは気休めでそのまま信じるものではない、などと思いました。そんな中で、せいぜいかなえられそうな範囲で願い、そこそこに守られればそれでよい、と決め込んでいたかもしれません。けれども神さまの良いものは、広大無辺です。そして神さまは、神との愛の破れ、人との愛の破れ、世界との愛の破れをつくろい、神の国の完成のために私たちを用いたいと願われています。世界のすべての痛みの回復、それが神さまが与えてくださる良いもの。「この良いものを求めなさい、探しなさい、たたきなさい。そしてわたしといっしょにこの良いものの実現のためにいっしょに苦労してはくれないか。あなたの力を貸してくれないか」と。私たちの胸はもういっぱいになります。「はい、どうかあなたの良いもので地が満ちることができるように。どうぞお心のままに私たちをお用いください」と答えるのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/09/13

礼拝メッセージ「見えるようにする主」マタイの福音書7章1-6節 大頭眞一牧師 2026/07/19


主イエスの山上の説教は続きます。私たちの目を開き、心を開き、いのちに満たすために。今朝も満たされましょう。

【さばくな?】

今日の箇所、「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(4-5)は、多くの人が誤解しているところかもしれません。私も長い間、わかっていなかったと思います。私はここを「自分のことをたなに上げて人をさばくな」という意味だと思っていました。特に「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」(2)ともありますから、自分が他の人を厳しくさばいていると、自分も神さまから厳しくさばかれてしまうのではないか。だったら、他の人を厳しくさばかないように手ごころを加えるなら、神さまも自分のさばきに手ごころを加えてくださるのではないか、と、なんとなくそんなふうに思っていたのです。けれども、そうなると、まるで主イエスが父なる神さまと上手に取り引きすることを教えているようなことになってしまいます。

【目にある梁】

けれども神さまのさばきは、取り引きできるようなものではありません。私たちの罪、私たちの愛に欠けた思い、愛に欠けた言葉、愛に欠けた行いは。神さまにとってそのままにしておくことができません。ましてや、私たちが他の人に手ごころを加えてやさしくしたからといって、手ごころを加えることができるようなものではありません。罪は、私たちの深いところの歪みや傷に由来し、私たちとこの世界に愛の破れをもたらしており、その影響はどんどん広がっていく、そんな病です。だから主イエスは、人となり、十字架で私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果を負ってくださり、復活のいのちを与えてくださいました。私たちを罪から解き放って自由にするために。

「自分の目にある梁(建物を支える太い水平な部材)」とは罪。この罪に目をふさがれているから、私たちは他の人をさばこうとします。神さまの心を痛め、仲間との関係を裂いてしまう自分を見ることができません。そして、ささいなことで仲間をさばき、非難してしまうのです。

【梁を取り除くお方】

主イエスは「自分の目から梁を取り除きなさい」とおっしゃいます。しかし問題は、私たちには自分で自分の罪を取り除くことができないことにあります。けれどもここによい知らせが、福音があります。私たちにできないからこそ主イエスが来てくださったのです。罪ある私たちへの神のさばきを受け止めるために。そのために十字架にいのちを捨てるために。そして私たちに「生きよ。新しいいのち、愛のいのちを生きよ」とおっしゃり、その通りにいのちを与えてくださるために。

【たがいの目からちりを】

罪という梁が取り除かれた私たちの目に、まず見えてくるのは主イエスの十字架です。私たちのために何も惜しむことをなさらなかった神さまの愛の大きさが見えます。喜びがあふれます。そんな私たちはもはや、仲間のあら探しをしようとはしません。自分も相手も、十字架によって、神との和解、たがいとの和解に入れられていることを喜びます。相手に欠点があるなら、それを補い、支え合おうとし、自分の欠点もまた、助けてもらう。そんな共に生きる生活を喜ぶのです。喜んでいるのです。

【豚に真珠】

「真珠を豚の前に投げてはいけません。」は、豚に真珠ということわざの元になったところ。真珠は十字架と復活による救いの恵みです。その恵みを与えてくださった主イエスでもあります。豚は、主イエスとその恵みを受け入れない者のこと。だからと言って、信じない人には福音を伝えるな、と言うのではありません。これは、私たちが主イエスを軽んじることがないように、という励ましです。また、今は目に梁があって、主イエスを見ることができない人びとも、いつかは主イエスを見ることができる、私たちと共に喜び、共に新しいいのちを生きることができるように、という招きでもあります。



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2026/09/01

礼拝メッセージ「神の国と神の義の主」マタイの福音書6章25-34節 大頭眞一牧師 2026/07/12


主イエスは私たちを解き放ちます。今日もその招きを聴き、招きに応じます。自由へ。

【心配しないという冒険】

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34)は有名。けれども、心配の多い私たちにとって「心配するな」ととても無理な冒険のように思えます。どうしたらそんな危険を冒すことができるのでしょうか。

この箇所には二つの生き方があります。一つは「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりする」(25)生き方。この生き方は前回聴いた通り、自分の能力、持ち物、がんばりにたよる生き方です。もう一つの生き方は、神さまを見つめ、神さまにたよる生き方。主イエスはそんな生き方へと私たちを招きます。

【父ゆえに】

私たちが神さまを信頼することができるのは、神さまが父であるからです。神さまはお造りになった世界のすべてを愛しています。野の花を装わせ、空の鳥を養います。けれども、私たちと花や鳥の間には大きなちがいがあります。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(26)に「あなたがたの父」とあるのがそれです。私たちは神の子です。神に似せて造られた愛し合うことができる存在。だから愛のまなざしで神をみることができます。神の胸に抱かれていることを知っているのです。神さまの胸に抱かれていることは、実は危険を冒すことではありません。最も安全なことなのです。

【子ゆえに】

私たちは、父の胸に抱かれている子。そのことを知ることができたのはひとり子である主イエスによります。それがわからないで、たがいに傷つけ合う私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世界に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。キリスト教会は、キリストの三職を教えて来ました。キリストは祭司として、私たちの罪のためにとりなしてくださいました。ご自身を献げものとして。また、キリストは預言者として、私たちに父の愛を教えてくださいました。言葉だけではなくご自分を与えることによって。そして、キリストは王として私たちを罪と死の力の支配から解き放ってくださいました。十字架で悪の力を滅ぼすことによって。

【聖霊ゆえに】

父なる神を見たこともなく、主イエスの十字架に立ち会ったこともない私たちが、神さまを見つめ、神さまにたよることができるのは聖霊によります。聖霊なる神が、自分の内側を見つめ、自分の足元に目を落としてはあがく私たちの顔を持ち上げ、目を上げさせるのです。愛ゆえに。私たちが神さまから目を離すことを見過ごすことができない愛ゆえに。

【神の国と神の義を】

神様を見つめ、神さまにたよる生き方、主イエスはそこへ、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33)と招かれました。「神の国」とは、神の支配、神の愛の支配。私たちも、そんな神の愛を注がれ、満たされ、溢れて、注ぎ出して愛します。そんな毎日がすでに始まっていて、ますます愛へと成長し続けています。「神の義」とは、神との正しい関係、正対した健やかな関係です。

神さまと正対し、神さまを見つめ、神さまにたよる私たちに、「明日のことまで心配しなくてよい」とのみ言葉が実現しています。もちろん、日々新たな心配が起こります。心配しないことは不可能です。けれども、私たちは神さまの胸の中で心配しているのです。私たちの心配は、どうなってしまうかわからないような心配ではありません。どうなったとしても、神さまの胸の中で、神さまから注がれるいのちを生きることが大前提の、その上での、心配です。つまり神の守りと祝福というゴールがはっきりしているのです。あとは、では神さまはどのようにこの心配を切り抜けさせてくださるかを、心待ちにするのです。「私たちの父」である神さまが、父としての最善を与えてくださるからです。そんな子であり私たちおたがいを、今朝も喜び合います。



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2026/08/30

礼拝メッセージ「目を澄ませる主」マタイの福音書6章22-24節 大頭眞一牧師 2026/06/28


今日も主イエスの恵みへの招きを聴きます。主が私たちの心と耳を開いてくださいますように。

【健やかな目】

「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなります」(22)とあります。この箇所、私は長い間よくわかりませんでした。しばしば、こんなことを申しますが、やはりそれには理由があったと思うのです。それは聖書の大きな物語、神の大きな物語がわかっていなかったからだと思います。神さまは世界の愛の破れを嘆き、アブラハムを、モーセを、預言者たちを通して、世界をご自分に立ち返らせようとなさってきました。そしてついに御子イエスを送って、私たちを神の子としてくださいました。もう、すでに。この物語を頭に置いて読むなら、聖書が開かれていくのです。

そのように読むなら、この個所は、すでに、神の子とされた私たちの幸いを祝福する箇所。私たちは主イエスに心を向け、目を向けます。すると主イエスの恵み、愛とあわれみが、私たちに注がれます。主イエスに心を向けるなら、主イエスの恵みが私たちにあふれるのです。肉体の、この目が、健やかかどうかとは関係ありません。主イエスに心が向いているかどうか、それが問題です。

反対に「目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(23)は、主イエスに心を向けないなら、私たちは神の恵みを、愛とあわれみを受け取ることができません。そして、神と人を喜ぶことができず、愛なき思いと言葉と行いの闇にしゃがみこんでいることになります。

【目を澄ませるのは主イエス】

よくある誤解は、この個所を「あなたの目を健やかにしなさい」という命令として読んでしまうことです。そうすると「目を健やかにするためには、まず心を健やかにしなければならない」と思いがちです。私たちはいつも、なにかをしなければならない、と思っているところがあるから。だから、聖書を読むと、ついつい自分に足りないところを探して、そこを補おうとするのです。けれども問題は、私たちには、自分の心を健やかにすることができないことにあります。それだからこそ、主イエスは私たちのためにこの世に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。私たちの愛なき思いと言葉と行い。その原因を負って、愛のなさを負って、愛のなさの結果を負って。すべてを負って。

「目を健やかにする」のは主イエスのわざ。主イエスのしてくださったすべてのことに目を向けさせること。主イエスに目を向けさせることです。主イエスに目を向けるとき、心を向けるとき、主イエスが心を健やかにしてくださいます。日々、ますます健やかにしてくださるのです。

【どちらの主人に】

「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(24)は、一見すると唐突に見えます。けれども、ここでは、神と富のどちらに目を向けるかが問われているのです。主イエスに目を向けているか、どうか。ここにつながりがあります。

神に仕えるとは、一心に神を見つめることです。神の恵みとあわれみを見つめ、それだけを拠り所とすることです。そのとき、私たちは神のいのちの注ぎを受け、神のいのちを注ぎ出して生きています。十字架と復活の主イエスのいのち、愛のいのちを。

富に仕えるとは、神から目をそらすことです。神から目をそらすとき、私たちの目に入るのは自分。自分が何をしたか、自分が何を持っているのか、そこを見つめ、神のいのちを手放してしまうのです。それはとんでもない損失です。私たちにとって、そして神さまにとって。世界の愛の破れをつくろうことに背を向け、世界の愛の破れを広げることになってしまうのですから。

神に仕えることは、持っているお金を献げて無一文になることではありません。レプタ二つのやもめを「この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。」(ルカ21:3)と喜ばれた主イエスは、やもめの心を喜ばれました。その目が一心に神を見つめていることを。翌日、やもめが献金したかどうかというようなことはかかわりなく、神に向かってそのとき解き放たれた心を喜ばれました。私たちの心もまた主イエスの喜びです。主イエスを見つめる私たちだからです。


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2026/08/12

礼拝メッセージ「心の主」マタイの福音書6章19-21節 大頭眞一牧師 2026/06/21


主イエスは、なおも新しいいのちの生き方を指し示されます。今日は、地上に宝を蓄えない生き方。聴くうちに私たちの喜びがあふれますように。

【天に宝を】

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」(19)とあります。宝とは、私たちが所有している財産のこと。そんな宝は、確かに壊れたり、盗まれたりするものです。ですから主イエスは「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」(20)とおっしゃいます。明らかに地上に蓄えることができる宝とはちがう宝について語っておられるのです。

この「天に宝を蓄えなさい」というイエスのお言葉は、よく誤解されることがあります。それはイエスが「善い行い、例えば、愛のわざを積むことによって、天に宝を積むことになり、そうすれば神さまから報いを受けることができる」そのように教えられたという誤解です。けれども主イエスは「神さまからの報い」などと一言も言っていません。そうではなくて「天に宝を積むこと」が幸いなのです。

ですから主イエスの教えは、私たちがすでに読んだ「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と軌を一にしています。「心の貧しい者」、すなわち、自分の心に何一つ豊かさを持っていない、拠り頼むべき富や宝を持っていない者、ただ神の恵み、あわれみを喜び、その中に生きる者、つまり私たちです。だから私たちは、実は「地上に宝を蓄えるのはやめなさい」と言われなくても、もとより地上に宝を蓄えることができない者たち。その私たちが、もし「地上に富を蓄えた」と思うならそれは思い違い。目に見える財産はもちろん、自分の善行も、愛の行いも、信仰さえも、私たちが拠り頼めるものではありません。私たちが拠り頼むことができるものは、ただ一つ「神さまの恵み、神さまのあわれみ」だけです。「神さまの恵み、神さまのあわれみ」に拠り頼むことが、天に宝を蓄えることであり、そうする者たち、つまり神の恵みに身をゆだねた私たちが、幸いな「天の御国はその人たちのもの」と呼ばれる人びとなのです。

【十字架と復活によって】

私たちは「天に宝を蓄えなさい」と聞くと、そのために、何かをしなければならない、と思ってしまいます。けれども、それはまったくの見当はずれ。天に宝を積むとは、神さまの恵み、神さまのあわれみに拠り頼むこと、神さまに心を開くことです。私たちがすでに神の子とされていることを受け入れ、神の子としてのありのままに振る舞い、生きること。私たちに与えられているいのちのままに。このいのちは、主イエスの十字架と復活によって私たちのものとなりました。主イエスが、私たちを神さまから遠ざける罪の原因と罪そのものと罪の影響を負ってくださったことによって。また、十字架で悪の力を滅ぼして愛する自由に解き放ってくださったことによって。さらに主イエスが、私たちに与えたいのちを増し加え、死の向こう側にまで続く神さまとの交わり、仲間との交わりを祝してくださることによって。そればかりか、注がれ続ける神の愛によって、私たちを仲間と共に世界の愛の破れに向かって押し出し、神さまと共にその破れを繕うものとすることによって。押し出すのも繕わせるのも神さま!

【心はどこに】

そして主イエスは「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(21)と宣言されました。これは私たちへの問いかけでもあります。「あなたの心はどこにあるのか。あなたは、地上に、すなわちあなたの中に、拠り頼めるものを探すのだろうか。見つかることはないのに。それともあなたは、天に、すなわちわたしに拠り頼むのだろうか。恵みとあわれみを惜しみなく、限りなく注ぐわたしに。」と。

「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」、これはまた、私たちへの招きでもあります。「さあ、あなたはわたしを選べ。いのちを選べ。あなたの中に、拠り頼むことができるものを探すのではなく。自分の行い、自分の信仰をみつめ、心を自分に置いて、これで十分だろうか、これで足りているだろうか、と立ち止まるのではなく。わたしの恵みに、わたしのあわれみに、あなたの心を向けなさい。わたしにあなたの心を置きなさい。わたしが、今、そうさせてあげよう。」と。


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2026/08/09

礼拝メッセージ「喜び祝う主」マタイの福音書6章16-18節 大頭眞一牧師 2026/06/14


6章1節に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」とあります。続いて主イエスは三つの善行を語られました。施し(2-4)、祈り(5-15)、断食(16-18)。今日は断食について聴きます。

【善行?】

この個所に違和感を感じる方は少なくないと思います。私もそうでした。私たちが神に受け入れられたのは、善行によるのではなく、ただ神の恵みによるからです。けれども私たちは5章で、イエスが「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(5:20)とおっしゃったのを聴きました。それは、律法学者やパリサイ人たちよりもがんばって、律法を行うことではありません。神の子とされた私たちが父の愛を注がれ、注がれた愛があふれ出す、そんな存在にされていることの祝福でした。

ですから主イエスの言う善行は、行わなければならないのではなく、思わず行わずにはいられないのです。新しいいのちに生きる私たちにとって。

【施しと祈り】

施しもまた、神と共に生きる私たちの喜びの表現です。施したら自分が貧しくなるという不安からも、人の評価を気にする恐れからも解き放たれて、ただ神を喜び、神と共に世界の破れを繕うために、気づけば無我夢中で、自分と自分のお預かりしているものを差し出しているのです。

祈りもまた、神さまに自分の願いを叶えるように、しつこく命令することではありません。父なる神が、私たちのすべての必要、とりわけ神のいのちを与えてくださっていることを喜び、なお増し加えてくださることを願い、そんな互いを赦し合う共同体をなお建て上げてくださることを望み、すでに十字架の上で悪の力が打ち砕かれていることを忘れず、すでに今ここに始まっているその恵みを生きることを欲し、神のご支配の中で、神と共に働くことを乞うのです。多くの言葉によって神を動かそうとするのが祈りではありません。祈るうちに私たちが変えられていくのです。神の愛に抱きしめられ、神の愛に満たされ、神の愛によって世界の破れへと押し出されてゆくのです。

【断食とは】

では断食とは?よくある誤解は、霊性を鍛え、霊的な人になるために断食をするというもの。つまり、修行のようなイメージです。けれども旧約聖書を読めば、すぐに断食は悲しみと嘆きの表現であることがわかります。自分が神の心を痛めている罪人だと気づいて、心から悲しみ、嘆き、悔い改めることがその本質です。バテシバ事件の時のダビデが思い出されます。

私たちが神の心を痛めていることを悲しむとき、神さまは、その痛みにおいて私たちに出会ってくださいます。ほかのどこでよりも深く。よく申し上げる森有正の「人にはだれにも打ち明けることのできない心の一隅がある。そこにおいて神はあなたに会う」という意味の言葉の通りです。

私たちにお会いになったなら、神は私たちの痛みを負い、その原因となっている罪と罪の原因と罪の影響を負ってくださいます。そして世界の破れに愛を注ぐようにと押し出すのです。

【神に心を向けて】

ですから「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」(16ab)は、まったく断食の意味がわかっていないのです。神に心を向けて癒されるのではなく、人に心を向けて敬虔な人だと称賛されようとするのです。「まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(16c)と、仮に称賛されたとしても、それだけのことです。

主イエスは、そうではなくて「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」(17)とおっしゃいます。これは祭りを喜び祝うための身づくろいを指しています。

すでに主イエスは来てくださり、私たちの罪と私たちを苦しめる罪の力、悪の力を滅ぼしてくださいました。祭りはすでに始まっています。だから、私たちは罪を悲しみながらも、主イエスが与えてくださった新しいいのちを喜び祝います。それは主イエスが私たちを喜び祝っていてくださるからです。


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