今年もクリスマスに向かう待降節を迎えました。教会暦、教会の暦では、今日から新しい年度が始まります。私たちの歩みは主イエスを待望することから始まるのです。今日もイエスを呼びましょう。
【ご自身のための祈り?】
最後の晩餐で主イエスが語られた言葉は16章で終わりました。17章は主イエスの祈り。5節まではご自身のための祈り、19節までは弟子たちのための祈り、20節から終わりまでが教会のための祈り。今日は、ご自身のための祈りから、主イエスのお心を聴きます。
ここで主イエスが祈っておられるのは、「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(1)です。けれども、その栄光はご自身があがめられることでもなければ、高い位につくことでもありません。そうではない不思議な栄光。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とあります。主イエスが地上で成し遂げたのは、「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与える」(2)こと。すなわち、私たちのために人となり、私たちのために十字架に架けられ、私たちのために復活して、私たちに永遠のいのちを与えることが主イエスの栄光です。
結局のところ、主イエスのご自身のための祈りは、私たちのための祈りでした。主イエスのいちばんの望みは、私たちが永遠のいのちを生きること。それが主イエスの栄光。クリスマスから十字架と復活にいたるまで、主イエスの関心はただただ私たちのいのちにありました。
【神が人となられた理由】
永遠のいのちとはなにか。救いとはなにか。それは、ただ死んでから天国に行ける、というだけではありません。2世紀ごろから教会は「神が人となられたのは、人が神のようになるためである」と語り始めました。「神が人となられたのは、人が神になるためである」という表現も見られます。もちろん、人は神になりません。それにもかかわらず、このような表現が用いられたのには理由があります。
人は神のかたちに造られました。神は目に見えませんから、神のかたちは容姿ではありません。人は神のように全能ではありませんから、神のかたちは能力でもありません。
けれども「神は愛です。」とあります。神さまのもっとも神らしさは、愛し愛される愛の関係に生きることにあります。神のかたちに造られた私たちが、神のかたちを回復される。このことを教父たちは「神のようになる」「神になる」と表現しました。たがいに恐れ合い、傷つけ合う私たちが、そんな生き方から解き放たれるすばらしさ。自分と異なる人びとと受け入れ合い、自分を与え合い、覆い合って生きる、奇蹟のような生き方をそのように表現したのでした。神が人となられたのは、それ以下のことのためではありませんでした。神さまのもっとも神さまらしさである愛、その愛を私たちに満たすために主イエスは最初のクリスマスに人となってくださったのでした。これは確かにめまいがするような恵みです。
【主イエスの栄光】
あまりにもすばらしすぎて、にわかには受け入れがたい恵み。けれども、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とありますから、この恵みはすでに成し遂げられたのです。私たちのうちに。教会の交わりのうちに、すでに。
そして主イエスはさらなる栄光を願います。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(5)と。私たちのうちに始まった主イエスの栄光はますます輝く栄光となるというのです。私たちを通して、私たちからあふれ出して。
私たちの愛があふれ出すのをとどめている傷があるならば、私たちの愛が流れ出すのをせき止めている歪みがあるならば、主イエスはそのこともご存じです。そしてほってはおかれません。ますます私たちに愛を注ぎ、ますます仲間との愛の交わりのうちに働いて、私たちを回復させてくださいます。それがご自身の栄光だから。
今、切ないほどの主イエスの愛のうちに、そのみからだと血潮である聖餐にあずかります。私たちをいやす主イエスのいのちに。