2022/05/20

主日礼拝 2022/05/22 「主イエスを愛する者として(第四主日)」

礼拝メッセージ「主イエスを愛する者として(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書12章1~8節
  • 加藤郁生師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




※本日分は説教要旨はありません。ご了承ください

※礼拝の中で大頭牧師の任職式が行われます


2022/05/13

主日礼拝 2022/05/15 「弟子とする神(第三主日)」

   

礼拝メッセージ「弟子とする神(第三主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章35~42節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)

今日の個所では、シモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてもう一人が主イエスの弟子に。このできごとを通して、主イエスの弟子となるとはどういうことであるかが語られています。主イエスの弟子となった私たちも、主が私たちにしてくださったことを、たがいに確認し合いましょう。


【ヨハネの弟子からイエスの弟子へ】

「その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。」(35)とあります。このふたりはヨハネが「見よ、神の子羊」(36)と言うのを聞いてイエスについて行きました。イエスの弟子となったのでした。ヨハネの福音書では、このようにアンデレともうひとりの名前の記されていないひとが弟子となりました。他の福音書ではペテロとアンデレがガリラヤで主イエスに招かれて最初の弟子となっていますから、ヨハネの福音書とは大きく異なる描き方になっています。これを矛盾と見る必要はありません。それぞれの記述には意味があります。主イエスが私たちに生涯にしてくださることを、それぞれが異なる強調点で訴えているのです。

ヨハネの福音書が強調するのはバプテスマのヨハネの役割です。彼の「見よ、神の小羊」という言葉が主イエスがふたりを弟子とする手助けになったのです。いつもお語りする通り、主語は神さま。人が主イエスに会うことができるのは、主語である神のわざです。けれども、神さまは人を通して働かれます。私たちも家族や友人といっただれかを通して主イエスへと招かれました。神さまは同じように、私たちを通して私たちのまわりのだれかに働かれます。私たち抜きでではなく、私たちを通して、私たちと共に働かれるのです。決算総会に向けて、信愛と明野の資料の準備を進めています。出席者名簿をチェックしていますと、召された方がたのことを思うのです。コロナの中で、どの方の葬儀もご家族だけで行われざるを得ませんでした。なんとも言えない思いです。けれどもこれらの人びとがキリストを受け入れ、キリストのいのちを生きていることに静かな喜びを感じます。こんな不思議を神さまがしてくださいました。神さまが家族や友だちといったキリスト者を通して、キリスト者と共に働いてくださったのでした。小さな私たちを通して、小さな私たちと共に。それが神さまの好むやり方なのです。


【何を求めているのですか】

そんな二人を振り向いて、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか。」(38)と訊ねました。主イエスは私たちを振り向いてくださるお方。そして私たちの望みをお訊ねくださる方です。

そんな主イエスへの二人の答は拍子ぬけがするようにも聞こえます。「私を救ってください」とか「世界を救ってください」ではなく、「どこにお泊まりですか。」(38)と訊ねたのです。しかし実は、この答はとてもよい答でした。彼らは、主イエスがどのようなお方かよくわからなかったのですが、それでもいっしょにいたいと願ったのです。

私たちも主イエスを受け入れたときには、主イエスについてそれほどよく知っていたわけではありません。頭の理解ではなく、むしろ心のうなずきを感じて、それもためらいながら、主イエスを受け入れました。けれども、主イエスはそのままにはしておかれません。私たちとじっくりと歩んでくださって、私たちの心の求めを呼び覚ましてくださいます。呼び覚まして実現してくださるのです。

私たちの中には、あの悩み、この苦しみを解決して欲しい、と願って教会に来た人もいます。けれどもしばらく教会に通ううちに気づかされます。教会に来たからといって、悩みや苦しみに対する直接の解決があたえられるわけではないのです。主イエスを信じたからと言ってすぐに病気が治るわけではないし、人間関係が急に改善されるわけでもありません。そういう意味では、私たちの求めは聞かれなかったことになります。けれども主イエスといっしょにいたいと願った二人のうち、アンデレは、兄弟であるシモン(ペテロ)に「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41)と言うのです。主イエスといっしょにいるうちに、主イエスがキリスト(救い主)であると気づきました。そしてアンデレの求めは「私はこの方によって救われたい。この方に世界を救って、世界の痛みをいやしていただきたい」という求めに変わっていました。主イエスといっしょにいることによって、主イエスが変えてくださいました。すでに変えられ、今も変えられ続けているたがいを喜ぼうではありませんか。



2022/05/06

主日礼拝 2022/05/08(母の日) 「子羊である神(第二主日)」

  

礼拝メッセージ「子羊である神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章29~34節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


ヨハネの福音書で主イエスの言葉やわざが記されているのは2章以後。ですから1章は、この福音書のプロローグ(序章)にあたると言えます。ヨハネの福音書を読み進めるための心備えをさせる役割を担っているのです。私たちも続いてのための備えをさせていただきましょう。


【イエスが来られるのを見て】
「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て」(29)とあります。バプテスマのヨハネが主イエスを見つけたのではありません。主イエスのほうからヨハネに会いに来てくださったのでした。このことはたいせつです。私たちのうちでクリスチャン・ホームに生まれた人は、そのように神さまが備えをしてくださったことを感謝するべきです。またクリスチャン・ホームに生まれたのではない人びとは、神さまがそんな私たちを訪ねてくださったことを感謝するべきです。どちらも神さまが備えをしてくださいました。私たちではありません。


【私自身もこの方を知りませんでした】
「私自身もこの方を知りませんでした」は31節と33節に繰り返されています。これは不思議です。ヨハネは主イエスが来られる前から、主イエスを証ししていました。自分は、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』(23)だと言っていたのです。それなのに自分は主イエスを知らなかった、と言うのです。そんなヨハネが主イエスを知ったのは、「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(34)とあるように、「それ」を見たときです。「それ」とは『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』(33)にあるように、主イエスがバプテスマを受け御霊が主イエスの上にとどまったことです。つまり、バプテスマのヨハネは主イエスを知らないで、主イエスの道ぞなえをし、主イエスを知らないでバプテスマを授け、そのとき初めて主イエスを知ったというのです。なんだかいい加減なような気がしますが、もちろんそうではありません。主イエスを知らなかったヨハネが主イエスを証しすることができました。それは神さまのみわざです。自分が知らない主イエスを証しせよ、と言われたヨハネ。ヨハネがとまどいながらした証しが、神さまによって整えられ、証しとして役割を果たすことができたのでした。
私たちも同じです。私たちが主イエスを受け入れたとき、どれほど主イエスのことを知っていたでしょうか。とまどいながら、半信半疑といってもよい状態で受洗し、キリスト者としての歩みを始めたのではないでしょうか。そもそも主イエスを十分に理解し、揺るがない決断をしなければ信仰者になることができないとするなら、だれにもそんなことはできません。けれども幸いなことに私たちを導いてくださるのは神さまです。神さまがとまどう私たちを歩みださせ、そうして歩むうちに私たちは主イエスを知ったのです。今も、知り続けているのです。歩んでみてわかることがあります。歩まなければわからないことがあるのです。


【見よ、世の罪を取り除く神の子羊】
バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(29)と語りました。これこそが彼の証しの中心です。聞いた者たちの中にはイザヤ書53章7節を思い浮かべた者たちもいたことでしょう。こうあります。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と。私たちの罪と弱さ、傷と痛みを負って、十字架に架けられた主イエスのお姿です。私たちが罪の中で、神の赦しを知らず、たがいに傷つけ合っていることを見ていることができないで、この世界に来てくださった主イエスのお姿です。
今日、母の日。なにかそれにちなんだことを、とも思いましたが、やはりルターのことを語ることにします。前回、明野でこの個所から語ったのは、去年の10月31日。ちょうど宗教改革記念日でしうた。宗教改革の先頭に立ったルターが、その四年後に盟友メランヒトンに宛てた手紙は有名です。

あなたが恵みの説教者であれば、つくりものの恵みでなく、ほんものの恵みを説教しなさい。もしそれがほんものの恵みであれば、つくりものの罪でなく、ほんものの罪を負いなさい。神はつくりものの罪人を救いたまいません。罪人でありなさい、大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。(中略)たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎると、あなたは思うのですか。大胆に祈りなさい、もっとも大胆な罪人になりなさい。

「大胆に罪を犯しなさい」とか「日に千度」といったルター特有の表現は賢く聞いてください。ルターは、キリストの贖いがそこそこのものとして受け取られることにがまんができませんでした。キリストにあって、神が全力を挙げて私たちを赦してくださったからです。贖ってくださったからです。そして「世の罪を取り除く神の子羊」が、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪から回復させ、愛に生きるものにしてくださっていることはいつもお語りしているとおりです。


2022/04/24

主日礼拝 2022/04/24 「ひとり子の神(第四主日)」

   

礼拝メッセージ「ひとり子の神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章14~18節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


【ことばは人となって】
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)。この「ことば」は主イエス。天地創造を担われたまことの神が、人となって私たちのところに来られたのです。人となることには覚悟が必要です。人は死にます。十字架の上で死ぬことさえも、覚悟のうえで神は人となりました。そんなにしてでも私たちのところに来ることを望んでくださったのでした。
なぜなら「私たちはこの方の栄光を見た」(14)、これを神が望んだから。旧約聖書を通して、人間は神の栄光、すなわち神を見ることはできない、それを見たら罪ある存在である人間は死んでしまう、そう語られています。「いまだかつて神を見た者はいない。」(18)のです。神は本来見ることができないお方です。だから「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18)とあるように、主イエスが来てくださいました。説き明かすというのは、単に言葉で説明したのではありません。主イエスにおいて人間が神を知り、神のお姿を実際に見ることができたのでした。私たちにご自分を見させ、触らせ、愛し合わせ、神と共にいきることができるようにと、神が望んでくださったのでした。
けれどもそれは当時の弟子たちだけに起こったことではありません。私たちにも起こっています。それが教会です。神さまは私たちに会わずに満足なさることができないお方。ですから、主イエスの体である教会を与えてくださいました。私たちと会うことを神さまは望んでおられます。この礼拝は神が望まれた礼拝です。いま、ここで神が私たちに会ってくださっているのです。そして、神は私たちと共に生きることを望んでおられます。礼拝が終わると、神は私たちと共に、それぞれの場所に出て行ってくださるのです。なぜなら教会は建物ではなく、主イエスと結び合わされた者たちの群れだからです。

【恵みとまこと】
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17)とあります。主イエスが人となってくださったので「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(18)のです。その恵みとまことは、モーセによって与えられた律法の実現です。律法は神と共に歩く歩き方を教えるもの。けれどもイスラエルはそんな歩みに失敗し続けてきました。しかし、いま、主イエスが来られました。恵みとまことをたずさえて。その「恵み」は大きな恵み。神が人となって私たちに会い、私たちと共にいてくださることを望んで、実行してくださったのです。その「まこと」はさらに驚くべきまこと。人となった神が私たちの罪のために十字架に架かってくださったのでした。
私たちの罪。私たちは愛し合いたいと願いつつも、愛を循環させることができないで、苦しみます。率直に語り合い、悔い改め合い、赦し合い、慰め合う循環がどこかで遮られてしまって悲しむのです。たがいを信頼して心を開くことができない恐れが原因であることが多いようです。そうやって立ち尽くす私たちの間に、主イエスが立っています。そして私たちの恐れも歪みも痛みも、そのすべてを十字架で担い、十字架で処分してくださったことを思い出させてくださるのです。

【聖霊によって】
主イエスの恵みとまことは、あまりに私たちの深く、せんさいな部分に届くできごとであるために、表現することも、腑に落ちることも、なかなか時間がかかることもあります。けれども、私たちはみな、どこかでそんな恵みとまことに触れたひとりひとりです。それは理解して納得したからというよりは、聖霊によって知らされたのでした。聖霊は今も私たちに、恵みとまことをさらに満ちさせ、さらに豊かに注いでいます。
私たちは工事中です。まだ完成してはいませんから、しばしば罪、すなわち愛の循環が遮られることを経験します。けれどもこの工事は、世界の回復のための工事。破壊のための工事ではなく、やがて完成する工事です。工事中というとサクラダ・ファミリア教会をイメージする方も多いでしょう。すでに130年も工事中ですが、コロナでさらに遅れているようです。それでもこの傑作はやがて完成します。工事中の私たちも主語である神さまが、愛を動機として、心を開く私たちを通してますます愛する者へと日々変えてくださっています。そんな私たちを通して世界を変えてくださっているのです。

2022/04/17

イースター礼拝 2022/04/17 「証しされた神(イースター)」

  

礼拝メッセージ「証しされた神(イースター)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章6~13節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


イースターおめでとうございます。
これまで2回、ヨハネの福音書の冒頭の部分から聴きました。そこでは1「言(イエス・キリスト)」は人格的な「あなた」と呼びかける存在であること2イエス・キリストは天地創造に関わっていたまことの神であること3イエス・キリストは私たちを生かすいのちであり、暗闇にいる私たちを照らす光である、と語られていました。今日は続く部分から聴きます。

【天から地へ】
「言」「いのち」「光」など天的な語を用いていたヨハネは「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。」(6)と地上のひとりの人に視点を移します。抽象的ともいえる5節までの神さまが、実際に地上に力を及ぼすさまが6節以下に、描かれるのです。
ここでもヨハネの福音書は他の三つの福音書とは異なる記し方です。他の福音書ではバプテスマのヨハネは、罪を責めて、人びとに悔い改めを促し、悔い改めのしるしとしいて洗礼を授けました。ところがヨハネの福音書には、「この人(バプテスマのヨハネ)は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)とあります。この福音書におけるバプテスマのヨハネの視線は「言」「いのち」「光」である主イエスに注がれています。そして私たちの視線も持ち上げさせて主イエスを見させようとするのです。私たちは証しというと、自分の信仰の体験談という意味で使うことが多いと思います。それはいいのですが、問題はそこで主イエスに視線が向けられているかです。そこがたいせつなのです。

【証しするということ】
このように、証しとは、光である主イエスを指し示すことなのですが、それはただの客観的な知識を伝えることとは異なります。証しは決断を迫ります。11節には「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあり、12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。証しを聞いた者たちの反応はふたつに分かれます。光を見たときに、その光の中にとどまるか、それとも暗闇の中に戻るか、に分かれるのです。
すべての人を照らすそのまことの光」(9)とあります。それなのに受け入れない人がいるのは不思議でもあり、痛みでもあります。けれども最も痛んでおられるのは神さまであること、そして、神さまはどこまでもあきらめないで照らし続けてくださっていることを覚えておきたいと思います。

【神の子どもとなる特権】
子どもとなる特権をお与えになった」(12)とあるとおり、神の子となることは、神から与えられた特権です。そもそも特権というのが、権威をもっている人から与えられるものです。自分で自由になるものではないのです。ここに自由意志と神さまのあわれみの緊張関係があります。キリスト教会ではずっと二つの立場がありました。(1)私たちは自由意志で救いを選び取ったから救いに入れられた(2)私たちが選び取ることができたのは神の予定による、この二つです。けれども、この二つは補い合うことによって、私たちへのより大きな神さまの愛を浮かび上がらせているように思えます。私たちが選び取ったといえばそうなのだけれども、けれども私たちが選び取るために、神さまがずっと語りかけ、聖霊によって励まして、選び取らせてくださったこと。また、神さまが特権を与えたという意味では、神さまの予定と言えなくもないのだけれど、やはり神さまは私たちに選び取る余地を残しているのです。神さまの愛は大きくて、言葉では語りつくすことができません。神さまは私たちの意志に呼びかけながら、同時に応答する力も注いでくださっています。
神さまの大きな愛は、今は応答することができない人びとにも、注ぎ続けられています。すべての人をあきらめきれないあわれみのゆえに。御子を十字架に架けるあわれみのゆえに。そのあわれみに気づくようにと、神さまは忍耐強く優しく招き続けてくださっているのです。私たちの愛する人びとをも。ですから、未信の家族や知人のために焦ってはなりません。神さまが彼らをどれほどに愛しておられるのかを覚えていましょう。彼らのためにどれほど痛んでおられるのかも。
北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」で知られます。神が痛むなんて!エレミヤ書31:20。「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤(あわれ)むべし」(文語訳聖書)。はらわたが痛むほどの愛が私たちにも彼らにも注がれているのです。心に血と書いてあわれむ。神の心が血を流すほどに私たちをあわれんでくださっているのです。そのあわれみが凝(こご)って、子なる神であるイエスは、ほんとうに十字架の上で痛み、血を流されました。だから私たちは救われました。神の痛みによって、今、神の子とされているのです。
未信の家族や知人にも、神のはらわた痛む愛が注がれています。だから落ち着いて、彼らをよく見て、よく耳を傾けましょう。そこから必ず何かが始まります。

【証し人として】
主イエスは、バプテスマのヨハネは「ヨハネは燃えて輝くともしび」(5:35)だと言いました。私たちも主イエスの置かれた場所で光として輝いて、主イエスを指し示します。もうすでに、指し示しています。復活の主イエスを見上げ、復活の主イエスを証ししているのです。

2022/04/10

教会での礼拝を再開しています。

・感染症対策(マスクの着用/入退出時の手指の消毒/入口での検温/間隔をあけてのご着席)にご理解とご協力をお願いいたします。 

・不安に感じられる方はご無理なさらず、オンラインの配信をご覧下さい。詳しくは教会にお問い合わせください。 

主日礼拝 2022/04/10 「光である神(棕櫚の主日)」


 

礼拝メッセージ「光である神(棕櫚の主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章1~5節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




ヨハネの福音書お冒頭の部分はたいへんに内容豊かなところです。先週に続き、もう一度聴きます。

【初めにことばがあった】

1:1 初めにことばがあった。この「初めに」という単語には、「時間的に一番はやい」という意味以外にも「起源、根源、土台」と言った意味があります。この世界の起源、根源、土台は「ことば」なのです。私たちの人生の起源、根源、土台は「ことば」なのです。ことばなんかあてにならない、と思わないでください。あてにならないのは人間のことば。けれども神のことば、神の語りかけはちがいます。神のことばは世界を創造したことば。そして神のことばは主イエス。私たちのために人となって私たちの間に来てくださった主イエスが、神のことばなのです。だから神のことばは単なる口先のものではありません。だれも見たことがない愛のあらわれを、この世界に実際にもたらすことばなのです。

私たちの人生は、このことばに起源、根源、土台を置いています。主イエスが私たちの人生の土台なのです。ある牧師は「自分の存在の底がキリストである」と言いました。どんなに私たちが落ちていっても、底より下はありません。その底でキリストが私たちを支えています。「信じたら救われる」とはよく聞かされる言葉です。それはそうなのですが、では、私たちの信仰が心もとないときは、私たちは救われていないのでしょうか。とんでもありません。だめだと思う私たちのまだ下の底にキリストはおられます。そこでだめな私たちを支えてくださっているのです。そして、主イエスに土台を置くときに、私たちの人生は変わります。目に見えるところ、意識している部分よりももっと深いところで私たちは変えられました。変えられ続けています。


【三位一体の神が】

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。ここで「この方」と呼ばれている主イエスは、神とともにおられました。「神とともに」と言われると、主イエスは神ではない、ということになりそうです。実際、教会の歴史にそのように考える人びとは常にいたのですが、ヨハネの福音書は、続けてはっきりと「ことばは神であった。」(1)と記します。主イエスは父なる神とともにおられた神。子なる神。教会は聖霊なる神をこれに加え、三位一体という言葉を、聖書から汲みだして語るようになりました。神は三なのか一なのか。どちらかに決めて納得したいのが人間の思いですが、実際に存在するものは、私たちの納得のために存在しているわけではありません。私たちの理解よりも大きな存在があり、私たちの理解よりも大きな愛があります。子なる神を私たちのために遣わされた父なる神。私たちのために遣わされてくださった子なる神。そんな愛を私たちにわからせる聖霊なる神。私たちの理解を超えた愛ゆえに、ひとりの神が、その三位の総力をあげて私たちを愛してくだっている。そんな愛を知ることが三位一体の神を知ることです。


【このいのちは人の光であった】

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。とあります。主イエスにはいのちがあります。そして主イエスを土台とする人にはいのちが与えられているのです。ヨハネはこのいのちは光、人を照らす光だと言います。今も主イエスのいのち、主イエスの光はすべての人を照らしています。それなのに人は、光に背を向け、神に背を向けて闇を自らつくりだしてしまいます。けれども、ヨハネは続けます。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

そんな闇に主イエスが輝いています。神である主イエスが人となって、闇を照らすために来てくださったのです。この世界を、愛の言葉と愛のわざ、そして十字架と復活によって照らしてくださいました。神の愛のことばは主イエスにおいて、輝きの頂点に達したのでした。

闇は光に打ち勝ちませんでした。神さまに背を向ける私たちの闇に主イエスが打ち勝ってくださったのです。だから私たちは光の中を歩みます。ときには自分は信じているのだろうかと思うときもあります。闇の中にいるのでは、と。それでも光の中にいると信じて歩むのです。やがて光が感じられるときがきます。そんな私たちを通して周囲の人びともまた光に招かれていきます。光である神、主イエスがそうしてくださいます。主イエスはそのために、棕櫚の主日に、ろばにのった王として来られた神なのです。