今日は天授ヶ岡教会の会堂補強工事完成のお祝いの日です。なにか天授ヶ岡教会の歴史を織り込んだメッセージでも、と思わないこともないのですが、やはり、いつもマタイから聴くことにしました。どの場所で礼拝を守るにしても、私たちが聴くべきはただ一つ、主イエスの言葉だからです。この会堂で78年語られ、聴かれ続けてきた主のお言葉を今日も聴きます。
【多忙な一日】
マタイは、主イエスが山上の説教を語り、山から降りて、ツァラアトに冒された人と百人隊長の中風のために家で寝込んでいたしもべをいやし、ペテロの家に入って、彼の姑(しゅうとめ)をいやすまでを一日のできごととして描きます。なんとも多忙な一日ですが、このことが示しているのは、「イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(7:29)とあるように、主イエスのお言葉は権威あるお方の言葉であること。また、「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8b)と百人隊長が言うように、その権威は実際に病をはじめとする世界の破れに回復をもたらす主のみわざに現れること。主は愛のおことばと愛のわざによって、私たちの心とからだ、神さまとの関係、たがいの関係、そして世界を、権威をもって回復させてくださるのです。
【愛の権威】
けれども、主イエスの権威は、思いのままに万能の力を振るうという権威ではありません。それは愛の権威。ツァラアトに冒された人に主イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」(3a)と言われました。神への礼拝からも仲間との交わりからも切り離されたこの人を放っておくことができなくて、愛を注ぎ出してくださったのです。あわれみに心を熱くして。主イエスの権威は愛の権威。父と子と聖霊が、ひとつの思いで注ぎ出してくださる愛なのです。世界を造り、世界を保ってきた愛が、いま世界の破れにむかってほとばしるのです。
【私たちの病を負ったお方】
マタイはここで「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」(イザヤ53:4)を引用します。この「わずらい」や「病」は、ただ肉体の病気のことだけではありません。ツァラアトに冒された人も百人隊長の中風のために家で寝込んでいたしもべも、やがて死にました。けれども、主イエスのいやしは私たちの存在そのもののいやしです。罪を犯したくないのに、私たちを罪へと引きずり込むゆがみや傷を、主イエスは負ってくださいました。ご自分が負うことによって、私たちの重荷を降ろさせてくださったのです。十字架の上で。でも、この個所のいやしは十字架の前ではないか、とおっしゃるでしょうか。確かに、まだ十字架の時ではない。けれども、主イエスは、いわば前払いのように、ここでいやしを注いでくださいました。あわれみに胸を熱くして。カナの婚礼のときのように。
【新たになった会堂で】
こうして主イエスは私たちを解き放ってくださいました。山上の説教での「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(5:3)も「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(5:4)も、主イエスが与えてくださった新しいいのちの生き方です。主イエスご自身が幸いであり、主イエスご自身が慰めです。愛の権威をもって、主イエスが私たちの幸いとなり、慰めとなってくださっているのです。
天授ヶ岡教会を語るときに、ホーア先生と福田八重先生を忘れるわけにはいきません。けれども、両先生を愛の言葉とわざに駆り立てたのは主イエスの愛の権威であることを、何よりも忘れてはなりません。私は宣言します。この新しい会堂で語られるべき名は主イエスの名だけであることを。それはもちろん明野でも信愛でも同じです。
「イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」(15)は目に浮かぶような美しい情景です。この女性がいやされていそいそと主イエスに仕えるのです。愛を注ぐのです。罪の中に死んでいた私たち。そこから主イエスに抱き起された私たちは、主を愛します。たがいを愛します。世界を愛し、その破れに愛を注ぎます。三つの教会がなお、この愛を夢中で生きるように。