2026/11/02

礼拝メッセージ「心の主」マタイの福音書8章1-4節 大頭眞一牧師 2026/09/27


「山上の説教」を終えました。「イエスが山から下りて来られると、」(1)とあります。主イエスは山を下りました。8章と9章には、主イエスの「みわざ」が語られています。5章から7章の主イエスの「みことば」と合わせて、主イエスの宣教の全体の姿が浮かびあがるのです。目撃したのは「大勢の群衆がイエスに従った。」(1)とある人びと。主イエスに従おうとする私たちにも、語られているのです。

【ツァラアト】

「ツァラアト」はかつて「らい病」と訳されていた語。けれどもその症状や家なども「ツァラアト」になることから、「らい病」とはまったく異なる、現代には存在しない皮膚の疾患であることが明らかになりました。翻訳しようもないので「ツァラアト」と表記されています。はっきりしていることは、この病気にかかった者は汚れた者とみなされ、神の民イスラエルの祭儀、つまり神への礼拝に連なることができなかった、ということ。礼拝に、そして生活において人びとから隔離され、社会との接点を絶たれてしまうという苦しみの中にあった。その人が、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2)と願ったのでした。

この「ひれ伏し」は、マタイが好んで用いた言葉。たとえば2章で、東の方からの博士たちが、「幼子を見、ひれ伏して礼拝した」(11)とあります。このツァラアトの人は、主イエスに従い、主イエスを礼拝しました。その願いは、ただ病気を治して欲しい、というのではありません。神を礼拝する神の民に加えられ、仲間と共に主イエスに従っていくこと。仲間と共に世界の破れの回復に身を投じることでした。

【主イエスの心】

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2b)は「もし、それがよいとお考えんなら、私をいやしてください、そうでなかったら、それは仕方ありません」ということではありません。問題となっているのは主イエスの心。主イエスの願いです。主イエスの心はどこにあったか。すべての人がご自身に従う者となること。そしてとりわけ、このツァラアトの人のように、主イエスに従う者たちが、共に礼拝をささげ、共に世界の愛の破れに愛を注ぎ出すこと。だからこのツァラアトの人の心は、主イエスに一致していました。ですから主イエスはおっしゃる。「わたしの心だ。きよくなれ」(3)と。主イエスは「そうだ。それがわたしの心だ。あなたの願いこそ、わたしの願いだ。きよくなれ。礼拝を妨げ、愛のわざから遠ざけるものどもからあなたを解き放ってあげよう。生きよ。愛せよ。さあ、行こう。」と。

私たちは病や事故、災害の中にあって癒しや守りを祈ります。それは当然のことです。また神さまも祈るまでもなく最善以下のことはなさいません。けれども、この聖書の箇所は、信仰が足りなければ癒されない、とか、祈りが足りなければ癒されない、と言ったことを語っているのではありません。

【私たちの心も】

私たちの心もまた主イエスの心とひとつです。主イエスに従い、主イエスと父なる神を礼拝し、主イエスと共に世界の三つの愛の破れ、神と人との、人と人との、人と世界との、愛の破れを繕うために身を投じたいのです。「自分はまだまだそこまでは…」とおっしゃる方がいるでしょうか。そんなときは、私たちがだれであるかを思い出させ合います。私たちは、主イエスの十字架によって、私たちを神から遠ざけるすべて、罪の原因と罪そのものと罪の結果から解き放たれました。そして主イエスの復活によって、新しい、永遠の、愛のいのちを与えられました。すでに私たちの本質は、主イエスに従う弟子であり、主イエスを礼拝する共同体、世界の破れに身を投じる共同体の一員です。そもそも「自分は、ここにふさわしいのだろうか」という疑問は、共同体の成員以外には生まれないのですから。

「そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」(4d)、このささげ物が、つまるところは、神と人への愛であることを私たちは知っています。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


11/8(日) 召天者合同記念礼拝のご案内 「従わせる主」マタイの福音書8章18-22節

11月8日(日)は、召天者合同記念礼拝です。先に天に召された方々を覚えて、ご家族やご友人とともに礼拝をささげます。天授ヶ岡教会・明野キリスト教会に加え、直江津愛真教会とも合同の礼拝です。どなたでもお越しください。

教会に通っている方も、そうでない方も、初めての方も、どなたでもお気軽にお越しください。聖書は教会に用意してありますので、お持ちでなくても大丈夫です。😊

👋 初めての方は 礼拝に初めて来られる方へ をご覧ください。
🌏 English: First-Time Visitors | 한국어: 처음 오시는 분께

🕊️ 「わたしに従って来なさい。」
マタイの福音書8章22節

🗓️ 当日の予定

9:30-10:15🧒 教会学校 信仰の学び「十戒⑩」(3階牧師室)
幼児から高校生までの子どもたちが、聖書を学ぶ時間です。保護者の方もご一緒にどうぞ。
10:30-11:45✝️ 召天者合同記念礼拝 説教「従わせる主」大頭眞一牧師
マタイの福音書8章18-22節
礼拝後🍽️ 昼食(愛餐会、教会内)
礼拝の後、ともに食事をいただきます。
午後🌷 墓前礼拝(墓地にて)
墓地へ移動し、召天者を覚えて祈ります。

⛪ 会場:京都信愛教会(京都市北区大将軍坂田町21番地12)

📖 礼拝プログラム(10:30-11:45)

前奏(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
招詞詩篇107篇30節(旧約 P.1050)
讃栄60
賛美2
主の祈り新聖歌 P.826
交読新改訳24 詩篇67篇(新聖歌 P.898)
信仰告白使徒信条(新聖歌 P.826)
牧会祈祷大頭眞一牧師
賛美209
聖書マタイの福音書8章18-22節(新約 P.14)
説教「従わせる主」大頭眞一牧師
祈祷
賛美・献金233
感謝
頌栄讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ) 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
祝祷大頭眞一牧師
報告司会者
カテキズム大頭眞一牧師
その後、各教会での報告、祈祷

🏠 今週の集会

11/11(水)🔕 水曜祈祷会はお休みです
11/14(土)
17:00-18:00
🎸 青年祈り会
高校生から青年の方の集いです。聖書を学び、賛美し、互いのために祈ります。

2026/11/01

礼拝メッセージ「土台の主」マタイの福音書7章24-29節 大頭眞一牧師 2026/09/13


いよいよ「山上の説教」の最終回となりました。「山上の説教」を聴き始めたのが、去年の8月3日ですから、5章6章7章の三つの章を、一年以上かかって聴いたことになります。聴くうちに私たちのうちにキリストのいのちがみなぎったことを祈るばかりです。今日の箇所で主イエスは一つの譬えで「山上の説教」を締めくくられました。

【家と土台の譬え】

この譬えはとてもわかりやすい。子どもの聖書神芝居の定番です。岩と砂はしっかりした土台ともろい土台を表しています。目に見えない土台の部分をどれだけしっかりしたものとすることができるか、それがその家の本当の価値を決めます。また、岩の上に家を建てるのは、砂の上に建てるよりもずっと大変です。時間をかけ、苦労して土台を築くか、それとも安易な楽な道を選ぶか、主イエスが問うているのはそれです。

【嵐と戦う家】

家を建てる譬えが語っているのは、私たちの人生、私たちの生き方。自分の人生の土台を何に置き、どう生きるかが問われています。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(24)とあります。主イエスのことばを聞いて行うことが土台です。そう聞くと、私たちはなにかつまらなく感じてしまうかもしれません。「なんだ。結局、善いことに励みなさい。悪いことはしないように。そうしたら安全無事に人生を過ごすことができる。家が、つまり人生が転覆するようなことはない、と。わかりきったことだ」と、そんなふうに思って。

けれども主イエスは「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」(25)とおっしゃる。雨や嵐が私たちの人生を襲うのです。安全無事どころではありません。けれども、岩の上に立った家は、嵐と戦うのです。窓ガラスが破れたり、屋根が壊れたり、そんなこともあるでしょう。けれども、傷だらけになっても、その家は、住む人を、あるいは助けを求める人びとを守ることができるのです。

【あなたの人生の土台】

こうしてずっと「山上の説教」を聴き続けてきたみなさんには、この土台が何か。明らかでしょう。それは、すでに私たちに与えられています。父なる神があたえてくださった、新しいいのち、主イエスのいのち、愛のいのち。主イエスの十字架と復活によって与えられ、受け取ったこのいのちです。

このいのちがもたらす生き方、主イエスのことばを聞いて行う生き方は、「山上の説教」の全体から、何度も聴いてきたとおりです。

「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」(5:22)は、兄弟にとどまらないで、敵との和解さえも願って止まない生き方が、すでに私たちのうちに始まっていることを。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(5:29)は、自分の姉妹を見るように異性を見て、いつくしむ、そんな愛が私たちのうちにすでに始まり、ますますあふれることを。

だから私たちの人生の土台はすでに堅い岩の上に据えられています。土台を築く工事は困難でしたが、主イエスが十字架と復活によって成し遂げてくださいました。そうは言われてもピンとこない私たちのために、父なる神さまは「子よ」と呼びかけ、抱きしめて、時間をかけて私たちを育ててくださっています。

【倒れることがないように】

砂の上の家は「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(27)は脅かしではありません。むしろ、岩の上にすでに建っている家が、その土台を、砂に置き換えるなど、ありえないことです。そんなありえないことを錯覚することがないように。今日も、主イエスは、私たちの土台はもう据えられていて、ゆるぐことがないことを宣言してくださいました。私たちは、仲間といっしょに確かに聴かせていただきました。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/10/24

礼拝メッセージ「良い実の主」マタイの福音書7章15-23節 大頭眞一牧師 2026/09/06


「狭い門から入れ」と主イエスは教えます。私たちの前には二つの道がある。ひとつはイエスと共に歩く生き方。人目につかず多くの人が見向きもしない道です。もうひとつは、多くの人が選ぶ道。イエスと別れて歩く道です。主イエスは狭い門を通り、小さな道を選び、選び続けるようにと私たちを招きます。そこには愛のいのち、永遠のいのち、喜びのいのちがあるからです。私たちはみな、そのように狭い門を通った人びと。今からも小さな道を歩き続けたいと願っているひとりひとり。まずはこのことを喜びたいと思うのです。

【牧師を吟味せよ】

ところが、どの道がイエスと共に歩く道なのかは、それほど明らかではありません。より多くの犠牲を強いる厳しい道が正しい道かというと、そうとも限りません。カルトを見ればよくわかります。多くの人びとが、財産や時間をしぼりとられ、人生を破壊されています。それが、イエスに従う道だと信じ込んでいるのです。

ですから主イエスは「偽預言者たちに用心しなさい。」(15a)と戒めます。ここでいう「預言者たち」は、旧約聖書の預言者たちのことではありません。教会で神の言葉を伝え、信仰の指導をしている人びと。「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼(おおかみ)です。」(15b)。ともあります。この狼は教会の偽の指導者。ですから主イエスは「教会の指導者の言うことを鵜呑みにしてはならない。牧師の言うことが正しいとは限らない」と、おっしゃるのです。

もちろん、単なる好き嫌いや、自分の考えに合うかどうかで批判するのは違うでしょう。けれども、聖書に、また教会が語り継いできた伝統に照らし合わせて、牧師が本当に神の言葉を語っているかを、判断するのです。

【そして自分を】

ただ、このことは、牧師の言動を疑いの目をもって監視せよ、ということではありません。それ以上のことです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(23)と主イエス。これは牧師たちだけではなく、すべての信仰者、すなわち私たち自身に言われていること。主イエスの望みは、私たちの心が、ご自分と共にあること。世界の痛みと共にあること。だから、「しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(23)と私たちを招かれるのです。脅かすのではなく、愛をこめて、愛を求めるのです。

【良い実の主】

ですから、私たちは指導者を、そして私たち自身を吟味します。「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17)が、その見分け方です。「良い実」とは「天におられるわたしの父のみこころを行う」(21)こと。けれども、それは行いそのものが問題になっているのではありません。いくら「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」(22)と訴えても、そこにイエスのいのち、新しいいのち、愛のいのちがなければ、イエスと共に、狭い門、小さな道を歩んでいるとは言えない。「だから、あなたがたの心がわたしの心と共にあるように。あなたの行いに心が伴っているように。わたしがそうしてあげよう。それをさまたげる恐れを、傷を、歪みをわたしにゆだねなさい。」と主イエスは今も、語っておられます。

【みこころを】

父のみこころとは何か?私たちは5章からの「山上の説教」を通して、それを聴き続けてきました。それは「人に見せるために人前で善行を」(6:1)する生き方ではなく、だれも見ていなくても、思わず愛があふれだすいのち。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと」(6:31)思いわずらう生活ではなく、今、このときを神と共に、仲間と共に突き抜けた喜びに踊るいのち。「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(5:43)ではなく、自分を憎んでいる者との和解を願って止まないいのち。そんないのちはすでに私たちのうちに燃えています。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/10/23

教区合同礼拝メッセージ「何度でも 何度でも 何度でも 愛」出エジプト記32章30-35節 大頭眞一牧師 2026/08/30


トーラーは律法と訳されています。広義にはユダヤ教における神の教えや伝統的な律法全体を指しますが、狭義には旧約聖書の最初の五つである「モーセ五書」を指します。狭義のトーラーは出エジプトの後で与えられました。まず出エジプト、そしてシナイ山(トーラーが与えられ始めた場所)。この順序はたいせつ。イスラエルは、トーラーを守ったから救われたのではありません。何もしていないのに、ただ神さまの恵みによって救われ、それからトーラーを与えられた。ですから「おきて」や「いましめ」を連想させる「律法」よりも「教え」と訳するほうがよいのです。「救われた神の民が神と共に歩くための教え」です。十戒も十誡と書きたい。「神と共に歩く歩き方を教える十の愛の言葉」です。ですから伝統的にユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を進むトーラーに口づけします。神の愛の言葉、神のラブレターを愛するのです。そこに神の愛を感じ、神の心を聴くために。今日はトーラーから神の心を聴きます。

【私の名を】

驚くべき出エジプトの海割りの救いからわずか一か月。モーセが十誡を授かるために不在の間、イスラエルは早くも金の子牛を偶像礼拝します。

柔和なモーセは怒りを燃え上がらせ、十誡の石板を砕きます。たいせつな神の愛の手紙を砕くというのは異常な怒り。そして金の子牛を火で焼き、水にまき散らし、イスラエルに飲ませます。そして三千人が命を無くす。なんともすさまじい怒りです。私たちはこういう箇所を読むと「神さま恐ろしい。戒めを守らなければ」と思いがちです。けれども、モーセのこの怒りは、神を愛するゆえの痛みからであることを見逃してはなりません。

イスラエルを愛し、イスラエルを救った神さま。その愛に背を向けるイスラエルの愛のなさにモーセの心は痛みます。神の痛みとモーセの痛みが同期して嘆きがとまらないのです。そしてついにモーセの思いが噴き出します。「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(32)と。考えてみるとおかしな言葉です。モーセがイスラエルの人びとの罪を負えるわけではありません。またモーセの名がいのちの書から消されるなどありえないことです。それでもモーセは激しくイスラエルをあわれみ、思わずこう言ってしまいました。理屈の通らぬ愛を叫び、とりなしたのでした。

かつては「自分は口が重い」とかなんとか言って、尻込みしていたモーセです。そのモーセが我を忘れて自分を注ぎ出しています。いま、モーセの心は神さまの心と重なって同じ同期を刻んでいます。あわれみに胸を熱くして。こんなモーセに神さまはすくなからず慰められたのではないか、と私は思うのです。人間が神さまを慰めることができるなんて、とみなさんは思われるでしょうか。私が神さまを慰めるなんて、と。けれども、私たちは神のかたちに造られたおたがい。神の友とさえ呼ばれています。そんな私たちが、どうにもならないことと知りつつも、神さまの心を思って、嘆き、怒り、自分を投げ出すなら、それは神さまの慰めであるにちがいない、とそう思うのです。

【そして、主イエス】

ここで私たちが思い浮かべるのは、もちろん主イエス。神を愛することを忘れたユダヤの指導者たちへの怒り、例えば、宮清め。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、自分を投げ出された十字架の痛み、何よりも父との断絶の痛みを思うのです。その十字架と復活によって、私たちは神の子とされました。もうすでに。神の友に。だから神の心でこの世界をあわれみ、愛の破れをつくろうために自分を投げ出すお互いとされています。

「けれども私はそんな立派ではない」と尻込む私たち。罪の記憶、失敗の悔いが私たちを引き下ろそうとします。痛みの思い出、うずく傷が私たちの愛を妨げます。けれどももう私たちの内に癒しは始まっています。いつも申し上げることですが、神さまの愛の言葉の湯治と仲間との愛し合う実験、リハビリによって。愛し損ねたとしても、もう一度。何度でも、何度でも、何度でも、愛の冒険は続きます。あきらめない神さまの愛ゆえに。


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2026/10/19

礼拝メッセージ「入らせる主」マタイの福音書7章13-14節 大頭眞一牧師 2026/08/16


このところ、一般にもよく知られているが、本来の意味とは異なる用い方をされている聖書の箇所が続いています。今日の「狭い門から入りなさい。」(13a)はその最たるものでしょう。入学試験や就職試験で志願者数の倍率が高いときなどに「狭き門」といった使われ方がよくされます。けれども、それだと、この門はだれにでもはっきりと見えていることになります。見えているのだけれども入れない、定員が決まっているから。けれどもイエスさまの門は「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(14)とあります。この門はもともと人目にとまらない小さな門なのです。多くの人が押し寄せることなどない門なのです。

【小さな門】

また「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。」(14a)も誤解されている箇所。「二つの道があるときには、より険しく、より苦労の多い方を選べ。」そのような処世訓として受け取られることが多いのです。けれども、ここで主イエスがおっしゃっているのは、単に苦労をすることではありません。主イエスと共に生きること、主イエスと共に歩くことです。ほとんどの人びとが見向きもしない父なる神を信じ、主イエスを愛して洗礼を受け、聖霊によって励まされて、礼拝に集う。それが狭い道を通って、小さな門をくぐること。まさに今私たちがしていることです。そう、私たちは小さな門から入ったひとりひとりなのです。ですから主イエスは「さあ、わたしと共に歩け。わたしの与えるいのちを生きよ。それは人が見向きもしない狭い道であり小さな門。あなたはこの道と門を見出すことができた。わたしが招いたから。だからこの道を歩め。この門のうちを歩み続けなさい。」とおっしゃるのです。

【細い道】

細い道、主イエスのいのちの生き方とはどんな生き方なのか。それは、ここまでの山上の説教で語られてきた生き方です。

「殺すな」という律法に対して、主イエスは「まずあなたの(自分を憎んでいる)兄弟と仲直りをしなさい。」(5:21-24)と、積極的に人を愛し、敵対する者との和解へと招かれました。それは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:44)というまでに。そんな細い道、小さな門をどうしたら、と思う私たちですが、もうその歩みは始まっています。主イエスの十字架と復活によって。そして日に日にそんな歩みを妨げる、心の歪みや痛みを癒されつつある私たち。神のみ言葉の湯治を仲間との愛のリハビリによって。

「地上に宝を蓄えるのはやめなさい…自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(6:19-20)もまた、細い道、小さな門の生き方です。自分の善行や正しさにより頼んで生きるのではなく、天の父なる神を見つめ、その愛により頼んで生きること。

「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」(6:25b)もまた。細い道、小さな門の生き方です。天の父なる神は私たちを愛し、私たちの必要を満たしてくださいます。そればかりか、自分のおもいわずらいを手放して、ご自分により頼む私たちを用いて、世界の愛の破れを回復さえさせてくださいます。私たちの願いをはるかに超えて。

【主イエスの道】

細い道、小さな門は、主イエスが通られた道であり、門。ただ天の父により頼む主イエスの道の果てには十字架が待っていました。けれども、この道にはさらに復活があり、その結果として私たちに聖霊によっていのちが注がれることになりました。主イエスのいのち、永遠のいのち、新しい、愛のいのちが。繰り返しになりますが、私たちはもうこの細い道、小さな門から入ったひとりひとり。そしてますます愛のいのちに満たされ続けているひとりひとりです。そうしてくださったのは、私たちを放っておくことができなかった、父と子と聖霊の愛であることを今日も思い出させ合い、励まし合うことができることを喜びます。


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2026/09/22

礼拝メッセージ「同じようにさせる主」マタイの福音書7章12節 大頭眞一牧師 2026/08/09


「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」(12a)は、「黄金律(ゴールデン・ルール)」と呼ばれるところ。聖書を代表する教え、ともされているところです。信仰を持っていない人びとにもそう認識されているようです。だからこそ「黄金律」と呼ばれているとも言えます。「人からよくしてもらいたいと思うなら、人にもそうしてあげなさい。そうしたら同じようにしてもらえる」と。これだと信仰とは関係ない処世訓です。だから受け入れられます。実際、似たような処世訓は世界中に見られます。

【真の黄金律】

もちろん主イエスが処世訓を教えたわけはありません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」の「ですから」は、山上の説教のここまでの部分の全体を受けての「ですから」。つまり、主イエスの十字架と復活によって与えられた新しい生き方の結果としての「ですから」。ここに真の意味での「黄金律」があります。もうすでに私たちには、主イエスのいのちが与えられています。このいのちは私たちを押し出します。人にしてもらいたいことを、進んで、心を尽くして、したいと思う生き方。愛を注ぎ出さずにはいられない生き方、そんな生き方を生き始めているのです。「同じように人にしなさい。」と命令のかたちで書かれているのも、もうすでに始まった愛の生活をますます楽しむように、という誘いなのです。

【愛を妨げるもの】

熊本でまた地震がありました。京都教区も、以前のように、すぐに現地に向かうといったことが難しくなってきましたが、さっそく支援金を送りました。こういうときには「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」を思います。そのようにありたいと。

けれども、私たちが当事者となった場合によく経験するのは、自分が何かで困っているとき、悲しんでいるとき、あの人がああしてくれたら、この人にこうして欲しいと思う。ところがまわりの人に自分の願いが通じない、自分の期待通りに人が動いてくれない、と不満に思う。そうして、自分の苦しみは、まわりの人が助けてくれないからだと恨み、苦しみ・嘆き・悲しみがより大きくなってしまうのです。

【驚くべき愛】

主イエスはそんな私たちに、自分が助けてもらったら、して欲しいことをしてもらったら、自分もそのようにしなさい、とは言いません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、人がしてくれるかどうかとは、関係ないのです。むしろ、人が自分の願うこと、して欲しいことをしてくれない、助けてくれない、そういう現実の中で、そこでなお、自分がして欲しいことを人にしていく、人からは与えられなかった助け、慰め、励ましを自分は人に与えていく、そういうことを主イエスは私たちに求められる、いや、あなたがたはそのように生きている、そんないのちがもう始まっている、それを思い出せ、と励ましてくださっているのです。そんな驚くべき愛を。

十年前の熊本地震のとき、自ら被災者である牧師たちも加わり九州キリスト災害支援センター(九キリ災)が立ち上がりました。「キリストさん」と呼ばれる彼らは、「全キ災」へと展開し、能登でも活躍しています。自らが愛の起点として。

【さらに驚くべき愛】

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、まさに主イエスが私たちのためにしてくださったこと。この世の救いのために来てくださった主イエスを、世は敬わず、従わず、十字架の死へとおいやりました。私たちもまた、しばしば主イエスを忘れ、主イエスに背を向け、十字架などなかったかのように生きてしまいます。けれども、いえ、だからこそ、主イエスは私たちを愛し、私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果をすべて負ってくださいました。十字架で。私たちが「してもらいたい」と思わなかった「してもらえる」とも思わなかった愛を注いでくださいました。だから私たちは天の父なる神の子とされました。父と子の愛を聖霊によって、絶えず注がれている者に。今日もなお。


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