2024/09/16

礼拝メッセージ「主の祈り⑤悪より救い出したまえ」マルコの福音書3章26-27節 大頭眞一牧師 2024/09/15

天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【悪とは?】


悪は罪とは異なります。罪は、悪によって引き起こされる私たちの反応。悪はそれ自体、現実に存在する強い力、破壊と悪意の力です。そして人間が神ではないものを崇拝するとき、それが破壊と悪意の力に権威を与えることになるのです。サタンはこの悪の力を擬人化したものです。

「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈るのは、悪が神の良き創造世界、特に私たち人間に敵対しているからです。悪は私たちと神のあいだに、私たちおたがいのあいだに、私たちと被造世界とのあいだに破れを造り出し、分断して、切り離そうとします。

けれども主イエスは悪の力に勝利されました。十字架と復活によって。マルコの「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」(3:27)は、まさにそんな主イエスの勝利を語っています。イエスが悪の力(サタン)を縛り上げ、家財やその家(私たち)を悪の力から略奪して解放するのです。したのです。

ですから私たちもその勝利に与ることができます。「悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈ることによって、十字架の勝利を自らの内に取り込み、それによって自分自身と世界の中にある破壊の力に対して、さらもう一瞬、さらにもうひととき、さらにもう一日、と対抗することができるのです。

【こころみにあわせず】

「こころみにあわせず」とは試練や誘惑に合わせないでください、ということばかりではないでしょう。なぜなら、このように祈る私たちも、多くの試練や誘惑に直面するからです。(さらに言えば、私たちの知らないところで、どれだけの試練や誘惑から守られたかはわからないのです。)

マリアは受胎を告知されたとき、「ご覧ください。私は主のはしためです。」と言いました。処女降誕という大きなこころみのなかで、痛みを受け入れ、その痛みを通して、神の新しい世界が誕生することを願ったのです。ですから私たちも祈ります。「こころみにあわせず」と。試練や誘惑の中にあって、そこから逃げ出そうとする「こころみ」にあわせないでください、と。神さま、あなたとともに、世界の破れの回復のために働かせてださい、と。

【悪に向き合う私たち】

悪に向き合うまちがった方法が、三種類あります。

  1. 「悪というものは実際に存在しないか、存在しても大した問題ではない」(イエスの時代のサドカイ派)というふりをすること。悪の過小評価ですが、私たちはそれが偽りであることを身に染みてしっているはずです。
  2. 「我々は悪に呑み込まれ、すべてが悪に覆われていると思い込むこと」(イエスの時代のエッセネ派)。この考え方はすでに悪に屈服し、悪に支配されているのです。
  3. 「主よ、私がほかの人々とは違うことを感謝します。確かに悪は存在しますが、我々は正しく、聖なる者であり、悪と戦うために出陣するように召されています」(イエスの時代のパリサイ派)。この考え方は自分たちだけは正しいとする自己正当化です。

けれど、主イエスは、どの間違った方法にも与しませんでした。主イエスは、悪の現実と力を認めながらも、神の国の現実と力によって立ち向かいました。そして弟子たちに、私たちに「我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。」と祈りつつ、主イエスの勝利を、自分たちの中に、世界の破れに、実現していくことを教えて、その力を与えてくださったのでした。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/09/09

2024/09/02

礼拝メッセージ「必要なことは一つだけ」ルカの福音書10章38-42節 佐藤直哉牧師 2024/09/01

①主の足もとに座るマリア

39節「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

イエス様が弟子たちにみことばを語られている中に、マリアは大胆にも弟子たちとともにイエス様の足もとに座って、みことばに聞き入ります。マリアは、イエス様がすべての人を分け隔て無く特別な存在として愛してくださるお方であり、自分のためにも語ってくださると信じていました。それで彼女は主の足もとに座りました。主が私を愛し、私のために語ってくださると信じて、主の語りかけを聞く者はさいわいです。

②心が落ち着かないマルタ

40節「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』

マルタは弟子たちと自分は違うと意識していたのではないでしょうか。それで、マリアの大胆な行為をよく思っていなかったのでしょう。ただでさえ、いろいろなもてなしに落ち着かずにいたマルタは、イエス様に自分が正しいことを主張します。それは、場を支配し、イエス様さえも支配しようとすることばになってしまいました。マルタは主の愛に留まることより、自分が正しくあることを求めてしまったのです。

③必要なことは一つだけ

41~42節「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」

自分の力で正しくあることを求めると、主の愛を見失って多くのことに捕らわれて、心を乱してしまいます。必要なことは一つ、主の臨在に感謝して、ともに主の足もとに座り、主の愛に満たしていただくことです。それは奉仕を否定するものではありません。主の愛のための奉仕も必要とされます。そして、たとえみことばに聞き入っていたとしても、愛がなければ無に等しくなってしまいます。

イエス様が「それが彼女から取り上げられることはありません」と言われたことは、なんとさいわいなことでしょうか。私たちが主の足もとに座ることができるのは、イエス様が私たちを愛するがゆえに全てを捨て、人となられてこの地上に来てくださったからです。この世のどんな力も、私たちから主の臨在、主の愛を取り去ることはできません。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/08/26

礼拝メッセージ「光である主」マタイの福音書4章12-17節 大頭眞一牧師 2024/08/25


今日の箇所で、主イエスは人びとに語り始め宣教を開始しました。ここから心を開いて神の愛を聴きましょう。

【ヨハネが捕らえられたと聞いて】

ベツレヘムで生まれたイエスはナザレで育ちました。そして、30歳のころ、公の生涯の始まりに、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けました。ところが「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)とあります。ヨハネはヘロデ・アンテパス(かつて赤ん坊のイエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)が、兄弟の妻を奪って結婚したことを批判したために捕らえられました.ところがヘロデ・アンテパスは、当時ガリラヤの領主。私たちは、「イエスが退かれた」と聞くと、イエスが安全のために身を隠した、と思いがちです。ところがイエスはヨハネを捕らえたヘロデのお膝もとに行ったわけですから、かえって危険に身をさらしているのです。そしてそのガリラヤで宣教を開始されたのでした。

この「退かれた」は、主イエスが父なる神と向き合うために一人になったことを意味します。ヨハネの苦難に、ご自分の将来を重ね合わせて、これからのことを深く見つめられた。ご自分もまた、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、ローマに引き渡され、蔑みと罵りの中で十字架に架けられることに思いをめぐらされたのでした。

【人となられた神の苦しみ】

十字架を前にゲッセマネの園で、イエスは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。その後に「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と続くのですが、この二つの祈りは、すんなりとつながったのではなかったでしょう。苦しみの中で主イエスはご自分を差し出します。そして、苦しみの中で、父はイエスを受け取られたのでした。神が人となることのゆえに、そうでなければ味わうことがない苦しみを通りました。私たちに福音を与えるために。

【天の御国が近づいた】

福音とは何か。「天の御国が近づいた。」(17b)です。「天の御国」は、「神の国」つまり神の支配。世界はもともと神の支配のもとにあります。けれども、神の支配が、いま、新たな勢いをもって、この世界を覆います、イエスによって。イエスの十字架を通して。神の苦しみを通して。

「悔い改めなさい。」(17a)は、「自分の罪を認めて反省し、もう二度と繰り返さないように努めること」と考えられることが多いです。しかし聖書の悔い改めは、今まで背を向けていた神に正対し、心を開いて、その愛を受け入れること。「いま始まった新しい神の愛の迫りに、心を開け」と主イエスは招かれたのでした。私たちもその招きに応えたひとりひとりです。

【闇の中に大きな光が】

マタイはここでイザヤ書8章から9章を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(15-16)と。マタイは異邦人だけが闇の中に住んでいたと言っているのではありません。「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは自分たちのことだと言うのです。それは私たちのことでもあります。罪ゆえの闇の中で、手探りで進み、しばしばぶつかり合い、たがいに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きる私たち。どうしてこんなに苦しいんだろう、とうめくのだけれども、出口の見えない闇の中で、のたうつしかなかった私たち。けれども、そこに大きな光が!イエスの光が!そして私たちも、小さな光として、世界を照らすものとされたのでした。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/08/21

教会の会堂の紹介動画が公開されました。ぜひご覧くださり、お越しください!

 京都信愛教会の会堂を紹介します!


当教会の青年を中心に、KGK(キリスト者学生会)の山口翔主事にも協力いただきまして、当教会の会堂内を紹介する動画を公開しました。

「教会に行ってみたいけど、どんな様子か分からないから不安だなあ」とお思いの方はぜひ、動画をご覧になって事前にご確認ください。

集会は毎週日曜日午前9:30より教会学校が、10:30より主日礼拝が行われています。どなたもぜひ、お越しください。教会へのアクセスも合わせてご参照ください。

2024/08/19

礼拝メッセージ「主の祈り④我らの罪を」ルカの福音書15章11-32節 大頭眞一牧師 2024/08/18


天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

【罪の赦し?】

罪を赦すとはどういうことなのでしょうか。それは、罪が無かったことにすることではありません。罪人が受けるべき刑罰を免れさせることもまた、赦しの一部にすぎません。罪のゆるしとは、罪があるにもかかわらず、罪人を受け入れ、罪人を立てあげ、罪人を世界の回復のために仕える者とすること。その人本来の居場所、役割、使命にもどるのをゆるすこと。罪の奴隷から神の同労者にもどることをゆるすことです。

主イエスはこのことを放蕩息子のたとえで語られました。年老いた父は、赦しを乞う悔い改めの言葉をみなまで言わせません。そして、後継ぎのしるしの指輪までも身に着けさせるのです。もともと弟なので、後継ぎではないのに。また、主イエスは「あなたの罪は赦された」と語り、取税人や罪人と食事を共にしました。こうして罪の赦しが、罪びとの回復が、神の国が始まったのです。赦された私たちは罪悪感から解放されていきます。罪悪感に対する三つの誤った向き合い方に注意しましょう。

  1. 内向的になって想像上の罪悪感を生み出して悩む
  2. 罪悪感を否定する
  3. 罪悪感を抱えて自分を責め続ける

主イエスは十字架の上で、私たちを解き放ってくださったのですから。

【私たちが赦され、赦す】

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」には、気をつけなければならないことがあります。それは、私たちは神の赦しを得ることを目的に、他の人を赦すのではないことです。神に赦され、神の子とされた私たちの、自然な生き方が赦し合う生き方なのです。そんな生き方を通して、世界が新しくなっていくのです。

主の祈りを祈るとき、私たちの目はうめいている世界に向かって開かれて行きます。災害や戦争に痛んでいる人びとや、莫大な負債に苦しむ地域や国にも。神が私たちを通して、しようとしておられることが私たちの願いとなっていきます。祈りと生き方がひとつになるのです。

【負い目の赦し?】

マタイ版の主の祈りは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6:12)と「負い目」という言葉を用います。私たちに負い目を負っている人たちの中には、故意ではなく、偶発的に私たちを傷つけてしまった人もいるでしょう。けれどもその傷は残っています。そして私たちを苦しめます。けれども、神は癒しの神。時間をかけ、深いところから傷を癒してくださいます。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈るごとに、その祈りを用いて。

【放蕩息子の兄】

放蕩息子の兄もまた傷ついた人でした。弟の放蕩によって、苦労を背負わされたことによって。父が弟を喜んで迎えたことによって。そんな傷が、兄の心を頑なにします。けれども、父は、つまり神は語りかけます。「わたしといっしょに喜んでほしい。わたしと同じ心をもってほしい」と。この兄もまた癒され変えられていきます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」と、主の祈りを祈ることによって。



(ワーシップ「花も」MEBIG cover by Bless)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/08/12

礼拝メッセージ「主を試みるな」マタイの福音書4章1-11節 大頭眞一牧師 2024/08/11

今週も「荒野の誘惑」の個所。先週は第一のパンの試みから聴きました。今日は第二と第三の試みから。

【下に身を投げなさい】

第二の試みは神殿の屋根の上。ただの高いところというわけではありません。神殿には多くの人びとが集まっています。悪魔は「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)と言います。「この多くの人たちに、天使たちに支えられて地上に降り立つ姿を見せてやれ。そうすればだれもが、あなた(イエス)を救い主だと認めるだろう」と誘惑したのです。主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(7)と答えました。イエスが引用したのは申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」です。荒野を旅するイスラエルがマサという場所で、飲み水がなくなった、と、モーセと神に向かってつぶやきます。単に水を与えよ、と言っただけではありません。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:3)と、モーセを、つまりモーセを遣わした神をののしるのです。神の愛などわからないふりをするのです。このことは神とモーセにとって、これ以上ない痛みでした。神の愛を世界に伝えるイスラエルの使命は崩壊しようとしていました。このとき神はモーセに命じて、岩から水を出します。愛ゆえに。対照的に、愛なきイスラエルは、愛なき救いを求めました。水がなければ神には愛がない、と疑い、断じたのです。悪魔の第二の試みは、まさに愛なき救いへの誘惑でした。天使に支えられたイエスの着地を見て、人びとは熱狂するでしょう。自分の望みもかなえてくれるにちがいない、と。けれども、それは愛なき救いです。神の心で、神と共に世界の破れに身を置いて、世界を回復するために働く救いではないのです。そもそも愛なき救いなどあり得ません。私たちにも愛なき救いへの誘惑はやってきます。神を愛する神の子である私たちです。けれども大きな危機、大病や災害、経済的な欠乏、精神的なスランプなどで、愛を忘れることがあるでしょう。こんなことが起こるなんて、自分は神に愛されていない、と。けれども神は愛です。そんな私たちをも抱きしめて、凍りついた愛をとかすのです。そして私たちの問題に解決を与えます。ただ解決するだけではなく、私たちの愛を成長させ、世界を回復しながら。

【ひれ伏して私を拝むなら】

第三の試みは非常に高い山で、この世のすべての王国とその栄華を見せることでした。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)と悪魔は誘います。けれども、ここには根本的な偽りがあります。悪魔は世界が自分のものだと言っているからです。世界は神のものです。神が愛をもって造り、愛をもって運営し、愛をもって贖っておられる神のもの。ところが悪魔は、自分は世界を思うようにできる、だから自分の支配の下に入れ、と言うのです。イエスの答は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10)。申命記6章13節の引用です。ここは「あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:11-12)に続く箇所。すべての良きものは神から与えられました。私たちが神の愛を知り、世界の破れの回復を願う神の心を知り、神と共に働くために。

【十字架の主】

第二の試みで、イエスはマサの欠乏を引いて、愛なき救いを拒みました。第三の試みでのイエスは、出エジプトの恵みを引いて、神との愛の歩みを励ましました。愛に生きるその果てには十字架が待ち受けていることを知りつつ。十字架によって私たちの愛の歩みを造ることを喜びつつ。そのことを知る私たちは幸いです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)