2024/03/17

礼拝メッセージ「息を吹きかける神」ヨハネの福音書20章19-23節 大頭眞一牧師 2024/03/17


先週の箇所で、イエスはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(17)と語り、マリアは弟子たちに伝えました。ところが「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」(19a)のでした。

【恐れる弟子たち、恐れる私たち】

弟子たちが恐れたのは、自分たちが主イエスのように処刑されるのではないか、ということ。私たちもこの個所を読むとき恐れを感じます。そして「命の危険に迫られるときに私たちは殉教することができるだろうか。いやできそうにない。つまり自分には信仰が足りないのだ。だからもっと祈って、もっと聖書を読んで、堂々と殉教できる人になろう」とと考えたりします。

けれども、紀元155年ごろに殉教の死をとげたポリュカルプスという司教がいます。その殉教伝は「殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきで、それでも神によってえらばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださる」と記しているのです。弟子たちの恐れを取り除いたのも、弟子たち自身の努力や決心ではありませんでした。主イエスが彼らのいる部屋の戸を通り抜け、彼らの心の恐れの戸を通り抜けて、彼らにお会いくださったのでした。

【弟子たち主を見て喜べり】

主イエスが繰り返された「平安があなたがたにあるように。」(19と21)の「平安」は単に争いや戦いがない、ということではありません。神の祝福が満ちている、ということ。神の祝福は恐れていた弟子たちに満ちました。「イエスは手と脇腹を彼らに示された」(20)、そのときに。

主イエスの手と脇腹の傷は、弟子たちの心の傷でもあります。主イエスを見捨てた自分たちの不信仰と愛のなさを思い出させるからです。しかし主イエスはその傷を見せながら「平安があなたがたにあるように。神の祝福をあなたがたに満たしてあげよう」とおっしゃるのです。彼らの罪、不信仰も愛のなさも赦されました。主イエスは彼らを心から受け入れてくださったのです。今、彼らは祝福に満たされています。主イエスに傷があるゆえに。自分たちが主イエスを裏切らなかった場合よりも、はるかに大きな祝福に。罪のどん底に、自分でも赦すことができない裏切りの真ん中に、主イエスは祝福を造り出し、祝福で満たしてくださったのでした。私たちも。

【息を吹きかけて】

「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22)は、創世記2章を想起させることを意図しているのでしょう。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)とあります。聖霊によって私たちは生きるものとなります。いのちを回復されます。神を愛せず、仲間を愛せず、自分を責める思いの中で、恐れに支配されていた私たちが、生きるものとなったのです。

【罪の赦しの生活】

そのようないのちの生活のすばらしさを主イエスは続けて語ります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」もちろん、私たちに罪を赦す権威がある、というのではありません。罪を赦すことができるのは、神おひとりです。主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21c)と私たちを派遣なさいます。私たちが、家族に、地域に、職場や学校に派遣されて行くとき、そこにいのちがもたらされます。愛なき言葉と思いと行いの私たち。私たちは、それにもかかわらず神に赦されて、神の祝福に満たされて、癒されつつあります。そんな私たちを通して、神さまは周囲の人びととの間に新しい関係を造り出してくださいます。赦された私たちを通して、世界が変わり始めるのです。

そこにあるのは罪の記憶による自責の念に、孤独にうずくまる生き方ではありません。「あなただって」と責め合う生き方でもありません。「私は神に赦された。神の祝福に満たされた。あなたもこの赦しを知ることができるように。赦す主イエスに出会うことができるように。そしてあなたと私が、共に赦し合い、覆い合い、癒し合う仲間となることができるように」と招く生き方です。そのように招くとき、主イエスが働いてくださいます。私たちの遣わされて行く人びとに祝福を満たすために。


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2024/03/11

礼拝メッセージ「慰めの神」ヨハネの福音書20章11-18節 大頭眞一牧師 2024/03/10


信じたヨハネ。けれども「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」(11a)。そのマリアにも信じさせてくださった主イエスのみ声を、今朝も聴かせていただきましょう。

【御使いではなく主イエスが】

主イエスの墓でひとりで泣き、自分を慰めたいと願ったマリア。けれども墓は空。マリアは絶望の涙を流していました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」(13b)と御使いたち。これは理由を訊いているのではありません。「喜びのできごとが起こった。もう悲しまなくてよい」と立ち上がらせようとしたのです。けれどもマリアは「だれかが私の主を取って行きました。」(13d)というのです。「私の主」とマリアが呼ぶのは主イエスの遺体。死んだイエスがマリアの主なのです。マリアは墓の外にいます。墓の外から墓の中をのぞき込んでいます。イエスとの日々をなつかしんでいるのです。

ところがマリアの後ろから主イエスの声が響きます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(15bc)は、「あなたは遺体を探しているが、それは間違っている。わたしは生きている」という意味。そしてマリアは振り返ってイエスを見るのですが、「それがイエスであることが分からなかった」(14b)とあります。

もちろん主イエスはマリアをそのままで放っておきません。「マリア。」(16b)と呼ばれたのです。御使いたちの「女の方」ではなく、マリアを名で呼んでくださり、そのときマリアは主イエスに出会いました。私たちもまた主イエスに名前を呼ばれたひとりひとり。だから信じることがきました。主イエスにお会いすることができました。今も、主イエスは私たちの名前を呼び続けてくださっています。だから私たちはだいじょうぶなのです。信仰が揺らいだとしても。

【すがりついてはならない】

ところが主イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。」(17b)と。さっきまでマリアは主イエスの遺体を探していました。自分の思うようになる遺体。遺体は動かないからです。今もイエスの体にすがりついて思うようにすることがないように、とイエスはとどめました。私たちにもあります。私たちはしばしば、「主イエスが教えたのはこれだ」と自分の理解を握りしめる。でもそんな理解は多分に自分の思いや体験に色づけされている。まるで動かない遺体を自分の思うままにするように。

ところが主イエスは生きておられます。復活されたからです。生きておられる神はやっかいです。私たちが思っているところにいるわけでもなければ、私たちが願っている通りのことをして下さるわけでもないからです。いえ、主イエスは私たちが思ってもいないところにいて下さいます。たとえば、悲しみのどん底に。たとえば、とんでもない罪を犯してしまった私たちのかたわらに。そして主イエスは、私たちが願っている以上のことをしてくださいました。災害の中であってもそこに愛し合う思いを造り出し、かえって世界の回復を進めてくださるのです。

【すがりつくよりも確かな】

「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」(17c)と主イエスは重ねて言われます。復活の後の主イエスの昇天のことですが、その後ペンテコステに聖霊が降りました。主イエスはこの聖霊を待て、とおっしゃったのです。

私たちは主イエスにすがりつけたらどんなによいだろうか、と思います。主イエスが守ってくださるし、もう思考を停止してもかまわないからです。けれども、聖霊による恵みははるかに確かなものです。聖霊によるなら、私たちはいつでも、どこにいても、主イエスと共に生きることができるのです。主イエスと共に、主イエスのうちに。もうすでに。そして聖霊によって、私たちは主イエスと共に働く者とされます。もうすでに。ますます主イエスの心を知る友として、私たちの思考も感性も強められ、活き活きとされる。そして、主イエスは私たちの提案を、喜んで世界の回復のプログラムに加えてくださいます。もうすでに。

【神の子である私たち】

「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(17d)の名によって、聖餐にあずかります。


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2024/03/04

礼拝メッセージ「よみがえった神」ヨハネの福音書20章1-10節 大頭眞一牧師 2024/03/03


主イエスが十字架で息をひきとったのが金曜日。ユダヤでは一日が日没から始まります。ですから主イエスが葬られた後すぐに、土曜日が始まりました。安息日ですから、だれも墓へ行くことはできません。そして次の日没で安息日が終わります。まだ真っ暗ですから、その夜が明け始めるのを待ちかねて、「朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(1)とあります、日曜日の朝です。

【主イエスのそばに】

これまでもヨハネの福音書には、他の福音書と異なる記述があることをお話してきました。この個所も他の福音書では、イエスの遺体に香料を添えて丁寧に埋葬し直すために何人かの女性が墓に行ったとあります。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは一人だけです。またニコデモとアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されたイエスのお体は埋葬し直す必要はありませんでした。ですからマグダラのマリアは、ただ主イエスにそばにいたかった、墓で悲しみに浸り、涙を流したいと願ったのでした。私たちまた大きな痛みに出会うとき、ひとりで涙を流したいと思います。そうすることで、しだいに癒され、喪失を受け入れ、少しずつ前に進んで行くことができるようになるからです。

【走り出す!】

ところが墓の入口をふさいでいる大きな石が取りのけられている見たマリアは動揺します。そして走り出します。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行って」(2)と。知らせを受けたペテロとヨハネも走り出します。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」(4)とありますから、ヨハネはペテロよりも早く着いたのですが、ペテロの到着を待ちます。そんなことをするぐらいなら、ペテロのスピードに合わせて走ればよさそうなものですが、ヨハネは力いっぱい走りました。墓にはいない主イエスに向かって。愛ゆえに。愛ゆえの疾走。こうして静かなはずだった日曜日の朝は、だれの予想も超えた騒ぎになりました。イエスを愛する者たちが一斉に走り出したのでした。

【理解する前に愛ゆえに】

墓に着いた彼らは「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」(6-7)のを見ました。そこに主イエスのお体はなかったのです。もぬけのからだったのです。マリアは「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)と言いましたが、これが当然の反応でしょう。死体がなければ、だれかが動かしたのだろうと考えるのが常識です。けれども、「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」(8)とあります。ヨハネは信じたのです。主イエスがよみがえって生きておられることを。次の節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)とありますから、ヨハネは頭でわかったのではありません。頭ではなく、心で、存在で、主イエスの復活を知ったのでした。このとき信じたのは、マグダラのマリアでもなく、弟子筆頭のペテロでもなく、ヨハネだけでした。ヨハネは「イエスが愛された弟子」と呼ばれています。ヨハネがイエスの復活を知ることができたのはイエスに愛されたからでした。マリアやペテロはイエスに愛されていなかった、といういのではありません。イエスの愛がイエスの復活を信じさせる、そのことが語られているのです。

【走り出せ!】

ですから私たちはイエスの復活を信じています。理解できないのですが信じている。それは私たちが信仰深いからでも、霊的にすぐれているからでもありません。ただ、主イエスが私たちを愛してくださって、私たちにどうしてもご自分が生きておられることを知らせたて、理解できない私たちの存在に働きかけ、働きかけ続けてくださっているのです。信仰とは今も続いている神さまの働きかけです。そんな復活の光の中を私たちも走り出しました。今週も走っていきます。仲間とともに、愛に向かって。


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2024/02/25

主日礼拝メッセージ「葬られた神」ヨハネの福音書19章38-42節 大頭眞一牧師 2024/02/25


十字架で息をひきとった主イエスの葬り 。この日、神が、人となられた神が、 死んで葬られたのでした。神が死ぬことは無理です。けれども神はその無理を押して死んでしまわれたのでした。私たちのために。

【アリマタヤのヨセフ】

「その後で(イエスの脇腹が槍で突き刺された後で)、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。 」 (38)とあります。ルカの福音書によればこのヨセフは「議員の一人」 (ルカ 23:51)すなわち裁判所を兼ねた議会である最高法院の一員でした。ルカは「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。 」(ルカ23:52)と記していますから、このヨセフは裁判で主イエスの死刑に反対しました。

ところがヨハネは最高法院でのこの裁判についてはなにも 語っていません。そして「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ 」 と 記すのです。ヨセフは勇気をふりしぼってイエスの死刑に反対しました。でも自分がイエスの弟子であることは隠していました。ヨハネはそこにあった恐れを見逃さないのです。

【ニコデモ】

アリマタヤのヨセフといっしょに主イエスを葬ったニコデモもまた恐れゆえに主イエスの弟子であることを隠していました。ニコデモは「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 (ヨハネ 3:2)と言いました。主イエスは神から来た、神がともにおられるお方だと知っていました。けれども、彼が来たのは夜。人びとの目を恐れて。 ヨハネは「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」 (39)と ニコデモの恐れも 見逃さないのです。

【葬られた神】

恐れていた二人、アリマタヤのヨセフとニコデモは、けれども、白昼、人びとの前に姿をさらしました。ニコデモは「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持って」。これが 32 キログラムにもなります。そんなものをかついで来たのです。マタイによればこの墓はアリマタヤのヨセフのもの。ヨセフは自分の墓に主イエスを葬ったのです。こうして二人はついに自分たちが主イエスの弟子であることを明らかにしたのでした。

【恐れからの解放】

この二人はなぜ恐れから解放されたのでしょうか。悔い改めたからとか、祈ったからとか、私たちは何か理由を知りたいと思います。そしてその手段の通りにしようと思います。けれども、いつも 申し上げる通り、主語は神さま。私たちが何かをしたからではなく主イエスが恐れを取り去るのです。恐れは、神への愛と信頼を揺らがせます。

恐れは、人と人との交わりをさまたげ、心のつながりを奪い、愛を失わせます。人を受け入れ、理解し、共感することができなくなり、疑心暗鬼が生まれます。人から批判され、責められているという思いが私たちの心を支配し、そのために、逆に、人を批判し、責める思いが募ります。

だから 神は人となって来てくださいました。何度も何度も何度も読む箇所ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 」(へブル 2:14-15)。神は私たちを、神との交わりが損ねられ、人との交わりがさまたげられたままで放っておくことがおできになりませんでした。それゆえどこまでもご自分を与えてくださいました。十字架で死に、葬られた神!

私たちはこの解放にすでにあずかっています。ですから恐れに捕らえられるときに、たがいに思い出させ合うことができます。もはや恐れはその元凶である悪の力とともに滅ぼされ、今あるのはその残滓(のこりかす)に過ぎないことを。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/02/18

主日礼拝メッセージ「突き刺された神」ヨハネの福音書19章31-37節 大頭眞一牧師 2024/02/18


このところの説教題はなんとも言えないものが続いています。「捕らえられた神」「むち打たれた神」「十字架に架けられた神」「渇く神」そして今朝は「突き刺された神」これらは、みな私たちの神がどのような神であるかを突きつけ、その愛へと招きます。

【折られなかった脚】

ヨハネによるならば十字架は安息日の前日。この日の日没からは安息日です。十字架に架けられた死体は汚れたものと考えられていたので、ユダヤ人たちは埋葬を急ぎました。そんなときには死期を早めるために、脚の骨を折ることが行われていたようです。

ところが「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」(33)とあります。他の二人はまだ息があり、脚を折られたのですが。ヨハネはこれについて「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するため」と記します。ここで言われている聖書は出エジプト記12章でしょう。過越の小羊の食し方について「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(46)とある箇所を指していると考えられます。ヨハネはここで主イエスが過越の小羊であることを、その死によってすべての人を救うことを明らかにしようとしたのでした。

【救いの四つ顔その4「癒し」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、これまで「和解」「赦罪」「解放」と語ってきました。今朝は、「治癒(癒し)」。これは「きよめ(聖化)」と深いかかわりがあります。「和解」「赦罪」「解放」がなしとげられてとして、では私たち自身は変わることがないのでしょうか。罪を犯し続けるしかないのでしょうか。

聖書は、罪を病としても捉えています。これは特に、ギリシャ正教やロシア正教で強調されるイメージです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)とあります。この見方は十字架だけではなく、イエスの生涯全体を一連の救いのわざと考えます。受肉(神が人となること)によって、無限の神が有限な人間の苦悩を身にまといました。そして罪に病む人間の存在を自分の中に引き受けて癒すのです。誕生から幼児期、青年期、壮年期そして死にいたるまでの全生涯において、人がどっぷり漬かっている罪という病をイエスが引き受けました。イエスを受け入れる人を、毒に対する血清を受けた人になぞらえることができるでしょう。人はみな罪に冒され病んでいます。その病をイエスが癒して健やかにし、その健やかさに私たちを与らせるのです。

以上、新約聖書にある四つの主な贖いの側面を見てきました。どの見方にも共通していることがあります。それは罪によって損なわれたものを、神自身が犠牲を払って回復させること。その動機は愛であって、その愛は十字架の滅びをも厭わない愛であることです。神と人とを一つにするために十字架はどうしても必要だったのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本90-91ページ)

病人には自分の病がどのようにして生じたのかわかりません。癒されたときも、その癒しがどのようにして起こったのかわかりません。罪という病もまた、私たちの理解と許容量を超えた悲惨で、根深く、処置のしようがないものです。けれども患者にはわからなくても、医師はその病を知って治療します。主イエスは医者です。名医です。私たちのすべての病を、傷を、問題をすべてご存じで、その上で引き受けて癒してくださいました、癒してくださっています、癒し続けてくださいます。医師とのちがいは、医師が感染防護服やマスクに身を包んでいるのに対し、主イエスはご自分で罪という病を引き受けてくださったことです。そして私たちのために突き刺されてくださいました。そのお方が神であることを、突き刺された神であることを、私たちは深い痛みと、その奥から湧き上がるほのかな喜びをもって語り合います。語り合い続けます。いのち果てるまで、果てたならばなおさらに。


(ワーシップ:「変わらぬ愛(オリジナル曲)」Bless)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/02/12

当教会の Bluesky アカウントを開設しました(関連サイトも合わせてお知らせします)

このほど、当教会の Bluesky アカウントが開設されました。

合わせて、当教会の関連サイトを案内いたします。

どうぞご利用ください。

2024/02/11

主日礼拝メッセージ「渇く神」ヨハネの福音書19章25-30節 大頭眞一牧師 2024/02/11


十字架で息を引き取られたイエス。ヨハネはその最後の言葉が「完了した」であり、先立つ言葉が「わたしは渇く」であったと記します。今朝は、この二つの言葉の間に起こったできごとを聴き取ります。

【渇く神→完了した神】

酸いぶどう酒を受けたイエス。けれどもイエスの渇きは肉体の渇きだけではなかったでしょう。そこには神であるイエスが人となって、この世に来られた目的、すなわち三つの破れの回復、そこに渇いておられました。神と人との破れ、人と人との破れ、人と被造物の破れ、がそれです。

けれども破れの繕いは十字架の上で成し遂げられました。完了しました。至聖所の幕は上から下へと裂けました。神と人との関係が回復されたのです。また、さきほど読んでいただいた27節に「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」とあります。神の家族として生きる教会、人と人との関係の回復です。被造物との関係の回復もそこから始まりました。

始まったこれらの回復は今も続いています。だから「完了した」というのは言いすぎだと感じられるかもしれません。けれども、完了したことがひとつあります。それは私たちを破れの中に閉じ込めようとする悪の力からの解放です。

【救いの四つ顔その3「解放」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週、先々週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは解放。

人はみな罪の中にあります。罪とは、あの罪この罪というように数え上げることができるものというよりは、神を離れた存在のあり方そのものです。罪から離れようと思っても離れることができず、愛そうと思っても愛することができない理由がそこにあります。私たちを罪に縛りつけている力があると聖書は教えています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」。(へブル2:14〜15)

罪の奴隷であった私たち。死は罪の結果ですから、私たちは死に支配された死の奴隷でもありました。奴隷というのは主人の強い力に支配されている者たちです。そのように自分よりも強い罪と死という悪の力の支配の下にあった私たちを、十字架が解き放ちました。それは暴力による解放ではありませんでした。逆に罪と死の力の暴力が、イエスに対して費やし尽くされることによる解放だったのです。こうして解放された者たちは、イエスと同じように生きることへと招かれています。悪に対して悪で酬いず、罪の連鎖を自分でとどめ、かえって悪に対して愛をもって酬いて生きる生き方です。そのためには人と自分を比べて優越感や劣等感を抱いたり、それを跳ねのけるために自分を駆り立てて生きる罪深い習慣が妨げとなります。神に愛され、神に受け入れられている恵みに安心して生きる習慣へと移ることが必要なのです。これには時間がかかるかもしれません。けれども、イエスを受け入れるとき、その人の中にはこの変化がすでに始まっているのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」89-90ページ)

このことは神さまの長い間の願いでした。創世記3章14節で、神はヘビが象徴する悪の力に対して宣言されました。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と。世界の始まりから抱いておられたこいの願いを、ついに神ご自身が人となって、十字架の上で完了してくださったのでした。

アメリカでは1862年9月、リンカーンによって奴隷解放宣言が出されました。けれども自分が自由であることを、長い間信じることができなかった奴隷たちが多くいたそうです。イエスによる「神の国」の宣言についても同じことがあり得るのです。新しい時代が始まったことに気づかないでいることも、大いにあり得るのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」79ページ)

主イエスによる悪の力からの解放を私たちが忘れることのないようにと願います。私たちの家族や友人、地域の方がたも一人残らず、この解放を知らないでいることがないようにとも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)