2024/05/13

礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイによる福音書1章1-17節(前) 大頭眞一牧師 2024/05/12


今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。いつもお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

神さま三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデも強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われてたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/05/07

礼拝メッセージ「神が与える喜び」使徒の働き11章1-18節 村島健一郎神学生 2024/05/05


【広がる福音】

使徒の働き10章でペテロはローマの兵隊コルネリウスと出会います。これは歴史が変わる瞬間です。当時のユダヤ人の一般的な考え方は、ユダヤ人のみが正式な神の民と考えていたようです。とは言え、異邦人も神殿に入ることできました。しかし、神殿の中でも礼拝をする場所が、ユダヤ人男性、ユダヤ人女性、異邦人で区別されていました。イエス様の十字架の時、神殿の幕が裂かれたのは、すべての人が神に近づくことが、大胆に恵みの御座に近づくことが許された象徴です。ユダヤ人と異邦人の区別なく神の民になることができるというのは、すべての区別がなくなったということです。男、女、国籍、お金のある人ない人、罪人も善人も、あらゆるセクシャリティの人々がイエス様に信頼することで神の民とされるのです。

コルネリウスたちに聖霊が降ります。すべての人類、被造物の回復が完成しました。神はすべての人をご自身の愛に招きいれるのです。そして、聖霊が私たちを神様へと導きます。私たちも神様の愛に抱かれています。

【ペテロの不安】

ペテロが神様の素晴らしい御業を見たからと言って、それで万事問題なしとはなりません。ペテロが恐れていたことが現実になります。異邦人と食事をしたことで難癖をつけられました。

ローマ軍の百人隊長と会うことはペテロにとって決して簡単に決断できることではありませんでした。この時代、ユダヤ人には2つの大きなタブーがありました。それは安息日を正しく過ごさないこと、そして、異邦人や罪人と食事を共にすることでした。神様はペテロをコルネリウスのところに導くために、不思議な幻を見せます。「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥」を屠って食べなさいと言います。ペテロは言います。「私は汚れた物を食べたことはない。」神様は言います。「これは汚れたものではない、だから、ためらわないでコルネリウスのところに行きなさい。」

ここは伸るか反るかです。神様に導かれたにもかかわらず、コルネリウスと会うことを拒否するか、それとも、ユダヤの友人たちとの関係を断ち切る覚悟でコルネリウスに会うかです。ペテロはコルネリウス、彼の家族、家来たちと会い、食事をします。ペテロは知っていました。それこそ、イエス様がなさっていたことだと。

イエス様の愛が勝ちます。ペテロにコルネリウスに会う信仰を与えてくださるのは神様です。ペテロの信仰が素晴らしいという話ではありません。ペテロもコルネリウスも、悪と罪の世界から救い出したいという神の熱心・愛が、このストーリーを進めています。その愛が私たちに宿り、私たちの中で大きくなっていくのです。

【教会の反応】

ペテロの報告を聞いたエルサレム教会の人々は黙り込んでしまいます。沈黙の後に出てきた言葉は、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」神様は異邦人も愛に生きるように導いてくださったということです。この神様の導きと働きを誰にも止められません。

このことはペテロにとって大きな励ましとなります。ペテロとともに困難な道を歩んでいくことを決めました。エルサレム教会の人々は神を賛美しました。教会全体に喜びが溢れます。神の物語、神の愛の物語のうちを歩むときに与えられる喜びです。そこには愛ゆえの苦しみがあるでしょう。教会が素晴らしいのは、礼拝式を行うことだけではなく、教会が互いに励まし合い、互いの苦しみを負うことができることです。そういう信仰を神様は与えてくださいます。私たち皆が神様の御腕に抱かれているからです。一人だけが抱かれているわけではない。ここにいるすべての人が共に神様の御腕に抱かれているからです。神様の暖かさやお互いの息吹を感じながら、神様の懐にいる互いを知りたいと願い、知ることができます。互いの困難や苦しみを負い合うことができます。喜びを分かち合うことができます。三位一体の神の愛は、教会の交わりの中に現れます。その教会で生まれる愛の関係が、この世界に、被造物全体に広がっていくのが神様の願いです。この愛の働きに私たちもますます関わっていきたいと思います。


(ワーシップ:「イエスは清く美しく」Bless)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/29

礼拝メッセージ「共にいる神」ヨハネの福音書21章20-25節 大頭眞一牧師 2024/04/28


2年間ごいっしょに読み進めてきたヨハネの福音書の最終回となりました。2022年4月に兼牧が開始。明野キリスト教会ではすでに途中までヨハネを読んでいたのですが、もう一度1章にもどり、二つの教会が心をひとつに読みすすめてきました。20章の終わりには「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(20:31)とありました。二つの教会の歴史が大きく舵を切ったこの時期に、この福音書によって私たちが養われ、またそれぞれの教会で受洗者も与えられたことを感謝したいと思います。

【主イエスについて】

20章で主イエスはペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい。」と言いました。カトリック教会ではこれによって、ペテロは全世界の教会を牧する権威が与えられたと考えます。その後継者が歴代のローマ教皇なのだと。一方プロテスタントは、ペテロ個人への任命ではないと考えます。ペテロのように、自分の罪、ルターによれば(心ならずも)自分の内側に折れ曲がった心を、知った人。ペテロのように、そんな自分を何度でも何度でも何度でも、赦してくださる主イエスを知った人。ペテロのように、主イエスに愛を注ぎ込まれ、その愛をあふれ出させることを知った人。そんな人なら、だれでも主イエスの羊を牧することができる、牧しなさい、そうお命じになったのでした。

「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。」(20a)も、ヨハネがペテロの指揮下にあるということを意味しません。ヨハネがついて行くのはペテロのように見えます。けれどもペテロは主イエスについて行くわけですから、ヨハネがついて行くのは実は主イエスです。歴史の中でローマ教皇が教会を導く大きな働きをしたことも多くあります。それは彼らが主イエスについて行ったから。カトリックとプロテスタントとどちらが正しいか、ということではありません。私たちが主イエスについて行っているかどうか、福音のいのちは、そこにかかっています。

【この人はどうなのですか】

18-19節にこうあります。「『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。』イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」

主イエスはペテロが今度こそ、主イエスに従いぬくことができること、それも殉教の死までまっとうすることができる、とおっしゃいました。決して、ペテロにそうできるようにがんばれ、と言ったのではありません。そうではなくて「ペテロ、あなたが私わたしを愛していることをわたしは知っている。それはわたしがあなたに注いだ愛だから。ずっとわたしはあなたに愛を注ぎつづけてあげよう。あなたにはできない殉教ができるまでに。その愛によって、あなたはわたしと共に働くことができる。愛の破れたこの世界を回復する栄光を現すのだ」と招かれたのでした。

ペテロの「主よ、この人はどうなのですか」(21)は、とうとつで興味本位の問いのように見えますがそうではありません。ヨハネは非常な高齢まで生きました。そのため後に、ヨハネは死なない、不死だといううわさがあったようなのです。もちろんヨハネは不死ではありません。ですから聖書は「しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく」(23b)とはっきり否定しています。

この福音書が告げる最後のたいせつなことは「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」にあります。「イエスが行われたこと」は、イエスが三十年あまりの地上の生涯で行ったことばかりではありません。主イエスがいのちを与えた者たち、主イエスを愛する者たち、つまり私たちを通して行われたすべてのことを指しています。だから世界もその記録を収められないのです。その「主イエスの行われたこと」は今も、行われています。私たちによって、私たちを通して、仲間と共に、主イエスと共に。主イエスが「あなたは、わたしに従いなさい。」と招くすべての人を通して。そして、主イエスの招きは、ひとりひとりにオーダメイドなのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/22

礼拝メッセージ「主の祈り①」出エジプト記4章22-23b節 大頭眞一牧師 2024/04/21


天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

【どう祈ったらよいのか…】

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8:26)。何をどう祈ったらよいかわからない!あのパウロにして!だったら私たちはどう祈ればよいのでしょうか?

けれどもだいじょうぶです。私たちには主イエスが教えてくださった主の祈り(マタイ6章とルカ11章)があります。この祈りを祈るときに聖霊が働いてくださいます。そして私たちの心もとない祈りを、御霊と共に祈る祈りとしてくださるのです。

【父よ】

聖書が神を父と呼ぶとき、そこには驚くべき希望がこめられています。旧約聖書で最初に神を父とする箇所は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。」(出4:22-23b)。モーセが語った神の言葉です。エジプトの奴隷として苦しむイスラエル。神は、そのイスラエルを子、自らを父と呼んで、イスラエルを自由になさいました。父とは子を自由にするお方。「父よ」と祈ることを教えるとき、主イエスは私たちにおっしゃっているのです。「父よ、と呼べ。父は『子よ』と答えてくださる。『わたし(父)は、あなたがたに自由を与える。罪からの自由、恐れからの自由、頑なさからの自由を』と答えてくださるのだ」と。

【天にまします】

そしてこの父は「天にまします」父なのです。アブラハムとその子孫を通して世界のすべての国民を祝福する父。その父はイスラエルを解放し、いま、私たちを解放します。ただ、私たちを個人的な罪から解放するというだけではありません。世界を解放する。正義を実現し、飢えた者たち、虐げられた者たちを解放する。飢えから、虐げから。それだけではありません。奪う者たち、独占する者たちも開放する。貪欲から、失うことの恐れから。天にまします父の領域は、地に及び、地に拡大し、地を覆うのです。神の国が!

【我らの】

けれども忘れてはならないのは、父は第一に主イエスの父であること。分かつことができない三位一体の父と子の愛と信頼が、ゆるぎなく、まず存在する。そして子なる神が人となることによって、私たちと一つになってくださって、私たちを抱え上げるようにして神の子としてくださった。父の子としてくださった。そのために分かつことができない三位一体を危険にさらして。そんな「我ら」なのです。図は三位一体のイメージです。一体となって踊る愛のダンスに私たちも招き入れられています。

【主よ、祈りを教えてください】

「天にまします我らの父よ」と呼ぶとき、私たちの祈りが変わります。新しくなります。かつては、自分の個人的な願望を祈り、付け足すように世界のために祈っていた私たち。けれども「天にまします我らの父よ」で始まる祈りは、逆転の祈りです。今や私たちは、破れてしまった世界の回復のために祈り始めます。そのために喜びに胸をときめかせながら、自分を差し出しながら。そして、自分の個人的な願望を持ち出します。その願望がどのように世界の回復につながるかわからないままに。父がその願望を思いのままに、世界の回復のために用いてくださることに胸を躍らせながら。


(ワーシップ:聖歌397番「遠き国や」Bless)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/15

礼拝メッセージ「羊を飼わせる神」ヨハネの福音書21章15-19節 大頭眞一牧師 2024/04/14


20章でいったん終わったかのように思えるヨハネの福音書。けれども今日の箇所を読むとき、21章が付け加えられていて本当によかったと思います。福音の真髄がここにあるからです。

【三度繰り返して】

主イエスはペテロに「あなたはわたしを愛していますか。」(15,16,17)と三度繰り返して訊ねます。三度!ペテロは十字架前夜、自分が三度、「主イエスを知らない、主イエスとは関係ない」と言ったことを思い出します。ですからペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めて」(17b)と、悲しくなったのでした。

けれども主イエスは、もちろんペテロを責めるために三度繰り返したのではありません。ペテロは主イエスに問われるごとに、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(15,16,17)と答えることができました。主イエスがペテロから愛の言葉を引き出してくださったのです。これはペテロから言い出すことはできない言葉。イエスが、愛を否定したペテロに、その否定の言葉を言い直させてくださった。上書きするように。そして言い直すたびにペテロの痛みは癒されていきました。主イエスは私たちからも愛の告白を引き出してくださいます。そうするごとに私たちを癒し、私たちの愛を増し加えてくださるのです。宣伝のようですが今月「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)の第二刷が出ました。三度で終わりでなく何度でも主イエスは私たちに愛を注ぎ、私たちの愛を増し加えてくださっています。

【あなたがご存じです】

ここでペテロの三度の答は「はい、私はあなたを愛しています」ではなく、「はい、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」でした。かつては「あなたのためなら命を捨てます」と言い切ったペテロ。けれども裏切ったペテロは、もはや自分には「はい、愛しています」などと言い切る自信がありません。ペテロのうちには愛はないのです。

けれども主イエスはそんなペテロに現れ、パンと魚を裂き与え、愛といのちを注いでくださいました。だからペテロは答えることができました。「はい、主よ。あなたが愛を注いでくださった。あなたがあなたへの愛を私に注いでくださった。ですからその愛で私はあなたを愛することができます。あなたがご存じのとおりです。あなたがそうしてくださったのですから」と。

そもそも主イエスの問い、「あなたはわたしを愛していますか。」は、「あなたはがんばってわたしを愛するか」ではなかったのです。「今、わたしはあなたに愛を注いでいる。わたしを愛する愛を。だからあなたはわたしを愛することができる。さあ」という招きだったのです。主イエスは私たちにも、愛を告白させてくださいます。もうすでに。さらになおなお。私たちが「主よ、私はあなたを愛します」と申し上げるとき。その言葉は主から与えられた黄金の言葉であることを知ってください。

【羊を飼わせる神】

そんなペテロに主イエスは使命をくださいました。「わたしの子羊を飼いなさい。(15)」「わたしの羊を牧しなさい。」(16)「わたしの羊を飼いなさい。」(17)と少しずつ言葉はちがいますが、「わたしの羊」つまり、主イエスの教会を養い、守り、導くことをゆだねてくださったのでした。もともと教会の牧者(羊飼い)は主イエスです。10章で主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(10:11)とおっしゃいました。ペテロは、そして私たちは主イエスの同労者として働くのです。それは牧師だけではありません。役員もそうです。役員でない人も。私たちはたがいがたがいの牧者です。愛を注ぎ合って、愛するいのちを注ぎ合って。

先週は信愛、今週は明野で教会役員任命式が行われます。「私にはとても無理です」と言う方がよくおられます。自分が罪のない、清く正しい立派な人でなければならないと思うのです。けれども教会役員の資格はただひとつ。「主イエスが自分に愛を注いでくださっており、その愛を神と人へあふれ出させてくださっている」これを知っていることだけです。これはすべてのキリスト者がすでに知っていることです。みなさんもすでに。

私たちが立派なキリスト者になって立派に使命を果たそうと考えるなら、それは教会を立て上げることになりません。競争と落胆と高慢をもたらすだけです。主語が自分になっているからです。主語は主イエスであることを忘れないなら、主イエスが教会を立て上げてくださいます。私たちを通して。


(教会学校メッセージ「イエスの受洗」ルカの福音書3:15-22)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/08

礼拝メッセージ「近づく神」ヨハネの福音書20章30-31節 大頭眞一牧師 2024/04/07


20章でいったん終わったかのように思えるヨハネの福音書。けれどもヨハネの福音書には21章が加えられています。そうまでしてこの福音書が、つまり主イエスが伝えようとしたことに、今朝、耳を傾けます。

【イエスが愛された教会】

この福音書の中で、ヨハネは自分のことをたびたび、「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。ひとつには、すべてのキリスト者は「イエスが愛された弟子」であることを、ヨハネが代表して述べています。けれどもそこにはもうひとつの意味が。

弟子たちのリーダーはやはりペテロ。ヨハネもまたペテロのリーダシップを尊重していました。イエスの墓に先に着いても、中に入らずにペテロの到着を待ったことからも、それはうかがえます。伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの迫害によってローマで紀元67年ごろ殉教したとされます。一方でヨハネにまつわる伝承は、12弟子の中でヨハネが唯一殉教をまぬがれ、現在のトルコ西部のエペソの町を中心とする諸教会を牧した、とします。そんな辺境の小さな群れに対して、ヨハネは「私たちもまた『イエスが愛された弟子』なのだ」、と語ったわけです。

地域教会の歩みはさまざまです。明野キリスト教会にも京都信愛教会にもそれぞれの歴史があり、それぞれの習慣があり、それぞれの文化があります。けれどもどの教会にも、共通点があります。それは「イエスが愛された弟子、イエスが愛された教会」だということです。

【破れなかった網】

ところがヨハネの群れに異端が現れます。キリストの十字架が私たちの罪のためであることを否定する人びとです。ヨハネの手紙第一にあります。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)。ヨハネの群れは、この「罪がない」という人びとによって傷つき弱ります。そんな中で異端に立ち向かい、主イエスの十字架による罪からいのちへの回復を信じる人びとは苦闘を続けます。そしてやがて、ペテロを中心とする群れと交わりを強めて行ったといいます。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(6)と主イエスが網を打つことを命じ、その結果、引き上げることができなかったほどの百五十三匹の大きな魚が入ったのに網が破れなかったできごと。その記事をヨハネが付け加えたのには、そんな事情がありました。ペテロの群れとヨハネの群れ、そのみんなが一つの教会です。そして網は破れないのです。主イエスが教会をひとつとするのです。ひとつとし続けるのです。

【聖餐が生み出すもの】

「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」(13)を、教会は伝統的に聖餐を意味すると理解してきました。ペテロの群れとヨハネの群れの間にはたくさんのちがいもあったでしょう。たとえばヨハネの福音書の独特な語り口は、慣れない人びとにとっては難しく感じられたはずです。ですからペテロの群れとヨハネの群れがひとつの群れとして生きていくのは、理解の一致ではありませんでした。結束し連帯しようという人間の努力による一致でもありませんでした。それはいのちの一致。

聖餐は見えない神の恵みの見えるかたち、といつも申し上げています。私たちが弱り果てているときにも、信じることができないときにも、主イエスが一方的に私たちにいのちを注ぎ、信仰を注いでくださる、それが聖餐。

たがいに異なる人びとが、異なる群れが聖餐に与るときにも同じことが起こります。主が起こしてくださいます。考え方のちがい、礼拝のちがい(たとえば明野では献金後の感謝祈祷は起立、信愛では着席)があっても、いえ違いがあるときにこそ、主イエスが注ぐいのちが、ひとりひとりからあふれて仲間へと向かうのです。そして「よくぞあなたもいのちを注がれた。そんなあなたを私は喜ぶ。あなたの住む場所にも、主イエスは近づいてくださったのか。異なる器を通して、異なる言葉を通して。そのようにして、あらゆる手段で私たちに、私とあなたに届いてくださった主イエスを喜ぼう」と。

たがいに一致できるから聖餐を共にするのではありません。聖餐によって注がれるいのちによって、一致が生まれるのです。一致し得ないように思われるさまざまな違いを、主イエスのいのちはそのままにしておかないのです。自らの伝統にしがみつくのではなく、主イエスのいのちに持ち運ばれて、違いがあるからこそ生み出すことができる、すぐれた合金のような交わりを、教会を生きるのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/07

2024年度も「一年12回で聖書を読む会」が開催されます 参加者募集中!

 


 (クリックするとさらに大きく表示されます)


恐れ入りますが(変更)と記されている部分は上記のチラシと内容が変わっています

京都信愛教会の「一年12回で聖書を読む会」

2024年4月から開催! どなたでも参加者募集! 参加費無料!

永遠のベストセラー 聖書は何を語っているか

けれども、ひとりで読むとよく分からないことが多く、挫折する方が多いのです。そこで!

1年12回でともに聖書を読みます。おひとりでも参加出来ます。

「京都信愛教会での対面」と「Zoomでの参加」の、どちらでも参加いただけます。欠席された場合も、その回の録画をご覧いただけます。

「聖書(日本語)」は、教会に備え付けのものをご利用いただけます。

【開催予定】1年目の方向けは10:30より

毎月第3土曜日10:30-12:00
  1. 4/20(土) 天地創造(変更)
  2. 5/18(土) アダムとその妻(変更)
  3. 6/15(土) 族長たちの物語(変更)
  4. 7/20(土) 出エジプトと十戒(変更)
  5. 8/17(土) 王と神殿(変更)
  6. 9/21(土) 預言者の叫び(変更)
  7. 10/19(土) 来るべきメシア(変更)
  8. 11/16(土) 詩歌と知恵文学(変更)
  9. 12/21(土) キリストの誕生(変更)
  10. 1/18(土) 十字架と復活(変更)
  11. 2/15(土) 教会の誕生(変更)
  12. 3/15(土) 終わりのことがら(変更)

【開催予定】2年目の方向けは9:00(変更)より

毎月第3土曜日09:00-10:30(変更)
  1. 4/20(土) カインとアベル
  2. 5/18(土) ノアの洪水
  3. 6/15(土) サムソンとデリラ
  4. 7/20(土) エリヤとエリシャ
  5. 8/17(土) 魚にのまれたヨナ
  6. 9/21(土) 神はそのひとり子を
  7. 10/19(土) 山上の説教
  8. 11/16(土) 神の国の譬え
  9. 12/21(土) ペテロの生涯
  10. 1/18(土) 律法と福音
  11. 2/15(土) イエス・キリストとは?
  12. 3/15(土) 聖書とは何か?
2023年度は約15人が参加!
 「聖書の内容がよく分かる」「続けて来てみたい」と、とても好評です!

講師:大頭眞一牧師

大頭眞一 (おおず・しんいち)

英国マンチェスターのナザレン・セオロジカル・カレッジ(BA、MA)と関西聖書神学校で学んだ聖書の専門家。京都信愛教会・明野キリスト教会主管牧師、関西聖書神学校講師。聖書に関する著書多数。

この会のテキストは「聖書は物語る・一年12回で聖書を読む本」「聖書はさらに物語る・一年12回で聖書を読む本」として出版されています。参加者には差し上げます。

※どのようなお立場・信仰をお持ちの方でも参加出来ます。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

問い合わせは教会宛に電話、またはメールください(上記のチラシを参照ください)