2023/05/23

礼拝メッセージ「香油を注がれた神」ヨハネの福音書12章1-11節 大頭眞一牧師 2023/05/21


ラザロをよみがえらせた主イエスを最高法院が殺そうとしたため、主はいったん「荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」(11:54)のでした。これが先週の箇所。ところが、今日の箇所で「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。」(1)とあります。ベタニアはエルサレムへ向かう通過点。主イエスは過越の祭りをエルサレムで迎えるために、つまり十字架に架かるために戻って来られたのでした。

【ナルドの香油】

香油注ぎの記事がルカの福音書にもあります。ルカでは、もてなしに心を奪われているマルタの姿は否定的に描かれています。でもヨハネはそうではありません。マルタとマリアを比較するのではなく、主イエスとマリアに焦点を合わせているのです。

マリアが注いだ香油は一リトラ、約326グラム。こういうものは数滴ずつしか使わないもの。ところがマリアはこれを全部イエスの足に注ぎました。足がびしょびしょになってぬぐわなければならないほどに。イスカリオテのユダの見積もりによれば三百デナリ。日当が一デナリですから、年収に相当する金額です。これはマリアの全財産であったかもしれません。そこから、「マリアは全財産を主イエスに献げた。私たちもすべてを献げて」と言いたくなるところです。けれども、これがマリアの全財産であったかどうかは書かれていません。そして三百デナリと、金額を問題にしたのはイスカリオテのユダであって、主イエスでもマリアでもないことに気づくのです。

ユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5)とマリアを責めます。それはユダには二つの後ろめたさがあったから。一つには「イエスを裏切ろうとしていた」(4)から。もう一つは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6)。つまりユダの愛は失われてしまっているのです。主イエスへの愛と仲間への愛、二つの愛が。

マリアが注いだのは愛。ラザロをあわれみ、マリアをあわれんで注がれた主イエスの愛。ラザロを生き返らせてくださった主イエスの愛が、今、マリアに満たされ、あふれだしました。家は香油の香りでいっぱいになった。」(3b)。マリアはただただ主イエスに愛を注ぎたかった。三百デナリだろうがどうだろうが、そんなことも考えていないのです。貧しい人のために施すことも、まったく頭にありません。今、ここで、目の前の主イエスの愛を注ぐことに夢中になったのでした。ユダは正論です。冷静に考えればその通りなのでしょう。その意味ではマリアは愚かです。数百万円をむだにしたのですから。

けれども愚かと言えば、ユダの目に最も愚かに見えたのは主イエスの十字架だったでしょう。民衆が待望し、王にしようとしているのに、主イエスは十字架を選ぶのです。そして主イエスは「そうだ、ユダのいう通りだ。マリア、なんと無駄なことをするのだ」とは言いません。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7)と、マリアをよしとされたのです。マリアの愛を喜ばれたのです。ユダの冷たい視線の先に、愚かなイエスと愚かなマリアがいます。ふたりは愚かな愛を注ぎ合って、喜び合っているのです。

【けれども、神が】

主イエスの「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7b)は、もちろん十字架を指します。もちろんマリアは、すべての人にいのちを注ぐ十字架を知っていたわけではありません。けれども、神が、マリアの愛に意味を創り出してくださいました。マリアの愚かな愛、愚かな行いを、十字架に結び付け、貴い愛、貴い行いとしてくださったのです。

私たちはマリアの愛に感謝します。私たちもそうしたかったからです。それをマリアが代わってしてくれたのです。そして私たちは主イエスの愛に感謝します。マリアの愚かな愛を貴い愛としてくださった主イエスは、私たちの愚かな愛を貴い愛としてくださるからです。私たちは愚かなだけではありません。しばしば心弱く、不完全で、ときには後ろめたさを正論で押し切ろうとするユダにも似た私たち。主イエスはそれでも私たちの愛を、「そのままにさせておきなさい。」と言ってくださいます。「あなたがたの愛をわたしは喜んでいる。なお、わたしの愛を注いであげよう。ますます、あなたがたが健やかになるように。あなたがたの愛が解き放たれるように」と。そんな主イエスを、そんなたがいを、今日も私たちは喜んでいるのです。



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2023/05/14

礼拝メッセージ「民に代わって死ぬ神」ヨハネの福音書11章45-57節 大頭眞一牧師 2023/05/14


先週は、主イエスの「ラザロよ、出て来なさい」の叫びを聴きました。死と罪の力からの解放の宣言です。けれども、そのために主イエスは十字架と復活を通らなければなりません。事態は一気に動き始めます。

【見ないで信じる私たち】

「マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」(45)とあります。この人たちはラザロがよみがえったのを見て、イエスを信じました。けれども、やがて彼らが、主イエスを十字架につけようとすることを、私たちは知っています。しるし、つまり、奇蹟を見て信じることと、イエスとの愛の関係に入ることはちがいます。それなのに、私たちは主イエスと愛し合う関係に入れられています。しるしを見ようが見まいが、主イエスと共に生きるのです。主イエスがしてくださったこの不思議を喜ぼうではありませんか。

【自分たちにとって得策】

ところが、「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集し」(47a)ました。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」(48a)と心配したからです。当時、ユダヤはローマの属国。半独立国でした。ユダヤ人たちは異邦人であるローマの支配を不満に思っていました。そしてユダヤをローマから解放するメシア(救い主)の出現を待望していたのです。そこへラザロのよみがえりです。ユダヤの民衆がイエスをかついで、ローマに反乱を起こすかもしれない、そうしたらローマの怒りをかい、属国の地位も奪われるでしょう。そうなったら、ユダヤの指導者たちも特権をはく奪されてしまう、そう恐れたのです。イエスの時代の後、ユダヤは実際にローマに反乱を起こし、その結果、国が消滅したのですから、この恐れは現実のものでした。

そこで大祭司カヤパが「あなたがたは何も分かっていない。」(49b)と言います。彼にはわかっていました。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(50)、つまり、「イエスを殺さなければならない。そうしたら反乱は起こらないですむ。ユダヤは、そして自分たちユダヤの指導者たちは現状を維持することができる」と。会議の結論は、イエスを殺害することでした。しるしを見て信じた民衆も、しるしを見て恐れた指導者たちも、だれも主イエスの心、神の心を知る者はいなかったのです。

【神の心】

イエスを殺すべし、と、自分たちの保身のために発言した大大祭司カヤパ。けれどもヨハネは不思議な言葉を記します。「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので…預言したのである。」(51b-52)と。つまりカヤパは自分ではそのつもりがなかったのに、預言をしたのです。神の心を語ったのです。心ないカヤパの言葉に、神がご自分の心をこめてくださり、心をこめて意味を造り出してくださった、と言うこともできるでしょう。

その意味とは「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられること」(51b-52)でした。

このとき、だれも神の心を知る者はいませんでした。ユダヤの民衆は、奇蹟を行ったイエスをかついでローマを追い出そうとしました。指導者たちは、ローマに逆らわないで、現状を維持しようとしました。けれども神の心はユダヤ人もローマ人も、すべての人びとを救うことにありました。すべての人に神のいのちを与えて生きる者にすること。そのために神である主イエスが人となって来てくださったのでした。どんな犠牲を払っても、十字架の血をもっても、私たちを神の子とすること、それが神の心なのです。

ゴールデン・ウィーク中に明野キリスト教会でひとりのご高齢の方が受洗されました。「これからは息子夫婦といっしょにイエスさまを信じて生きていきます」と告白なさったのです。洗礼式の中で、私は、説教の代わりに、その方に宛てたとても短いお手紙をお読みしました。「洗礼おめでとうございます。イエスさまはすべての人に洗礼を受けるように命じました。それは、イエスさまが私たちを洗ってくださったことを忘れないため。私たちの恥ずかしい、言わなければどんなによかったか、と思う言葉、他の人を思いやることができなかった痛み、それら全てを十字架で洗ってくださいました。今よくわからなくてもだいじょうぶです。だんだんわかります」と。

この後、聖餐に与ります。洗礼の水、聖餐のパンとぶどう汁、みな不思議です。いったいどういう意味なのだろうか、と首をかしげる私たちです。教会は、これらを「神の見えない恵みの見えるしるし」と呼んできました。すべての人のすべての罪を赦し、神のいのちを注ぐ神の恵みと神の心は、私たちにはとらえきれません。とらえるのはあまりにも大きいからです。けれども、とらえきれない私たちを神はしっかりととらえてくださって放しません。だから私たちは、キリストのいのちを生きることができます。まるでキリストのいのちがないかのように生きるのではなく。

聖餐にあずかります。見えないほどに大きな神の恵みと心に包まれて。



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2023/05/07

礼拝メッセージ「栄光の神」ヨハネの福音書11章38-44節 大頭眞一牧師 2023/05/07


先週は、主イエスが死の力に憤りをおぼえ、ご自分の十字架と復活によって、私たちを解放する宣言をなさったことを聴きました。今日もこの宣言をさらに心に刻んでいただきましょう。

【再び心のうちに憤りを】

「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。」(38a)とあります。こうして繰り返して主イエスの憤りが描かれていることに、主イエスの憤りの激しさが現れているようです。主イエスは死の力に憤っておられます。激しく、激しく憤っておられるのです。

【出て来なさい】

「その石を取りのけなさい。」(39a)とのイエスの言葉にマルタはたじろぎます。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39de)と。当然のことです。けれども主イエスは、たじろぎません。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40)とその言葉はなお力を増していきます。主イエスにあっては、ラザロの体が臭かろうが、朽ちていようが、骨になっていようが、そんなことはどうでもよいのです。子なる神である主イエスが父なる神に願い、ラザロをよみがえらせるのですから。

こうして洞穴の墓に主イエスの声が響き渡ります。「ラザロよ、出て来なさい。」(43b)と。その声には死に対する憤りに加えて、神の権威がこめられています。死の力はその権威に屈服します。主イエスが死をねじ伏せたのです。

次に起こったできごとには微笑みを禁じえません。なんともユーモラス。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。」(44ab)。ラザロがよみがえった喜びの情景です。


以前にも何度もお話ししたことですが、もう一度。宗教改革者ルターはこのようなデザインを自らの紋章としました。周りに「キリスト者の心臓は十字架の下に置かれるときに脈打つ」とあります。黒の十字架はキリストの死を、赤いハートは私たちのたましい。キリストの「出て来なさい」は単なる言葉だけの招きではありません。キリストの血をもっての招きです。キリストがご自分の全存在で私たちを招き、ご自分の全存在で私たちにいのちを与えて、生きるものとしてくださったのです。

【ほどいてやって】

墓から出て来たラザロに驚く仲間たちに主イエスは命じます。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44d)と。私たちはキリストのいのちを与えられたおたがい。けれども私たちにはなお、ほどかれなければならないものがあります。キリストの十字架と復活によって打ち砕かれたはずの罪と死の支配の「残りかす」のようなものがまとわりつくことがあるのです。恐れや妬みや敵意、それらが愛をさまたげるのです。だから主イエスはたがいにその「残りかす」を取り除き合うようにとおっしゃいます。

マザーテレサの言葉を紹介します。

  • 大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。
  • 人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。
  • 人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。
  • 成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
  • 正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
  • 歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。
  • 心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
  • 今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善い行いを続けなさい。
  • 持っている一番良いものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番良いものを分け与えなさい。

こうして私たちは愛に成長することができるのです。聖餐に与ります。



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2023/04/30

礼拝メッセージ「涙を流す神」ヨハネの福音書11章28-37節 大頭眞一牧師 2023/04/30


先週は、主イエスとマルタの対話を聴きました。主イエスを出迎えに行ったマルタは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」という主の宣言を聴きました。自分の中に死を超えるいのちが始まっていることを知ったのです。

【あなたを呼んでおられます】

すぐにマルタは家にいたマリアのもとに帰ります。そして「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28b)と伝えました。「伝えた」とありますから、主イエスがマルタに「マリアにわたしが呼んでいると伝えなさい」と言ったのかもしれません。けれどもひょっとすると、マルタが主イエスの心を察して、主イエスの招きを代弁したのかもしれないとも思うのです。なぜなら私たちも、そのように人びとを招いているからです。私たちは、すべての人を招いておられる神さまのお心を知っています。ですから、神から「あの人を呼んできなさい」「次はあの人を」と言われなくても、人びとに語りかけるのです。シャンパン・タワーがあふれるように。まず自分が主イエスのいのちに満たされて。

けれども私たちの招きは選挙運動がスピーカーの音量を上げるようなものではないことも、知っておきましょう。マルタは「そっと伝えた」(28a)とあります。「密かに言った」という意味です。マルタは絶望の中にうずくまっているマリアに、マリアだけに聞こえるように、マルタだから語ることができる言葉で語りました。私たちが人びとを招くとき、その語りかけは、じっくりていねいにつちかってきた関係の中で起こります。伝道は教会員が少なくなると困るから行うのではありません。目の前の人がいのちに満たされるため、いのちの喜びにあふれるためなのです。

【涙を流す神】

マリアはすぐに立ち上がります。主イエスのところに行ったのです。主イエスの足もとで、マリアは泣きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32b)と言って。死の力にラザロが奪われてしまった絶望の中にいるのです。マリアとともに来た人びとも泣いていました。彼らもまた、マルタとマリアとラザロの家が悲しみの家になったことに無力を感じていたのでした。

「イエスは涙を流された。」(35)。人びとはこの主イエスの涙を完全に誤解しました。彼らは「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36)と言います。主イエスがご自分の無力、愛するラザロをどうすることもできない無力を嘆いて泣いたと思ったのでした。私たちもしばしば「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)などと言って、人生の不条理に納得しようとすることがあるのではないでしょうか。けれども、ヨブ記は1章で終わっていません。そのあと42章まで、ヨブはやはり納得できないのです。神さまはそんな不条理を許されるお方ではないと。三人の友人たちはそのヨブに、これは神さまのなさったことだから、と納得させようとします。けれども神さまがよしとされたのはヨブでした。神さまもヨブをおそった不条理に納得しておられなかったのです。

【憤るイエス】

主イエスのまたラザロの死に納得しておられません。「そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33b)とあります。主イエスの涙は憤りの涙でした。静かな絶望の涙ではありません。心が騒いで我慢できない怒りの涙だったのです。その怒りは死の力への怒り。罪とタッグを組んで、私たちをご自分から切り離そうとする死の力への怒りでした。

涙を流して憤る主イエスは、世界の誕生から世界の終りまでのすべての痛みを感じていたのではないかと思います。それは死と罪の力が絶え間なく、私たちを神さまから引き離そうとすることによる痛み。主イエスはこのとき、アダムから始まって、第一次第二次の世界大戦、ホロコースト、広島長崎の原爆、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争などすべての人類の痛みを思い、感じ、身を震わせるようにして、憤り、心を騒がせて、涙を流してくださった。そして十字架への決意をさらに固くしてくださいました。ご自身の十字架に罪と死の力を必ず道連れにすると。そして復活によって罪と死の力に打ち勝ち、私たちの愛を妨げるすべてのものから私たちを解き放つと。ご自身がどんな犠牲を払っても、神と人を愛する愛を私たちに満たすと。そんな愛がもう私たちの中に始まっています。


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2023/04/23

礼拝メッセージ「いのちの神」ヨハネの福音書11章17-27節 大頭眞一牧師 2023/04/23



マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。

【もしここにいてくださったなら】

悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。

続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。

【主イエスの宣言】

そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。

ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。


正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。

ゴッホ「ラザロの復活」
そのいのちは私たちのうちにも始まっています。悲しみと絶望の中でも主イエスの宣言は響いています。私たちの耳はしばしばこの宣言を聞き逃します。それでも主イエスの宣言は有効です。そして私たちは聞き逃した仲間にも、この宣言を思い出させ合うことができるのです。



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2023/04/16

主日礼拝メッセージ「死で終わらせない神」ヨハネの福音書11章1-16節 大頭眞一牧師 2023/04/16


先週はイースターをごいっしょに祝いました。主イエスは復活さ れた!今も生きておられる!その喜びの中、今日も主イエスのみ声を聴きます。

【主イエスよ、なぜですか?】

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 」(6)とあります。 その二日後、 主イエスは「ラザロは死にました。 」 (14b)と言ってから、ユダヤに向かわれました。ですから、ラザロの病の重いことを知ったうえで、 助けようとしなかったのです。 それはラザロのことなど、 どうでもよかったからではありません。 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 」 (5)と、あるとおりです。では、なぜ?と、だれもが思います。

私たちも主イエスに愛されています。主イエスと共に踊るいのちに招かれ、もうすでに、踊り始めている。それなのに、病が、死が、困難が、苦しみが私たちを襲います。暴力と戦争や飢えの中にいる人びとも。なぜ、でしょうか。なぜ、主イエスは即座の解決を与えてくださらないのでしょうか。私たちを愛しているのに。

そこに今日の福音が響きます。 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 (14)と。主イエスのおっしゃるのはこうです。「ラザロはこの病気で死ぬ。けれども、それで終わりではない。ラザロの死を通して神の栄光が現れる。」と。主イエスには、このときの弟子たちにはわからない深い思いがありました。「神の栄光は、 わたしがラザロを死からよみがえらせる ことによって現れる。それは神の子であるわたしの栄光でもある。 なぜなら、ラザロの死とよみがえりは、わたしの十字架と復活のしるしだからだ。 わたしの栄光は、十字架に架けられ、墓に葬られて完全な死を経験したのち、復活することによって現れる。恥辱にしか見えない中から栄光が。敗北にしか見えない中から勝利が。 神の栄光はすべての人にいのちを注ぐことであり、神の勝利はすべての人を罪と死の力から解き放つことだから。 だから、今、ラザロが死ぬことに絶望してはならない。神にはできないことがあるなどとしゃがみ込んではならない。ましてや神は自分たちを見捨てたなどと思ってはならない。今のあなたがたの苦しみは神に知られている。その苦しみを通して神の栄光が現れる。 世界が回復されていく。 今は、そうは思えなくても。今は、どのようにして、そんなことが実現するか想像もできなくても。 」

こんな思いを胸に主イエスは招かれます。「さあ、彼のところへ行きましょう。」 (15b )。「さあ、生きよう。苦しみの中でも、生きよ。希望が見当たらないように思える中でも、生きよ。わたしがあなたの人生に栄光を現す。わたしがあなたの苦しみに意味を造り出す」と。

【フランシスコ会修道士の祝祷】

ある牧師が、「フランシスコ会修道士の祝祷」というのを紹介していました。公式なものというよりも一人の修道士によるもののようです。

願わくは、神があなたを「不快感」を通して祝福してくださいますように。 「安易な応答、不誠実な曖昧さ、形式だけの関係」などによっての不快感。それゆえ、あなたは真心を込めて生きられますように。

願わくは、神があなたを「怒り 」を通して祝福してくださいますように。 「不正、圧政、そして人からの搾取」への怒り。 それゆえ、あなたが「公正・自由・平和」のために働くことができますように。

願わくは、神が「」を通して祝福してくださいますように。「苦痛と痛み、拒絶、空腹そして戦争」によって流す「涙」 。 それゆえ、慰めるために手を差し伸べ、苦痛を喜びに変えられますように。

そして、願わくは、神が「存分の愚かさ 」を通して祝福してくださいますように。 「世界に変化をもたらすことが可能だと信じる愚かさ」 。 それゆえ、多くの人達が不可能だと宣言している事柄を成し遂げ、 公正と親切とがすべての子供達、貧しい人たちに届きますように。

「不快感」「怒り」「涙」「存分の愚かさ」、これらはみな、人生の負の要素に思えます。破れた世界においてこのような負は確かに存在します。 けれども 私たちの神は、その負の中に意味を造り出すことができます。いえ、そうしないではいられないお方なのです。あなたを負の場所に置かれた、神の栄光としないではいられないのです。

【主と一緒に】

トマスは主イエスの招きに応えました。 「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」 (16b)と。けれども、私たちはこのトマスの熱意がいかにもろいものであったかを知っています。十字架の前夜、トマスも他の弟子たちも、みな主イエスを捨てて逃げてしまったのですから。 しかし同時に、 私たちは知っています。主イエスは、そんな弟子たちを赦し、招いてくださったことを。何度でも、何度でも、何度でも。私たちまた、そのような主イエスの胸の中で赦され、成長しているのです。


          ワーシップ(賛美) 「谷の白百合(オリジナル)」Bless



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【第1回】一年12回で聖書を読む会「天地創造」が行われました! 2023/04/15

 「一年12回で聖書を読む会」の第1回「天地創造」が 2023/04/15 に行われました。


当日、お越しになれなかった方も以下の動画で内容をご覧いただけます。




以下も参照しながら動画をご覧ください


次回は 2023/05/13 の予定です。


「一年12回で聖書を読む会」について詳しく知りたい方はこちら。どなたでも参加者募集中です!