今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。
【山上で】
「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。
【律法を成就するイエス】
シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。
イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。
旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。
【新しい契約】
けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。
「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)
これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。
【聖化の再発見】
けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。
でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。