2023/09/24

礼拝メッセージ「農夫である神」ヨハネの福音書15章1-6節 大頭眞一牧師 2023/09/24


信愛・明野・天授ヶ岡合同礼拝の今日も主イエスのみ声を聴きます。新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に語られた箇所です。

【教会に語られるイエス】

ヨハネ15章を読み始めると気になることがあります。14章の終わりに「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(14:31bc)とありますから、ここで最後の晩餐は終わったように見えます。ところが15章以下もイエスが晩餐で語った言葉が続いていくのです。しかも14章で語られていたことの内容は、15章と16章でも繰り返されています。このことからある人びとは、15章以下はもともとのヨハネ福音書には入っておらず、後で付け加えられたと考えたりもします。

しかし私は、そうは思いません。ヨハネは最後の晩餐でイエスが語られた言葉を忠実に記録しました。そのときそこにいた弟子たちに語られた言葉を14章までに。そしてイエスの十字架と復活・昇天の後に建てられた教会がとりわけ心に刻むべき言葉を15章以下に重ねて記した、と思うのです。ヨハネがこの福音書を記したのは紀元90年ごろ、教会が誕生して60年ほど過ぎたころです。当時迫害の中にあった教会に向けて、ヨハネが励ましに満ちたイエスの言葉を贈ったのは当然のことだと思われるのです。

【つながっている私たち】

今日の箇所は有名なぶどうの木のたとえ。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(5a)が、その中心にあるイエスの励ましです。ご注意ください。イエスは「つながりなさい」と命じているのではありません。私たちは、もうイエスにつながっているのです。いえ、そもそも、イエスという木から生えた枝なのです。神を知らず、知らないままに神に背を向けていた私たち。そんな私たちにイエスは新しいいのちを与えてくださった。十字架と復活によって。そのいのちによって、私たちはイエスという木に生えた枝です。ですからヨハネは全力で教会に語るのです。「あなたがたは枝なのだ。イエスという木の枝なのだ。だからだいじょうぶだ。イエスがあなたがたという枝を切り離すことなどない。決してない」と。

それでも6節の言葉を恐れる人びとはおられます。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(6)。けれども、そもそも枝は自分から木につながっているわけではありません。木にいのちがあって、そこからいのちを注がれて枝がつながっています。ただ、つながっています。枝のするべきことは、ただ一つ。木から流れ込んでくるいのちに心を閉ざさないこと。木のなすままにされて、いのちを注がれることです。「わたし(イエス)にとどまる」とは、私たちが、今、していることです。仲間と共にイエスの言葉に、イエスの心に、心を開くこと。そうするならば、枝は実を結ぶのです。もう、結んでいるのです。豊かないのちの実を。豊かな愛の実を。

【わたしにとどまりなさい】

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(4ab)と主イエスは励まします。そして約束します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5)と。イエスから流れ込むいのちに心を閉ざさない。主イエスのいのちを受け取り続ける。今私たちがしている通り。

8月の教団青年宣教大会はたいへん恵まれたときとなりました。特に第一回の集会は強い印象を残しましたから、信愛でも明野でも祈祷会などで聴きました。あそこで講師は「あなたの最も根本的なアイデンティーはなにか?」「あなたはだれですか?」と問いを発し、「愛されている神の子ども」が答えだと力強く語ってくれました。イエスにとどまるということは、自分が愛されている神の子どもであることを心とたましいに刻んでいることです。神が十字架に架かるほど愛されている神の子どもであることを。私たちは「とどまっていなさい」と言われると、「では帰ってから聖書を読まなくては」「明日からお祈りしなくては」と思うかもしれない。でも、もっとたいせつなことがある。それは、今、この場で、「愛されている神の子ども」であることを思い出すこと。思い出させ合うことなのです。



(ワーシップ「神の物語」Bless)




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2023/09/18

礼拝メッセージ「平安をあたえる神」ヨハネの福音書14章25-31節 大頭眞一牧師 2023/09/17


三週あいてのヨハネからのメッセージとなりました。今週からまた新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に愛する弟子たちに語られた愛の言葉に聴き入ります。

【この世を支配する者】

「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」(30ab)とあります。主イエスを十字架に架けたのは、ローマ兵であり、総督ピラトであり、ユダヤの祭司長たち、パリサイ人たちです。けれども彼らの背後には「この世を支配する者」という単数の存在がいます。サタン、悪の力です。この力が、人びとの恐れや歪んだ欲望といった弱さに付け込んで支配し、主イエスを十字架に架けたのです。子なる神であるイエスを滅ぼし、世界からいのちと希望と喜びを消しさること、それがサタンの狙いでした。

けれども主イエスは続けます。「彼はわたしに対して何もすることができません。」(30c)と。サタンは十字架で主イエスを滅ぼし、勝利したかのように見えますが、三日天下に過ぎません。主イエスは復活し、父のみもとに昇ったからです。主イエスはこの世を支配する者を滅ぼしました。肉を切らせて骨を断つように。ご自分の十字架によって勝利し、私たちを悪しき支配者から解き放ってくださったのです。今もこの世をサタンが支配しているのではないか、私たちはそんな風に思ってしまうことがあります。けれどもそれは事実ではありません。「彼はわたしに対して何もすることができません。」とおっしゃる主イエスは、サタンの悪しき手を私たちにが触れさせない、と誓ってくださるのです。

【私たちが生きるために】

そのために主イエスは「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26)と、聖霊を約束しました。「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」(28a)も同じ意味です。聖霊によって、主イエスは私たちと共におられるのです。

「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ」るというのは、忘れていることを思い出させるという以上のことです。聖霊は、主イエスのことばとわざを私たちの心とたましいに刻み、浸み込ませ、私たちを主イエスに似たものに成長させます。弱みにつけこまれ、仲間と分断させられ、神との間にくさびを打ち込まれていた私たちが、神に握られている手を握り返し、仲間と肩を組んで、弱さを補い合ういのちに生きるのです。主イエスに滅ぼされたサタンの残りかすに支配されることなく。「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。」(28)は「喜べ」という招き。「さあ、喜んでほしい。父と子と聖霊の交わりを。その交わりの愛があなたがたに向けられていることを。三位一体の神の全力の愛を注がれ、受け取っていることを、力の限り喜んでほしい、さあ」と。

【ほんとうの平安~ひるむな】

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」(27abc)と聴くとき、思い出すのはルカ12章にある愚か者の譬え。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(19)と語る者のいのちはその夜にも取り去られる、というのです。私たちは食物を、収入を、健康を必要とします。けれども、それらを得たからといって、それがほんとうの平安ではありません。それらは世が与える平安です。

しかし主イエスが与える平安はほんとうの平安。持ち物に満足して座り込む平安ではなく、神さまと共に旅をし、旅を喜ぶ平安。私たちの生涯は遊牧民のようだと思います。神さまが与えてくださる良きものを喜びながらも、軽くにぎって、足取りも軽く従う生涯。手鍋下げても、という言葉がありますが、私は好きです。強いられてではなく、そうしなければ平安を得られないからでもなく、そうしたいから神さまと共に旅をする。そうして神さまと共に、仲間と共に、世界の破れをつくろい、世界に回復をもたらして生きる。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(27de)。さあ、主イエスと共に出かけましょう!置かれた場所に。その前にごいっしょに主イエスの食卓に与ります。


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2023/09/03

京都教区合同礼拝メッセージ「あふれる恵み」詩篇23篇1-6節 内田純牧師 2023/09/03


京都教区合同礼拝を感謝します。2023年度教団標語は「転換点を迎えて-過去への感謝、現在への確信、未来への指針」です。私たちを取り巻く状況はいつだって転換点の連続です。その中で、私たちにとって大切な「変わらぬこと」を見させていただきましょう。

①平穏なときにも恵み (23:1-3)

ここでは「主と私」の関係を「羊飼いと羊」という関係で表現します。何とも平穏な光景です。羊は羊だけでは生きられない、弱く迷いやすい存在です。羊飼いが羊を導き養い癒します。この羊飼いは主。羊は私たち。羊と私たちは一緒か?今、私たちには便利なスマホがあります。知りたいことは何でも検索できます。欲しいものはすぐ注文できます。道案内もしてくれます。夜道の明かりにもなります。でも様々な情報に振りまわされ、ネットにはまり込み、人生という道に迷っていないか?私たちは平穏なときも、主のゆるぎない導きと適切なケアを必要としているのです。

②危機の時にも恵み (23:4-5)

羊は牧草地を移動します。時に肉食獣が潜む谷も通ります。でも羊が戦うのではありません。羊飼いが戦います。「死の谷」ではなく「死の陰の谷」に過ぎない。危機的状況で「主と私」は「あなたと私」へ変化します。「羊飼いと羊」という関係でもなくなります。より近い関係になる。状況は変わらない。敵はいる。でも主が共におられ、食卓を用意し、香油を注ぎ、杯を満たしてくださいます。何というくつろぎ!何という余裕!私たちにも敵(様々な問題)が立ちはだかり、次々襲ってきます。そしてすぐに自分で何とかしようとします。でも、その問題に立ち向かわれるのは主。私たちに大切なのは、主の用意されたもてなしにまずは浸ること。平穏なときも、そして危機のときこそ、主とより親しい関係を築く好機となるのです。

③とこしえまでも恵み (23:6)

「私」は緑の牧場、みぎわ、死の陰の谷、敵の前を経て主の家に住まいます。「主と私」は「あなたと私」、そして主の家族となります。『恵みが追って来る』とあります。恵みが平穏なときにもあふれ、危機のときこそますますあふれ、どこまでも追いかけ、押し上げ、いよいよ主に近づけ、ついに主の家に住まわせるのです。恵みは「今日の礼拝は恵まれた」と言うような、あったりなかったりするものではありません。私たちが生きる上で絶対に欠かせないものです。自然の恵みも救いの恵みもそうです。私たちが主の家に至るまで、主も主の恵みも様々な形で共にあるのです。

人生山あり谷あり。問題も次々。転換点の連続です。その中で変わらぬことがある。主が導き、恵みを振るまい、もてなし続けておられることです。では、どんな中でも私たちにできる変わらぬことは何か?私たちの身近な人から、主の恵みを分かち合い、もてなすことです。そこから恵みはあふれ出すのです。



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2023/08/28

2023/08/21

礼拝メッセージ「愛をあたえる神」ヨハネの福音書14章15-24節 大頭眞一牧師 2023/08/20


今日、大頭牧師は鈴鹿教会で、ご用。いつもは合同礼拝をささげている信愛と明野ですが、今日はそれぞれが動画を用いての礼拝です。今後もさまざまな状況に対応できるように備えを、という意味もあります。ご担当の方がたのご労に感謝します。

【孤児にしない主】

十字架前後の最後の晩餐。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)とあります。最後まで弟子たちを、すなわち、教会を愛されたイエスは、十字架と復活を超えて愛し続けられます。ですから、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(18)と力強く宣言してくださったのです。主イエスがおられなければ、私たちは親のない孤児。思えば、私たちはときに、まるで神さまに見捨てられたかのように錯覚して失望することがあります。けれども、主イエスが孤児にはしない!とおっしゃったのだから、それは錯覚です。どうかたがいに錯覚から目を覚まさせあうことができるように、と願います。

使徒信条には「…天に昇り…父の右に座したまえり」とあるから、戻って来てないのでは?と思うかもしれません。もちろん主の約束にいつわりはありません。三位一体の父・子・聖霊の神は私たちと共におられます。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。(20)にあるように、三位一体の神の交わりのうちに私たちも招き入れられているのです。すでに、もう、今から。

【助け主である聖霊】

三位一体の神のうちでも、特に前面に出て私たちと関わってくださるのが聖霊なる神です。ペンテコステに降った聖霊は、教会の助け主です。教会、すなわち私たちが、神を愛し、たがいを愛し、世界を愛する助け手となってくださるのです。聖書を開くとき、祈るとき、礼拝をささげるとき、仲間と語り合うとき、聖霊が助けてくださいます。神のかたちに私たちをじっくりと成長させ、神のいのちに生きることを助けてくださるのです。

【弁護者である聖霊】

「助け主」という言葉には「弁護者」という意味もあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:1-2)。私たちが罪を犯すとき悪魔は私たちを訴え、責め、そこから立ち上がれないようにさせます。けれども、聖霊は私たちに思い出させます。私たちのために、世界の罪のために十字架に架かってくださった主イエスを。そしてキリストのいのちを生きよ、と語ってくださるのです。

【慰め主である聖霊】

「助け主」という言葉には、また、「慰め主」という意味もあります。パウロは「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)と記しています。ここには神さまの特徴的な、なさり方があります。神が私たちを慰めてくださるとき、私たちは神に似た者へと変えられていきます。今度は私たちが、慰める者となっていくのです。同じように、助け主である聖霊は私たちを助け合う者にします。弁護者である聖霊は、私たちを主イエスのあがないを指し示す者にします。私たち教会を。

【つまるところ愛】

主イエスは「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(23)と締めくくられました。主イエスを愛し、主イエスのことばを守ることが条件だと思ってはなりません。私たちが神を愛するなら、その愛は神が与えたものです。神とともに生きる私たちは、日々深まりゆく神との関係のうちに、ますます愛することに熟練していきます。さらに深く神のうちに住み、神もまた私たちのうちに住んでくださるのです。


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2023/08/13

礼拝メッセージ「うちにいる神」ヨハネの福音書14章12-21節 大頭眞一牧師 2023/08/13


新約聖書の至聖所である13章-17章。その中でもさらに至聖の箇所が今日の箇所。吐露される神のお心に聴き入りましょう。

【さらに大きなわざ】

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(12)は、私たちを驚かせます。この個所にかぎりません。いつも主イエスの言葉は私たちを驚かせ続けます。どんなに私たちが主イエスを知っても、主イエスはさらに大きいのです。それにしても私たちが主イエスよりも大きなわざを行うとは!「私たち」は教会。教会はこの世界でキリストのいのちを生きていきます。神との関係が破れ、人との関係が破れ、被造物との関係が破れた世界で。キリストのいのちによって、愛を回復され、世界の破れを回復させながら。もちろん、それもキリストが教会を通して行うわざです。けれども、主イエスはそれを私たちのわざと呼んでくださいます。主イエスと共に働く私たちを励ましてくださるのです。

【聖霊が降り積もり】

「わたしが父のもとに行くからです。」(12c)とあります。すると「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」(13)と。私たちが主イエスの名によって求めることとは何でしょうか。もちろんそれは神さまをランプの精のように使うことではないではありません。神さまと共に世界の破れをつくろうこと、それが私たちの求め。主イエスはその求めをかなえてくださる。私たちと共に。私たちを用いて。そのために「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16)と。

去年のクリスマスにごいっしょに歌ったワーシップは「HOPE(希望)」。あの歌に「私たちの上に聖霊が降り積もり」というサビがあります。この表現は聞きなれないうちは、不思議に思えていました。けれども何度も聞くうちに、深くうなずきました。聖霊は私たちのうちにおられます。けれども、私たちが聖霊に心を開いて、自分をゆだねるほどに、神さまのお心がわかります。神さまの愛が満ちてきます。雪がだんだん降り積もるように、聖霊がだんだん私たちをご自分のものにしてゆかれます。だんだん私たちのものとなってくださいます。十字架にご自分を与えた主イエスの思いを、私たちの思いとしてくださるのです。

【孤児とはしない神】

主イエスの愛はさらに激しく注がれます。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」(18-19)。私たちのために十字架でいのちを捨てる主の愛は、そこで終わりません。終わるのにはあまりに私たちを愛しているから。死んでも復活し、昇天しても聖霊において私たちのところに帰ってこないではいられない愛です。

【私たちのうちにいる神】

「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(17b)と「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(20)は、まさに至聖所の中の至聖所。三位一体の神と私たちが、たがいがたがいの内にいるように、交差するように、ダンスを踊るように、愛し合っているのです。ここに主イエスが人となられた受肉の目的が、十字架と復活と昇天、そしてペンテコステの目的が、ありました。あまりのことに、私たちにはとらえきれず、表現しきれないのですが、そんなありえないことを、三位一体の神は望み、実現してくださったのでした。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(21)を聴くとき、私たちのいのちは高鳴ります。三位一体の神に抱きしめられて、私たちも神を愛します。仲間を、世界を愛します。すでに今愛しています。こんなにも。高鳴るいのちを寄せ合って、聖餐にあずかります。


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