2022/11/25

第1アドベント礼拝メッセージ「捨てられる神」ヨハネの福音書6章60-71節 大頭眞一牧師 2022/11/27



今日から待降節(アドベンド)。クリスマスを待ち望む喜びの季節です。そんな日の説教題が「捨てられる神」とは!けれどもクリスマスにお生まれになったのは、まさに捨てられるために生まれた神。今日もその神のことばを聴きます。

【弟子たちのうちの多くの者が】

この個所はほかの三つの福音書にはありません。ヨハネだけが「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60b)という弟子たちの、しかも多くの弟子たちの言葉を記しています。パリサイ派や群衆ならまだしも、「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(66)とあるのです。

ひどい話とは「わたしは天から下って来たパンです」(41)というおことばでしょう。つまち主イエスがご自分を「天から下って来た神だ」と言ったことを受け入れることができなかったのです。なぜなら人びとがイエスに求めていたのは、当時のユダヤを支配していたローマからの解放をもたらし、食物を与える革命家でした。ところがイエスのなさろうとしたことは、はるかに根源的な革命でした。罪と死の力から解放し、永遠のいのちのパンとしてご自分を与えたイエス。そのイエスは、永遠のいのちを与えられた私たちと共に、愛によってこの世界の破れをつくろわれるのです。けれども、人びとは、多くの弟子たちさえも、このことを受け入れることができなかったのでした。もしみなさんのうちに、このことがもう一歩よくわからない、という方がおられましたら遠慮なく、お知らせいただきたいと思います。ごいっしょに聖書を開き、祈るときを持たせていただきたいと思います。

【いのちを与えるのは御霊】

「祈るときを」と申し上げたのは、「いのちを与えるのは御霊です。」(63a)だからです。神ご自身、聖霊なる神ご自身だけが、私たちに永遠のいのちをあたえることができます。私たちを愛して、いのちを与えない神。私たちをほうっておくことができないで、クリスマスに地上に来てくださった神ご自身が、聖霊によって私たちにいのちを与えてくださったのです。今、すでに私たちのうちに始まっていて、死を超えてその向こう側にまで続く、永遠のいのちを。

【わたしがあなたがた十二人を選んだ】

去っていった多くの弟子たちがいる一方で、シモン・ペテロは答えました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(68b-69)と。それに対して、主イエスは「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」(70b)とお答えになりました。ペテロが「あなたが神の聖者」と告白することができたのは、ペテロがすぐれていたからではありません。努力したからでもありません。主イエスがペテロたちを選んだからです。

ここで、ペテロが「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と語り、主イエスが「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」といずれも複数が用いられていることもたいせつです。神さまは私たちがたがいに支え合い、励まし合って、永遠のいのちにとどまるようにと、仲間を与えてくださっているのです。

【あなたがたのうちの一人は悪魔】

それにつけても不思議なのは、主イエスによって選ばれたはずの弟子たちのうちから多くの者が離れ去ってしまったことです。こういうところを読むと、私たちは「自分はだいじょうぶだろうか。主イエスを離れたりしないだろうか」と不安になるときがあるかもしれません。けれども、聖書は神のことば。私たちのために捨てられることをいとわぬ神のことばです。ヨハネは、そしてヨハネを通して神さまが、私たちに「あなたがたは選ばれている。だからわたしはあなたがたを決して手放さない」と語っていてくださるのです。その神のあわれみによって、離れ去った弟子たちからも、主イエスに立ち帰る者たちが起こされたことでしょう。当のペテロたちもそうであったように。

ユダに対する「あなたがたのうちの一人は悪魔」(70c)も痛みを覚えさせます。しかしこのことばも、死と悪魔に勝たれた主イエスからの招きのことばだと、私は信じます。



新聖歌171「今日まで守られ」ワーシップソング(賛美) Bless




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2022/11/18

主日礼拝メッセージ 2022/11/20 「自分をあたえる神」ヨハネの福音書6章52-59節 大頭眞一牧師


今日の説教題は、「自分を与える神」。このところ「いのちのパンである神」といった同じような題が続いています。聖書そのものが、私たちのために自分を与えた神を繰り返し語っているから。そんな自分を与える神こそ、ヨハネが私たちにどうしても伝えたいこと、ヨハネを通して神さまが伝えたいこと。かつて、「心とたましいに刻むことば」という説教をしたことがあります。年明けに出る説教集に載る予定です。心とたましいが別べつにあるというわけではありません。神さまには、私たちの存在に刻みたいと願っておられることばがあります。今朝もそんなことばを聴き、心とたましいに刻みたいと思います。

【はるかに力強く】

主イエスは語ります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(6:53b-55)

もちろん私たちは実際に二千年前の主イエスの血と肉を飲食するわけではありません。それにもかかわらず、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言うのです。食べ物は、私たちに噛み砕かれて、私たちの体の一部となります。イエスのいのちを受け取るということは、ただ、頭の中でイエスを理解するということではありません。また、ただ感情的に動かされるということでもありません。主イエスの与えるいのちは、私たちの一部となります。私たちの存在の一部となるのです。

明野キリスト教会では、木曜日の午後、「一年12回で聖書を読む会」をオンラインで行っています。私の著書『聖書は物語る一年12回で聖書を読む本』を用いて、聖書を読むのですが、今は二年目なので、『聖書はさらに物語る一年12回で聖書を読む本』を読んでいます。先週はヨハネ3章から、ニコデモのところを読みました。「新しく生まれるということはどういうことですか?」とうめくニコデモに、主イエスは不思議な答をしました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネの福音書3:8)と。

私たちがほほで風を感じるとき、私たちに知ることができるのは、風が吹いていることだけです。風がどこで発生し、どこに向かうのかは、わかりません。けれども、確かに風は私たちに届いたのです。イエス・キリストが「新しく生まれさせる神」だということは、私たちにはなぜそうなのかは、よくわかりません。理屈はわからないけれども、でも、主イエスが私たちに届くとき、いのちが始まる。始まったいのちが成長する。そうお話ししました。そして、「このことがおわかりでしょうか?」とお訊ねしました。これは、そもそも無理な質問だと思います。ことばで言い表すことのできないことを語っておいて、「わかったかどうか、ことばで答えてください」というのですから。けれども、受講しておられた方はたいへん賢明な答をしてくださいました。「ことばを超えた大きな神の愛を思っています」と、そういう意味のことを言われたのです。いちぱん大切なことを受け取ってくださったなあ、と私はうれしく思いました。今日の箇所でいうならば、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」という、主イエスの激しい愛が差し出されていることに気づいておられるのだな、と思ったのです。

私たちはきちんと言葉で説明できないもの、数学の数式のようにきちんと書きあらわせないものを、あやふやなもののように思ってしまう傾向があるようです。だから神さまがいるなら証明してほしい、とそんなことを考えます。けれども、神さまは数式よりもはるかにすばらしいお方。はるかに力強いお方です。私たちを新しく生まれさせ、私たちの新しいいのちを成長させ、ご自分が愛するように、私たちをも愛する者としてくださいます。主イエスの肉と血を食する者、主イエスをまるまま、理解できるところも理解できないところも、まるまま食し、受け取る者は、そんなはるかな力強さの中を歩んでいくのです。

【愛は論理を超えて】

なぜなら、愛は説明できないから。愛が論理的でない、というのではありません。愛は、私たちの論理より大きく、私たちの論理を超えているのです。私たちを赦し、癒し、立ち上がらせる。そんな愛が私たちに注がれています。それが自分を与える神の愛。今、ここで、私たちに注がれている愛です。

旧約聖書は「動物の血を飲んではならない」と教えています。血はいのちであって、いのちは神にお返ししなければならないという教えです。主イエスはこの教えをじゅうぶんにご存じのうえで、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」と命じました。旧約聖書をくつがえして、神ご自身のいのちを与えてくださったのです。それは、実は旧約聖書の目指すゴールを達成するためでした。神と人がともに生きること。そのゴールは、このように私たちに成就しています。


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2022/11/12

主日礼拝メッセージ 2022/11/13 「永遠のいのちの神」ヨハネの福音書6章41-51節 大頭眞一牧師


永遠のいのちをめぐって主イエスとユダヤ人たちとの問答が続いています。ヨハネがこれらのことを記しているのは、読む私たちが永遠のいのちを生きるため。私たちは今日も主イエスのお言葉を聴きます。永遠のいのちを生き生きといきるために。

【ナザレのただ人】

イエスは「わたしは天から下って来たパンです」(41)と言いました。自分は神から遣わされた子なる神であるという宣言です。けれども人びとは文句を言い始めます。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(42)と。それはイエスがただの人であったから。人びとと、そして私たちと何もかわるところがないただの人だったからです。主イエスは私たちと同じように飢えや病に苦しみ、涙を流し、ほかの人の助けを必要としました。そんな主イエスを神だと、人びとが信じることができなかったはむしろ当然です。私たちのまわりのまだ信仰を持っていない人は、「イエス・キリストは立派な人だ。イエスにならって生きなさい」という教えだったら受け入れやすいのに、と言います。けれども聖書は妥協しません。イエスは十字架に架かった神。いかに信じることが難しくても、その信仰告白を要求するのです。

【引き寄せる神】

人はどうしたら「イエスが十字架に架けられた神」だと告白することができるでしょうか。人間にはできません。私たちは信じようと努力しても信じることはできないのです。けれども、聖書は記します。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(44a)と。ですから「父が引き寄せて」くださるなら私たちは信じることができるのです。先週は、ひとりの兄弟が病床洗礼を受けました。はっきりと「イエスが十字架に架けられた神」であることを告白したのです。それは「父が引き寄せて」くださったから。私たちも「父が引き寄せて」くださったひとりひとりであることを思い起こしましょう。

【だれでもこのパンを食べるなら】

今日は信愛の方がたと聖餐に与ります。先週は明野キリスト教会の方がたと。しかし、明野の方がたは、今日は聖餐に与かっていない、ただ見ているだけ、というのではありません。たしかに明野方がたの前には、目に見えるパンやぶどう汁はありません。けれども、明野の方がたもいわば「霊的な」聖餐に与るのです。それは、明野で聖餐をするときの信愛の方がたにとっても同じです。

聖餐に与るとは、どういうことなのか。先週も申し上げました。パンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまいます。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしが支払ったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

先週は求道中のもうひとりの方とお話しすることがありました。その方は自分には罪があると言います。自分には、愛に欠ける言葉と、思いと、行いがあると。けれども「そんな私の罪を、きよいイエスに負わせることは申し訳なくてできません」そう言うのです。私はその方の誠実さに感銘を受けました。けれどもやはり思うのです。主イエスに負わせることなどできない私たちの罪。だからこそイエスが負ってくださった。私たちには、そして、ほかのだれにも決して負うことができない罪だからこそ。そのために主イエスは天からのパンとして来てくださり、ご自分を差し出してくださっています、今。私たちが、永遠のいのちにあずかり、そのいのちを生きるために。

ごいっしょに聖餐にあずかります。


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2022/11/05

主日礼拝メッセージ 2022/11/06 「みもとに招く神」ヨハネの福音書6章32-40節 大頭眞一牧師


先週に続いて、主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日のできごとです。人びとは主イエスからパンをもらいたいと願って、主イエスを追ってきました。イエスが与えるパンが、目に見えるパンではなくて、イエスご自身であることが、なかなか分からない人びと。けれども、イエスは忍耐強く語り続けます。愛ゆえに、あわれみゆえに、人びとを、私たちをそのままにしておくことができなくて。

【いのちのパンを食べるために】

主イエスといういのちのパンを食べるとは、どういうことであるのか。35節にそれが記されています。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」つまり、イエスを信じること。イエスが神から遣わされ、十字架で死んで復活した神であることを信じることなのです。

【選びか自由意志か】

人はどのようにして信じるのか。片方には、「人間には信じることができない。信じることができるとするなら、それは神に選ばれているからだ」と考える人びとがいます。これが予定論。今日の聖書で言えば、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。」(37a)はそのように解釈することもできます。

もう一方にあるのは、自由意志論。「神さまが、恵みによって、私たちがいのちを選ぶことができるようにしてくださっている」と考える人びとです。今日の聖書なら「しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。」(36)がこれに当たるでしょう。

予定論か自由意志論か。これは古代から教会を二分してきた議論でした。けれども聖書を神の愛の物語として読むならそこに見えてくるものがあります。罪を犯したくないと思いながらも、犯してしまう私たち。そんな私たちを「信じなさい」と招き続け、信仰を贈り、信じた私たちを「あなたは選ばれている」と抱きしめてくださる神さまの姿です。「そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(37b)とあるとおりです。ある牧師はこう言いました。「救いの門の外側には『信じなさい』と書いてある。ところが門をくぐって振り返ると『あなたは選ばれている』と書いてあるのです」と。今、こうして礼拝に集う私たちは選ばれているのです。主イエスは決して、私たちを手放すことはなさいません。

【食べられるパン】

けれども忘れてはならないことがあります。それはパンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまうということです。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。今日は聖餐。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしがしはらったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。

【天国ではなく復活】

「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(39-40)とあります。「終わりの日のよみがえり」が永遠のいのちだと強調されています。私たちは死んで、この地上とは関係のない天国に、たましいだけでいくのではありません。そうではなくて、この地上、終わりの日に回復された地上に復活するのです。肉体をもって。

いつもいつも申し上げることです。人は生きたように死に、死んだように復活します。神さまに招かれ、信仰を贈られ、「あなたは選ばれている」と抱きしめられている私たちは、安心して神さまとともに冒険しています。世界の回復のために。そんな私たちは神さまの胸の中に倒れこんで死に、神さまの胸の中でよみがえります。そして、今しているように、神さまと仲間を愛する愛に生き続けます。さあ、仲間とともに主の食卓につきましょう。


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2022/10/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/30 「いのちのパンである神」ヨハネの福音書6章22-31節 大頭眞一牧師



主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日。人びとは主イエスを追って、舟で湖を渡りました。それは主イエスからパンをもらいたかったから。それも一回や二回ではありません。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(31)とあります。出エジプトの後、神さまは荒野で40年間、毎日マナを与えてくださいました。人びとは「そのように自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と、そう願ったのでした。

【いのちのパンである神】


主イエスの答えは「ノー」でした。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)と言ったのです。「永遠のいのちに至る食べ物」とはイエス。小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありました。ご自分を与え、しかも十字架の上で与えてくださった神が、「さあ、わたしのいのちを受け取れ」と招いてくださったのです。

こうして礼拝に集っておられるみなさんは、「永遠のいのちに至る食べ物」であるイエスを受け取った方がたです。イエスといういのちのパンを食べたのです。そんなたがいを喜びたいと思います。私たちに食べられるために、喜んでご自分を与えてくださったイエスを想いながら。

【奇跡ではなくしるしを】


ヨハネは七つの「しるし」を記していると前にも申し上げました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26c)とあります。人びとが見たのは、イエスがたくさんの人びとにパンを食べさせる奇跡。けれどもイエスは、人びとが奇跡は見たが「しるし」は見ていないというのです。「奇跡」とは、常識では起こると考えられない不思議な出来事。けれども「しるし」はちがいます。ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、主イエスが「神が遣わした者」(29b)、神から遣わされ、十字架に架かって、復活した神であるという信仰をもたらすもの。「奇跡」は、ご自分を与える神の愛の光で見るときに「しるし」となるのです。

【律法ではなくいのちを】


イエスが永遠のいのちを語られたとき、人びとは「「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」28bと訊ねました。当時の多くの人びとは律法を誤解していました。律法を守れば救われ、破れば罰せられる。そういうふうに考えていたのです。けれども実際は、律法はそうではありません。まず出エジプト、そして律法。律法を知らないで、救い出されたイスラエル。そのイスラエルに神さまが「わたしといっしょに歩こう。わたしといっしょに愛し合おう。その歩きかた、愛し合いかたを、教えてあげよう」と、与えてくださったのでした。

それがわからない人びとが「何をすべきでしょうか。」28bと訊ねたのは当然でした。何かをすることによって神の承認を得ようとするのです。それは私たちも同じです。どこかで「自分はもっと何かをすべきではないのか」と自分を責める思いが起こってきます。とくに失望の朝、落胆の夜には。

ところがそこへイエスの声が響きます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)と。「信じること」については、いつもお語りしている通りです。私たちは自分で信じようとしても、信じることはできません。信仰そのものが神さまからの贈り物なのです。ですから、ここで主イエスは「今、あなたがたに信仰を贈る。それはもうあなたがたの中に起こっている。わたしを飲み、わたしを食べよ。わたしはあなたがたにいのちを与える食べ物である。」言ったのでした。

【アスランのくだされた冒険に】


荒野の毎日のマナのように、「自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と願った人びと。私たちも同じように祈ります。健康のため、生活のため、安全のために。けれどもイエスは、それらのことを思いわずらうな、と教えられました。それは、私たちの安心など、どうでもよいからではありません。イエスが差し出されているのは、もっと大きな安心。嵐のない安心ではなく、嵐のなかでもなくならない安心。死の向こう側でもなくならない安心です。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)はたいせつです。イエスが信仰を与えるとき、それは私たちの内側の心の動きにとどまりません。あふれる愛が私たちを行動へと押し出すのです。愛の冒険へと。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。

冒険というとなにか恐ろしいことのように思うかもしれません。けれどもそれは、自分が置かれた場所でていねいに生きる、ただそのことです。先週は明野に外国から方がたが出席されました。私は信愛での説教でしたのでお会いしていないのですが、明野の方がたが、とても暖かく歓迎してくださいました。世界につながる小さな冒険が始まったのです。イエスの招きによって。それぞれの場所で。

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2022/10/22

主日礼拝メッセージ 2022/10/23 「わたしだと言う神」ヨハネの福音書6章16-21節 大頭眞一師


今日は主イエスの五つめのしるし、湖の上を歩いた主イエスの奇蹟です。4月から信愛と明野の合同礼拝が始まり、ヨハネの福音書の最初から読んだために、明野の方がたは、去年読んだのと同じ個所を二度聴くことになりました。それも先週で終わり、きょうの箇所から、明野の方がたもはじめての箇所となります。お待たせしました。

【来ておられなかったイエス】


「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」(16-17)とあります。ほかの福音書は、イエスが強いてそうだせた、と記していますが、ヨハネは理由をなにも記しません。ヨハネがこの福音書を書いた紀元1世紀末は、教会が迫害の中にありました。教会に連なる人びとは「主イエスは自分たちと共におられないのではないだろうか。自分たちはイエスなしで教会という舟で航海しているのではないか」と思ったことでしょう。そんな教会の姿が、弟子たちに重ねられているのです。

明野は最近大きな痛みを経験しました。私たちの愛する友である兄弟を失った。あまりの不条理に言葉がありません。ご高齢の方がたが「私たちがいくらでも代わってあげるのに」と話しているのを聞いて、私の心はずきずきと痛みました。私たちの人生の旅には「強風が吹いて湖は荒れ始めた。」(18)というときがある。そんなときにしばしば私たちはイエスが共におられないのではないかと思うのです。

【湖の上を歩いて来られるイエス】


「そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」(19)はおよそ5キロ。浅瀬を歩いて来るならまだしも、沖合5キロの深い水の上を歩くことは考えられないことです。しかしイエスは来られた。5キロの水も主イエスを妨げることができなかった。主イエスの弟子たちへの思いが5キロの水よりまさったからです。主イエスが来てくださった。主イエスは来ることを望んでくださったのでした。

私たちの兄弟にはお孫さんたちがいます。こういう場合に幼い人びとになんと話したらよいのか、と私たちは思います。いや、私たち自身が、どう受け止めたらいいのか聞きたいのです。そんなことを思ううちにふと浮かんだことがある。それは「神が」兄弟を休ませた。もう、よくやった、と休ませた、いうこと。私たちには、そんなことを言われても納得などいくはずもないのだけれども、けれども、主語は神さま。神が兄弟を小学生のころに招き、神が生涯の使命を与え、神が伴侶を、子どもたちを、孫たちを与え、神が明野に導いた。その生涯を貫いたのは「神」という主語。愛に満ちた「神」という主語。兄弟も「神」という主語を受け入れた。神を主語として生きた。兄弟の生涯にもさまざまな嵐があっただろう。けれどもどの一つの嵐も神がおられない嵐はなかった。神はいつもそこに来られていた。兄弟の生涯の最後の嵐の中でももちろん。

【わたしだ】


湖の上を歩くイエスを恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(20)と声が響きます。「わたしだ」はギリシア語で「エゴーエイミー」有名な言葉です。主イエスがこの言葉を使われるときには出エジプト記を思い浮かべておられました。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(3:13-14b)

「わたしはある」英語で言えば「アイアム」、ギリシア語では「エゴーエイミー」。神がご自分で名乗られた名前が出エジプト記の「わたしである」であり、ヨハネの「わたしだ」です。けれども神は、ただ置き物のように「ある」のではありません。出エジプトではイスラエルの苦しみを黙って見ていることができないで、身をかがめるようにしてモーセに現れてくださった神。嵐の中の弟子たちに、5キロの水を乗り越えて来てくださった神、迫害下のヨハネの教会にも「わたしだ」と言って励ましてくださった、愛ゆえに行動する神。それが「わたしだ」と言う神なのです。

【イエスを迎え入れようと】


「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」(21)は、協会共同訳のほうがよいでしょう。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21)つまり、弟子たちがしたことは何もないのです。ただイエスを迎え入れようとした。迎え入れたのでもない、ただ迎え入れようとした。嵐の中にうずくまるときの私たちにできることはほとんどありません。強い信仰を持てと言われても無理です。ただ、そんな私たちでも「わたしだ」と言う声のするほうに、わずかに顔を向けようとすることはできるかもしれません。それは、ほんのわずかなこころの動きにすぎません。でも、それでよいのです。それでじゅうぶんなのです。

「すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21b)とあります。ヨハネは強風がおさまったとは記しません。ヨハネの生きている間に、教会への迫害がおさまることもありませんでした。けれども、主語である神さまは、愛ゆえに、目指すところを成し遂げられるのです。私たちの生も死もそのために用いてくださるのです。そのなさり方は、私たちの理解も想像も超えていますから、それを理解しようとはしないでください。私たちにはわからないのですから。それでも光の方角にわずかに顔を向けようとするとき、それが単に今までの習慣から、無意識に祈りや賛美を口ずさむことであったとしても、愛なる神さまがその先を引き取ってくださいます。いえ、もうそしてくださっています。

ワーシップ「アブラハムと神さまと星空と」Bless (詞:大頭眞一牧師)




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2022/10/16

主日礼拝メッセージ 2022/10/16 「豊かに与える神」ヨハネの福音書6章1-15節 大頭眞一師

  (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日は主イエスの四つめのしるし。五つのパンと二匹の魚の奇蹟です。今までもヨハネの福音書の二階建て構造について語ってきましたが、ここ にもそれが鮮やかです。一階では、パンや魚によって人びとは満腹になります。けれども、主イエスの願いは二階にあります。ひとびとがいのちのパンに与って、新しいいのちに生きることなのです。

【しるしを見たから】


5章の舞台はエルサレムでしたが、6章は再びガリラヤ湖。「大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。 」 (2)のとおり、群衆は新しいいのちを求めたわけではありません。 病人たちのいやしを見て、それに引きつけられたのです。主イエスの与えるいのちには関心が向いていないのです。

けれどもそれは弟子たちも同じでした。 主イエスはピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 (5)と言います。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 」 (6)とあります。 主イエスの願いは、人びとに新しいいのちを与えることです。病のいやしは、新しいいのちのしるしであって、 ほんとうに与えたいのは、新しいいのちなのです。主イエスは弟子たちにも、このことを知って欲しいのです。だからあえて「どこから買って来るか」と試されました。ここで思い出すのは、スカルの井戸のできごとです。弟子たち がイエスに「先生、食事をしてください」(31)と勧めたとき、 イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 (32)と言いました。 もしピリポがこのときのことを覚えていたら、「主イエスよ、新しいいのちにいたるパンはあなたがお持ちです。あなたがいのちのパンです」と答えることができたでしょう。けれども、ピリポは食べるパンのことしか考えることができませんでした。主イエスのテストに不合格だったのです。

その点ではアンデレも同じでした。主イエスがいのちのパンであることを忘れて「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」 (9)と言ったのです。空腹を満たす食物のことしか考えられなかったのでした。

【五つのパンと二匹の魚】


けれども 、主イエスはしんぼうづよい愛のお方です。 ピリポやアンデレを失格だ、と斥けることはしません。 差し出されたパンと魚を用いて、弟子たちと群衆にいのちを与えようとなさいました。二階建てと 言うならば、一階では五千人の満腹というできごとが起こっています。けれども二階では、主イエスの与える新しいいのちが差し出されているのです。

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。(11)はたいせつです。この「感謝の祈り」は過越の祭りでささげられる祈り。出エジプトで、神さまはエジプトの奴隷であったイスラエルを救い出しました。エジプトじゅうの長子が殺されたとき、過越の小羊の血によって、イスラエルだけが救われたのです。こうして解き放たれたイスラエルがその恵みを記念するための、過越の祭り。その祭りの感謝の祈りを、主イエスはささげました。それはご自分が過越の小羊として十字架に架けられること。それによってすべての人が罪と死から、永遠のいのち へと解き放たれることを知っておられたからでした。ですから、主イエスが配られたパンと魚はただ空腹を満たす食物というのではありません。 新しいいのちを与えるためのいのちのパンです。そしてそれは主イエスの十字架の血と肉を表しているのです。

【十字架の王】


「人々はイエスがなさったしるしを見て、 『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』 と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 」 (14-15)。人びとは主イエスを王にしようとします。けれども主イエスはそれに応じませんでした。 食物で満腹することだけを求める群衆の言いなりにはならなかったのです。それは、彼らが求めることさえしない新しいいのちを与えるため。そのためにご自分を十字架に与えるため。そのお姿は外見では王には見えません。けれども、その愛はまぎれもなくまことの王である神の愛でした。そんな十字架の王を見上げつつ、私たちは聖餐に与ります。 先に召された者たちとともに、やがて主の食卓に連なる日を思いながら 。