2022/08/07

主日礼拝 2022/08/07 「まことの礼拝の神」

 礼拝メッセージ「まことの礼拝の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章16~30節(新約P.182)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)


今週も引き続きスカルの井戸に現れた主イエスの恵みを聴きます。主イエスは、サマリアの女にご自分から近づき、女はだんだん目が開かれて「その水を私に下さい。」というまでになりました。

【心を知る神】


けれども主イエスは「さあ、飲むがよい」ではなく、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と意外なことを訊かれました。もちろん女の答を知っておられて、のことです。女には「夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」(18)のです。これが真昼に女が、人目を避けて水を汲みに来ていた理由でした。この時代のことです。女はふしだらな人として軽蔑され、人から口もきいてもらえなかったのでしょう。

しかし主イエスはそんな女の人生のみならず、心をご存じでした。ある牧師がこの女の心をこう推測しています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」と。なかなか厳しいです。けれども、この女がボロボロになってしまったのにも原因があったはずです。その結果、いろいろな男と結婚してみるのですが「これはちがう」「これも私の求めるものではない」「この生活ではない」と、のたうちまわるようにして生きてきたのでした。愛を求めながら、愛の関係をつくりあげることができなかったのです。日常のいろいろな局面で愛を貫くことができない私たちもまた感じるところがあるのではないでしょうか。

ところが主イエスはこの女の心をご存じでした。その渇きを、傷を、痛みを、闇をご存じでした。主イエスが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、女を責めるためではありません。彼女の闇を明るみに出すことによって、渇きを、傷を、痛みをいやすためでした。彼女重荷から解放し、新しいのちを注いで、愛に生きる人にするためでした。主イエスは、そのために人となり、十字架に架けられた神だからです。主イエスは私たちもいやしてくださるのです。

【御霊と真理による礼拝】


このときの女の反応はとうとつです。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」(19)。続く「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)は、さらにとうとつに思えます。

「この山」とはゲリジム山。スカルの町はその近くにありました。二王国分裂時代、南王国ユダは、エルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人びとは、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のイスラエルの人びとが混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らは、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

女は、自分の痛みを言い当てたお方を、神からの預言者だと感じました。このとき、長い間忘れていた、心の叫びが沸き上がってきたのでしょう。「神よ、私を救ってください。私を満たし、私にほんとうの愛の関係をつくりあげてください。」不思議なことに神にはできる、と女は感じました。そして「今、神を礼拝したい。神との交わりを、今、回復したい。どのように礼拝したらいいでしょうか。」と問うたのでした。

幸いなことに、主イエスは単なる預言者ではありませんでした。神です。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(23)とあります。主イエスは「もはやユダヤ人もサマリア人も問題ではない。エルサレムもゲリジム山も。すべての人が、御子であるわたし、主イエスを通して礼拝をささげることができる、その時が来た。今、ここで神を礼拝せよ」と宣言されたのでした。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)は。私たちに新しい重荷を負わせるものではありません。まことの礼拝を成り立たせるためには、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めなければならない、ということではないのです。すでに神が御霊を送ってくださっています。真理とは主イエスです。御霊によって、主イエスとその父なる神を礼拝している私たちは、今、ここで御霊と真理による礼拝を献げているのです。この礼拝は、御霊と真理による礼拝なのです

【サマリアの女、その後】


女は水がめを放り出して町へ行きました。そして「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(29)と語りました。「私のかかえている罪の闇を、愛への渇きを、全てお見通しの方が、私に出会ってくださり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さいました。イエスがその生きた水です。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」と。

女のその後については、想像するしかありません。けれども私たちおたがいを見れば見当がつきます。女は主イエスという生ける水、いのちの水を飲み続けたことでしょう。主イエスとの交わりによって、満たされ、いやされ続けるほどに、ほかの人との愛の関係をつくり上げていったことでしょう。自分が神に愛され、赦されたゆえに、他の人びとに心を開くことで。自分が神に愛され、赦されたように、他の人を愛し、赦すことで。


2022/07/29

主日礼拝 2022/07/31 「生ける水の神」

礼拝メッセージ「生ける水の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章1~15節(新約P.181)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所はスカルの井戸でのできごと。今日から何回かにわたってここに現れた主イエスの恵みを聴きます。

【サマリアのスカル】


スカルの場所を確認しましょう。

「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」(3-4)とあります。最初の地図、主イエスはユダヤにあるエルサレムから上方(北方)のガリラヤに向かいます。その途中、通らなければならないのがサマリアです。「通らなければならない」とあるのには理由があります。「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」とあるように、両者はたがいに敵意をいだいていました。そうなったのはバビロン捕囚のときに、サマリアの人びとが異邦人との混血になったことに原因があります。次に「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。」(5)とあります。出エジプトした12部族がカナンを割り当てられたとき、ヨセフの子孫であるマナセ族とエフライム族が、ちょうどサマリアにあたる地域を割り当てられました(二番めの地図)。ユダヤ人である主イエスとサマリア人であるスカルの住民の間には、そんな民族の壁がありました。

けれども、主イエスはその壁を事もなげに乗り越えました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(9)とサマリアの女が驚くほどに。それはサマリアの女をほっておくことができなかあったから。だから主イエスはサマリアの女のそばに来て、語りかけたのでした。

主イエスはあらゆる壁を超えるお方。自由に壁や制約を超えるお方。そんな主イエスが超えたもっとも大きな壁は神と人との壁でした。だから主イエスはどこにでも来てくださいます。いえ、もう来られて、語りかけておられます。どうかすべての人が主イエスの語りかけに気づくことができるように。私たちもなおなお主イエスの語りかけを聴くことができるように、と願います。

【主イエスの逆転】


最初、主イエスは女に「わたしに水を飲ませてください」(7)と語りかけました。けれども後になると女が主イエスに「その水を私に下さい。」(15)と言います。逆転しているのです。もちろん逆転させたのは主イエス。

会話の始まりで、女は「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」(11)と言っています。主イエスの与える水をただの水だと思っていたのです。けれども女は次に「あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」(12)と口にします。自分の祖先ヤコブが井戸を与え、生きる場所を与えたことを持ち出して、主イエスと比べているのです。主イエスが与える「生ける水」(10)に関心が向き始めています。ただの水以上の、自分の生きる場所、言い換えればいのちを与えてくださるのですか、と問うのです。その後も女は「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(15)などと言っていますから、実にゆっくりとしか理解が進んでいないことがわかります。けれども、主イエスはそんな女に寄り添い、同じ歩調で歩んでくださって、ついには「その水を私に下さい。」と女が願うようにしてくださいました。

先ほどは、主イエス私たちは主イエスの語りかけを聴くことができるように、と語りました。けれども、私たちはたびたび聴くことを忘れてしまいます。多忙の中で、あるいは神さまに失望して。でもだいじょうぶです。焦らないで深呼吸することです。祈れないときでも、深呼吸して、息をつくことができる余地をつくりましょう。そうするなら主イエスが逆転を与えてくださいます。主イエスを求める思いをじっくりと育ててくださり、「その水を私に下さい」と言わせてくださるのです。


2022/07/22

主日礼拝 2022/07/24 「上から来られる神」

礼拝メッセージ「上から来られる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書3章31~36節
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書から福音を聴きます。上からすなわち天から来られたイエス・キリストこそがその福音です。

【小福音書の語り直し】
ヨハネ3章には小福音書と呼ばれる、福音の凝縮された箇所がありました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16)です。今日の箇所はその語り直しとも言えます。たいせつなことだから繰り返されているのです。

「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(35,36)。御子を信じる者は永遠のいのちを持っているは、わかりやすいです。私たちの現在の姿そのままです。続く、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる、の部分には、どきっとさせられます。すべえてのことにおいて、御子に聞き従っているか、と言われると目を伏せるしかない私たちだからです。愛の反対は無関心、と言います。世界の問題、日本のさまざまな問題、家族や友人のさまざまな問題。私たちはそれらにそれなりに思いをめぐらしてはいるのですけれども、やはりいつもそういうわけではない。自分のことに気をとられて、ふと気が付くと関心が薄れてしまっていることもよくあると思います。やはり、私たちは愛を貫くことができない者たちだと思わずにはおれません。

【神の怒り】
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。けれども、罪と人を分けることはできません。私の無関心は、私の生い立ち・性格・生き方と深く結びついています。「神の怒り」(35)とあります。神の怒りは私の罪だけでなく、その罪と分かちがたく結びついた私そのものに向けられる、そう認めざるを得ません。がくぜんとさせられます。

けれども、ここに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」(16)の愛が響きます。神は罪ある私たちを怒りつつも、その怒りは愛とあわれみに包まれています。私たちの無関心は神に知られています。無関心の原因は複雑で、私たちには解きほぐすことはできません。けれども神はそんな私たちを丸ごと抱きしめてくださいました。そしてその怒りは御子の上に、上から来られた神の上にくださりました。十字架の上で。どうしてだれかがだれかの罪の身代わりになることができるのか。それは私たちにはわかりません。けれどもルールを決めるのは神さまであって、私たちではありません。神さまは、ご自分に最も不利なルールを定めました。それはすべての人の罪とその罪への怒りとさばきを御子の上に置くことでした。そしてそこから私たちの新しいいのち、永遠のいのちを始めるというルールも定めてくださったのでした。

【地に属する者】
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」(31)の地から出る者とは、私たちのことです。地に属する、というのは否定的な言葉ではありません。私たちは地から出たのですが、今や永遠のいのちをいただいて、地上で主イエスを証しします。私たちの言葉は拙いのですが、私たちの上には上から来られる方、主イエスがおられます。「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」(35)のですから。私たちの証しは、ただ救いの体験を語ることだけではありません。主イエスにならって、言葉と愛によって神を指し示す証し。御霊がそうさせてくださいます。

【今、ここで】
そんな圧倒的な福音は、私たちをどんな生き方へと招いているのでしょうか。

第一に、私たちは生きることの意味を知っています。傷ついた世界に、私たちは世の光として置かれています。私たちの小さな祈りと愛のわざは世界の回復にとって必要なのです。どうか自分など価値がないなどと思わないでください。あなたは神さまの宝もの。神さまがこの世界に向けた秘密兵器なのです。

第二に、私たちに与えられている永遠のいのちはすでに私たちを造り変えつつあります。だから愛が不完全であることをいたずらに嘆くことはありません。私たちの愛の不完全を、無関心を、みことばと聖霊によって、じっくりと解きほぐしていただきましょう。礼拝や祈祷会、聖書通読はその助けになります。

第三に、神さまは私たちに共に歩む仲間を与えてくださいます。ひとつの教会だけではなかなか難しいものですから、教団や教区でさまざまな企画がなされています。心を開いて、いや、心を開く開きき方を実験してみてはいかがでしょうか。

厳しい状況にあるときも恐れる必要はありません。深呼吸してじっくりと構えてください。足りないものを数えるのではなく、すでに与えられている恵みの中に次の一歩は備えられています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」私たちを愛してくださっているのですから。


2022/07/16

主日礼拝 2022/07/17 「栄えの神」

  礼拝メッセージ「栄えの神」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章22~30節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日もヨハネから福音の喜びを聴きます。

【主イエスとバプテスマのヨハネ】
「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」(22-24)は、あれっ、と思うところです。例えば、マルコの福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(1:14)と記します。いったい主イエスの宣教はバプテスマのヨハネの宣教と、時期的に重なっていたのかどうか。ほんとうのことは今となってはわかりません。けれどもときどき申し上げますように、ヨハネの福音書には二階建ての構造があります。目に見える具体的なことがら(一階)を語りながら、目に見えない霊的なことがら(二階)を伝えるのです。この箇所でも、ヨハネの福音書の真意を聴き取りましょう。

【とまどい?ねたみ?】
このとき、バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネのところに来て「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」と。ヨハネの弟子たちの思いは想像できます。とまどい、ねたみ、そういった負の感情です。彼らは、バプテスマのヨハネと主イエスの関係についてもつかみかねているようです。主イエスがどなたであるのか、はっきりとはわかっていなかったのです。

【喜ぶヨハネ】
けれども、バプテスマのヨハネは、自分は「喜びに満ちあふれています。」(29)と言います。そして弟子たちにもその喜びを伝えようとしています。この喜びこそが、この箇所でヨハネの福音書が伝えようとしていることなのです。
「『私(バプテスマのヨハネ)はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身(バプテスマのヨハネの弟子たち)が証ししてくれます。」(28)とあるように、バプテスマのヨハネの役割は主イエスを指し示すことにあります。だから、皆が自分を離れて主イエスに行くのは、バプテスマのヨハネの本望です。それでこそ彼は使命を果たしたことになるのですから。彼は自分の弟子たちにも主イエスのもとへ行ってもらいたいのです。福音著記者ヨハネも、また、私たちに主イエスのもとへ行くようにと、主イエスを指し示しています。

【満ちあふれる喜び】
けれども、バプテスマのヨハネの喜びはそれだけではありません。さらに大きなものでした。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(29)は、バプテスマのヨハネの言葉。花婿は主イエス。そして彼は、花婿である主イエスに付き添う友人だと言うのです。ここで思い出すのは、ヨハネ15章です。「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:14-15)と。私はよく、神さまの「お心」と「みこころ」について語ります。私たちは神さまのピンポイントの指示をもらいたい、仕事選びも、学校選びも、こまごまと間違いのない道を、と望みます。けれども、それは言われたことだけをするしもべ。主イエスは私たちに、あなたがたはそれ以上の者だ、と言ってくださいます。友は、主イエスのように、父の「お心」、つまりひとり子をお与えになった愛の「お心」を知っています。そして、命じられたかれらではなく、そうしたいから、そうすることが喜びだから、父と御子と共に、聖霊によって、自分を注ぎだします。十字架の主イエスの友だからです。復活の主イエスのいのちに与っているからです。すでにそのような主の友とされているおたがいを喜び、支え合って歩みを進めてまいりましょう。そのためにも今、聖餐にあずかり、いのちを新しくしていただきましょう。信愛教会も心を合わせます。


2022/07/09

主日礼拝 2022/07/10 「御子を与えた神(第二主日)」

 礼拝メッセージ「御子を与えた神(第二主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章16~21節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




3章16節は、マルティン・ルターが「小福音書」と呼んだ箇所。聖書全体のメッセージが要約されていると言われる箇所です。ここから神の恵みの総括を聴きましょう。

【世を愛された】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)。「世」は、ヨハネの福音書に特徴的な言葉。この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。1章9-10節には「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。「世」は神によって造られました。神に愛され神を愛する、愛の交わりのために。ところが「世」は神に背を向け、神がわからなくなり、神の愛がわからなくなっています。愛なき闇に覆われているのです。
そんな「世」を神は愛してくださっています。それはこの世界が立派だからでもなく、私たちがすばらしいからでもありません。神さま造った世界はよき世界なのに、痛みに満ちています。神さまが造った私たちは、神のかたちなのに、自分の罪、他人の罪に心を痛めています。「神さまが造った世界になぜ痛みや罪があるのか?」と訊ねたくなります。聖書はそれが神のせいではなく、私たちの責任であると語っています。アダムとエバが、というのではありません。私たちみなが神の愛を軽んじ、神の愛がわからなくなってしまっていたのです。そんな私たちを神は愛してくださいました。愛することができない私たちを愛してくださいました。

【ひとり子をお与えになったほどに】
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(16)は私たちをとまどわせます。「ほどに」と聞かされても、それがどれほどのことなのか見当がつかないからです。私自身もクリスチャンになったときからずっとこのことに思いをめぐらし続けています。その中で出会ったのが「神の狂おしいほどの愛」という表現です。14世紀に用いられるようになったこの表現はピリピ書を思わせます。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)。これは普通のことではありません。死ぬことがない神が死ぬために人となったことは、どうにも私たちの理解を超えた、決してそんなことがあってはならない、けれども実際に起こってしまった狂おしいほどの愛なのです。

【さばかれない私たち】
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(18)とあります。理解を超えた狂おしいほどの神の愛に入れられた私たちはさばかれないのです。
かつて藤本満牧師がこんなことを言っていました。ヨハネ1:10の「世はこの方を知らなかった。」を取り上げて、「世があなた(神)を知ろうとしないように、私たちの内に存在する世があなたの存在を拒みます」と思いめぐらしを加えておられました。私たちは神の子とされているのですが、それでもまだ工事中です。不信仰やさまざまな苦労に圧倒されて「神さまがいるのなら、もっとうまくいくはずなのに…」とうなだれるのです。けれども私たちは真っ暗な闇の中にいるのではありません。光の中を歩んでいます。たとえ雲が日光をさえぎることがあったとしても、光は私たちを照らし続けています。
自分の力でがんばって光の中にとどまろうとしないでください。神さまを信頼し、その愛に自分をゆだねてください。私たちを光の中にとどまらせるのは神の狂おしいほどの愛です。その愛を感じてください。私たちのために「ひとり子をお与えになった」父の愛、「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」にご自分をお与えになった御子の愛が、愛そのものである聖霊によって、私たちを光の中にとどまらせ、私たちに光の中を進ませ、私たちを世の光としてくださるのです。召された姉妹はそのように歩みました。私たちもいっしょに、この光のなかを今週も歩みます。

2022/07/01

主日礼拝 2022/07/03 「天に上げられた神(第一主日)」

礼拝メッセージ「天に上げられた神(第一主日)」

  • 聖書:ヨヨハネの福音書3章11~15節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日の明野では去年のクリスマスにも語った個所。クリスマスには、主の降誕の聖書箇所を語られることが多いと思います。けれども私はいつものように連続講解説教です。クリスマスであってもイースターであっても。それには理由があります。それは聖書のどの箇所にも、キリストの降誕と十字架・復活が語られているから。言い換えれば、毎週クリスマスやイースターのメッセージが語られていると言えるのです。
先週は、夜主イエスを訪ねたニコデモが、御霊によって生まれることがわからず、主イエスに叱られたところを読みました。続く今日の箇所でも、主イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。」とたいせつなことを語りました。

【人の子も上げられなければ】
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(14-15)これがそのたいせつなことでした。ここに出てくる荒野の蛇は民数記に出てきます。荒野で座り込んでしまったイスラエル。神さまとの愛の交わりを忘れ、イスラエルを通して世界を回復するという神さまの計画も忘れてしまったイスラエル。そのイスラエルに神さまが毒蛇を送った。私の説教集「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)にもありますが、蛇はイスラエルを滅ぼすためではありませんでした。そうではなくて、蛇によって神さまの愛に無感覚になっていたイスラエルの目が覚めた。ここまでイスラエルを守り育てきた神さまの愛に戻った。ヨハネは「永遠のいのち」と記します。永遠のいのちとは単なる不老不死ではありません。神さまと永遠の愛でかたく結び合わされて、ひとつの心で生きること。クリスマスに主イエスが来られたのは愛の交わりのため。十字架で主イエスが上げられたのもまた、私たちとの愛の交わりのためでした。永遠のいのちがただの不老不死なら、それは退屈なことかもしれません。けれども永遠のいのちに生きる主イエスとの日々は、毎日がどきどきするような喜びに満ちています。そしてその喜びは、もうすでに私たちのうちに始まっていることを、私たちは知っています。

【天から下って来た者】
「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」(13)とあります。神さまに造られた世界は、神さまに愛され、支えられて存在しているにもかかわらず、神さまを忘れてしまっています。神さまの愛がわからなくなっているのです。神さまはそれを惜しまれます。神さまは、私たちを支配できないことを惜しんでいるのではありません。支配というなら神さまは今も私たちを支配しておられます。神さまが惜しんでおられるのは愛の交わり。私たちとの愛の交わりを回復するために、神である主イエスが天から下って来たのです。そして地上の生涯で、主イエスはありったけの愛を注いでくださいました。病を癒し、心を癒やし、飢えた者に食べさせ、愛に無感覚になっていた人びとを目覚めさせました。それは彼らもまた愛を与え合う者になるためでした。そんな愛の頂点が十字架。そこで主イエスはご自分を与え尽くされたのでした。今日は礼拝後、信愛と明野の合同役員会で聖餐を学びます。主イエスが流された血、裂かれた御からだによって私たちは永遠のいのちを贈られました。このことをますます心に刻むためです。

【わたしたちとあなたがた】
不思議なことがひとつ。今日の箇所は主イエスとニコデモとの会話です。本来なら「わたし」と「あなた」という言葉が使われるべきです。ところが主イエスは「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」(12)と言います。「わたしたち」と「あなたがた」という複数形が使われているのです。キリスト教会は、「わたしたち」には、主イエスと、そのからだである教会が重ね合わせて語られているのだと受け止めてきました。教会は主イエスを証しします。主イエスが開いた愛の交わりを伝えます。それでも多くの人々は信じようとしないのです。教会はそれを嘆きます。けれども絶望して証しすることをやめたりはしません。なぜなら自分たちもまた、天上のこと=永遠のいのち=神との愛の交わりなど、なにも知らなかったのに、今は天上の喜びに生きる者とされているから。この喜びが私たちを語らせます。この喜びを携えて出て行かせるのです。

2022/06/24

主日礼拝 2022/06/26 「霊から生まれさせる神(第四主日)」

 礼拝メッセージ「霊から生まれさせる神(第四主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書3章1~10節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日の箇所で主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。」と二度繰り返します。これは主イエスがとてもたいせつなことを語るときに用いる言葉。「今から言うことは大事なことだからよく聞きなさい」というのです。私たちもこのたいせつなことを聴き取りましょう。

【新しく生まれなければ】
主イエスのたいせつなこととは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)でした。主イエスは私たちが新しく生まれることを求めるのです。「神の国」というのは、死んでから行く天国ではありません。いま、この地上に始まっている神の支配。こうしているうちにも広がって、やがて完成する神の支配です。神の国を「見る」というのは、ただ傍観者として眺めることではありません。神の国に入ることです。神の支配の国に入って、神の支配を体験し、神の支配のもとで神と共に神の国を広げること、それが神の国を見ることです。主イエスは死んで天国に行くことができるために、信仰をもつよう努力しない、と言っているのではありません。「新しく生まれなさい。そしたら、今すぐの神の国に入ることができる」と言っているのです。

【どうしてそのようなことが】
けれどもニコデモには新しく生まれることも、神の国に入ることもわかりませんでした。彼は、旧約聖書に精通し、律法に従って生き、人びとにもそう教えていたパリサイ人。ユダヤ人の議員、すなわち大祭司を議長とする71人からなる最高法院のメンバーでもありました。当時としては最高の学識と道徳を備えたニコデモですが、それでも彼には新しく生まれることがわかりません。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(4)と言うのです。「新しく生まれる」を私たちは聞き慣れていますが、考えてみれば実に不思議なことばです。私たちがこのことをわかっていることのほうが不思議なのです。

【水と御霊によって】
私たちはなぜこの不思議なことがわかったのでしょうか。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5-6)とあります。主イエスを知らない者、「肉によって生まれた者」には新しく生まれること、神の国に入ることはわかりません。「水(洗礼)と御霊によって生まれた者」だけがわかるのです。これは困ったことです。御霊によって生まれなければ、つまり、新しく生まれなければ、新しく生まれることはわからないのです。どんなに努力しても。これでは神の国の入り口は閉ざされているように見えます。

【風の音を聴け】
神の国への入り口は私たちが見つけるのではなく、主イエスが与えてくださいます。私たちにはわからない「霊」を、主イエスは風にたとえて教えました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(8)と。風は私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に吹いてきます。霊(欄外註を参照。風と霊は同じプネウマという語)も同じです。私たちの思いや予測や常識を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、自由に働いて、そして、私たちを新しく生まれさせます。ふりかえってみれば、まさに私たちもそのように新しく生まれたのでした。私たちがしたのは風の音を聴こうとしたこと。神さまの私たちへの招きを期待して心を開いて耳を傾けたことです。

【神の大きな物語の中で】
これがわからなかったニコデモに主イエスが「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」(10)と言ったのは重要です。教区では、鎌野直人師から神の壮大な計画を学んでいます。神さまは傷ついてしまったこの世界を回復しておられます。その計画の要がイスラエルであり、そこから出た主イエスです。旧約聖書に通じたニコデモこそがこの大きな計画を知り、神さまと共に生き、人びとを招くべきだったのです。幸いなことにニコデモは新しく生まれることができました。十字架に架けられた主イエスの葬りに尽くしたのです。私たちもまた御子のご降誕と十字架に与りました。神の国に入り、神の国のために働くものとされています。置かれたそれぞれの場所で。