2023/11/26

礼拝メッセージ「世に勝つ神」ヨハネの福音書16章25-33節 大頭眞一牧師 2023/11/26


今日の箇所は13章からの最後の晩餐での主イエスのことばのまとめのような箇所。主イエスがそのために来られ、そのために十字架に架けられた神のお心が鮮やかにされます。今日もその神さまのお心に聴き入りましょう。

【その日】

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」(26)とあります。父なる神と私たちの親しい交わりが実現する日です。その日とはペンテコステ。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)の実現する日です。弟子たちは「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(29-30)と答えます。これを最後の晩餐での答と考えるとつじつまが合いません。ここはペンテコステ後を生きるすべての信仰者の言葉として読むべきでしょう。私たちもまたそのひとりです。

【神のお心】

イエスが最後の晩餐で語り、ペンテコステに実現した神のお心とは、私たちが「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(30b)と告白すること。主イエスが神でありながら、人となってこの世界に来られ、言葉とわざで神の国(神の愛の支配)の新たな始まりを告げ、そして、私たちの罪と責め、歪みと痛みのいっさいを十字架で担い、復活によって罪と死の力を打ち砕いて、私たちを罪と死の力からいのちへと解き放ったと告白することです。こうして私たちは父と、そして父・子・御霊の三位一体の神との親しい交わりに入れられました。

【散らされても】

ところが「あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」(32b)と主イエスはおっしゃいます。これも、最後の晩餐の弟子たちだけではなく、ペンテコステ後を生きるすべての信仰者のこととして読むべきでしょう。主イエスは神だと告白した私たち。けれども、コロナによって、高齢化によって、また、それぞれのさまざまな事情によって、私たちは散らされているのを見ます。共に集まることが妨げられ、たがいの交わりが損ねられているのです。これに対して、明野では役員と有志によって「教会ニュースレター・コイノニア」が発行され、信愛ではお助け隊によってお手紙つきの週報発送が行われています。しかし、教会の交わりはただの仲良しではないことを知る必要があります。主イエスがその交わりを支えています。いえ、「しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」(32c)とあるように、主イエスとともにおられる父、そして父と子の愛の絆である聖霊が私たちの交わり、私たちの愛の絆を支えてくださっているのです。

【安全ではなく平和】

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(33)がこの個所のクライマックスです。すでに世に勝った主イエスが私たちに平安を約束しています。この平安は私たちの内側の安心・安全ではありません。キリストのいのちそのもの、世界にあふれ出すいのちです。あちこちで戦争が起こっています。ある神学者は「『平和』は『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。」と語りました。キリストのいのちは、相手を信頼すること、理解することへと私たちを踏み出させます。そして神さまと共に世界の破れをつくろわせるのです。身近なところから、じっくりと。

【安心しなさい】

主イエスはそんな生き方へと、私たちを鞭打つのではありません。「勇気を出しなさい」は「心配しないでよい」とか「安心しなさい」とも訳されます。主イエスに信頼して、主イエスに安心するときに私たちのいのちはあふれます。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/11/20

礼拝メッセージ「走り寄る神の愛」ルカの福音書15章11-32節 加藤郁生牧師 2023/11/19

 



(本日は礼拝メッセージの要約はありません)

(ワーシップ 新聖歌171「今日まで守られ」 Bless)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/11/13

召天者合同記念礼拝メッセージ「喜びを与える神」ヨハネの福音書16章16-24節 大頭眞一牧師 2023/11/12


明野は先週、信愛は今日が、召天者記念礼拝。愛する者たちが召され、残された私たちに「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)と主イエスの御声が響きます。そう言われても、とてもそうは思えない私たちは、どうすればよいのでしょうか。

【見えない主イエス】

主イエスがご自分の十字架と復活、昇天を語ったとき、弟子たちはそのことがよく分かりませんでした。主イエスはその弟子たちに、彼らが、そして教会が経験しなければならない悲しみを語ります。それは、やがて教会が経験する迫害もさることながら、それよりも、そんな迫害の中で主イエスが目に見えないことの悲しみです。私たちもまた、主イエスが目に見えないゆえに、「主イエスはほんとうにおられるのだろうか、主イエスの救いはほんとうなのだろうか」、と疑い、迷います。どんな信仰者であっても、です。マザーテレサを思います。

【再び会うイエス】

そんな弟子たちに、主イエスは「しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(22bcd)と語ります。ここは誤解されやすいところ。やがてこの世の終わりに、主イエスが再臨するときのことだと、かん違いされることが多いのです。けれどもそうではありません。この世の終わりを楽しみに、今の悲しみに耐えなさい、というのではないのです。

主イエスは聖霊によって、今、私たちに会うとおっしゃるのです。「今、ここで。世の終わりにではなく、今、あなたがたの悲しみを喜びに満たそう。そのための十字架なのだ」と。

【悲しみを喜びに】

イエスはこのことを出産の苦しみにたとえます。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(21)と。この「苦しみ」という言葉は、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)の「悲しみ」と同じ言葉です。ですから、主イエスは私たちが今、味わっている悲しみを、単なる悲しみではなく、苦しみ、それも出産のように耐えがたい痛みをともなう苦しみだと、知ってくださっています。そして「あなたがたのその痛みをわたしがいやす。あなたの痛みを喜びに変える」とおっしゃるのです。

【父に求めるものは何でも】

「そんなことを言われても」と私たちは思います。私たちの愛する者が先に召され、そんな中で私たちは、主イエスを見ることができないのですから。ましてや「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(23c)とは、どういうことか、と。「それなら、私たちの愛する者たちを返してください、そのように願えば、返してくださるのですか?!そんなことはしてくださらないでしょう。だから、そんなことは願いません」と、そのように思って、自分を納得させようとします。「神さまには、なにかご計画がおありなのだろう、私にはわからないけれど」と。

【痛む神】

けれども、神はわかのわからないお方ではありません。十字架を見るなら、神は痛む神、苦しむ神です。私たちのために、私たちと共に。ですから痛みの中にあるときには、イエスはそこにおられるのです。痛みが強ければ強いほど、なお近くに。

あるカトリックの司祭が「嘆きとは、信仰の破綻ではなく、信仰から出る行為である」と言っています。なぜなら、神さまは私たちの痛みを私たち以上にご存じで、私たち以上に味わっておられるからです。神さまに手加減をする必要はありません。「神さま、どうしてですか。神さま、愛する者を返してください」と訴え続ける。そうするとき、私たちの痛みの中に、神さまが入ってくださるスペースが生まれます。あなたの痛みから、悲しみから、神さまを締め出そうとしないでください。神さまと共に痛む。神さまに痛む心を差し出す。そうするときに神さまの癒しが始まります。私たちの想像もつかない、神さまのわざが。多くの時間をかけながら、深いところで。今はとてもイメージできないけれども、喜びとしか呼びようのないいやしが。

聖餐にあずかります。この食卓には先に召された、愛する方がたもともに連なっていることを覚えつつ。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/11/10

ファミリーコンサート(11/19)のお知らせ

 ※この記事は、11/19の「ファミリーコンサート」のお知らせです。


ファミリーコンサートが4年ぶりに帰ってきました!

京都信愛教会の教会員や家族が、それぞれ楽器や声楽で、いろいろな音楽を奏でます。

賛美歌を始め、クラシックやヘルマンハープまで、いろんな音楽を楽しみましょう♪

ご家族、ご友人の方々もぜひ、お越しください!

詳しくは、下のチラシをご覧ください。




■日時


2023年11月19日(日) 13:30~15:00

■会場・お問い合わせ


日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
京都市北区大将軍坂田町21番地12
TEL: (075)461-1938
牧師: 大頭眞一
※当教会は、伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。

2023/11/05

礼拝メッセージ「御霊の神」ヨハネの福音書16章4b-15節 大頭眞一牧師 2023/11/05


明野は今日、信愛は来週が、召天者記念礼拝。おりしも先週の主日、信愛の仲間がYouTubeライブで礼拝を守りながら召されていきました。悲しみでいっぱいの私たちに、主イエスは今日、何を語ってくださるでしょうか。み声に耳を傾けます。

【悲しみでいっぱいに】

今日の聖書の箇所でも、弟子たちは悲しみでいっぱいです。「むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」(6)。弟子たちの悲しみは、主イエスが去っていかれるから。もう目で見ることができなるから。これから先は、イエスさまなしに、自分たちだけで歩まなければならない、そう思って不安と恐れの中にいるのです。私たちもそうです。イエスさまを見ることができない私たち。特に、愛する者たちが先に召されてしまうとき、なんともいえない心のざわめきを感じる私たちです。愛する者たちはどうなってしまうのか。私たちはこの人ともう会うことができないのではないか、と。再臨、復活、頭ではよくわかっていても、やはり、心はざわめくのです。

【聖霊が降り積もり】

先週召された方が作詞し、配偶者の方が作曲された「Hope(希望)」という賛美があります。以前にもご紹介したことがあるのですが、その中に「私たちの上に聖霊が降り積もり」という言葉があります。聖霊が降り積もりというのは不思議な表現。聖霊は降る、というのが普通です。けれども、この表現は大切なことを教えているように思うのです。主イエスは「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(7)とおっしゃいました。そして十字架に架けられ、よみがえられ、天に昇って、聖霊を降してくださいました。でも私たちは、助け主である聖霊がすぐにはわかりません。そんな、わからない、心ざわめく私たちに聖霊は語り続けます。主イエスの愛が、私たちに沁みとおるように、降り続け、恵みを積もらせ、重ねてくださるのです。

【罪について、義について、さばきについて】

心ざわめく私たちも、ふと気づくと、聖霊によって、やはり主イエスの愛を心とたましいに刻んでいただいていることに気づきます、思い出します。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(8)と、主イエスは三つの誤りを語ります。

罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(9)は、罪の本質を明らかにします。それは、なにか悪いことをした、というのではありません。私たちを招いてくださっている主イエスを受け入れないこと。招かれている愛の交わりを拒絶すること、これが本当の罪です。先に召された私たちの愛する人びとは、主イエスを受け入れた人びと、本当の罪から解き放たれた人びとです。このことを喜びたいと思います。

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(10)の義は、救いの本質を明らかにします。聖書の義は正しい行いをすることではなく、神さまと正しい関係にあること。そして神さまとの正しい関係とは、愛の関係。もうおなじみの図のとおり、三位一体の神の愛の交わりの中で、神と共に、踊ること、生きることです。私たちの愛する、先に召された人びとはこのダンスに、ただ神のあわれみによって招かれ、招きを受け入れた人びとです。

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(11)は、悪の力が十字架でさばかれたことを明らかにします。悪の力は私たちをかたくなにし、あるときは「自分など神の愛に値しない」と落ち込ませ、またあるときは、「自分の力でやっていける、神のあわれみなどいらない」と高ぶらせます。けれども、私たちの愛する、先に召された人びとは、悪の力から主イエスの力へと逃れた人びと。今は、主イエスの胸の中で、安全に安らいでいる人びとです。

心ざわめくときは、主イエスの十字架と復活に目を注いでください。私たちに降り積もっている聖霊が、私たちのためになにも惜しむことをされなかった主イエス愛を明らかにします。その聖霊は、私たちを放っておくことをなさらない主イエスが遣わされた助け主なのですから。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)