今日の箇所は13章からの最後の晩餐での主イエスのことばのまとめのような箇所。主イエスがそのために来られ、そのために十字架に架けられた神のお心が鮮やかにされます。今日もその神さまのお心に聴き入りましょう。
【その日】
「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」(26)とあります。父なる神と私たちの親しい交わりが実現する日です。その日とはペンテコステ。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)の実現する日です。弟子たちは「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(29-30)と答えます。これを最後の晩餐での答と考えるとつじつまが合いません。ここはペンテコステ後を生きるすべての信仰者の言葉として読むべきでしょう。私たちもまたそのひとりです。
【神のお心】
イエスが最後の晩餐で語り、ペンテコステに実現した神のお心とは、私たちが「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(30b)と告白すること。主イエスが神でありながら、人となってこの世界に来られ、言葉とわざで神の国(神の愛の支配)の新たな始まりを告げ、そして、私たちの罪と責め、歪みと痛みのいっさいを十字架で担い、復活によって罪と死の力を打ち砕いて、私たちを罪と死の力からいのちへと解き放ったと告白することです。こうして私たちは父と、そして父・子・御霊の三位一体の神との親しい交わりに入れられました。
【散らされても】
ところが「あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」(32b)と主イエスはおっしゃいます。これも、最後の晩餐の弟子たちだけではなく、ペンテコステ後を生きるすべての信仰者のこととして読むべきでしょう。主イエスは神だと告白した私たち。けれども、コロナによって、高齢化によって、また、それぞれのさまざまな事情によって、私たちは散らされているのを見ます。共に集まることが妨げられ、たがいの交わりが損ねられているのです。これに対して、明野では役員と有志によって「教会ニュースレター・コイノニア」が発行され、信愛ではお助け隊によってお手紙つきの週報発送が行われています。しかし、教会の交わりはただの仲良しではないことを知る必要があります。主イエスがその交わりを支えています。いえ、「しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」(32c)とあるように、主イエスとともにおられる父、そして父と子の愛の絆である聖霊が私たちの交わり、私たちの愛の絆を支えてくださっているのです。
【安全ではなく平和】
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(33)がこの個所のクライマックスです。すでに世に勝った主イエスが私たちに平安を約束しています。この平安は私たちの内側の安心・安全ではありません。キリストのいのちそのもの、世界にあふれ出すいのちです。あちこちで戦争が起こっています。ある神学者は「『平和』は『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。」と語りました。キリストのいのちは、相手を信頼すること、理解することへと私たちを踏み出させます。そして神さまと共に世界の破れをつくろわせるのです。身近なところから、じっくりと。
【安心しなさい】
主イエスはそんな生き方へと、私たちを鞭打つのではありません。「勇気を出しなさい」は「心配しないでよい」とか「安心しなさい」とも訳されます。主イエスに信頼して、主イエスに安心するときに私たちのいのちはあふれます。