先週は主イエスの足に注がれたナルドの香油。主は、その芳香を、ご自分の葬りのための支度とみなしてくださいました。今日の箇所は、その翌日。ろばの子に乗った主イエスから、この日も、その芳香はたちのぼっていたのでしょう。マリアの愛を、つまり私たちに愛を身にまとって、主イエスは進んでいかれます。
【神の大きな物語】
それにしても、なぜペンテコステに、ヨハネをいつものように?と、思われるかもしれません。使徒の2章とか、ヨハネであるなら20章で主イエスが「聖霊を受けなさい」と言われたところとか、と。もちろん、そうしてもいいのですが、その場合、ペンテコステの出来事だけが、強調されすぎてしまうかもしれません。神さまは、アブラハムを召して、世界のすべての民の回復を進めてきました。ペンテコステの出来事は、その大きな神の物語のひとつのクライマックスです。そして私たちは、聖霊を私たちの内に、今も続くそのクライマックスを生きているのです。そんなまばゆいペンテコステの光の中で、ろばの子に乗った神の言葉を聴きます。
【なつめ椰子の枝を】
「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。」(12-13a)とあります。なつめ椰子はかつて「棕櫚」と訳されていました。この枝は、ユダヤの歴史と関係しています。ちょっと見てみましょう。
- 紀元前200年ごろ ユダヤ,セレウコス朝シリヤの支配下に
- 紀元前164年 ユダヤ,シリヤから独立。エルサレム神殿を奪還、偶像排除。なつめ椰子を振り、神殿奉献。
- 紀元前37年 ユダヤ,ローマの属国に。独立待望
- 紀元30年ごろ イエス、なつめ椰子で迎えられる
つまり、ユダヤ人たちは主イエスに、ローマから自分たちを解放してくれる「イスラエルの王」(13d)を求めていたのです。その期待は主イエスがラザロをよみがえらせたことによって頂点に達したのでした。
【ろばの子に乗った神】
王であるなら堂々たる軍馬に乗るのが普通です。ところが主イエスはろばの子に乗っていました。ヨハネは、それが聖書(旧訳聖書)の預言だと記します。「次のように書かれているとおりである。」(14b)「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(15)と。これは、ゼカリヤ9章9節。続くゼカリヤ書の9章10節はこうです。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(ゼカリヤ9:10)。すなわち、聖書が預言する王は、軍事力で敵を打ち破る王ではありません。力のない王。弱い王。けれどもその弱さによって世界を造り変える王。この王によって、世界に平和が実現するのです。破れてしまった世界に回復が訪れるのです。人びとの心が内側から造り変えられることによって。
【ペンテコステの出来事】
このとき、人びとには、それがわかりませんでした。弟子たちにもわからなかったのです。「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」(16)。しかし、主イエスが栄光を受けられた後、つまり、十字架・復活を経て、弟子たちに聖霊を与えたとき、彼らは気づきました。イエスは王。十字架という弱さの極みにおいて、ユダヤ人の敵ではなく、世界の敵である死と罪の力を滅ぼされたことを。そして弟子たちを、そして、私たちを、神の子とし、キリストのいのちを与え、聖霊を住まわせてくださったことを。今、私たちはそんなまばゆいペンテコステの光の中にいます。主イエスと共に、聖霊を内に。軍馬ではないろばの子のような私たちが。そこでは、私たちの弱さも世界の回復をもたらす窓です。それは①神さまが、私たちの弱さや破れを赦し、受け入れ、そこに祝福を造り出すことを世界が見ることによって②私たちがたがいの弱さを覆い合い、支え合い、愛し合うすがたを世界が見ることによって。
【恐れるな】
実はヨハネはゼカリヤ9章9節のひとつの言葉を変えて記しています。ヨハネに「恐れるな」とあるのは元のゼカリヤでは「大いに喜べ」です。私たちには「大いに喜べ」と言われても喜べないときがあります。困難の中にあるとき、悲しみの中にあるとき、さまざまにうまくいかないことがあるときに。そんな喜べないときにも、「恐れるな」と神さまは語ります。なぜなら、私たちの困難や悲しみ、苦闘を通して、神さまが世界の回復を進めてくださるからです。すいすいと人生が進んでいるときよりも、弱さの中にある私たちを用いて、世界の回復をよりいっそう進めてくださるのです。だから恐れるな。仲間と共に、ペンテコステの聖霊を内に、前に進もう。