2024/03/31

イースター礼拝メッセージ「いのちを得させる神」ヨハネの福音書20章30-31節 大頭眞一牧師 2024/03/31


イースターおめでとうございます。この朝も復活の主にお会いし、そのいのちを注いでいただきましょう。

【いのちを得るため】

今日の箇所はまるでヨハネの福音書の結論のようなところ。続く21章の意味については来週語りますが、20章まででヨハネは一度、筆を置きました。ヨハネはここまでで自分の目的は達成されたと考えたからです。そしてその目的とは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(31)、つまり読者がイエスを信じていのちを得るため。いのちは成長するもの。生まれた赤ちゃんはそのままではなく、日々大きくなっていきます。同じように、神の子となった私たちのいのちが、ますます成長すること、それがヨハネの、そして神さまの願いです。

【いのちとはなにか】

ヨハネの福音書には七つの奇蹟が記されています。そのひとつひとつが、いのちとは何かを語っています。喜びのイースターに、私たちのうちにあるいのちの豊かさを振り返ることにしましょう。

  1. カナの婚礼のしるし(2章) 主イエスは婚礼で水を最上のぶどう酒に変えました。主イエスは良きものに変えるお方。私たちにあるいのちもまた、喜びのいのち、よきいのち、愛し愛されるいのちです。
  2. 王室の役人の息子のいやしのしるし(4章) 主イエスは言葉で、遠くで死にかかっていた息子をいやしました。主イエスの思いはどこにも届きます。私たちのいのちが健やかないのちであるようにと。活き活きとあふれ出す愛のいのちであるようにと
  3. 三十八年の病のいやしのしるし(5章) 「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」の一言で主イエスはいやしました。絶望の中で横たわっていた病人は立ち上がり、歩きだしました。希望のいのちに満たされて。
  4. 五つのパンと二匹の魚のしるし(6章) イエスが分けられると、食べて余ったパン切れで十二のかごがいっぱいになりました。イエスのおられるところ不足は満たされます。私たちもまた奪い合うのではなく、満たし合ういのちを生きます。
  5. 水の上を歩く主イエスのしるし(6章) 弟子たちのところに来てくださり、「わたしだ。恐れることはない。」と言うイエス。私たちは恐れから解き放ついのちに生きます。
  6. 目の見えない人のいやしのしるし(9章) 主イエスが唾で作った泥を目に塗り癒した人の目は開かれ、心も開かれ主イエスを受け入れました。神と人とに開かれた私たちのいのち。主イエスが手づからそのように。
  7. ラザロのよみがえりのしるし(11章) ラザロはそのうち死んだでしょう。けれども、このしるしによって、主イエスのいのちは死よりも強く、死を超えるいのちであることが明らかに。そんないのちが私たちのうちに。

【主イエスの十字架と復活のしるし】

これら七つのしるしに加えて、ヨハネは最大のしるしである主イエスの十字架と復活を記しました。過ぎ越しの小羊として、主イエスがご自分をお献げくださいました。それは私たちにいのちを注ぐためでした。いのちを注がずに、私たちをそのままにしておくことが、おできにならなかったからです。そして主イエスは復活されました。私たちを主イエスなしで放っておくことが、おできにならなかったからです。

拙著「聖なる神の聖なる民」(レビ記)の第二版がもうすぐでます。帯は初版と同じで、日本イエス出身のブックデザイナー長尾優さんの作。

聖者って、きよい、っていうよりか、はみ出すほどの激しく愛しちゃう人。ささげ物と掟が満載、律法の要塞のようなレビ記。そこに描かれたを、神に激しく愛されているから、過剰な激しい愛で愛するようになる人の姿だと読み解くパスター・オオズが失敗しても愛の実験を、愛のリハビリを繰り返し続けようと語りかける講解第4弾。

私たちのいのちのすばらしさは、そのいのちが私たちのうちにとどまらないところにあります。自分の過去・限界・制約・恐れからはみ出すようにして、神へ・仲間へ・世界へと愛があふれ出します。もうすでにそのようにされている私たち。さらにますますそのようにされていく私たちたがいを喜びましょう。神から人へとはみ出してくださったお方によって。


ワーシップ(Bless) 讃美歌54番「喜びの日よ」


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/26

井上 直さんの聖書絵画展「贖いの路」が行われました 2024/03/18-24

こちらでのお知らせが事後になってしまいましたが、3/18-24(月-土)の7日間、井上 直さん聖書絵画展「贖いの路」が行われ、様々な方にご来場いただき、ありがとうございました。 

本格的な絵画展を行うのは、当教会では初めての事であったと思います。会堂1階と2階を上手くレイアウトくださり、大小71枚の油絵を出展くださいました。

今回は特にレント(受難節)の時期に行われたことで、神さまの愛を視覚を通しても味わうことが出来、教会員一同、感謝でした。

これからの井上 直さんの創作活動にも主の豊かな導きがありますようにお祈りいたします。

2024/03/24

棕櫚の主日礼拝メッセージ「訪れる神」ヨハネの福音書20章24-29節 大頭眞一牧師 2024/03/24


「疑い深いトマス」として有名なトマス。ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」(25a)と言ったのですが、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25b)と言います。主イエスはそんなトマスを訪ねてくださいました。

【八日後】

「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。」(26a)とあります。ユダヤでは足掛けで日数を数えますから、当時の八日後は、今でいう七日後です。つまり復活の主日(日曜日)の次の主日です。その日、主イエスは復活を信じた弟子たちと、まだ信じることができないトマスに現れたのです。

キリスト教会は、このことが礼拝を象徴しているのだと語り継いできました。礼拝はすべての人に開かれています。礼拝に集う人びとのなかには、すでにイエスに出会い、イエスを主と告白し、復活したイエスと共に歩む人々もいます。しかし礼拝に集うのは、そのような人びとだけではありません。イエスに会いたい、イエスを信じたいと願いながらも、信じることができない人びともいます。あるいは、聖書の教えやキリスト教に興味はあるのだけれども、まだ納得できない、分からないという人びとも。

けれども主イエスはそんなすべての人びとを訪ねてくださいます。「戸には鍵がかけられていたが、」(26b前半)は、恐れや疑いに閉ざされた私たちの心も表しているのでしょう。そこへ、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」(26b後半)と言われたのでした。

ですから私たちはまだ信じることができないでいる人びとも礼拝に招きます。たとえその心が閉ざされていたとしても、主イエスが入ってくださいます。先週も申し上げましたが、信愛の召された方の言葉が心を離れません。「信仰は神さまが与えてくださるものだよ」と。信仰のないトマスに、信仰のない私たちに、主イエスが信仰を与えてくださるのです。私たちをあわれんで。主イエスを知らないままにしておいけなくて。

【わたしの脇腹に】

主イエスはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と。これはなんともすさまじいお言葉です。カラバッチョの「聖トマスの不信」(1602年ごろ)では、主イエスがトマスの腕をつかんで、むりやりご自分の傷に指を入れさせています。トマスは主イエスの言葉だけで信じたと思いますが、この絵は主イエスのお心を表現したものでしょう。主イエスにとって耐えがたいのは、傷の痛みではありません。愛するトマスが、そして愛する私たちが信じることができないで、イエスと共に生きることができないことに、耐えることがおできにならないのです。そのために十字架に架かられ、そのために十字架の傷を差し出してくださるのです。

【私の主、私の神よ】

主イエスの愛はトマスの告白を引き出しました。「私の主、私の神よ。」(28)は、人類の口から出た最もすばらしい言葉。さまざまな異端がイエスが神であることを否定する中で、この告白は教会の信仰の道しるべのひとつとなってきました。主イエスに出会うことは、主イエスの愛に出会うこと。そのとき私たちは愛をこめて「私の主、私の神よ」と申し上げます。

【見ないで信じる人たちは幸いです】

「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29)はトマスを、また不信仰な者を叱咤する言葉だと誤解されがちです。けれども、「見ないで信じる人たち」とは私たちのことです。使徒たちのように復活の主イエスを肉眼で見たわけではないけれども、主イエスに出会い、主イエスの愛に出会い、主イエスの傷によって癒され、主イエスの復活のいのちに生きる私たち。その私たちに、主イエスは「あなたがたは幸いだ。わたしはあなたがたを喜ぶ。力の限り生きよ、力の限り愛せよ」と祝福してくださっているのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/17

礼拝メッセージ「息を吹きかける神」ヨハネの福音書20章19-23節 大頭眞一牧師 2024/03/17


先週の箇所で、イエスはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(17)と語り、マリアは弟子たちに伝えました。ところが「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」(19a)のでした。

【恐れる弟子たち、恐れる私たち】

弟子たちが恐れたのは、自分たちが主イエスのように処刑されるのではないか、ということ。私たちもこの個所を読むとき恐れを感じます。そして「命の危険に迫られるときに私たちは殉教することができるだろうか。いやできそうにない。つまり自分には信仰が足りないのだ。だからもっと祈って、もっと聖書を読んで、堂々と殉教できる人になろう」とと考えたりします。

けれども、紀元155年ごろに殉教の死をとげたポリュカルプスという司教がいます。その殉教伝は「殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきで、それでも神によってえらばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださる」と記しているのです。弟子たちの恐れを取り除いたのも、弟子たち自身の努力や決心ではありませんでした。主イエスが彼らのいる部屋の戸を通り抜け、彼らの心の恐れの戸を通り抜けて、彼らにお会いくださったのでした。

【弟子たち主を見て喜べり】

主イエスが繰り返された「平安があなたがたにあるように。」(19と21)の「平安」は単に争いや戦いがない、ということではありません。神の祝福が満ちている、ということ。神の祝福は恐れていた弟子たちに満ちました。「イエスは手と脇腹を彼らに示された」(20)、そのときに。

主イエスの手と脇腹の傷は、弟子たちの心の傷でもあります。主イエスを見捨てた自分たちの不信仰と愛のなさを思い出させるからです。しかし主イエスはその傷を見せながら「平安があなたがたにあるように。神の祝福をあなたがたに満たしてあげよう」とおっしゃるのです。彼らの罪、不信仰も愛のなさも赦されました。主イエスは彼らを心から受け入れてくださったのです。今、彼らは祝福に満たされています。主イエスに傷があるゆえに。自分たちが主イエスを裏切らなかった場合よりも、はるかに大きな祝福に。罪のどん底に、自分でも赦すことができない裏切りの真ん中に、主イエスは祝福を造り出し、祝福で満たしてくださったのでした。私たちも。

【息を吹きかけて】

「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22)は、創世記2章を想起させることを意図しているのでしょう。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)とあります。聖霊によって私たちは生きるものとなります。いのちを回復されます。神を愛せず、仲間を愛せず、自分を責める思いの中で、恐れに支配されていた私たちが、生きるものとなったのです。

【罪の赦しの生活】

そのようないのちの生活のすばらしさを主イエスは続けて語ります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」もちろん、私たちに罪を赦す権威がある、というのではありません。罪を赦すことができるのは、神おひとりです。主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21c)と私たちを派遣なさいます。私たちが、家族に、地域に、職場や学校に派遣されて行くとき、そこにいのちがもたらされます。愛なき言葉と思いと行いの私たち。私たちは、それにもかかわらず神に赦されて、神の祝福に満たされて、癒されつつあります。そんな私たちを通して、神さまは周囲の人びととの間に新しい関係を造り出してくださいます。赦された私たちを通して、世界が変わり始めるのです。

そこにあるのは罪の記憶による自責の念に、孤独にうずくまる生き方ではありません。「あなただって」と責め合う生き方でもありません。「私は神に赦された。神の祝福に満たされた。あなたもこの赦しを知ることができるように。赦す主イエスに出会うことができるように。そしてあなたと私が、共に赦し合い、覆い合い、癒し合う仲間となることができるように」と招く生き方です。そのように招くとき、主イエスが働いてくださいます。私たちの遣わされて行く人びとに祝福を満たすために。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/11

礼拝メッセージ「慰めの神」ヨハネの福音書20章11-18節 大頭眞一牧師 2024/03/10


信じたヨハネ。けれども「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」(11a)。そのマリアにも信じさせてくださった主イエスのみ声を、今朝も聴かせていただきましょう。

【御使いではなく主イエスが】

主イエスの墓でひとりで泣き、自分を慰めたいと願ったマリア。けれども墓は空。マリアは絶望の涙を流していました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」(13b)と御使いたち。これは理由を訊いているのではありません。「喜びのできごとが起こった。もう悲しまなくてよい」と立ち上がらせようとしたのです。けれどもマリアは「だれかが私の主を取って行きました。」(13d)というのです。「私の主」とマリアが呼ぶのは主イエスの遺体。死んだイエスがマリアの主なのです。マリアは墓の外にいます。墓の外から墓の中をのぞき込んでいます。イエスとの日々をなつかしんでいるのです。

ところがマリアの後ろから主イエスの声が響きます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(15bc)は、「あなたは遺体を探しているが、それは間違っている。わたしは生きている」という意味。そしてマリアは振り返ってイエスを見るのですが、「それがイエスであることが分からなかった」(14b)とあります。

もちろん主イエスはマリアをそのままで放っておきません。「マリア。」(16b)と呼ばれたのです。御使いたちの「女の方」ではなく、マリアを名で呼んでくださり、そのときマリアは主イエスに出会いました。私たちもまた主イエスに名前を呼ばれたひとりひとり。だから信じることがきました。主イエスにお会いすることができました。今も、主イエスは私たちの名前を呼び続けてくださっています。だから私たちはだいじょうぶなのです。信仰が揺らいだとしても。

【すがりついてはならない】

ところが主イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。」(17b)と。さっきまでマリアは主イエスの遺体を探していました。自分の思うようになる遺体。遺体は動かないからです。今もイエスの体にすがりついて思うようにすることがないように、とイエスはとどめました。私たちにもあります。私たちはしばしば、「主イエスが教えたのはこれだ」と自分の理解を握りしめる。でもそんな理解は多分に自分の思いや体験に色づけされている。まるで動かない遺体を自分の思うままにするように。

ところが主イエスは生きておられます。復活されたからです。生きておられる神はやっかいです。私たちが思っているところにいるわけでもなければ、私たちが願っている通りのことをして下さるわけでもないからです。いえ、主イエスは私たちが思ってもいないところにいて下さいます。たとえば、悲しみのどん底に。たとえば、とんでもない罪を犯してしまった私たちのかたわらに。そして主イエスは、私たちが願っている以上のことをしてくださいました。災害の中であってもそこに愛し合う思いを造り出し、かえって世界の回復を進めてくださるのです。

【すがりつくよりも確かな】

「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」(17c)と主イエスは重ねて言われます。復活の後の主イエスの昇天のことですが、その後ペンテコステに聖霊が降りました。主イエスはこの聖霊を待て、とおっしゃったのです。

私たちは主イエスにすがりつけたらどんなによいだろうか、と思います。主イエスが守ってくださるし、もう思考を停止してもかまわないからです。けれども、聖霊による恵みははるかに確かなものです。聖霊によるなら、私たちはいつでも、どこにいても、主イエスと共に生きることができるのです。主イエスと共に、主イエスのうちに。もうすでに。そして聖霊によって、私たちは主イエスと共に働く者とされます。もうすでに。ますます主イエスの心を知る友として、私たちの思考も感性も強められ、活き活きとされる。そして、主イエスは私たちの提案を、喜んで世界の回復のプログラムに加えてくださいます。もうすでに。

【神の子である私たち】

「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(17d)の名によって、聖餐にあずかります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/04

礼拝メッセージ「よみがえった神」ヨハネの福音書20章1-10節 大頭眞一牧師 2024/03/03


主イエスが十字架で息をひきとったのが金曜日。ユダヤでは一日が日没から始まります。ですから主イエスが葬られた後すぐに、土曜日が始まりました。安息日ですから、だれも墓へ行くことはできません。そして次の日没で安息日が終わります。まだ真っ暗ですから、その夜が明け始めるのを待ちかねて、「朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(1)とあります、日曜日の朝です。

【主イエスのそばに】

これまでもヨハネの福音書には、他の福音書と異なる記述があることをお話してきました。この個所も他の福音書では、イエスの遺体に香料を添えて丁寧に埋葬し直すために何人かの女性が墓に行ったとあります。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは一人だけです。またニコデモとアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されたイエスのお体は埋葬し直す必要はありませんでした。ですからマグダラのマリアは、ただ主イエスにそばにいたかった、墓で悲しみに浸り、涙を流したいと願ったのでした。私たちまた大きな痛みに出会うとき、ひとりで涙を流したいと思います。そうすることで、しだいに癒され、喪失を受け入れ、少しずつ前に進んで行くことができるようになるからです。

【走り出す!】

ところが墓の入口をふさいでいる大きな石が取りのけられている見たマリアは動揺します。そして走り出します。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行って」(2)と。知らせを受けたペテロとヨハネも走り出します。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」(4)とありますから、ヨハネはペテロよりも早く着いたのですが、ペテロの到着を待ちます。そんなことをするぐらいなら、ペテロのスピードに合わせて走ればよさそうなものですが、ヨハネは力いっぱい走りました。墓にはいない主イエスに向かって。愛ゆえに。愛ゆえの疾走。こうして静かなはずだった日曜日の朝は、だれの予想も超えた騒ぎになりました。イエスを愛する者たちが一斉に走り出したのでした。

【理解する前に愛ゆえに】

墓に着いた彼らは「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」(6-7)のを見ました。そこに主イエスのお体はなかったのです。もぬけのからだったのです。マリアは「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)と言いましたが、これが当然の反応でしょう。死体がなければ、だれかが動かしたのだろうと考えるのが常識です。けれども、「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」(8)とあります。ヨハネは信じたのです。主イエスがよみがえって生きておられることを。次の節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)とありますから、ヨハネは頭でわかったのではありません。頭ではなく、心で、存在で、主イエスの復活を知ったのでした。このとき信じたのは、マグダラのマリアでもなく、弟子筆頭のペテロでもなく、ヨハネだけでした。ヨハネは「イエスが愛された弟子」と呼ばれています。ヨハネがイエスの復活を知ることができたのはイエスに愛されたからでした。マリアやペテロはイエスに愛されていなかった、といういのではありません。イエスの愛がイエスの復活を信じさせる、そのことが語られているのです。

【走り出せ!】

ですから私たちはイエスの復活を信じています。理解できないのですが信じている。それは私たちが信仰深いからでも、霊的にすぐれているからでもありません。ただ、主イエスが私たちを愛してくださって、私たちにどうしてもご自分が生きておられることを知らせたて、理解できない私たちの存在に働きかけ、働きかけ続けてくださっているのです。信仰とは今も続いている神さまの働きかけです。そんな復活の光の中を私たちも走り出しました。今週も走っていきます。仲間とともに、愛に向かって。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)