2023/05/28

ペンテコステ礼拝メッセージ「ろばの子に乗った神」ヨハネの福音書12章12-19節 大頭眞一牧師 2023/05/28


先週は主イエスの足に注がれたナルドの香油。主は、その芳香を、ご自分の葬りのための支度とみなしてくださいました。今日の箇所は、その翌日。ろばの子に乗った主イエスから、この日も、その芳香はたちのぼっていたのでしょう。マリアの愛を、つまり私たちに愛を身にまとって、主イエスは進んでいかれます。

【神の大きな物語】

それにしても、なぜペンテコステに、ヨハネをいつものように?と、思われるかもしれません。使徒の2章とか、ヨハネであるなら20章で主イエスが「聖霊を受けなさい」と言われたところとか、と。もちろん、そうしてもいいのですが、その場合、ペンテコステの出来事だけが、強調されすぎてしまうかもしれません。神さまは、アブラハムを召して、世界のすべての民の回復を進めてきました。ペンテコステの出来事は、その大きな神の物語のひとつのクライマックスです。そして私たちは、聖霊を私たちの内に、今も続くそのクライマックスを生きているのです。そんなまばゆいペンテコステの光の中で、ろばの子に乗った神の言葉を聴きます。

【なつめ椰子の枝を】

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。」(12-13a)とあります。なつめ椰子はかつて「棕櫚」と訳されていました。この枝は、ユダヤの歴史と関係しています。ちょっと見てみましょう。

  • 紀元前200年ごろ ユダヤ,セレウコス朝シリヤの支配下に
  • 紀元前164年 ユダヤ,シリヤから独立。エルサレム神殿を奪還、偶像排除。なつめ椰子を振り、神殿奉献。
  • 紀元前37年 ユダヤ,ローマの属国に。独立待望
  • 紀元30年ごろ イエス、なつめ椰子で迎えられる

つまり、ユダヤ人たちは主イエスに、ローマから自分たちを解放してくれる「イスラエルの王」(13d)を求めていたのです。その期待は主イエスがラザロをよみがえらせたことによって頂点に達したのでした。

【ろばの子に乗った神】

王であるなら堂々たる軍馬に乗るのが普通です。ところが主イエスはろばの子に乗っていました。ヨハネは、それが聖書(旧訳聖書)の預言だと記します。「次のように書かれているとおりである。」(14b)「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(15)と。これは、ゼカリヤ9章9節。続くゼカリヤ書の9章10節はこうです。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(ゼカリヤ9:10)。すなわち、聖書が預言する王は、軍事力で敵を打ち破る王ではありません。力のない王。弱い王。けれどもその弱さによって世界を造り変える王。この王によって、世界に平和が実現するのです。破れてしまった世界に回復が訪れるのです。人びとの心が内側から造り変えられることによって。

【ペンテコステの出来事】

このとき、人びとには、それがわかりませんでした。弟子たちにもわからなかったのです。「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」(16)。しかし、主イエスが栄光を受けられた後、つまり、十字架・復活を経て、弟子たちに聖霊を与えたとき、彼らは気づきました。イエスは王。十字架という弱さの極みにおいて、ユダヤ人の敵ではなく、世界の敵である死と罪の力を滅ぼされたことを。そして弟子たちを、そして、私たちを、神の子とし、キリストのいのちを与え、聖霊を住まわせてくださったことを。今、私たちはそんなまばゆいペンテコステの光の中にいます。主イエスと共に、聖霊を内に。軍馬ではないろばの子のような私たちが。そこでは、私たちの弱さも世界の回復をもたらす窓です。それは①神さまが、私たちの弱さや破れを赦し、受け入れ、そこに祝福を造り出すことを世界が見ることによって②私たちがたがいの弱さを覆い合い、支え合い、愛し合うすがたを世界が見ることによって。

【恐れるな】

実はヨハネはゼカリヤ9章9節のひとつの言葉を変えて記しています。ヨハネに「恐れるな」とあるのは元のゼカリヤでは「大いに喜べ」です。私たちには「大いに喜べ」と言われても喜べないときがあります。困難の中にあるとき、悲しみの中にあるとき、さまざまにうまくいかないことがあるときに。そんな喜べないときにも、「恐れるな」と神さまは語ります。なぜなら、私たちの困難や悲しみ、苦闘を通して、神さまが世界の回復を進めてくださるからです。すいすいと人生が進んでいるときよりも、弱さの中にある私たちを用いて、世界の回復をよりいっそう進めてくださるのです。だから恐れるな。仲間と共に、ペンテコステの聖霊を内に、前に進もう。

          (ワーシップ「鹿のように」 Cover by Bless)




(ワーシップ「ハレルヤハレル」 Bless <Original>)



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2023/05/23

礼拝メッセージ「香油を注がれた神」ヨハネの福音書12章1-11節 大頭眞一牧師 2023/05/21


ラザロをよみがえらせた主イエスを最高法院が殺そうとしたため、主はいったん「荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」(11:54)のでした。これが先週の箇所。ところが、今日の箇所で「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。」(1)とあります。ベタニアはエルサレムへ向かう通過点。主イエスは過越の祭りをエルサレムで迎えるために、つまり十字架に架かるために戻って来られたのでした。

【ナルドの香油】

香油注ぎの記事がルカの福音書にもあります。ルカでは、もてなしに心を奪われているマルタの姿は否定的に描かれています。でもヨハネはそうではありません。マルタとマリアを比較するのではなく、主イエスとマリアに焦点を合わせているのです。

マリアが注いだ香油は一リトラ、約326グラム。こういうものは数滴ずつしか使わないもの。ところがマリアはこれを全部イエスの足に注ぎました。足がびしょびしょになってぬぐわなければならないほどに。イスカリオテのユダの見積もりによれば三百デナリ。日当が一デナリですから、年収に相当する金額です。これはマリアの全財産であったかもしれません。そこから、「マリアは全財産を主イエスに献げた。私たちもすべてを献げて」と言いたくなるところです。けれども、これがマリアの全財産であったかどうかは書かれていません。そして三百デナリと、金額を問題にしたのはイスカリオテのユダであって、主イエスでもマリアでもないことに気づくのです。

ユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5)とマリアを責めます。それはユダには二つの後ろめたさがあったから。一つには「イエスを裏切ろうとしていた」(4)から。もう一つは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6)。つまりユダの愛は失われてしまっているのです。主イエスへの愛と仲間への愛、二つの愛が。

マリアが注いだのは愛。ラザロをあわれみ、マリアをあわれんで注がれた主イエスの愛。ラザロを生き返らせてくださった主イエスの愛が、今、マリアに満たされ、あふれだしました。家は香油の香りでいっぱいになった。」(3b)。マリアはただただ主イエスに愛を注ぎたかった。三百デナリだろうがどうだろうが、そんなことも考えていないのです。貧しい人のために施すことも、まったく頭にありません。今、ここで、目の前の主イエスの愛を注ぐことに夢中になったのでした。ユダは正論です。冷静に考えればその通りなのでしょう。その意味ではマリアは愚かです。数百万円をむだにしたのですから。

けれども愚かと言えば、ユダの目に最も愚かに見えたのは主イエスの十字架だったでしょう。民衆が待望し、王にしようとしているのに、主イエスは十字架を選ぶのです。そして主イエスは「そうだ、ユダのいう通りだ。マリア、なんと無駄なことをするのだ」とは言いません。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7)と、マリアをよしとされたのです。マリアの愛を喜ばれたのです。ユダの冷たい視線の先に、愚かなイエスと愚かなマリアがいます。ふたりは愚かな愛を注ぎ合って、喜び合っているのです。

【けれども、神が】

主イエスの「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7b)は、もちろん十字架を指します。もちろんマリアは、すべての人にいのちを注ぐ十字架を知っていたわけではありません。けれども、神が、マリアの愛に意味を創り出してくださいました。マリアの愚かな愛、愚かな行いを、十字架に結び付け、貴い愛、貴い行いとしてくださったのです。

私たちはマリアの愛に感謝します。私たちもそうしたかったからです。それをマリアが代わってしてくれたのです。そして私たちは主イエスの愛に感謝します。マリアの愚かな愛を貴い愛としてくださった主イエスは、私たちの愚かな愛を貴い愛としてくださるからです。私たちは愚かなだけではありません。しばしば心弱く、不完全で、ときには後ろめたさを正論で押し切ろうとするユダにも似た私たち。主イエスはそれでも私たちの愛を、「そのままにさせておきなさい。」と言ってくださいます。「あなたがたの愛をわたしは喜んでいる。なお、わたしの愛を注いであげよう。ますます、あなたがたが健やかになるように。あなたがたの愛が解き放たれるように」と。そんな主イエスを、そんなたがいを、今日も私たちは喜んでいるのです。



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2023/05/14

礼拝メッセージ「民に代わって死ぬ神」ヨハネの福音書11章45-57節 大頭眞一牧師 2023/05/14


先週は、主イエスの「ラザロよ、出て来なさい」の叫びを聴きました。死と罪の力からの解放の宣言です。けれども、そのために主イエスは十字架と復活を通らなければなりません。事態は一気に動き始めます。

【見ないで信じる私たち】

「マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」(45)とあります。この人たちはラザロがよみがえったのを見て、イエスを信じました。けれども、やがて彼らが、主イエスを十字架につけようとすることを、私たちは知っています。しるし、つまり、奇蹟を見て信じることと、イエスとの愛の関係に入ることはちがいます。それなのに、私たちは主イエスと愛し合う関係に入れられています。しるしを見ようが見まいが、主イエスと共に生きるのです。主イエスがしてくださったこの不思議を喜ぼうではありませんか。

【自分たちにとって得策】

ところが、「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集し」(47a)ました。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」(48a)と心配したからです。当時、ユダヤはローマの属国。半独立国でした。ユダヤ人たちは異邦人であるローマの支配を不満に思っていました。そしてユダヤをローマから解放するメシア(救い主)の出現を待望していたのです。そこへラザロのよみがえりです。ユダヤの民衆がイエスをかついで、ローマに反乱を起こすかもしれない、そうしたらローマの怒りをかい、属国の地位も奪われるでしょう。そうなったら、ユダヤの指導者たちも特権をはく奪されてしまう、そう恐れたのです。イエスの時代の後、ユダヤは実際にローマに反乱を起こし、その結果、国が消滅したのですから、この恐れは現実のものでした。

そこで大祭司カヤパが「あなたがたは何も分かっていない。」(49b)と言います。彼にはわかっていました。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(50)、つまり、「イエスを殺さなければならない。そうしたら反乱は起こらないですむ。ユダヤは、そして自分たちユダヤの指導者たちは現状を維持することができる」と。会議の結論は、イエスを殺害することでした。しるしを見て信じた民衆も、しるしを見て恐れた指導者たちも、だれも主イエスの心、神の心を知る者はいなかったのです。

【神の心】

イエスを殺すべし、と、自分たちの保身のために発言した大大祭司カヤパ。けれどもヨハネは不思議な言葉を記します。「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので…預言したのである。」(51b-52)と。つまりカヤパは自分ではそのつもりがなかったのに、預言をしたのです。神の心を語ったのです。心ないカヤパの言葉に、神がご自分の心をこめてくださり、心をこめて意味を造り出してくださった、と言うこともできるでしょう。

その意味とは「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられること」(51b-52)でした。

このとき、だれも神の心を知る者はいませんでした。ユダヤの民衆は、奇蹟を行ったイエスをかついでローマを追い出そうとしました。指導者たちは、ローマに逆らわないで、現状を維持しようとしました。けれども神の心はユダヤ人もローマ人も、すべての人びとを救うことにありました。すべての人に神のいのちを与えて生きる者にすること。そのために神である主イエスが人となって来てくださったのでした。どんな犠牲を払っても、十字架の血をもっても、私たちを神の子とすること、それが神の心なのです。

ゴールデン・ウィーク中に明野キリスト教会でひとりのご高齢の方が受洗されました。「これからは息子夫婦といっしょにイエスさまを信じて生きていきます」と告白なさったのです。洗礼式の中で、私は、説教の代わりに、その方に宛てたとても短いお手紙をお読みしました。「洗礼おめでとうございます。イエスさまはすべての人に洗礼を受けるように命じました。それは、イエスさまが私たちを洗ってくださったことを忘れないため。私たちの恥ずかしい、言わなければどんなによかったか、と思う言葉、他の人を思いやることができなかった痛み、それら全てを十字架で洗ってくださいました。今よくわからなくてもだいじょうぶです。だんだんわかります」と。

この後、聖餐に与ります。洗礼の水、聖餐のパンとぶどう汁、みな不思議です。いったいどういう意味なのだろうか、と首をかしげる私たちです。教会は、これらを「神の見えない恵みの見えるしるし」と呼んできました。すべての人のすべての罪を赦し、神のいのちを注ぐ神の恵みと神の心は、私たちにはとらえきれません。とらえるのはあまりにも大きいからです。けれども、とらえきれない私たちを神はしっかりととらえてくださって放しません。だから私たちは、キリストのいのちを生きることができます。まるでキリストのいのちがないかのように生きるのではなく。

聖餐にあずかります。見えないほどに大きな神の恵みと心に包まれて。



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2023/05/07

礼拝メッセージ「栄光の神」ヨハネの福音書11章38-44節 大頭眞一牧師 2023/05/07


先週は、主イエスが死の力に憤りをおぼえ、ご自分の十字架と復活によって、私たちを解放する宣言をなさったことを聴きました。今日もこの宣言をさらに心に刻んでいただきましょう。

【再び心のうちに憤りを】

「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。」(38a)とあります。こうして繰り返して主イエスの憤りが描かれていることに、主イエスの憤りの激しさが現れているようです。主イエスは死の力に憤っておられます。激しく、激しく憤っておられるのです。

【出て来なさい】

「その石を取りのけなさい。」(39a)とのイエスの言葉にマルタはたじろぎます。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39de)と。当然のことです。けれども主イエスは、たじろぎません。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40)とその言葉はなお力を増していきます。主イエスにあっては、ラザロの体が臭かろうが、朽ちていようが、骨になっていようが、そんなことはどうでもよいのです。子なる神である主イエスが父なる神に願い、ラザロをよみがえらせるのですから。

こうして洞穴の墓に主イエスの声が響き渡ります。「ラザロよ、出て来なさい。」(43b)と。その声には死に対する憤りに加えて、神の権威がこめられています。死の力はその権威に屈服します。主イエスが死をねじ伏せたのです。

次に起こったできごとには微笑みを禁じえません。なんともユーモラス。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。」(44ab)。ラザロがよみがえった喜びの情景です。


以前にも何度もお話ししたことですが、もう一度。宗教改革者ルターはこのようなデザインを自らの紋章としました。周りに「キリスト者の心臓は十字架の下に置かれるときに脈打つ」とあります。黒の十字架はキリストの死を、赤いハートは私たちのたましい。キリストの「出て来なさい」は単なる言葉だけの招きではありません。キリストの血をもっての招きです。キリストがご自分の全存在で私たちを招き、ご自分の全存在で私たちにいのちを与えて、生きるものとしてくださったのです。

【ほどいてやって】

墓から出て来たラザロに驚く仲間たちに主イエスは命じます。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44d)と。私たちはキリストのいのちを与えられたおたがい。けれども私たちにはなお、ほどかれなければならないものがあります。キリストの十字架と復活によって打ち砕かれたはずの罪と死の支配の「残りかす」のようなものがまとわりつくことがあるのです。恐れや妬みや敵意、それらが愛をさまたげるのです。だから主イエスはたがいにその「残りかす」を取り除き合うようにとおっしゃいます。

マザーテレサの言葉を紹介します。

  • 大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。
  • 人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。
  • 人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。
  • 成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
  • 正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
  • 歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。
  • 心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
  • 今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善い行いを続けなさい。
  • 持っている一番良いものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番良いものを分け与えなさい。

こうして私たちは愛に成長することができるのです。聖餐に与ります。



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2023/04/30

礼拝メッセージ「涙を流す神」ヨハネの福音書11章28-37節 大頭眞一牧師 2023/04/30


先週は、主イエスとマルタの対話を聴きました。主イエスを出迎えに行ったマルタは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」という主の宣言を聴きました。自分の中に死を超えるいのちが始まっていることを知ったのです。

【あなたを呼んでおられます】

すぐにマルタは家にいたマリアのもとに帰ります。そして「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28b)と伝えました。「伝えた」とありますから、主イエスがマルタに「マリアにわたしが呼んでいると伝えなさい」と言ったのかもしれません。けれどもひょっとすると、マルタが主イエスの心を察して、主イエスの招きを代弁したのかもしれないとも思うのです。なぜなら私たちも、そのように人びとを招いているからです。私たちは、すべての人を招いておられる神さまのお心を知っています。ですから、神から「あの人を呼んできなさい」「次はあの人を」と言われなくても、人びとに語りかけるのです。シャンパン・タワーがあふれるように。まず自分が主イエスのいのちに満たされて。

けれども私たちの招きは選挙運動がスピーカーの音量を上げるようなものではないことも、知っておきましょう。マルタは「そっと伝えた」(28a)とあります。「密かに言った」という意味です。マルタは絶望の中にうずくまっているマリアに、マリアだけに聞こえるように、マルタだから語ることができる言葉で語りました。私たちが人びとを招くとき、その語りかけは、じっくりていねいにつちかってきた関係の中で起こります。伝道は教会員が少なくなると困るから行うのではありません。目の前の人がいのちに満たされるため、いのちの喜びにあふれるためなのです。

【涙を流す神】

マリアはすぐに立ち上がります。主イエスのところに行ったのです。主イエスの足もとで、マリアは泣きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32b)と言って。死の力にラザロが奪われてしまった絶望の中にいるのです。マリアとともに来た人びとも泣いていました。彼らもまた、マルタとマリアとラザロの家が悲しみの家になったことに無力を感じていたのでした。

「イエスは涙を流された。」(35)。人びとはこの主イエスの涙を完全に誤解しました。彼らは「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36)と言います。主イエスがご自分の無力、愛するラザロをどうすることもできない無力を嘆いて泣いたと思ったのでした。私たちもしばしば「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)などと言って、人生の不条理に納得しようとすることがあるのではないでしょうか。けれども、ヨブ記は1章で終わっていません。そのあと42章まで、ヨブはやはり納得できないのです。神さまはそんな不条理を許されるお方ではないと。三人の友人たちはそのヨブに、これは神さまのなさったことだから、と納得させようとします。けれども神さまがよしとされたのはヨブでした。神さまもヨブをおそった不条理に納得しておられなかったのです。

【憤るイエス】

主イエスのまたラザロの死に納得しておられません。「そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33b)とあります。主イエスの涙は憤りの涙でした。静かな絶望の涙ではありません。心が騒いで我慢できない怒りの涙だったのです。その怒りは死の力への怒り。罪とタッグを組んで、私たちをご自分から切り離そうとする死の力への怒りでした。

涙を流して憤る主イエスは、世界の誕生から世界の終りまでのすべての痛みを感じていたのではないかと思います。それは死と罪の力が絶え間なく、私たちを神さまから引き離そうとすることによる痛み。主イエスはこのとき、アダムから始まって、第一次第二次の世界大戦、ホロコースト、広島長崎の原爆、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争などすべての人類の痛みを思い、感じ、身を震わせるようにして、憤り、心を騒がせて、涙を流してくださった。そして十字架への決意をさらに固くしてくださいました。ご自身の十字架に罪と死の力を必ず道連れにすると。そして復活によって罪と死の力に打ち勝ち、私たちの愛を妨げるすべてのものから私たちを解き放つと。ご自身がどんな犠牲を払っても、神と人を愛する愛を私たちに満たすと。そんな愛がもう私たちの中に始まっています。


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2023/04/23

礼拝メッセージ「いのちの神」ヨハネの福音書11章17-27節 大頭眞一牧師 2023/04/23



マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。

【もしここにいてくださったなら】

悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。

続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。

【主イエスの宣言】

そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。

ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。


正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。

ゴッホ「ラザロの復活」
そのいのちは私たちのうちにも始まっています。悲しみと絶望の中でも主イエスの宣言は響いています。私たちの耳はしばしばこの宣言を聞き逃します。それでも主イエスの宣言は有効です。そして私たちは聞き逃した仲間にも、この宣言を思い出させ合うことができるのです。



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2023/04/16

主日礼拝メッセージ「死で終わらせない神」ヨハネの福音書11章1-16節 大頭眞一牧師 2023/04/16


先週はイースターをごいっしょに祝いました。主イエスは復活さ れた!今も生きておられる!その喜びの中、今日も主イエスのみ声を聴きます。

【主イエスよ、なぜですか?】

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 」(6)とあります。 その二日後、 主イエスは「ラザロは死にました。 」 (14b)と言ってから、ユダヤに向かわれました。ですから、ラザロの病の重いことを知ったうえで、 助けようとしなかったのです。 それはラザロのことなど、 どうでもよかったからではありません。 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 」 (5)と、あるとおりです。では、なぜ?と、だれもが思います。

私たちも主イエスに愛されています。主イエスと共に踊るいのちに招かれ、もうすでに、踊り始めている。それなのに、病が、死が、困難が、苦しみが私たちを襲います。暴力と戦争や飢えの中にいる人びとも。なぜ、でしょうか。なぜ、主イエスは即座の解決を与えてくださらないのでしょうか。私たちを愛しているのに。

そこに今日の福音が響きます。 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 (14)と。主イエスのおっしゃるのはこうです。「ラザロはこの病気で死ぬ。けれども、それで終わりではない。ラザロの死を通して神の栄光が現れる。」と。主イエスには、このときの弟子たちにはわからない深い思いがありました。「神の栄光は、 わたしがラザロを死からよみがえらせる ことによって現れる。それは神の子であるわたしの栄光でもある。 なぜなら、ラザロの死とよみがえりは、わたしの十字架と復活のしるしだからだ。 わたしの栄光は、十字架に架けられ、墓に葬られて完全な死を経験したのち、復活することによって現れる。恥辱にしか見えない中から栄光が。敗北にしか見えない中から勝利が。 神の栄光はすべての人にいのちを注ぐことであり、神の勝利はすべての人を罪と死の力から解き放つことだから。 だから、今、ラザロが死ぬことに絶望してはならない。神にはできないことがあるなどとしゃがみ込んではならない。ましてや神は自分たちを見捨てたなどと思ってはならない。今のあなたがたの苦しみは神に知られている。その苦しみを通して神の栄光が現れる。 世界が回復されていく。 今は、そうは思えなくても。今は、どのようにして、そんなことが実現するか想像もできなくても。 」

こんな思いを胸に主イエスは招かれます。「さあ、彼のところへ行きましょう。」 (15b )。「さあ、生きよう。苦しみの中でも、生きよ。希望が見当たらないように思える中でも、生きよ。わたしがあなたの人生に栄光を現す。わたしがあなたの苦しみに意味を造り出す」と。

【フランシスコ会修道士の祝祷】

ある牧師が、「フランシスコ会修道士の祝祷」というのを紹介していました。公式なものというよりも一人の修道士によるもののようです。

願わくは、神があなたを「不快感」を通して祝福してくださいますように。 「安易な応答、不誠実な曖昧さ、形式だけの関係」などによっての不快感。それゆえ、あなたは真心を込めて生きられますように。

願わくは、神があなたを「怒り 」を通して祝福してくださいますように。 「不正、圧政、そして人からの搾取」への怒り。 それゆえ、あなたが「公正・自由・平和」のために働くことができますように。

願わくは、神が「」を通して祝福してくださいますように。「苦痛と痛み、拒絶、空腹そして戦争」によって流す「涙」 。 それゆえ、慰めるために手を差し伸べ、苦痛を喜びに変えられますように。

そして、願わくは、神が「存分の愚かさ 」を通して祝福してくださいますように。 「世界に変化をもたらすことが可能だと信じる愚かさ」 。 それゆえ、多くの人達が不可能だと宣言している事柄を成し遂げ、 公正と親切とがすべての子供達、貧しい人たちに届きますように。

「不快感」「怒り」「涙」「存分の愚かさ」、これらはみな、人生の負の要素に思えます。破れた世界においてこのような負は確かに存在します。 けれども 私たちの神は、その負の中に意味を造り出すことができます。いえ、そうしないではいられないお方なのです。あなたを負の場所に置かれた、神の栄光としないではいられないのです。

【主と一緒に】

トマスは主イエスの招きに応えました。 「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」 (16b)と。けれども、私たちはこのトマスの熱意がいかにもろいものであったかを知っています。十字架の前夜、トマスも他の弟子たちも、みな主イエスを捨てて逃げてしまったのですから。 しかし同時に、 私たちは知っています。主イエスは、そんな弟子たちを赦し、招いてくださったことを。何度でも、何度でも、何度でも。私たちまた、そのような主イエスの胸の中で赦され、成長しているのです。


          ワーシップ(賛美) 「谷の白百合(オリジナル)」Bless



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【第1回】一年12回で聖書を読む会「天地創造」が行われました! 2023/04/15

 「一年12回で聖書を読む会」の第1回「天地創造」が 2023/04/15 に行われました。


当日、お越しになれなかった方も以下の動画で内容をご覧いただけます。




以下も参照しながら動画をご覧ください


次回は 2023/05/13 の予定です。


「一年12回で聖書を読む会」について詳しく知りたい方はこちら。どなたでも参加者募集中です!


2023/04/10

イースター礼拝メッセージ「子羊である神」ヨハネの福音書10章31-42節 大頭眞一牧師 2023/04/09


イースターおめでとうございます。約2000年前のこの日、主イエスが私たちの初穂として復活しました。英会話の本で、イースターのあいさつを見ると、〇ハッピー・イースター、△または✘ハッピー・グッド・フライデーとあってります。これには、ていねいに註がついていて「金曜日は人類のすくいのためにキリストが十字架に架けられた日なのでハッピーは使わない方が無難です」とありました。無難どころか、十字架を思うとき私たちの心は痛みます。十字架の痛みを感じつつ同時にイースターの喜びを感じているのです。

【人となった神】

今日の聖書の箇所では、まだ受難週は始まっていません。けれども「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。」(31)とありますから、すでにユダヤ人たちの殺意は満ちています。彼らが怒ったのは「わたしと父とは一つです。」(30)のような主イエスの言葉。「あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」(33)と言うのです。

キリスト教会は2000年の間、主イエスはまったき神で、同時にまったき人だと宣言してきました。外見からはイエスはどう見ても人です。ですからユダヤ人たちが、イエスが神だと信じることができなかったのは、当然のように思えます。けれども彼らはユダヤ人なのです。アブラハム以来、神がご自分の胸で抱き続けたユダヤ人。神と人との境を超えて、神が人となった、そのじっとしていることができないあわれみの心を、知ることができるとしたら、それはユダヤ人をおいていないはずでした。神の愛の極みは人となること。この極みの愛を知らせる切り札であったユダヤ人を、主イエスは惜しみます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。」(37-38a)を言い換えればこうなります。「神のふところに生きてきたユダヤ人、その指導者であるあなたたちなのに、神の愛があふれ出して、人となることがわからないのか。神がその全能の愛を、あなたがたにために使うことがわからないのか。では、せめて奇蹟を信じてほしい。生まれつき目の見えない人の目を開いた奇蹟を。その人と見つめ合い、愛し合うための愛の奇蹟を。あなたがたにはどうしても知ってほしいのだ」と。

【踊るイースター】

主イエスは続いて「それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(38b)と語ります。3月26日にもお見せした神のダンスのイメージ図をもう一度。知ることは、ただ理性で理解することではありません。この神のダンスに招かれ、飛び込み、いっしょに踊ることです。

キリスト教の信仰は、教室に座って勉強して、教理の質問に対して正解が書けるようにすることではありません。キリストのいのちを生きることです。三位一体の神とともに生きることなのです。

以前テレビでキンタローという人が社交ダンスの選手権に挑戦する番組を見たことがあります。踊り方を教科書で学ぶだけでは、ダンスを踊ることはできません。パートナーとのコミュニケーションをとって、息を合わせて押したり引いたり、身を預けたり預けられたり、ダンスに必要な筋肉ができてきたり、問題が起こった時には仲間と励まし合ったり、いわば、心と体と理性のすべて、自分の全存在での他との交わりです。

イースターおめでとうございます。ハッピー・ハッピー・イースター。それはもう私たちが踊り始めているからです。三位一体の神と共に、そして仲間と共に。まだたどたどしいステップでしょう。ときにはたがいの足を踏んでしまったり。けれどもそれでも、赦し合い、支え合い、踊り続けるのです。そうするうちに凍りついていた愛が解けていく、流れていく。世界を潤し、破れをつくろっていく。

聖餐に与ります。私たちの愛の欠けた言葉と心と行いを痛みながら。同時に主イエスの赦しと招きを喜びながら。この聖餐でいのちをチャージしていただき、さらに大胆に踊るために。


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2023/04/02

礼拝メッセージ「羊を知る神」ヨハネの福音書10章22-30節 大頭眞一牧師 2023/04/02


棕櫚の主日を迎えました。今日から始まる受難週も、主イエスの愛の言葉を聴きつつ歩みます。

【あわれみの神】

9章からの主イエスとパリサイ人の会話は今日も続きます。発端は、生まれつき目が見えなかった人を主イエスが安息日にいやしたことです。パリサイ人たちは、主イエスが神から遣わされた救い主(キリスト)であることを否定しましたが、その理由がこの安息日のいやし。パリサイ人たちにとって、神は律法を守る者にはあわれみ深いが、律法を守らない者には厳しい神。安息日に人をいやすことをけっして赦さないお方です。

ところが主イエスは「わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。」(25c-26a)と言います。安息日に人をいやすことこそ、主イエスが神からの救い主であることの証拠なのです。父なる神は、安息日であろうがなかろうが、一刻も早いいやしを願われるあわれみの神。この父から遣わされた者は、安息日にいやしを行うことをためらうはずなどないのです。あわれみにおいて、父とひとつであるからです。

ところがパリサイ人たちにはあわれみの神がわかりません。ですから神が人となったあわれみがわからず、主イエスを十字架へとおいやりました。あわれみゆえに十字架に架かる神など想像することもできなかったのです。

神があわれみの神であることを知らなかったパリサイ人たちは、安息日のいやしをまったく誤って解釈してしまいました。神のあわれみを神の怒りを招く行為だと思ったのです。彼らは熱心でした。けれども熱心さよりもたいせつなものがあります。それは神のあわれみを知っていることです。

【主イエスの羊】

熱心さよりたいせつなものがある。そんな言葉は私たちを居心地わるく感じさせるかもしれません。「あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。」(26b)という主イエスの言葉を聞くとなおさらです。主イエスは熱心なパリサイ人たちにこう言ったのですから。けれども恐れることはありません。主イエスは「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(27b)とおっしゃったからです。主イエスは羊である私たちを知ってくださっている!ここに救いの根拠があります。救いは私たちがそれに値するからではありません。主イエスが私たちを知ってくださっていることにあるのです。

【三重の愛】

私たちは、自分は主イエスの羊だろうか、主イエスの声を聞いているだろうか、としばしばうなだれます。もっとがんばらなければ、と自分を責めて疲れてしまうこともあります。そんな私たちに主イエスの御声が響きます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(28)。だれも、とあります。誘惑も、私たちの弱さも、そして死さえも、私たちを主イエスの手から奪い去ることはできないのです。それは主イエスが私たちを握りしめて離さないからです。愛ゆえに。

それだけではありません。「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(29-30)父なる神もまた私たちを握りしめて離さないのです。愛ゆえに。もうおひとかた、聖霊も同じです。聖霊も私たちを握りしめて離さない。愛ゆえに。こうして私たちは父と子と聖霊の三重の愛の手に握りしめられています。私たちがそれに値するからではありません。私たちが値しなければしないほど、三重の愛の手は私たちを握りしめるのです。離さないのです。

【凍りついた愛が】

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」(28a)こそ、主イエスが人となられた理由でした。今週の木曜日と金曜日は教区のユース+キャンプで湖西祈りの家に行ってきました。まだ信仰を告白していない人も来られるということでしたので、「永遠のいのち」をどのように伝えたらよいか、と思いをめぐらしました。やはり死んでから天国に行くことだと思われやすいからです。永遠にいのちは、もちろん、今始まるいのちです。今、始まって私たちからあふれ出して世界を回復させ、死の向こう側にまで続くいのち。それをどう語ろうかと思ったときに、以前、教団の青年たちに語った「凍りついた愛が解け始める」というメッセージを思い出しました。永遠のいのちは、何よりも私たちの愛の回復に現れます。私たちが受けてきた痛みや苦しみは、私たちの心を閉ざし、愛することに臆病にさせてしまっています。愛が凍りついているのです。けれども、十字架で死と罪の力に勝ってくださった主イエスは、私たちに新しいいのちを注ぎ、凍りついた愛を解かしてくださっています。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな愛を私たちは生きています。復活の主イエスと共に。その手に握りしめられて。


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2023/03/28

礼拝メッセージ「良い羊飼いである神」ヨハネの福音書10章11-12節 大頭眞一牧師 2023/03/26


来週は棕櫚の主日そしてその次はいよいよイースター。今週もイースターとそれに先立つ主イエスの受難に思いをめぐらします。

【いのちを捨てる神】

主イエスの譬えは続きます。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(1)とあります。主イエスは羊である私たちのためにいのちを捨てるのです。おそらく私たちは、このことに慣れっこになってしまっているかもしれません。ですからいつも思い出してください。主イエスは神であることを。神が私たちのためにいのちを捨ててくださったのだということを。すなわち、神がいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださっていることを。

イエスの復活の後、教会が誕生しました。初代の教会はパリサイ人たちに迫害されることになります。そんな教会に向かってヨハネの福音書は書かれました。「パリサイ人たちは、あなたがたを迫害している。彼らによって教会は散らされている。けれども彼らはあなたがたのためにいのちを捨てたりはしない。あなたがたのためにいのちを捨ててくださるのは主イエスだけだ。あなたがたがどんなに迫害されても、どこへ追い払われたとしても、主イエスはあなたがたを守り抜かれる羊飼いなのだ」と、そんな思いでヨハネは主イエスの言葉を記しました。私たちもたがいに思い出させ合いましょう。どんな状況でも、どこにいても、主イエスは私たちを守り抜かれる良い羊飼いであることを。

【私たちを知る神】

主イエスはまた「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、」(14a)と言います。聖書の「知る」という言葉は親しい交わりを表す言葉。たとえば、男が女を知ると子どもが生まれます。主イエスは私たちを知ってくださっている。私たちの弱さも罪も、私たち以上に知ってくださって、その痛みや欠けをご自身で埋めてくださる、覆ってくださる。私たちの張り裂けるような悲しみや虚しさをご自分のものとしてくださるのです。そればかりか「わたしのものは、わたしを知っています。」(14b)とも言う。「あなたがたはわたしの愛がわかる者たちだ。そしてわたしを愛しているのだ」とおっしゃるのです。

さらに「ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。」(15a)にいたっては、私たちの理解をはるかに超えています。父なる神と主イエスの愛の交わりと同じ交わりが、私たちと主イエスの間にある!というのですから。キリスト教会の二千年の歴史は、この神秘を伝えるためにさまざまな表現を用いてきました。そのひとつにペリクレーシスという言葉があります。翻訳すればdancingamongeachother(たがいに交差しながら踊る)です。つまり三位一体の神は愛の交わりのうちに踊る神。踊りながら一体である神だとイメージするのです。次のようなイラストが用いられることがあります。
踊る父・子・聖霊は三位でいながら一つです。愛を表すハート型が描かれています。主イエスの与えるいのちは、私たちをこの愛のダンスに招き入れます。私たちは、父と共に、子と共に踊ります。愛のダンスを。こうして仲間と共に神の愛、たがいの愛を喜び味わっているのです。

【ほかの羊たちも】

私たちを喜びのダンスに招きいれてくださったのは主イエスです。私たちには思いも及ばない神との愛のダンスに加えてくださったのです。

そんな主イエスの愛は、まだ主イエスを知らない人たちにも注がれています。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(16)と。

一つの群れ、とあります。私たちの教会に新しい方がたが加わるのは嬉しいことです。けれども、だれかが加わるなら、その集団は前とは同じではなくなることも事実です。今まで暗黙の了解であったことが、問い直されたり、変更をせまられたりすることも起こるでしょう。けれども、それを恐れる必要はありません。良い羊飼いである主イエスを知るものたちは、主イエスの愛によって一つです。いのちのうちに赦し合い、覆い合って成長していくことができるのです。


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2023/03/19

礼拝メッセージ「譬えで語る神」ヨハネの福音書10章1-10節 大頭眞一牧師 2023/03/19


受難節も第四の主日を迎えました。弱さを覚えておられる方がたも多くおられます。主イエスのいのちをいただきながらも、うめく私たちに、今日もみ声が響きます。

【譬えで語る神】

ここで主イエスは譬えで語られました。譬えは単なる例話ではありません。4月から「一年12回で聖書を読む会」が信愛でも明野でも始まります。すでに信愛で7名、明野で4名ほどの申し込みがありました。テキストは「聖書は物語る」ですが、これには続編があって「聖書はさらに物語る」といいます。この「さらに」の中にひとつの章を費やして「譬え」について書いています。まとめると、譬えとは

  1. 人となられた神であるイエスが、人間の言葉で、人間の表現技術を用いて、「神の国」という未知の領域を洞察させるために
  2. イエスの到来とともに始まった「神の国」(神の支配)とそれを受け入れないこの世界との摩擦のただ中で
  3. 私たちを「神の国」の生き方へと招くべく、語ったもの

なのです。ですから譬えは福音そのものです。すでに始まった神の国(神の支配)を力強く宣言し、神の国の生き方へと招くのです。

「摩擦」と言いました。「聖書は物語る」に収められているこの図はたいせつです。


「神の国」が始まったのはイエスがこの世界に最初に来たときです。そして「神の国」が完成するのは、この世の終わりにイエスがもう一度来る再臨のときです。ですから今の時代は、中間の時代だといえます。神の国がもう始まっているのだけれども、まだ完成していない時代だからです。今の時代を第二次世界大戦にたとえて、DデイとVデイの間の時代と説明されることがよくあります。Dデイとは、1944年6月6日、ヨーロッパ大陸から撤退していた連合国軍が、ヨーロッパに再上陸した日です。この日を境に連合国の勝利は確定しました。けれども、枢軸国軍の抵抗は続き、最終的にヨーロッパの戦争が終結するのは1945年5月8日、Vデイと呼ばれる日のことでした。始まったけれども完成していない神の国において、死はいまも存在します。しかし永遠の命は死を超えます。誘惑は今も存在します。けれどもキリストと一つにあるときには、私たちは罪から守られます。病の床も悲しみに終わらず、賛美と祈りの祭壇となります。このように、私たちは完成へ向かう世界の中で苦しみつつ喜び、歌いつつ痛むのです。そうしている内にも神の国は成長しています。そしてやがてイエスが再臨するときに、損なわれた世界に完全な回復が訪れるのです。

【主イエスの声を知っている】

この主イエスの譬えでは、主イエスに従う者たちは羊、パリサイ派の人びとは羊盗人、そして主イエスは牧者であり、羊の門です。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」(1)とあります。パリサイ派の人びとは、門であるイエスから入りません。イエスを受け入れていないのです。そんな彼らは、神の民をイエスに導くことができません。この目の見えなかった人を追い出したように、群れを散らしてしまうのです。けれどもイエスは牧者です。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」(3)がそれです。この目が見えなかった人は、追い出されたように見えますが、実は主イエスが名前を呼んで連れ出してくださったのです。私たちもそのように連れ出された一人ひとりです。

そんな私たちが主イエスからそれないで歩くためにたいせつなことがあります。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(4)です。主イエスの声を知っていて、主イエスの声を聞き分けること。そのためには、聖書を通し、説教を通して、神さまの声を聴くこと。神さまの声のトーンを身につけることです。そうすれば、いつもの神さまとはちがう声にだまされることはありません。特にだまされてはならないのは、いたずらに厳しく自分を責める声です。それは神さまの声ではありません。そして羊は群れで生きる存在であることも覚えておきましょう。私たちは仲間と共に、たがいに神さまの声を思い出させあって、助け合いながら主イエスについていくのです。



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2023/03/12

礼拝メッセージ「見よ、と言う神」ヨハネの福音書9章35-41節 大頭眞一牧師 2023/03/12


明野・信愛それぞれで仲間が召されました。彼らも主イエスによって目が見えるようにされた人びと。彼らが開いた目で見たお方について、今日も聴きます。

【見つけ出すイエス】

主イエスはだれかをめぐる二つの意見。第一は、安息日遵守(じゅんしゅ)を破る主イエスは神から来たのではないとするパリサイ人たち。第二は、主イエスこそ神からのお方であると言う目が癒された人。この対立によって、癒された人は外に追い出されました。会堂の外へ、つまりユダヤ人の共同体から追い出され、村八分にされてしまったのです。

けれども「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。」(35a)とあります。ここでも主語は神さまです。神である主イエスが、村八分にされて途方にくれるこの人を捜し出してくださったのです。主イエスは私たちも見つけ出してくださいます。私たちがどこにも身の置き場がないように感じるときも、いえ、もう自分自身に信仰があるのかないのかわからなくなってしまうときも、主イエスが私たちを捜し出し、見つけ出してくださいます。その動機はもちろん愛。主イエスは私たちを決して、手放すことをされないのです。

【会ってくださる主イエス】

主イエスがこの人を見つけたとき、この人は主イエスが分かりませんでした。最初に主イエスに会ったとき、主イエスはまだ目が見えないこの人の目に泥を塗りました。その泥をシロアムの池で洗ってはじめて、この人の目は見えるようになりました。

ですからこの人は、見えるようになった目で、まだ主イエスを見ていませんでした。このままだったら、この人は一生、「自分の目に泥を塗って目を直した恩人がいる。だれかわからないけれど」と思いながら生きたことでしょう。

けれども主イエスはそれでは満足なさいません。主イエスはこの人を愛し、この人と交わり、この人と共に生きたいと願われました。だからご自分からこの人を見つけ出しました。主イエスの願いは私たちに対しても同じです。私たちがただ主イエスをなんとなく主イエスを信じているというだけではご満足なさいません。私たちを愛し、私たちと交わり、私たちと共に生きたいと願っておられるのです。

こう言うと、私たちは「ではそのために何をしなければなりませんか?お祈りですか?聖書を読むことですか?」と訊きたくなります。でも私は申し上げたいのです。礼拝は「家に帰ってから、もっと祈りなさい。もっと聖書を読みなさい」と毎回責められる時間ではありません。前にも申し上げました。神は人の手で作った建物には住みません。私たちが献げた時間という宮に住みます。礼拝がそうです。今、この瞬間、この礼拝の中で、主イエスは私たちを見つけ出してくださっています。この「今」に集中してください。この「今」を喜んでください。たとえ先週、聖書や祈りを怠ったとしもかまいません。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださいましたから。たとえ今週、聖書や祈りを怠ることになったとしても心配しないでください。今、主イエスがあなたを見つけ出してくださっているのですから。

【願いを与える主イエス】

主イエスはこの人を見つけ出すと「あなたは人の子を信じますか。」(35b)と言われました。この人は生まれて初めて目が見えるようになった。さまざまな情報が洪水のように飛び込んできたでしょう。そんなあわただしい中です。自分の目を見えるようにしてくださったのはだれか、この問いはそのままになっていました。ほんとうはこの問いこそすべてに先立つ問いです。神から来たお方に会い、その方とともに歩む。「人の子」とは、まさにそのような救い主を指す言葉です。私たちも、日常の生活の中で主イエスをふとなおざりにしてしまうこともあるでしょう。この人は私たち自身のことでもあります。主イエスはこの人に、そして私たちに「あなたは人の子を信じますか。」と語りかけます。そして私たちに救い主主イエスに会いたい、共に歩きたいという願いを与えるのです。

そこへ主イエスの声が響きました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37)と。主イエスは「わたしが救い主だ。わたしはあなたに会いたい、あなたと見つめ合いたいと願って、だからやって来たのだ」と。主イエスはときをご存じです。目が見えるようになった人が興奮の時期を過ぎ、会堂からも追い払われて、主イエスと見つめ合うことができる時期をとらえたのでしょう。そして、この人に主イエスを愛したいという願いをあたえてくださいました。さきほど、今、この礼拝を喜ぶようにと語りました。そう言われても、ほんとうにただ喜んでいていいのか、と思う方もおられるでしょう。それで成長することができるのか、と。だいじょうぶです。主イエスは私たちをご存じです。私たちの成長を、ほかの人と同じではなく、オーダーメイドで計画してくださっています。安心して喜んでいればいいのです。

【そしてすべての人を】

ここにはまた主イエスに言い逆らう人びとの姿もあります。「私たちも盲目なのですか。」(40)と言うパリサイ人たちです。主イエスの「しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(41)は一見、突き放した言葉のように聞こえます。けれども、私たちは知っています。主イエスはこの人びとも愛のまなざしで見つめておられることを。彼らをあわれんで深く痛んでおられることを。ひとりも滅びることがないようにと。このまなざしの中で、いま、聖餐に与ります。


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2023/03/05

礼拝メッセージ「神からの神」ヨハネの福音書9章13-34節 大頭眞一牧師 2023/03/05


受難節の二週目です。主イエスに見つめられている私たちが、主イエスを見つめる、そんな歩みを今週も続けてまいりましょう。

【イエスとはだれか】

主イエスは生まれつき目の見えなかった人をあわれまれました。だから立ちどまって、彼をじっと見つめ、そして、いやしました。ところが「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」(14)だったことから、主イエスについて二つの異なる意見が出てきました。

第一の意見は「十誡には、安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてある。それなのに安息日に人をいやした主イエスは、神さまの命令に逆らう者である」だから「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」(16a)というものです。

第二の意見は、このいやされた人の意見。彼は「あの方は預言者です」(17c)と考えたのでした。「預言者」とは、神のみことばを授けられ、それを人びとに伝えるために神によって遣わされた人。つまり神のもとから来た人です。このいやされた人は、「イエスは神のもとから来たお方だ」と語ったのでした。

【神の心、神の体温】

第一の意見は、パッと見にはまともなように思えます。たしかに聖書には「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と書いてあるからです。けれども私たちはウナギが大好きでしょう。先週出たばかりの私の説教集『神さまの宝もの』の帯にはこうあります。「禁忌があるのは人を縛るためじゃない。新しいいのちに向かって解き放つため。フクロウは食べないけれど、ウナ丼は大好き。イワダヌキに縁はないが、豚肩ロースは食べちゃだめですか?ツッコミどころ満載の食物規定の箇所を、現代の聖書料理人を自認するパスター・オオズ、さぁ、どう料理する!?」と。これは出版社がつけた帯ですが、ウナギを食べないことが大事なことではないのです。そうではなくて、律法は私たちをいのちに向かって解き放つためにある、そこに神さまの心がある。そのことが大切なのです。自分の本ばかりで恐縮ですが、『聖化の再発見』には、「律法は代表例」だとあります。律法の一つ一つをどれだけ厳密に守るか、が重要なのではありません。私たちが神さまの心を知って、その心を生きているか、がたいせつなのです。

安息日のいやしは、表面的には律法を破っているように見えても、実際は神さまの心そのものです。まさに主イエスは神さまから遣わされ、神さまの心を生きたお方なのです。

【神からの神】

私は神学校で教会史を教えています。年間14回の授業を行いますが、その始めの3回はニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)の成立に力を入れて語ります。なぜならこの信条にキリスト教の核心があるからです。いつの時代もキリスト教の異端は「イエスはだれか」をめぐって起こります。「イエスだれか」をそれ以上ない明確さをもって表現したのがこの信条なのです。全文を掲げます。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条

わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みますアーメン

「主は神よりの神」とあります。主イエスは神なのです。この目をいやされた人は主イエスを「預言者」だと言いました。神から遣わされたお方だと。けれどもこれを突き詰めて、「主イエスは神だ」と宣言したのがこの信条。だからとても大切にされているのです。多くの教会が礼拝の中でこの信条を告白する理由はそこにあります

【十字架に架けられた神】

「主イエスとはだれか」という問いの答は、「主イエスは神」。そう告白するとき、私たちは、もうひとつのとんでもない告白を迫られることになります。すなわち「十字架に架けられたのはだれか」という問いに対して「十字架に架けられたのは神である主イエスだ」と答えることになるからです。これは、私たちから一切の言葉を奪うような事実です。私のために、私をいのちに解き放つために、神が十字架に架けられた、と言うのですから。

この大きすぎる神さまの心を、私たちは無理に説明する必要はありません。言葉もなく、差し出されているいのちを受け取るだけでよいのです。それが神さまの心だからです。いま、言葉もなく、聖餐に与ります。主イエスの流された血、砕かれたお体に。


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2023/02/26

礼拝メッセージ「わざを現す神」ヨハネの福音書9章1-12節 大頭眞一牧師 2023/02/26


受難節(レント)に入りました。イースターに向かう6週間、主イエスを仰ぎながら歩んでまいりましょう。

【見つめるイエス】

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」(1)のご覧になる」は「見つめられた」ということば。主イエスは、立ち止まってこの人を見つめたのです。そのまなざしは、もちろん愛のまなざし。愛ゆえに主イエスは立ち止まり、愛のまなざしを向けました。その愛のまなざしにつられるように、弟子たちのまなざしも目の見えない人に向かいます。そして「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」との問いが生まれました。

【罪の結果?】

ですから弟子たちの問いは意地悪なものではなかったでしょう。当時の人びとは、病気や生まれつきの障がいは罪を犯したことによっておこると考えていたのです。実は私たちも、病や苦難を経験するときに、「これは罪を犯したからではないか」という心の動きを感じることがあります。カルトなどはそんな思いを利用して、人びとを支配しようとします。先祖の罪を清めることを教える旧統一教会などは、その最たるものです。

【神のわざが現れるため】

けれどもそこに主イエスの福音が響きます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」(3b)。主イエスは、だれかが罪を犯したために病になる、という考えを否定します。病だけではありません。東日本大震災のときにも、「これは罪のせいだ」と主張した、一部のクリスチャンがいました。それを聞かされた人びとは、傷口にさらに塩を塗り込まれるような痛みを感じました。しかし主イエスは、「そんなことを言ってはならない」と、毅然としておっしゃいます。そこには悪の力に対する憤りが感じられるようです。悪の力は迷信を利用して、私たちの間に差別と分断をもたらします。たがいに愛し合い、助け合うために造られた私たちであるにもかかわらず。

「なぜこうなったのだろう。自分が罪を犯したせいふぁろうか。あの人が罪を犯したせいだろうか」としゃがみ込む私たち。そんな私たちに主イエスの明るい声が届きます。「この人に神のわざが現れるためです。」(3c)。主イエスは、際限なく過去をさまよう私たちの思いを「今」にひきもどします。そして「今を、生きよ!」と招かれるのです。

【すると、見えるようになり】

神のわざとはいわしのわざ。主イエスはこの目の見えない人をいやしてくださいました。「シロアムの池で洗うように」というのにも意味があります。「シロアム(訳すと、遣わされた者)」(7)とあります。主イエスはこの池へ行かせることによって、いやしのわざを行ったのが神から遣わされたご自身であることを語っておられるのです。そしていやされた者もまた神から遣わされて、世界の破れをつくろうために遣わされて行くことも。いやしと申しました。でも、私たちのすべての病がたちどころにいやされるわけではないことも知っておく必要があるでしょう。なぜある人がいやされ、ある人はいやされないのか。私たちはそれを祈りの多寡で説明しようとしたりしますが、大切なことは、神さまは私たちだけではなく、世界の破れのすべてをいやそうとされていることです。そのためには私たちの病や障がいをも用いることができる。神のわざを現すことができるのです。

【昼のうちに】

そんな私たちと世界のいやしのためには、主イエスは重い言葉を語りました。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。」(4)です。夜とは主イエスの十字架のとき。すべてのいやしは人となられた神である主イエスの十字架にかかっています。その十字架へ向かって歩む主イエスは、「わたしはあなたがたをいやす。そしてそんなあなたがたを遣わして世界の破れをいやす」と覚悟をもっておっしゃいます。ご自分のいのちを注ぎつくす覚悟です。そんな主イエスの愛のまなざしは、受難節を歩む私たちの上に、かたときも離れることなく注がれています。主イエスに見つめられているおたがいであることを祝い合いましょう。そして、励まし合いながら、主イエスと共なる歩みを運んでまいりましょう。前へ。


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2023/02/19

礼拝メッセージ「証しをする神」ヨハネの福音書8章48-59節 大頭眞一牧師 2023/02/19


ヨハネの福音書は主イエスがご自分を証したことをたくさん記しています。ここまでも主イエスはご自分が「いのちのパン」「世の光」「いのちの水の源」だと証しされてきました。ところがそれを聞いたパリサイ派のユダヤ人たちは主イエスに反発し続けます。そうであればあるほど増し加わる主イエスの愛。その愛のことばを今日も聴きます。

【決して死を見ることがない】

主イエスの愛のことばの極みは「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51)です。「まことに、まことに、」は主イエスが大切なことを語るときに用いることば。「あなたがたがいのちに生きるために、わたしは来た。わたしのことばで生きよ。わたしがあなたがたを生かす。死を超えてその向こう側まで」と招かれたのです。

【主イエスとはだれか】

ところがこのことばがユダヤ人たちを激怒させました。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48c)とあります。ここでサマリア人というのは悪口。異邦人はもともと神の民でないけれど、その異邦人よりももっとたちの悪い人びと、神のもとから離れ去って行ってしまった人びと、という悪口です。

ユダヤ人たちをこれほど怒ったのは「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51b)が、これ以上ない傲慢(ごうまん)なことばに聞こえたからでした。神の子である主イエス、子なる神である主イエスがいのちを差し出しているのに、彼らは受け取ろうとしません。そして反論を続けるのです。

「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」(53)がその反論です。彼らにとってアブラハムは最も偉大な人間です。アブラハムはユダヤ民族の祖。アブラハムゆえにユダヤ人は神の民とされました。「そのアブラハムも死んだのに、いったいお前は何様のつもりなのか」と怒ったのでした。

【アブラハムの喜び】

彼らに対する主イエスの答は、この個所のクライマックスであると同時に聖書全体のクライマックスとも呼べるところ。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(56)とあります。へブル書の11章にこの個所の解説ともいえる箇所があります。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(11-13)がそれです。アブラハムは、自分の子孫が数えきれないほどになるという約束の成就を見てはいません。そういう意味では途上で世を去った旅人です。けれどもアブラハムは約束してくださった神を信頼しました。だから神さまが自分を通してなそうとしてくださっていることを喜ぶことができました。神さまが世界の回復のために、自分と自分の子孫を用いてくださることを。

そして神の子、子なる神である主イエスはユダヤ人としてこの世界に来てくださいました。アブラハムの子孫として。アブラハムには知るよしもなかった壮大な神さまの愛の計画です。この計画を知らないときも、神さまを喜んでいたアブラハム。ましてやアブラハムがこれを知ったなら、どれほど感激したでしょうか。死んだも同然であった自分と不妊のサラから、こともあろうに子なる神が生まれるのですから。胸が破れるばかりに驚き喜ぶはずです。

けれども同時にアブラハムの胸は、痛みによっても破れんばかりにちがいありません。その子なる神が、十字架に架けられ、父との断絶を味わうのですから。それはアブラハムが、そしてすべての人が、もちろん私たちもが「いつまでも決して死を見ることが」ないためでした。そんないのちが、おたがいの中にもう始まっています。力の限り愛を注ぎ合ういのちです。


          (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/02/17

2023年4月より開始される「一年12回で聖書を読む会」の参加者募集中です!

 (クリックするとさらに大きく表示されます)


2023年4月~翌3月までの1年間、毎月第3土曜日10:30-12:00 に開催します。

「京都信愛教会での対面」でも「Zoomでの参加」でも構いません。一部の回のみの出席でももちろん構いません。参加費は無料です。

「聖書は何を語っているか」をテキストを通して、より分かりやすく聖書をともに読んでいきます。

問い合わせは電話でも、メールでも構いません(上のチラシを参照ください)。

2023/02/12

礼拝メッセージ「真理を語る神」ヨハネの福音書8章39-47節 大頭眞一牧師 2023/02/12


今日の箇所は、8章12節から59節まで続く主イエスとユダヤ人たちとの対話の一部です。実は7章にも9章にもそんな対話が記されています。しかしそれが「対話」であったかどうかは怪しいところがあります。ユダヤ人たちはとても頑なだからです。「対話」というよりは、主イエスが招いては跳ね返されるのです。神であるイエスが。けれどもそれでも招き続けるのが、まさに愛なる神の、神さまらしさです。

【主イエスの父】

この個所では「父」が問題となります。ユダヤ人たちは「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。」(41c)と言います。これは主イエスに対するあてこすり。主イエスの母マリアは聖霊によってみごもりましたから、マリアの夫ヨセフと主イエスには血のつながりはありません。そこからイエスはマリアの姦淫によって生まれたのだ、という悪意あるうわさが流れていたようなのです。

けれども主イエスはもちろん神の子、子なる神です。先週の38a節にも「わたしは父のもとで見たことを話しています。」とありました。主イエスは神。父なる神のもとから来た子なる神。私たちにいのちを満たすために、私たちのいのちをあふれさせて世界を回復させるために、人となった神なのです。

【ユダヤ人たちの父】

ところがユダヤ人たちも「私たちにはひとりの父、神がいます。」(41d)と言います。「私たちの父はアブラハムです。」(39b)とも。確かにユダヤ人は神の子として、神に選ばれた民です。神は、破れてしまった世界(神との関係が破れ、人との関係が破れ、被造物との関係が破れた世界)を回復するためにアブラハムを選び、アブラハムからユダヤ人を起されました。神とともに働くために。

ところが彼らはアブラハムのようではありません。神の子なら神の心を知り、神とともに働きます。ところが主イエスが「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。」(40)とおっしゃったとおり、彼らは神の心を知りません。主イエスが神から来られた子なる神であることを知らず、知らないから受け入れようとせず、かえって主イエスを殺そうとします。神の心の実現をさまたげているのです。

【悪魔が父?】

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」(44a)は注意が必要な個所。かつてここから「ユダヤ人は悪魔の子」と考える誤りを、かつての教会はおかしました。ナチスもホロコーストの根拠として利用したようです。

けれども、もちろん主イエスはそんな意味でおっしゃったのではありません。「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。」(44b)、「なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44e)とあります。悪魔とは悪の力です。私たちを支配して真理である主イエスから遠ざける力。いのちである主イエスから私たちを遠ざけて、罪の中で死んだ状態にとどまらせる力なのです。

【いのちを選べ!】

けれども主イエスが「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(47)と言うとき、それは断罪の言葉ではありません。主イエスは選ばれた神の民であるユダヤ人を惜しみ、死ではなくいのちを選べと招いておられます。罪の中で死んだように生きるのではなく、神とともに世界の回復のために神の心を生きることへと。

そして何より忘れてはならないのは、十字架の上で悪魔はすでに打ち砕かれていることです。創世記に「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(3:15)とあります。悪の力が私たちを主イエスから引き離そうと、激しく働くように感じることもあります。けれども、私たちは神さまに抱きかかえられていることを忘れてはなりません。試練も誘惑もさまたげを感じるときも、私たちはそれを神さまの胸の中で感じているのです。そのために主イエスが十字架でご自身を与えてくださったからです。このことを心に刻むために、今、聖餐に与ります。


     ワーシップ(Bless) 「キリストにより(オリジナル曲)」




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2023/02/05

礼拝メッセージ「自由にする神」ヨハネの福音書8章31-38節 大頭眞一牧師 2023/02/05


主イエスは今日の箇所でも、パリサイ人たちを招き続けておられます。ご自分へ、いのちへと。

【わたしのことばにとどまるなら】

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(31b)。救いとは一瞬の回心の体験をいうのではありません。体験は人によってさまざまです。けれどもすべてのクリスチャンに共通しているのは、主イエスの弟子であること。主イエスについて行き、主イエスに養われ、主イエスを喜び、主イエスと共に喜び、主イエスに似せられていくことです。どうしたら主イエスの弟子でいることができるか。それはがんばって、奉仕をするとか、霊的な人になる、というのではありません。「わたしのことばにとどまるなら」とあります。主イエスがここまで語って来られたことば、私たちをいのちある者とすることば、「生きよ」ということば、を忘れるな。心とたましいに刻めとおっしゃるのです。

【真理はあなたがたを自由に】

先週の箇所に「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(24b)とありました。主イエスは私たちをいのちある者とするお方。このお方を受け入れないならば、その人は罪の奴隷で、罪の中に死にます。罪と死の支配のもとにとどまるのです。

けれども、主イエスの弟子は自由です。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」はまさに福音。真理とは主イエス。「生きよ」という主イエスのことばに、つまり主イエスにとどまるものは、罪から解き放たれて愛し合い、死から自由にされて永遠にその愛を生きるのです。もうすでに今から。

しかしユダヤ人たちは言います。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。」(31)。このユダヤ人たちは主イエスを信じた人たちであったことは不思議です。このことは信仰者が歩み続ける者であることを語っています。昨日よりも今日、今日よりも明日、ますます主イエスの「生きよ」のことばにとどまって、ますますいのちある者とさせられていきます。

【ほんとうに自由に】

「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。」(35)と主イエスはなおも語ります。神の子主イエス、子なる神イエスは永遠に父とひとつであって、父の心を実現します。父の心は、私たちを解き放つことを願っています。かつて、エジプトで奴隷であったイスラエルを解き放ったように。

また自分の作った歌で恐縮なのですが、出エジプト記の説教集を出したときに「栄光への脱出」というのを作りました。「つみの奴隷からおそれの奴隷から解き放つ私の神/イスラエルのうめきを腰をかがめて聴き取る神/そのままほうっておけないでモーセを引き出した」。

私たちもうめいています。罪の支配は巧妙で悪らつです。私たちの過去の古傷や痛みにつけこんで私たちを押さえつけます。「お前のようなものはだめだ。あんなことをしたではないか。言ったではないか」と言って顔を上げさせないのです。神を見上げさせないのです。また「あの人を見てみろ。お前にあんなことができるか。できないだろう。そんなお前をみんなも愛していない」と言って、私たちを仲間から切り離します。ほんとうに罪の力、罪の支配は憎むべきものです。

けれどもそんな罪の支配を打ち砕く主イエスのことばが響き渡ります。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(36)と。先週は有賀鉄太郎のことを語りました。神は私たちを「あらしめる神」「あるようにさせる神」。ご自分がそうあらせたいと思うように、私たちをさせる神。神の願いは私たちを自由にすることです。私たちが神と人を愛することを、なにものにも妨げさせないことです。いつも語るみことばですが、「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)と。この自由を私たちは愛するために用います。理性も感情も存在のすべてを傾けて。


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2023/01/30

礼拝メッセージ「『わたしはある』である神」ヨハネの福音書8章21-30節 大頭眞一牧師 2023/01/29


先週は新年聖会礼拝でガラテヤ書を語りしました。今日からはいつものようにヨハネを読んでいきます。前回までを振り返ります。イエスは仮庵の祭りにエルサレムに来られ、神殿の境内でパリサイ人たちとやりとりをされていました。「イエスの証しは真実でない。イエスは救い主ではない」と言い張る彼らに、主イエスはなおも語りかけます。それが、今日の箇所です。

【来ることができない場所】

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21bc)は、やがての主イエスの十字架と、復活、そして父なる神のみもとに帰ることを語っています。「あなたがたは父なる神のみもとに行くことができない!」この言葉は神の民であるユダヤ人たしにとって衝撃のはず。ところが彼らは「まさか自殺するつもりでは」と揶揄(やゆ:からかう)のです。

【天からのはしご】

そこにあるのは断絶です。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」(23bc)とあります。神であるイエスと人である私たちは全く異なります。属している世界がちがい、世界を見る目がちがい、神を見る目がちがい、人を見る目がちがいます。超えることができない断絶があるのです。だから主イエスはこの世界に来てくださいました。人となって。以前「天からのはしご」という本を書いたときに作った歌があります。「たとえどんなに祈っても/良いことにはげんでも/ぼくらは神さまに届くことができない/だから/天からのはしごを地にかけて/この世に来られた神さま♪」。絶望的な断絶を神さまが超えてくださいました。

それは私たちが神のいのちを得ることができずに、神に背を向けた罪を抱えたまま、死の支配のもとに縛り付けられることがないため。「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(24b)は断罪の言葉ではありません。招きです。主イエスが「わたしを信じ、わたしを受け入れて生きよ」とお招きくださっているのです。

【「わたしはある」?】

「わたしはある」というのはよくわからない言葉です。私もずっとよくわからなかったのですが、あるときストンと腑に落ちることがありました。

京都大学には国立大学には珍しく「キリスト教学研究室」があります。その第二代の教授が有賀鉄太郎とういうキリスト者です。この人は「わたしはある」を「わたしはあらしめる(あるようにさせる)」と訳しました。これはもともとは出エジプト3章14節でモーセに言われた言葉。この言葉は、ただ神があるとかないとか、そんなことを言っているのではない。神は「わたしはイスラエルをあらしめる。今イスラエルをあらしめ、作り出し、世界の回復のために用いる。わたしはそんなわざをする者だ。そんな愛のわざをする者だ」と語られたのでした。

神は「あらしめる」お方。今、主イエスはこの世界に来られ、「わたしはあなたがたにいのちを与える。あなたがたを生きる者としてあらしめる。あなたがたを世界の回復のために用いる。愛を注ぎ込まれ、注ぎ出すそんなあなたがたをあらしめる」とおっしゃったのでした。

【あなたがたは知る】

けれどもパリサイ人たちは「あなたはだれなのですか。」(25b)と繰り返すばかりです。永遠のいのちが目の前にあるのに、永遠のいのちであるお方が目の前におられるのに、手をのばすことをしないのです。できないのです。主イエスは「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。」と彼らを惜しみます。

そして、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(28b)と十字架によるあがないを宣言されました。あわれみに心を震わせながら。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(30)が、どれほどの数の人びとであったかはわかりません。けれどもあなたは間違いなくその一人なのです。


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2023/01/22

新年聖会礼拝メッセージ「御霊による歩み」ガラテヤ人への手紙5章13-26節 大頭眞一牧師 2023/01/22


今日は信愛明野合同の新年聖会の朝を迎えました。聖会というと、さぞ厳しいメッセージが語られるのでは、思われる方もいらっしゃるかもしれません。特にガラテヤ書の「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2:19b-20a)や「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(5:24)には、私もずいぶんと苦しみました。けれどもご安心ください。今日もいつものようにいつもの主イエスを語ります。

【ワン・シットで】

神学校で学んだことのひとつに新約聖書の手紙の読み方があります。たまには「ワン・シットで」、つまり、最初から最後まで一気に読むようにというのです。これにはうなりました。確かに手紙には、書かれたはっきりとした目的があるはずです。ひとつひとつの文章もその手紙の全体の目的にしたがって解釈されるべきだと、そう知ったのです。私もこの手紙をワン・シットで読んで要約してみました。

ガラテヤ地方の諸教会のみなさん私パウロと仲間たちは驚いています。ユダヤ人ではないあなたがたが割礼を受けようとしているという知らせを受けたからです。割礼が悪いというのではありません。ユダヤ人が神の民のしるしとして割礼をたいせつにすることは当然のことです。(そのユダヤ人としてキリストはお生まれになりました)。けれどもあなたがたは、ただキリストを受け入れることによって、神の民とされました。それ以上の何も必要ではありません。これだけは決して譲れません。今、割礼の有無によってあなたがたの間に隔たりが生まれてしまいました。そればかりかあなたがたは福音を見失ってしまった。「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(3:2)。言うまでもなくあなたがたはキリストを受け入れたから、聖霊を受けた。あなたがたはもうすでに聖霊によって歩んでいるのです。割礼とそれに類する律法は私たちが聖霊を受けるための養育係(助走路)のようなもの。もう私たちには必要ないのです。自由なのです。自由とされた私たちは、その自由を、愛するために用います。肉による生き方(自己中心で自己満足を目指す内側に折れ曲がった生き方)ではなく、聖霊による生き方(神を中心として他者を愛する注ぎ出す生き方)を生きるのです。あなたがたの教会で(パウロは具体的に特定していないが5章にさまざまに述べられているような)肉による生き方が問題を起こしています。どうか自分が御霊によって生きる御霊の人(6:1)であることを思い出してください。そしてたがいにただし合いながら御霊によって歩みを進めてください。

【御霊による歩み】

いかがでしょうか。私たちの中には割礼を受けようとする人いないでしょう。けれども、キリストを受け入れて神の子(3:26)とされただけでは不十分だと考えてしまうことがあるかもしれません。キリストは十分です。律法が教えるのは「神と共に歩く歩き方」。私たちは割礼によってではなく、豚を食べないことによってでもなく、御霊によって、神さまの体温を感じながら、神と共に歩いているのです。神と人とに自分を注ぎ出して愛しながら。絶えずこのことを思い出させ合いながら。

自分に向いた肉による生き方ではなく、注ぎ出す聖霊による生き方へ。最初に上げた二か所の聖書も肉による生き方の死では終わっていません。御霊による生き方の喜びへと続きます。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2:19b-20a)→「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(2:20)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(5:24)→「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(5:25)

聖霊による歩みはすでに与えられているいのちによる歩み。そして仲間と共に歩む歩みであることを心に刻んでいただきましょう。


   
ワーシップ:「神さまの宝もの(詞:大頭牧師、曲:奥野信二兄)」Bless



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2023/01/13

礼拝メッセージ「いのちの光である神」ヨハネの福音書8章12-20節 大頭眞一牧師 2023/01/15


先週は信愛で青年祝福の祈り、今週は明野で新成人と青年の祝福の祈りのときを持ちます。高度成長期には、明日は今日よりよくなるという空気があったように思います。それに比べて、今の青年たちはかわいそう、という声も聞かれます。加えてコロナがあり戦争があるこの時代の闇は深いようにも思えます。けれども、今日も主イエスの御声は響きます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12bc)と。

【いのちの光である神】

ご自分を「世の光」と語ったイエスにパリサイ人たちが異を唱えます。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13b)と。無理もありません。もし私たちの前に「自分は救い主だ」と名乗る人が現れたなら、どれだけ疑っても疑いすぎることはありません。

そんな彼らに主イエスは答えます。「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。」(14c)、また、「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」(18)とも。主イエスは父のみもとから来られました。そして十字架と復活を経て、父のみもとに帰っていかれます。主イエスはその意味をよくご存じでした。それは神の大きな物語のゴールのため。天地創造から、世界のあがない、そして、やがて成就するすべての回復という大きな物語のためです。世界には破れがあります。神と人の関係が破れ、人と人との関係が破れ、人と被造物の関係が破れています。その破れをつくろうために、神であるイエスがこの世にきてくださいました。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。」(15-16)は先週の箇所と呼応するところ。姦淫の女性を痛み、その罪と痛みを子である主イエスが負う。それが父と子のさばき。父なる神と子なる神は、心をひとつに「生きろ」と女性にいのちを注ぎました。今日の箇所でも「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12c)と同じ御声が響いています。

【いのちの光となる私たち】

みなさん、ウクライナの戦争には心を痛めておられることでしょう。私たちにはロシアとNATOの対立のように見えるのですが、少し調べてみると、問題は複雑です。ロシアとウクライナの長い痛々しい歴史が関係しています。コロナ禍への対応もまた複雑です。コロナをとどめることと経済との兼ね合いがとても難しい。現代の複雑な問題には、はっきりとしたわかりやすい正解がないことがほとんどです。そこで問われるのは私たちの生き方です。正解がないことにいら立ち、自分と反対の意見を持つ人々を悪と断じるなら、社会の分断は加速されていきます。一方で私たちが、思考停止しないで、意見の異なる人びとと共に、複雑な問題に取り組むことも可能です。先週、ある教会員の方からメールをいただきました。新年のご挨拶とともに「対話を深め共通の議論の土壌を耕す勇気と努力の向こうに、神様の導きが見えてくるのでは」と記されていました。私はこのメールを読んでほんとうにその通りだと思いました。単純ではない複雑な現実は、忍耐強い対話を必要とします。自分とは異なる意見を持つ相手と話し合い続けるには勇気と努力が必要です。その人たちは敵ではなく神さまに愛されている傷ついた人びと。だから私たちは、神さまに期待して対話の土壌を耕し続ける。すぐに道が開かれなくても、コツコツと対話の備えを続けていく、そうするときに闇は明けていくのだと思うのです。問題は、私たちのそんな努力をなにが、いえ、だれが、支えてくれるのか、です。

【いのちの光である神】

「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12c)とあります。私たちを支えるのはイエス。光である主イエスは招かれます。「わたしについて来なさい。わたしがあなたがたに光を注ぎ続ける。だから、あなたがたは決して闇に吞み込まれることはない。わたしがそうさせない。あなたがたは闇の中に光を照らし続ける。仲間と共に。そして夜明けを早めることができる」と。ただ今から聖餐に与ります。光であるお方が卓主である光の食卓にようこそ。


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2023/01/09

礼拝メッセージ「さばきを下さない神」ヨハネの福音書7章53-8章11節 大頭眞一牧師 2023/01/08


今日の説教題は「さばきを下さない神」。十年ほど前のことです。明野にはじめてやって来た近所の小学生が言いました。「ぼく知っとるで。イエスさま信じたら天国行くんやろ。信じなかったら地獄なんやろ」と。この少年にとって神さまは、地獄で脅かして信じさせようとする神、だったようです。この少年だけではないでしょう。多くの人が神はさばきの神だと思っています。けれども主イエスは「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11e)と語りました。今日もこの個所からか、神さまのおこころを聴きたいと思います。

【捕らえられた女】

姦淫の現場で捕らえられた女性。どういう状況であったのかは不明ですが、結婚生活に問題や痛みを抱えていたのでしょう。民を指導する立場の律法学者やパリサイ人たちは、ほんとうならこの女性に寄り添い、彼女の問題の解決を助けるべきだと思います。けれども、彼らはこの女性を、イエスを告発するための道具としてしか見ていません。痛みがないのです。告発するというのは、(1)もしイエスがこの女性を赦せと言ったら、律法に違反することを教えたとして、ユダヤの最高法院に告発する(2)もしイエスがこの女性を石で打ち殺せと言ったら、ローマ帝国の許可なしに死刑を命じたとして、ローマに訴える、という手の込んだ謀略でした。

【第七誡】

そもそも「姦淫してはならない」という第七誡は、姦淫すると石打ちにされる、それが怖いから姦淫しない、そんなことのためではありません。私の説教集「選べ、いのちを」では、第七誡の説教題を「結婚をたいせつに生きる」としました。なぜなら結婚とは二人の人が、神さまの胸の中で、たがいに向かい合い、見つめ合い、愛し合うこと。姦淫とは、向かい合うことをやめること。神さまが与えてくださったかけがえのないパートナーから目をそらして、ほかの人を慕うこと。そうすることによって。パートナーとの関係に大きな痛みをもたらし、自分自身の人生にも痛みをもたらし、そして何より神さまにだれよりも大きな痛みを与えてしまうのです。ですから、神さまが「姦淫してはならない」と言うとき、そのお心は結婚したカップルだけに向けられているのではありません。これから結婚する人も、結婚しない人も、すべての人に、「わたし(神さま)があなたに与えている人びとと向かい合って生きなさい。自分の好きなように、モノのように、it(イット)のように扱うことがないように」と願っておられるのです。

ユダヤ人哲学者のブーバーという人が書いた「汝と我」という本があります。二種類の関係がある。ひとつは、「汝(you)と我」、たがいに向き合う人格と人格との関係です。もうひとつは「それ(it)と我」、これは相手を自分の欲望を満たすためのモノと見てしまう関係。かけがえのないパートナーを取り換えのきくモノ(it)とみなすとき、神さまを自分の願いをかなえてくれるモノ(it)とみなすとき、私たちの生涯は痛みに満ちたものとなってしまうのです。

【うつむく主イエス】

律法学者やパリサイ人たちとちがって主イエスは心を痛めておられました。この女性の破れてしまった結婚のために、群衆の前に引き出された恥と恐怖のために、主イエスは痛んでおられました。そして主イエスは、彼女を責める律法学者とパリサイ人のためにも痛んでおられました。ほんとうだったら、この女性を痛み、この女性と共に嘆くべき彼らが、この女性をさげすみ、主イエスを告発するために利用しているのです。主イエスが指で地面に何を書いておられたかはわかりません。しかしそのお姿は、イエスが味わっておられた痛みを雄弁に語っています。そしてそれは父なる神の痛みと同じひとつの痛みでした。

【身を起して】

やがて女性と二人になったときに、主イエスは身を起して、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11e)と言われました。女性への赦しの宣言です。この赦しは来るべき十字架によって成し遂げられます。主イエスの赦しはご自分を与える覚悟の宣言でした。さらに「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11f,g)が続きます。死を覚悟した女性に主イエスは「生きろ」と語りました。「新しいいのちの中を、まわりの人びとと向かい合い、大切にし合って」と。同じ言葉が今も、私たちに響いています。


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