2023/12/31

礼拝メッセージ「杯を飲む神」ヨハネの福音書18章1-11節 大頭眞一牧師 2023/12/31


今年、最後の主日を迎えました。痛みと喜びとさまざまな思いのうちに今日を迎えたおたがいです。ただひとつ、それらのすべてを貫いて、主イエスの愛が注がれていたことを思いつつ、み声に耳を傾けましょう。

【闇の力のもとに】

マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。共通の視点から書かれているからです。それに対してヨハネは独特です。この個所でも、「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」(3)に「明かりとたいまつ」と記しているのはヨハネだけです。夜ですから明かりは当たり前です。けれども、ヨハネはこのことによって、世界を覆っている闇の深さを際立たせようとしています。光として世に来られたイエス、そのイエスを闇の力が覆いつくそうとしています。ユダの裏切り、祭司長や律法学者たちの妬み、それらを通して働く悪の力は強大です。私たちもしばしば恐れ、しゃがみ込んでしまいます。

【進み出るイエス】

しかし主イエスは、闇の力に圧倒されることはありません。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた。」(4)と自ら進んで行かれました。ですから主イエスは逮捕されたというよりは、ご自分を進んで、闇の力にゆだねられたのでした。闇の力に飲まれることによって、闇の力を飲みこむために。ご自分のいのちによって、悪の力を滅ぼすために。私たちを闇の力から解放し、いのちを与えるために。

【わたしである】

「イエスが彼らに『わたしがそれだ』と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。」(6)の『わたしがそれだ』は『わたしである』と訳したほうがよいでしょう。モーセが神さまに名前を訊ねたとき、神さまが「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エ3:14)と答えたことに由来します。モーセは、そしてイスラエルの人びとは、神の名を知ろうとしました。神を理解し、分かってしまいたい、自分の心の中にうまく収めてしまいたい、という願いの現れです。そうすれば、神さまに対してハラハラしなくてすむからです。こうやっとけば、だいじょうぶと安心できるからです。

けれども神さまは私たちの心に収められることを拒否します。世界の主人公は神さまだからです。出エジプトのように、私たちを立ち上がらせ、神さまと共に旅立たせます。私たちの想像を超えた祝福に向かって。神さまは私たちが理解できようができまいが「ある」お方です。私たちの想像を超えた喜びと祝福と共に「ある」お方なのです。

【地に倒れた六百人】

ユダが連れて来た「一隊の兵士」は、ローマ兵、通常六百人ほどで、千人隊長に率いられています。イエスが彼らに「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れました。この「地に倒れる」という言葉は、クリスマスの東方の三博士がお生まれになったイエスの前に「ひれ伏した」のと同じ言葉。闇の力はイエスの前にひれ伏したのです。主イエスは神。その権威は圧倒的です。

けれども「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。」(10a)とあります。ペテロは勇敢だったのではなく、恐れのあまりわけがわからなくなって、剣を振り回したのでした。私たちも危機の中で、恐れて、自分を守ろうとして、たがいに傷つけ合います。個人のレベルでも、国家のレベルでも。

けれども、そこに主イエスのみ声が響きます。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(11c)と。「闇の力も、あなたの恐れも、今、わたしが飲み干そう、だから恐れるな。闇は十字架の上で、わたしが滅ぼす。あなたがたは、光の中を歩め。神とともに、あなたの想像をはるかに超えて『ある』神と共に。そして、この世界に、もう闇が敗れたことを、みな顔を上げて光の中を歩むことができることを告げ知らせなさい」と。



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2023/12/26

クリスマス礼拝メッセージ「一つにする神」ヨハネの福音書17章20-26節 大頭眞一牧師 2023/12/24


クリスマスおめでとうございます。今から2千年と少し前に、神が人となってこの世界に来られました。とても信じられないことです。さらに信じられないことに、この神は十字架に架けられて殺されました。死んで三日後に復活したのは、はるかに私たちの理解を超えています。けれども、私たちが信じようが信じまいが、私たちが理解できようが、理解できまいが、これらのことは事実だと、教会は語り継いできました。私たちはこれらを、信じようとする意志によってでもなく、理解しようとする頭脳によってでもなく、それよりはるかに大きく、不思議な、心とたましいで受け入れるのです。

【十字架の前に】

今日の箇所は最後の晩餐の後の、主イエスの祈りの最後の部分。十字架を前に「わたし(イエス)は、ただこの人々(弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(教会、つまり私たち)のためにも、お願いします。」と。主イエスの最大の関心は、私たち。地上のご生涯の最後のときまで、主イエスは私たちを思い、私たちのために祈り、私のために、あなたのために十字架に架けられたのでした。

【一つにする神】

主イエスが私たちのために祈ったのは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」(21abc)でした。二つのことが言われています。第一は、私たち、教会の仲間が一つに結ばれること。第二は、私たち、教会の仲間が三位一体の神のうちにいること。今年、しばしばみなさんにお見せした図をもう一度。父と子と聖霊の三位一体の神が愛のダンスを踊っています。救いとは何か。それは、このダンスに招き入れられ、神とともに踊り始めることです。

悲しみ、困難、痛みのなかで、踊ることができずにしゃがみ込んでいた私たちを、神さまは立ち上がらせ、「さあ、踊ろう」と招いてくださいました。だから私たちの一致は、ただの仲良しではありません。気が合う者どうしのつきあいとはちがいます。三位一体の神の、永遠の愛の関係が、私たちの愛の一致の源であり、動力なのです。ですから、私たちがたがいに「一致しましょう」と語るなら、それは不十分な表現です。私たちは、もうすでに一致しているのです。神の愛の中で。

【一つになれない私たち】

けれども、現実を見るならば、私たちがいつも一つとは言えないことも事実です。そんな経験をするときに、私たちは「聖書なんかきれいごとだ、人間なんだから、うまくいかないことがあって、当たり前だ」と思ってしまうことがあると思います。しかし、三位一体の神に似せて造られた私たちです。そして私たちの一致は、子なる神イエス・キリストの十字架によるものであることを、軽く考えてはならないと思います。キリストの十字架は事実です。キリストが私たちをひとつにしてくださったことも。

ただ、私たちが味わってきたいろいろな痛みや傷のゆえに、まだ凍りついている部分があります。愛せない人がいたり、赦せないことがあったり、自分を守ろうとして愛に欠けた言葉や思いや行動が出てしまうことも。それでもキリストが与えてくださったいのちは、私たちの凍りついた愛を解かし続けています。日々、私たちの愛は回復し続けているのです。

【そして世界へ】

今日は明野キリスト教会でバプテスマが授けられます。受洗なさる方が数えてくださっていたのですが、129回の求道者会がもたれました。いろいろ話したようでも、結局は「ただ神さまが私たちをあわれんでくださった、一方的に恵んでくださった、それだけですね」と語り合ったことでした。ただあわれみゆえに、私たちを放っておくことができなくて、神が人となってこの世界へ。そして十字架へ。

それはバプテスマを受けた後も、何もかわりません。クリスチャンになったから、何かをしなければ、とか、立派であらねば、と思わないでください。今までどおり、ただ神さまの胸の中で、神さまに暖められて、凍りついた愛が解かされるままに、あふれ出るままに。置かれた場所で、神を喜び、周りの人びととともに喜ぶこと。そんな私たちを通して世界は回復していきます。クリスマスおめでとうございます。バプテスマおめでとうございます。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/12/18

第3アドベント礼拝メッセージ「マリアに宿る神の子」ルカの福音書1章26-38節 村島健一郎神学生 2023/12/17


【苦しみのイスラエル・苦しみのマリア】

ガリラヤのナザレという町に住むマリアという女性に天使マリアに告げます。「あなたは身ごもって、男の子を生む。そして、その男の子の名前はイエスと名付けられる。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれる。その子はダビデ王家の王位を継ぐ、聖なる子、神の子である」マリアも天使の言っていることが何のことかは分からなかったでしょう。マリアの関心もどんな子供かよりも、子供を宿すということに向いています。それは大スキャンダルだからです。当時のユダヤ社会で、正式には結婚していない若い女性が妊娠するなどということはあってはなりません。これはマリアには何とも酷すぎる出来事です。そして、経済的にもローマとエルサレムから搾取をされていたと言われています。マリアの生活、マリアの人生は宗教的にも、経済的にも厳しいものでした。

そこに自分の妊娠が知らされます。これ以上の試練があるでしょうか。現代の視点からは、神様はマリアにあまりにも厳しすぎるという人たちもいます。マリアは、まるで当時のイスラエルがかかえるすべての苦悩を象徴するかのようです。

【神の物語の始まり】

神様はイスラエルの苦しみ、嘆きに目を留めておられました。そのようなイスラエルの中で、神はご自身の最終的な愛の物語を始められました。マリアの苦しみ、困惑もご存知でした。神様自身も苦しむマリアと共に苦しんでおられます。「マリア、すまない。でも、こうして子なる神を送らなければ、誰も救い主を信じることはできないのだ。こうしなければ、イスラエルを悪と罪と偶像礼拝という捕囚の世界から救い出すことはできないのだ」と言っておられるようです。これこそ神の最終的な被造物の救いの始まりです。これがまさに新しい出エジプトです。

イスラエルの苦しみに、神様は耳を傾け、モーセを送り、イスラエルをエジプトから脱出させました。今は、マリアを通して、イスラエルを苦しみから解き放とうとされます。これが、イスラエルの救いと解放と回復の始まりです。残念ながら、当時のユダヤ人やイエス様の弟子たちも平和はローマ帝国を滅ぼすことで得られると信じていました。

しかし、神様が私たちを救うというのは、神様の愛が民族的、社会的、性別的、経済的な境界を越えて到達し、隔ての壁を打ち壊すことです。そして、この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすことです。苦しみと悲しみが永遠に続くと思えるような状況の中で、イスラエルの人々はメシアを待ち望んでいた。マリアもその期待を感じていたでしょう。そのイスラエルの声に応えて神様は神の子、救い主、イエス様をお送りくださいました。同時に、神様もマリアを信じ、マリアに期待して、マリアと共に苦悩しながら、マリアに神の子を宿らせました。そして、マリアの応答が神の愛の物語、苦しみからの解放の物語の始まりとなります。

【神の平和】

この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすために、イエス様は世界にいらっしゃいました。世界の回復と和解、聖書はこれを平和、シャロームと呼びます。

神の子が赤ちゃんとしてマリアのお腹に宿る。象徴的です。母親のおなかは赤ちゃんが生まれるまで憩う場所です。私たちは神様を信じて、神様に平安や平和を求めます。しかし、聖書は神様も憩う場所を求めておられると言います。「わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか」(イザヤ66:1)。

神様は今も憩う場所を求めておられます。ルカの福音書では、神様の憩う場所はマリアでした。しかしマリアだけはありません。収税人、罪人、病人、女性のような当時のイスラエルでは疎外されていた人々に、神様は憩いの場所を求めました。神様は私たちを憩う所にしたいと願っていらっしゃいます。創世記の1章に書かれているような、神と神に作られたすべてのものが一緒にいて、平和と憩いに満ち溢れた世界を祝福したいと願っていらっしゃいます。神の愛の物語、世界を苦しみからの解放する物語は、マリアの応答から始まりました。世の中はまだ憩うような所ではありません。苦しみや悲しみが続きます。今神様は私たちのうちに憩う場所を見つけてくださいました。教会も私たちが神様と共に憩う場所でありたいと思います。


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2023/12/11

礼拝メッセージ「とりなす神」ヨハネの福音書17章6-19節 大頭眞一牧師 2023/12/10


待降節第二主日、明野ではろうそくが、信愛ではLEDろうそくが2本ともりました。今年はさまざまな喜びとともに、痛みも覚えた年でした。しかしこのろうそくの灯りは、たとえ暗い夜であっても、そこに主イエスがおられることを証言しています。ますます明るさを増す灯りの中で、今日も御声を聴きます。

【とりなす神】

最後の晩餐での主イエスの祈りの二回目。弟子たちのために主イエスは祈ってくださいました。とりなしてくださいました。しかし「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」(6)、「あなたがわたしに下さった人たち」(9)とありますから、この祈りは、ペテロたちだけではなく、こうして集っている私たちのための祈りでもあります。私たちのために、私のために、あなたのために、主イエスがとりなしてくださったのです。

けれども、父と子は三位一体の神。わざわざ祈らなくても、その願いは一つで、同じであるはずです。でも、私には祈るイエスと耳を傾けるかたむける父の姿が、すぐそこに迫った十字架の悲痛に備えて、歯をくいしばって耐えようとしておられるように思えてなりません。私たちの救いという、父と子の同じ一つの望みをかみしめ、そのための十字架だと言い聞かせ合いながら。

【父と子の願い】

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(15)。これが父と子の同じ一つの望みです。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」(14b)ともあります。私たちが天国に行くように、というのではありません。私たちが、この世にあって、それぞれが置かれた場所にあって、この世のものではない生き方をすること。損なわれ、破れてしまっているこの世界の回復のために生きること。世界の破れや歪みに呑み込まれないで、世の光・地の塩として、破れを繕って生きること。それが主イエスの、そして、父の望みであり、そのための十字架でした。

【赦しと和解】

「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(12)。滅びの子とは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。ユダ以外は滅びない。私たちは滅びない、だれも滅びない、そう主イエスは宣言なさいます。すでに私たちは赦されているのです。

けれども、神は、判決をくだした後は、被告人とかかわりを持たない裁判官のようではありません。赦しの後に、ほんとうの神と私たちの関係が始まります。ユダのことを思い、もし私が主イエスを裏切ったら滅びるのだろうか、と恐れないでください。たとえ私たちが不信仰になろうとも、いえ、そうなったときこそ、主イエスは私たちを守り、保ってくださるのです。そして単なる赦しではなく、私たちと和解して、私たちを神の家族として、いっしょに生きてくださいます。暮らしてくださいます。もうすでに。

「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(11c)とあります。教会に実現している和解は、三位一体に源を持ち、三位一体に似た愛の一致です。神との和解とともに人との和解もまた、すでに十字架の上でなしとげられているのです。主イエスは私たちを守り、保って、その和解を日々解き放ってくださいます。凍りついていた愛を解凍してくださっています。

【主イエスの喜び】

これらすべてのことを主イエスは喜んでしてくださいました。「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。」(13)。十字架に架かろうとしている主イエスのうちには、それでも喜びがあふれていました。私たちのいのちある生き方を思って。満ちあふれる喜び! そんな喜びを私たちにあふれさせるためなら、何も惜しいと思わずに、クリスマスに人となられた主イエスを思い、今、ごいっしょに聖餐にあずかります。


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2023/12/04

礼拝メッセージ「唯一のまことの神」ヨハネの福音書17章1-5節 大頭眞一牧師 2023/12/03


今年もクリスマスに向かう待降節を迎えました。教会暦、教会の暦では、今日から新しい年度が始まります。私たちの歩みは主イエスを待望することから始まるのです。今日もイエスを呼びましょう。

【ご自身のための祈り?】

最後の晩餐で主イエスが語られた言葉は16章で終わりました。17章は主イエスの祈り。5節まではご自身のための祈り、19節までは弟子たちのための祈り、20節から終わりまでが教会のための祈り。今日は、ご自身のための祈りから、主イエスのお心を聴きます。

ここで主イエスが祈っておられるのは、「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(1)です。けれども、その栄光はご自身があがめられることでもなければ、高い位につくことでもありません。そうではない不思議な栄光。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とあります。主イエスが地上で成し遂げたのは、「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与える」(2)こと。すなわち、私たちのために人となり、私たちのために十字架に架けられ、私たちのために復活して、私たちに永遠のいのちを与えることが主イエスの栄光です。

結局のところ、主イエスのご自身のための祈りは、私たちのための祈りでした。主イエスのいちばんの望みは、私たちが永遠のいのちを生きること。それが主イエスの栄光。クリスマスから十字架と復活にいたるまで、主イエスの関心はただただ私たちのいのちにありました。

【神が人となられた理由】

永遠のいのちとはなにか。救いとはなにか。それは、ただ死んでから天国に行ける、というだけではありません。2世紀ごろから教会は「神が人となられたのは、人が神のようになるためである」と語り始めました。「神が人となられたのは、人が神になるためである」という表現も見られます。もちろん、人は神になりません。それにもかかわらず、このような表現が用いられたのには理由があります。

人は神のかたちに造られました。神は目に見えませんから、神のかたちは容姿ではありません。人は神のように全能ではありませんから、神のかたちは能力でもありません。

けれども「神は愛です。」とあります。神さまのもっとも神らしさは、愛し愛される愛の関係に生きることにあります。神のかたちに造られた私たちが、神のかたちを回復される。このことを教父たちは「神のようになる」「神になる」と表現しました。たがいに恐れ合い、傷つけ合う私たちが、そんな生き方から解き放たれるすばらしさ。自分と異なる人びとと受け入れ合い、自分を与え合い、覆い合って生きる、奇蹟のような生き方をそのように表現したのでした。神が人となられたのは、それ以下のことのためではありませんでした。神さまのもっとも神さまらしさである愛、その愛を私たちに満たすために主イエスは最初のクリスマスに人となってくださったのでした。これは確かにめまいがするような恵みです。

【主イエスの栄光】

あまりにもすばらしすぎて、にわかには受け入れがたい恵み。けれども、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とありますから、この恵みはすでに成し遂げられたのです。私たちのうちに。教会の交わりのうちに、すでに。

そして主イエスはさらなる栄光を願います。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(5)と。私たちのうちに始まった主イエスの栄光はますます輝く栄光となるというのです。私たちを通して、私たちからあふれ出して。

私たちの愛があふれ出すのをとどめている傷があるならば、私たちの愛が流れ出すのをせき止めている歪みがあるならば、主イエスはそのこともご存じです。そしてほってはおかれません。ますます私たちに愛を注ぎ、ますます仲間との愛の交わりのうちに働いて、私たちを回復させてくださいます。それがご自身の栄光だから。

今、切ないほどの主イエスの愛のうちに、そのみからだと血潮である聖餐にあずかります。私たちをいやす主イエスのいのちに。


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2023/11/26

礼拝メッセージ「世に勝つ神」ヨハネの福音書16章25-33節 大頭眞一牧師 2023/11/26


今日の箇所は13章からの最後の晩餐での主イエスのことばのまとめのような箇所。主イエスがそのために来られ、そのために十字架に架けられた神のお心が鮮やかにされます。今日もその神さまのお心に聴き入りましょう。

【その日】

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」(26)とあります。父なる神と私たちの親しい交わりが実現する日です。その日とはペンテコステ。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)の実現する日です。弟子たちは「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(29-30)と答えます。これを最後の晩餐での答と考えるとつじつまが合いません。ここはペンテコステ後を生きるすべての信仰者の言葉として読むべきでしょう。私たちもまたそのひとりです。

【神のお心】

イエスが最後の晩餐で語り、ペンテコステに実現した神のお心とは、私たちが「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(30b)と告白すること。主イエスが神でありながら、人となってこの世界に来られ、言葉とわざで神の国(神の愛の支配)の新たな始まりを告げ、そして、私たちの罪と責め、歪みと痛みのいっさいを十字架で担い、復活によって罪と死の力を打ち砕いて、私たちを罪と死の力からいのちへと解き放ったと告白することです。こうして私たちは父と、そして父・子・御霊の三位一体の神との親しい交わりに入れられました。

【散らされても】

ところが「あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」(32b)と主イエスはおっしゃいます。これも、最後の晩餐の弟子たちだけではなく、ペンテコステ後を生きるすべての信仰者のこととして読むべきでしょう。主イエスは神だと告白した私たち。けれども、コロナによって、高齢化によって、また、それぞれのさまざまな事情によって、私たちは散らされているのを見ます。共に集まることが妨げられ、たがいの交わりが損ねられているのです。これに対して、明野では役員と有志によって「教会ニュースレター・コイノニア」が発行され、信愛ではお助け隊によってお手紙つきの週報発送が行われています。しかし、教会の交わりはただの仲良しではないことを知る必要があります。主イエスがその交わりを支えています。いえ、「しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」(32c)とあるように、主イエスとともにおられる父、そして父と子の愛の絆である聖霊が私たちの交わり、私たちの愛の絆を支えてくださっているのです。

【安全ではなく平和】

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(33)がこの個所のクライマックスです。すでに世に勝った主イエスが私たちに平安を約束しています。この平安は私たちの内側の安心・安全ではありません。キリストのいのちそのもの、世界にあふれ出すいのちです。あちこちで戦争が起こっています。ある神学者は「『平和』は『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。」と語りました。キリストのいのちは、相手を信頼すること、理解することへと私たちを踏み出させます。そして神さまと共に世界の破れをつくろわせるのです。身近なところから、じっくりと。

【安心しなさい】

主イエスはそんな生き方へと、私たちを鞭打つのではありません。「勇気を出しなさい」は「心配しないでよい」とか「安心しなさい」とも訳されます。主イエスに信頼して、主イエスに安心するときに私たちのいのちはあふれます。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/11/20

礼拝メッセージ「走り寄る神の愛」ルカの福音書15章11-32節 加藤郁生牧師 2023/11/19

 



(本日は礼拝メッセージの要約はありません)

(ワーシップ 新聖歌171「今日まで守られ」 Bless)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2023/11/13

召天者合同記念礼拝メッセージ「喜びを与える神」ヨハネの福音書16章16-24節 大頭眞一牧師 2023/11/12


明野は先週、信愛は今日が、召天者記念礼拝。愛する者たちが召され、残された私たちに「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)と主イエスの御声が響きます。そう言われても、とてもそうは思えない私たちは、どうすればよいのでしょうか。

【見えない主イエス】

主イエスがご自分の十字架と復活、昇天を語ったとき、弟子たちはそのことがよく分かりませんでした。主イエスはその弟子たちに、彼らが、そして教会が経験しなければならない悲しみを語ります。それは、やがて教会が経験する迫害もさることながら、それよりも、そんな迫害の中で主イエスが目に見えないことの悲しみです。私たちもまた、主イエスが目に見えないゆえに、「主イエスはほんとうにおられるのだろうか、主イエスの救いはほんとうなのだろうか」、と疑い、迷います。どんな信仰者であっても、です。マザーテレサを思います。

【再び会うイエス】

そんな弟子たちに、主イエスは「しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(22bcd)と語ります。ここは誤解されやすいところ。やがてこの世の終わりに、主イエスが再臨するときのことだと、かん違いされることが多いのです。けれどもそうではありません。この世の終わりを楽しみに、今の悲しみに耐えなさい、というのではないのです。

主イエスは聖霊によって、今、私たちに会うとおっしゃるのです。「今、ここで。世の終わりにではなく、今、あなたがたの悲しみを喜びに満たそう。そのための十字架なのだ」と。

【悲しみを喜びに】

イエスはこのことを出産の苦しみにたとえます。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(21)と。この「苦しみ」という言葉は、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)の「悲しみ」と同じ言葉です。ですから、主イエスは私たちが今、味わっている悲しみを、単なる悲しみではなく、苦しみ、それも出産のように耐えがたい痛みをともなう苦しみだと、知ってくださっています。そして「あなたがたのその痛みをわたしがいやす。あなたの痛みを喜びに変える」とおっしゃるのです。

【父に求めるものは何でも】

「そんなことを言われても」と私たちは思います。私たちの愛する者が先に召され、そんな中で私たちは、主イエスを見ることができないのですから。ましてや「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(23c)とは、どういうことか、と。「それなら、私たちの愛する者たちを返してください、そのように願えば、返してくださるのですか?!そんなことはしてくださらないでしょう。だから、そんなことは願いません」と、そのように思って、自分を納得させようとします。「神さまには、なにかご計画がおありなのだろう、私にはわからないけれど」と。

【痛む神】

けれども、神はわかのわからないお方ではありません。十字架を見るなら、神は痛む神、苦しむ神です。私たちのために、私たちと共に。ですから痛みの中にあるときには、イエスはそこにおられるのです。痛みが強ければ強いほど、なお近くに。

あるカトリックの司祭が「嘆きとは、信仰の破綻ではなく、信仰から出る行為である」と言っています。なぜなら、神さまは私たちの痛みを私たち以上にご存じで、私たち以上に味わっておられるからです。神さまに手加減をする必要はありません。「神さま、どうしてですか。神さま、愛する者を返してください」と訴え続ける。そうするとき、私たちの痛みの中に、神さまが入ってくださるスペースが生まれます。あなたの痛みから、悲しみから、神さまを締め出そうとしないでください。神さまと共に痛む。神さまに痛む心を差し出す。そうするときに神さまの癒しが始まります。私たちの想像もつかない、神さまのわざが。多くの時間をかけながら、深いところで。今はとてもイメージできないけれども、喜びとしか呼びようのないいやしが。

聖餐にあずかります。この食卓には先に召された、愛する方がたもともに連なっていることを覚えつつ。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/11/10

ファミリーコンサート(11/19)のお知らせ

 ※この記事は、11/19の「ファミリーコンサート」のお知らせです。


ファミリーコンサートが4年ぶりに帰ってきました!

京都信愛教会の教会員や家族が、それぞれ楽器や声楽で、いろいろな音楽を奏でます。

賛美歌を始め、クラシックやヘルマンハープまで、いろんな音楽を楽しみましょう♪

ご家族、ご友人の方々もぜひ、お越しください!

詳しくは、下のチラシをご覧ください。




■日時


2023年11月19日(日) 13:30~15:00

■会場・お問い合わせ


日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
京都市北区大将軍坂田町21番地12
TEL: (075)461-1938
牧師: 大頭眞一
※当教会は、伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。

2023/11/05

礼拝メッセージ「御霊の神」ヨハネの福音書16章4b-15節 大頭眞一牧師 2023/11/05


明野は今日、信愛は来週が、召天者記念礼拝。おりしも先週の主日、信愛の仲間がYouTubeライブで礼拝を守りながら召されていきました。悲しみでいっぱいの私たちに、主イエスは今日、何を語ってくださるでしょうか。み声に耳を傾けます。

【悲しみでいっぱいに】

今日の聖書の箇所でも、弟子たちは悲しみでいっぱいです。「むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」(6)。弟子たちの悲しみは、主イエスが去っていかれるから。もう目で見ることができなるから。これから先は、イエスさまなしに、自分たちだけで歩まなければならない、そう思って不安と恐れの中にいるのです。私たちもそうです。イエスさまを見ることができない私たち。特に、愛する者たちが先に召されてしまうとき、なんともいえない心のざわめきを感じる私たちです。愛する者たちはどうなってしまうのか。私たちはこの人ともう会うことができないのではないか、と。再臨、復活、頭ではよくわかっていても、やはり、心はざわめくのです。

【聖霊が降り積もり】

先週召された方が作詞し、配偶者の方が作曲された「Hope(希望)」という賛美があります。以前にもご紹介したことがあるのですが、その中に「私たちの上に聖霊が降り積もり」という言葉があります。聖霊が降り積もりというのは不思議な表現。聖霊は降る、というのが普通です。けれども、この表現は大切なことを教えているように思うのです。主イエスは「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(7)とおっしゃいました。そして十字架に架けられ、よみがえられ、天に昇って、聖霊を降してくださいました。でも私たちは、助け主である聖霊がすぐにはわかりません。そんな、わからない、心ざわめく私たちに聖霊は語り続けます。主イエスの愛が、私たちに沁みとおるように、降り続け、恵みを積もらせ、重ねてくださるのです。

【罪について、義について、さばきについて】

心ざわめく私たちも、ふと気づくと、聖霊によって、やはり主イエスの愛を心とたましいに刻んでいただいていることに気づきます、思い出します。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(8)と、主イエスは三つの誤りを語ります。

罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(9)は、罪の本質を明らかにします。それは、なにか悪いことをした、というのではありません。私たちを招いてくださっている主イエスを受け入れないこと。招かれている愛の交わりを拒絶すること、これが本当の罪です。先に召された私たちの愛する人びとは、主イエスを受け入れた人びと、本当の罪から解き放たれた人びとです。このことを喜びたいと思います。

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(10)の義は、救いの本質を明らかにします。聖書の義は正しい行いをすることではなく、神さまと正しい関係にあること。そして神さまとの正しい関係とは、愛の関係。もうおなじみの図のとおり、三位一体の神の愛の交わりの中で、神と共に、踊ること、生きることです。私たちの愛する、先に召された人びとはこのダンスに、ただ神のあわれみによって招かれ、招きを受け入れた人びとです。

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(11)は、悪の力が十字架でさばかれたことを明らかにします。悪の力は私たちをかたくなにし、あるときは「自分など神の愛に値しない」と落ち込ませ、またあるときは、「自分の力でやっていける、神のあわれみなどいらない」と高ぶらせます。けれども、私たちの愛する、先に召された人びとは、悪の力から主イエスの力へと逃れた人びと。今は、主イエスの胸の中で、安全に安らいでいる人びとです。

心ざわめくときは、主イエスの十字架と復活に目を注いでください。私たちに降り積もっている聖霊が、私たちのためになにも惜しむことをされなかった主イエス愛を明らかにします。その聖霊は、私たちを放っておくことをなさらない主イエスが遣わされた助け主なのですから。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2023/10/29

礼拝メッセージ「証しする神」ヨハネの福音書15章26節-16章4a節 大頭眞一牧師 2023/10/29


先ほどは幸いなお証しをうかがいました。今後はだいたい毎月おひとりずつ、信愛からも明野からも、と思います。証しは、信仰の体験談だと、説明されることもあります。確かにそうなのですが、それは「自分の体験」であると同時に、とりわけ「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」そして「イエス・キリストはいかなるお方なのか」の証しなのです。

【主イエスを見ていない私たち】

「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」はまだしも、「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることは難しいと思う方が多いかもしれません。なぜなら、私たちはイエス・キリストを肉眼では見ていないからです。使徒信条にあるように、主イエスは十字架に架かり、よみがえり、今は再臨のときまで、父の右におられます。十字架から二千年後に生まれた、私たちは主イエスを見たことがない。そんな私たちが「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しするのは確かに無理なことのように思えます。

【主イエスを見ていなかった弟子たち】

では、イエス・キリストを肉眼で見た弟子たちはどうでしょうか。確かに彼らは、主イエスを見ていました。また時には「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。けれども主イエスが捕らえられたときには、みな逃げ去りました。「生ける神の子キリスト」と告白したペテロも三度、主イエスを知らないと言ったのです。彼らは主イエスを見ているようで、見ていなかった。ほんとうには「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を知らないでいたのでした。

【主イエスを見ている教会】

ところが主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」(27)と。この「あなたがた」は12人の弟子(使徒)のことではありません。教会のことです。そもそも、ヨハネの15章からは、教会に向けて語られた言葉。最後の晩餐の場面なのですけれども、後に迫害に苦しむことになる教会に向かって主イエスが語っておられるのです。

「あなたがたも証しします」と主イエスはおっしゃる。教会は主イエスを証しすると。逃げだした弟子たちも、主イエスを見ていない私たちも、イエスを証しすると。その理由は26節。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」ペンテコステに降った聖霊によって、教会は「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができます。ペテロたち、使徒たちは、聖霊が降って、力強く証しを始めました。同じ聖霊がここにいる私たちにも遣わされています。ですから私たちは主イエスを見ていないのに、主イエスを証しすることができます。「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができるのです。

【イエス・キリストはいかなるお方なのか】

ですから、私たちは「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しできない、などと言ってはなりません。私たちにはできます。見たことはないけれど、聖霊によって。言葉は足りなくても、心と思いとふるまいで。私たちを愛し、私たちをそのままにしておくことができないで、私たちのためにこの世に来てくださった神であるイエス・キリストを。私たちの傷を、重荷を、痛みを、罪を、すべて十字架で負ってくださったお方、イエス・キリストを。

先週は、才脇牧師をお招きして幸いなメッセージをお聴きすることができました。傷ついたひとりの青年に主イエスは会ってくださいました。そして、その傷をいやし、いやし続け、立ち上がらせて、「イエス・キリストは私の救い主、私のためになにも惜しむことをなさらなかったお方。私に尽きない愛を注ぎ続ける人となられた神」と証しさせてくださっているのです。

そんな証しを聴くとき、私たちのたましいも喜びの声を上げます。そんな私たちを通して、主イエスは、世界のうめきに届かれます。神と人の間が破れ、人と人との間が破れ、人と被造物の間が破れている、うめきに。イエス・キリストは世界の救い主。私を救い、私たちを救い、私たちを通して、私たちと共に働いて、世界を救う神であり、王。そして何よりも、イエス・キリストは私たちが愛するお方です。私たちもこのイエスを証しします。そして、ほんとうは証しするのは神ご自身なのです。私たちを通して、私たちと共に。


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2023/10/24

2023/10/16

礼拝メッセージ「憎まれる神」ヨハネの福音書15章18-25節 大頭眞一牧師 2023/10/15


この朝も主イエスの語りかけを聴きます。私たちのために十字架に架かったイエス。そのイエスがどうしても弟子たちに、そして私たち教会の心に刻みたいと願った言葉と愛です。

【世に憎まれる私たち】

「世はあなたがたを憎むのです。」(19d)にはドキリとさせられます。私たちは人から好かれ、仲良く生きるクリスチャンでいたいと思うからです。これから洗礼を受けようとする人は、こういう言葉を聞くと、考え込んでしまうかもしれません。けれども、この「憎む」は「嫌う」という意味ではありません。確かに初期の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが命を落とすことになりました。日本の禁教の時代のキリシタンも。しかし、それは彼らが嫌われていたからではなく、そこにはもっと根源的な理由がありました。

【キリストのものである私たち】

その理由は「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19a-c)です。つまり、私たちは世のものではなく、キリストのものとなっているのです。この世のものは、この世の生き方でこの世の目的を達成しようとします。ローマは軍事力と支配のさじ加減で世界を押さえつけようとします。ローマの繁栄と誇りの維持が目的です。ユダヤ人も、あるものは武力蜂起によって、あるものはローマにすり寄ることによって、ユダヤを解放、少なくとも現状を維持しようとします。ユダヤの誇りと自由が目的です。

ところがキリストのものたちは、まったく異なる生き方でまったく異なる目的を達成しようとします。それは、もちろんキリストの生き方、キリストの目的と同じです。

【キリストの生き方、キリストの目的】

キリストの生き方は、十字架に鮮やかです。こう言うと、「十字架は死に方では?」と思うかもしれません。しかし、主イエスはご自分を与え続けて生きました。ご自分を憎み、敵対す者のためにも。そんな生き方の頂点が十字架なのです。ですから、キリストの生き方は自分を与える生き方。そして、キリストの目的は、世界を回復することです。

ローマもユダヤも、神から離れてしまっています。力や脅し、利益による誘導といった生き方において。そんな生き方は、国際政治だけでなく、企業や地域、家庭や子どもたちにまで及んでいます。また目的とする繁栄や誇りや自由も、神の与えようとしているそれらから離れてしまっています。神と共に、隣人の共に愛に生きることが、神が与える繁栄・自由・誇り。それなのに、世はたがいを押しのけ合うことによって、自分の手でつかみ取ろうとするのです。

そんな世にとって、キリストの生き方と目的は、危険です。なぜなら、世のルールなら、奪われたら奪い返せばよい。痛めつけられたら、痛めつければよいのです。けれども、私たちはちがいます。私たちは、奪われたものを取り戻す以上のことを願います。奪った者たちが与えるようになることを。痛めつけた者たちが、自分が与えた痛みに痛むようになることを。これは確かに、世の生き方にとっては、我慢できないことにちがいありません。生き方そのもの、ルールそのものの変更を求めるからです。これまで誇りとしてきたこがアップサイドダウン(上下反転)することだからです。

【世から選ばれた私たち】

わたしたちが、キリストの生き方、キリストの目的を知り、喜び、そこにとどまるようになったことは不思議なことです。その理由は「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19c)にあります。私たちが選ばれているけれども、教会に来ていない人は選ばれていない、そんなことではありません。神はすべての人に、いのちを与えることを望んでおられます。それなのに、ちっとも特別ではない私たちがそのいのちに与ることができました。理由もなく。その不思議は、神が選び出したとしか言いようがないのです。だから私たちは選び出されたことを誇るのではありません。私たちをほうっておくことができなかった神を誇ります。

私たちには生命を奪われるような迫害はありません。けれども、キリストの生き方、キリストの目的は、世を不安にさせます。これでいいのか、と。不安は反感を、反感は憎しみを生み出すでしょう。その憎しみを受け止め、「だいじょうぶだ。心を開いて、神に抱かれよ」と私たちは語ります。キリストのものだから。聖餐に与ります。


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2023/10/10

礼拝メッセージ「友と呼ぶ神」ヨハネの福音書15章11-17節 大頭眞一牧師 2023/10/08


先週に続いてこの個所からもう一度聴きます。教会に語り掛ける主イエスの愛の招きに我を忘れ、何かをしなければならないという思いも忘れて、聴き入りましょう。

【喜びのイエス】

「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(11)とあります。主イエスが来られた目的は、喜び!「わたしの喜び」ですから、主イエスが喜んでおられるのです。父なる神に愛されているイエスの喜び。私たちと愛し合うイエスの喜び。二つの喜びをひとつに結びつけるために、神であるイエスが人となりました。こうして私たちも喜びに満ちあふれるようになりました。もうすでに。さらに、ますます。

【友のためにいのちを捨てる】

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13)については、先週も聴きました。「真に自由な人間として生きよ!痛みのなかでも、愛することができる自由を!」と。

2006年10月3日、アメリカのペンシルベニア州ニッケル・マインズという町で銃による事件が起こりました。アーミッシュ(伝統を大切にするプロテスタントの一派)の学校で非アーミッシュの青年が銃を乱射、女生徒5人が即日死亡、さらに5人が重傷を負ったのです。最年長で13才のマリアンが「私から撃って」と言い、2番目の年長の11才のバービーは「その次は私を」と続けたということも私たちの心を震わせます。けれども、何より世界を驚かせたのはアーミッシュ共同体が、事件後数日以内に、自殺した加害者への赦しを表明したことでした。事件の当夜、加害者の父親を訪ねて抱擁し、「私たちはあなたを赦します」と言ったアーミッシュがいたそうです。また、加害者の葬儀の75人の出席者の半分以上がアーミッシュだったというのです。すぐに同じことをせよ、と言うのではありません。アーミッシュは共同体の生活の中で、何世代にも渡って赦すことがもたらす祝福を体感してきました。赦せないことは加害者に「支配」されていることであり、赦すことは赦す者を癒します。そして赦すことは加害者とその家族を人間として遇して、世界に生じたほころびを繕うことになるのです。

ここには「友のために」にとどまらず「友でない人びとを友とするために」という生き方があります。そんな生き方は私たちのうちに始まっています。もうすでに。さらに、ますます。

【神との友情】

「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(14-15)は、私たちの度肝を抜きます。「自分のようなものは」とひれ伏し、あるいは「なんとかお慈悲を。このささやかな願いをかなえてください」とすがる私たち。主イエスはそんな私たちの手を取って、立ち上がらせ、「あなたがたはわたしの友だ。父のこころを知り、わたしのこころを知っているからだ」と。なんということか、と思います。けれでも、深くうなずきもします。神のかたちにつくられた私たちが、そのかたちに回復されていくのですから。神のこころをもった神の友となるのです。人の創造はまさに神の友となるためでした。よき神はそんなよきことを私たちのために願ってくださったのでした。

先週の「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7)が思い起こされます。初代教会の教父アレクサンドリアのクレメンスは、「祈りとは神との友情を育てること」だと言ったそうです。私たちが願うその願いは、神さまの願いとひとつです。神との友情を育てること。思うにまかせぬことの多い毎日の中で、私たちは悩みます。苦しんでいます。そんな時間が長く続くと、それがまったく無駄な遅延のように感じられます。けれども、そんな無駄に思える時間にも、少なくともひとつ、成長しているものがあります。それが神との友情。苦しみの中で、惑いの中で、もうすでに。さらに、ますます。それこそが、私たちの目的であり、手段であり、喜びであり、生きることなのです。


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2023/10/03

礼拝メッセージ「愛にとどまらせる神」ヨハネの福音書15章7-17節 大頭眞一牧師 2023/10/01


新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章。なかでも15章以後は、ヨハネが特に教会のために記した箇所と考えられます。今日の箇所はとりわけ内容豊かですので、来週と2回にわたって聴くことにします。

【イエスにとどまる私たち】

先週は、ぶどうの木と枝のたとえでした。イエスは「つながりなさい」と命じているのではありません。私たちは、もうイエスにつながっている。枝である私たちのするべきことは、ただ一つ。木から流れ込んでくるいのちに心を閉ざさないこと。木のなすままにされて、いのちを注がれること。こうして仲間と共に、主イエスのみ前にいることです。もっと祈らなければ、もっと聖書を読まなければ、主イエスにつながれない、ということではないのです。

【何でもかなえられる】

続いて主イエスは約束します。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7)と。もちろん私たちのどんな欲望でもかなえてくださる、というわけではありません。イエスにとどまる私たちは、イエスから流れ込むいのちによって、歪(ゆが)みをいやされ成長しています。それにつれて、私たちのほんとうの欲しいもの、ほんとうの望みが明らかになってきました。それは神と同じ望み。世界の歪みが癒されて、回復することです。神は私たちを通して、私たちと共に、世界の回復を実現してくださるのです。

【愛され愛する私たち】

この個所には愛の本質が描かれています。それは愛された者は愛する者になるということです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(9)では、父からイエスに愛が注がれ、イエスから私たちに愛が注がれます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(12)では、イエスから私たちに愛が注がれ、私たちからたがいに愛が注がれます。私たちの愛の源は、イエスであり、父なる神です。

「私には愛が足りません」といつもうなだれる私たち。しかしその失望は的外れです。そもそも愛の源は私たちのうちにはないからです。私たちの愛は父と子から注がれる愛。無尽蔵の愛。子の十字架をも惜しむことがなかった愛です。この愛が注がれているのです。ぶどうの木であるイエスから枝である私たちに。

【友のためにいのちを捨てる】

それにしても13節は私たちを揺さぶります。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13)。そんなことはとてもできない!と。でも、そう言う前に知っておくべきことがあります。

まず、私たちはたじろぎながらも、友をどこまでも愛することを願っているということです。私たちのほんとうの願いは、愛することなのです。

次に、私たちには無尽蔵の愛が注がれていることです。私たちのために子を惜しむことがなかった父の愛と、ご自分を惜しむことがなかった子の愛が。愛に不足はないのです。

その上で、主イエスの戒めは「死ね」ではなく、「生きよ」という命令であることを心に刻むことがたいせつです。迫害の時代のヨハネの教会では、実際に、自分を犠牲にして友を逃がすといったこともあったことでしょう。けれども、それは彼らが毎日、友のために死ぬ練習をしていたからできたのではありません。そうではなくて、彼らの毎日は与え合う毎日。与え合うことを喜び合って生きる毎日でした。その喜びの日々の延長上に友のために死ぬことがあったのです。

そのころの書物を見ると殉教は奨励されていなかったことがわかります。逆に「迫害にあったら逃げて生き延びよ」と記されています。逃げて、逃げて、それでも、逃げきれずに捕らえられたなら、そのときは、神が殉教させてくださるから心配しないでよい、と。

生きよ! と、今日も主イエスの声は響きます。置かれた場所で、仲間がともにいることを喜び、楽しめ、と。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(8)とあります。私たちは神の栄光です。すでに、もう。


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2023/09/24

礼拝メッセージ「農夫である神」ヨハネの福音書15章1-6節 大頭眞一牧師 2023/09/24


信愛・明野・天授ヶ岡合同礼拝の今日も主イエスのみ声を聴きます。新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に語られた箇所です。

【教会に語られるイエス】

ヨハネ15章を読み始めると気になることがあります。14章の終わりに「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(14:31bc)とありますから、ここで最後の晩餐は終わったように見えます。ところが15章以下もイエスが晩餐で語った言葉が続いていくのです。しかも14章で語られていたことの内容は、15章と16章でも繰り返されています。このことからある人びとは、15章以下はもともとのヨハネ福音書には入っておらず、後で付け加えられたと考えたりもします。

しかし私は、そうは思いません。ヨハネは最後の晩餐でイエスが語られた言葉を忠実に記録しました。そのときそこにいた弟子たちに語られた言葉を14章までに。そしてイエスの十字架と復活・昇天の後に建てられた教会がとりわけ心に刻むべき言葉を15章以下に重ねて記した、と思うのです。ヨハネがこの福音書を記したのは紀元90年ごろ、教会が誕生して60年ほど過ぎたころです。当時迫害の中にあった教会に向けて、ヨハネが励ましに満ちたイエスの言葉を贈ったのは当然のことだと思われるのです。

【つながっている私たち】

今日の箇所は有名なぶどうの木のたとえ。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(5a)が、その中心にあるイエスの励ましです。ご注意ください。イエスは「つながりなさい」と命じているのではありません。私たちは、もうイエスにつながっているのです。いえ、そもそも、イエスという木から生えた枝なのです。神を知らず、知らないままに神に背を向けていた私たち。そんな私たちにイエスは新しいいのちを与えてくださった。十字架と復活によって。そのいのちによって、私たちはイエスという木に生えた枝です。ですからヨハネは全力で教会に語るのです。「あなたがたは枝なのだ。イエスという木の枝なのだ。だからだいじょうぶだ。イエスがあなたがたという枝を切り離すことなどない。決してない」と。

それでも6節の言葉を恐れる人びとはおられます。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(6)。けれども、そもそも枝は自分から木につながっているわけではありません。木にいのちがあって、そこからいのちを注がれて枝がつながっています。ただ、つながっています。枝のするべきことは、ただ一つ。木から流れ込んでくるいのちに心を閉ざさないこと。木のなすままにされて、いのちを注がれることです。「わたし(イエス)にとどまる」とは、私たちが、今、していることです。仲間と共にイエスの言葉に、イエスの心に、心を開くこと。そうするならば、枝は実を結ぶのです。もう、結んでいるのです。豊かないのちの実を。豊かな愛の実を。

【わたしにとどまりなさい】

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(4ab)と主イエスは励まします。そして約束します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5)と。イエスから流れ込むいのちに心を閉ざさない。主イエスのいのちを受け取り続ける。今私たちがしている通り。

8月の教団青年宣教大会はたいへん恵まれたときとなりました。特に第一回の集会は強い印象を残しましたから、信愛でも明野でも祈祷会などで聴きました。あそこで講師は「あなたの最も根本的なアイデンティーはなにか?」「あなたはだれですか?」と問いを発し、「愛されている神の子ども」が答えだと力強く語ってくれました。イエスにとどまるということは、自分が愛されている神の子どもであることを心とたましいに刻んでいることです。神が十字架に架かるほど愛されている神の子どもであることを。私たちは「とどまっていなさい」と言われると、「では帰ってから聖書を読まなくては」「明日からお祈りしなくては」と思うかもしれない。でも、もっとたいせつなことがある。それは、今、この場で、「愛されている神の子ども」であることを思い出すこと。思い出させ合うことなのです。



(ワーシップ「神の物語」Bless)




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2023/09/18

礼拝メッセージ「平安をあたえる神」ヨハネの福音書14章25-31節 大頭眞一牧師 2023/09/17


三週あいてのヨハネからのメッセージとなりました。今週からまた新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に愛する弟子たちに語られた愛の言葉に聴き入ります。

【この世を支配する者】

「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」(30ab)とあります。主イエスを十字架に架けたのは、ローマ兵であり、総督ピラトであり、ユダヤの祭司長たち、パリサイ人たちです。けれども彼らの背後には「この世を支配する者」という単数の存在がいます。サタン、悪の力です。この力が、人びとの恐れや歪んだ欲望といった弱さに付け込んで支配し、主イエスを十字架に架けたのです。子なる神であるイエスを滅ぼし、世界からいのちと希望と喜びを消しさること、それがサタンの狙いでした。

けれども主イエスは続けます。「彼はわたしに対して何もすることができません。」(30c)と。サタンは十字架で主イエスを滅ぼし、勝利したかのように見えますが、三日天下に過ぎません。主イエスは復活し、父のみもとに昇ったからです。主イエスはこの世を支配する者を滅ぼしました。肉を切らせて骨を断つように。ご自分の十字架によって勝利し、私たちを悪しき支配者から解き放ってくださったのです。今もこの世をサタンが支配しているのではないか、私たちはそんな風に思ってしまうことがあります。けれどもそれは事実ではありません。「彼はわたしに対して何もすることができません。」とおっしゃる主イエスは、サタンの悪しき手を私たちにが触れさせない、と誓ってくださるのです。

【私たちが生きるために】

そのために主イエスは「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26)と、聖霊を約束しました。「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」(28a)も同じ意味です。聖霊によって、主イエスは私たちと共におられるのです。

「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ」るというのは、忘れていることを思い出させるという以上のことです。聖霊は、主イエスのことばとわざを私たちの心とたましいに刻み、浸み込ませ、私たちを主イエスに似たものに成長させます。弱みにつけこまれ、仲間と分断させられ、神との間にくさびを打ち込まれていた私たちが、神に握られている手を握り返し、仲間と肩を組んで、弱さを補い合ういのちに生きるのです。主イエスに滅ぼされたサタンの残りかすに支配されることなく。「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。」(28)は「喜べ」という招き。「さあ、喜んでほしい。父と子と聖霊の交わりを。その交わりの愛があなたがたに向けられていることを。三位一体の神の全力の愛を注がれ、受け取っていることを、力の限り喜んでほしい、さあ」と。

【ほんとうの平安~ひるむな】

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」(27abc)と聴くとき、思い出すのはルカ12章にある愚か者の譬え。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(19)と語る者のいのちはその夜にも取り去られる、というのです。私たちは食物を、収入を、健康を必要とします。けれども、それらを得たからといって、それがほんとうの平安ではありません。それらは世が与える平安です。

しかし主イエスが与える平安はほんとうの平安。持ち物に満足して座り込む平安ではなく、神さまと共に旅をし、旅を喜ぶ平安。私たちの生涯は遊牧民のようだと思います。神さまが与えてくださる良きものを喜びながらも、軽くにぎって、足取りも軽く従う生涯。手鍋下げても、という言葉がありますが、私は好きです。強いられてではなく、そうしなければ平安を得られないからでもなく、そうしたいから神さまと共に旅をする。そうして神さまと共に、仲間と共に、世界の破れをつくろい、世界に回復をもたらして生きる。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(27de)。さあ、主イエスと共に出かけましょう!置かれた場所に。その前にごいっしょに主イエスの食卓に与ります。


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2023/09/03

京都教区合同礼拝メッセージ「あふれる恵み」詩篇23篇1-6節 内田純牧師 2023/09/03


京都教区合同礼拝を感謝します。2023年度教団標語は「転換点を迎えて-過去への感謝、現在への確信、未来への指針」です。私たちを取り巻く状況はいつだって転換点の連続です。その中で、私たちにとって大切な「変わらぬこと」を見させていただきましょう。

①平穏なときにも恵み (23:1-3)

ここでは「主と私」の関係を「羊飼いと羊」という関係で表現します。何とも平穏な光景です。羊は羊だけでは生きられない、弱く迷いやすい存在です。羊飼いが羊を導き養い癒します。この羊飼いは主。羊は私たち。羊と私たちは一緒か?今、私たちには便利なスマホがあります。知りたいことは何でも検索できます。欲しいものはすぐ注文できます。道案内もしてくれます。夜道の明かりにもなります。でも様々な情報に振りまわされ、ネットにはまり込み、人生という道に迷っていないか?私たちは平穏なときも、主のゆるぎない導きと適切なケアを必要としているのです。

②危機の時にも恵み (23:4-5)

羊は牧草地を移動します。時に肉食獣が潜む谷も通ります。でも羊が戦うのではありません。羊飼いが戦います。「死の谷」ではなく「死の陰の谷」に過ぎない。危機的状況で「主と私」は「あなたと私」へ変化します。「羊飼いと羊」という関係でもなくなります。より近い関係になる。状況は変わらない。敵はいる。でも主が共におられ、食卓を用意し、香油を注ぎ、杯を満たしてくださいます。何というくつろぎ!何という余裕!私たちにも敵(様々な問題)が立ちはだかり、次々襲ってきます。そしてすぐに自分で何とかしようとします。でも、その問題に立ち向かわれるのは主。私たちに大切なのは、主の用意されたもてなしにまずは浸ること。平穏なときも、そして危機のときこそ、主とより親しい関係を築く好機となるのです。

③とこしえまでも恵み (23:6)

「私」は緑の牧場、みぎわ、死の陰の谷、敵の前を経て主の家に住まいます。「主と私」は「あなたと私」、そして主の家族となります。『恵みが追って来る』とあります。恵みが平穏なときにもあふれ、危機のときこそますますあふれ、どこまでも追いかけ、押し上げ、いよいよ主に近づけ、ついに主の家に住まわせるのです。恵みは「今日の礼拝は恵まれた」と言うような、あったりなかったりするものではありません。私たちが生きる上で絶対に欠かせないものです。自然の恵みも救いの恵みもそうです。私たちが主の家に至るまで、主も主の恵みも様々な形で共にあるのです。

人生山あり谷あり。問題も次々。転換点の連続です。その中で変わらぬことがある。主が導き、恵みを振るまい、もてなし続けておられることです。では、どんな中でも私たちにできる変わらぬことは何か?私たちの身近な人から、主の恵みを分かち合い、もてなすことです。そこから恵みはあふれ出すのです。



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2023/08/28

2023/08/21

礼拝メッセージ「愛をあたえる神」ヨハネの福音書14章15-24節 大頭眞一牧師 2023/08/20


今日、大頭牧師は鈴鹿教会で、ご用。いつもは合同礼拝をささげている信愛と明野ですが、今日はそれぞれが動画を用いての礼拝です。今後もさまざまな状況に対応できるように備えを、という意味もあります。ご担当の方がたのご労に感謝します。

【孤児にしない主】

十字架前後の最後の晩餐。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)とあります。最後まで弟子たちを、すなわち、教会を愛されたイエスは、十字架と復活を超えて愛し続けられます。ですから、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(18)と力強く宣言してくださったのです。主イエスがおられなければ、私たちは親のない孤児。思えば、私たちはときに、まるで神さまに見捨てられたかのように錯覚して失望することがあります。けれども、主イエスが孤児にはしない!とおっしゃったのだから、それは錯覚です。どうかたがいに錯覚から目を覚まさせあうことができるように、と願います。

使徒信条には「…天に昇り…父の右に座したまえり」とあるから、戻って来てないのでは?と思うかもしれません。もちろん主の約束にいつわりはありません。三位一体の父・子・聖霊の神は私たちと共におられます。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。(20)にあるように、三位一体の神の交わりのうちに私たちも招き入れられているのです。すでに、もう、今から。

【助け主である聖霊】

三位一体の神のうちでも、特に前面に出て私たちと関わってくださるのが聖霊なる神です。ペンテコステに降った聖霊は、教会の助け主です。教会、すなわち私たちが、神を愛し、たがいを愛し、世界を愛する助け手となってくださるのです。聖書を開くとき、祈るとき、礼拝をささげるとき、仲間と語り合うとき、聖霊が助けてくださいます。神のかたちに私たちをじっくりと成長させ、神のいのちに生きることを助けてくださるのです。

【弁護者である聖霊】

「助け主」という言葉には「弁護者」という意味もあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:1-2)。私たちが罪を犯すとき悪魔は私たちを訴え、責め、そこから立ち上がれないようにさせます。けれども、聖霊は私たちに思い出させます。私たちのために、世界の罪のために十字架に架かってくださった主イエスを。そしてキリストのいのちを生きよ、と語ってくださるのです。

【慰め主である聖霊】

「助け主」という言葉には、また、「慰め主」という意味もあります。パウロは「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)と記しています。ここには神さまの特徴的な、なさり方があります。神が私たちを慰めてくださるとき、私たちは神に似た者へと変えられていきます。今度は私たちが、慰める者となっていくのです。同じように、助け主である聖霊は私たちを助け合う者にします。弁護者である聖霊は、私たちを主イエスのあがないを指し示す者にします。私たち教会を。

【つまるところ愛】

主イエスは「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(23)と締めくくられました。主イエスを愛し、主イエスのことばを守ることが条件だと思ってはなりません。私たちが神を愛するなら、その愛は神が与えたものです。神とともに生きる私たちは、日々深まりゆく神との関係のうちに、ますます愛することに熟練していきます。さらに深く神のうちに住み、神もまた私たちのうちに住んでくださるのです。


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2023/08/13

礼拝メッセージ「うちにいる神」ヨハネの福音書14章12-21節 大頭眞一牧師 2023/08/13


新約聖書の至聖所である13章-17章。その中でもさらに至聖の箇所が今日の箇所。吐露される神のお心に聴き入りましょう。

【さらに大きなわざ】

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(12)は、私たちを驚かせます。この個所にかぎりません。いつも主イエスの言葉は私たちを驚かせ続けます。どんなに私たちが主イエスを知っても、主イエスはさらに大きいのです。それにしても私たちが主イエスよりも大きなわざを行うとは!「私たち」は教会。教会はこの世界でキリストのいのちを生きていきます。神との関係が破れ、人との関係が破れ、被造物との関係が破れた世界で。キリストのいのちによって、愛を回復され、世界の破れを回復させながら。もちろん、それもキリストが教会を通して行うわざです。けれども、主イエスはそれを私たちのわざと呼んでくださいます。主イエスと共に働く私たちを励ましてくださるのです。

【聖霊が降り積もり】

「わたしが父のもとに行くからです。」(12c)とあります。すると「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」(13)と。私たちが主イエスの名によって求めることとは何でしょうか。もちろんそれは神さまをランプの精のように使うことではないではありません。神さまと共に世界の破れをつくろうこと、それが私たちの求め。主イエスはその求めをかなえてくださる。私たちと共に。私たちを用いて。そのために「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16)と。

去年のクリスマスにごいっしょに歌ったワーシップは「HOPE(希望)」。あの歌に「私たちの上に聖霊が降り積もり」というサビがあります。この表現は聞きなれないうちは、不思議に思えていました。けれども何度も聞くうちに、深くうなずきました。聖霊は私たちのうちにおられます。けれども、私たちが聖霊に心を開いて、自分をゆだねるほどに、神さまのお心がわかります。神さまの愛が満ちてきます。雪がだんだん降り積もるように、聖霊がだんだん私たちをご自分のものにしてゆかれます。だんだん私たちのものとなってくださいます。十字架にご自分を与えた主イエスの思いを、私たちの思いとしてくださるのです。

【孤児とはしない神】

主イエスの愛はさらに激しく注がれます。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」(18-19)。私たちのために十字架でいのちを捨てる主の愛は、そこで終わりません。終わるのにはあまりに私たちを愛しているから。死んでも復活し、昇天しても聖霊において私たちのところに帰ってこないではいられない愛です。

【私たちのうちにいる神】

「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(17b)と「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(20)は、まさに至聖所の中の至聖所。三位一体の神と私たちが、たがいがたがいの内にいるように、交差するように、ダンスを踊るように、愛し合っているのです。ここに主イエスが人となられた受肉の目的が、十字架と復活と昇天、そしてペンテコステの目的が、ありました。あまりのことに、私たちにはとらえきれず、表現しきれないのですが、そんなありえないことを、三位一体の神は望み、実現してくださったのでした。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(21)を聴くとき、私たちのいのちは高鳴ります。三位一体の神に抱きしめられて、私たちも神を愛します。仲間を、世界を愛します。すでに今愛しています。こんなにも。高鳴るいのちを寄せ合って、聖餐にあずかります。


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2023/08/06

礼拝メッセージ「教会をたてる神」ヨハネの福音書14章1-11節 大頭眞一牧師 2023/08/06


今日も先週と同じ箇所。主イエスのあふれる愛をもう一度心に刻んでいただきましょう。

【信じなさい】

「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1b)が胸に響きます。ただ神の存在を、主イエスの存在を信じなさい、というのではありません。「断腸の思いで、子を十字架に渡す父のあなたがたへの愛を信じなさい。父との断絶を覚悟して十字架に向かう、わたしのあなたがたへの愛を信じなさい。受け取りなさい。その愛に浸り、その愛に身を投じなさい。自分という土台から離れて、わたしに自分を投げ込みなさい」とイエスはおっしゃるのです。

「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)もまた、神の心を語ります。三位一体といいますが、何よりも父と子がひとつなのは、その心において。私たちを愛し、私たちを惜しんで、私たちのためには何も惜しむことをしない、その心において一つなのです。私たちはそんな父と子を信じます。そんな父と子に自分をゆだねます。聖霊によって。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、」(9b)はピリポを責める言葉ではないでしょう。この後、この言葉をピリポは忘れなかったでしょう。この言葉によって、ピリポは主イエスと過ごした日々を何度も思い起こしたでしょう。そして主イエスの地上のご生涯でのすべての言葉とわざが、愛の注ぎであったことを、父と子が心ひとつに注いでくださった愛であることを、喜んだにちがいありません。ヨハネが、主イエスのピリポへの言葉をここに残したにのもそのためです。「こんなに長い間」、こんなに多く、深く、広い愛が、繰り返しピリポに、私たちに注がれてきたことを思い起こさせるためなのです。

【三位一体の、すなわち愛の神】

「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)を図解しようとする人は必ず失敗します。父と子のどちらが内でそちらが外といった位置関係を語っているのではないからです。ここで語られているのは、相互に愛し合う父と子の愛です。神を知るためには、幾何学的な図解ではなく、動的なイメージのほうに分があります。神は方程式ではなく、生きておられる方だからです。いつものイメージをもう一度掲げます。


神は愛です。それは、例えば「神は大きい」というのとは、まったくちがいます。ひとりでは愛することも愛されることもできないから。三位一体の神はたがいに愛し合う神。心をひとつに愛のダンスを踊るように。子が父のうちにいるように、同時に父が子のうちにいるように、たがいに交わりながら愛し合うのです。

【その朝まで】

「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、再臨の約束。では、そのときまで、私たちはどのように生きるのでしょうか。

  1. それは悩みのない生活ではありません。悩みがないふりをして生きるのでもありません。
  2. それは悩みに押しつぶされる生活ではありません。
  3. それは悩みの中で、三位一体の神と共に愛のダンスを踊る生活。悩むこの世に、神の愛を、神との愛を注ぎだす生活です。

【教会をたてる神】

このようなことを申し上げると、「そんなの無理です。私のような信仰のない、力もない者には」という声が聞こえてきます。もちろん、神さまはあなたに世界を救うヒーローになれとは言いません。この世の悩みの中で、この世に愛を注ぐのは、あなたではなく教会です。

さきほどは、愛し合う三位一体の姿のイメージ図を見ました。よくできたイメージ図ですけれども、やっぱり絵にすぎません。動かない絵です。生きている神の生きている姿は教会です。神はご自身の愛の目に見える姿を見せるために教会をたてました。私たちは「とんでもないです。神のかたちなんて。あまりにも力なく醜い私たちの教会が…」と言うでしょう。けれども父と子がすべてを与えてたててくださった教会です。力なく醜い私たちが、やっとの思いでゆるしあい、ぎくしゃくしながら受け入れ合い、失望しても何度でも立ち上がるその姿を、神はよしとしてくださるのです。ご自分のイメージとしてくださり、この世界の回復のモデルとしてくださっているのです。この私たちを!聖餐に移ります。


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2023/07/30

礼拝メッセージ「場所を用意する神」ヨハネの福音書14章1-11節 大頭眞一牧師 2023/07/30


「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2b)と、新約聖書の至聖所(ヨハネ13章-17章)に慰めの言葉が響きます。実際このお言葉によってどれほど多くの人びとが力づけられて来たことかと思います。

【心を騒がせるな】

私たちが励まされるのは、そこに私たちへの愛があるから。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」(1a)と言ったイエスは、ご自身が心を騒がせた神。ラザロの死に泣くマリアを見て、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、涙を流してくださった神(11章)。来るべき十字架を思い、「今わたしの心は騒いでいる。」(12:27)と口に出された神。私たちのために、私たちをご自身から隔てる死の力、悪の力を打ち砕くことを、ご自身のただひとつの願いとしてくださった神の心が騒いだのです。ですから「心を騒がせてはなりません。」は、ただの指示ではありません。「あなたがたを恐れさせ、不安にさせるすべて。恐れも、不安も、罪も、弱さも、すべてわたしが負った。だから、あなたがたの心は騒がない。それを忘れるな」とおっしゃるのです。

【主よ、どこへ】

「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、主イエスの昇天と再臨を意味しています。トマスは、それがわからないので、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(5)と訊ねます。

このトマスの問いへの主イエスの答は、父に目を向けさせようとするものでした。「どこへ?」に対する答は、「父のみもとへ」なのですが、その父について言葉を重ねるのです。「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)と。イエスは、父と子の分かつことができない交わりに目を向けさせようとします。「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(11c)ともあります。主イエスの生涯を通して注がれた私たちへの愛、その生涯の終わりの十字架を通して私たちに注がれる愛は、父と子が心ひとつに注ぐ愛だというのです。私たちのために、心を騒がせるのは子なる神だけではありません。父なる神の心もまた、私たちへの愛おしさのゆえに騒ぐのです。心騒ぐ父と子が、うなずきあって、私たちに子なる神を与えてくださった、投げ出してくださったのでした。

【わが故郷、天にあらず】

そんな父と子の騒ぐ心を知るとき、「あなたがたのために場所を用意しに行く」は、新たな光を放ちます。この世は天国行き列車の待合室ではなくなるのです。


ときどき信愛教会に来られる島先さんが、以前訳した「わが故郷、天にあらず」という良書があります。私たちがこの世を天国の待合室とみなすなら、

「積極的に善を行おうとするよりも、受身になって罪を避けようとする。このため、恐る恐る、慎重に生きるようになってしまう。つまり、規則を破らないように安全を期して、何もやらなくなる」(同書19ページ)

でしょう。けれども父と子の心を知るなら「主が命じられた事を忠実に行うことによって、私たちは主の再臨を待つ…そのため、私たちは祈り、御言葉に聞き、御言葉を伝え、子どもを育てる。主が来られるまで生計をしっかり立て…その他あらゆる面で責任ある生き方をする。マルティン・ルターは、

『あす主が戻られるなら、きょう何をするか』と尋ねられたとき、「木を植える」と言ったことで有名だ」(同書272ページ)。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6b)は、私たちにそんな生き方を鮮やかにします。主イエスはこう言うのです。「いのちであるわたしを飲み、真理であるわたしを食らい、道であるわたしを踏んで、歩け。あなたのうちに、いのちと真理と道であるわたしが満ちる。わたしがそうさせる。あなたは愛を注ぎだしながら、世界の回復となる。わたしがそうさせる。その先にわたしが用意している場所がある。その場所はもう始まっている。父と子の交わりの内に招き入れられたあなたがたの中に。父と子の招きに応じて、交わりのうちに入ったあなたの毎日に。あなたがたの毎日に」と。そんな互いをこの朝も喜び合います。


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2023/07/23

礼拝メッセージ「ひとりぼっちの神」ヨハネの福音書13章31-38節 大頭眞一牧師 2023/07/23


「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(38c)。新約聖書の至聖所で語られた、あまりにも心に痛い言葉。ひとりぼっちの神の心を今日も聴きます。

【なんという神だろう】

ユダが主イエスを裏切るために出て行ったとき、主は不思議なことを言いました。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」(31b-32)と。人の子とはイエスのこと。神が人となってくださった。子なる神が、私たちと同じ人に。そして、十字架に架けられることをご自分の栄光だと言ってくださる。私たちのために十字架に架けられることを。父もまたイエスの十字架をご自分の栄光だと言ってくださる。いったい…いったい…なんという神だろう!

【あなたがたは来ることができません】

けれども続いて、弟子たちをはっとさせる言葉が語られます。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(32d)と。また、ペテロにも「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。」(36d)と言うのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(37c)、と申し上げたペテロ。人間に可能な限りの熱心でも、主イエスについて行くことはできない、という厳しいお言葉が語られたのでした。このことは私たちは、みな、身に沁みて知っていること。熱心に主について行こうと願いながらもそうすることができなかった悔いがあります。そんなことはもう無理かもしれない、そんなあきらめに似た思いを味わうことも、しばしばです。

【しかし後には】

けれどももちろん、主イエスはあきらめません。たとえ私たちがあきらめたとしても。だからイエスは、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(36a)というのです。「後には」とは、十字架と復活、そしてペンテコステによって、聖霊により生きる者とされるとき。例によって言葉を補って言い換えるとこうなります。「わたしは明日には十字架に架けられる。自分を与える栄光のときだ。あなたがたが愛のいのちに生きることが、わたしの、そして父の栄光だからだ。無上の喜びだからだ。弟子たちよ、けれども、あなたがたは、今はわたしについて来るこができない。ペテロよ、あなたも、わたしについて来ることができない。どんなに熱心であっても。わたしはひとりぼっちで死んでいく。けれども、やはり、それは栄光のときなのだ。なぜなら、あなたがたは後にはついて来ることができるようになるからだ。わたしがそうさせてあげるからだ。いや、わたしたちが。父と子と聖霊の神が、あなたがたに、愛のいのちを満たすからだ。」と。

【愛のいのちに】

そう言われてもまだ、「私は主イエスについて行くことができていない。もうあきらめるしかないのでは」と言いたくなる私たちです。しかし、それは私たちの見方。主イエスはあなたをそんなふうにご覧になってはいないのです。主は、あなたの失望をそのままにしておかれない。そこに恵みの雨を注ぎ、みことばを注いでくださっている。あなたは主について行くことに、確実に成長しています。そうは思えなくても。

【私が私たちに】

先週は教区賛美セミナーの3回目。後藤真牧師が幸いなお証しをしてくださいました。その中で、ある勉強会で、救いとは「私が私たちになること」だと気づかされたことを話してくださいました。その勉強会には、私(大頭)もいたのですが、言われて思い出しました。神さまとの、そして人との関係が損なわれ、それでも、自分がなんとか、と苦しんでいた人びと。ペテロもそうでした。ユダもまた。けれども、主イエスがご自分を与えてくださることによって、そんな者たちが二重の「私たち」になりました。第一に、神の子とされ、主イエスを長兄とする私たちなりました。愛のいのちを注がれて、主イエスについて行く、いえ、主イエスと共に歩むのです。第二に、仲間たちと共に歩み私たちに。主イエスについて行く旅は、仲間と支え合い、励まし合い、赦し合い、覆い合う旅です。主が「ひとりぼっちの神」になってくださり、私たちをひとりぼっちから解き放ってくださったのでした。


ワーシップ「主の御手の内に生かされて」Bless



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2023/07/17

礼拝メッセージ「裏切られた神」ヨハネの福音書13章21-30節 大頭眞一牧師 2023/07/16


新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。ところがその至聖所で裏切りが起こります。神が裏切られたのでした。

【心を騒がせる神】

18世紀ごろの東欧では、イースターに「裏切り者のユダ」の人形を吊るして焼くことが行われていたのだそうです。キリストを裏切ったユダ憎し、というわけです。けれども、主イエスご自身はユダを憎みませんでした。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。」(21a)とあります。心が騒いだ!神の心が!主イエスはユダの裏切りに不安や恐れを感じたのではありません。もとより十字架を覚悟しておられるのですから。主イエスの心、神の心が騒いだのは、光の中から暗闇の中へ去って行こうとするユダを思ってのことです。ユダを愛し、ユダを惜しんで、無関心ではいられず、心を騒がせ、あわれみに胸を熱くしてくださったのでした。ここまでにも、何度も主イエスはユダの裏切りを口にされました。主イエスはそのたびごとにユダを惜しみ、ユダのために心を騒がせてくださっていたのでした。

私たちが罪をおかすとき、神の心は騒ぎます。私たちを愛し、私たちを惜しんで、無関心ではいられないからです。罪をおかした者の最大の苦しみはここにあります。罪は、神の心を騒がせること、神の心を繰り返し痛め、悲しませることだからです。

【サタンが…】

「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。」(27)とあります。私たちはこの個所を読むと、「サタンが入ったのならしかたがない、主イエスもユダをあきらめて、『あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。』(27c)といったのだろう」と思ってしまうかもしれません。

けれども、主イエスはしばしば悪霊を追い出されてきました。そして十字架の上で、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(へブル2:14b-15)。ですからサタンには勝てないと思ってはなりません。ユダはサタンのそそのかしに、やはり自分で同意してしまったのでした。

ユダはなぜ主イエスを裏切ったのでしょうか。お金をごまかしていたから、ユダヤが、武力でローマから独立することを望んでいたから、そういったこともあったでしょう。しかし何よりも、ユダは主イエスが開かれた神の国を見ていませんでした。主イエスは、ユダ以上の革命家でした。武力によってローマを追い出すのではなく、世界を神の国にしたのです。それをさまたげるサタンを滅ぼすことによって。サタンは、ユダの心を将来への不安や、自分が今なんとかしなければという恐れや焦りによって縛りました。ユダの破れ、神との関係の破れを通して入り込みました。

「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」(30)。何もいわずに闇の中へと去っていったユダ。私たちの心も騒ぎます。痛みます。主イエスの心とともに。裏切られてもなお愛する神の心とともに。

【イエスが愛しておられた弟子】

「イエスが愛しておられた弟子」(25b)は、ヨハネが、好んで用いた言葉。ヨハネ自身のことですが、それだけではありません。「イエスが愛しておられた弟子」は、私たちのことでもあり、ユダのことでもあります。

ユダの最大の問題は、自分が「イエスが愛しておられた弟子」であることを忘れたことにあります。闇の中に出ていくその背中にも、主イエスの愛のまなざしが痛いほど注がれていたのに、それがわからなかったのです。苦々しい思いで、たったひとりで、背筋を伸ばして、伸ばした背筋に悲壮感をみなぎらせてユダは去っていきました。

それに比べてヨハネはあまり毅然としているようには見えません。「イエスの胸元に寄りかかったまま」(25a)でくつろいでいるのです。当時は身を横たえての食事の習慣であったとはいえ、なんともほほえましい光景です。ヨハネは、主イエスの愛の中にひたっているのです。仲間と共に。

「ユダにはなるまじ」という賛美があります。ユダにならないための秘訣は、主イエスの愛の中にいることです。仲間とともに。それは今、私たちがしていることです。いっしょに集まり、主イエスの愛のことばに耳を傾け、私たちの愛を、仲間とともに献げる。仲間どうしで注ぎ合う。そんなたがいを喜びましょう。光の中で。



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2023/07/09

礼拝メッセージ「仕える神」ヨハネの福音書13章12-20節 大頭眞一牧師 2023/07/09


新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。今日もここから主イエスの心の言葉、愛の言葉を聴かせていただきます。

【たがいに足を】

弟子たちの足を洗ってくださった主イエス。上着を脱いでしもべとなって。「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き」(12a)ました。上着をまとって、権威ある主として、語ったのです。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(12b-14)と。主イエスの権威は、愛の権威。主イエスが「互いに足を洗い合わなければなりません。」とおっしゃなら、それは「がんばって足を洗い合いなさい。そうしなければいけない」と強制しているのではありません。「わたし(主イエス)がそうさせてあげる。このわたしが、あなたがたが足を洗い合うことができるようにさせてあげる」と励ましているのです。

なにも問題のないときに、たがいにあいさつをしたり、親切にするのでしたら、私たちも抵抗がないでしょう。いつもそうしています。けれども、たがいの足が汚れているときに、つまり、わだかまりや、赦せない思いがあるときに、たがいに向き合い、愛をもって相手を受け入れ、赦し、覆い、あるいは愛をもって自分の痛みを伝えることは難しいことです。たがいの頑なさがあります。たがいの恐れがあります。そんなとき、私たちは、たがいの関係を健やかにすること、たがいの足を洗い合うことにしり込みしてしまうのです。

【しもべは主人にまさらない】

そこに主イエスのみ声が響きます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」(15-16)と。主イエスは模範。けれども、単なるお手本ではありません。「イエスがしていることを、がんばって真似しなさい」というのではないのです。主イエスは父から遣わされ、父との交わりのうちに、私たちの足を洗ってくださいました。私たちも、主イエスから遣わされ、主イエスとの交わりのうちに、たがいの足を洗い合うことができるのです。いつものように言葉を補って、言い替えてみましょう。「わたし(主イエス)は、父から遣わされ、父との愛の交わりのうちに、あなたがたの足を洗った。あなたがたも、同じようにすることができる。わたしがあなたがたを遣わし、わたしがあなたがたに愛を注ぐ。だからあなたがたは、足を洗い合うことができる。わたしがそうさせてあげる。遣わされた者は遣わした者にまさらない。あなたがたの頑なさや恐れは、わたしの愛にまさらない。『わたしと同じように生きよ』とわたしが言うのだから、あなたがたはそうできるのだ。わたしがそうさせてあげよう」と。

【かかとを上げる者】

けれどもそんな主イエスの愛は、苦しみなしに注がれるのではありません。「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」(18)とあります。直接にはユダのことでしょう。けれどもその背後には、私たちを愛から遠ざけようとする大きなが存在します。罪と死の力といってもよいでしょう。主イエスはこの力によって十字架に架けられました。けれども復活によって、この力を打ち砕かれたのでした。だから、愛し合う生き方は、今、私たちのものとなっているのです。

【わたしはある】

そうは言っても、とおっしゃるかもしれません。主イエスのように愛することはできていないです、と。たしかにそうです。しかしいのちの成長には時間がかかります。私たちの頑なさや恐れには、自分でもよくわからない傷や痛みといった原因があるのですから。

「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」(19)もまた主イエスの愛の言葉。「わたしはある」は単なる「神はいる、神は存在する」という意味ではありません。「わたしはあるようにする」という意味も持つ言葉。神は、あるようにさせる神。神は私たちをご自分がそうあらせたいと思うようにさせる神。ですから、神は私たちを、「足を洗い合うことができるようにする神なのです。


By adriatikus, CC BY-SA 2.5
ロシア正教などの正教会では、写真のように三本の指を合わせ、残りの二本の指を折って、十字を切ります。キリスト教会にとってももっとも大切なふたつのことの表現です。合わせた三本の指は三位一体を、折った二本はキリストがまったき人であり、同時にまったき人であることを表しています。私たちがたがいに愛し合うことができる理由は、ここにあります。私たちは三位一体の神の愛の交わりに招き入れられました。そこであふれるほどに愛を注がれています。そんな愛の中で、人となった神であるイエスによって癒され続けています。神が人となって、私たちの傷や痛みを、いわば内側からご自分のものとして、受け取って、癒してくださっているのです。だから私たちはたがいに愛し合うことができます。今よりもさらに。自分のがんばりとはちがう次元で。聖餐のうちにさらに主イエスのいのちを受け取ります。


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2023/07/01

礼拝メッセージ「足を洗う神」ヨハネの福音書13章1-11節 大頭眞一牧師 2023/07/02


今日の聖書箇所から17章までは、最後の晩餐の記事。受難週の木曜日のできごとです。こうして最後の数時間を弟子たちと過ごした後、主イエスは捕らえられます。13章から17章を新約聖書の至聖所(ホーリー・オブ・ホーリー)と呼ぶ人もいます。主イエスの心の奥からあふれ出る愛の言葉に聴き入りましょう。

【心とたましいに刻むことば】

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1)。主イエスの心の至聖所にあったものはなにか。それは「世にいる自分の者たち」への愛。これは弟子たちのことですが、私たちのことでもあります。私たちはまさに「世にいるイエスの者たち」だからです。私たちは主イエスの宝もの。玉ねぎの皮をむくように主イエスの心をむくと、そこには私たちへの愛があるのです。


7月に教区の賛美集会があります。信愛の方がたが3曲用意してくださっていますが、うち一曲は私が作詞して、信愛の方が作曲してくださった「神さまの宝物」という賛美です。そこで繰り返されるのが『心とたましいに刻むことば、それは愛のことば。神の愛のことば』です。私たちも主イエスの愛を胸に刻みたいと思います。いえ、すでに刻まれています。だからこうして礼拝に集っているのです。

【足を洗う神】

「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(4-5)足を洗うのは、奴隷の仕事。ペテロがあわてて止めようとしたのも無理はありません。神に、自分の汚(よご)れた足を洗わせるなど、とんでもないことだからです。けれども私たちの汚れは、神であるイエスにしか洗うことができない汚れ。私たちを神から遠ざけ、たがいから遠ざけ、自分をも嫌いにさせる汚れを主イエスは放っておくことがおできになりません。そのための受肉と十字架でした。「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。」(3)とあるとおり。

【ユダの足も】

足を洗っていただいた者たちの中に、ユダもいたことを思います。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」(2)主イエスはこのことを、ご存じだったにもかかわらず。主は「こいつめ、こいつめ」と思いながらユダの足を洗ったのではないはずです。ユダの足をいつくしむように、ていねいに洗ってくださったでしょう。ユダはその主イエスの手のぬくもりを感じていたはずです。その愛を。それなのにユダはイエスに背を向け続けてしまいました。それは主イエスにとってなんとも大きな痛みでした。

【あなたがたはきよい】

先週は名古屋の東海聖化大会で語りました。あらためて感じたことは、自分がきよめられているのかどうか、で悩んでいる方がたが多い、ということ。主イエスはレプタ二枚を献げたやもめを喜ばれました。我を忘れて神を愛したやもめの自由な心を喜ばれたのでした。体験はさまざまです。はっきりしたきよめの体験がある人もいれば、そうでない人もいます。けれども、神さまはそれぞれに、オーダーメイドの導き方をしてくださって、神と人への自由な愛を解き放ってくださるのです。神と人へ精一杯の愛の前傾姿勢をとらせてくださるのです。

聖会の後、YouTubeライブで視聴した友人から連絡がきました。「私は、かなり前のめりに歩けるはずなのに、イエスさまや友の助けを拒むあまりに、軽くしか前傾姿勢を取れない」と。そんな私たちの足を主イエスは洗ってくださいます。すでにキリスト者とされた私たちは全身を洗っていただく必要はありません。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」(10b)との記事には、洗礼がイメージされているでしょう。すでにキリスト者、キリストのものとされ、キリストのいのちを生きる私たち。そんな私たちは日々主イエスに洗っていただきながら、仲間とともに歩みます。さらに愛を増し加えられながら、さらに癒されながら。私たちの恐れも、罪も、傷や痛みも、主に差し出して、今、聖餐に与ります。

                    
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2023/06/26

礼拝メッセージ「子を遣わした神」ヨハネの福音書12章44-50節 大頭眞一牧師 2023/06/25


「イエスは大きな声でこう言われた。」(44a)とあります。「イエスは叫んで、こう言われた」という訳もあります。イエスが十字架を前に、大きな声で叫んだこと、今日もその大声に心を開きます。ヨハネの福音書は13章から新しい展開を見せます。一気に十字架に向かっていくのです。今日の箇所はその直前の部分。ここには主イエスがこれまで語ってきたみ言葉のまとめが記されています。私たちもヨハネがここまで述べてきた主イエスの福音を振り返り、確認することにします。

【わたしを遣わされた方を】

「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(44b-45)が、第一の大声です。父は子をこの世に、つまり、私たちに遣わしてくださいました。それは私たちを神との交わりに招くために。以前にもお見せしたイラストをもう一度。父と子と聖霊の三位一体の神は愛のダンスを踊る神。そのダンスに私たちも加わります。父と子が心をひとつに私たちを欲するからです。聖霊によって。第一ペテロにこうあります。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(1:8)

【わたしは光として】

第二の大声は、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(46)です。ヨハネはこの福音書の最初から、主イエスが光であることを語ってきました。この世は闇。世界はあちらこちらで破れてしまっています。神と人との関係が、人と人との関係が、人と被造物の関係が、破れてしまっていて、そこから闇が入り込んでいるのです。けれどもそんな闇から私たちを開放するために、主イエスは光として遣わされて来ました。「アブラハムと神さまと星空と」という歌を作詞したことがあります。そのさびのところは「今夜世界に三つの光、イエス・キリストとぼくたちと星空と」です。この世界にイエスという光が来てくださいました。私たちもその光に照らされて、小さな光として輝いています。罪は私たちに追いつこうとします。私たちを競い合わせ、反目させ、赦し合えないようにしようと。けれども主イエスに照らされ続けるなら、そして仲間でたがいを守り合うなら、「だれも闇の中にとどまることのない」のです。罪を犯したとしても、顔を上げてやり直すことができるのです。何度でも何度でも何度でも。

【さばくためではなく、救うために】

「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」(47)は、第三の大声、そして大きな慰めです。主イエスが来られたのは、私たちを闇の中に放っておくことができなかったから。神を愛することができず、人を愛することができず、自分を愛することができない私たちをそのままにしておくことができなかったからです。自分でも自分を赦すことができないような思いさえする私たちを。例によって言葉を補って言い換えてみます。「わたし(主イエス)はすべての人を招くために来た。わたしたち(三位一体の神)の愛の交わりの中に。招きに応じようとしない人がいても、わたしはその人をさばかない。その人のためになお、わたしのいのちを注ごう。十字架の上で」と。

【主イエスのことばがさばく】

けれども主イエスは「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(48)とも言います。結局のところ、神のさばきを語っていると思えるところです。しかし、思い出すべきは、主イエスの言葉はすべて愛の言葉だということ。主イエスの言葉はご自身のいのちを添えた愛の招きです。その招きを拒み続けることは、主イエスの愛、そして父の愛を拒むこと。神などいらない、と神に背を向けることです。ですから主イエスは、さばきで脅かすのではなく、胸を熱くしながら懇願するかのように語っておられるのです。当時の人びとに、そして私たちに。「父と子の愛に背を向けることがないよう。光に、いのちに背を向けることがないように。お願いだから、わたしと共にいて欲しい。あなたのために差し出したわたしの血によって生きよ」と。


                    
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2023/06/19

礼拝メッセージ「栄誉を与える神」ヨハネの福音書12章36b-43節 大頭眞一牧師 2023/06/18


「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。」(36b)とあります。それは「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(37)からです。主イエスの背中が見えるようです。人びとを惜しみ、悲しみ、それゆえに、なおさら十字架への決意をかたく、去って行かれるそのお心には察してあまりあるものがあります。それを見つめる父のお心も。今日、父の日。主イエスの背中に現れた父と子の愛を聴き取りましょう。

【信じないために?】

ヨハネはここで、イザヤ書53章を引用します。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(ヨハネ12:38c)。イザヤ書53章は、人びとに受け入れられず、蔑まれ、見捨てられて殺される「主のしもべ」を語る箇所。主イエスの十字架の預言です。イザヤ53章にはこうもあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4)。来るべきメシア(主イエス)は神に罰せられた、と人びとは考えるのです。けれどもイザヤは続けます。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。「主のしもべ」(イエス)の苦難は、すべての人の救いのためでした。罪と死の支配のもとにあった私たちが癒され、解き放たれるためだったのです。

ヨハネは次いでイザヤ書の別の箇所を引用します。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」(ヨハネ12:40)。これはイザヤ書6章から。イザヤ書6章は、イザヤが幻を見る箇所。自分の汚れを知ったイザヤの唇に燃えさかる炭が触れ、イザヤは神のことばを語るべく遣わされます。ところが神は奇妙なことをイザヤに言うのです。人びとに語れ、でも立ち返ることがないように、と。例によって言葉を補って言い替えてみます。「イザヤよ。わたし(神)はあなたを遣わす。人びとが立ち返るために。けれども覚悟せよ。彼らは立ち返ることがないだろう。あなたは、まるでわたし(神)が、彼らを頑なにしていると感じるだろう。それでも語り続けよ。いつか、彼らは知る。あなたが(イザヤ書6章で)見た神の栄光は、やがて来る『主のしもべ』(イエス)の栄光である。しかし、神であるイエスがこの世界に来ても、人びとは信じないだろう。人びとがあなた(イザヤ)の言葉を信じないように。そして、かえってイエスを十字架に架ける。しかし、イエスの苦難はむだになることはない。その死と復活によって人びとは救われる。神のいのちを生きるようになるのだ。だから、語り続けよ」と。

【神の大きな出来事】

神ご自身が「主は彼らの目を見えないようにされた。」(40a)と言うほどに、頑なな人びと、頑なな私たち。そんな私たちはどのようにして信仰に入ることができたのでしょうか。救いのお証しを聞くときにいつも気づかされることがあります。それは救いにいたる経緯は順序よく語られるのですが、最後の「信じた」という瞬間になにが起こったかは言葉にならない。「そして…信じました」と、ジャンプがあるのです。救いは出来事。私たちには完全に説明することも理解することもできない大きな、大きな出来事を神が起こしてくださったのです。

「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」(42-43)とあります。ヨハネの残念さと痛みがにじみ出ているようです。ヨハネが感じているのは、神の痛み、神の残念さ。信じたけれども、公の信仰の告白に至らなかった人びとを惜しむ痛みです。けれども、神さまはそこでも出来事を起してくださったでしょう。これらの人びとの中からも、主イエスの十字架と復活の後、信仰を告白した人びとを起してくださったにちがいありません。今も、神は、私たちに続いて信仰を告白する人びとをなお、起こしてくださっています。父と子と聖霊なる神が、心をひとつに。

          
          ワーシップ(Bless) 新聖歌420「雨を降り注ぎ」


          
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2023/06/12

礼拝メッセージ「心を騒がせる神」ヨハネの福音書12章27-36a節 大頭眞一牧師 2023/06/11


「今わたしの心は騒いでいる。」(27a)とおっしゃるイエス。私たちはこの言葉を聞くとき、神が心を騒がせるとは、どういうことだろうか、といぶかかしく思います。いったい神の心が騒ぐことがあってよいのか、と。神学校で教会史を教えるときに、神学生がきちんとできるまでしつこいほど行う演習があります。以下の文章に〇か×をつけてください、というものです。

  1. 神の子が十字架に架けられた
  2. 子なる神が十字架に架けられた
  3. 神が十字架に架けられた

いかがでしょうか。ほとんどの人は①は◎、②については少し考えて〇、③は「むむむ」といったところではないでしょうか。答えはすべて◎。③は6世紀ごろさかんに用いられ、その後、「父なる神が十字架に架けられた、という誤りと混同されやすい」という理由であまり使われなくなりましたが、ルターによって再び語られるようになりました。神が十字架に架けられたのです。私たちの神は十字架に架けられた神。だからもちろん「心を騒がせる神」なのです。私たちのためには、平気でいることができず、心を騒がせてくださる神なのです。この私たちのために!

【心を騒がせる神】

主イエスの心は騒いでいます。「何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。」(27bc)と。けれども心騒ぎながらも、主イエスの愛はあふれます。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27d,28a)と。イエスの時が来ました。私たちのためにご自身をあたえる時、栄光の時が。私たちのためにご自身を与える時が、イエスの栄光の時なのです。けれども、それは主イエスだけの栄光ではありませんでした。

そこへ父なる神の声が響きます。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」(28c)。「再び」は「さらに」とも訳せる言葉。言い換えると「子よ。わたしは、あなたを地上に遣わし、あなたにわたしの心を語らせ、あなたに愛のわざをおこなわせてきた。わたしとあなたとが、世界に愛を注いだのだ。そんな愛が、私たちの栄光だ。今、さらに、わたしたちの栄光を現そう。さらに愛を注ごう。あなたの十字架によって。架けられるあなたの痛みと、架けるわたしの痛みをかみしめながら」とおっしゃったのでした。父と子が心をひとつに私たちを愛してくださっています。聖霊もまた。

【この世を支配する者】

けれども父と子の心は同時に喜びにも震えていました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」(31)。「今」「今」と繰り返されるところに父と子のワクワクするような喜びが感じられるようです。私たちの弱さ、勇気のなさ、愛の鈍さ、受けた傷や痛み。そんなさまざまな破れを悪用して、私たちを支配し、私たちを神から遠ざけようとする者がいます。そんな力があります。この世の支配者がそれです。悪魔と呼んでもよいのでしょうが、その実態は罪と死の力。子は、父と心を一つに、そんな支配者を追い出します。いえ、もう追い出されました。十字架によって、罪とその結果をご自身に負い、復活によって死に勝利することによって。そして「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(32)が実現し、私たちは神の子とされました。そうされているのです。

【光はあなたがたの間に】

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(35-36)の主イエスの言葉は、当時の人びとのためでもあり、私たちのためでもあります。

当時の人びとに対しては「わたしが十字架に架けられる日が迫っている。光であるわたしが、あなたがたの間にいる間に、光であるわたしを信じなさい」と語られました。そして、すでに神の子、光の子とされた私たちには「あなたがたは光の中を歩きなさい。父とわたしが追い出した罪と死の力は悪あがきをして、あなたがたを襲おうとする。だから、ますます光の子として歩きなさい。光であるわたしに結びつき、光の子である仲間たちとたがいに守り合うなら、闇に追いつかれることはない」と、励ましてくださっているのです。

          
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2023/06/05

礼拝メッセージ「一粒の麦の神」ヨハネの福音書12章20-26節 大頭眞一牧師 2023/06/04


マルタが注いだ香油を香らせ、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたイエス。受難週の最初の日である日曜日のできごとです。5日後の金曜日の十字架はもう目の前に迫っています。

【栄光の時】

ここまでヨハネの福音書は、イエスの時はまだ来ていない、と繰り返してきました。イエスは母マリアに「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と語り、兄弟たちに「わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」(7:8)と言っています。8章でもヨハネは「イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」と記しました。ところが、棕櫚(なつめ椰子)の主日に、主イエスはついに宣言されました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(23)と。

主イエスの時、主イエスが栄光を受ける時は、何人かのギリシア人たちがイエスにお目にかかりたいと、願い出たときに訪れました。ギリシア人がユダヤ人の祭りである過越の祭りに来ていたというのですが、当時、少数ではあってもそういう人びとはいたようです。主イエスはユダヤの人びとがなつめ椰子の枝を振って「イスラエルの王」と呼んだ時ではなく、このギリシア人たちが面会を願った時に、ご自分の栄光の時が来た、とおっしゃったのでした。

主イエスはご自分の十字架、そして復活・昇天・聖霊降臨が、ユダヤ人だけではなく、すべての人のためであることをご存じでした。ですから「わたしは、すべての人に神のいのちを与えよう。このギリシア人たちにも。その時が来た。すべての人にいのちを注ぐ栄光の時が来たのだ。」とおっしゃったのです。その声はユダヤ人でない私たち一人ひとり、ここに集っている日本の、韓国の、カンボジアなどの一人ひとりにも響いています。主イエスはあなたを救うのでなければ満足なさらないのです。あなたが神の民に加えられていないことに耐えることがおできにならないのです。ご自分のそばに、あなたがいるのでなければ!

【一粒の麦】

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(24)と主イエスは語ります。言葉を補えば「わたしは死ななければならない。わたしが死ななければ、あなたがたにいのちをあげることができない。しかし、わたしが死ぬなら、あなたがたは生きる。神と関係を持つことができず、罪の中に、いのちなく死んでいたあなたがたは生きる。あなたがたの中にわたしのいのちを注ぐとき、あなたがたに血がかよい、心が愛の鼓動を打ち始める。そうして、あなたがたから世界に向かって愛があふれだす。そのためにわたしは死のう。あなたのために喜んでいのちを投げ出そう」そうおっしゃってくださったのでした。私たちに注がれたいのちは復活のいのち。私たちの生涯に豊かな愛の実を結ばせるばかりではなく、死の向かう側に永遠に続く、豊かな愛の実を結ばせてくださっているのです。

【いのちを憎む?】

続いて主イエスは、主イエスの与える新しいいのちの生き方を語ります。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(25)と。「いのちを憎む」というのは強い表現ですが、十字架が最上の解説です。主イエスは十字架で私たちにいのちを与えることに夢中でした。ゲッセマネで「アバ、父よ…どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」ともだえながらも「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)と、いのちを手放されたのです。主イエスはいのちを軽くにぎって、父におゆだねになったのです。自分のいのち、自分の思い、自分の好み、それらはみな神さまからの賜物です。けれどもそれらを軽く握って、その時が来たら手放すなら、神さまはその手放されたものから豊かに実を結ばせることができます。あなたが、そして、あなたを通して世界が豊かな実を結ぶのです。星野富弘さんの詩に「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった」(「花の詩画集」より)とあります。いのちより大切なもの、それは神との交わりです。神さまに愛され、愛することです。すでに「いのちよりも大切なもの」を持っている私たちは幸いです。「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。」(26b)とおっしゃる主イエスが、この交わりのうちに私たちを保ってくださっています。

          
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2023/05/28

ペンテコステ礼拝メッセージ「ろばの子に乗った神」ヨハネの福音書12章12-19節 大頭眞一牧師 2023/05/28


先週は主イエスの足に注がれたナルドの香油。主は、その芳香を、ご自分の葬りのための支度とみなしてくださいました。今日の箇所は、その翌日。ろばの子に乗った主イエスから、この日も、その芳香はたちのぼっていたのでしょう。マリアの愛を、つまり私たちに愛を身にまとって、主イエスは進んでいかれます。

【神の大きな物語】

それにしても、なぜペンテコステに、ヨハネをいつものように?と、思われるかもしれません。使徒の2章とか、ヨハネであるなら20章で主イエスが「聖霊を受けなさい」と言われたところとか、と。もちろん、そうしてもいいのですが、その場合、ペンテコステの出来事だけが、強調されすぎてしまうかもしれません。神さまは、アブラハムを召して、世界のすべての民の回復を進めてきました。ペンテコステの出来事は、その大きな神の物語のひとつのクライマックスです。そして私たちは、聖霊を私たちの内に、今も続くそのクライマックスを生きているのです。そんなまばゆいペンテコステの光の中で、ろばの子に乗った神の言葉を聴きます。

【なつめ椰子の枝を】

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。」(12-13a)とあります。なつめ椰子はかつて「棕櫚」と訳されていました。この枝は、ユダヤの歴史と関係しています。ちょっと見てみましょう。

  • 紀元前200年ごろ ユダヤ,セレウコス朝シリヤの支配下に
  • 紀元前164年 ユダヤ,シリヤから独立。エルサレム神殿を奪還、偶像排除。なつめ椰子を振り、神殿奉献。
  • 紀元前37年 ユダヤ,ローマの属国に。独立待望
  • 紀元30年ごろ イエス、なつめ椰子で迎えられる

つまり、ユダヤ人たちは主イエスに、ローマから自分たちを解放してくれる「イスラエルの王」(13d)を求めていたのです。その期待は主イエスがラザロをよみがえらせたことによって頂点に達したのでした。

【ろばの子に乗った神】

王であるなら堂々たる軍馬に乗るのが普通です。ところが主イエスはろばの子に乗っていました。ヨハネは、それが聖書(旧訳聖書)の預言だと記します。「次のように書かれているとおりである。」(14b)「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(15)と。これは、ゼカリヤ9章9節。続くゼカリヤ書の9章10節はこうです。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(ゼカリヤ9:10)。すなわち、聖書が預言する王は、軍事力で敵を打ち破る王ではありません。力のない王。弱い王。けれどもその弱さによって世界を造り変える王。この王によって、世界に平和が実現するのです。破れてしまった世界に回復が訪れるのです。人びとの心が内側から造り変えられることによって。

【ペンテコステの出来事】

このとき、人びとには、それがわかりませんでした。弟子たちにもわからなかったのです。「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」(16)。しかし、主イエスが栄光を受けられた後、つまり、十字架・復活を経て、弟子たちに聖霊を与えたとき、彼らは気づきました。イエスは王。十字架という弱さの極みにおいて、ユダヤ人の敵ではなく、世界の敵である死と罪の力を滅ぼされたことを。そして弟子たちを、そして、私たちを、神の子とし、キリストのいのちを与え、聖霊を住まわせてくださったことを。今、私たちはそんなまばゆいペンテコステの光の中にいます。主イエスと共に、聖霊を内に。軍馬ではないろばの子のような私たちが。そこでは、私たちの弱さも世界の回復をもたらす窓です。それは①神さまが、私たちの弱さや破れを赦し、受け入れ、そこに祝福を造り出すことを世界が見ることによって②私たちがたがいの弱さを覆い合い、支え合い、愛し合うすがたを世界が見ることによって。

【恐れるな】

実はヨハネはゼカリヤ9章9節のひとつの言葉を変えて記しています。ヨハネに「恐れるな」とあるのは元のゼカリヤでは「大いに喜べ」です。私たちには「大いに喜べ」と言われても喜べないときがあります。困難の中にあるとき、悲しみの中にあるとき、さまざまにうまくいかないことがあるときに。そんな喜べないときにも、「恐れるな」と神さまは語ります。なぜなら、私たちの困難や悲しみ、苦闘を通して、神さまが世界の回復を進めてくださるからです。すいすいと人生が進んでいるときよりも、弱さの中にある私たちを用いて、世界の回復をよりいっそう進めてくださるのです。だから恐れるな。仲間と共に、ペンテコステの聖霊を内に、前に進もう。

          (ワーシップ「鹿のように」 Cover by Bless)




(ワーシップ「ハレルヤハレル」 Bless <Original>)



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2023/05/23

礼拝メッセージ「香油を注がれた神」ヨハネの福音書12章1-11節 大頭眞一牧師 2023/05/21


ラザロをよみがえらせた主イエスを最高法院が殺そうとしたため、主はいったん「荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」(11:54)のでした。これが先週の箇所。ところが、今日の箇所で「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。」(1)とあります。ベタニアはエルサレムへ向かう通過点。主イエスは過越の祭りをエルサレムで迎えるために、つまり十字架に架かるために戻って来られたのでした。

【ナルドの香油】

香油注ぎの記事がルカの福音書にもあります。ルカでは、もてなしに心を奪われているマルタの姿は否定的に描かれています。でもヨハネはそうではありません。マルタとマリアを比較するのではなく、主イエスとマリアに焦点を合わせているのです。

マリアが注いだ香油は一リトラ、約326グラム。こういうものは数滴ずつしか使わないもの。ところがマリアはこれを全部イエスの足に注ぎました。足がびしょびしょになってぬぐわなければならないほどに。イスカリオテのユダの見積もりによれば三百デナリ。日当が一デナリですから、年収に相当する金額です。これはマリアの全財産であったかもしれません。そこから、「マリアは全財産を主イエスに献げた。私たちもすべてを献げて」と言いたくなるところです。けれども、これがマリアの全財産であったかどうかは書かれていません。そして三百デナリと、金額を問題にしたのはイスカリオテのユダであって、主イエスでもマリアでもないことに気づくのです。

ユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5)とマリアを責めます。それはユダには二つの後ろめたさがあったから。一つには「イエスを裏切ろうとしていた」(4)から。もう一つは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6)。つまりユダの愛は失われてしまっているのです。主イエスへの愛と仲間への愛、二つの愛が。

マリアが注いだのは愛。ラザロをあわれみ、マリアをあわれんで注がれた主イエスの愛。ラザロを生き返らせてくださった主イエスの愛が、今、マリアに満たされ、あふれだしました。家は香油の香りでいっぱいになった。」(3b)。マリアはただただ主イエスに愛を注ぎたかった。三百デナリだろうがどうだろうが、そんなことも考えていないのです。貧しい人のために施すことも、まったく頭にありません。今、ここで、目の前の主イエスの愛を注ぐことに夢中になったのでした。ユダは正論です。冷静に考えればその通りなのでしょう。その意味ではマリアは愚かです。数百万円をむだにしたのですから。

けれども愚かと言えば、ユダの目に最も愚かに見えたのは主イエスの十字架だったでしょう。民衆が待望し、王にしようとしているのに、主イエスは十字架を選ぶのです。そして主イエスは「そうだ、ユダのいう通りだ。マリア、なんと無駄なことをするのだ」とは言いません。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7)と、マリアをよしとされたのです。マリアの愛を喜ばれたのです。ユダの冷たい視線の先に、愚かなイエスと愚かなマリアがいます。ふたりは愚かな愛を注ぎ合って、喜び合っているのです。

【けれども、神が】

主イエスの「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7b)は、もちろん十字架を指します。もちろんマリアは、すべての人にいのちを注ぐ十字架を知っていたわけではありません。けれども、神が、マリアの愛に意味を創り出してくださいました。マリアの愚かな愛、愚かな行いを、十字架に結び付け、貴い愛、貴い行いとしてくださったのです。

私たちはマリアの愛に感謝します。私たちもそうしたかったからです。それをマリアが代わってしてくれたのです。そして私たちは主イエスの愛に感謝します。マリアの愚かな愛を貴い愛としてくださった主イエスは、私たちの愚かな愛を貴い愛としてくださるからです。私たちは愚かなだけではありません。しばしば心弱く、不完全で、ときには後ろめたさを正論で押し切ろうとするユダにも似た私たち。主イエスはそれでも私たちの愛を、「そのままにさせておきなさい。」と言ってくださいます。「あなたがたの愛をわたしは喜んでいる。なお、わたしの愛を注いであげよう。ますます、あなたがたが健やかになるように。あなたがたの愛が解き放たれるように」と。そんな主イエスを、そんなたがいを、今日も私たちは喜んでいるのです。



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2023/05/14

礼拝メッセージ「民に代わって死ぬ神」ヨハネの福音書11章45-57節 大頭眞一牧師 2023/05/14


先週は、主イエスの「ラザロよ、出て来なさい」の叫びを聴きました。死と罪の力からの解放の宣言です。けれども、そのために主イエスは十字架と復活を通らなければなりません。事態は一気に動き始めます。

【見ないで信じる私たち】

「マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」(45)とあります。この人たちはラザロがよみがえったのを見て、イエスを信じました。けれども、やがて彼らが、主イエスを十字架につけようとすることを、私たちは知っています。しるし、つまり、奇蹟を見て信じることと、イエスとの愛の関係に入ることはちがいます。それなのに、私たちは主イエスと愛し合う関係に入れられています。しるしを見ようが見まいが、主イエスと共に生きるのです。主イエスがしてくださったこの不思議を喜ぼうではありませんか。

【自分たちにとって得策】

ところが、「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集し」(47a)ました。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」(48a)と心配したからです。当時、ユダヤはローマの属国。半独立国でした。ユダヤ人たちは異邦人であるローマの支配を不満に思っていました。そしてユダヤをローマから解放するメシア(救い主)の出現を待望していたのです。そこへラザロのよみがえりです。ユダヤの民衆がイエスをかついで、ローマに反乱を起こすかもしれない、そうしたらローマの怒りをかい、属国の地位も奪われるでしょう。そうなったら、ユダヤの指導者たちも特権をはく奪されてしまう、そう恐れたのです。イエスの時代の後、ユダヤは実際にローマに反乱を起こし、その結果、国が消滅したのですから、この恐れは現実のものでした。

そこで大祭司カヤパが「あなたがたは何も分かっていない。」(49b)と言います。彼にはわかっていました。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(50)、つまり、「イエスを殺さなければならない。そうしたら反乱は起こらないですむ。ユダヤは、そして自分たちユダヤの指導者たちは現状を維持することができる」と。会議の結論は、イエスを殺害することでした。しるしを見て信じた民衆も、しるしを見て恐れた指導者たちも、だれも主イエスの心、神の心を知る者はいなかったのです。

【神の心】

イエスを殺すべし、と、自分たちの保身のために発言した大大祭司カヤパ。けれどもヨハネは不思議な言葉を記します。「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので…預言したのである。」(51b-52)と。つまりカヤパは自分ではそのつもりがなかったのに、預言をしたのです。神の心を語ったのです。心ないカヤパの言葉に、神がご自分の心をこめてくださり、心をこめて意味を造り出してくださった、と言うこともできるでしょう。

その意味とは「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられること」(51b-52)でした。

このとき、だれも神の心を知る者はいませんでした。ユダヤの民衆は、奇蹟を行ったイエスをかついでローマを追い出そうとしました。指導者たちは、ローマに逆らわないで、現状を維持しようとしました。けれども神の心はユダヤ人もローマ人も、すべての人びとを救うことにありました。すべての人に神のいのちを与えて生きる者にすること。そのために神である主イエスが人となって来てくださったのでした。どんな犠牲を払っても、十字架の血をもっても、私たちを神の子とすること、それが神の心なのです。

ゴールデン・ウィーク中に明野キリスト教会でひとりのご高齢の方が受洗されました。「これからは息子夫婦といっしょにイエスさまを信じて生きていきます」と告白なさったのです。洗礼式の中で、私は、説教の代わりに、その方に宛てたとても短いお手紙をお読みしました。「洗礼おめでとうございます。イエスさまはすべての人に洗礼を受けるように命じました。それは、イエスさまが私たちを洗ってくださったことを忘れないため。私たちの恥ずかしい、言わなければどんなによかったか、と思う言葉、他の人を思いやることができなかった痛み、それら全てを十字架で洗ってくださいました。今よくわからなくてもだいじょうぶです。だんだんわかります」と。

この後、聖餐に与ります。洗礼の水、聖餐のパンとぶどう汁、みな不思議です。いったいどういう意味なのだろうか、と首をかしげる私たちです。教会は、これらを「神の見えない恵みの見えるしるし」と呼んできました。すべての人のすべての罪を赦し、神のいのちを注ぐ神の恵みと神の心は、私たちにはとらえきれません。とらえるのはあまりにも大きいからです。けれども、とらえきれない私たちを神はしっかりととらえてくださって放しません。だから私たちは、キリストのいのちを生きることができます。まるでキリストのいのちがないかのように生きるのではなく。

聖餐にあずかります。見えないほどに大きな神の恵みと心に包まれて。



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2023/05/07

礼拝メッセージ「栄光の神」ヨハネの福音書11章38-44節 大頭眞一牧師 2023/05/07


先週は、主イエスが死の力に憤りをおぼえ、ご自分の十字架と復活によって、私たちを解放する宣言をなさったことを聴きました。今日もこの宣言をさらに心に刻んでいただきましょう。

【再び心のうちに憤りを】

「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。」(38a)とあります。こうして繰り返して主イエスの憤りが描かれていることに、主イエスの憤りの激しさが現れているようです。主イエスは死の力に憤っておられます。激しく、激しく憤っておられるのです。

【出て来なさい】

「その石を取りのけなさい。」(39a)とのイエスの言葉にマルタはたじろぎます。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39de)と。当然のことです。けれども主イエスは、たじろぎません。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40)とその言葉はなお力を増していきます。主イエスにあっては、ラザロの体が臭かろうが、朽ちていようが、骨になっていようが、そんなことはどうでもよいのです。子なる神である主イエスが父なる神に願い、ラザロをよみがえらせるのですから。

こうして洞穴の墓に主イエスの声が響き渡ります。「ラザロよ、出て来なさい。」(43b)と。その声には死に対する憤りに加えて、神の権威がこめられています。死の力はその権威に屈服します。主イエスが死をねじ伏せたのです。

次に起こったできごとには微笑みを禁じえません。なんともユーモラス。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。」(44ab)。ラザロがよみがえった喜びの情景です。


以前にも何度もお話ししたことですが、もう一度。宗教改革者ルターはこのようなデザインを自らの紋章としました。周りに「キリスト者の心臓は十字架の下に置かれるときに脈打つ」とあります。黒の十字架はキリストの死を、赤いハートは私たちのたましい。キリストの「出て来なさい」は単なる言葉だけの招きではありません。キリストの血をもっての招きです。キリストがご自分の全存在で私たちを招き、ご自分の全存在で私たちにいのちを与えて、生きるものとしてくださったのです。

【ほどいてやって】

墓から出て来たラザロに驚く仲間たちに主イエスは命じます。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44d)と。私たちはキリストのいのちを与えられたおたがい。けれども私たちにはなお、ほどかれなければならないものがあります。キリストの十字架と復活によって打ち砕かれたはずの罪と死の支配の「残りかす」のようなものがまとわりつくことがあるのです。恐れや妬みや敵意、それらが愛をさまたげるのです。だから主イエスはたがいにその「残りかす」を取り除き合うようにとおっしゃいます。

マザーテレサの言葉を紹介します。

  • 大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。
  • 人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。
  • 人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。
  • 成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
  • 正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
  • 歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。
  • 心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
  • 今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善い行いを続けなさい。
  • 持っている一番良いものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番良いものを分け与えなさい。

こうして私たちは愛に成長することができるのです。聖餐に与ります。



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2023/04/30

礼拝メッセージ「涙を流す神」ヨハネの福音書11章28-37節 大頭眞一牧師 2023/04/30


先週は、主イエスとマルタの対話を聴きました。主イエスを出迎えに行ったマルタは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」という主の宣言を聴きました。自分の中に死を超えるいのちが始まっていることを知ったのです。

【あなたを呼んでおられます】

すぐにマルタは家にいたマリアのもとに帰ります。そして「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28b)と伝えました。「伝えた」とありますから、主イエスがマルタに「マリアにわたしが呼んでいると伝えなさい」と言ったのかもしれません。けれどもひょっとすると、マルタが主イエスの心を察して、主イエスの招きを代弁したのかもしれないとも思うのです。なぜなら私たちも、そのように人びとを招いているからです。私たちは、すべての人を招いておられる神さまのお心を知っています。ですから、神から「あの人を呼んできなさい」「次はあの人を」と言われなくても、人びとに語りかけるのです。シャンパン・タワーがあふれるように。まず自分が主イエスのいのちに満たされて。

けれども私たちの招きは選挙運動がスピーカーの音量を上げるようなものではないことも、知っておきましょう。マルタは「そっと伝えた」(28a)とあります。「密かに言った」という意味です。マルタは絶望の中にうずくまっているマリアに、マリアだけに聞こえるように、マルタだから語ることができる言葉で語りました。私たちが人びとを招くとき、その語りかけは、じっくりていねいにつちかってきた関係の中で起こります。伝道は教会員が少なくなると困るから行うのではありません。目の前の人がいのちに満たされるため、いのちの喜びにあふれるためなのです。

【涙を流す神】

マリアはすぐに立ち上がります。主イエスのところに行ったのです。主イエスの足もとで、マリアは泣きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32b)と言って。死の力にラザロが奪われてしまった絶望の中にいるのです。マリアとともに来た人びとも泣いていました。彼らもまた、マルタとマリアとラザロの家が悲しみの家になったことに無力を感じていたのでした。

「イエスは涙を流された。」(35)。人びとはこの主イエスの涙を完全に誤解しました。彼らは「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(36)と言います。主イエスがご自分の無力、愛するラザロをどうすることもできない無力を嘆いて泣いたと思ったのでした。私たちもしばしば「主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)などと言って、人生の不条理に納得しようとすることがあるのではないでしょうか。けれども、ヨブ記は1章で終わっていません。そのあと42章まで、ヨブはやはり納得できないのです。神さまはそんな不条理を許されるお方ではないと。三人の友人たちはそのヨブに、これは神さまのなさったことだから、と納得させようとします。けれども神さまがよしとされたのはヨブでした。神さまもヨブをおそった不条理に納得しておられなかったのです。

【憤るイエス】

主イエスのまたラザロの死に納得しておられません。「そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて」(33b)とあります。主イエスの涙は憤りの涙でした。静かな絶望の涙ではありません。心が騒いで我慢できない怒りの涙だったのです。その怒りは死の力への怒り。罪とタッグを組んで、私たちをご自分から切り離そうとする死の力への怒りでした。

涙を流して憤る主イエスは、世界の誕生から世界の終りまでのすべての痛みを感じていたのではないかと思います。それは死と罪の力が絶え間なく、私たちを神さまから引き離そうとすることによる痛み。主イエスはこのとき、アダムから始まって、第一次第二次の世界大戦、ホロコースト、広島長崎の原爆、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争などすべての人類の痛みを思い、感じ、身を震わせるようにして、憤り、心を騒がせて、涙を流してくださった。そして十字架への決意をさらに固くしてくださいました。ご自身の十字架に罪と死の力を必ず道連れにすると。そして復活によって罪と死の力に打ち勝ち、私たちの愛を妨げるすべてのものから私たちを解き放つと。ご自身がどんな犠牲を払っても、神と人を愛する愛を私たちに満たすと。そんな愛がもう私たちの中に始まっています。


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2023/04/23

礼拝メッセージ「いのちの神」ヨハネの福音書11章17-27節 大頭眞一牧師 2023/04/23



マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。

【もしここにいてくださったなら】

悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。

続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。

【主イエスの宣言】

そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。

ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。


正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。

ゴッホ「ラザロの復活」
そのいのちは私たちのうちにも始まっています。悲しみと絶望の中でも主イエスの宣言は響いています。私たちの耳はしばしばこの宣言を聞き逃します。それでも主イエスの宣言は有効です。そして私たちは聞き逃した仲間にも、この宣言を思い出させ合うことができるのです。



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2023/04/16

主日礼拝メッセージ「死で終わらせない神」ヨハネの福音書11章1-16節 大頭眞一牧師 2023/04/16


先週はイースターをごいっしょに祝いました。主イエスは復活さ れた!今も生きておられる!その喜びの中、今日も主イエスのみ声を聴きます。

【主イエスよ、なぜですか?】

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 」(6)とあります。 その二日後、 主イエスは「ラザロは死にました。 」 (14b)と言ってから、ユダヤに向かわれました。ですから、ラザロの病の重いことを知ったうえで、 助けようとしなかったのです。 それはラザロのことなど、 どうでもよかったからではありません。 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 」 (5)と、あるとおりです。では、なぜ?と、だれもが思います。

私たちも主イエスに愛されています。主イエスと共に踊るいのちに招かれ、もうすでに、踊り始めている。それなのに、病が、死が、困難が、苦しみが私たちを襲います。暴力と戦争や飢えの中にいる人びとも。なぜ、でしょうか。なぜ、主イエスは即座の解決を与えてくださらないのでしょうか。私たちを愛しているのに。

そこに今日の福音が響きます。 「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 (14)と。主イエスのおっしゃるのはこうです。「ラザロはこの病気で死ぬ。けれども、それで終わりではない。ラザロの死を通して神の栄光が現れる。」と。主イエスには、このときの弟子たちにはわからない深い思いがありました。「神の栄光は、 わたしがラザロを死からよみがえらせる ことによって現れる。それは神の子であるわたしの栄光でもある。 なぜなら、ラザロの死とよみがえりは、わたしの十字架と復活のしるしだからだ。 わたしの栄光は、十字架に架けられ、墓に葬られて完全な死を経験したのち、復活することによって現れる。恥辱にしか見えない中から栄光が。敗北にしか見えない中から勝利が。 神の栄光はすべての人にいのちを注ぐことであり、神の勝利はすべての人を罪と死の力から解き放つことだから。 だから、今、ラザロが死ぬことに絶望してはならない。神にはできないことがあるなどとしゃがみ込んではならない。ましてや神は自分たちを見捨てたなどと思ってはならない。今のあなたがたの苦しみは神に知られている。その苦しみを通して神の栄光が現れる。 世界が回復されていく。 今は、そうは思えなくても。今は、どのようにして、そんなことが実現するか想像もできなくても。 」

こんな思いを胸に主イエスは招かれます。「さあ、彼のところへ行きましょう。」 (15b )。「さあ、生きよう。苦しみの中でも、生きよ。希望が見当たらないように思える中でも、生きよ。わたしがあなたの人生に栄光を現す。わたしがあなたの苦しみに意味を造り出す」と。

【フランシスコ会修道士の祝祷】

ある牧師が、「フランシスコ会修道士の祝祷」というのを紹介していました。公式なものというよりも一人の修道士によるもののようです。

願わくは、神があなたを「不快感」を通して祝福してくださいますように。 「安易な応答、不誠実な曖昧さ、形式だけの関係」などによっての不快感。それゆえ、あなたは真心を込めて生きられますように。

願わくは、神があなたを「怒り 」を通して祝福してくださいますように。 「不正、圧政、そして人からの搾取」への怒り。 それゆえ、あなたが「公正・自由・平和」のために働くことができますように。

願わくは、神が「」を通して祝福してくださいますように。「苦痛と痛み、拒絶、空腹そして戦争」によって流す「涙」 。 それゆえ、慰めるために手を差し伸べ、苦痛を喜びに変えられますように。

そして、願わくは、神が「存分の愚かさ 」を通して祝福してくださいますように。 「世界に変化をもたらすことが可能だと信じる愚かさ」 。 それゆえ、多くの人達が不可能だと宣言している事柄を成し遂げ、 公正と親切とがすべての子供達、貧しい人たちに届きますように。

「不快感」「怒り」「涙」「存分の愚かさ」、これらはみな、人生の負の要素に思えます。破れた世界においてこのような負は確かに存在します。 けれども 私たちの神は、その負の中に意味を造り出すことができます。いえ、そうしないではいられないお方なのです。あなたを負の場所に置かれた、神の栄光としないではいられないのです。

【主と一緒に】

トマスは主イエスの招きに応えました。 「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」 (16b)と。けれども、私たちはこのトマスの熱意がいかにもろいものであったかを知っています。十字架の前夜、トマスも他の弟子たちも、みな主イエスを捨てて逃げてしまったのですから。 しかし同時に、 私たちは知っています。主イエスは、そんな弟子たちを赦し、招いてくださったことを。何度でも、何度でも、何度でも。私たちまた、そのような主イエスの胸の中で赦され、成長しているのです。


          ワーシップ(賛美) 「谷の白百合(オリジナル)」Bless



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【第1回】一年12回で聖書を読む会「天地創造」が行われました! 2023/04/15

 「一年12回で聖書を読む会」の第1回「天地創造」が 2023/04/15 に行われました。


当日、お越しになれなかった方も以下の動画で内容をご覧いただけます。




以下も参照しながら動画をご覧ください


次回は 2023/05/13 の予定です。


「一年12回で聖書を読む会」について詳しく知りたい方はこちら。どなたでも参加者募集中です!