2023/07/09

礼拝メッセージ「仕える神」ヨハネの福音書13章12-20節 大頭眞一牧師 2023/07/09


新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。今日もここから主イエスの心の言葉、愛の言葉を聴かせていただきます。

【たがいに足を】

弟子たちの足を洗ってくださった主イエス。上着を脱いでしもべとなって。「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き」(12a)ました。上着をまとって、権威ある主として、語ったのです。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(12b-14)と。主イエスの権威は、愛の権威。主イエスが「互いに足を洗い合わなければなりません。」とおっしゃなら、それは「がんばって足を洗い合いなさい。そうしなければいけない」と強制しているのではありません。「わたし(主イエス)がそうさせてあげる。このわたしが、あなたがたが足を洗い合うことができるようにさせてあげる」と励ましているのです。

なにも問題のないときに、たがいにあいさつをしたり、親切にするのでしたら、私たちも抵抗がないでしょう。いつもそうしています。けれども、たがいの足が汚れているときに、つまり、わだかまりや、赦せない思いがあるときに、たがいに向き合い、愛をもって相手を受け入れ、赦し、覆い、あるいは愛をもって自分の痛みを伝えることは難しいことです。たがいの頑なさがあります。たがいの恐れがあります。そんなとき、私たちは、たがいの関係を健やかにすること、たがいの足を洗い合うことにしり込みしてしまうのです。

【しもべは主人にまさらない】

そこに主イエスのみ声が響きます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」(15-16)と。主イエスは模範。けれども、単なるお手本ではありません。「イエスがしていることを、がんばって真似しなさい」というのではないのです。主イエスは父から遣わされ、父との交わりのうちに、私たちの足を洗ってくださいました。私たちも、主イエスから遣わされ、主イエスとの交わりのうちに、たがいの足を洗い合うことができるのです。いつものように言葉を補って、言い替えてみましょう。「わたし(主イエス)は、父から遣わされ、父との愛の交わりのうちに、あなたがたの足を洗った。あなたがたも、同じようにすることができる。わたしがあなたがたを遣わし、わたしがあなたがたに愛を注ぐ。だからあなたがたは、足を洗い合うことができる。わたしがそうさせてあげる。遣わされた者は遣わした者にまさらない。あなたがたの頑なさや恐れは、わたしの愛にまさらない。『わたしと同じように生きよ』とわたしが言うのだから、あなたがたはそうできるのだ。わたしがそうさせてあげよう」と。

【かかとを上げる者】

けれどもそんな主イエスの愛は、苦しみなしに注がれるのではありません。「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」(18)とあります。直接にはユダのことでしょう。けれどもその背後には、私たちを愛から遠ざけようとする大きなが存在します。罪と死の力といってもよいでしょう。主イエスはこの力によって十字架に架けられました。けれども復活によって、この力を打ち砕かれたのでした。だから、愛し合う生き方は、今、私たちのものとなっているのです。

【わたしはある】

そうは言っても、とおっしゃるかもしれません。主イエスのように愛することはできていないです、と。たしかにそうです。しかしいのちの成長には時間がかかります。私たちの頑なさや恐れには、自分でもよくわからない傷や痛みといった原因があるのですから。

「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」(19)もまた主イエスの愛の言葉。「わたしはある」は単なる「神はいる、神は存在する」という意味ではありません。「わたしはあるようにする」という意味も持つ言葉。神は、あるようにさせる神。神は私たちをご自分がそうあらせたいと思うようにさせる神。ですから、神は私たちを、「足を洗い合うことができるようにする神なのです。


By adriatikus, CC BY-SA 2.5
ロシア正教などの正教会では、写真のように三本の指を合わせ、残りの二本の指を折って、十字を切ります。キリスト教会にとってももっとも大切なふたつのことの表現です。合わせた三本の指は三位一体を、折った二本はキリストがまったき人であり、同時にまったき人であることを表しています。私たちがたがいに愛し合うことができる理由は、ここにあります。私たちは三位一体の神の愛の交わりに招き入れられました。そこであふれるほどに愛を注がれています。そんな愛の中で、人となった神であるイエスによって癒され続けています。神が人となって、私たちの傷や痛みを、いわば内側からご自分のものとして、受け取って、癒してくださっているのです。だから私たちはたがいに愛し合うことができます。今よりもさらに。自分のがんばりとはちがう次元で。聖餐のうちにさらに主イエスのいのちを受け取ります。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


 礼拝プログラム

■教会学校(9:30-10:15)

  • 「聖なる神」イザヤ書6:1-7


■主日礼拝(10:30-11:45)

  • 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
  • 招きの言葉:アモス書5:24(p.1567)
  • 賛美:165(2回)
  • 交読文:7 詩篇23篇(P.834)
  • 牧会祈祷:大頭眞一牧師
  • 主の祈り:新聖歌 P.826
  • 賛美:229
  • 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
  • 聖書朗読:ヨハネの福音書13章12-20節(新約P.211)
  • 説教:「仕える神」大頭眞一牧師 ※明野より
  • 聖餐:(心を合わせて加わりましょう)
  • 賛美・献金:427
  • 感謝祈祷:(明野) ※信愛は司会者と玄関奉仕者が集めます
  • 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)
  • 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
  • 祝祷:大頭眞一牧師
  • カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者
  • 祈祷:司会者