2022/09/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/02 「聖書が証しする神」ヨハネの福音書5章31-40節 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人を、べテスダの池で、いやした主イエス。先週の箇所に続いて、敵意をもったユダヤ人たちに、真正面から向き合い、語り続けられます。問題になっているのは、イエスが「ご自分を神と等しくされた」(18)、すなわはち、ご自分は神だと宣言されたことでした。主イエスはこのことの、四つの証しを語ります。「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。」(32)と新改訳2017では「方」という敬語が使われていますが、これは訳しすぎでしょう。「ほかにも証人がいる」というのが原文です。

【第一の証しバプテスマのヨハネ】


「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」(33)とあります。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と証ししました。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」(34)とあるように、ヨハネの証しだけで、主イエスが神であることが十分にわかるわけではありません。実際にヨハネは殺されてしまいました。それでも、主イエスはその証しを意味あるものと認めてくださいました。私たちの証しもそのように見てくださっています。

【第二の証し主イエスのしるし】


「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」(36)が、第二の証し。主イエスの奇蹟、ヨハネの福音書では「しるし」と呼ばれているわざです。ここまで見てきた「カナのぶどう酒」「カナでの王室の役人の息子のいやし」「べテスダの池の三十八年も病気にかかっていた人のいやし」がそれです。これらはただ目に見えて起こったことだけではなく、神が私たちに愛を注ぎ、永遠のいのちを与えてくださる、それも今、与えてくださっていることを表わすものでした。それこそ神でなければなし得ないことでした。

【第三の証し父なる神の証し】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」(37a)とあります。ヨハネの福音書は全体として、父が主イエスを復活させ、死の力を打ち破ったこと、それによって私たちの罪を贖って、救いをなしとげてくださったことを証ししています。この5章ではまだ復活は描かれていませんが、ヨハネが「父ご自身の証し」と語るとき、それは主イエスの復活を意味していたと考えられるのです。その復活のいのちは、すでに私たちのうちに始まっています。

【第四の証し聖書】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。」(37-38)は、ユダヤ人たちに向けられた言葉です。けれども、ひょっとしたら私たちの中に、「自分も父なる神さまの御声を聞いたことも、見たこともない。みことばをあまり読んでいないし、読んでも自分のうちにとどめていない。自分はだめなのかな」と思ってしまう方がおられるかもしれません。

しかし、それはとんでもないことです。そんな私たちのために聖書は証しします。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(39)とあります。ここでいう聖書は旧約聖書。旧約聖書には、神が愛するために世界と私たちを造り、人が神に背を向けても何度でも何度でも何度でも赦して愛を語り続け、やがて傷つけられながらも世界を贖っていやす不思議な救い主を送ってくださると預言しています。この大きな物語については教区で鎌野直人校長をお招きした「聖書を読もう!」の動画をぜひご覧ください。

そして私たちはさらに、旧約聖書の続編である新約聖書を手にしています。そこには神である主イエスの、十字架と復活による預言の成就が鮮やかです。どうか「自分はだめだなあ」などと思わないでください。こうして礼拝に集い、あるいは後から動画や録音で視聴するみなさんは、聖書をとおして父の御声を聞き、御姿を見ているのです。「今日は、あるいは、今日も、集中できないな」と感じたとしても心配はいりません。みことばを私たちのうちにとどめるのは神。神が、どうしても私たちのうちににみことばをとどめ、私たちを愛の交わりのうちにとどめたいと願って、そのようにしてくださるのです。

【そして第五の、私たちの証し】


四つの証しは、主イエスが神であることの証しですが、それはまた私たちにいのちが与えられていることの証しでもあります。そんな私たちは世界に対して、主イエスが神であることを証しします。神との、仲間とのいのちと愛の交わりにいることを喜びながら。これが第五の証しです。

この証しを胸に私たちは生きます。今日を。昨日を生きようとしないでください。私たちの過去は主イエスによって贖われています。明日を生きようとしないでください。私たちの未来は主の手にあります。今日、心を尽くして、力の限り主イエスのいのちを生きるのです。Alivetoday!


2022/09/23

主日礼拝メッセージ 2022/09/25 「父なる神の子なる神」ヨハネの福音書5章19-30節

  • タイトル: 父なる神の子なる神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章19-30節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。けれども、そのことをきっかけにユダヤ人たちとは主イエスを迫害し殺意を抱きました。その彼らに対して、主イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(19b)という言葉を持って答え始められました。「まことに」を2回繰り返すことによって「今、わたしはほんとうに真剣に語られるべき、そして真剣に受け取られるべき真理を告げる」との思いを表されたのでした。批判する者たちに真正面から向き合われたのです。

【父と子のこころ】


神とはいかなるお方であるのか。その外見や能力などは私たちにはとらえることができません。けれどもそんな私たちにもとらえ得るものがあります。それは、神がいちばんたいせつにしていることは何か、ということ。神のいちばんの関心事はなにか、神のこころの深いところに何があるのか、ということです。

新改訳聖書2017の新しい点のひとつはローマ書3章の22節に脚注が加えられたことです。本文は「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」となっていますが、脚注は「すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と下線部が異なる訳になっています。これによるなら、人が救われるのは「イエス・キリストの真実」によります。今日の聖書の個所はこのことをよく表していると思います。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(19c,d)。主イエスは父が行うとおりに行う。父が行うとおりとは、この世界を、そして私たちを愛すること。主イエスは父のこころに真実です。父が私たちを愛するとおり、私たちを愛する。十字架にいたるまで私たちを愛しぬく。これが主イエスの真実です。

「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(20b)ともあります。この驚くべき大きなわざとは「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(21)このことです。主イエスは復活し、そしてその復活のいのちが私たちにも与えられる、これがより大きな驚きのわざです。こうして主イエスの真実が私たちを救います。それが父と子のこころです。神のいちばんの関心事、神のこころのいちばん深いとことにある願いなのです。

【さばきは子に】


そんな主イエスは、ご自分に敵意を抱くユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(24a、25a)をとさらに二度繰り返します。そして「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(25)と宣言するのです。ここでの死人とは神に背を向け、いのちに背を向けている人のことでしょう。ユダヤ人たちは律法には熱心ですが、いのちの源である主イエスを憎んでいるのですから、いのちにつながっていません。死人なのです。そんな彼らに主イエスはしんぼう強く語り続けます。招き続けるのです。

「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」(23)も招きです。子を敬うというのは、はいつくばっておじぎをすることではありません。主イエスを喜び、その愛を受け入れ、父と子の愛の交わりに加わることです。もし、それをあくまで拒み続け、いのちの源に背を向け続けるなら、さばきがあります。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(29)がそれです。けれどもこれは、脅かして、恐れの奴隷にして、信じさせようというのではありません。その日が来るまでに、主イエスを受け入れよ、との招き。そうでなければ、自分でさばきを選び取ることになってしまうという主イエスの嘆きなのです。

【世界の破れをつくろうために】


エリザベス2世が召されました。私はニュースで報じられていることしか分かりませんが、平和や人権のためにいろいろと動いた方のようです。有名なのはアパルトヘイトの南アフリカでマンデラ氏の解放のために尽力したことでしょう。

葬儀での讃美歌や聖書箇所にはご本人の希望がはいっているということで、その信仰をうかがうことができるようでした。読まれた聖書は、まずⅠコリント15章20-26節、53節。キリストの復活が初穂であり、私たちは死に勝利したものとして終わりに日に新しいからだでよみがえると約束されている箇所。

その後、詩篇42篇1-7節のことばが聖歌隊によって歌われました。「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか、私のうちで思い乱れているのか…」という有名なところ。

そして、先日就任したばかりのリズ・トラス首相が、ヨハネによる福音書14章1-9aを美しい声で朗読しました、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(6-7)です。

続くカンタベリー大司教による説教は、20分ほど。その中心は、女王の生き方は、「国に仕える者としての生き方であった」、そしてそれは「人々に仕えることにおけるリーダシップ」であった、と。特に印象的だったのは、「どのように生きるか」というよりも、「どなたに仕えていたか」という視点の大切さです。女王は、終生キリストに仕えるとともに国民に仕えて来たというのです。

さきほど「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(24)と聞きました。すでにいのちに移った私たちはさばきを恐れて生きるのではありません。天国へ行くことが目的ではないのです。そうではなくて、キリストのいのちを生きる私たちのこころは、世界の破れを見るときに、神のこころと共振します。世界を惜しみ、痛みを感じる父と子とともに、私たちのこころもわななきます。それが主のいのちに生きていることの証しでもあります。女王もまたそのように世界の破れをつくろうために自分を献げた人ではなかったかと思うのです。

もうひとつ。女王が召されたことが報じられた後、バッキンガム宮殿に美しい虹が見られたとのことです。友人の牧師が、聖書に親しんで英国人の感じ方を教えてくれました。それは「女王の死を悲しむように、雨が降っている。でも、神はそこに美しい虹を見せてくださった。それは神がこの世界を守っているという契約のしるしだ。神は英国と英連邦王国の王政を引き続き祝福してくださると約束してくださっているかのようだ…」と。もちろん、神の祝福の約束は英国と英連邦王国だけのものではありません。キリストのいのちを生きるすべてのキリスト者、その中には私たちもいます、を通して世界に注がれています。


2022/09/17

主日礼拝メッセージ 2022/09/18 「父の子である神」ヨハネの福音書5章9b-18節

  • タイトル: 父の子である神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章9b-18節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった」(9b)ので、「ユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った」(10)のでした。

【ほんとうの安息日】


ユダヤ人たちの言葉は十誡の第四誡に基づいています。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:9-10)を根拠に、このユダヤ人たちが癒された病人をとがめたのでした。この人が癒されたことを祝うのであればともかく、おそらくはゴザのような敷物を持っていただけなのに、それを責めるのは、理不尽で冷酷非情です。滑稽とも言えます。

本来、律法は神の恵みによって救い出された民が、神と共に歩くための歩き方の教えです。いつも申し上げるように、まず出エジプトそしてシナイ山です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、二度と奴隷のくびきにつながれることがないために、神さまを喜び、神さまと共に歩く歩き方を教えられたのです。ですから、病気であった人が癒され、床を取り上げて、家族や仲間のところに帰って行くことは安息日にふさわしいことです。ところがこのユダヤ人たちは、恐れの奴隷となっていました。十誡を破る、あるいは少しでも疑わしい行為をするなら、神の怒りをかうのではないか、と恐れていたのです。これは不幸なことでした。神さまというお方がいかなるお方であるのかを見失ってしまったのです。世界のすべての人に神さまを紹介する使命を与えられたイスラエルにとって、これは致命的な逸脱でした。

同じようなことは私たちにも起こります。たとえば、礼拝出席。もし私たちが礼拝に出席しなければ神さまに罰せられる、と恐れるならば、そこには喜びはありません。けれども礼拝は解放のときです。神さまが私たちを礼拝の中で解き放ってくださる。神とのわだかまり、人とのわだかまりを引き受けてくださって、私たちにほんとうの安息を、休みを与えてくださる。このことを知るならば、すすんで礼拝に行くでしょう。神さまに私たちのたましいを休ませていただけるのですから。

【見つけてくださるイエス】


この癒された人は群衆に取り囲まれたようです。「しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。」(13)。囲まれている間に主イエスは立ち去られました。けれどもそれは、病が癒されればそれでよい、と思われたからではありません。主イエスはこの人のたましいをも癒し、安息を与えたいと思っておられました。しかし奇蹟に興奮した大騒ぎの中ではじっくりと語りかけることもできませんでした。

だから後で、主イエスはこの人を見つけました。主イエスがこの人を見つけてくださったのです。救いとは何か。死んだら天国に行くことというのは、じゅうぶんではありません。救いとは、主イエスとの愛の交わりに生きること。その交わりは死を超えて、その向こう側に続くのです。主イエスはその愛の交わりの招くために、この人を見つけてくださったのでした。

「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14)は、この人の病が罪のせいだと言っているのではありません。聖書にそんな考えはありません。主イエスは「わたしとのこの愛の交わりにとどまりなさい」と励ましてくださっているのです。主イエスとの交わりに背を向けることが罪です。それはいのちの源と自分とのつながりを絶つことです。それが「もっと悪いこと」なのです。

【何度でも何度でも何度でも】


けれども「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)とあります。癒された後、この人は安息日に床を取り上げたため、ユダヤ人たちに責められました。そのとき、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」(12)と問い詰められて、答えることができませんでした。このときの恐れは、この人を覆っていたようです。だからこの人は、ユダヤ人たちに主イエスを通報しました。「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)のでした。これが主イエスへの迫害と殺意のきっかけになったのです。

その通報こそ、主イエスとその愛の交わりに背を向ける罪でした。自分のいのちの源とのつながりを絶つことでした。では彼に「もっと悪いことが」起こったのでしょうか。私はそうは思いません。主イエスはこの人のこの罪のためにも十字架に架かってくださいました。そして、そのたましいに語りかけ続けてくださったにちがいありません。何度でも何度でも何度でも。

【父の子なる神】


そもそも安息日は、天地創造で完成した世界で神が人と交わるために設けてくださいました。そうでなければ、生活の不安や自己実現に駆り立てられて、際限なく働き続けるであろう私たちの弱さをあわれんでくださったのです。いちばんたいせつなこと、神さまとの愛の交わりを第一にするようにと、特別な日を造り出してくださったのです。ですから安息日は「○○をしない日、○○をしてはならない日」ではありません。「神さまと交わる日、神さまと交わることができる日」なのです。もちろん、神さまとはいつだって交わることができます。けれども安息日は、神さまとの交わりのために世界をあげて備える日です。みんなが神さまと交わることができるように社会や仕事の機能も停止したり、制限したりして整えるのです。

だから神さまは安息日にも休んでおられるわけではありません。私たちを交わりに招いておられるのです。私たちと交わってくださっているのです。

その交わりをもたらしてくださったのは主イエス。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17)と、父と子の愛の働きに応じるようにと招いたのです。これに反発したユダヤ人たちですが、彼らが見のがさなかったたいせつなことがありました。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」(18)がそれです。

ユダヤ人たちの思いをはるかに超えて、ここにひとりの神が、ひとりであるのに父と子として(そして聖霊として)働いて、愛を注いでくださる神秘が現れていたのです。神の三重の愛がそこにあります。今このときもその三重の愛が私たちに注がれているのです。

2022/09/09

主日礼拝 2022/09/11 「起き上がらせる神」

  礼拝メッセージ「起き上がらせる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書5章1-9a節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



主イエスは再びエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りとあります。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」のどれかであったでしょう。神殿は多くの人びとでごったがえしていました。けれども神殿の北側の裏には重苦しい静けさが支配している場所がありました。裏面のエルサレムの地図を見てください。ベデスダの池がその場所です。「エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。」(2)とあります。五つの回廊を復元したのがこの絵です。長いほうの辺は二つに分かれているように見えますが、これを一つと数えると、全部で五つになるわけです。

【悲しみの池】


この池は二重の意味で悲しみの池でした。第一に「その中(五つの回廊の中)には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」(3)です。病人や障害のある人びとがそこに大勢いました。中には三十八年も病気にかかっている人もいました。かれらのため息がこもったような場所だったのです。

しかしこの池はもう一つの意味でも悲しみの池でした。池の水が動いたかのように見えると、いきなり争いが起こります。人びとは、他の人を押しのけたり、ひっぱったりして、われ先にと池に殺到するのです。新改訳聖書2017では4節が欠けていますが、これは印刷ミスではありません。欄外脚注にこうあります。「異本に3節後半、4節として次の一部または全部を加えるものもある。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのだが、水が動かされてから、最初に水に入った者が、どのような病気にかかっているものでも、癒されたからである。』」。つまり、人びとは先を争って最初に池に入ろうとしたのです。自分が癒されるために他の人びとを押しのける。そのたびにたがいの関係が傷ついていく、そういうもう一つの悲しみがこの池に凝っていたのでした。もちろんこれは迷信です。このように病や生涯、そして迷信による争いという二重の悲しみの池に主イエスが来てくださいました。

【主イエスのまなざし】


「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』」(5-6)の「見て」は「じっと見つめて、相手の状態をしっかり理解した」という意味。主イエスはこの人の三十八年間の病とそれにともなう苦しみを理解しました。「良くなりたいか。」もありきたりの質問ではありません。この人のこころを知った主イエスが、この人の本当の願い、本当のあこがれを引き出そうとしたのでした。そんな主イエスの愛のまなざしの中でこの人のこころは開かれていきます。そして「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7)と答えるのです。この人の悲しみは病もさることながら、助け手がいないことにありました。それはそうでしょう。家族や友人にしても働いて生活していかなければなりません。いつ動くかわからない水をずっと眺めているわけにはいかないのです。そんなことはわかっているのですが、それでも、押し合いながら水に入っていく人びとを見るとき、世界の破れを感じるのです。こうではない生き方、こうではない世界があるはずだというあこがれを抱くのです。

私たちも世界の破れの中に生きています。コロナや自然災害、経済的な問題など。けれども何よりも私たちを最も苦しめているのは人間関係でしょう。助け合うことができないばかりか、押しのけ合い、傷つけ合ってしまう。そこには私たちの心がけが悪いといったことをはるかに超えた、世界の破れ、社会の破れ、人間関係の破れがあります。「だれも助けてくれない。だれもほんとうにはわかってくれない」というこの病人の叫びは私たちの叫びでもあります。

【起きて歩け】


そこへ主イエスの声が響きます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8)、と。そのときこの人は立ち上がりました。主イエスはこの人に「ペテスダの池に入れてあげよう」とはおっしゃいませんでした。破れた世界のシステムのなかで、そのシステムに従って生きることを助けてあげようと言ったのではないのです。そうではなくて、「あなたはわたしのシステム、わたしのルールで歩きなさい」と言いました。「押しのけ合い、傷つけ合う生き方から、立ち上がれ。床とともにあなたの今までの生き方をたたんで、新しいいのちへと歩み出せ。」と言ったのです。

主イエスはそのために来られました。今も私たちに、この礼拝のなかで「立ち上がれ、愛の破れをつくろう者として歩き出せ」と招いてくださっています。そうさせてくださるのは、主イエスの愛とその復活のいのちです。それらはもうすでに私たちに与えられています。

2022/09/03

主日礼拝 2022/09/04 「活かす神」

 礼拝メッセージ「活かす神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章43-54節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの町の人びとと二日間を過ごし、彼らに命の水を飲ませた主イエスは、ガリラヤへと向かわれました。

【人びとの歓迎】


主イエスが故郷のカナに着かれました「それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」(44)とあります。人びとは主イエスを歓迎したのですが、その理由は彼らがエルサレムでのできごとを見ていたからでした。そのできごととは2章の「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(2:23)のことです。神殿の宮清めの後、主イエスはいくつかのしるし、つまり奇蹟をなさいました。おそらくは病気の人びとをいやされたのでしょう。

エルサレムでそんな奇蹟を見た人たちが、主イエスがスカルに滞在している間に、先にガリラヤに帰っていました。そして主イエスの癒しの奇蹟を期待して待っていたのです。「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。」(46)ともあります。ぶどう酒の奇蹟の記憶は、人びとの期待をさらに高めました。そして「さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。」(46-47)と続くのです。

【尊ばれない預言者】


ところが主イエスはこの父親に不思議なことを言います。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(48)。なんだか冷たい、突き放したようにも聞こえます。44節にも「イエスご自身、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言なさっていた。」とあります。

主イエスは人びとの心をごぞんじでした。みな、しるしや不思議なわざを期待して主イエスのところへやってきます。それを見たら信じるし、それがなされないなら主イエスに失望して去って行くのです。

【いのちを与える主イエス】


けれども、主イエスがこの世に来られたのは、私たちにいのちを与えるためです。神との愛の交わりのうちに生きるいのち、死の向こう側にまで続く永遠の愛の交わりに生きるいのちです。主イエスは、どうしてもこのいのちを与えたいのです。ですから、この父親に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と厳しく思える言葉を発せられたのでした。

しかし、この父親は、息子の癒しのことで頭がいっぱいです。永遠のいのちのことなど考えられません。いかに主イエスといえども、そんな状態の父親に永遠のいのちを与えることなど、できそうにありません。ところが、主イエスにはできました。なしとげられたのです。「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(50)。このとき、父親は「どうしてもカペナウムに来て、息子を癒やしてください」と言い張り続けることはしませんでした。そうではなくてイエスが語ったことばを信じました。しるしと不思議を見ないで、信じたのです。信じることができたのは、主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださったから。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」という主イエスの声を聞いたとき、この父親の心に、主イエスの愛が響きました。「わたしはあなたを愛する。あなたの息子も愛する。だから今、わたしの愛を受け入れなさい。わたしに愛のうちに行きなさい。そうしたら、わたしの愛を見るだろう。そして、ずっとわたしの愛のうちに生き続けなさい」と。こうして主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださいました。

私たちもしばしば主イエスとの愛の交わりを見失います。けれども心配はいりません。私たちの心を知る主イエスが、私たちのうちに信仰を造り出さしてくださいます。何度でも何度でも何度でも。