(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)
【第一の証しバプテスマのヨハネ】
「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」(33)とあります。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と証ししました。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」(34)とあるように、ヨハネの証しだけで、主イエスが神であることが十分にわかるわけではありません。実際にヨハネは殺されてしまいました。それでも、主イエスはその証しを意味あるものと認めてくださいました。私たちの証しもそのように見てくださっています。
【第二の証し主イエスのしるし】
「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」(36)が、第二の証し。主イエスの奇蹟、ヨハネの福音書では「しるし」と呼ばれているわざです。ここまで見てきた「カナのぶどう酒」「カナでの王室の役人の息子のいやし」「べテスダの池の三十八年も病気にかかっていた人のいやし」がそれです。これらはただ目に見えて起こったことだけではなく、神が私たちに愛を注ぎ、永遠のいのちを与えてくださる、それも今、与えてくださっていることを表わすものでした。それこそ神でなければなし得ないことでした。
【第三の証し父なる神の証し】
「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」(37a)とあります。ヨハネの福音書は全体として、父が主イエスを復活させ、死の力を打ち破ったこと、それによって私たちの罪を贖って、救いをなしとげてくださったことを証ししています。この5章ではまだ復活は描かれていませんが、ヨハネが「父ご自身の証し」と語るとき、それは主イエスの復活を意味していたと考えられるのです。その復活のいのちは、すでに私たちのうちに始まっています。
【第四の証し聖書】
「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。」(37-38)は、ユダヤ人たちに向けられた言葉です。けれども、ひょっとしたら私たちの中に、「自分も父なる神さまの御声を聞いたことも、見たこともない。みことばをあまり読んでいないし、読んでも自分のうちにとどめていない。自分はだめなのかな」と思ってしまう方がおられるかもしれません。
しかし、それはとんでもないことです。そんな私たちのために聖書は証しします。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(39)とあります。ここでいう聖書は旧約聖書。旧約聖書には、神が愛するために世界と私たちを造り、人が神に背を向けても何度でも何度でも何度でも赦して愛を語り続け、やがて傷つけられながらも世界を贖っていやす不思議な救い主を送ってくださると預言しています。この大きな物語については教区で鎌野直人校長をお招きした「聖書を読もう!」の動画をぜひご覧ください。
そして私たちはさらに、旧約聖書の続編である新約聖書を手にしています。そこには神である主イエスの、十字架と復活による預言の成就が鮮やかです。どうか「自分はだめだなあ」などと思わないでください。こうして礼拝に集い、あるいは後から動画や録音で視聴するみなさんは、聖書をとおして父の御声を聞き、御姿を見ているのです。「今日は、あるいは、今日も、集中できないな」と感じたとしても心配はいりません。みことばを私たちのうちにとどめるのは神。神が、どうしても私たちのうちににみことばをとどめ、私たちを愛の交わりのうちにとどめたいと願って、そのようにしてくださるのです。
【そして第五の、私たちの証し】
四つの証しは、主イエスが神であることの証しですが、それはまた私たちにいのちが与えられていることの証しでもあります。そんな私たちは世界に対して、主イエスが神であることを証しします。神との、仲間とのいのちと愛の交わりにいることを喜びながら。これが第五の証しです。
この証しを胸に私たちは生きます。今日を。昨日を生きようとしないでください。私たちの過去は主イエスによって贖われています。明日を生きようとしないでください。私たちの未来は主の手にあります。今日、心を尽くして、力の限り主イエスのいのちを生きるのです。Alivetoday!