マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。先週は、私たちには律法学者やパリサイ人たちにまさる義が与えられていると語りました。それはイエス・キリストが与える義。律法学者たちは、いたずらに神を恐れ、その怒りをかうことがないようにと、律法のまわりに何重にも安全柵を張り巡らし、自らもその中に閉じ込められていました。けれどもイエス・キリストは十字架の上で、私たちの過去・現在・未来の救いをなしとげてくださいました。私たちを神と人を愛する自由へと解き放ってくださったのでした。今日の箇所以降で、主イエスは、その自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを語ってくださいました。聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。
【殺してはならない】
律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれどもこの律法があっても殺人はなくなりませんでした。今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していないのです。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。
けれども主イエスは、律法学者やパリサイ人たちとはちがって、律法のまわりに安全柵を張り巡らすことはしません。外から私たちを規制するのではなく、私たちの内側から心を変えてくださったのです。神であるのに十字架に架けられて。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあるとおり、罪と死の力を滅ぼして、私たちを解き放ってくださいました。だから私たちは愛することができます。
【和解の主】
主イエスは、神の心を知らない律法学者やパリサイ人たちに心を痛めました。だから私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださいました。ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主。
「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。
主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。
【復活の主】
私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけないような、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。思い出すのはカイン。アベルを妬んだカインに神さまは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7c)と語りかけます。カインは罪を治めることができませんでした。けれども、私たちはカインとはちがいます。なぜなら罪の力である悪魔は滅ぼされたからです。そして私たちには、主イエスのいのちが注がれているからです。愛するいのちが。神であるから復活したことによって。
どうか、私たちには神の心、神の願い、自分に痛みを与える者との和解を願う心が、すでに与えられていることを忘れないでください。そしてさらに、その和解を実現することのできるいのちが始まっていることも。
私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。