2024/06/03

礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイによる福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2024/06/02


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事,生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ』とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)



 礼拝プログラム

■教会学校(9:30-10:15)

  • 「ダビデの油そそぎ」サムエル記第一16:6-13


■主日礼拝(10:30-11:45)

  • 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
  • 招きの言葉:歴代誌第一16:23(旧約 P.732)
  • 賛美:2
  • 交読文:53 ルカの福音書22章(新聖歌 P.869)
  • 牧会祈祷:大頭眞一牧師
  • 主の祈り:新聖歌 P.826
  • 賛美:252
  • 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
  • 聖書朗読:マタイによる福音書1章18-25節(新約P.1)
  • 説教:「インマヌエルの主」大頭眞一牧師 ※信愛より
  • 聖餐:
  • 賛美・献金:221
  • 感謝祈祷:
  • 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)
  • 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
  • 祝祷:大頭眞一牧師
  • カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者
  • 祈祷: