2026/09/22

礼拝メッセージ「同じようにさせる主」マタイの福音書7章12節 大頭眞一牧師 2026/08/09


「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」(12a)は、「黄金律(ゴールデン・ルール)」と呼ばれるところ。聖書を代表する教え、ともされているところです。信仰を持っていない人びとにもそう認識されているようです。だからこそ「黄金律」と呼ばれているとも言えます。「人からよくしてもらいたいと思うなら、人にもそうしてあげなさい。そうしたら同じようにしてもらえる」と。これだと信仰とは関係ない処世訓です。だから受け入れられます。実際、似たような処世訓は世界中に見られます。

【真の黄金律】

もちろん主イエスが処世訓を教えたわけはありません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」の「ですから」は、山上の説教のここまでの部分の全体を受けての「ですから」。つまり、主イエスの十字架と復活によって与えられた新しい生き方の結果としての「ですから」。ここに真の意味での「黄金律」があります。もうすでに私たちには、主イエスのいのちが与えられています。このいのちは私たちを押し出します。人にしてもらいたいことを、進んで、心を尽くして、したいと思う生き方。愛を注ぎ出さずにはいられない生き方、そんな生き方を生き始めているのです。「同じように人にしなさい。」と命令のかたちで書かれているのも、もうすでに始まった愛の生活をますます楽しむように、という誘いなのです。

【愛を妨げるもの】

熊本でまた地震がありました。京都教区も、以前のように、すぐに現地に向かうといったことが難しくなってきましたが、さっそく支援金を送りました。こういうときには「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」を思います。そのようにありたいと。

けれども、私たちが当事者となった場合によく経験するのは、自分が何かで困っているとき、悲しんでいるとき、あの人がああしてくれたら、この人にこうして欲しいと思う。ところがまわりの人に自分の願いが通じない、自分の期待通りに人が動いてくれない、と不満に思う。そうして、自分の苦しみは、まわりの人が助けてくれないからだと恨み、苦しみ・嘆き・悲しみがより大きくなってしまうのです。

【驚くべき愛】

主イエスはそんな私たちに、自分が助けてもらったら、して欲しいことをしてもらったら、自分もそのようにしなさい、とは言いません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、人がしてくれるかどうかとは、関係ないのです。むしろ、人が自分の願うこと、して欲しいことをしてくれない、助けてくれない、そういう現実の中で、そこでなお、自分がして欲しいことを人にしていく、人からは与えられなかった助け、慰め、励ましを自分は人に与えていく、そういうことを主イエスは私たちに求められる、いや、あなたがたはそのように生きている、そんないのちがもう始まっている、それを思い出せ、と励ましてくださっているのです。そんな驚くべき愛を。

十年前の熊本地震のとき、自ら被災者である牧師たちも加わり九州キリスト災害支援センター(九キリ災)が立ち上がりました。「キリストさん」と呼ばれる彼らは、「全キ災」へと展開し、能登でも活躍しています。自らが愛の起点として。

【さらに驚くべき愛】

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、まさに主イエスが私たちのためにしてくださったこと。この世の救いのために来てくださった主イエスを、世は敬わず、従わず、十字架の死へとおいやりました。私たちもまた、しばしば主イエスを忘れ、主イエスに背を向け、十字架などなかったかのように生きてしまいます。けれども、いえ、だからこそ、主イエスは私たちを愛し、私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果をすべて負ってくださいました。十字架で。私たちが「してもらいたい」と思わなかった「してもらえる」とも思わなかった愛を注いでくださいました。だから私たちは天の父なる神の子とされました。父と子の愛を聖霊によって、絶えず注がれている者に。今日もなお。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/09/14

礼拝メッセージ「与える主」マタイの福音書7章7-11節 大頭眞一牧師 2026/08/02


今日もまた有名な、そして誤解されやすいところ。けれどもここには、主イエスの慰めが溢れています。聴き入りましょう。

【おめでたい教え?】

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。」(7ab)と言われても、私たちは現実がそうはいかないことを知っています。がんばって勉強しても希望の学校や就職ができるとは限りません。探してもみつからないこともある。いや、求めるものが得られないどころか、求めていない、そんなことはぜったいいやだと思っている事故や災害に苦しむことがあるのが人生です。そんな私たちには今日の箇所はおめでたい気休めのように聞こえてしまうことがあるのです。

「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7c)も、教会の門をたたくなら、その門は必ず開かれ、信仰を得ることができる、と語られる箇所。けれども、実際には教会を訪れた人の全員が信仰をもつわけではありません。とても残念なことですが。では、これもまたむなしい気休めなのでしょうか。

【与える主】

しかし今日の聖書をよく読むと「与えられます」「開かれます」と、受動態、受け身で書かれていることに気づかされます。つまり、与えるお方がおられ、その方が私たちに与えてくださる。開いてくださるお方がいて、その方が私たちに開いてくださる。そのお方とは神。いつも申し上げているように主語は神さまです。聖書の主語は神さま。世界の主語も、私たちの人生も主語は神さま。その神に目を向けるように、とこの箇所も語っています。

【天におられるあなたがたの父】

神とはいかなるお方なのか?主イエスは続けます。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。」(9-10)。私たちでさえ、子どもにはできるだけよいものを与える。そうであるならば「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(11)。主イエスはここで「神はあなたがたの父であるのだ。天の、全能の、すべてのものを造られた神が、あなたがたの父なのだ。この父があなたがたを愛し、あなたがたに良いものを、もっとも良いものを、これ以上良いものはないものを与えてくださるのだ、与えてくださっているのだ」とおっしゃるのです。

【イエス・キリストの父なる神】

そして、天の父なる神が与えてくださった良いもののうちで、もっとも良いものは、間違いなくイエス・キリストです。神を愛せない、仲間を愛せない、世界を愛せない、そして自分も愛せない私たちをあわれんで、惜しんで、父なる神は子なる神をこの世に送り、十字架に架けてしまわれました。断腸の思いで。それでも私たちがいのちを生きるために。天の父なる神は、イエス・キリストの父なる神。だから私たちは、神を父と呼ぶことができるのです。

【天の父なる神の子として】

子は父の心を知ります。心を知って父と同じように生きようとします。かつて私たちは自分が欲しいものを求め、探し、門をたたいていました。そしてそれが得られないと、聖書の言葉などは気休めでそのまま信じるものではない、などと思いました。そんな中で、せいぜいかなえられそうな範囲で願い、そこそこに守られればそれでよい、と決め込んでいたかもしれません。けれども神さまの良いものは、広大無辺です。そして神さまは、神との愛の破れ、人との愛の破れ、世界との愛の破れをつくろい、神の国の完成のために私たちを用いたいと願われています。世界のすべての痛みの回復、それが神さまが与えてくださる良いもの。「この良いものを求めなさい、探しなさい、たたきなさい。そしてわたしといっしょにこの良いものの実現のためにいっしょに苦労してはくれないか。あなたの力を貸してくれないか」と。私たちの胸はもういっぱいになります。「はい、どうかあなたの良いもので地が満ちることができるように。どうぞお心のままに私たちをお用いください」と答えるのです。



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2026/09/13

礼拝メッセージ「見えるようにする主」マタイの福音書7章1-6節 大頭眞一牧師 2026/07/19


主イエスの山上の説教は続きます。私たちの目を開き、心を開き、いのちに満たすために。今朝も満たされましょう。

【さばくな?】

今日の箇所、「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(4-5)は、多くの人が誤解しているところかもしれません。私も長い間、わかっていなかったと思います。私はここを「自分のことをたなに上げて人をさばくな」という意味だと思っていました。特に「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」(2)ともありますから、自分が他の人を厳しくさばいていると、自分も神さまから厳しくさばかれてしまうのではないか。だったら、他の人を厳しくさばかないように手ごころを加えるなら、神さまも自分のさばきに手ごころを加えてくださるのではないか、と、なんとなくそんなふうに思っていたのです。けれども、そうなると、まるで主イエスが父なる神さまと上手に取り引きすることを教えているようなことになってしまいます。

【目にある梁】

けれども神さまのさばきは、取り引きできるようなものではありません。私たちの罪、私たちの愛に欠けた思い、愛に欠けた言葉、愛に欠けた行いは。神さまにとってそのままにしておくことができません。ましてや、私たちが他の人に手ごころを加えてやさしくしたからといって、手ごころを加えることができるようなものではありません。罪は、私たちの深いところの歪みや傷に由来し、私たちとこの世界に愛の破れをもたらしており、その影響はどんどん広がっていく、そんな病です。だから主イエスは、人となり、十字架で私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果を負ってくださり、復活のいのちを与えてくださいました。私たちを罪から解き放って自由にするために。

「自分の目にある梁(建物を支える太い水平な部材)」とは罪。この罪に目をふさがれているから、私たちは他の人をさばこうとします。神さまの心を痛め、仲間との関係を裂いてしまう自分を見ることができません。そして、ささいなことで仲間をさばき、非難してしまうのです。

【梁を取り除くお方】

主イエスは「自分の目から梁を取り除きなさい」とおっしゃいます。しかし問題は、私たちには自分で自分の罪を取り除くことができないことにあります。けれどもここによい知らせが、福音があります。私たちにできないからこそ主イエスが来てくださったのです。罪ある私たちへの神のさばきを受け止めるために。そのために十字架にいのちを捨てるために。そして私たちに「生きよ。新しいいのち、愛のいのちを生きよ」とおっしゃり、その通りにいのちを与えてくださるために。

【たがいの目からちりを】

罪という梁が取り除かれた私たちの目に、まず見えてくるのは主イエスの十字架です。私たちのために何も惜しむことをなさらなかった神さまの愛の大きさが見えます。喜びがあふれます。そんな私たちはもはや、仲間のあら探しをしようとはしません。自分も相手も、十字架によって、神との和解、たがいとの和解に入れられていることを喜びます。相手に欠点があるなら、それを補い、支え合おうとし、自分の欠点もまた、助けてもらう。そんな共に生きる生活を喜ぶのです。喜んでいるのです。

【豚に真珠】

「真珠を豚の前に投げてはいけません。」は、豚に真珠ということわざの元になったところ。真珠は十字架と復活による救いの恵みです。その恵みを与えてくださった主イエスでもあります。豚は、主イエスとその恵みを受け入れない者のこと。だからと言って、信じない人には福音を伝えるな、と言うのではありません。これは、私たちが主イエスを軽んじることがないように、という励ましです。また、今は目に梁があって、主イエスを見ることができない人びとも、いつかは主イエスを見ることができる、私たちと共に喜び、共に新しいいのちを生きることができるように、という招きでもあります。



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2026/09/01

礼拝メッセージ「神の国と神の義の主」マタイの福音書6章25-34節 大頭眞一牧師 2026/07/12


主イエスは私たちを解き放ちます。今日もその招きを聴き、招きに応じます。自由へ。

【心配しないという冒険】

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34)は有名。けれども、心配の多い私たちにとって「心配するな」ととても無理な冒険のように思えます。どうしたらそんな危険を冒すことができるのでしょうか。

この箇所には二つの生き方があります。一つは「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりする」(25)生き方。この生き方は前回聴いた通り、自分の能力、持ち物、がんばりにたよる生き方です。もう一つの生き方は、神さまを見つめ、神さまにたよる生き方。主イエスはそんな生き方へと私たちを招きます。

【父ゆえに】

私たちが神さまを信頼することができるのは、神さまが父であるからです。神さまはお造りになった世界のすべてを愛しています。野の花を装わせ、空の鳥を養います。けれども、私たちと花や鳥の間には大きなちがいがあります。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(26)に「あなたがたの父」とあるのがそれです。私たちは神の子です。神に似せて造られた愛し合うことができる存在。だから愛のまなざしで神をみることができます。神の胸に抱かれていることを知っているのです。神さまの胸に抱かれていることは、実は危険を冒すことではありません。最も安全なことなのです。

【子ゆえに】

私たちは、父の胸に抱かれている子。そのことを知ることができたのはひとり子である主イエスによります。それがわからないで、たがいに傷つけ合う私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世界に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。キリスト教会は、キリストの三職を教えて来ました。キリストは祭司として、私たちの罪のためにとりなしてくださいました。ご自身を献げものとして。また、キリストは預言者として、私たちに父の愛を教えてくださいました。言葉だけではなくご自分を与えることによって。そして、キリストは王として私たちを罪と死の力の支配から解き放ってくださいました。十字架で悪の力を滅ぼすことによって。

【聖霊ゆえに】

父なる神を見たこともなく、主イエスの十字架に立ち会ったこともない私たちが、神さまを見つめ、神さまにたよることができるのは聖霊によります。聖霊なる神が、自分の内側を見つめ、自分の足元に目を落としてはあがく私たちの顔を持ち上げ、目を上げさせるのです。愛ゆえに。私たちが神さまから目を離すことを見過ごすことができない愛ゆえに。

【神の国と神の義を】

神様を見つめ、神さまにたよる生き方、主イエスはそこへ、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33)と招かれました。「神の国」とは、神の支配、神の愛の支配。私たちも、そんな神の愛を注がれ、満たされ、溢れて、注ぎ出して愛します。そんな毎日がすでに始まっていて、ますます愛へと成長し続けています。「神の義」とは、神との正しい関係、正対した健やかな関係です。

神さまと正対し、神さまを見つめ、神さまにたよる私たちに、「明日のことまで心配しなくてよい」とのみ言葉が実現しています。もちろん、日々新たな心配が起こります。心配しないことは不可能です。けれども、私たちは神さまの胸の中で心配しているのです。私たちの心配は、どうなってしまうかわからないような心配ではありません。どうなったとしても、神さまの胸の中で、神さまから注がれるいのちを生きることが大前提の、その上での、心配です。つまり神の守りと祝福というゴールがはっきりしているのです。あとは、では神さまはどのようにこの心配を切り抜けさせてくださるかを、心待ちにするのです。「私たちの父」である神さまが、父としての最善を与えてくださるからです。そんな子であり私たちおたがいを、今朝も喜び合います。



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