2022/10/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/30 「いのちのパンである神」ヨハネの福音書6章22-31節 大頭眞一牧師



主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日。人びとは主イエスを追って、舟で湖を渡りました。それは主イエスからパンをもらいたかったから。それも一回や二回ではありません。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(31)とあります。出エジプトの後、神さまは荒野で40年間、毎日マナを与えてくださいました。人びとは「そのように自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と、そう願ったのでした。

【いのちのパンである神】


主イエスの答えは「ノー」でした。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)と言ったのです。「永遠のいのちに至る食べ物」とはイエス。小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありました。ご自分を与え、しかも十字架の上で与えてくださった神が、「さあ、わたしのいのちを受け取れ」と招いてくださったのです。

こうして礼拝に集っておられるみなさんは、「永遠のいのちに至る食べ物」であるイエスを受け取った方がたです。イエスといういのちのパンを食べたのです。そんなたがいを喜びたいと思います。私たちに食べられるために、喜んでご自分を与えてくださったイエスを想いながら。

【奇跡ではなくしるしを】


ヨハネは七つの「しるし」を記していると前にも申し上げました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26c)とあります。人びとが見たのは、イエスがたくさんの人びとにパンを食べさせる奇跡。けれどもイエスは、人びとが奇跡は見たが「しるし」は見ていないというのです。「奇跡」とは、常識では起こると考えられない不思議な出来事。けれども「しるし」はちがいます。ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、主イエスが「神が遣わした者」(29b)、神から遣わされ、十字架に架かって、復活した神であるという信仰をもたらすもの。「奇跡」は、ご自分を与える神の愛の光で見るときに「しるし」となるのです。

【律法ではなくいのちを】


イエスが永遠のいのちを語られたとき、人びとは「「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」28bと訊ねました。当時の多くの人びとは律法を誤解していました。律法を守れば救われ、破れば罰せられる。そういうふうに考えていたのです。けれども実際は、律法はそうではありません。まず出エジプト、そして律法。律法を知らないで、救い出されたイスラエル。そのイスラエルに神さまが「わたしといっしょに歩こう。わたしといっしょに愛し合おう。その歩きかた、愛し合いかたを、教えてあげよう」と、与えてくださったのでした。

それがわからない人びとが「何をすべきでしょうか。」28bと訊ねたのは当然でした。何かをすることによって神の承認を得ようとするのです。それは私たちも同じです。どこかで「自分はもっと何かをすべきではないのか」と自分を責める思いが起こってきます。とくに失望の朝、落胆の夜には。

ところがそこへイエスの声が響きます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)と。「信じること」については、いつもお語りしている通りです。私たちは自分で信じようとしても、信じることはできません。信仰そのものが神さまからの贈り物なのです。ですから、ここで主イエスは「今、あなたがたに信仰を贈る。それはもうあなたがたの中に起こっている。わたしを飲み、わたしを食べよ。わたしはあなたがたにいのちを与える食べ物である。」言ったのでした。

【アスランのくだされた冒険に】


荒野の毎日のマナのように、「自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と願った人びと。私たちも同じように祈ります。健康のため、生活のため、安全のために。けれどもイエスは、それらのことを思いわずらうな、と教えられました。それは、私たちの安心など、どうでもよいからではありません。イエスが差し出されているのは、もっと大きな安心。嵐のない安心ではなく、嵐のなかでもなくならない安心。死の向こう側でもなくならない安心です。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)はたいせつです。イエスが信仰を与えるとき、それは私たちの内側の心の動きにとどまりません。あふれる愛が私たちを行動へと押し出すのです。愛の冒険へと。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。

冒険というとなにか恐ろしいことのように思うかもしれません。けれどもそれは、自分が置かれた場所でていねいに生きる、ただそのことです。先週は明野に外国から方がたが出席されました。私は信愛での説教でしたのでお会いしていないのですが、明野の方がたが、とても暖かく歓迎してくださいました。世界につながる小さな冒険が始まったのです。イエスの招きによって。それぞれの場所で。

   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/10/22

主日礼拝メッセージ 2022/10/23 「わたしだと言う神」ヨハネの福音書6章16-21節 大頭眞一師


今日は主イエスの五つめのしるし、湖の上を歩いた主イエスの奇蹟です。4月から信愛と明野の合同礼拝が始まり、ヨハネの福音書の最初から読んだために、明野の方がたは、去年読んだのと同じ個所を二度聴くことになりました。それも先週で終わり、きょうの箇所から、明野の方がたもはじめての箇所となります。お待たせしました。

【来ておられなかったイエス】


「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」(16-17)とあります。ほかの福音書は、イエスが強いてそうだせた、と記していますが、ヨハネは理由をなにも記しません。ヨハネがこの福音書を書いた紀元1世紀末は、教会が迫害の中にありました。教会に連なる人びとは「主イエスは自分たちと共におられないのではないだろうか。自分たちはイエスなしで教会という舟で航海しているのではないか」と思ったことでしょう。そんな教会の姿が、弟子たちに重ねられているのです。

明野は最近大きな痛みを経験しました。私たちの愛する友である兄弟を失った。あまりの不条理に言葉がありません。ご高齢の方がたが「私たちがいくらでも代わってあげるのに」と話しているのを聞いて、私の心はずきずきと痛みました。私たちの人生の旅には「強風が吹いて湖は荒れ始めた。」(18)というときがある。そんなときにしばしば私たちはイエスが共におられないのではないかと思うのです。

【湖の上を歩いて来られるイエス】


「そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」(19)はおよそ5キロ。浅瀬を歩いて来るならまだしも、沖合5キロの深い水の上を歩くことは考えられないことです。しかしイエスは来られた。5キロの水も主イエスを妨げることができなかった。主イエスの弟子たちへの思いが5キロの水よりまさったからです。主イエスが来てくださった。主イエスは来ることを望んでくださったのでした。

私たちの兄弟にはお孫さんたちがいます。こういう場合に幼い人びとになんと話したらよいのか、と私たちは思います。いや、私たち自身が、どう受け止めたらいいのか聞きたいのです。そんなことを思ううちにふと浮かんだことがある。それは「神が」兄弟を休ませた。もう、よくやった、と休ませた、いうこと。私たちには、そんなことを言われても納得などいくはずもないのだけれども、けれども、主語は神さま。神が兄弟を小学生のころに招き、神が生涯の使命を与え、神が伴侶を、子どもたちを、孫たちを与え、神が明野に導いた。その生涯を貫いたのは「神」という主語。愛に満ちた「神」という主語。兄弟も「神」という主語を受け入れた。神を主語として生きた。兄弟の生涯にもさまざまな嵐があっただろう。けれどもどの一つの嵐も神がおられない嵐はなかった。神はいつもそこに来られていた。兄弟の生涯の最後の嵐の中でももちろん。

【わたしだ】


湖の上を歩くイエスを恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(20)と声が響きます。「わたしだ」はギリシア語で「エゴーエイミー」有名な言葉です。主イエスがこの言葉を使われるときには出エジプト記を思い浮かべておられました。

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(3:13-14b)

「わたしはある」英語で言えば「アイアム」、ギリシア語では「エゴーエイミー」。神がご自分で名乗られた名前が出エジプト記の「わたしである」であり、ヨハネの「わたしだ」です。けれども神は、ただ置き物のように「ある」のではありません。出エジプトではイスラエルの苦しみを黙って見ていることができないで、身をかがめるようにしてモーセに現れてくださった神。嵐の中の弟子たちに、5キロの水を乗り越えて来てくださった神、迫害下のヨハネの教会にも「わたしだ」と言って励ましてくださった、愛ゆえに行動する神。それが「わたしだ」と言う神なのです。

【イエスを迎え入れようと】


「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」(21)は、協会共同訳のほうがよいでしょう。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21)つまり、弟子たちがしたことは何もないのです。ただイエスを迎え入れようとした。迎え入れたのでもない、ただ迎え入れようとした。嵐の中にうずくまるときの私たちにできることはほとんどありません。強い信仰を持てと言われても無理です。ただ、そんな私たちでも「わたしだ」と言う声のするほうに、わずかに顔を向けようとすることはできるかもしれません。それは、ほんのわずかなこころの動きにすぎません。でも、それでよいのです。それでじゅうぶんなのです。

「すると間もなく、舟は目指す地についた。」(21b)とあります。ヨハネは強風がおさまったとは記しません。ヨハネの生きている間に、教会への迫害がおさまることもありませんでした。けれども、主語である神さまは、愛ゆえに、目指すところを成し遂げられるのです。私たちの生も死もそのために用いてくださるのです。そのなさり方は、私たちの理解も想像も超えていますから、それを理解しようとはしないでください。私たちにはわからないのですから。それでも光の方角にわずかに顔を向けようとするとき、それが単に今までの習慣から、無意識に祈りや賛美を口ずさむことであったとしても、愛なる神さまがその先を引き取ってくださいます。いえ、もうそしてくださっています。

ワーシップ「アブラハムと神さまと星空と」Bless (詞:大頭眞一牧師)




   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを表示する」の中に記されています)

2022/10/16

主日礼拝メッセージ 2022/10/16 「豊かに与える神」ヨハネの福音書6章1-15節 大頭眞一師

  (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



今日は主イエスの四つめのしるし。五つのパンと二匹の魚の奇蹟です。今までもヨハネの福音書の二階建て構造について語ってきましたが、ここ にもそれが鮮やかです。一階では、パンや魚によって人びとは満腹になります。けれども、主イエスの願いは二階にあります。ひとびとがいのちのパンに与って、新しいいのちに生きることなのです。

【しるしを見たから】


5章の舞台はエルサレムでしたが、6章は再びガリラヤ湖。「大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。 」 (2)のとおり、群衆は新しいいのちを求めたわけではありません。 病人たちのいやしを見て、それに引きつけられたのです。主イエスの与えるいのちには関心が向いていないのです。

けれどもそれは弟子たちも同じでした。 主イエスはピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 (5)と言います。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 」 (6)とあります。 主イエスの願いは、人びとに新しいいのちを与えることです。病のいやしは、新しいいのちのしるしであって、 ほんとうに与えたいのは、新しいいのちなのです。主イエスは弟子たちにも、このことを知って欲しいのです。だからあえて「どこから買って来るか」と試されました。ここで思い出すのは、スカルの井戸のできごとです。弟子たち がイエスに「先生、食事をしてください」(31)と勧めたとき、 イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 (32)と言いました。 もしピリポがこのときのことを覚えていたら、「主イエスよ、新しいいのちにいたるパンはあなたがお持ちです。あなたがいのちのパンです」と答えることができたでしょう。けれども、ピリポは食べるパンのことしか考えることができませんでした。主イエスのテストに不合格だったのです。

その点ではアンデレも同じでした。主イエスがいのちのパンであることを忘れて「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」 (9)と言ったのです。空腹を満たす食物のことしか考えられなかったのでした。

【五つのパンと二匹の魚】


けれども 、主イエスはしんぼうづよい愛のお方です。 ピリポやアンデレを失格だ、と斥けることはしません。 差し出されたパンと魚を用いて、弟子たちと群衆にいのちを与えようとなさいました。二階建てと 言うならば、一階では五千人の満腹というできごとが起こっています。けれども二階では、主イエスの与える新しいいのちが差し出されているのです。

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。(11)はたいせつです。この「感謝の祈り」は過越の祭りでささげられる祈り。出エジプトで、神さまはエジプトの奴隷であったイスラエルを救い出しました。エジプトじゅうの長子が殺されたとき、過越の小羊の血によって、イスラエルだけが救われたのです。こうして解き放たれたイスラエルがその恵みを記念するための、過越の祭り。その祭りの感謝の祈りを、主イエスはささげました。それはご自分が過越の小羊として十字架に架けられること。それによってすべての人が罪と死から、永遠のいのち へと解き放たれることを知っておられたからでした。ですから、主イエスが配られたパンと魚はただ空腹を満たす食物というのではありません。 新しいいのちを与えるためのいのちのパンです。そしてそれは主イエスの十字架の血と肉を表しているのです。

【十字架の王】


「人々はイエスがなさったしるしを見て、 『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』 と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 」 (14-15)。人びとは主イエスを王にしようとします。けれども主イエスはそれに応じませんでした。 食物で満腹することだけを求める群衆の言いなりにはならなかったのです。それは、彼らが求めることさえしない新しいいのちを与えるため。そのためにご自分を十字架に与えるため。そのお姿は外見では王には見えません。けれども、その愛はまぎれもなくまことの王である神の愛でした。そんな十字架の王を見上げつつ、私たちは聖餐に与ります。 先に召された者たちとともに、やがて主の食卓に連なる日を思いながら 。

2022/10/07

主日礼拝メッセージ 2022/10/09 「愛を求める神」ヨハネの福音書5章41-47節 大頭眞一師

 (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人の、ベテスダの池でのいやしとその後のできごとの最終回です。実は、今日の箇所は牧師泣かせの箇所。語られていることが抽象的で、しかも謎めいているので、つい説明するようなメッセージになりやすいからです。そうならないで、福音の宣言を鳴り響かせたいと思います。語られていることは5章全体を貫く「主イエスとはだれか。神である」です。

【人からの栄誉】


主イエスはご自分を受け入れないユダヤ人たちを惜しまれます。そして彼らに忍耐づよく語り続けます。「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」(43a)と嘆き、「もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」(43b)と指摘します。「その人自身の名で」とは、「自他ともに認める人間的な評価で」ということでしょう。ですから、「あなたがたは、多くの人が『これはよい、すばらしい』と言えば、それを受け入れる」という意味。人間がどう評価しているのかが、判断の基準なのです。だからユダヤ人たちは、主イエスが神であることを否みました。

このユダヤ人たちは、律法を厳格に守るならば『これはよい、すばらしい』と言って、たがいに受け入れ合いました。「互いの間では栄誉を受け」(44)がそれです。律法を厳格に守っているおたがいを『これはよい、すばらしい』と称賛し、栄誉を与え合うのです。こうしてとても人間的なつながりが、できていきます。すると今度は、自分たちの基準に当てはまらない人を排除するようになります。「唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。」(44)とあります。ユダヤ人たちは。神からの栄誉、すなわち神が『これはよい、すばらしい』とおっしゃることから外れてしまっているのです。彼らの交わりもほんとうの愛の交わりではなく、基準に当てはまらない人を排除し、仲間うちでもどこかでたがいに競い合う、いつわりの交わりになってしまっているのです。

【神への愛】


だから主イエスは語ります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」(42)と。問題はやはり愛です。人からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神への愛に生きるのではなく、人とのいつわりの交わりに生きることになります。けれども、神からの『これはよい、すばらしい』を求める者は、神とのほんとうの愛の交わりに生きるのです。

【主イエスの愛】


では、私たちはどうしたら神とのほんとうの愛の交わりに生きることができるのでしょうか。私たちはすでにその答を知っています。答は主イエス。「わたしは人からの栄誉は受けません。」(41)とおっしゃる主イエスが答です。主は人からの『これはよい、すばらしい』を求めませんでした。主が求めたのは父からの『これはよい、すばらしい』でした。父との愛の交わりに生き、父への愛を貫き、十字架の死にいたりました。そして私たちにその愛を注いでくださったのでした。主イエスの愛を受取った者たちがここにいます。それが私たちです。

【訴えるモーセ】


ユダヤ人たちは熱心でした。けれどもその熱心は、彼らをほんとうの神との交わりには導きませんでした。彼らはモーセの律法を聖書の大きな物語からとらえるのに失敗しました。十誡を誤解して、守れば神の好意を得、破れば神のさばきを受ける戒律としてとらえてしまったのでした。

けれども聖書は神の愛の物語。愛ゆえに世界を造り、愛ゆえに人の罪を何度でも赦す神。そんな神が与えたモーセの十誡は、私たちをどこまでも愛する神の、ご自分とともに歩く歩き方の教え。いつも申し上げる通り、まず出エジプト、そしてシナイなのです。私たちがなにかをしたから救われたのではないのです。「信じたら救われる」と言いますが、信仰さえも神さまからの贈り物なのですから。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。」(45)とあります。神の愛の大きな物語の中で、神の与えるほんとうの愛の交わりに生きようとしないならば、それはモーセが語ることを否むことになります。そしてモーセの語る大きな物語の極みは主イエスの十字架と復活です。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。」(46)とあるとおりです。

今日から京都聖会が始まります。三回にわたってお語りしますが、つまるところは、神に愛されている私たちが、その愛を生きることができるように回復されること。そしてその回復が世界に及んでいくことです。神さまと共に、世界の破れの回復のために働くことができる、そのようないのちに生きている不思議を喜びつつ。

ワーシップ(賛美) 「花も」 Bless





2022/09/30

主日礼拝メッセージ 2022/10/02 「聖書が証しする神」ヨハネの福音書5章31-40節 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




38年間病気で苦しんでいた人を、べテスダの池で、いやした主イエス。先週の箇所に続いて、敵意をもったユダヤ人たちに、真正面から向き合い、語り続けられます。問題になっているのは、イエスが「ご自分を神と等しくされた」(18)、すなわはち、ご自分は神だと宣言されたことでした。主イエスはこのことの、四つの証しを語ります。「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。」(32)と新改訳2017では「方」という敬語が使われていますが、これは訳しすぎでしょう。「ほかにも証人がいる」というのが原文です。

【第一の証しバプテスマのヨハネ】


「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」(33)とあります。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と証ししました。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」(34)とあるように、ヨハネの証しだけで、主イエスが神であることが十分にわかるわけではありません。実際にヨハネは殺されてしまいました。それでも、主イエスはその証しを意味あるものと認めてくださいました。私たちの証しもそのように見てくださっています。

【第二の証し主イエスのしるし】


「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」(36)が、第二の証し。主イエスの奇蹟、ヨハネの福音書では「しるし」と呼ばれているわざです。ここまで見てきた「カナのぶどう酒」「カナでの王室の役人の息子のいやし」「べテスダの池の三十八年も病気にかかっていた人のいやし」がそれです。これらはただ目に見えて起こったことだけではなく、神が私たちに愛を注ぎ、永遠のいのちを与えてくださる、それも今、与えてくださっていることを表わすものでした。それこそ神でなければなし得ないことでした。

【第三の証し父なる神の証し】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」(37a)とあります。ヨハネの福音書は全体として、父が主イエスを復活させ、死の力を打ち破ったこと、それによって私たちの罪を贖って、救いをなしとげてくださったことを証ししています。この5章ではまだ復活は描かれていませんが、ヨハネが「父ご自身の証し」と語るとき、それは主イエスの復活を意味していたと考えられるのです。その復活のいのちは、すでに私たちのうちに始まっています。

【第四の証し聖書】


「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。」(37-38)は、ユダヤ人たちに向けられた言葉です。けれども、ひょっとしたら私たちの中に、「自分も父なる神さまの御声を聞いたことも、見たこともない。みことばをあまり読んでいないし、読んでも自分のうちにとどめていない。自分はだめなのかな」と思ってしまう方がおられるかもしれません。

しかし、それはとんでもないことです。そんな私たちのために聖書は証しします。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(39)とあります。ここでいう聖書は旧約聖書。旧約聖書には、神が愛するために世界と私たちを造り、人が神に背を向けても何度でも何度でも何度でも赦して愛を語り続け、やがて傷つけられながらも世界を贖っていやす不思議な救い主を送ってくださると預言しています。この大きな物語については教区で鎌野直人校長をお招きした「聖書を読もう!」の動画をぜひご覧ください。

そして私たちはさらに、旧約聖書の続編である新約聖書を手にしています。そこには神である主イエスの、十字架と復活による預言の成就が鮮やかです。どうか「自分はだめだなあ」などと思わないでください。こうして礼拝に集い、あるいは後から動画や録音で視聴するみなさんは、聖書をとおして父の御声を聞き、御姿を見ているのです。「今日は、あるいは、今日も、集中できないな」と感じたとしても心配はいりません。みことばを私たちのうちにとどめるのは神。神が、どうしても私たちのうちににみことばをとどめ、私たちを愛の交わりのうちにとどめたいと願って、そのようにしてくださるのです。

【そして第五の、私たちの証し】


四つの証しは、主イエスが神であることの証しですが、それはまた私たちにいのちが与えられていることの証しでもあります。そんな私たちは世界に対して、主イエスが神であることを証しします。神との、仲間とのいのちと愛の交わりにいることを喜びながら。これが第五の証しです。

この証しを胸に私たちは生きます。今日を。昨日を生きようとしないでください。私たちの過去は主イエスによって贖われています。明日を生きようとしないでください。私たちの未来は主の手にあります。今日、心を尽くして、力の限り主イエスのいのちを生きるのです。Alivetoday!


2022/09/23

主日礼拝メッセージ 2022/09/25 「父なる神の子なる神」ヨハネの福音書5章19-30節

  • タイトル: 父なる神の子なる神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章19-30節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。けれども、そのことをきっかけにユダヤ人たちとは主イエスを迫害し殺意を抱きました。その彼らに対して、主イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(19b)という言葉を持って答え始められました。「まことに」を2回繰り返すことによって「今、わたしはほんとうに真剣に語られるべき、そして真剣に受け取られるべき真理を告げる」との思いを表されたのでした。批判する者たちに真正面から向き合われたのです。

【父と子のこころ】


神とはいかなるお方であるのか。その外見や能力などは私たちにはとらえることができません。けれどもそんな私たちにもとらえ得るものがあります。それは、神がいちばんたいせつにしていることは何か、ということ。神のいちばんの関心事はなにか、神のこころの深いところに何があるのか、ということです。

新改訳聖書2017の新しい点のひとつはローマ書3章の22節に脚注が加えられたことです。本文は「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」となっていますが、脚注は「すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と下線部が異なる訳になっています。これによるなら、人が救われるのは「イエス・キリストの真実」によります。今日の聖書の個所はこのことをよく表していると思います。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(19c,d)。主イエスは父が行うとおりに行う。父が行うとおりとは、この世界を、そして私たちを愛すること。主イエスは父のこころに真実です。父が私たちを愛するとおり、私たちを愛する。十字架にいたるまで私たちを愛しぬく。これが主イエスの真実です。

「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(20b)ともあります。この驚くべき大きなわざとは「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(21)このことです。主イエスは復活し、そしてその復活のいのちが私たちにも与えられる、これがより大きな驚きのわざです。こうして主イエスの真実が私たちを救います。それが父と子のこころです。神のいちばんの関心事、神のこころのいちばん深いとことにある願いなのです。

【さばきは子に】


そんな主イエスは、ご自分に敵意を抱くユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(24a、25a)をとさらに二度繰り返します。そして「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(25)と宣言するのです。ここでの死人とは神に背を向け、いのちに背を向けている人のことでしょう。ユダヤ人たちは律法には熱心ですが、いのちの源である主イエスを憎んでいるのですから、いのちにつながっていません。死人なのです。そんな彼らに主イエスはしんぼう強く語り続けます。招き続けるのです。

「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」(23)も招きです。子を敬うというのは、はいつくばっておじぎをすることではありません。主イエスを喜び、その愛を受け入れ、父と子の愛の交わりに加わることです。もし、それをあくまで拒み続け、いのちの源に背を向け続けるなら、さばきがあります。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(29)がそれです。けれどもこれは、脅かして、恐れの奴隷にして、信じさせようというのではありません。その日が来るまでに、主イエスを受け入れよ、との招き。そうでなければ、自分でさばきを選び取ることになってしまうという主イエスの嘆きなのです。

【世界の破れをつくろうために】


エリザベス2世が召されました。私はニュースで報じられていることしか分かりませんが、平和や人権のためにいろいろと動いた方のようです。有名なのはアパルトヘイトの南アフリカでマンデラ氏の解放のために尽力したことでしょう。

葬儀での讃美歌や聖書箇所にはご本人の希望がはいっているということで、その信仰をうかがうことができるようでした。読まれた聖書は、まずⅠコリント15章20-26節、53節。キリストの復活が初穂であり、私たちは死に勝利したものとして終わりに日に新しいからだでよみがえると約束されている箇所。

その後、詩篇42篇1-7節のことばが聖歌隊によって歌われました。「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか、私のうちで思い乱れているのか…」という有名なところ。

そして、先日就任したばかりのリズ・トラス首相が、ヨハネによる福音書14章1-9aを美しい声で朗読しました、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(6-7)です。

続くカンタベリー大司教による説教は、20分ほど。その中心は、女王の生き方は、「国に仕える者としての生き方であった」、そしてそれは「人々に仕えることにおけるリーダシップ」であった、と。特に印象的だったのは、「どのように生きるか」というよりも、「どなたに仕えていたか」という視点の大切さです。女王は、終生キリストに仕えるとともに国民に仕えて来たというのです。

さきほど「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(24)と聞きました。すでにいのちに移った私たちはさばきを恐れて生きるのではありません。天国へ行くことが目的ではないのです。そうではなくて、キリストのいのちを生きる私たちのこころは、世界の破れを見るときに、神のこころと共振します。世界を惜しみ、痛みを感じる父と子とともに、私たちのこころもわななきます。それが主のいのちに生きていることの証しでもあります。女王もまたそのように世界の破れをつくろうために自分を献げた人ではなかったかと思うのです。

もうひとつ。女王が召されたことが報じられた後、バッキンガム宮殿に美しい虹が見られたとのことです。友人の牧師が、聖書に親しんで英国人の感じ方を教えてくれました。それは「女王の死を悲しむように、雨が降っている。でも、神はそこに美しい虹を見せてくださった。それは神がこの世界を守っているという契約のしるしだ。神は英国と英連邦王国の王政を引き続き祝福してくださると約束してくださっているかのようだ…」と。もちろん、神の祝福の約束は英国と英連邦王国だけのものではありません。キリストのいのちを生きるすべてのキリスト者、その中には私たちもいます、を通して世界に注がれています。


2022/09/17

主日礼拝メッセージ 2022/09/18 「父の子である神」ヨハネの福音書5章9b-18節

  • タイトル: 父の子である神
  • 聖書: ヨハネの福音書5章9b-18節(新約P.185)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった」(9b)ので、「ユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った」(10)のでした。

【ほんとうの安息日】


ユダヤ人たちの言葉は十誡の第四誡に基づいています。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:9-10)を根拠に、このユダヤ人たちが癒された病人をとがめたのでした。この人が癒されたことを祝うのであればともかく、おそらくはゴザのような敷物を持っていただけなのに、それを責めるのは、理不尽で冷酷非情です。滑稽とも言えます。

本来、律法は神の恵みによって救い出された民が、神と共に歩くための歩き方の教えです。いつも申し上げるように、まず出エジプトそしてシナイ山です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、二度と奴隷のくびきにつながれることがないために、神さまを喜び、神さまと共に歩く歩き方を教えられたのです。ですから、病気であった人が癒され、床を取り上げて、家族や仲間のところに帰って行くことは安息日にふさわしいことです。ところがこのユダヤ人たちは、恐れの奴隷となっていました。十誡を破る、あるいは少しでも疑わしい行為をするなら、神の怒りをかうのではないか、と恐れていたのです。これは不幸なことでした。神さまというお方がいかなるお方であるのかを見失ってしまったのです。世界のすべての人に神さまを紹介する使命を与えられたイスラエルにとって、これは致命的な逸脱でした。

同じようなことは私たちにも起こります。たとえば、礼拝出席。もし私たちが礼拝に出席しなければ神さまに罰せられる、と恐れるならば、そこには喜びはありません。けれども礼拝は解放のときです。神さまが私たちを礼拝の中で解き放ってくださる。神とのわだかまり、人とのわだかまりを引き受けてくださって、私たちにほんとうの安息を、休みを与えてくださる。このことを知るならば、すすんで礼拝に行くでしょう。神さまに私たちのたましいを休ませていただけるのですから。

【見つけてくださるイエス】


この癒された人は群衆に取り囲まれたようです。「しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。」(13)。囲まれている間に主イエスは立ち去られました。けれどもそれは、病が癒されればそれでよい、と思われたからではありません。主イエスはこの人のたましいをも癒し、安息を与えたいと思っておられました。しかし奇蹟に興奮した大騒ぎの中ではじっくりと語りかけることもできませんでした。

だから後で、主イエスはこの人を見つけました。主イエスがこの人を見つけてくださったのです。救いとは何か。死んだら天国に行くことというのは、じゅうぶんではありません。救いとは、主イエスとの愛の交わりに生きること。その交わりは死を超えて、その向こう側に続くのです。主イエスはその愛の交わりの招くために、この人を見つけてくださったのでした。

「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14)は、この人の病が罪のせいだと言っているのではありません。聖書にそんな考えはありません。主イエスは「わたしとのこの愛の交わりにとどまりなさい」と励ましてくださっているのです。主イエスとの交わりに背を向けることが罪です。それはいのちの源と自分とのつながりを絶つことです。それが「もっと悪いこと」なのです。

【何度でも何度でも何度でも】


けれども「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)とあります。癒された後、この人は安息日に床を取り上げたため、ユダヤ人たちに責められました。そのとき、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」(12)と問い詰められて、答えることができませんでした。このときの恐れは、この人を覆っていたようです。だからこの人は、ユダヤ人たちに主イエスを通報しました。「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)のでした。これが主イエスへの迫害と殺意のきっかけになったのです。

その通報こそ、主イエスとその愛の交わりに背を向ける罪でした。自分のいのちの源とのつながりを絶つことでした。では彼に「もっと悪いことが」起こったのでしょうか。私はそうは思いません。主イエスはこの人のこの罪のためにも十字架に架かってくださいました。そして、そのたましいに語りかけ続けてくださったにちがいありません。何度でも何度でも何度でも。

【父の子なる神】


そもそも安息日は、天地創造で完成した世界で神が人と交わるために設けてくださいました。そうでなければ、生活の不安や自己実現に駆り立てられて、際限なく働き続けるであろう私たちの弱さをあわれんでくださったのです。いちばんたいせつなこと、神さまとの愛の交わりを第一にするようにと、特別な日を造り出してくださったのです。ですから安息日は「○○をしない日、○○をしてはならない日」ではありません。「神さまと交わる日、神さまと交わることができる日」なのです。もちろん、神さまとはいつだって交わることができます。けれども安息日は、神さまとの交わりのために世界をあげて備える日です。みんなが神さまと交わることができるように社会や仕事の機能も停止したり、制限したりして整えるのです。

だから神さまは安息日にも休んでおられるわけではありません。私たちを交わりに招いておられるのです。私たちと交わってくださっているのです。

その交わりをもたらしてくださったのは主イエス。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17)と、父と子の愛の働きに応じるようにと招いたのです。これに反発したユダヤ人たちですが、彼らが見のがさなかったたいせつなことがありました。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」(18)がそれです。

ユダヤ人たちの思いをはるかに超えて、ここにひとりの神が、ひとりであるのに父と子として(そして聖霊として)働いて、愛を注いでくださる神秘が現れていたのです。神の三重の愛がそこにあります。今このときもその三重の愛が私たちに注がれているのです。