2025/10/11

礼拝メッセージ「義に飢え渇く者の主」マタイによる福音書5章6節 大頭眞一牧師 2025/10/05


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第四の祝福。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6)です。八つの祝福で繰り返して語られているのは、イエスと共にいることの祝福。今日もこの祝福に心を開きます。

【義に飢え渇く者】

私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えやあちこちで起こっている自然災害に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。

【主イエスによって】

けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。

【もはや叫ぶだけでなく】

「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。もうすぐ明野と信愛の召天者記念礼拝、墓前礼拝がもたれます。天授ヶ岡教会はイースターでした。どの教会でも納骨があります。思えば多くの方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。

(CSメッセージ「ベテスダの池」)



2025/09/08

礼拝メッセージ「柔和な者の主」マタイの福音書5章5節 大頭眞一牧師 2025/09/07




マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第三の祝福。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(5)。

【主イエスが幸い】

第一の祝福「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(4)には、共通点がありました。それは、私たちにはとてもさいわいには思えない現実の中に、主イエスがさいわいを造り出してくださる、ということでした。つまり、主イエスご自身が私たちのさいわいなのです。今日もまた主イエスが私たちのさいわいであることを聴き取りたいと思います。

【柔和な人たち】

「柔和」という言葉を聞くと、弱弱しく軟弱なことをイメージするかもしれませんが、それはまちがいです。「柔和」と日本語に訳されている聖書の言葉は「中庸」という意味。怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らない「中庸」という強さを持っているのが柔和なのです。

ところが私たちは、いつも怒りをコントロールすることができるかというと、そうではありません。ときに限度を超えて怒ってしまい、また、ときに怒るべき時でないときに怒ってしまうことがあります。そんなとき、私たちは、自分は柔和でない、だめだ、と落ち込んでしまうことがよくあります。

【自分が正しくても】

今日のマタイ5章5節は、主イエスが詩篇を引用された箇所。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37篇11節)そこに描かれているのは、神の民でありながら、神に従わない者たちによって苦しみを味わわされている人たちのことです。ですから詩篇、そして主イエスは、自分が正しくても、怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らないさいわいを語っているのです。自分が正しくても柔和!これはますます難しいことに思えます。

【柔和な主イエス】

私たちはどうすれば、柔和であることができるでしょうか。反省してもまた怒ってしまう私たち。気をつけようと思っていても、怒るとそれを忘れてしまう私たち。けれども主語は神さま。自分から目を離してイエスを見るのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)とあります。柔和なお方は主イエス。そして主イエスの柔和は十字架にいたるまで変わりませんでした。「『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と。柔和な主が私たちの重荷を下ろしてくださった。いやしてくださっている。十字架まで柔和な主が。

【怒った後で】

しばらく前ですが、私はひさしぶりに怒ってしまいました。限度を超えて。その後、牧師なのにと、とても情けなくなりました。そんなとき「柔和な人たちはさいわい」と今日の箇所を思いました。主イエスは私を責めておられるのだろうか、とふと思ったのです。人はなぜ怒るのか。自分の正しさや思いが受け入れてもらえない、そんなとき私たちは「どうしてわかってくれないんだ」と悲しみ、怒ります。でも私は、主イエスがそんな悲しみもすべてご存じで受け入れてくださっていることを思い出しました。そして怒りの相手もまた主イエスに受け入れられていることも。振り返ってみれば、ずいぶん怒ることが少なくなってきたな、とも思うのです。主イエスによっていやされているのだと感じました。

【地を受けつぐ者】

柔和な人たちのさいわいは「地を受けつぐ」こと。これは大きな土地を相続することではありません。この「地」は世界。世界には多くの破れがあり、怒りが満ちている。けれども、主イエスの胸で癒されつつある私たちは、世界の破れを回復するために働くことができます。たがいに受け入れ合い、いやされることを経験することを通じて。それがほんとうのさいわい。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/24

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2025/08/24



マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。神さまがぎゅつ!

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/13

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2025/08/10


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」は祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。けれどもそこにイエスの御声が響きます。

イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


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2025/08/07

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2025/08/03


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/07/26

礼拝メッセージ「漁師にする主」マタイの福音書4章18-25節 大頭眞一牧師 2025/07/20


マタイの説教では毎週だいたい「〇〇の主」という題にしています。イエスご自身がどんなお方であるかを際立たせるため。月刊予定表では「漁師にする主」としたのですが、ほんとうは「従わせる主」がよかったかな、とも思います。今日の聖書箇所を貫いているのは「イエスに従った」だからです。20節でペテロとアンデレが、22節でヤコブとヨハネが、25節で大勢の群衆が「イエスに従った」のでした。

【なぜ?】

これらの人びとはなぜ、イエスに従ったのでしょうか。一見すると、群衆が従った理由はわかりやすく思えます。「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」(24)とあるからです。イエスが人びとを癒したので、人びとはイエスに従ったのだろう、そんな気がするのです。

けれども、弟子たちの場合は、なにかよいことがあったからイエスに従ったわけではありません。ただイエスに招かれ、それだけで従ったように見えるのです。実はルカの福音書には、ペテロたちが従ったいきさつを異なる描き方をしています。イエスが網が破れそうな大漁の奇蹟を行っているのです。

ルカとちがって、マタイが大漁の奇蹟を記さないのには理由があります。それは弟子たちが奇蹟を見たからではなく、福音を聞いたから従ったことを明らかにするため。今日の箇所の直前の17節。「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」とあります。イエスが、神の国(天の御国)の到来を告げ、主イエスに向き合うように(悔い改め)招いたから、弟子たちは従ったのでした。

実は群衆も同じでした。確かに主イエスは癒しの奇蹟を行ないました。けれども「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(23)とあります。まず「御国の福音」が宣言されているのです。だから群衆は従ったのでした。私たちの中にも、病やいろいろな困難がきっかけで教会に足を踏み入れた人も多くいるでしょう。でも、みんな福音を聞き、新しいいのちを受け取り、主イエスに従いました。もともとの病や困難が解決した場合もあり、そうでない場合もあるでしょう。けれども、主イエスが福音によって私たちの歩みを変えてくださいました。ご自分に従う者としたのです。ここでも主語はイエス、その動機は愛です。

【来なさい、わたしの後ろに】

「わたしについて来なさい」(19)は、もっと原語のニュアンスを出せば「来なさい、わたしの後ろに」となります。長距離走や自転車レースなどでは、先頭を走る人が風除けになります。先頭はもっともたいへん。私たちはイエスについて行くことは、たいへんだと身構えるのですが、逆です。私たちの先を行くのは十字架と復活のイエス。私たちのために何も惜しまないお方が私たちの風除けとなってくださいます。この破れてしまった世界で、暴風雨の中を、イエスなしに自分の力で歩こうとして疲れ切ってしまった私たちであったことを思います。そんな私たちをイエスは招きます。「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」と。

【すぐに捨てて】

「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(20)とあります。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。」(22)とも。ここを読むと、私たちは「自分はすべてをすぐに捨てているだろうか」と不安になったりします。けれども心配はいりません。イエスは、私たちみんなが仕事をやめて牧師になったり、財産のすべてを献金したりすることを願っておられるのではありません。

主イエスが願っているのは、私たちが主イエスの後を、主イエスの足跡を踏みながら一歩一歩ついて行くこと。そうするうちに、何かを手放さなければこれ以上ついて行くことができない、そういうときがきたら、それを手放せばよいのです。私たちが持っているものはすべてよいものです。神さまがくださったよいもの。それを軽くにぎって、主イエスについていくのです。そうするときに、私たちのまわりの人びとも主イエスを知ることになるのです。


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2025/07/08

礼拝メッセージ「光である主」マタイの福音書4章12-17節 大頭眞一牧師 2025/07/06


今日の箇所で、主イエスは人びとに語り始め宣教を開始しました。ここから心を開いて神の愛を聴きましょう。

【ヨハネが捕らえられたと聞いて】

ベツレヘムで生まれたイエスはナザレで育ちました。そして、30歳のころ、公の生涯の始まりに、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けました。ところが「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)とあります。ヨハネはヘロデ・アンテパス(かつて赤ん坊のイエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)が、兄弟の妻を奪って結婚したことを批判したために捕らえられました.ところがヘロデ・アンテパスは、当時ガリラヤの領主。私たちは、「イエスが退かれた」と聞くと、イエスが安全のために身を隠した、と思いがちです。ところがイエスはヨハネを捕らえたヘロデのお膝もとに行ったわけですから、かえって危険に身をさらしているのです。そしてそのガリラヤで宣教を開始されたのでした。

この「退かれた」は、主イエスが父なる神と向き合うために一人になったことを意味します。ヨハネの苦難に、ご自分の将来を重ね合わせて、これからのことを深く見つめられた。ご自分もまた、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、ローマに引き渡され、蔑みと罵りの中で十字架に架けられることに思いをめぐらされたのでした。

【人となられた神の苦しみ】

十字架を前にゲッセマネの園で、イエスは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。その後に「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と続くのですが、この二つの祈りは、すんなりとつながったのではなかったでしょう。苦しみの中で主イエスはご自分を差し出します。そして、苦しみの中で、父はイエスを受け取られたのでした。神が人となることのゆえに、そうでなければ味わうことがない苦しみを通りました。私たちに福音を与えるために。

【天の御国が近づいた】

福音とは何か。「天の御国が近づいた。」(17b)です。「天の御国」は、「神の国」つまり神の支配。世界はもともと神の支配のもとにあります。けれども、神の支配が、いま、新たな勢いをもって、この世界を覆います、イエスによって。イエスの十字架を通して。神の苦しみを通して。

「悔い改めなさい。」(17a)は、「自分の罪を認めて反省し、もう二度と繰り返さないように努めること」と考えられることが多いです。しかし聖書の悔い改めは、今まで背を向けていた神に正対し、心を開いて、その愛を受け入れること。「いま始まった新しい神の愛の迫りに、心を開け」と主イエスは招かれたのでした。私たちもその招きに応えたひとりひとりです。

【闇の中に大きな光が】

マタイはここでイザヤ書8章から9章を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(15-16)と。マタイは異邦人だけが闇の中に住んでいたと言っているのではありません。「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは自分たちのことだと言うのです。それは私たちのことでもあります。罪ゆえの闇の中で、手探りで進み、しばしばぶつかり合い、たがいに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きる私たち。どうしてこんなに苦しいんだろう、とうめくのだけれども、出口の見えない闇の中で、のたうつしかなかった私たち。けれども、そこに大きな光が!イエスの光が!そして私たちも、小さな光として、世界を照らすものとされたのでした。


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