2025/11/30

礼拝メッセージ「御国を与える主」マタイの福音書5章10-12節 大頭眞一牧師 2025/11/23


来週は待降節。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いていますが、今日は最後の第八の祝福、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(10)です。主イエスの復活そしてペンテコステの聖霊により誕生したキリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされることになりました。初期の教会の指導者のひとりテルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子」と記しています。迫害されてもキリスト教がなくなることはありませんでした。それどころか、ますます教会に連なる人びとが増し加えられていったのです。そしてついに紀元313年、ローマ帝国でキリスト教は公認されました。けれども日本のような非キリスト教国では長く迫害が続き、今もその影響には根深いものがあります。ですから私たちは「迫害」と聞くと反射的に「殉教」を思い、自分にはとても無理だ、とうなだれることがしばしばです。ところがそもそも教会は殉教を奨励していたわけではないようなのです。2世紀の殉教者ポリュカルポスによれば、殉教は自ら願ってするものではなく、なるべく避けるべきものだとされています。ですから殉教の焦点は死ぬことではなく、イエスと共に歩くことにあります。その中でさまざまな不利益をこうむることを避けないことがイエスの願い。その結果、時として殉教にいたることがあったとしても、殉教そのものが目的ではないのです。

【わたしのために】

この箇所が殉教の奨励ではない、とするなら主イエスのおこころはなんでしょうか。この八福にはこれまでの七つとはちがうところがあります。それは11節と12節が続いていることです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(11-12)。「わたしのために」とあります。つまり主イエスのおこころは、私たちが主イエスを愛し、主イエスとともに歩くことを励ますことです。殉教したかどうかで私たちをふるいにかけることではありません。それならば!と私たちは言うことができます。「イエスさま、私たちはあなたを愛してあなたと共に歩んでいます。足りないこともしばしばですが、私たちは自分の心をあなたのおこころに重ねています。あなたのために不利益をこうむることがあっても、それでもあなたのために生きたいのです」と。

【喜べ!】

そんな毎日に「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」ことが起こります。「クリスチャンのくせに」と周囲の人から言われることもよくあることです。それでも私たちは、ののしられてもののしり返さず、悪口に悪口をもってすることなく、愛を注ぎます。私たちを迫害する人びとのうちにある破れの回復のために。ののしられるときに、喜べ!このイエスの言葉は不思議です。けれども理由があります。イエスは迫害されること自体を喜べと言っているのではありません。「天の御国はその人たち(迫害されている者)のものだから」(10b)、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(12c)が理由。どちらも「もうすでに始まっている神の国(神の支配)、イエスが来られたことによって始まっている神の国。あなたがたはそこに入れられている。もう神と共に、イエスと共に、世界の回復のために働いている。その働きを通して世界は回復されている。だから喜べ!」と語るのです。思えば第一の祝福も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)でした。第一の祝福から第八の祝福までを貫いているのは「神の国(神の支配)がすでに始まっており、私たちがそこで働いていることの幸い」なのです。

【預言者たち】

「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(12d)とあります。私たちは預言者たちも迫害されたのだから、みんながんばれ、と命じられているように感じるかもしれません。けれども、私たちが見つめるべきは預言者の中の預言者として来られたイエスです。イエスはその迫害の中で、十字架に架けられて罪と死の力を滅ぼし、復活によって私たちに新しいいのち、愛のいのちを注いでくださいました。だから、私たちは迫害の中で愛することができます。主イエスから愛の注ぎを受けて。そのすべては世界で最初にクリスマスに始まりました。神が人となられたその驚きのクリスマスに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/11/22

礼拝メッセージ「平和をつくる者の主」マタイの福音書5章9節 大頭眞一牧師 2025/11/16


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第七の祝福、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(9)です。ここまで読んで来て、これらの祝福には一つのパターンがあることに気がつきます。①イエスが○○な者は幸いだと祝福する→②私たちにはそうは思えない→③けれどももっとも○○なのはイエスだと気づかされる→④イエスによって私たちのうちにも○○が始まっていることに目が開かれる、そんなパターンです。

今日の箇所もそうです。私たちは平和を願っています。争いがないことを願っているのですが、しばしば自分の正しさを主張して、あるいは相手を恐れ自分を守ろうとして、争ってしまうのです。

【平和をつくるイエス】

やがて待降節が始まります。ルカは、御使いと天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と賛美したことを記します。イエスは神。神がこの世界に平和をつくるために来てくださった、それがクリスマスです。さらにエペソ書はこう記します。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)と。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人。彼らの間は敵意によって隔てられていて、とても平和など望めませんでした。けれども神であるイエスが、その敵意を滅ぼし、打ち壊しました。十字架によって。神が十字架に架けられることによって。イエスはすべての敵意をご自分に引き受けてくださり、終わりにしました。そして平和をつくってくださったのでした。

【平和をつくる私たち】

すべての敵意と申し上げました。かつて私たちは神を主と、王としませんでした。かえって神を自分の願いを聞くべきしもべとみなし、聞かれなければ、敵意を抱きました。私たちが王であるかのようにふるまったのです。私たちはまた周囲の人にも王のようにふるまってきました。二人の王は並び立つことができません。ですから互いの間に、しばしば敵意が生まれ、平和が破れたのでした。けれども、イエスによって私たちに新しいいのちが始まりました。新しいいのちは新しい生き方を生み出しました。それは主イエスの生き方。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す生き方です。

マーティン・ルーサー・キング牧師は語っています。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう…しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」と。

「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というのです。ここにイエスが始めた新しい生き方があります。

けれども、と私たちは立ちどまってしまいます。それはキング牧師のような偉人には可能でも、自分には無理だ、と。しかし、本当でしょうか?あなたのうちにはいのちが始まっていないのでしょうか?主の祈りで「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈る私たちには、確かにイエスの生き方が始まっています。だからその生き方を、ますます生きるのです。自分のうちにあるいのちを信頼してさらに大胆に。

【国と国の間にも】

イエスが平和をつくるのは、神と人、人と人との間ばかりではありません。国と国の間にも戦争をとどめ、平和をつくります。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す私たちを通して。苦しむ能力、苦しみに耐える能力によって。長い時間をかけても。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/11/16

礼拝メッセージ「心のきよい者の主」マタイの福音書5章8節 大頭眞一牧師 2025/11/09


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【心のきよいとは】

聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。
ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちの心が、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。
ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。
先週は11月3日には神戸リバイバル聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、参加された方がたが感想を語ってくださいました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。

【神を見るとは】

「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。
自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。

【ますます心きよく】

今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/10/20

礼拝メッセージ「あわれみ深い者の主」マタイによる福音書5章7節 大頭眞一牧師 2025/10/12


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第五の祝福、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(7)です。「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけ、親切にすれば、その情けや親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、という意味。もちろん主イエスは、そんな処世訓のようなことを言ったのではありません。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【あわれみ深いとは】

「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。

【あわれみ深くない私たち】

けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。

もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。 もっともあわれみ深いのは主イエス であることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。

そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。

「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。

【幸いな私たち】

私たちは すでに あわれみ深い者とされています。そして さらに あわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。

私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。

けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。

2025/10/11

礼拝メッセージ「義に飢え渇く者の主」マタイによる福音書5章6節 大頭眞一牧師 2025/10/05


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第四の祝福。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6)です。八つの祝福で繰り返して語られているのは、イエスと共にいることの祝福。今日もこの祝福に心を開きます。

【義に飢え渇く者】

私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えやあちこちで起こっている自然災害に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。

【主イエスによって】

けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。

【もはや叫ぶだけでなく】

「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。もうすぐ明野と信愛の召天者記念礼拝、墓前礼拝がもたれます。天授ヶ岡教会はイースターでした。どの教会でも納骨があります。思えば多くの方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。

(CSメッセージ「ベテスダの池」)



2025/09/08

礼拝メッセージ「柔和な者の主」マタイの福音書5章5節 大頭眞一牧師 2025/09/07




マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第三の祝福。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(5)。

【主イエスが幸い】

第一の祝福「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(4)には、共通点がありました。それは、私たちにはとてもさいわいには思えない現実の中に、主イエスがさいわいを造り出してくださる、ということでした。つまり、主イエスご自身が私たちのさいわいなのです。今日もまた主イエスが私たちのさいわいであることを聴き取りたいと思います。

【柔和な人たち】

「柔和」という言葉を聞くと、弱弱しく軟弱なことをイメージするかもしれませんが、それはまちがいです。「柔和」と日本語に訳されている聖書の言葉は「中庸」という意味。怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らない「中庸」という強さを持っているのが柔和なのです。

ところが私たちは、いつも怒りをコントロールすることができるかというと、そうではありません。ときに限度を超えて怒ってしまい、また、ときに怒るべき時でないときに怒ってしまうことがあります。そんなとき、私たちは、自分は柔和でない、だめだ、と落ち込んでしまうことがよくあります。

【自分が正しくても】

今日のマタイ5章5節は、主イエスが詩篇を引用された箇所。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37篇11節)そこに描かれているのは、神の民でありながら、神に従わない者たちによって苦しみを味わわされている人たちのことです。ですから詩篇、そして主イエスは、自分が正しくても、怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らないさいわいを語っているのです。自分が正しくても柔和!これはますます難しいことに思えます。

【柔和な主イエス】

私たちはどうすれば、柔和であることができるでしょうか。反省してもまた怒ってしまう私たち。気をつけようと思っていても、怒るとそれを忘れてしまう私たち。けれども主語は神さま。自分から目を離してイエスを見るのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)とあります。柔和なお方は主イエス。そして主イエスの柔和は十字架にいたるまで変わりませんでした。「『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と。柔和な主が私たちの重荷を下ろしてくださった。いやしてくださっている。十字架まで柔和な主が。

【怒った後で】

しばらく前ですが、私はひさしぶりに怒ってしまいました。限度を超えて。その後、牧師なのにと、とても情けなくなりました。そんなとき「柔和な人たちはさいわい」と今日の箇所を思いました。主イエスは私を責めておられるのだろうか、とふと思ったのです。人はなぜ怒るのか。自分の正しさや思いが受け入れてもらえない、そんなとき私たちは「どうしてわかってくれないんだ」と悲しみ、怒ります。でも私は、主イエスがそんな悲しみもすべてご存じで受け入れてくださっていることを思い出しました。そして怒りの相手もまた主イエスに受け入れられていることも。振り返ってみれば、ずいぶん怒ることが少なくなってきたな、とも思うのです。主イエスによっていやされているのだと感じました。

【地を受けつぐ者】

柔和な人たちのさいわいは「地を受けつぐ」こと。これは大きな土地を相続することではありません。この「地」は世界。世界には多くの破れがあり、怒りが満ちている。けれども、主イエスの胸で癒されつつある私たちは、世界の破れを回復するために働くことができます。たがいに受け入れ合い、いやされることを経験することを通じて。それがほんとうのさいわい。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/24

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2025/08/24



マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。神さまがぎゅつ!

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)