2025/12/25

クリスマス礼拝メッセージ「和解の主」マタイの福音書5章21-26節 大頭眞一牧師 2025/12/21


クリスマスおめでとうございます。およそ二千年前、イエス・キリストがユダヤに誕生しました。それは特別なこと。たいへん特別なことでした。

【観測限界】

昨日は信愛教会での「一年12回で聖書を読む会」。参加されたご近所の方が「観測限界」という言葉を教えてくださいました。これは宇宙を観測できる範囲のこと。460-470億光年とされ、それ以上の遠くは観測できないのだそうです。

イエスは神。神は明らかに私たちの観測限界を超えています。私たちよりもはるかに大きいからです。その大きな神がクリスマスに人となりました。赤ちゃんになって生まれたのです。傷つけようとすれば傷つけることができる、命を奪おうとすればそれもたやすい赤ちゃんとして。

【もうひとつの観測限界】

それには神の願いがありました。それは、私たちのもう一つの観測限界のため。私たちには、人に話すことができない恥や傷、後悔や罪があります。自分が原因のこともあり、他の人が原因のこともありますが、心の暗い部分です。思い出すたびに思わず声が漏れそうになる心のひとすみを抱えています。そんな暗いひとすみは、私たちの生き方を、人間関係を、ゆがめます。その影響は周りの人々にも及びます。人はたがいにそんなゆがみを及ぼし合っている金網のようです。このゆがみは、家族の間にも、学校や会社の人間関係にも、そして国と国の間の関係にも破れをもたらしてしまいます。世界はそんな破れに悲鳴をあげています。これがもうひとつの観測限界。私たちの心の深く暗いひとすみに、なすすべを知らない私たちです。

【クリスマスの良き知らせ】

けれどもここに良き知らせがあります。神は私たちが暗いひとすみにゆがめられ、苦しむことを見ておられることがおできになりませんでした。だから人となって来てくださいました。そして十字架へと続く道を歩んでくださったのでした。私たちの暗いひとすみを引き受けるために。私たちを暗いひとすみから解放するために。神は私たちが胸を張ることができるところではお会いになりません。私たちが自分たちの優秀さを誇り、善行をアピールするときも、神の目は私たちの暗いひとすみに注がれています。そして「あなたのその暗さを、あなたの本当の問題をわたしに見せなさい。ゆだねなさい。わたしがそこをいやし、そこからあなたを解放する」と。

【和解の主】

律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれども今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していません。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。最初のクリスマスに。私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださるために。

ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主です。

「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。ののしらずにはいられない思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。

【復活の主】

私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけず、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。

けれども、私たちには、主イエスのいのちが注がれています。愛するいのちが。神であるイエスが死から復活したことによって。イエスが私たちに注いでいる神の願い、神の心、自分に痛みを与える者との和解を願う心を受け取ってください。私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。観測限界を超えた大きな愛によって。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/12/18

礼拝メッセージ「律法を成就する主」マタイの福音書5章17-20節 大頭眞一牧師 2025/12/14

いよいよ来週はクリスマス。今日も光である主のみことばを、マタイ5章から7章の山上の説教から、続いて聴きます。

【一つでも破り?】

先週は、「あなたがたは世の光です。」という主イエスの宣言を聴きました。足りない私たちだけれども、すでに世の光とされていて、ますます主イエスが輝きを増してくださる、というのですから、ほんとうに躍り上がりたいような喜びです。

そんな私たちですが、今日の箇所を読んでがっかりする人がいないか、少し心配です。ここには「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(19a)とか「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)といった、とてつもなく高い基準が要求されているように見えるからです。

【律法学者たちの義】

けれども、もちろん、主イエスは私たちを追い詰めるお方ではありません。律法学者やパリサイ人の義とありますが、彼らは主イエスからしばしば誤りを指摘されていたことを忘れてはなりません。

いつも申し上げることですが、「まず出エジプト、そしてシナイ山」。つまり、神さまは律法を守ったからイスラエルを救ったのではありません。なにもわからない、おそらくはエジプトで偶像礼拝にどっぷり浸かっていたイスラエル。神さまは、ただあわれに思って彼らを救い出されました。それが出エジプト。その後で、彼らをシナイ山に導き、神と共に歩く歩き方を教えました。それが律法です。それは神さまが、アブラハムとその子孫を通して、世界のすべての人びとを祝福するため。世界の破れを回復するパートナーとして、イスラエルを育てるためでした。

けれども、バビロン捕囚とそれに続く諸外国の支配の中で、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教指導者たちは、律法を誤解するようになってしまいました。彼らは、律法を破れば、神さまの怒りをかう。すると他国の圧政という罰が続く、と考えたのです。麦畑事件というのがあります。安息日に空腹だったイエスの弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもみながら食べました。するとパリサイ人たちが「麦をもむのは脱穀という労働だから、安息日には禁じられている」と咎めたのです。イエスは「人の子は安息日の主です。」(ルカ6:5)と言います。世界の回復のために、イエスと働く弟子たちは、まさに律法の真髄を行っているのです。それを咎めるのは、神さまの心がまったく分からなくなってしまっているから。律法学者やパリサイ人たちには、神がどれほど世界の破れを痛み、その回復を願っておられるかがわかりません。神さまを規則からのほんの少しの逸脱もゆるさない、厳格なだけのお方だと思っていたのです。そして実際の律法よりも、さらに厳格な安全柵をめぐらすようにして、その中に自分たちを閉じ込めたのです。

【主イエスのまされる義】

けれども主イエスは私たちの心を、神さまを愛することに解き放ち、まわりの人びとを愛することに解き放ちます。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)は、決してさらに厳格な安全柵を意味するのではありません。イエス・キリストの義のことです。主イエスは、私たちの救い主。私はときおり、「イエスは私たちの過去・現在・未来の救い主」と申し上げることがあります。人となり、十字架に架けられ、復活した神である主イエスの義は、恐れに支配されて神の怒りを免れようとする律法学者の義にはるかにまさっています。主イエスは私たちに新しいいのちを注ぎ、あふれ出すまで愛を注いでくださるからです。

ある方が、「あるメッセージで、『傷つけられても、傷つけた側の心の破れを繕う私たち』と語られているのを聞きました。でも私にはそんな大きな心がないです」と思いを打ち明けてくださいました。それは私も同じです。けれども、それでも、主イエスのまされる義は私たちに与えられています。受けた傷が深いときには、相手の破れを繕うどころか、相手の顔を見るのもいやなものです。けれども、そのことを悲しみ、それでも相手の破れを繕うことができたらよいのに、と願うあなたは確かに、律法学者やパリサイ人の義にまされる義に生きています。世の光なのです。主イエスは、そんな私たちをなおなお癒してくださいます。今、この礼拝の中で、また私たちの生涯を通して。私たちの小さな光を喜び、たいせつに時間をかけて、じっくりと育ててくださいます。

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2025/12/10

礼拝メッセージ「光とする主」マタイの福音書5章13-16節 大頭眞一牧師 2025/12/07


ろうそくが2本灯りました。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福に続く箇所から、今日も主イエスの恵みを聴き取ります。

【うなだれる私たち】

「地の塩」「世の光」と呼ばれている私たち。「塩」がなければ生きることができません。また塩は食べ物が腐るのを防ぎます。だから「地の塩」とは、この世に必要不可欠で社会を腐敗や堕落から守る存在。「世の光」はこの世を明るくする存在。私たちは自分がそうだとは言えないで尻込みしてしまいます。
そこには私たちの誤った思い込みがあります。自分がこの世の腐敗を防いだり、明るくしたり出来ているだろうか。それが出来ていれば、胸を張って私は「地の塩」「世の光」だと言えるのだが、と。例えば、私たちの伝道が実を結んで多くの人びとが礼拝に集ってくるとか、あるいは、私たちによって社会の不正が目に見えて取り除かれていく、そういったことが出来れば、とあこがれ、そうでない自分を見てうつむくのです。

【イエスの宣言】

けれども、イエスの「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」は、明らかに宣言です。「あなたがたは、すでに、今、地の塩であり、世の光なのだ」と断言しています。だから私たちはすでに塩っ気や光を与えられています、主イエスはその塩っ気をなくさないように「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と教え、その光を遮られることがないように「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」(15a)と語るのです。すでに主イエスによって塩とされ、光とされている私たちがそのいのちを曇らされることがないようにと励ましておられるのです。

【八つの祝福ふたたび】

今日の塩と光の箇所は、先週までの八つの祝福に続く箇所。ですから「地の塩」「世の光」の生き方は八つの祝福の生き方です。総集編として振り返れば、

  1. 「心の貧しい者は幸い」は、自分の心の中には、より頼むべき豊かさが全くない者が、主イエスに抱きしめられている幸い。その幸いは周囲に及んでいきます。
  2. 「悲しむ者は幸い」は、悲しむ私たちのそばに主イエスがいてくださる幸い。そして、その幸いを伝える幸い。
  3. 「柔和な者は幸い」は、苦しみの中にある者が、いらだたず神に望みを置き、イエスと共に世界の破れを繕う幸い。
  4. 「義に飢え渇く者は幸い」は、不正に苦しむ者たちが、イエスの十字架と復活によって実現した悪の力の滅びという義を受けて、神の正義の実現のために生きる幸い。
  5. 「あわれみ深い者は幸い」は、十字架に現れた神の大きなあわれみを受け、注ぎだす幸い。
  6. 「心のきよい者は幸い」は、自分ではなく主イエスの十字架を見る者の幸い、今、可能な限りの愛で神と人を愛する幸い。
  7. 「平和をつくる者は幸い」は、主イエスが十字架で敵意を滅ぼされたゆえに、自分に敵対する人びとの敵意をも癒す生き方の幸い。
  8. 「義のために迫害されている者は幸い」は、自分を迫害する人びとの破れに主イエスと共に愛を注ぎ、回復をもたらす幸い。

ですから八つの祝福はいずれも、私たちがすでに手にしている幸い。その出どころは主イエスであり、その幸いにあずかる者たちを世界の破れの回復のために送り出します。そんな生き方が「地の塩」「世の光」の生き方です。

【あなたがたの父をあがめるようになるため】

八つの幸いは、私たちの不足に注がれる祝福ですから、私たちの栄光や誉れではありません。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(16)とあります。人びとは、私たちを祝福する神さまをあがめるようになるのです。主イエスと主イエスをお遣わしになった父を喜び、ほめたたえるようになるのです。
そのために「また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」(15)と主イエスは命じます。私たちが「どうか私たちを輝く光、塩っ気のある塩としてくださった主イエスを仰いでください。このお方こそまことの光です。」とすべての人に主イエスを指し示すように、と。


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2025/11/30

礼拝メッセージ「御国を与える主」マタイの福音書5章10-12節 大頭眞一牧師 2025/11/23


来週は待降節。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いていますが、今日は最後の第八の祝福、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(10)です。主イエスの復活そしてペンテコステの聖霊により誕生したキリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされることになりました。初期の教会の指導者のひとりテルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子」と記しています。迫害されてもキリスト教がなくなることはありませんでした。それどころか、ますます教会に連なる人びとが増し加えられていったのです。そしてついに紀元313年、ローマ帝国でキリスト教は公認されました。けれども日本のような非キリスト教国では長く迫害が続き、今もその影響には根深いものがあります。ですから私たちは「迫害」と聞くと反射的に「殉教」を思い、自分にはとても無理だ、とうなだれることがしばしばです。ところがそもそも教会は殉教を奨励していたわけではないようなのです。2世紀の殉教者ポリュカルポスによれば、殉教は自ら願ってするものではなく、なるべく避けるべきものだとされています。ですから殉教の焦点は死ぬことではなく、イエスと共に歩くことにあります。その中でさまざまな不利益をこうむることを避けないことがイエスの願い。その結果、時として殉教にいたることがあったとしても、殉教そのものが目的ではないのです。

【わたしのために】

この箇所が殉教の奨励ではない、とするなら主イエスのおこころはなんでしょうか。この八福にはこれまでの七つとはちがうところがあります。それは11節と12節が続いていることです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(11-12)。「わたしのために」とあります。つまり主イエスのおこころは、私たちが主イエスを愛し、主イエスとともに歩くことを励ますことです。殉教したかどうかで私たちをふるいにかけることではありません。それならば!と私たちは言うことができます。「イエスさま、私たちはあなたを愛してあなたと共に歩んでいます。足りないこともしばしばですが、私たちは自分の心をあなたのおこころに重ねています。あなたのために不利益をこうむることがあっても、それでもあなたのために生きたいのです」と。

【喜べ!】

そんな毎日に「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」ことが起こります。「クリスチャンのくせに」と周囲の人から言われることもよくあることです。それでも私たちは、ののしられてもののしり返さず、悪口に悪口をもってすることなく、愛を注ぎます。私たちを迫害する人びとのうちにある破れの回復のために。ののしられるときに、喜べ!このイエスの言葉は不思議です。けれども理由があります。イエスは迫害されること自体を喜べと言っているのではありません。「天の御国はその人たち(迫害されている者)のものだから」(10b)、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(12c)が理由。どちらも「もうすでに始まっている神の国(神の支配)、イエスが来られたことによって始まっている神の国。あなたがたはそこに入れられている。もう神と共に、イエスと共に、世界の回復のために働いている。その働きを通して世界は回復されている。だから喜べ!」と語るのです。思えば第一の祝福も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)でした。第一の祝福から第八の祝福までを貫いているのは「神の国(神の支配)がすでに始まっており、私たちがそこで働いていることの幸い」なのです。

【預言者たち】

「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(12d)とあります。私たちは預言者たちも迫害されたのだから、みんながんばれ、と命じられているように感じるかもしれません。けれども、私たちが見つめるべきは預言者の中の預言者として来られたイエスです。イエスはその迫害の中で、十字架に架けられて罪と死の力を滅ぼし、復活によって私たちに新しいいのち、愛のいのちを注いでくださいました。だから、私たちは迫害の中で愛することができます。主イエスから愛の注ぎを受けて。そのすべては世界で最初にクリスマスに始まりました。神が人となられたその驚きのクリスマスに。


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2025/11/22

礼拝メッセージ「平和をつくる者の主」マタイの福音書5章9節 大頭眞一牧師 2025/11/16


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第七の祝福、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(9)です。ここまで読んで来て、これらの祝福には一つのパターンがあることに気がつきます。①イエスが○○な者は幸いだと祝福する→②私たちにはそうは思えない→③けれどももっとも○○なのはイエスだと気づかされる→④イエスによって私たちのうちにも○○が始まっていることに目が開かれる、そんなパターンです。

今日の箇所もそうです。私たちは平和を願っています。争いがないことを願っているのですが、しばしば自分の正しさを主張して、あるいは相手を恐れ自分を守ろうとして、争ってしまうのです。

【平和をつくるイエス】

やがて待降節が始まります。ルカは、御使いと天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と賛美したことを記します。イエスは神。神がこの世界に平和をつくるために来てくださった、それがクリスマスです。さらにエペソ書はこう記します。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)と。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人。彼らの間は敵意によって隔てられていて、とても平和など望めませんでした。けれども神であるイエスが、その敵意を滅ぼし、打ち壊しました。十字架によって。神が十字架に架けられることによって。イエスはすべての敵意をご自分に引き受けてくださり、終わりにしました。そして平和をつくってくださったのでした。

【平和をつくる私たち】

すべての敵意と申し上げました。かつて私たちは神を主と、王としませんでした。かえって神を自分の願いを聞くべきしもべとみなし、聞かれなければ、敵意を抱きました。私たちが王であるかのようにふるまったのです。私たちはまた周囲の人にも王のようにふるまってきました。二人の王は並び立つことができません。ですから互いの間に、しばしば敵意が生まれ、平和が破れたのでした。けれども、イエスによって私たちに新しいいのちが始まりました。新しいいのちは新しい生き方を生み出しました。それは主イエスの生き方。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す生き方です。

マーティン・ルーサー・キング牧師は語っています。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう…しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」と。

「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というのです。ここにイエスが始めた新しい生き方があります。

けれども、と私たちは立ちどまってしまいます。それはキング牧師のような偉人には可能でも、自分には無理だ、と。しかし、本当でしょうか?あなたのうちにはいのちが始まっていないのでしょうか?主の祈りで「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈る私たちには、確かにイエスの生き方が始まっています。だからその生き方を、ますます生きるのです。自分のうちにあるいのちを信頼してさらに大胆に。

【国と国の間にも】

イエスが平和をつくるのは、神と人、人と人との間ばかりではありません。国と国の間にも戦争をとどめ、平和をつくります。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す私たちを通して。苦しむ能力、苦しみに耐える能力によって。長い時間をかけても。



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2025/11/16

礼拝メッセージ「心のきよい者の主」マタイの福音書5章8節 大頭眞一牧師 2025/11/09


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【心のきよいとは】

聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。
ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちの心が、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。
ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。
先週は11月3日には神戸リバイバル聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、参加された方がたが感想を語ってくださいました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。

【神を見るとは】

「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。
自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。

【ますます心きよく】

今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。



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2025/10/20

礼拝メッセージ「あわれみ深い者の主」マタイによる福音書5章7節 大頭眞一牧師 2025/10/12


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第五の祝福、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(7)です。「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけ、親切にすれば、その情けや親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、という意味。もちろん主イエスは、そんな処世訓のようなことを言ったのではありません。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【あわれみ深いとは】

「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。

【あわれみ深くない私たち】

けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。

もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。 もっともあわれみ深いのは主イエス であることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。

そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。

「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。

【幸いな私たち】

私たちは すでに あわれみ深い者とされています。そして さらに あわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。

私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。

けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。