2022/09/09

主日礼拝 2022/09/11 「起き上がらせる神」

  礼拝メッセージ「起き上がらせる神」

  • 聖書: ヨハネの福音書5章1-9a節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



主イエスは再びエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りとあります。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」のどれかであったでしょう。神殿は多くの人びとでごったがえしていました。けれども神殿の北側の裏には重苦しい静けさが支配している場所がありました。裏面のエルサレムの地図を見てください。ベデスダの池がその場所です。「エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。」(2)とあります。五つの回廊を復元したのがこの絵です。長いほうの辺は二つに分かれているように見えますが、これを一つと数えると、全部で五つになるわけです。

【悲しみの池】


この池は二重の意味で悲しみの池でした。第一に「その中(五つの回廊の中)には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」(3)です。病人や障害のある人びとがそこに大勢いました。中には三十八年も病気にかかっている人もいました。かれらのため息がこもったような場所だったのです。

しかしこの池はもう一つの意味でも悲しみの池でした。池の水が動いたかのように見えると、いきなり争いが起こります。人びとは、他の人を押しのけたり、ひっぱったりして、われ先にと池に殺到するのです。新改訳聖書2017では4節が欠けていますが、これは印刷ミスではありません。欄外脚注にこうあります。「異本に3節後半、4節として次の一部または全部を加えるものもある。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのだが、水が動かされてから、最初に水に入った者が、どのような病気にかかっているものでも、癒されたからである。』」。つまり、人びとは先を争って最初に池に入ろうとしたのです。自分が癒されるために他の人びとを押しのける。そのたびにたがいの関係が傷ついていく、そういうもう一つの悲しみがこの池に凝っていたのでした。もちろんこれは迷信です。このように病や生涯、そして迷信による争いという二重の悲しみの池に主イエスが来てくださいました。

【主イエスのまなざし】


「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』」(5-6)の「見て」は「じっと見つめて、相手の状態をしっかり理解した」という意味。主イエスはこの人の三十八年間の病とそれにともなう苦しみを理解しました。「良くなりたいか。」もありきたりの質問ではありません。この人のこころを知った主イエスが、この人の本当の願い、本当のあこがれを引き出そうとしたのでした。そんな主イエスの愛のまなざしの中でこの人のこころは開かれていきます。そして「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7)と答えるのです。この人の悲しみは病もさることながら、助け手がいないことにありました。それはそうでしょう。家族や友人にしても働いて生活していかなければなりません。いつ動くかわからない水をずっと眺めているわけにはいかないのです。そんなことはわかっているのですが、それでも、押し合いながら水に入っていく人びとを見るとき、世界の破れを感じるのです。こうではない生き方、こうではない世界があるはずだというあこがれを抱くのです。

私たちも世界の破れの中に生きています。コロナや自然災害、経済的な問題など。けれども何よりも私たちを最も苦しめているのは人間関係でしょう。助け合うことができないばかりか、押しのけ合い、傷つけ合ってしまう。そこには私たちの心がけが悪いといったことをはるかに超えた、世界の破れ、社会の破れ、人間関係の破れがあります。「だれも助けてくれない。だれもほんとうにはわかってくれない」というこの病人の叫びは私たちの叫びでもあります。

【起きて歩け】


そこへ主イエスの声が響きます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8)、と。そのときこの人は立ち上がりました。主イエスはこの人に「ペテスダの池に入れてあげよう」とはおっしゃいませんでした。破れた世界のシステムのなかで、そのシステムに従って生きることを助けてあげようと言ったのではないのです。そうではなくて、「あなたはわたしのシステム、わたしのルールで歩きなさい」と言いました。「押しのけ合い、傷つけ合う生き方から、立ち上がれ。床とともにあなたの今までの生き方をたたんで、新しいいのちへと歩み出せ。」と言ったのです。

主イエスはそのために来られました。今も私たちに、この礼拝のなかで「立ち上がれ、愛の破れをつくろう者として歩き出せ」と招いてくださっています。そうさせてくださるのは、主イエスの愛とその復活のいのちです。それらはもうすでに私たちに与えられています。

2022/09/03

主日礼拝 2022/09/04 「活かす神」

 礼拝メッセージ「活かす神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章43-54節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの町の人びとと二日間を過ごし、彼らに命の水を飲ませた主イエスは、ガリラヤへと向かわれました。

【人びとの歓迎】


主イエスが故郷のカナに着かれました「それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」(44)とあります。人びとは主イエスを歓迎したのですが、その理由は彼らがエルサレムでのできごとを見ていたからでした。そのできごととは2章の「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(2:23)のことです。神殿の宮清めの後、主イエスはいくつかのしるし、つまり奇蹟をなさいました。おそらくは病気の人びとをいやされたのでしょう。

エルサレムでそんな奇蹟を見た人たちが、主イエスがスカルに滞在している間に、先にガリラヤに帰っていました。そして主イエスの癒しの奇蹟を期待して待っていたのです。「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。」(46)ともあります。ぶどう酒の奇蹟の記憶は、人びとの期待をさらに高めました。そして「さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。」(46-47)と続くのです。

【尊ばれない預言者】


ところが主イエスはこの父親に不思議なことを言います。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(48)。なんだか冷たい、突き放したようにも聞こえます。44節にも「イエスご自身、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言なさっていた。」とあります。

主イエスは人びとの心をごぞんじでした。みな、しるしや不思議なわざを期待して主イエスのところへやってきます。それを見たら信じるし、それがなされないなら主イエスに失望して去って行くのです。

【いのちを与える主イエス】


けれども、主イエスがこの世に来られたのは、私たちにいのちを与えるためです。神との愛の交わりのうちに生きるいのち、死の向こう側にまで続く永遠の愛の交わりに生きるいのちです。主イエスは、どうしてもこのいのちを与えたいのです。ですから、この父親に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と厳しく思える言葉を発せられたのでした。

しかし、この父親は、息子の癒しのことで頭がいっぱいです。永遠のいのちのことなど考えられません。いかに主イエスといえども、そんな状態の父親に永遠のいのちを与えることなど、できそうにありません。ところが、主イエスにはできました。なしとげられたのです。「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(50)。このとき、父親は「どうしてもカペナウムに来て、息子を癒やしてください」と言い張り続けることはしませんでした。そうではなくてイエスが語ったことばを信じました。しるしと不思議を見ないで、信じたのです。信じることができたのは、主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださったから。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」という主イエスの声を聞いたとき、この父親の心に、主イエスの愛が響きました。「わたしはあなたを愛する。あなたの息子も愛する。だから今、わたしの愛を受け入れなさい。わたしに愛のうちに行きなさい。そうしたら、わたしの愛を見るだろう。そして、ずっとわたしの愛のうちに生き続けなさい」と。こうして主イエスがこの父親のこころに信仰を造り出してくださいました。

私たちもしばしば主イエスとの愛の交わりを見失います。けれども心配はいりません。私たちの心を知る主イエスが、私たちのうちに信仰を造り出さしてくださいます。何度でも何度でも何度でも。

2022/08/27

主日礼拝 2022/08/28 「救い主である神」

礼拝メッセージ「救い主である神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章39-42節(新約P.184)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの四回目、今日が締めくくりになります。このようにていねいに読んできましたのも、このサマリアの女性には主イエスの驚くべき恵みが現れているからです。その恵みはまさに今、私たちのうちに現れているものと同じです。今日はこのできごと全体の恵みを振りかえることにしましょう。湖西教会の方がたもご安心ください。

【証言する教会】


ヨハネの福音書が書かれた目的は、この福音書の最後のところに記されています。「これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:24-25)がそれです。つまり、ヨハネの福音書はイエスが行われたあがないのわざを証しする(証言する)ために書かれたのです。その証言によって世界が救われるために。この証しと同じ言葉が、サマリアの女にも使われています。「さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」(39)主イエスは、ご自分からこの女性に語りかけられました。真実に愛し合う関係をだれとも作り出すことができず、もはや自分にも他人にも絶望していたこの女性に。ところが主イエスが語りかけることによって、女はいのちの水を飲みました。主イエスを飲んだのです。そして変えられました。それまでは人目を避けて真昼に水を汲みに来ていたのに、自分から町へ行って、主イエスを証言したのです。まさにヨハネの福音書の目的はこの女性のうちに実現しました。この女性は主イエスを証言する私たち、教会の姿の先取りと見ることができるのです。人々から見下されていたこの人が、証言することばによって多くの人びとが信じたことは、大きな希望です。神さまは私たちを用いることができます。私たちがどんなに小さな、不完全な者であっても、神さまがそうなさるのです。

【いのちの喜びによって】


けれども不思議なことがあります。それはこの女が「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」(39)と言っただけで、人びとがイエスを信じたことです。私たちの経験からはあまりありそうにないことです。しかし、人びとはただことばによってのみ動かされたのではありません。彼女のことばはただ情報を伝えたのではありませんでした。そのことばにはいのちの喜びが宿っていました。彼女の様子や表情もまた主イエスが与えたいのちの喜びに満ちていたことでしょう。女の負ってきた罪と痛み、後悔と自暴自棄、それらすべてを主イエスが負ってくださいました。だから女は解放されました。その軽やかな喜びが人びとを動かしたのでした。喜びを意識して作り出すことはできません。その人の内から湧き出るものです。私たちも証しをしなければならないから、証しをするのではありません。主イエスがていねいに、忍耐強く私たちに語りかけ、私たちを解き放つとき、喜びがあふれるのです。ありのままの自分を主イエスに差し出すこと、主イエスが見てくださっているように自分を見ること、主イエスはじっくりとそんな私たちにしてくださいます。すると、証しがあふれます。

【滞在してほしいと】


女の証言によって「信じた」(39)人びとでしたが、その信仰は最初はまだ芽のようなものでした。「それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。」(40)とあります。この二日間、主イエスは彼らの信仰の芽をたいせつに育ててくださいました。いのちの水を飲んだ女を見て、主イエスのところにやってきた人びとですが、彼らに主イエスがいのちの水、ご自分を飲ませてくださったのです。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(42)は、女を軽んじている言葉ではありません。「あなたが主イエスから飲んだように、私たちも主イエスからいのちの水を飲みました。主イエスを飲みました。この方は私たちも、罪と痛み、後悔や恐れから解き放ってくださいました。このお方を共に喜ぼうではありませんか」、そう言ったのでした。主イエスに滞在して欲しい、と願うことは、主イエスとの愛の交わりに身を置くことです。その愛の交わりが彼らの信仰の芽を成長させたのでした。

【礼拝の中で】


イエスのもとに来たスカルの町の人びとは二日間主イエスとの愛の交わりに身を置きました。主イエスと語り合い、食事を共にしたのです。そうするうちに彼らは主イエスからいのちの水を飲みました。いのちの水である主イエスが、彼らのうちにいのちを作り出してくださったのです。私たちも、今、礼拝の中で、主イエスとの愛の交わりに身を置いています。こうしているうちにも信仰といのちを育てていただいているのです。主イエスはこの礼拝の中で、ご自分を差し出し、私たちにいのちを作り出してくださいます。そして愛を生き、神と共に世界の回復のために働くものとして遣わしてくださるのです。主イエスを証言させてくださるのです。


2022/08/19

主日礼拝 2022/08/21 「宣教の幻」

 (礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



(本日は都合により説教要旨はありません)


2022/08/16

聖書研究祈祷会 休会のお知らせ (2022/08/17, 09/07, 10/19)

毎週水曜日19:30-21:00 に行われている 聖書研究祈祷会 ですが、以下の日程で休会を予定していますので、お知らせします。


  • 2022/08/17(水)
  • 2022/09/07(水)
  • 2022/10/19(水)


上記に関わらず、初めて聖書研究祈祷会に参加される方は、あらかじめ教会に電話 (075-461-1938) いただくのが確実です。

2022/08/13

主日礼拝 2022/08/14 「収穫の神」

  礼拝メッセージ「収穫の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章31~38節(新約P.183)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)



スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの三回目。主イエスが語りかけた女性は、真実に愛し合う関係に絶望していました。けれども主イエスは彼女に寄り添い、その心を包んで「その水を私に下さい」(15)というほどに回復を与えてくださいました。同時に彼女に、神を礼拝し、神と交わりたいという願いが起こしてくださいました。彼女はイエスという渇くことのない水を飲んだのでした。

【あなたがたが知らない食べ物】


ヨハネの福音書の2階建てについては何度かお話ししてきました。ここでも弟子たちは「先生、食事をしてください」(31)とか「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」(33)とか、目に見える食物のことを話しています。けれども主イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」(32)と、たましいに関わる言葉を語るのです。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(34)が、それです。父のみこころとわざは、すでに3章で示されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17)。世界を救うため、私たちが永遠のいのちに生き、そのいのちへと回復されていくことです。そのために神であるイエスは人となり、人として生き、十字架に架けられました。主イエスはこの父のみこころとわざによって神の子、救い主として生きました。父のみこころとわざを食物として生きたのです。

【いのちの水といのちの食べ物】


父のみこころを行い、そのわざを成し遂げることが主イエスの生きるためのいのちの食べ物でした。言い換えれば、主イエスは父との愛の絆のなかで、私たちのためにご自分を注ぎだして生きたのでした。主イエスにあって、行いと愛はひとつです。父との愛の交わりから力を得て贖いを成し遂げ、贖いを成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

主イエスは弟子たちを、そして私たちを、招きます。「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。」(38)とあります。父が御子イエスを遣わされたように、主イエスも私たちを遣わされます。私たちも、父との愛の交わりから力を得て使命を成し遂げ、使命を成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

そんな生き方を始めてくださるのは主イエスです。サマリアの女に差し出されたいのちの水、すなわちイエスご自身が、私たちに父との交わりを与え、使命を成し遂げさせるのです。「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。」(37)はたいせつです。種を蒔く人は主イエス。すでに主イエスの十字架によってすべての贖いは成し遂げられています。私たちはその収獲を刈り入れます。私たちは、主イエスの流された血、そうして注がれたあわれみの実を刈り入れるだけなのです。その刈り入れとは、私たちが今、身を置いている父との愛の交わりに人びとを招くことです。これはなにも、ちらしを配ることだけではありません。何よりも私たちが父との愛の交わりを喜んでいること。父の愛の中で、たがいの愛の交わりに癒されていることが、人びとへの招きなのです。

サマリアの女は主イエスに出会い、主イエスを受け入れました。主イエスといういのちの水を飲んだのです。そして自分の水がめを置いたまま町へ行き、人びとに主イエスを伝えました。その表情や言葉は喜びにはずんでいたことでしょう。人びともこの女性の変化を見たことでしょう。主イエスとの愛の交わりが、女性を満たしました。いのちの水が潤したのです。渇きをいやされて、女性は使命のために生き始めました。主イエスを喜ぶ愛を生き、見せ、そこへと招いたのです。使命を果たさなければならないと、自分に強いたのではありません。そうではなくて、主イエスとの愛の交わりに入れられた女性の最も自然な生き方は、主イエスの愛を喜び、見せ、招くことだったのです。

私たちも同じいのちの水を飲んでいます。これまでも飲んできましたし、今この礼拝でも飲んでいますし、これからも飲み続けます。そして父と子の愛に満たされ、喜び、見せ、招くのです。


2022/08/07

主日礼拝 2022/08/07 「まことの礼拝の神」

 礼拝メッセージ「まことの礼拝の神」

  • 聖書: ヨハネの福音書4章16~30節(新約P.182)
  • メッセンジャー: 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今週も引き続きスカルの井戸に現れた主イエスの恵みを聴きます。主イエスは、サマリアの女にご自分から近づき、女はだんだん目が開かれて「その水を私に下さい。」というまでになりました。

【心を知る神】


けれども主イエスは「さあ、飲むがよい」ではなく、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と意外なことを訊かれました。もちろん女の答を知っておられて、のことです。女には「夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」(18)のです。これが真昼に女が、人目を避けて水を汲みに来ていた理由でした。この時代のことです。女はふしだらな人として軽蔑され、人から口もきいてもらえなかったのでしょう。

しかし主イエスはそんな女の人生のみならず、心をご存じでした。ある牧師がこの女の心をこう推測しています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」と。なかなか厳しいです。けれども、この女がボロボロになってしまったのにも原因があったはずです。その結果、いろいろな男と結婚してみるのですが「これはちがう」「これも私の求めるものではない」「この生活ではない」と、のたうちまわるようにして生きてきたのでした。愛を求めながら、愛の関係をつくりあげることができなかったのです。日常のいろいろな局面で愛を貫くことができない私たちもまた感じるところがあるのではないでしょうか。

ところが主イエスはこの女の心をご存じでした。その渇きを、傷を、痛みを、闇をご存じでした。主イエスが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、女を責めるためではありません。彼女の闇を明るみに出すことによって、渇きを、傷を、痛みをいやすためでした。彼女重荷から解放し、新しいのちを注いで、愛に生きる人にするためでした。主イエスは、そのために人となり、十字架に架けられた神だからです。主イエスは私たちもいやしてくださるのです。

【御霊と真理による礼拝】


このときの女の反応はとうとつです。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」(19)。続く「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)は、さらにとうとつに思えます。

「この山」とはゲリジム山。スカルの町はその近くにありました。二王国分裂時代、南王国ユダは、エルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人びとは、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のイスラエルの人びとが混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らは、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

女は、自分の痛みを言い当てたお方を、神からの預言者だと感じました。このとき、長い間忘れていた、心の叫びが沸き上がってきたのでしょう。「神よ、私を救ってください。私を満たし、私にほんとうの愛の関係をつくりあげてください。」不思議なことに神にはできる、と女は感じました。そして「今、神を礼拝したい。神との交わりを、今、回復したい。どのように礼拝したらいいでしょうか。」と問うたのでした。

幸いなことに、主イエスは単なる預言者ではありませんでした。神です。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(23)とあります。主イエスは「もはやユダヤ人もサマリア人も問題ではない。エルサレムもゲリジム山も。すべての人が、御子であるわたし、主イエスを通して礼拝をささげることができる、その時が来た。今、ここで神を礼拝せよ」と宣言されたのでした。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)は。私たちに新しい重荷を負わせるものではありません。まことの礼拝を成り立たせるためには、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めなければならない、ということではないのです。すでに神が御霊を送ってくださっています。真理とは主イエスです。御霊によって、主イエスとその父なる神を礼拝している私たちは、今、ここで御霊と真理による礼拝を献げているのです。この礼拝は、御霊と真理による礼拝なのです

【サマリアの女、その後】


女は水がめを放り出して町へ行きました。そして「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(29)と語りました。「私のかかえている罪の闇を、愛への渇きを、全てお見通しの方が、私に出会ってくださり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さいました。イエスがその生きた水です。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」と。

女のその後については、想像するしかありません。けれども私たちおたがいを見れば見当がつきます。女は主イエスという生ける水、いのちの水を飲み続けたことでしょう。主イエスとの交わりによって、満たされ、いやされ続けるほどに、ほかの人との愛の関係をつくり上げていったことでしょう。自分が神に愛され、赦されたゆえに、他の人びとに心を開くことで。自分が神に愛され、赦されたように、他の人を愛し、赦すことで。