2013/06/16

父の日礼拝「父なる神の愛」

礼拝メッセージ 「父なる神の愛」 ルカによる福音書15章11~32節

長谷川和雄師



愛は、知識として学んでも悟ることはできません。愛し、愛されて初めて分かります。今日の譬えには、愛を体験的に知った弟と、父の愛の中に生活しながら、愛を体験的に知ろうとしない兄がでてきます。
Ⅰ.放蕩の弟息子・・・1)権利の主張。弟には人生の目的が分かりませんでした。独立し、広く人生経験をするために自由に生きたいと考えましたが、先立つお金がありませんでした。そこで、財産分与を願い出ました。父が生きていたので、弟には三分の一を換金して与えられたと考えられます。2)放蕩の生活。弟は遠い国にたどり着き、人目が気にならないことをよいことに、一度に入った大金を使い果たし、食べるにも困り果ててしまいました。金や地位が無くなると人は近寄らなくなりました。3)本心に立ちかえった。今までは正気の沙汰でなかったと気付いたのです。正気でない生活とはどんなことでしょうか。親のもとを離れ、干渉を避けること。放蕩(酒の暴飲、異性遊び、金の浪費)。与えられた富は神からの預かりものです。富には責任が伴い(ルカ12:13-21)、会計報告が必要です(同16:2)異国での生活。そこには人の繋がりがなく、孤独であり、親しい友はいても、まことの友はいません。その結果、人間関係に破綻し、人生の敗北者と見え、人から嫌われる取税人や罪人のようです。汚れた動物の世話をする奴隷と同じ生活。人間は、心の汚れを隠す罪の奴隷となっています。これは、罪人の姿であり、真の神のもとを離れた結果です。本心に立ちかえるとは、罪を犯している生活に気付くことです。
Ⅱ、父のもとに帰った弟・・・1)回顧と現状分析。父のもとでの生活を振り返り、悔い改めました。そして、今の生活がどうであるか冷静に分析しました(17)2)罪の告白。弟は、罪の告白をすることを決意し、行動に移しました(18)3)父の愛を体験する弟(20)。「まだ遠く離れていたのに父は彼をみとめ」。父は、弟息子のことを、どんなに心配していたことでしょう息子が罪の告白を全てする前でしたが、みすぼらしい弟息子の姿を見て「哀れに思って」、同情し、思いやり、憐れみ、「走り寄り、その首をだいて接吻しました。息子を赦し、受け入れ、良い着物を着せて親子関係を回復し、指輪をはめて子としての権威を回復し、靴を履かせて自由の身を回復させました。そして、肥えた子牛で祝宴を開催しました。それは、いなくなり、なくなったものが見つかった喜びのゆえです。パリサイ人と律法学者は、そんなに心の広い人はいないと考えたでしょう。 
.兄の不満・・・1)兄息子の怒り。兄は父親に奴隷のようになって仕えてきたことを主張し、自分を正当化し、独善的で、他人を見下げていました(29-30)。それは、会衆の中のパリサイ人と律法学者と同じでした。彼らは、不平、不満、偽善、嫉妬心で満ち、汚れた生活への憧れを持っており、喜ぶ者と共に喜べず、弟を良く思えませんでした。2)兄への父の愛。弟の時と同じく父の方から兄に近付き、強引に家の中に引きずり込まずに、優しくなだめました。兄に対し、いつも父が共にいること、父のものはみな兄のものであり、自分でしたいようにできる、と話しました。パリサイ人と律法学者は、罪人や収税人と比べて自分の正しさに立ち、罪を罪と思わず、神の愛の中にいることが分かりませんでした。神は私たちを探しておられます(創世記3:9)。主の手に委ねて歩めることは幸いです。自分の罪、弱さ、足らなさを認め、十字架を仰ぎ、今、私たちは神の愛の中に戻りましょう。



教会の各活動


礼拝の中で、教会学校による父の日の「感謝の時」が持たれ、God Bless Youの賛美やスキットなどが披露されました。

午後からは壮年・婦人・青年合同の会堂大掃除が行われました。

今回はおもに、倉庫整理、窓・スリッパ拭き、トイレ掃除を行いました。

多くの方と共に主の宮を調えることが出来、感謝でした。


今週~来週の予定


■婦人祈祷会 火曜日(12日)10:30~


※教区牧師夫人修養会のため、休会します

■聖書研究祈祷会 水曜日(19日)19:30~


聖書:詩篇9篇
題:国々をさばかれる主 説教者:長谷川和雄師
新聖歌:21、247、282

■主日礼拝 来週日曜日(23日)10:30~


招詞:申命記6章4~5節
交読文:4 詩篇18篇
聖書:創世記18章1~15節
題:主をもてなすアブラハム
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:21,276,385

2013/06/09

会衆賛美「神の国と神の義」「主はまことのぶどうの木です」

京都信愛教会の賛美デュオ Blessの二人による会衆賛美リード。

  •  「神の国と神の義」作詞・作曲:Karen Lafferty (新聖歌291番)
  •  「主はまことのぶどうの木です」作詞:Danny Daniels, 作曲:Randy Rigby, 編曲:Mana Naito (新聖歌332番)




京都信愛教会では、毎週第2日曜日の礼拝で Blessが会衆賛美のリードをしています。

また、毎月第3日曜日の礼拝では青年会や婦人会なども含め月替わりで特別賛美が行われます。

どなたでも、どうぞ礼拝にお越しください。

花の日子どもの日礼拝「キリストのかおり」

礼拝メッセージ 「キリストのかおり」 コリント人への第二の手紙2章14~17節

長谷川和雄師


花の日は、米国の牧師C・H・レオナルド師が1856年6月第2日曜日に子どもの祝福のために特別礼拝を行ったことが始まりです。1866年には、メソジスト教会の年会で、子どもの宗教教育(奉仕と感謝)を強調する子どもの日と決議され教会行事となりました。また、その日には、教会に花を持ち寄って会堂を飾り礼拝後には子どもたちがその花を持って病人を見舞い、各社会施設を慰問したことから、後に「花の日」と呼ばれるようになりました。
.「私はクリスチャン」と証しする・・・1)キリストに似ていないクリスチャンを全部視野から取り除けたら福音の勝利にとって最大の妨げが無くなる老聖徒の言葉私たちは日常生活の中でキリストに似る」ということに心を留めているでしょうか口先だけでなく生き方存在そのものでキリストを現しているでしょうか。偽り悪口貪欲情欲高ぶり等が入り込んでいないでしょうか。多くの集会や聖会に出ても、自己満足や高ぶりとなっていたり、生活に変化が無いならそこで受けた恵みは無駄になってしまいます。2)世には政治的宗教的道徳的などの問題があります。しかしもっと一人ひとりの魂を愛して十字架の福音を伝えるなら日本が変わります。十字架の旗印を明確にし、神の愛に生きるとき、世が愛で満ち、人間の間違った欲望と人間関係は良くなります。3)十字架の福音に生かされたキリスト者は、人々に神に喜ばれる正しい道を示すことができます。まだ救われていない人々の救いを深く認識するとき、教会は活き活きします。教会が世に対して感化力を失ったのは十字架の愛によって人々をキリストに導かず、自分の信仰だけに精一杯でいるからです
.世の人はあなたを見ています・・・1)ある仏教徒は「キリストを信じたいがキリストに従っていると口でいう人の内に一度でもキリストを見たことがない者がどうして信じることができるかと言いましたサンダーシングがM・ガンジーにインド宣教条件を尋ねると、「①キリスト者がキリストの道に生活する。②宗教の質を落としたり、色合いを弱めず実践する。③愛を強調する。愛はキリスト教の中心であり魂です」と答えました。また、ヒンズー教徒が、スタンレージョーンズ博士に、「本物のクリスチャンを一人紹介して下さるなら、私はクリスチャンになります」と言ったそうです。私たちが主にあってキリストを現し、キリストのかおりを放つとき、人々は救われるのです。2)世は「キリスト教」よりも、ひとりの「クリスチャン」に目を向けています。本物のクリスチャンがひとり誕生すると、神の素晴しい御業がなされますただ口先だけでみ言葉を語るのでなく、キリストの内住を、生活で表わすこと」。これがキリストのかおりとしての歩みです。神が、私たちを通してキリストのかおりを放つ者と成らせて戴きましょう。
.キリストのかおりを放つ者・・・エトルリア軍式の凱旋行軍は香がたかれ先頭の敗戦の王は、つばをかけられ、打ち叩かれて偶像の犠牲として捧げられます主は十字架にかけられ敗軍の将のようでした。しかしキリストのかおりである十字架上の主の愛は、多くの人々をキリストに導きます。主と共に歩み、キリストのかおりを放つ者となるためにはどうしたらよいのでしょう。1)み言葉に従う生活をしましょう。み言葉に世の考えや習慣などを混ぜて、異教的な教えにしないことです。み言葉に賭けて生きた証をすることです。2)日々十字架を仰ぎ、主を内に向かえ、神の子として、主に従って生きることです。3)神の家族として、互いに愛する群れとされましょう。キリストの十字架の福音のかおりが立ち上るのは、自己犠牲以外にありません。主にあって、キリストのかおりを放つ者とならせていただきましょう。


教会の各活動


午後からは CSの花の日の訪問として、近隣の特別養護老人ホームを訪問しました。

その後、 体育館をお借りして、スポーツレクリエーションを楽しみました。


今週~来週の予定


婦人祈祷会 火曜日(11日)10:30~

※都合により休会します。

聖書研究祈祷会 水曜日(12日)19:30~

聖書:詩篇8篇
題:人の栄えと誉れ
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2、22、19

主日礼拝 - 父の日 来週日曜日(16日)10:30~

招詞:ヨハネ15章9~11節
交読文:32 詩篇103篇
聖書:ルカによる福音書15章11~32節
題:父なる神の愛
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:18,474,220











2013/06/02

主日礼拝「我が前を歩む全き者であれ」

礼拝メッセージ 「我が前を歩む全き者であれ」 創世記16章15節~17章27節

長谷川和雄師






神はアブラムに星を見せ、み言葉と契約による保証を与えられました(15)今日の箇所に、人の不誠実と神の誠実を見ることができます。
Ⅰ、不誠実な歩み(16:1~16)・・・カナンに移り住んで10年、アブラムには神との親しい交わりと神の約束が繰り返され、彼の信仰は増し加えられました。しかし、子どもが与えられませんでした。アブラムは子どもを与えると約束された神に頼るべきでしたが、自分の知恵や知識と妻の誘惑に負けてしまい、ハガルは身ごもって傲慢になり、サライを見下しました。また、サライはハガルをいじめるようになったので家庭の平和が乱れました。彼らは神の前に、神の約束に対し、不誠実でした。しかし、主はサライのもとから逃げ出したハガルをも憐れみ、サライのもとに帰って身を低くして仕え、子どもを産むようにと言われました。老いたアブラムはイシマエルが生まれると、彼を愛し、大切に育てました。しかし、聖書にその後の13年間が空白なのは、アブラムが神との交わりよりも、与えられた子どもに満足した歩みをしたからでしょう。素晴らしい神体験をしても、感情に頼っていると、いつしか自分が何でも出来るように思い込み、信仰が鈍くなり、神の語りかけが分からなくなるので気をつけましょう。
Ⅱ、全き信仰71~8)・・・アブラムが99歳、妻サライも89歳と年老いていましたので、人間的常識から考えても、二人から子どもが生まれるとは考えられませんでした。約束の子はイシマエルであろうと思っていた頃、主はアブラムに現れ、「わたしは全能の神である」、神には不可能なことは何もないと語られました。「わたしの前に歩み」とは、見える現実が絶望的状況であっても、希望を失わず、何でも行える全能の神を信じる信仰によって歩むことです。「全き者であれ」とは、自分の力できよく完全な者になれというのではなく、全能の神を信じ、より頼んで歩めということです。神が彼に現れたのは、彼が自分の可能性を失い、自らの弱さを認めてからでした。私たちも神の前に自らの弱さを認めるときでした。アブラムが全能の神の前にひれ伏し、語られるみ言葉を受け入れたとき、神は彼に約束を与えて下さいました。臨在を持ち運ぶ器とは、この全能の神の前に生きる人のことです。神により、アブラム(高貴な父)の名に」(が加えられ、アブラハム(命あるもの)となり、サライはサラ(国々の母)と改名されました。神の前に砕かれ、神に全く依り頼んだアブラハムを、神は祝福されました。
Ⅲ、契約のしるし(17:9~27)・・・前の契約は神からの一方的なものでしたが、今度は、約束を与えられた神が、アブラハムに犠牲(割礼)を求められました。当時、割礼は多くの人々の間で、結束を図るために行われました。神が求められた割礼は何でしょう。聖別です。選ばれた民の世からの分離、他のものと別たれて神のものとされ、神と親しく交わる神の友とされることです(ヤコブ2:23、ヨハネ15:15、ピリピ3:3、Ⅱコリント6:1618)。純潔です。罪の生活を切り捨て、神と自分との間に、何をも入れないで、真実・誠実であれということです。傷みを負っても、忠実に従うことです。アブラハムと彼に属する者はみな割礼を行い、主に従いました。主はそのような彼らを祝福し、み言葉を成就し、喜びの笑い(イサク)を与えて下さいました。失ったものよりも、受けるものは何と豊かでしょうか。私たちも全能の神の前に歩み、神を信じより頼む全き者とならせていただき、日々、全能の神を体験させていただきましょう。



教会の各活動


礼拝の中で、聖餐を行いました。現在は毎月第1主日(第1日曜日)に聖餐を行っています。

午後は教会役員会が行われました。


今週~来週の予定


■婦人祈祷会 火曜日( 4日)10:30~


 ※教区婦人部祈りの家清掃のため、休会します


■聖書研究祈祷会 水曜日( 5日)19:30~


聖書:ヨハネ14章26~27節
題:父が遣わされる聖霊
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:265、414、317

■主日礼拝 来週日曜日(9日)10:30~


招詞:詩篇100篇1~5節
交読文:32 詩篇103篇
聖書:Ⅱコリント2章14~17節
題:キリストのかおり
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2,433,429