2026/02/10

礼拝メッセージ「愛の主」マタイの福音書5章43-48節 大頭眞一牧師 2026/02/08


5章21節以下で主イエスは、旧約聖書の律法の教えを対比するかたちで「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と新しいいのちの生き方を語って来られました。今日はそのように語られてきた六つの生き方の最後、しめくくりです。

【隣人を愛し、敵を憎め】

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43)という言葉は実際には律法にはありません。あるのは「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:18ab)です。そこには「敵を憎め」とはありませんから、これはユダヤ人たちが後で付け加えた言い伝えです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、そしてローマによる他国の過酷な支配が続く中で、その痛みがユダヤ人たちを同胞であるユダヤ人を愛し、圧制者である他国人を憎む思いに駆り立てたことは無理ないことです。けれどもそんな生き方は、憎しみの中に自分を閉じ込めて、憎しみの奴隷になる生き方。主イエスはそんな生き方から私たちを解き放つために、この世界に生まれてくださり、十字架に架かって、復活のいのちをもたらしてくださいました。

【よきサマリア人のたとえ】

主イエスがくださった新しい生き方を表しているのが「よきサマリア人のたとえ」。当時ユダヤ人にとってサマリア人は、ローマ人についで鼻持ちならない宗教的異端で、人種的には汚れた存在でした。イエスのたとえは、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人がユダヤ人を助ける、という驚くべきもの。同胞であるユダヤ人は仲間を助けようとはしなかったのに。そして「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37d)と結ぶのです。意図は明確です。主イエスの与える新しい生き方は、憎しみから私たちを解き放ちます。敵だと思っていた相手ももはや敵ではなくなります。自分を苦しめる人も、憎しみの奴隷となっている、痛みを抱えた、癒しを必要としている存在に見えてくるのです。

【天におられるあなたがたの父の子どもに】

敵を愛する!どうしてそんなことができるのでしょうか。正直に言えば、私自身、「あなたを愛します」と心から言うことのできない相手がいます。けれども「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(45)とあります。私たちはすでに神の子どもです。神の愛は私にも相手にも注がれています。あふれるほどに。そんな愛の中で、私はゆっくりと深いところから癒されつつあります。傷の痛みは和らぎ、傷そのものも回復しつつあります。私はやがて、その相手にも心から「私はあなたを愛します」と言えるようになります。急ぐ必要はありません。神さまの胸の中に身をゆだねるなら、あとは神さまが引き受けてくださいます。

そうするうちに私たちにも神さまの心が沁みてきます。これまでもだんだん神さまのあわれみを知ってきた私たちです。さらに深く神さまのあわれみの心を知り、自分の心もそんな心に変えられていきます。もうそんな心は私たちのうちに始まっているのです。

【正しくない者にも】

それにしても「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、「正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45b)には引っかかるものがあるでしょう。「自分を愛してくれる人」(46a)だけでなく、愛してくれない人も愛しなさい、も、とてつもなく困難に思えます。カギは私たちがすでに神の子どもとされていることにあります。自分を愛してくれない人を、神はどのように見ておられるだろうか。父は子を十字架に送り、子は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34b)と叫ばれました。神は自分を愛さない者、自分を憎む者をあわれに思って、なおなお愛を注ぐのです。先ほどのCS紙芝居で語った通りです。そんな神の心が私たちにすでに与えられています。「いえ、私はゆるせません」と言う前に静かに自分の心に聞いてみてください。「ほんとうはゆるしたい。ゆるせたらいいのに」という思いの芽生えがあるなら、神がその芽を大きく育ててくださいます。

【キリスト者の完全】

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48)はいつもお語りしている姿勢の完全。さらに知りたい方は「聖化の再発見・ジパング篇」に詳しいです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/02/07

礼拝メッセージ「解き放つ主」マタイの福音書5章38-42節 大頭眞一牧師 2026/02/01


今日もマタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【目には目を】

イエスはここでも律法学者やパリサイ人たちの生き方とイエスと共に生きる新しい生き方を対比します。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」(38)が律法学者たち。これは私たちには残酷な復讐の奨励のように聞こえますが、そうではありません。放っておけばどんどんエスカレートしていく報復を、受けた被害と同程度にとどめ、そこから和解の道を模索させて、隣人との関係の回復を目指すのが律法の心、神の心でした。やはり律法はよきもの。神と人と共に歩く歩き方の教えなのです。

【左の頬も】

けれども実際には、そのような和解はほとんどもたらされません。私たちのよく知る通りです。だからこそ主イエスは律法の完成のために来てくださいました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。」(39a)は、イエスがもたらした新しい生き方の宣言。律法、すなわち神と人と共に歩く歩き方の完成の宣言です。

ここは主イエスが非暴力、暴力を用いないことを教えられた箇所と受け取られることが多いのですが、イエスはそれ以上の愛を語っています。向かい合っている人の右の頬を自分の右手で打つためには、右手の甲で打つことになります。これはユダヤ人にとっては、侮辱的な、軽蔑を込めた、人間としての尊厳を否定する打ち方でした。それは心に深い傷を負わせる打ち方。単なる肉体の暴力ではなく、人の心に対する暴力でした。そのように自分を侮辱する者に復讐するな、むしろ、そのように歪んでしまっている相手に対して、関係を断ち切らずに、その人の破れの回復のために心を傾けよ、と主イエスは命じたのでした。私たちは思います。いったいどうしたら、そんなことができるだろうか、と。

もちろん、みなさんは、すでにその答えをみなさんのうちに持っています。それはキリスト。キリストは十字架で罪と死の力を滅ぼし、私たちを解き放ってくださいました。自分の内側に折れ曲がった私たちの心を!そして私たちの破れた心をつくろってくださいました。もうすぐ「この杯を飲め(マルコ説教集3)」が出版されます。本にサインを頼まれることがあるのですが、「満ちて、あふれて、注ぎ出せ」と書くことがあります。すでに主イエスが私たちに愛と癒しを注いでくださっています。それがあふれ出しているのです。私たちから。

【上着も】

ついで主イエスは「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」(40)と語ります。告訴までして貧しい者からわずかな貸しを取り立てようとする者を神さまはどのように見ておられるだろうか、と思わされます。取り立てる人の心の貧しさに痛みを覚えておられるはず。私たちも彼らに新しい生き方を指し示したいと願います。律法には「もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。」(出エジプト22:25-26)とありますから、上着は奪われることのないもの。でも、神の民は上着を与えることに限らずできるだけのことをしたいのです。

【一緒に二ミリオン】

続いては「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」(41)。一ミリオンは1,480メートル。ローマ帝国による「徴用」(国家が国民などを動員して、一定の仕事に就かせること)です。もちろん主イエスはどんな権力であってその体制に従えと言っておられるのではありません。当時、ユダヤには反ローマ感情がみなぎっていました。実際に主イエスの十字架の30年ほど後には、反乱がおこり、エルサレムが瓦礫に帰することになります。そんなユダヤの人びとに主イエスが語ったのは、ただローマ帝国からの解放ではありません。他国を支配し、あるいは支配された者たちが、力による現状変更を繰り返す、そんな生き方からの解放です。世界はまだその実現を見ていません。紛争が繰り返されています。けれども私たちは知っています。神の国、神の支配、新しい生き方はすでに私たちのうちに始まっていて、日に日に成長し、やがては世界を覆うのです。

【求める者に与えよ】

そして主イエスは「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。」(42)と今日の箇所を締めくくられました。マタイは「求めなさい。そうすれば与えられます。」(7章7節a)との主イエスの言葉も記しています。そこは神の国、神の支配、新しい生き方を記した箇所。だから私たちは私たちに求める者に背を向けません。不当な要求のように思えても、その心の破れ、彼らの本当の願いを聴き取ろうとします。主イエスは、彼らが知らないで求めている神の国を与えてくださいます。私たちも主イエスと共に働きます。主イエスが私たちを通して働いてくださるからです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/02/02

礼拝メッセージ「『はい』と言わせる主」マタイの福音書5章33-37節 大頭眞一牧師 2026/01/25


先週は幸いな新年聖会。ヤコブを「父の家に帰らせてくださった」同じ神の愛を聴きましょう。その愛に向かって解き放たれましょう。

【誓うな】

イエスはここでも律法学者やパリサイ人たちの生き方とイエスと共に生きる新しい生き方を対比します。「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」(33)が律法学者たち。神に誓いを立てたら必ず実行せよと教えていました。これは十誡の第三誡「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」から出ています。「神に誓って返すからお金を貸して」といったように、神の名を利用して自分の利益を図ることはいつの時代もあること。十誡はそんな生き方を戒め、神と人を愛する生き方を指し示しています。

ところが律法の意図に反してイエスの時代の人びとは、神の名を用いないようにして、結局は自分の利益を図る、そんな抜け道を使っていました。「天にかけて」(34c)「地にかけて」(35a)「エルサレムにかけて」(35c)「自分の頭にかけて」(36a)と。ですからイエスはこれらいっさいにノーと言いました。何に誓おうと、あるいは誓わなくても、私たちの言葉はすべて、神の前で発せられています。神が聴いておられるのです。私たちの言葉が愛に満ちた真実な言葉であることを願いながら。ですからコトはもはや「神に誓った」か「神以外のものに誓ったか」ではありません。なにかに誓って自分の利益を図ろうとする生き方が問われているのです。

【解き放つ主】

だからと言って、イエスは私たちに「言葉に気をつけなさい。うっかりしたことを言わないように、なるべく口数を少なくしなさい」と言っているのではありません。主イエスは「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」(36b)と言います。つまり神は私たちの髪の毛一本さえも心にとめていてくださる。愛をもって。だから私たちの言葉の一つひとつが神と人を愛する言葉であるように、手に汗を握るようにして、期待し、聴いてくださっているのです。

「でも」と私たちは、ここでもたじろぎます。私の言葉にはたびたび愛が欠けている。しばしば怒りやねたみが含まれていて、聞く人に痛みや傷を与えてしまう。神が望まれるようには語っていない、生きていない、と。だから神が私の言葉を聴いておられることに恐れを感じると。

そのとき忘れてはならないことがあります。それはまさに、だからこそ主イエスは十字架に架かり復活してくださったこと。私たちから愛を奪う、心に受けた傷や痛みがあります。だから、だれかの言葉や態度が私たちを苦しめるとき、私たちの言葉は自分を守ろうとする言葉となって愛を失います。けれども主イエスは十字架でそんな傷や痛みをすべて、担(にな)ってくださいました。私たちを愛に欠けた生き方に引きずり込もうとする悪の力を十字架で滅ぼしてしまいました。たびたびの引用で恐縮ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあります。もう私たちは解き放たれているのです。愛に向かって。そしてますます解き放たれていくのです。主イエスが注ぐ復活のいのちによって。

【それでは、誓約は?】

ここまでで、ひょっとしたら「あれ?」と思われた方がおられるかもしれません。教会ではさまざまな誓約が行われます。牧師の任命、役員やCS教師の任命などのときには、任命される人が誓約します。役員の任命の場合には教会員も誓約します。私たちが神の愛に応えて、仲間とともに神に仕えていくという約束です。すると、「それはイエスが『誓ってはならない』と言ったのに反しないか?」と思ってしまいますね。

けれども教会の誓約は、固く約束したからがんばって守る、というものではありません。そんながんばりが効果をもたらさないことはお互いよく知っている通りです。教会の誓約は、私たちの生き方をイエスの手の中に置くことです。イエスの手の中で、私たちがなお解き放たれ、愛に満たされ、そこからあふれ出す愛の言葉を語ること、愛には「はい」愛ならざることには「いいえ」と語ることができることの確認なのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/01/18

礼拝メッセージ「結ぶ主」マタイの福音書5章27-32節 大頭眞一牧師 2026/01/11


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【情欲を抱いて女を見る】

「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(28)は、このみ言葉を真剣に読んだ、特に若い男性たちを悩ませてきた箇所です。としごろになって、そういう思いを抱かない人は少ないからです。しかも続く「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。」(29-30)を、情欲を抱いて見る目、情欲を解放する手と解釈して、絶望的な思いに駆られる人びとは絶えませんでした。

けれども、主イエスはほんとうにそんなことをお望みなのでしょうか。異性を見ても心を動かされない、そんな境地に達するように、と命じているのでしょうか。そうだとするなら、それは「姦淫を犯さないために、情欲を抱いて女を見ない」という安全柵をはりめぐらすことになってしまいます。それこそが、まさにイエスが律法学者やパリサイ人たちと決定的にちがうところだったはずなのに。

【イエスの願い】

そもそも、聖書には男女の性的関係を汚れたことや罪とみなす考え方はありません。また今回の発端となった「姦淫してはならない」という第七戒の「姦淫」は、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことです。つまり、ここで主イエスが語っておられるのは、「性的な欲望を持つことは罪だ」ではありません。イエスの願いは「自分の夫婦の関係をたいせつにしなさい。他の人の夫婦の関係もたいせつにしなさい」なのです。実際に他の聖書には「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」を「情欲を抱いて他人の妻を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」と訳しているものもあり、こちらの方がイエスの願いをよく表していると思います。

ですからイエスの願いは、ただ姦淫さえしなければよい、というのではありません。イエスの願いは、結婚が、夫婦の関係が、ほんとうにきよい、よいものであること。たがいに心から、たいせつにし合う、その結婚を通して世界に愛が回復されていくことです。私たちはみんな、これまで生きてきた中で傷ついています。その傷を打ち明け合い、共感し合い、神さまに差し出すことを励まし合う、そんな結婚、そんな夫婦であったなら、と思わされます。そのような癒しは、その夫婦だけにとどまらないでしょう。癒された夫婦を通して、世界へと及んでいきます。ですから他人の妻を見る目は、情欲の目ではなく、家族としての愛のまなざしです。互いを守り覆う思いで見つめ合うのです。

【イエスの恵みの中で】

「目をえぐり出して捨てよ、手を切って捨てよ」もまた、私たちを脅かす言葉ではありません。イエスはたがいの関係を「姦淫」によって損なうことがないように、とおっしゃっているのです。「あなたにとって、パートナーはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。ふたりの関係を脅かす姦淫への誘惑よりも。わたしがあなたがたを抱きしめ、わたしの胸の中でそうさせてあげよう」と。

でも、私たちはそんなことを全うできるだろうか、と、たじろぎます。そこで思い出すべきことがあります。それは、いつも愛が欠けてしまう私たち。そんな私たちだからこそ、主イエスが十字架に架かってくださったこと。私たちの傷、私たちの傷ついた関係は、主イエスの恵みの中に置かれています。だから、主イエスは私たちを赦し、愛を注ぎ、何度でも何度でも何度でも、やり直させてくださるのです。昨日よりは今日、今日よりは明日、愛することに解き放たれて。

【すべての関係が】

私たちのうちには独身の人もいます。結婚していたのだけれども、生別や死別を経験した人もいます。それらの方がたも、主イエスは招いています。「あなたにとって、あなたの周りの人びとはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。」と。その招きに応じるときに、この世界に愛が回復していきます。少しずつゆっくりと。目には見えなくても確実に。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)