2025/12/25

クリスマス礼拝メッセージ「和解の主」マタイの福音書5章21-26節 大頭眞一牧師 2025/12/21


クリスマスおめでとうございます。およそ二千年前、イエス・キリストがユダヤに誕生しました。それは特別なこと。たいへん特別なことでした。

【観測限界】

昨日は信愛教会での「一年12回で聖書を読む会」。参加されたご近所の方が「観測限界」という言葉を教えてくださいました。これは宇宙を観測できる範囲のこと。460-470億光年とされ、それ以上の遠くは観測できないのだそうです。

イエスは神。神は明らかに私たちの観測限界を超えています。私たちよりもはるかに大きいからです。その大きな神がクリスマスに人となりました。赤ちゃんになって生まれたのです。傷つけようとすれば傷つけることができる、命を奪おうとすればそれもたやすい赤ちゃんとして。

【もうひとつの観測限界】

それには神の願いがありました。それは、私たちのもう一つの観測限界のため。私たちには、人に話すことができない恥や傷、後悔や罪があります。自分が原因のこともあり、他の人が原因のこともありますが、心の暗い部分です。思い出すたびに思わず声が漏れそうになる心のひとすみを抱えています。そんな暗いひとすみは、私たちの生き方を、人間関係を、ゆがめます。その影響は周りの人々にも及びます。人はたがいにそんなゆがみを及ぼし合っている金網のようです。このゆがみは、家族の間にも、学校や会社の人間関係にも、そして国と国の間の関係にも破れをもたらしてしまいます。世界はそんな破れに悲鳴をあげています。これがもうひとつの観測限界。私たちの心の深く暗いひとすみに、なすすべを知らない私たちです。

【クリスマスの良き知らせ】

けれどもここに良き知らせがあります。神は私たちが暗いひとすみにゆがめられ、苦しむことを見ておられることがおできになりませんでした。だから人となって来てくださいました。そして十字架へと続く道を歩んでくださったのでした。私たちの暗いひとすみを引き受けるために。私たちを暗いひとすみから解放するために。神は私たちが胸を張ることができるところではお会いになりません。私たちが自分たちの優秀さを誇り、善行をアピールするときも、神の目は私たちの暗いひとすみに注がれています。そして「あなたのその暗さを、あなたの本当の問題をわたしに見せなさい。ゆだねなさい。わたしがそこをいやし、そこからあなたを解放する」と。

【和解の主】

律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれども今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していません。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。最初のクリスマスに。私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださるために。

ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主です。

「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。ののしらずにはいられない思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。

【復活の主】

私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけず、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。

けれども、私たちには、主イエスのいのちが注がれています。愛するいのちが。神であるイエスが死から復活したことによって。イエスが私たちに注いでいる神の願い、神の心、自分に痛みを与える者との和解を願う心を受け取ってください。私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。観測限界を超えた大きな愛によって。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/12/18

礼拝メッセージ「律法を成就する主」マタイの福音書5章17-20節 大頭眞一牧師 2025/12/14

いよいよ来週はクリスマス。今日も光である主のみことばを、マタイ5章から7章の山上の説教から、続いて聴きます。

【一つでも破り?】

先週は、「あなたがたは世の光です。」という主イエスの宣言を聴きました。足りない私たちだけれども、すでに世の光とされていて、ますます主イエスが輝きを増してくださる、というのですから、ほんとうに躍り上がりたいような喜びです。

そんな私たちですが、今日の箇所を読んでがっかりする人がいないか、少し心配です。ここには「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(19a)とか「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)といった、とてつもなく高い基準が要求されているように見えるからです。

【律法学者たちの義】

けれども、もちろん、主イエスは私たちを追い詰めるお方ではありません。律法学者やパリサイ人の義とありますが、彼らは主イエスからしばしば誤りを指摘されていたことを忘れてはなりません。

いつも申し上げることですが、「まず出エジプト、そしてシナイ山」。つまり、神さまは律法を守ったからイスラエルを救ったのではありません。なにもわからない、おそらくはエジプトで偶像礼拝にどっぷり浸かっていたイスラエル。神さまは、ただあわれに思って彼らを救い出されました。それが出エジプト。その後で、彼らをシナイ山に導き、神と共に歩く歩き方を教えました。それが律法です。それは神さまが、アブラハムとその子孫を通して、世界のすべての人びとを祝福するため。世界の破れを回復するパートナーとして、イスラエルを育てるためでした。

けれども、バビロン捕囚とそれに続く諸外国の支配の中で、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教指導者たちは、律法を誤解するようになってしまいました。彼らは、律法を破れば、神さまの怒りをかう。すると他国の圧政という罰が続く、と考えたのです。麦畑事件というのがあります。安息日に空腹だったイエスの弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもみながら食べました。するとパリサイ人たちが「麦をもむのは脱穀という労働だから、安息日には禁じられている」と咎めたのです。イエスは「人の子は安息日の主です。」(ルカ6:5)と言います。世界の回復のために、イエスと働く弟子たちは、まさに律法の真髄を行っているのです。それを咎めるのは、神さまの心がまったく分からなくなってしまっているから。律法学者やパリサイ人たちには、神がどれほど世界の破れを痛み、その回復を願っておられるかがわかりません。神さまを規則からのほんの少しの逸脱もゆるさない、厳格なだけのお方だと思っていたのです。そして実際の律法よりも、さらに厳格な安全柵をめぐらすようにして、その中に自分たちを閉じ込めたのです。

【主イエスのまされる義】

けれども主イエスは私たちの心を、神さまを愛することに解き放ち、まわりの人びとを愛することに解き放ちます。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)は、決してさらに厳格な安全柵を意味するのではありません。イエス・キリストの義のことです。主イエスは、私たちの救い主。私はときおり、「イエスは私たちの過去・現在・未来の救い主」と申し上げることがあります。人となり、十字架に架けられ、復活した神である主イエスの義は、恐れに支配されて神の怒りを免れようとする律法学者の義にはるかにまさっています。主イエスは私たちに新しいいのちを注ぎ、あふれ出すまで愛を注いでくださるからです。

ある方が、「あるメッセージで、『傷つけられても、傷つけた側の心の破れを繕う私たち』と語られているのを聞きました。でも私にはそんな大きな心がないです」と思いを打ち明けてくださいました。それは私も同じです。けれども、それでも、主イエスのまされる義は私たちに与えられています。受けた傷が深いときには、相手の破れを繕うどころか、相手の顔を見るのもいやなものです。けれども、そのことを悲しみ、それでも相手の破れを繕うことができたらよいのに、と願うあなたは確かに、律法学者やパリサイ人の義にまされる義に生きています。世の光なのです。主イエスは、そんな私たちをなおなお癒してくださいます。今、この礼拝の中で、また私たちの生涯を通して。私たちの小さな光を喜び、たいせつに時間をかけて、じっくりと育ててくださいます。

(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/12/10

礼拝メッセージ「光とする主」マタイの福音書5章13-16節 大頭眞一牧師 2025/12/07


ろうそくが2本灯りました。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福に続く箇所から、今日も主イエスの恵みを聴き取ります。

【うなだれる私たち】

「地の塩」「世の光」と呼ばれている私たち。「塩」がなければ生きることができません。また塩は食べ物が腐るのを防ぎます。だから「地の塩」とは、この世に必要不可欠で社会を腐敗や堕落から守る存在。「世の光」はこの世を明るくする存在。私たちは自分がそうだとは言えないで尻込みしてしまいます。
そこには私たちの誤った思い込みがあります。自分がこの世の腐敗を防いだり、明るくしたり出来ているだろうか。それが出来ていれば、胸を張って私は「地の塩」「世の光」だと言えるのだが、と。例えば、私たちの伝道が実を結んで多くの人びとが礼拝に集ってくるとか、あるいは、私たちによって社会の不正が目に見えて取り除かれていく、そういったことが出来れば、とあこがれ、そうでない自分を見てうつむくのです。

【イエスの宣言】

けれども、イエスの「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」は、明らかに宣言です。「あなたがたは、すでに、今、地の塩であり、世の光なのだ」と断言しています。だから私たちはすでに塩っ気や光を与えられています、主イエスはその塩っ気をなくさないように「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と教え、その光を遮られることがないように「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」(15a)と語るのです。すでに主イエスによって塩とされ、光とされている私たちがそのいのちを曇らされることがないようにと励ましておられるのです。

【八つの祝福ふたたび】

今日の塩と光の箇所は、先週までの八つの祝福に続く箇所。ですから「地の塩」「世の光」の生き方は八つの祝福の生き方です。総集編として振り返れば、

  1. 「心の貧しい者は幸い」は、自分の心の中には、より頼むべき豊かさが全くない者が、主イエスに抱きしめられている幸い。その幸いは周囲に及んでいきます。
  2. 「悲しむ者は幸い」は、悲しむ私たちのそばに主イエスがいてくださる幸い。そして、その幸いを伝える幸い。
  3. 「柔和な者は幸い」は、苦しみの中にある者が、いらだたず神に望みを置き、イエスと共に世界の破れを繕う幸い。
  4. 「義に飢え渇く者は幸い」は、不正に苦しむ者たちが、イエスの十字架と復活によって実現した悪の力の滅びという義を受けて、神の正義の実現のために生きる幸い。
  5. 「あわれみ深い者は幸い」は、十字架に現れた神の大きなあわれみを受け、注ぎだす幸い。
  6. 「心のきよい者は幸い」は、自分ではなく主イエスの十字架を見る者の幸い、今、可能な限りの愛で神と人を愛する幸い。
  7. 「平和をつくる者は幸い」は、主イエスが十字架で敵意を滅ぼされたゆえに、自分に敵対する人びとの敵意をも癒す生き方の幸い。
  8. 「義のために迫害されている者は幸い」は、自分を迫害する人びとの破れに主イエスと共に愛を注ぎ、回復をもたらす幸い。

ですから八つの祝福はいずれも、私たちがすでに手にしている幸い。その出どころは主イエスであり、その幸いにあずかる者たちを世界の破れの回復のために送り出します。そんな生き方が「地の塩」「世の光」の生き方です。

【あなたがたの父をあがめるようになるため】

八つの幸いは、私たちの不足に注がれる祝福ですから、私たちの栄光や誉れではありません。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(16)とあります。人びとは、私たちを祝福する神さまをあがめるようになるのです。主イエスと主イエスをお遣わしになった父を喜び、ほめたたえるようになるのです。
そのために「また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」(15)と主イエスは命じます。私たちが「どうか私たちを輝く光、塩っ気のある塩としてくださった主イエスを仰いでください。このお方こそまことの光です。」とすべての人に主イエスを指し示すように、と。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)