2025/11/30

礼拝メッセージ「御国を与える主」マタイの福音書5章10-12節 大頭眞一牧師 2025/11/23


来週は待降節。マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いていますが、今日は最後の第八の祝福、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(10)です。主イエスの復活そしてペンテコステの聖霊により誕生したキリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害にさらされることになりました。初期の教会の指導者のひとりテルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種子」と記しています。迫害されてもキリスト教がなくなることはありませんでした。それどころか、ますます教会に連なる人びとが増し加えられていったのです。そしてついに紀元313年、ローマ帝国でキリスト教は公認されました。けれども日本のような非キリスト教国では長く迫害が続き、今もその影響には根深いものがあります。ですから私たちは「迫害」と聞くと反射的に「殉教」を思い、自分にはとても無理だ、とうなだれることがしばしばです。ところがそもそも教会は殉教を奨励していたわけではないようなのです。2世紀の殉教者ポリュカルポスによれば、殉教は自ら願ってするものではなく、なるべく避けるべきものだとされています。ですから殉教の焦点は死ぬことではなく、イエスと共に歩くことにあります。その中でさまざまな不利益をこうむることを避けないことがイエスの願い。その結果、時として殉教にいたることがあったとしても、殉教そのものが目的ではないのです。

【わたしのために】

この箇所が殉教の奨励ではない、とするなら主イエスのおこころはなんでしょうか。この八福にはこれまでの七つとはちがうところがあります。それは11節と12節が続いていることです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(11-12)。「わたしのために」とあります。つまり主イエスのおこころは、私たちが主イエスを愛し、主イエスとともに歩くことを励ますことです。殉教したかどうかで私たちをふるいにかけることではありません。それならば!と私たちは言うことができます。「イエスさま、私たちはあなたを愛してあなたと共に歩んでいます。足りないこともしばしばですが、私たちは自分の心をあなたのおこころに重ねています。あなたのために不利益をこうむることがあっても、それでもあなたのために生きたいのです」と。

【喜べ!】

そんな毎日に「人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」ことが起こります。「クリスチャンのくせに」と周囲の人から言われることもよくあることです。それでも私たちは、ののしられてもののしり返さず、悪口に悪口をもってすることなく、愛を注ぎます。私たちを迫害する人びとのうちにある破れの回復のために。ののしられるときに、喜べ!このイエスの言葉は不思議です。けれども理由があります。イエスは迫害されること自体を喜べと言っているのではありません。「天の御国はその人たち(迫害されている者)のものだから」(10b)、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」(12c)が理由。どちらも「もうすでに始まっている神の国(神の支配)、イエスが来られたことによって始まっている神の国。あなたがたはそこに入れられている。もう神と共に、イエスと共に、世界の回復のために働いている。その働きを通して世界は回復されている。だから喜べ!」と語るのです。思えば第一の祝福も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)でした。第一の祝福から第八の祝福までを貫いているのは「神の国(神の支配)がすでに始まっており、私たちがそこで働いていることの幸い」なのです。

【預言者たち】

「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(12d)とあります。私たちは預言者たちも迫害されたのだから、みんながんばれ、と命じられているように感じるかもしれません。けれども、私たちが見つめるべきは預言者の中の預言者として来られたイエスです。イエスはその迫害の中で、十字架に架けられて罪と死の力を滅ぼし、復活によって私たちに新しいいのち、愛のいのちを注いでくださいました。だから、私たちは迫害の中で愛することができます。主イエスから愛の注ぎを受けて。そのすべては世界で最初にクリスマスに始まりました。神が人となられたその驚きのクリスマスに。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/11/22

礼拝メッセージ「平和をつくる者の主」マタイの福音書5章9節 大頭眞一牧師 2025/11/16


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第七の祝福、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(9)です。ここまで読んで来て、これらの祝福には一つのパターンがあることに気がつきます。①イエスが○○な者は幸いだと祝福する→②私たちにはそうは思えない→③けれどももっとも○○なのはイエスだと気づかされる→④イエスによって私たちのうちにも○○が始まっていることに目が開かれる、そんなパターンです。

今日の箇所もそうです。私たちは平和を願っています。争いがないことを願っているのですが、しばしば自分の正しさを主張して、あるいは相手を恐れ自分を守ろうとして、争ってしまうのです。

【平和をつくるイエス】

やがて待降節が始まります。ルカは、御使いと天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と賛美したことを記します。イエスは神。神がこの世界に平和をつくるために来てくださった、それがクリスマスです。さらにエペソ書はこう記します。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)と。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人。彼らの間は敵意によって隔てられていて、とても平和など望めませんでした。けれども神であるイエスが、その敵意を滅ぼし、打ち壊しました。十字架によって。神が十字架に架けられることによって。イエスはすべての敵意をご自分に引き受けてくださり、終わりにしました。そして平和をつくってくださったのでした。

【平和をつくる私たち】

すべての敵意と申し上げました。かつて私たちは神を主と、王としませんでした。かえって神を自分の願いを聞くべきしもべとみなし、聞かれなければ、敵意を抱きました。私たちが王であるかのようにふるまったのです。私たちはまた周囲の人にも王のようにふるまってきました。二人の王は並び立つことができません。ですから互いの間に、しばしば敵意が生まれ、平和が破れたのでした。けれども、イエスによって私たちに新しいいのちが始まりました。新しいいのちは新しい生き方を生み出しました。それは主イエスの生き方。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す生き方です。

マーティン・ルーサー・キング牧師は語っています。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう…しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」と。

「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というのです。ここにイエスが始めた新しい生き方があります。

けれども、と私たちは立ちどまってしまいます。それはキング牧師のような偉人には可能でも、自分には無理だ、と。しかし、本当でしょうか?あなたのうちにはいのちが始まっていないのでしょうか?主の祈りで「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈る私たちには、確かにイエスの生き方が始まっています。だからその生き方を、ますます生きるのです。自分のうちにあるいのちを信頼してさらに大胆に。

【国と国の間にも】

イエスが平和をつくるのは、神と人、人と人との間ばかりではありません。国と国の間にも戦争をとどめ、平和をつくります。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す私たちを通して。苦しむ能力、苦しみに耐える能力によって。長い時間をかけても。



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2025/11/16

礼拝メッセージ「心のきよい者の主」マタイの福音書5章8節 大頭眞一牧師 2025/11/09


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【心のきよいとは】

聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。
ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちの心が、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。
ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。
先週は11月3日には神戸リバイバル聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、参加された方がたが感想を語ってくださいました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。

【神を見るとは】

「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。
自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。

【ますます心きよく】

今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)