2025/10/20

礼拝メッセージ「あわれみ深い者の主」マタイによる福音書5章7節 大頭眞一牧師 2025/10/12


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第五の祝福、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(7)です。「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけ、親切にすれば、その情けや親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、という意味。もちろん主イエスは、そんな処世訓のようなことを言ったのではありません。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【あわれみ深いとは】

「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。

【あわれみ深くない私たち】

けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。

もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。 もっともあわれみ深いのは主イエス であることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。

そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。

「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。

【幸いな私たち】

私たちは すでに あわれみ深い者とされています。そして さらに あわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。

私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。

けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。

2025/10/11

礼拝メッセージ「義に飢え渇く者の主」マタイによる福音書5章6節 大頭眞一牧師 2025/10/05


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第四の祝福。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6)です。八つの祝福で繰り返して語られているのは、イエスと共にいることの祝福。今日もこの祝福に心を開きます。

【義に飢え渇く者】

私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えやあちこちで起こっている自然災害に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。

【主イエスによって】

けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。

【もはや叫ぶだけでなく】

「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。もうすぐ明野と信愛の召天者記念礼拝、墓前礼拝がもたれます。天授ヶ岡教会はイースターでした。どの教会でも納骨があります。思えば多くの方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。

(CSメッセージ「ベテスダの池」)