2025/08/24

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2025/08/24



マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。神さまがぎゅつ!

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/13

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2025/08/10


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」は祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。けれどもそこにイエスの御声が響きます。

イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/07

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2025/08/03


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)