2025/06/09

ペンテコステ礼拝メッセージ「荒野の主」マタイの福音書4章1-11節① 大頭眞一牧師 2025/06/08


今週と来週は「荒野の誘惑」の箇所。豊かな恵みの箇所ですので、二回にわたって聴くことにします。

【悪魔=試みる者】

今、イエスがもたらす神の国。けれども世界には神の国を阻もうとする力が存在します。私たちを誘惑し、神から視線をそらさせ、神と共に生きさせまいとする力です。主イエスはそのお働きの始めに、この力と対決されました。第一の試みは「パン」。「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(2)イエスに、悪魔はささやきます。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)と。

【神の子なら】

この試みの本質は、「神の子なら」にあります。先週は、父の「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)というみ声を聴いたイエスです。そのイエスに「では、あなたがほんとうに神の子であることを確認したらいい。そしたら世界の破れを回復する働きを、堂々と始めることができるぞ」と誘う試みだったのです。

けれどもこの誘いは、決して応じてはならないものでした。なぜなら主イエスの使命は十字架によって世界を贖うこと。神としての力によって、力づくで世界の破れをつくろうことではなく、破れに身を投じて、わが身をもって破れをつくろうこと。悪魔は十字架からイエスを逸らせようとしました。そうして世界の救いを覆そうとしたのでした。

【神の口から出ることばによって】

イエスの答は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)でした。申命記8章3節の引用です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。申命記のこの箇所は、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒野の旅をふりかえっています。荒野のイスラエルは、実際には飢えることがありませんでした。マナが降ったからです。ですからこの箇所は「神はあなたがたをマナで養ってくださった。あなたがたが自ら労して食物を得るのではなく。それは、食物もみな神の恵みであることを分からせるため。そして食物よりも大きな恵みを分からせるため。神のあわれみを知り、神の心を知って、世界の回復のために神と共に生きる恵みを。」との意味。

私たちは「人はパンだけで生きるにあらず」などと言います。それを「物質だけに目を奪われてはいけないよ」という意味で使います。しかし真意はちがいます。「パンを与えてくださる神は、さらに大きな恵みを差し出してくださっている。それは神の心を知り、神と共に生き、神と共に世界の回復のために働くこと」なのです。

【神の子だから】

主イエスは、悪魔の誘いを拒絶しました。「神の子なら」と挑発されても「神の子だから」父の心を知り、父の心を生きました。主イエスの十字架によって神の子とされた私たちも、「神の子だから」父の心を生きます。

もちろん悪魔は私たちに、石をパンにしてみよ、とは言いません。けれども悪魔は私たちの目の前の石を用いて、私たちを神から引き離そうとします。その石とは、病気や貧困、地位や生きがいが得られないことなど。悪魔はそこに付け込んで、「お前が神の子なら、神がそんな石をパンに変えてくださるはずだ。お前の不足を神が満たしてくださるはずだ」と煽ります。

けれども私たちはもう知っています。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)と。私たちには確かに不足があるかもしれません。けれども神は、私たちに必要をご存じです。日々満たしてくださいます。たとえ、そうでないように見えるときも。そしてなにより、神は私たちにご自身の心を分からせてくださった。私たちは、神の子だから。だから私たちは、不足の中でも、神がこの世界の回復を進めておられることを知っています。私たちがその回復のために共に働いていることも。世界の破れのただ中で、神はよきことを造り出すことがおできになるし、今も造り出してくださっているのです。私たち抜きではなく、私たちを通して。私たちと共に。


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2025/06/03

主日礼拝メッセージ「父の子である主」マタイの福音書3章13-17節 大頭眞一牧師 2025/06/01


前回はバプテスマのヨハネが「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)、すなわち「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。『世界の破れを回復するために、立ち上がれ。そのために来られた王と共に働け』と民に告げよ」と人びとを励ましたことを見ました。今日の箇所では「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。」(13a)と。いよいよ主イエスの登場です。

【イエスの洗礼?】

イエスが来られたのは「彼(バプテスマのヨハネ)からバプテスマを受けるためであった。」(13b)とあります。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(14b)ととどめようとします。

前回、語ったようにバプテスマとは「自分を王とする生き方、神さまを王としない、自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わる」こと。だとするなら神であるイエスにはバプテスマは必要ないはずです。ヨハネがいぶかったように、確かにイエスのバプテスマは不思議な出来事でした。

【正しいことをすべて実現する】

ところがイエスはヨハネに「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15a)と言います。命じるのではなく、ヨハネを招くように。そしてバプテスマを受けられたのでした。

「正しいこと」とは、神さまと同じ思い、同じ心で、神さまと共に生きること。主イエスは、今、神でありながら人となり、世界の破れの回復の新しい段階を始めようとしています。力まかせにではなく、人びとの心を神に向けさせることによって。だから先頭に立ってバプテスマを受けました。神さまの心を受け取り、神さまと共に生きる人びと。その先頭に立ってくださったのでした。私たちが後に続くことができるように。聖霊によって。そのために神が人となりました。愛ゆえに。

【天からの声】

イエスがバプテスマを受けたとき、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と、告げました。聖書に通じたユダヤ人ならイザヤ書が頭に浮かんだはずです。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」(イザヤ42:1)の部分。旧約聖書を通して人びとが長く待ち望んでいた救いが、今、実現するのです。だれよりも神ご自身が長く待ち望んでおられました。ただそれは、神の敵がたちどころに倒される、といった救いではありませんでした。

【主のしもべの歌】

イザヤ書42章以後には「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所が四ケ所あります。その四つ目の、クライマックスの歌が52章13節から53章12節。特に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。イエスは十字架に架けられた神、十字架に架けられた救い主、十字架に架けられた癒し主なのです。何からの癒しか?

一年12回で聖書を読む会のクライマックスは、十字架について聴く第十回ですが、先日の天授ヶ岡12回では、その前半で会を閉じました。十字架をじっくりと知っていただきたかったからです。私がいつも語ります。「イエスは私たちの問題のすべてを解決する。罪も、罪の原因も、罪の傷も、罪の結果も。私たちが新しい問題に直面するたび、その解決も十字架にある。だから十字架はたくさんの意味を持っている。私たちをすべての問題から解放し、癒すから。じっくりと、根本から。」と。

【聖霊が】

バプテスマを受けた主イエスに聖霊が降りました。神と共に生きることを可能にする、この癒しの聖霊は私たちにも注がれました。だから神は私たちをも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と喜んでくださっているのです。私たちのすべての問題を担ってくださって。


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2025/05/20

主日礼拝メッセージ「造り出す主」マタイの福音書3章1-12節 大頭眞一牧師 2025/05/18


「そのころ」(1)は不思議です。直前の2章の終わりは、幼子イエスがナザレに行って住んだところで終わっていますから、バプテスマのヨハネの出現まで30年近い歳月が経っているはず。けれども、マタイが思わず「そのころ」と記したのには理由があります。ユダヤ人が待ち望んだ救い主がついに来ました。ずっと長く待ち望んだ期間を思えば、救い主の誕生から始まるできごとはあまりにすばらしくて、またたく間に起こったと思えたのでした。

【主の道を】

ヨハネが語ったのは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2)。他の福音書での「神の国」ですが、マタイはユダヤ人に向けて、「神」を「天」に言い換えたともいわれます。神のご支配という意味です。今、神が人となってこの世界に来られ、その支配を確立するときがいよいよ来ました。主イエスが、人びとの心を解き放ち、新しいいのちに満たすために来られたのです。ヨハネはそんな主イエスの道を備えるために現れました。人びとの心を主イエスに向けるために。

主イエスが求めておられるのは悔い改め。罪の悔い改めです。けれども、罪とは盗んだとか嘘をついたというような実際の行いだけではありません。ルターによるなら「罪とは、自分の内側に折れ曲がった心」です。自分の利益だけを考える折れ曲がりも、自分など価値がないと落ち込む折れ曲がりも、神さまの目には罪なのです。神さまは罪びとの私たちをあわれみ、どんなことをしてでも私たちを罪から救い出したいと願われ、御子を与えてくださいました。十字架にまで。

【ヨハネの水のバプテスマ】

「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(5-6)とあります。彼らはユダヤ人でしたから、ユダヤ教に改宗したというわけではありません。自分を王とする生き方、神さまを王としない自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わるバプテスマを受けたのでした。こうして、主イエスを迎える準備は整ったのでした。

【主イエスの聖霊と火のバプテスマ】

ところが、ヨハネは「大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると」(7)、厳しい言葉を口にします。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」(7)や「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(10)と。

それはパリサイ人やサドカイ人の悔い改めが不十分であったというわけではなさそうです。ヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)とも言っていますから。カギになるのは彼らがユダヤの指導者であったこと。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(9)とあります。アブラハムの子孫であるユダヤ人には、神と共に世界の回復のために働く使命があります。だからヨハネは彼らを励ますのです。「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。世界の破れを回復するために、立ち上がれと。そのために来られた王と共に働け、と。民に告げよ」と。

パリサイ人やサドカイ人は、たじろいだかもしれません。「どうして私たちにそんなことができるだろうか、ローマの属国であるユダヤで」、と。

そこへ良き知らせが響きます。「私(ヨハネ)の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(11)と。私たちを聖霊に満たして神の友とし、私たちの罪、すなわち自分のうちに折れ曲がった心を、引き受けてくださる主イエスがもう来られたのです。

私たちの心を内側に折り曲げようとする力は今も働きます。けれども「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」る(12b)お方、私たちをたいせつに抱きしめ、悪しき力を焼き尽くされるお方、私たちの王なのです。



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2025/05/12

主日礼拝メッセージ「涙をぬぐう主」マタイの福音書2章13-23節 大頭眞一牧師 2025/05/11


前回は東方の星占いたちを通して、神がすべての人を、それぞれに届く方法で招かれていることを見ました。そのとき、星占いたちはイエスを王として受け入れ、自分を献げました。ところがヘロデとエルサレムの人びとは自分を王として、イエスを拒んだのでした。

【大惨事】

自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」(16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。恐れゆえに。こうして、王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。

けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。

【難民イエス】

ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲にして生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。神であるイエスが難民となりました。ヘロデが死んだ後も、彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが!世界の片隅で身をひそめて!それは私たちのためでした。

【涙をぬぐう主】

マタイはここでエレミヤ書を引用します。「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」(18)。これはエレミヤ31:15からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。

イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。「主はこう言われる。『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。

【癒し主イエス】

バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。

だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。



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2025/05/05

主日礼拝メッセージ「星である主」マタイの福音書2章1-12節 大頭眞一牧師 2025/05/04


主イエスの誕生の記事。マタイはとても簡潔に記します。「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節前半)と。けれどもここにも大きな恵みがあります。ごいっしょに聴き取りましょう。

【ヘロデ王の時代に】

ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。

けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。彼らもまたイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。

私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。

【東の方から博士たちがエルサレムに】

こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。

ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。

【黄金、乳香、没薬を】

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界へ。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。

主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。

けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。


(ワーシップ 新聖歌40「ガリラヤの風かおる丘で」 Hannas Loblied & Bless)


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2025/04/21

イースター礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイの福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2025/04/20


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事、生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ」とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。



(CSメッセージ「よみがえられたキリスト」ルカの福音書24:1-12)



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2025/04/14

棕櫚の主日礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイの福音書1章1-17節② 大頭眞一牧師 2025/04/13


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例。受難週の始まる今朝、そこにある神のお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死ぬ。こんな場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死ぬ。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけた。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださいました。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことができます。私たちの罪を主の手に置き、そして祝福に変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死ぬ。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)