2025/04/21

イースター礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイの福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2025/04/20


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事、生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ」とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。



(CSメッセージ「よみがえられたキリスト」ルカの福音書24:1-12)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/04/14

棕櫚の主日礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイの福音書1章1-17節② 大頭眞一牧師 2025/04/13


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例。受難週の始まる今朝、そこにある神のお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死ぬ。こんな場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死ぬ。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけた。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださいました。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことができます。私たちの罪を主の手に置き、そして祝福に変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死ぬ。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/04/07

受難節第五主日礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイの福音書1章1-17節① 大頭眞一牧師 2025/04/06


いよいよ三教会共働体制が始まりました。すべては、同じみ言葉をいっしょに聴くことからです。今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。私がよくお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を、神さまは始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデが強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われていたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/31

受難節第四主日礼拝メッセージ「祈りの主」マタイの福音書6章5-8節 大頭眞一牧師 2025/03/30


マタイ6章1節から18節には神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることが語られています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「祈り」について聴きます。祈りとは神との愛の交わり。中世の教会指導者の言葉に「祈りとは神との友情を育むこと」があります。イエスご自身が最後の晩餐で私たちを「友」と呼んでくださったのですから。

【偽善者たちのようではなく】

主イエスは今日の箇所で、この祈りの心を教えてくださっています。決して「祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。神さまの友である私たちが、嘆きや喜びに出会うとき、溢れ出すのが祈りです。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」(5a)と命じられているのもそのためです。「彼ら(偽善者たち)は人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」(5b)とあります。当時、祈ることは立派な信仰深いことだと見なされていました。ですから彼らは祈りを人に見せて尊敬されようとしました。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(5d)と、彼らはすでに自分の欲する報いを受けています。尊敬されているのです。けれども、これは神さまとの友情には関係ないことでした。

【人の目ではなく神のまなざしの中で】

主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と教えられました。弟子たちをいつくしむように。先週は、レプタ2つのやもめのことを語りました。あのやもめは、思い煩いや人の目からの解放を喜びました。神さまもまた、やもめを喜んでくださいました。それは祈りも同じです。神さまと二人きりで、だれかと自分を比較することを忘れ、自分の祈りの善し悪しも忘れ、神さまに自分を捧げる、つまり、自分を与えてしまい、まかせてしまう、それが祈りです。喜びも悲しみも、神さまと共有して。そのとき私たちは確かに報いを受けます。私たちが切に願ってやまない、神との友情という報いを。

【くどくど祈るな】

主イエスは「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」(7a)ともおっしゃいました。祈りとは願い事を並べることではありません。それでは人間が「主」となって神さまは「しもべ」となってしまいます。偶像礼拝の問題はそこにあります。相手が真の神さまであっても、私たちがただ願い事を聞いていただくことだけを期待するなら、それは偶像礼拝に等しくなってしまうのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)とあります。私たちは自分の必要、願いを知っていただくために、一言も祈る必要はありません。神さまはすでにご存じだからです。それも、私たちが願うよりも、もっと私たちに必要なものを、もっと私たちによきものをご存じで、与えてくださるのです。

【ゲッセマネの祈り】

思い出すのは、やはりゲッセマネ。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39b)とイエスは祈られました。イエスはその苦しみを、父に申し上げました。父がご存じであることを知った上で、そうしないではいられなくて。「神の子が泣きごとを言ったらどう思われるか」などということも、投げ捨てて。そうするときに、その苦しみの奥にあるほんとうの願いが輝きました。わたしの望みではなく、あなたの望みを、と。

私は思うのです。私たちは「祈りが足りない者で」とあいさつのように言ってはならない、と。祈りが足りようが足りまいが、私たちは神の友なのですから。「手鍋下げても」という言葉があります。私たちも貧しくなられた主イエスと旅を続けます。わずかな、それも神さまから預けられた賜物をもって。その喜びをする者は幸いです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/24

主日礼拝メッセージ「報いてくださる主」マタイの福音書6章1-4節 大頭眞一牧師 2025/03/23


マタイ5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所。6章は内容においても「山上の説教」の中心箇所といえます。少し間があきましたので、まずは5章をふりかえることにしましょう。

【隣人を愛し、敵を憎め】

5章は八つの「幸いの教え」によって始まりました。1節から12節には、「○○な者は幸いです。その人は◇◇からです。」と繰り返されています。私たちが「天の御国」つまり「神の支配」にすでに入れられている、だからあなたがたの中には新しい生き方、愛する生き方がもう始まっている、と祝福しているのでした。5章13節以下には、私たちが、地の塩、世の光であること、すなわち神の愛に満たされ、あふれて、世界へ愛を注ぎ出す私たちであることが語られています。そんな私たちは「律法学者やパリサイ人の義」にまさる者です。なぜなら律法を超えて、神の友として、神の愛に似た愛を注ぎ出すからです。

【心が変えられたからこそ】

6章に入って1節には「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とあります。これは6章1節から18節の見出しのような箇所、神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることを語っています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「施し」について聴きます。

【神からの報い】

善行について主イエスは、「人前で善行をしないように」(1a)、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」(1b)と戒め、「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2a)と誇張した語り口を用いて警告します。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(3)と警告が重ねられて。さらに「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(3)と念押しがされています。ここで、よくある誤解は、人前で善行をすると人からの評価は得られる、でも匿名でした善行は人には知られないが、神から報われるというもの。私もなんとなくそんなふうに思っていました。しかしそれだと、たとえば何かの働きを支援したいと思うときに「さあ、みなさん、この働きを支えましょう。私も献げます。ごいっしょに!」というような呼びかけは神さまに喜ばれないのだ、ということになってしまいます。それはなんだか変ですね。

【解き放たれた私たち】

「偽善者たち」は実は気の毒な人びとです。人の評価を気にする生き方に縛り付けられているからです。彼らにも必要が満たされないでいる人びとへのあわれみがないわけではないでしょう。けれどもあわれみよりも、そんな自分を他の人がどう見ているか、ちゃんと自分の善行を見てくれているか、そしてあなたはすばらしい人だと言ってくれるかどうかが、大きくなって、気になってしようがないのです。先週の「牧羊者」(教団CS教案誌)はルカ21章の「レプタ2つ」のやもめのたとえ。信愛でも天授ヶ岡でもこの箇所からメッセージが語られたことと思います。レプタ銅貨二つは、神殿でのこれ以下は献げてはならないとされていた最低献金額、250円ほどに相当するといいます。けれども、主イエスは、このやもめの心を、神さまは喜んだのだと教えます。このやもめの喜びにご自分の心を重ねるようにして。注意すべきはやもめは毎日生活費を献げていたのではないことです。それでは生きていけませんから。しかしその日、やもめから神への喜びがあふれました。明日はどうあれ、今、その喜びを注ぎ出さないではいられなくなりました。生活の不安もあったでしょうが、それも神さまの御手に投げ込んでしまいました。こんな少しの献金で恥ずかしいという思いからも解き放たれて。神さまはその解放の瞬間を喜ばれました。そしてなおなお愛を注ぎ込んでくださったにちがいありません。

【私たちの喜び】

ですから「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4b)は、将来のことではなく、今すでに始まっている喜び。主イエスが与えてくださった新しい生き方が、神と人へほとばしる生き方の喜びのことです。そんな私たちは、人が見ていようが見ていまいが、そこから解き放たれています。変えられ、神さまとシンクロ(同期)する心で施すのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/17

主日礼拝メッセージ「使徒信条④イエス・キリストを信ず」マタイの福音書1章20-21節 大頭眞一牧師 2025/03/16

 


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

【私たちの主】

イエス・キリストは主である!私はイエス・キリストが私の主であると信じる!これは私たちの信仰の核となる告白です。ピリピでの出来事です。

「そして安息日に、私たち(パウロやルカたち)は町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は『私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください』と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。」(使徒16:13-15)

ピリピ教会の誕生にはリディヤの「私は主を信じる」という信仰告白がありました。「主」とは、持ち主、飼い主。聖書は神を羊飼い、私たちを羊にたとえます。この羊飼いは羊を売って儲けることを考えません。羊を愛し、羊のために命を捨てる愛の主。ですから、リディヤは、そして私たちは、イエス・キリストを私たちを愛する主だと告白します。私たちのすべてが、私たちの罪も、弱さも、ふがいなさも、みな主イエスが担って引き受けてくださっている、そんな私たちはこのままで丸ごと抱きしめられている、と告白するのです。

【イエスという名】

宗教改革者ルターの1532年の説教の一部です。

「あなたは、このイエスという文字をどんなに大きく書き記してみてもそれで十分だということはありません。イエスというみ名のひとつひとつの文字でさえも、それだけで既に全世界にまさるとさえ言えるのです。ですから、よく学んでいただきたいことは、これがどんなに尊い名かということです。このみ名にまさるよいものは何もないのです。ただイエスというこのみ名だけです。なぜかといえば、この文字の中には初めから全ての人の罪が含まれてしまっているからです。全世界のすべての罪びとの罪がそこに詰め込まれ…悪魔でもいい、誰か人間でもいい、私に論争をいどむ時、いつもこう言うことさえできたらよいのだと思います。この幼な子の名はイエスだ。私がさいわいを得、罪から解放されたいと願うなら、ここに、ここにおられるこの幼な子のみ名はイエスと言われるのだ。このみ名のみを大いなるものとするのだ。このみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとすれば、それでよいのだ。」

このルターの言葉にアーメンということができる私たちは幸いです。たとえ誰が私たちの罪を責めたとしても、自分自身が自分を責めたとしても、打ち倒されてはなりません。人となられた神、イエスが私たちの罪を、弱さを、ふがいなさを引き受けてくださっているからです。そして「わたしが十字架に架けられたのだから、あなたは生きよ」とおっしゃってくださるからです。マタイに「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(1:20-21)

とあります。イエスはへブル語でヨシュア。ありふれた名前でしたが、その意味は「主なる神は救い」。まさにその名の通り、イエスは私たちの救いとなってくださいました。私たちは今朝もこのみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとします。

【キリストを信ず】

キリストはヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書で油注がれるのは、王と祭司と預言者。ですから教会は「キリストの三職」という言葉でキリストのなさったことを語ってきました。キリストは勝利の王。悪の力を打ち砕きました。十字架と復活で。キリストは人を神にとりなす祭司。自らを供え物として献げて。そしてキリストは預言者。その言葉とわざで私たちに生き方を教えます。ただ教えるだけではありません。復活のいのちを注いで、私たちをすでにそのように歩かせてくださっています。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/04

主日礼拝メッセージ「愛の主」マタイの福音書5章43-48節 大頭眞一牧師 2025/03/02


5章21節以下で主イエスは、旧約聖書の律法の教えを対比するかたちで「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と新しいいのちの生き方を語って来られました。今日はそのように語られてきた六つの生き方の最後、しめくくりです。

【隣人を愛し、敵を憎め】

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43)という言葉は実際には律法にはありません。あるのは「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:18ab)です。そこには「敵を憎め」とはありませんから、これはユダヤ人たちが後で付け加えた言い伝えです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、そしてローマによる他国の過酷な支配が続く中で、その痛みがユダヤ人たちを同胞であるユダヤ人を愛し、圧制者である他国人を憎む思いに駆り立てたことは無理ないことです。けれどもそんな生き方は、憎しみの中に自分を閉じ込めて、憎しみの奴隷になる生き方。主イエスはそんな生き方から私たちを解き放つために、この世界に生まれてくださり、十字架に架かって、復活のいのちをもたらしてくださいました。

【よきサマリア人のたとえ】

主イエスがくださった新しい生き方を表しているのが「よきサマリア人のたとえ」。当時ユダヤ人にとってサマリア人は、ローマ人についで鼻持ちならない宗教的異端で、人種的には汚れた存在でした。イエスのたとえは、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人がユダヤ人を助ける、という驚くべきもの。同胞であるユダヤ人は仲間を助けようとはしなかったのに。そして「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37d)と結ぶのです。意図は明確です。主イエスの与える新しい生き方は、憎しみから私たちを解き放ちます。敵だと思っていた相手ももはや敵ではなくなります。自分を苦しめる人も、憎しみの奴隷となっている、痛みを抱えた、癒しを必要としている存在に見えてくるのです。

【天におられるあなたがたの父の子どもに】

敵を愛する!どうしてそんなことができるのでしょうか。正直に言えば、私自身、「あなたを愛します」と心から言うことのできない相手がいます。けれども「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(45)とあります。私たちはすでに神の子どもです。神の愛は私にも相手にも注がれています。あふれるほどに。そんな愛の中で、私はゆっくりと深いところから癒されつつあります。傷の痛みは和らぎ、傷そのものも回復しつつあります。私はやがて、その相手にも心から「私はあなたを愛します」と言えるようになります。急ぐ必要はありません。神さまの胸の中に身をゆだねるなら、あとは神さまが引き受けてくださいます。そうするうちに私たちにも神さまの心が沁みてきます。これまでもだんだん神さまのあわれみを知ってきた私たちです。さらに深く神さまのあわれみの心を知り、自分の心もそんな心に変えられていきます。もうそんな心は私たちのうちに始まっているのです。

【正しくない者にも】

それにしても「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、「正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45b)には引っかかるものがあるでしょう。「自分を愛してくれる人」(46a)だけでなく、愛してくれない人も愛しなさい、も、とてつもなく困難に思えます。カギは私たちがすでに神の子どもとされていることにあります。自分を愛してくれない人を、神はどのように見ておられるだろうか。父は子を十字架に送り、子は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34b)と叫ばれました。神は自分を愛さない者、自分を憎む者をあわれに思って、なおなお愛を注ぐのです。先ほどのCS紙芝居で語った通りです。そんな神の心が私たちにすでに与えられています。「いえ、私はゆるせません」と言う前に静かに自分の心に聞いてみてください。「ほんとうはゆるしたい。ゆるせたらいいのに」という思いの芽生えがあるなら、神がその芽を大きく育ててくださいます。

【キリスト者の完全】

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48)はいつもお語りしている姿勢の完全。さらに知りたい方は「聖化の再発見・ジパング篇」に詳しいです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)