2025/06/16

主日礼拝メッセージ「主を試みるな」マタイの福音書4章1-11節② 大頭眞一牧師 2025/06/15


今週も「荒野の誘惑」の箇所。先週は第一のパンの試みから聴きました。今日は第二と第三の試みから。

【下に身を投げなさい】

第二の試みは神殿の屋根の上。ただの高いところというわけではありません。神殿には多くの人びとが集まっています。悪魔は「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)と言います。「この多くの人たちに、天使たちに支えられて地上に降り立つ姿を見せてやれ。そうすればだれもが、あなた(イエス)を救い主だと認めるだろう」と誘惑したのです。

主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』
とも書いてある。」(7)と答えました。イエスが引用したのは申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」です。荒野を旅するイスラエルがマサという場所で、飲み水がなくなった、と、モーセと神に向かってつぶやきます。単に水を与えよ、と言っただけではありません。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:3)と、モーセを、つまりモーセを遣わした神をののしるのです。神の愛などわからないふりをするのです。このことは神とモーセにとって、これ以上ない痛みでした。神の愛を世界に伝えるイスラエルの使命は崩壊しようとしていました。このとき神はモーセに命じて、岩から水を出します。愛ゆえに。対照的に、愛なきイスラエルは、愛なき救いを求めました。水さえあれば良いと思い、水がなければ神には愛がない、と疑い、断じたのです。

悪魔の第二の試みは、まさに愛なき救いへの誘惑でした。天使に支えられたイエスの着地を見て、人びとは熱狂するでしょう。自分の望みもかなえてくれるにちがいない、と。けれども、それは愛なき救いです。神の心で、神と共に世界の破れに身を置いて、世界を回復するために働く救いではないのです。そもそも愛なき救いなどあり得ません。

私たちにも愛なき救いへの誘惑はやってきます。神を愛する神の子である私たちです。けれども大きな危機、大病や災害、経済的な欠乏、精神的なスランプなどで、愛を忘れることがあるでしょう。こんなことが起こるなんて、自分は神に愛されていない、と。けれども神は愛です。そんな私たちをも抱きしめて、凍りついた愛をとかすのです。そして私たちの問題に解決を与えます。ただ解決するだけではなく、私たちの愛を成長させ、世界を回復しながら。

【ひれ伏して私を拝むなら】

第三の試みは非常に高い山で、この世のすべての王国とその栄華を見せることでした。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)と悪魔は誘います。

けれども、ここには根本的な偽りがあります。悪魔は世界が自分のものだと言っているからです。世界は神のものです。神が愛をもって造り、愛をもって運営し、愛をもって贖っておられる神のもの。ところが悪魔は、自分は世界を思うようにできる、だから自分の支配の下に入れ、と言うのです。

イエスの答は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10)。申命記6章13節の引用です。ここは「あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:11-12)に続く箇所。すべての良きものは神から与えられました。私たちが神の愛を知り、世界の破れの回復を願う神の心を知り、神と共に働くために。

【十字架の主】

第二の試みで、イエスはマサの欠乏を引いて、愛なき救いを拒みました。第三の試みでのイエスは、出エジプトの恵みを引いて、神との愛の歩みを励ましました。愛に生きるその果てには十字架が待ち受けていることを知りつつ。十字架によって私たちの愛の歩みを造ることを喜びつつ。そのことを知る私たちは幸いです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/06/09

ペンテコステ礼拝メッセージ「荒野の主」マタイの福音書4章1-11節① 大頭眞一牧師 2025/06/08


今週と来週は「荒野の誘惑」の箇所。豊かな恵みの箇所ですので、二回にわたって聴くことにします。

【悪魔=試みる者】

今、イエスがもたらす神の国。けれども世界には神の国を阻もうとする力が存在します。私たちを誘惑し、神から視線をそらさせ、神と共に生きさせまいとする力です。主イエスはそのお働きの始めに、この力と対決されました。第一の試みは「パン」。「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(2)イエスに、悪魔はささやきます。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)と。

【神の子なら】

この試みの本質は、「神の子なら」にあります。先週は、父の「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)というみ声を聴いたイエスです。そのイエスに「では、あなたがほんとうに神の子であることを確認したらいい。そしたら世界の破れを回復する働きを、堂々と始めることができるぞ」と誘う試みだったのです。

けれどもこの誘いは、決して応じてはならないものでした。なぜなら主イエスの使命は十字架によって世界を贖うこと。神としての力によって、力づくで世界の破れをつくろうことではなく、破れに身を投じて、わが身をもって破れをつくろうこと。悪魔は十字架からイエスを逸らせようとしました。そうして世界の救いを覆そうとしたのでした。

【神の口から出ることばによって】

イエスの答は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)でした。申命記8章3節の引用です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。申命記のこの箇所は、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒野の旅をふりかえっています。荒野のイスラエルは、実際には飢えることがありませんでした。マナが降ったからです。ですからこの箇所は「神はあなたがたをマナで養ってくださった。あなたがたが自ら労して食物を得るのではなく。それは、食物もみな神の恵みであることを分からせるため。そして食物よりも大きな恵みを分からせるため。神のあわれみを知り、神の心を知って、世界の回復のために神と共に生きる恵みを。」との意味。

私たちは「人はパンだけで生きるにあらず」などと言います。それを「物質だけに目を奪われてはいけないよ」という意味で使います。しかし真意はちがいます。「パンを与えてくださる神は、さらに大きな恵みを差し出してくださっている。それは神の心を知り、神と共に生き、神と共に世界の回復のために働くこと」なのです。

【神の子だから】

主イエスは、悪魔の誘いを拒絶しました。「神の子なら」と挑発されても「神の子だから」父の心を知り、父の心を生きました。主イエスの十字架によって神の子とされた私たちも、「神の子だから」父の心を生きます。

もちろん悪魔は私たちに、石をパンにしてみよ、とは言いません。けれども悪魔は私たちの目の前の石を用いて、私たちを神から引き離そうとします。その石とは、病気や貧困、地位や生きがいが得られないことなど。悪魔はそこに付け込んで、「お前が神の子なら、神がそんな石をパンに変えてくださるはずだ。お前の不足を神が満たしてくださるはずだ」と煽ります。

けれども私たちはもう知っています。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)と。私たちには確かに不足があるかもしれません。けれども神は、私たちに必要をご存じです。日々満たしてくださいます。たとえ、そうでないように見えるときも。そしてなにより、神は私たちにご自身の心を分からせてくださった。私たちは、神の子だから。だから私たちは、不足の中でも、神がこの世界の回復を進めておられることを知っています。私たちがその回復のために共に働いていることも。世界の破れのただ中で、神はよきことを造り出すことがおできになるし、今も造り出してくださっているのです。私たち抜きではなく、私たちを通して。私たちと共に。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/06/03

主日礼拝メッセージ「父の子である主」マタイの福音書3章13-17節 大頭眞一牧師 2025/06/01


前回はバプテスマのヨハネが「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)、すなわち「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。『世界の破れを回復するために、立ち上がれ。そのために来られた王と共に働け』と民に告げよ」と人びとを励ましたことを見ました。今日の箇所では「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。」(13a)と。いよいよ主イエスの登場です。

【イエスの洗礼?】

イエスが来られたのは「彼(バプテスマのヨハネ)からバプテスマを受けるためであった。」(13b)とあります。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(14b)ととどめようとします。

前回、語ったようにバプテスマとは「自分を王とする生き方、神さまを王としない、自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わる」こと。だとするなら神であるイエスにはバプテスマは必要ないはずです。ヨハネがいぶかったように、確かにイエスのバプテスマは不思議な出来事でした。

【正しいことをすべて実現する】

ところがイエスはヨハネに「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15a)と言います。命じるのではなく、ヨハネを招くように。そしてバプテスマを受けられたのでした。

「正しいこと」とは、神さまと同じ思い、同じ心で、神さまと共に生きること。主イエスは、今、神でありながら人となり、世界の破れの回復の新しい段階を始めようとしています。力まかせにではなく、人びとの心を神に向けさせることによって。だから先頭に立ってバプテスマを受けました。神さまの心を受け取り、神さまと共に生きる人びと。その先頭に立ってくださったのでした。私たちが後に続くことができるように。聖霊によって。そのために神が人となりました。愛ゆえに。

【天からの声】

イエスがバプテスマを受けたとき、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と、告げました。聖書に通じたユダヤ人ならイザヤ書が頭に浮かんだはずです。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」(イザヤ42:1)の部分。旧約聖書を通して人びとが長く待ち望んでいた救いが、今、実現するのです。だれよりも神ご自身が長く待ち望んでおられました。ただそれは、神の敵がたちどころに倒される、といった救いではありませんでした。

【主のしもべの歌】

イザヤ書42章以後には「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所が四ケ所あります。その四つ目の、クライマックスの歌が52章13節から53章12節。特に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。イエスは十字架に架けられた神、十字架に架けられた救い主、十字架に架けられた癒し主なのです。何からの癒しか?

一年12回で聖書を読む会のクライマックスは、十字架について聴く第十回ですが、先日の天授ヶ岡12回では、その前半で会を閉じました。十字架をじっくりと知っていただきたかったからです。私がいつも語ります。「イエスは私たちの問題のすべてを解決する。罪も、罪の原因も、罪の傷も、罪の結果も。私たちが新しい問題に直面するたび、その解決も十字架にある。だから十字架はたくさんの意味を持っている。私たちをすべての問題から解放し、癒すから。じっくりと、根本から。」と。

【聖霊が】

バプテスマを受けた主イエスに聖霊が降りました。神と共に生きることを可能にする、この癒しの聖霊は私たちにも注がれました。だから神は私たちをも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と喜んでくださっているのです。私たちのすべての問題を担ってくださって。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)