2025/05/12

主日礼拝メッセージ「涙をぬぐう主」マタイの福音書2章13-23節 大頭眞一牧師 2025/05/11


前回は東方の星占いたちを通して、神がすべての人を、それぞれに届く方法で招かれていることを見ました。そのとき、星占いたちはイエスを王として受け入れ、自分を献げました。ところがヘロデとエルサレムの人びとは自分を王として、イエスを拒んだのでした。

【大惨事】

自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」(16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。恐れゆえに。こうして、王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。

けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。

【難民イエス】

ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲にして生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。神であるイエスが難民となりました。ヘロデが死んだ後も、彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが!世界の片隅で身をひそめて!それは私たちのためでした。

【涙をぬぐう主】

マタイはここでエレミヤ書を引用します。「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」(18)。これはエレミヤ31:15からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。

イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。「主はこう言われる。『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。

【癒し主イエス】

バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。

だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。



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2025/05/05

主日礼拝メッセージ「星である主」マタイの福音書2章1-12節 大頭眞一牧師 2025/05/04


主イエスの誕生の記事。マタイはとても簡潔に記します。「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節前半)と。けれどもここにも大きな恵みがあります。ごいっしょに聴き取りましょう。

【ヘロデ王の時代に】

ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。

けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。彼らもまたイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。

私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。

【東の方から博士たちがエルサレムに】

こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。

ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。

【黄金、乳香、没薬を】

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界へ。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。

主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。

けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。


(ワーシップ 新聖歌40「ガリラヤの風かおる丘で」 Hannas Loblied & Bless)


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2025/04/21

イースター礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイの福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2025/04/20


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事、生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ」とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。



(CSメッセージ「よみがえられたキリスト」ルカの福音書24:1-12)



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2025/04/14

棕櫚の主日礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイの福音書1章1-17節② 大頭眞一牧師 2025/04/13


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例。受難週の始まる今朝、そこにある神のお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死ぬ。こんな場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死ぬ。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけた。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださいました。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことができます。私たちの罪を主の手に置き、そして祝福に変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死ぬ。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。



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2025/04/07

受難節第五主日礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイの福音書1章1-17節① 大頭眞一牧師 2025/04/06


いよいよ三教会共働体制が始まりました。すべては、同じみ言葉をいっしょに聴くことからです。今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。私がよくお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を、神さまは始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデが強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われていたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


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2025/03/31

受難節第四主日礼拝メッセージ「祈りの主」マタイの福音書6章5-8節 大頭眞一牧師 2025/03/30


マタイ6章1節から18節には神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることが語られています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「祈り」について聴きます。祈りとは神との愛の交わり。中世の教会指導者の言葉に「祈りとは神との友情を育むこと」があります。イエスご自身が最後の晩餐で私たちを「友」と呼んでくださったのですから。

【偽善者たちのようではなく】

主イエスは今日の箇所で、この祈りの心を教えてくださっています。決して「祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。神さまの友である私たちが、嘆きや喜びに出会うとき、溢れ出すのが祈りです。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」(5a)と命じられているのもそのためです。「彼ら(偽善者たち)は人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」(5b)とあります。当時、祈ることは立派な信仰深いことだと見なされていました。ですから彼らは祈りを人に見せて尊敬されようとしました。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(5d)と、彼らはすでに自分の欲する報いを受けています。尊敬されているのです。けれども、これは神さまとの友情には関係ないことでした。

【人の目ではなく神のまなざしの中で】

主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と教えられました。弟子たちをいつくしむように。先週は、レプタ2つのやもめのことを語りました。あのやもめは、思い煩いや人の目からの解放を喜びました。神さまもまた、やもめを喜んでくださいました。それは祈りも同じです。神さまと二人きりで、だれかと自分を比較することを忘れ、自分の祈りの善し悪しも忘れ、神さまに自分を捧げる、つまり、自分を与えてしまい、まかせてしまう、それが祈りです。喜びも悲しみも、神さまと共有して。そのとき私たちは確かに報いを受けます。私たちが切に願ってやまない、神との友情という報いを。

【くどくど祈るな】

主イエスは「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」(7a)ともおっしゃいました。祈りとは願い事を並べることではありません。それでは人間が「主」となって神さまは「しもべ」となってしまいます。偶像礼拝の問題はそこにあります。相手が真の神さまであっても、私たちがただ願い事を聞いていただくことだけを期待するなら、それは偶像礼拝に等しくなってしまうのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)とあります。私たちは自分の必要、願いを知っていただくために、一言も祈る必要はありません。神さまはすでにご存じだからです。それも、私たちが願うよりも、もっと私たちに必要なものを、もっと私たちによきものをご存じで、与えてくださるのです。

【ゲッセマネの祈り】

思い出すのは、やはりゲッセマネ。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39b)とイエスは祈られました。イエスはその苦しみを、父に申し上げました。父がご存じであることを知った上で、そうしないではいられなくて。「神の子が泣きごとを言ったらどう思われるか」などということも、投げ捨てて。そうするときに、その苦しみの奥にあるほんとうの願いが輝きました。わたしの望みではなく、あなたの望みを、と。

私は思うのです。私たちは「祈りが足りない者で」とあいさつのように言ってはならない、と。祈りが足りようが足りまいが、私たちは神の友なのですから。「手鍋下げても」という言葉があります。私たちも貧しくなられた主イエスと旅を続けます。わずかな、それも神さまから預けられた賜物をもって。その喜びをする者は幸いです。


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2025/03/24

主日礼拝メッセージ「報いてくださる主」マタイの福音書6章1-4節 大頭眞一牧師 2025/03/23


マタイ5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所。6章は内容においても「山上の説教」の中心箇所といえます。少し間があきましたので、まずは5章をふりかえることにしましょう。

【隣人を愛し、敵を憎め】

5章は八つの「幸いの教え」によって始まりました。1節から12節には、「○○な者は幸いです。その人は◇◇からです。」と繰り返されています。私たちが「天の御国」つまり「神の支配」にすでに入れられている、だからあなたがたの中には新しい生き方、愛する生き方がもう始まっている、と祝福しているのでした。5章13節以下には、私たちが、地の塩、世の光であること、すなわち神の愛に満たされ、あふれて、世界へ愛を注ぎ出す私たちであることが語られています。そんな私たちは「律法学者やパリサイ人の義」にまさる者です。なぜなら律法を超えて、神の友として、神の愛に似た愛を注ぎ出すからです。

【心が変えられたからこそ】

6章に入って1節には「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とあります。これは6章1節から18節の見出しのような箇所、神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることを語っています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「施し」について聴きます。

【神からの報い】

善行について主イエスは、「人前で善行をしないように」(1a)、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」(1b)と戒め、「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2a)と誇張した語り口を用いて警告します。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(3)と警告が重ねられて。さらに「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(3)と念押しがされています。ここで、よくある誤解は、人前で善行をすると人からの評価は得られる、でも匿名でした善行は人には知られないが、神から報われるというもの。私もなんとなくそんなふうに思っていました。しかしそれだと、たとえば何かの働きを支援したいと思うときに「さあ、みなさん、この働きを支えましょう。私も献げます。ごいっしょに!」というような呼びかけは神さまに喜ばれないのだ、ということになってしまいます。それはなんだか変ですね。

【解き放たれた私たち】

「偽善者たち」は実は気の毒な人びとです。人の評価を気にする生き方に縛り付けられているからです。彼らにも必要が満たされないでいる人びとへのあわれみがないわけではないでしょう。けれどもあわれみよりも、そんな自分を他の人がどう見ているか、ちゃんと自分の善行を見てくれているか、そしてあなたはすばらしい人だと言ってくれるかどうかが、大きくなって、気になってしようがないのです。先週の「牧羊者」(教団CS教案誌)はルカ21章の「レプタ2つ」のやもめのたとえ。信愛でも天授ヶ岡でもこの箇所からメッセージが語られたことと思います。レプタ銅貨二つは、神殿でのこれ以下は献げてはならないとされていた最低献金額、250円ほどに相当するといいます。けれども、主イエスは、このやもめの心を、神さまは喜んだのだと教えます。このやもめの喜びにご自分の心を重ねるようにして。注意すべきはやもめは毎日生活費を献げていたのではないことです。それでは生きていけませんから。しかしその日、やもめから神への喜びがあふれました。明日はどうあれ、今、その喜びを注ぎ出さないではいられなくなりました。生活の不安もあったでしょうが、それも神さまの御手に投げ込んでしまいました。こんな少しの献金で恥ずかしいという思いからも解き放たれて。神さまはその解放の瞬間を喜ばれました。そしてなおなお愛を注ぎ込んでくださったにちがいありません。

【私たちの喜び】

ですから「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4b)は、将来のことではなく、今すでに始まっている喜び。主イエスが与えてくださった新しい生き方が、神と人へほとばしる生き方の喜びのことです。そんな私たちは、人が見ていようが見ていまいが、そこから解き放たれています。変えられ、神さまとシンクロ(同期)する心で施すのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)