tag:blogger.com,1999:blog-89143817562617486982024-03-27T15:36:21.717+09:00京都信愛教会(日本イエス・キリスト教団)伝統的な信仰の流れをくむキリスト教・プロテスタント教会です。主管牧師:大頭眞一。毎週日曜日朝9:30より教会学校、10:30より主日礼拝。礼拝メッセージの要約などをお知らせします。お問い合わせは直接、教会に電話などでお知らせください(こちらでの返信はいたしかねます)。京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.comBlogger376125tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-50469418480840113252024-03-26T22:47:00.001+09:002024-03-26T22:51:21.278+09:00井上 直さんの聖書絵画展「贖いの路」が行われました 2024/03/18-24<p>こちらでのお知らせが事後になってしまいましたが、3/18-24(月-土)の7日間、井上 直さん<span class="css-1qaijid r-bcqeeo r-qvutc0 r-1tl8opc" style="text-overflow: unset;">の<a href="https://nao-inoue.net/announcement/aganai_no_michi/">聖書絵画展「贖いの路」</a>が行われ、様々な方にご来場いただき、ありがとうございました。 </span></p>本格的な絵画展を行うのは、当教会では初めての事であったと思います。会堂1階と2階を上手くレイアウトくださり、大小71枚の油絵を出展くださいました。<br /><div align="center"><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">明日より京都信愛教会で個展「贖いの路」がはじまります。<br />皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。<br />作家は全日、牧師もほとんどの日に在廊しております。<a href="https://t.co/F9gTKTyYlF">https://t.co/F9gTKTyYlF</a> <a href="https://t.co/lRRqnTO5Ww">pic.twitter.com/lRRqnTO5Ww</a></p>— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) <a href="https://twitter.com/painterinoue/status/1769336326099468509?ref_src=twsrc%5Etfw">March 17, 2024</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script><br /><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">個展「贖いの路」4日目を迎えました。<br />昨日の春分の日は雪混じる春の嵐でしたが、たくさんの方にご来場いただきました。<br /><br />引き続き作家は在廊しております。<br /><br />本日もよろしくお願いします。<br />「二日目の夜」<br />キャンバスに油彩 <a href="https://t.co/976CxDacM6">pic.twitter.com/976CxDacM6</a></p>— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) <a href="https://twitter.com/painterinoue/status/1770612492252959061?ref_src=twsrc%5Etfw">March 21, 2024</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">個展「贖いの路」<br />ご来場をいただき心より感謝申し上げます。<br />京都だけでなく海を渡りアメリカからお越しいただいた方も。とても励みになりました。<br />次回は10月14日〜20日<br />日本キリスト教団主恩教会で個展「Light」開催予定です。<br /><br />引き続き宜しくお願い致します。<br /><br />ありがとうございました <a href="https://t.co/CI2oP966gS">pic.twitter.com/CI2oP966gS</a></p>— 井上 直 Nao Inoue (@painterinoue) <a href="https://twitter.com/painterinoue/status/1771902581243363640?ref_src=twsrc%5Etfw">March 24, 2024</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script> </div><p>今回は特にレント(受難節)の時期に行われたことで、神さまの愛を視覚を通しても味わうことが出来、教会員一同、感謝でした。</p><p>これからの井上 直さんの創作活動にも主の豊かな導きがありますようにお祈りいたします。</p>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-90907932931977202462024-03-24T23:28:00.001+09:002024-03-25T08:31:55.315+09:00棕櫚の主日礼拝メッセージ「訪れる神」ヨハネの福音書20章24-29節 大頭眞一牧師 2024/03/24<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/5aOw_saZDd0" width="320" youtube-src-id="5aOw_saZDd0"></iframe></div><br />「疑い深いトマス」として有名なトマス。ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」(25a)と言ったのですが、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25b)と言います。主イエスはそんなトマスを訪ねてくださいました。<p></p><h4 style="text-align: left;">【八日後】</h4><p>「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。」(26a)とあります。ユダヤでは足掛けで日数を数えますから、当時の八日後は、今でいう七日後です。つまり復活の主日(日曜日)の次の主日です。その日、主イエスは復活を信じた弟子たちと、まだ信じることができないトマスに現れたのです。</p><p>キリスト教会は、このことが礼拝を象徴しているのだと語り継いできました。礼拝はすべての人に開かれています。礼拝に集う人びとのなかには、すでにイエスに出会い、イエスを主と告白し、復活したイエスと共に歩む人々もいます。しかし礼拝に集うのは、そのような人びとだけではありません。イエスに会いたい、イエスを信じたいと願いながらも、信じることができない人びともいます。あるいは、聖書の教えやキリスト教に興味はあるのだけれども、まだ納得できない、分からないという人びとも。</p><p>けれども主イエスはそんなすべての人びとを訪ねてくださいます。「戸には鍵がかけられていたが、」(26b前半)は、恐れや疑いに閉ざされた私たちの心も表しているのでしょう。そこへ、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」(26b後半)と言われたのでした。</p><p>ですから私たちはまだ信じることができないでいる人びとも礼拝に招きます。たとえその心が閉ざされていたとしても、主イエスが入ってくださいます。先週も申し上げましたが、信愛の召された方の言葉が心を離れません。「信仰は神さまが与えてくださるものだよ」と。信仰のないトマスに、信仰のない私たちに、主イエスが信仰を与えてくださるのです。私たちをあわれんで。主イエスを知らないままにしておいけなくて。</p><h4 style="text-align: left;">【わたしの脇腹に】</h4><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/Caravaggio_-_The_Incredulity_of_Saint_Thomas.jpg" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="588" data-original-width="798" height="235" src="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/Caravaggio_-_The_Incredulity_of_Saint_Thomas.jpg" width="320" /></a></div>主イエスはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と。これはなんともすさまじいお言葉です。カラバッチョの「聖トマスの不信」(1602年ごろ)では、主イエスがトマスの腕をつかんで、むりやりご自分の傷に指を入れさせています。トマスは主イエスの言葉だけで信じたと思いますが、この絵は主イエスのお心を表現したものでしょう。主イエスにとって耐えがたいのは、傷の痛みではありません。愛するトマスが、そして愛する私たちが信じることができないで、イエスと共に生きることができないことに、耐えることがおできにならないのです。そのために十字架に架かられ、そのために十字架の傷を差し出してくださるのです。<p></p><h4 style="text-align: left;">【私の主、私の神よ】</h4><p>主イエスの愛はトマスの告白を引き出しました。「私の主、私の神よ。」(28)は、人類の口から出た最もすばらしい言葉。さまざまな異端がイエスが神であることを否定する中で、この告白は教会の信仰の道しるべのひとつとなってきました。主イエスに出会うことは、主イエスの愛に出会うこと。そのとき私たちは愛をこめて「私の主、私の神よ」と申し上げます。</p><h4 style="text-align: left;">【見ないで信じる人たちは幸いです】</h4><p>「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29)はトマスを、また不信仰な者を叱咤する言葉だと誤解されがちです。けれども、「見ないで信じる人たち」とは私たちのことです。使徒たちのように復活の主イエスを肉眼で見たわけではないけれども、主イエスに出会い、主イエスの愛に出会い、主イエスの傷によって癒され、主イエスの復活のいのちに生きる私たち。その私たちに、主イエスは「あなたがたは幸いだ。わたしはあなたがたを喜ぶ。力の限り生きよ、力の限り愛せよ」と祝福してくださっているのです。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「十字架上のイエス」マタイの福音書27:45-56</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書11章25節(新約P.205)</li><li>賛美:114</li><li>交読文:43 詩篇136篇(新聖歌 P.862)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>証し:(明野)</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:101</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書20章24-29節(新約 P.228)</li><li>説教:「訪れる神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>賛美・献金:113</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-90279516057522884892024-03-17T23:49:00.001+09:002024-03-17T23:49:14.074+09:00礼拝メッセージ「息を吹きかける神」ヨハネの福音書20章19-23節 大頭眞一牧師 2024/03/17<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/tGsyypRi478" width="320" youtube-src-id="tGsyypRi478"></iframe></div><br />先週の箇所で、イエスはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(17)と語り、マリアは弟子たちに伝えました。ところが「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」(19a)のでした。<p></p><h4 style="text-align: left;">【恐れる弟子たち、恐れる私たち】</h4><p>弟子たちが恐れたのは、自分たちが主イエスのように処刑されるのではないか、ということ。私たちもこの個所を読むとき恐れを感じます。そして「命の危険に迫られるときに私たちは殉教することができるだろうか。いやできそうにない。つまり自分には信仰が足りないのだ。だからもっと祈って、もっと聖書を読んで、堂々と殉教できる人になろう」とと考えたりします。</p><p>けれども、紀元155年ごろに殉教の死をとげたポリュカルプスという司教がいます。その殉教伝は「殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきで、それでも神によってえらばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださる」と記しているのです。弟子たちの恐れを取り除いたのも、弟子たち自身の努力や決心ではありませんでした。主イエスが彼らのいる部屋の戸を通り抜け、彼らの心の恐れの戸を通り抜けて、彼らにお会いくださったのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【弟子たち主を見て喜べり】</h4><p>主イエスが繰り返された「平安があなたがたにあるように。」(19と21)の「平安」は単に争いや戦いがない、ということではありません。神の祝福が満ちている、ということ。神の祝福は恐れていた弟子たちに満ちました。「イエスは手と脇腹を彼らに示された」(20)、そのときに。</p><p>主イエスの手と脇腹の傷は、弟子たちの心の傷でもあります。主イエスを見捨てた自分たちの不信仰と愛のなさを思い出させるからです。しかし主イエスはその傷を見せながら「平安があなたがたにあるように。神の祝福をあなたがたに満たしてあげよう」とおっしゃるのです。彼らの罪、不信仰も愛のなさも赦されました。主イエスは彼らを心から受け入れてくださったのです。今、彼らは祝福に満たされています。主イエスに傷があるゆえに。自分たちが主イエスを裏切らなかった場合よりも、はるかに大きな祝福に。罪のどん底に、自分でも赦すことができない裏切りの真ん中に、主イエスは祝福を造り出し、祝福で満たしてくださったのでした。私たちも。</p><h4 style="text-align: left;">【息を吹きかけて】</h4><p>「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22)は、創世記2章を想起させることを意図しているのでしょう。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)とあります。聖霊によって私たちは生きるものとなります。いのちを回復されます。神を愛せず、仲間を愛せず、自分を責める思いの中で、恐れに支配されていた私たちが、生きるものとなったのです。</p><h4 style="text-align: left;">【罪の赦しの生活】</h4><p>そのようないのちの生活のすばらしさを主イエスは続けて語ります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」もちろん、私たちに罪を赦す権威がある、というのではありません。罪を赦すことができるのは、神おひとりです。主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21c)と私たちを派遣なさいます。私たちが、家族に、地域に、職場や学校に派遣されて行くとき、そこにいのちがもたらされます。愛なき言葉と思いと行いの私たち。私たちは、それにもかかわらず神に赦されて、神の祝福に満たされて、癒されつつあります。そんな私たちを通して、神さまは周囲の人びととの間に新しい関係を造り出してくださいます。赦された私たちを通して、世界が変わり始めるのです。</p><p>そこにあるのは罪の記憶による自責の念に、孤独にうずくまる生き方ではありません。「あなただって」と責め合う生き方でもありません。「私は神に赦された。神の祝福に満たされた。あなたもこの赦しを知ることができるように。赦す主イエスに出会うことができるように。そしてあなたと私が、共に赦し合い、覆い合い、癒し合う仲間となることができるように」と招く生き方です。そのように招くとき、主イエスが働いてくださいます。私たちの遣わされて行く人びとに祝福を満たすために。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び⑧「異端」大頭眞一牧師</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書11章25節(新約P.205)</li><li>賛美:10</li><li>交読文:42 詩篇130篇(新聖歌 P.861)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:109</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書20章19-23節(新約 P.228)</li><li>説教:「息を吹きかける神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:112</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-55043947628235635462024-03-11T01:03:00.001+09:002024-03-11T01:03:20.662+09:00礼拝メッセージ「慰めの神」ヨハネの福音書20章11-18節 大頭眞一牧師 2024/03/10<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/hX3PdjQUxi4" width="320" youtube-src-id="hX3PdjQUxi4"></iframe></div><br />信じたヨハネ。けれども「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」(11a)。そのマリアにも信じさせてくださった主イエスのみ声を、今朝も聴かせていただきましょう。<p></p><h4 style="text-align: left;">【御使いではなく主イエスが】</h4><p>主イエスの墓でひとりで泣き、自分を慰めたいと願ったマリア。けれども墓は空。マリアは絶望の涙を流していました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」(13b)と御使いたち。これは理由を訊いているのではありません。「喜びのできごとが起こった。もう悲しまなくてよい」と立ち上がらせようとしたのです。けれどもマリアは「だれかが私の主を取って行きました。」(13d)というのです。「私の主」とマリアが呼ぶのは主イエスの遺体。死んだイエスがマリアの主なのです。マリアは墓の外にいます。墓の外から墓の中をのぞき込んでいます。イエスとの日々をなつかしんでいるのです。</p><p>ところがマリアの後ろから主イエスの声が響きます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(15bc)は、「あなたは遺体を探しているが、それは間違っている。わたしは生きている」という意味。そしてマリアは振り返ってイエスを見るのですが、「それがイエスであることが分からなかった」(14b)とあります。</p><p>もちろん主イエスはマリアをそのままで放っておきません。「マリア。」(16b)と呼ばれたのです。御使いたちの「女の方」ではなく、マリアを名で呼んでくださり、そのときマリアは主イエスに出会いました。私たちもまた主イエスに名前を呼ばれたひとりひとり。だから信じることがきました。主イエスにお会いすることができました。今も、主イエスは私たちの名前を呼び続けてくださっています。だから私たちはだいじょうぶなのです。信仰が揺らいだとしても。</p><h4 style="text-align: left;">【すがりついてはならない】</h4><p>ところが主イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。」(17b)と。さっきまでマリアは主イエスの遺体を探していました。自分の思うようになる遺体。遺体は動かないからです。今もイエスの体にすがりついて思うようにすることがないように、とイエスはとどめました。私たちにもあります。私たちはしばしば、「主イエスが教えたのはこれだ」と自分の理解を握りしめる。でもそんな理解は多分に自分の思いや体験に色づけされている。まるで動かない遺体を自分の思うままにするように。</p><p>ところが主イエスは生きておられます。復活されたからです。生きておられる神はやっかいです。私たちが思っているところにいるわけでもなければ、私たちが願っている通りのことをして下さるわけでもないからです。いえ、主イエスは私たちが思ってもいないところにいて下さいます。たとえば、悲しみのどん底に。たとえば、とんでもない罪を犯してしまった私たちのかたわらに。そして主イエスは、私たちが願っている以上のことをしてくださいました。災害の中であってもそこに愛し合う思いを造り出し、かえって世界の回復を進めてくださるのです。</p><h4 style="text-align: left;">【すがりつくよりも確かな】</h4><p>「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」(17c)と主イエスは重ねて言われます。復活の後の主イエスの昇天のことですが、その後ペンテコステに聖霊が降りました。主イエスはこの聖霊を待て、とおっしゃったのです。</p><p>私たちは主イエスにすがりつけたらどんなによいだろうか、と思います。主イエスが守ってくださるし、もう思考を停止してもかまわないからです。けれども、聖霊による恵みははるかに確かなものです。聖霊によるなら、私たちはいつでも、どこにいても、主イエスと共に生きることができるのです。主イエスと共に、主イエスのうちに。もうすでに。そして聖霊によって、私たちは主イエスと共に働く者とされます。もうすでに。ますます主イエスの心を知る友として、私たちの思考も感性も強められ、活き活きとされる。そして、主イエスは私たちの提案を、喜んで世界の回復のプログラムに加えてくださいます。もうすでに。</p><h4 style="text-align: left;">【神の子である私たち】</h4><p>「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(17d)の名によって、聖餐にあずかります。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「契約の血」マタイの福音書26:26-29</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書11章25節(新約P.205)</li><li>賛美:9</li><li>交読文:41 詩篇127篇(新聖歌 P.861)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:どうしてかわかるかな</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>子どもメッセージ:(明野)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書20章11-18節(新約 P.227)</li><li>説教:「慰めの神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>聖餐:(心を合わせて加わりましょう)</li><li>賛美・献金:108</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:司会者 と 報告:司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-4372886947679524662024-03-04T23:12:00.000+09:002024-03-04T23:12:00.295+09:00礼拝メッセージ「よみがえった神」ヨハネの福音書20章1-10節 大頭眞一牧師 2024/03/03<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/1vPhaYOwHT8" width="320" youtube-src-id="1vPhaYOwHT8"></iframe></div><br />主イエスが十字架で息をひきとったのが金曜日。ユダヤでは一日が日没から始まります。ですから主イエスが葬られた後すぐに、土曜日が始まりました。安息日ですから、だれも墓へ行くことはできません。そして次の日没で安息日が終わります。まだ真っ暗ですから、その夜が明け始めるのを待ちかねて、「朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(1)とあります、日曜日の朝です。<p></p><h4 style="text-align: left;">【主イエスのそばに】</h4><p>これまでもヨハネの福音書には、他の福音書と異なる記述があることをお話してきました。この個所も他の福音書では、イエスの遺体に香料を添えて丁寧に埋葬し直すために何人かの女性が墓に行ったとあります。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは一人だけです。またニコデモとアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されたイエスのお体は埋葬し直す必要はありませんでした。ですからマグダラのマリアは、ただ主イエスにそばにいたかった、墓で悲しみに浸り、涙を流したいと願ったのでした。私たちまた大きな痛みに出会うとき、ひとりで涙を流したいと思います。そうすることで、しだいに癒され、喪失を受け入れ、少しずつ前に進んで行くことができるようになるからです。</p><h4 style="text-align: left;">【走り出す!】</h4><p>ところが墓の入口をふさいでいる大きな石が取りのけられている見たマリアは動揺します。そして走り出します。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行って」(2)と。知らせを受けたペテロとヨハネも走り出します。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」(4)とありますから、ヨハネはペテロよりも早く着いたのですが、ペテロの到着を待ちます。そんなことをするぐらいなら、ペテロのスピードに合わせて走ればよさそうなものですが、ヨハネは力いっぱい走りました。墓にはいない主イエスに向かって。愛ゆえに。愛ゆえの疾走。こうして静かなはずだった日曜日の朝は、だれの予想も超えた騒ぎになりました。イエスを愛する者たちが一斉に走り出したのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【理解する前に愛ゆえに】</h4><p>墓に着いた彼らは「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」(6-7)のを見ました。そこに主イエスのお体はなかったのです。もぬけのからだったのです。マリアは「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)と言いましたが、これが当然の反応でしょう。死体がなければ、だれかが動かしたのだろうと考えるのが常識です。けれども、「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」(8)とあります。ヨハネは信じたのです。主イエスがよみがえって生きておられることを。次の節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)とありますから、ヨハネは頭でわかったのではありません。頭ではなく、心で、存在で、主イエスの復活を知ったのでした。このとき信じたのは、マグダラのマリアでもなく、弟子筆頭のペテロでもなく、ヨハネだけでした。ヨハネは「イエスが愛された弟子」と呼ばれています。ヨハネがイエスの復活を知ることができたのはイエスに愛されたからでした。マリアやペテロはイエスに愛されていなかった、といういのではありません。イエスの愛がイエスの復活を信じさせる、そのことが語られているのです。</p><h4 style="text-align: left;">【走り出せ!】</h4><p>ですから私たちはイエスの復活を信じています。理解できないのですが信じている。それは私たちが信仰深いからでも、霊的にすぐれているからでもありません。ただ、主イエスが私たちを愛してくださって、私たちにどうしてもご自分が生きておられることを知らせたて、理解できない私たちの存在に働きかけ、働きかけ続けてくださっているのです。信仰とは今も続いている神さまの働きかけです。そんな復活の光の中を私たちも走り出しました。今週も走っていきます。仲間とともに、愛に向かって。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「一番大切な戒め」マタイの福音書22:34-40</li><li>※中高科はグループ聖書研究</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書11章25節(新約P.205)</li><li>賛美:7</li><li>交読文:40 詩篇126篇(新聖歌 P.860)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:105</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書20章1-10節(新約 P.227)</li><li>説教:「よみがえった神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>聖餐:</li><li>賛美・献金:102</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-11888195402698025742024-02-25T22:48:00.001+09:002024-02-25T22:59:26.323+09:00主日礼拝メッセージ「葬られた神」ヨハネの福音書19章38-42節 大頭眞一牧師 2024/02/25<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/hGfpBMRFQv4" width="320" youtube-src-id="hGfpBMRFQv4"></iframe></div><br />十字架で息をひきとった主イエスの葬り 。この日、神が、人となられた神が、 死んで葬られたのでした。神が死ぬことは無理です。けれども神はその無理を押して死んでしまわれたのでした。私たちのために。<p></p><h4 style="text-align: left;">【アリマタヤのヨセフ】</h4><p>「その後で(イエスの脇腹が槍で突き刺された後で)、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。 」 (38)とあります。ルカの福音書によればこのヨセフは「議員の一人」 (ルカ 23:51)すなわち裁判所を兼ねた議会である最高法院の一員でした。ルカは「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。 」(ルカ23:52)と記していますから、このヨセフは裁判で主イエスの死刑に反対しました。</p><p>ところがヨハネは最高法院でのこの裁判についてはなにも 語っていません。そして「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ 」 と 記すのです。ヨセフは勇気をふりしぼってイエスの死刑に反対しました。でも自分がイエスの弟子であることは隠していました。ヨハネはそこにあった恐れを見逃さないのです。</p><h4 style="text-align: left;">【ニコデモ】</h4><p>アリマタヤのヨセフといっしょに主イエスを葬ったニコデモもまた恐れゆえに主イエスの弟子であることを隠していました。ニコデモは「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 (ヨハネ 3:2)と言いました。主イエスは神から来た、神がともにおられるお方だと知っていました。けれども、彼が来たのは夜。人びとの目を恐れて。 ヨハネは「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」 (39)と ニコデモの恐れも 見逃さないのです。</p><h4 style="text-align: left;">【葬られた神】</h4><p>恐れていた二人、アリマタヤのヨセフとニコデモは、けれども、白昼、人びとの前に姿をさらしました。ニコデモは「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持って」。これが 32 キログラムにもなります。そんなものをかついで来たのです。マタイによればこの墓はアリマタヤのヨセフのもの。ヨセフは自分の墓に主イエスを葬ったのです。こうして二人はついに自分たちが主イエスの弟子であることを明らかにしたのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【恐れからの解放】</h4><p>この二人はなぜ恐れから解放されたのでしょうか。悔い改めたからとか、祈ったからとか、私たちは何か理由を知りたいと思います。そしてその手段の通りにしようと思います。けれども、いつも 申し上げる通り、主語は神さま。私たちが何かをしたからではなく主イエスが恐れを取り去るのです。恐れは、神への愛と信頼を揺らがせます。</p><p>恐れは、人と人との交わりをさまたげ、心のつながりを奪い、愛を失わせます。人を受け入れ、理解し、共感することができなくなり、疑心暗鬼が生まれます。人から批判され、責められているという思いが私たちの心を支配し、そのために、逆に、人を批判し、責める思いが募ります。</p><p>だから 神は人となって来てくださいました。何度も何度も何度も読む箇所ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 」(へブル 2:14-15)。神は私たちを、神との交わりが損ねられ、人との交わりがさまたげられたままで放っておくことがおできになりませんでした。それゆえどこまでもご自分を与えてくださいました。十字架で死に、葬られた神!</p><p>私たちはこの解放にすでにあずかっています。ですから恐れに捕らえられるときに、たがいに思い出させ合うことができます。もはや恐れはその元凶である悪の力とともに滅ぼされ、今あるのはその残滓(のこりかす)に過ぎないことを。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>聖書: マタイの福音書21:1-11</li><li>お話: 「エルサレム入城」村島健一郎神学生</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書3章16節(新約 P.180)</li><li>賛美:4</li><li>交読文:39 詩篇122篇(新聖歌 P.860)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>証し:</li><li>賛美:117</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書19章38-42節(新約 P.226)</li><li>説教:「葬られた神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:342</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-843816071820301302024-02-18T17:39:00.001+09:002024-02-18T22:25:05.877+09:00主日礼拝メッセージ「突き刺された神」ヨハネの福音書19章31-37節 大頭眞一牧師 2024/02/18<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/pDEA61plDrc" width="320" youtube-src-id="pDEA61plDrc"></iframe></div><br />このところの説教題はなんとも言えないものが続いています。「捕らえられた神」「むち打たれた神」「十字架に架けられた神」「渇く神」そして今朝は「突き刺された神」これらは、みな私たちの神がどのような神であるかを突きつけ、その愛へと招きます。<p></p><h4 style="text-align: left;">【折られなかった脚】</h4><p>ヨハネによるならば十字架は安息日の前日。この日の日没からは安息日です。十字架に架けられた死体は汚れたものと考えられていたので、ユダヤ人たちは埋葬を急ぎました。そんなときには死期を早めるために、脚の骨を折ることが行われていたようです。</p><p>ところが「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」(33)とあります。他の二人はまだ息があり、脚を折られたのですが。ヨハネはこれについて「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するため」と記します。ここで言われている聖書は出エジプト記12章でしょう。過越の小羊の食し方について「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(46)とある箇所を指していると考えられます。ヨハネはここで主イエスが過越の小羊であることを、その死によってすべての人を救うことを明らかにしようとしたのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【救いの四つ顔その4「癒し」】</h4><p>救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、これまで「和解」「赦罪」「解放」と語ってきました。今朝は、「治癒(癒し)」。これは「きよめ(聖化)」と深いかかわりがあります。「和解」「赦罪」「解放」がなしとげられてとして、では私たち自身は変わることがないのでしょうか。罪を犯し続けるしかないのでしょうか。</p><p></p><blockquote><p>聖書は、罪を病としても捉えています。これは特に、ギリシャ正教やロシア正教で強調されるイメージです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)とあります。この見方は十字架だけではなく、イエスの生涯全体を一連の救いのわざと考えます。受肉(神が人となること)によって、無限の神が有限な人間の苦悩を身にまといました。そして罪に病む人間の存在を自分の中に引き受けて癒すのです。誕生から幼児期、青年期、壮年期そして死にいたるまでの全生涯において、人がどっぷり漬かっている罪という病をイエスが引き受けました。イエスを受け入れる人を、毒に対する血清を受けた人になぞらえることができるでしょう。人はみな罪に冒され病んでいます。その病をイエスが癒して健やかにし、その健やかさに私たちを与らせるのです。</p><p>以上、新約聖書にある四つの主な贖いの側面を見てきました。どの見方にも共通していることがあります。それは罪によって損なわれたものを、神自身が犠牲を払って回復させること。その動機は愛であって、その愛は十字架の滅びをも厭わない愛であることです。神と人とを一つにするために十字架はどうしても必要だったのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本90-91ページ)</p></blockquote><p></p><p>病人には自分の病がどのようにして生じたのかわかりません。癒されたときも、その癒しがどのようにして起こったのかわかりません。罪という病もまた、私たちの理解と許容量を超えた悲惨で、根深く、処置のしようがないものです。けれども患者にはわからなくても、医師はその病を知って治療します。主イエスは医者です。名医です。私たちのすべての病を、傷を、問題をすべてご存じで、その上で引き受けて癒してくださいました、癒してくださっています、癒し続けてくださいます。医師とのちがいは、医師が感染防護服やマスクに身を包んでいるのに対し、主イエスはご自分で罪という病を引き受けてくださったことです。そして私たちのために突き刺されてくださいました。そのお方が神であることを、突き刺された神であることを、私たちは深い痛みと、その奥から湧き上がるほのかな喜びをもって語り合います。語り合い続けます。いのち果てるまで、果てたならばなおさらに。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(<span style="text-align: left;">ワーシップ:「変わらぬ愛(オリジナル曲)」Bless</span>)</b></div><div style="text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/sMhDTdJNzZA" width="320" youtube-src-id="sMhDTdJNzZA"></iframe></div></div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び⑦「さまざまなキリスト教の教派」</li><li>お話:大頭眞一牧師</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書3章16節(新約 P.180)</li><li>賛美:170(2回)</li><li>交読文:38 詩篇119篇(新聖歌 P.859)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>ワーシップ:「変わらぬ愛(オリジナル曲)」Bless ※事前録画</li><li>賛美:115</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書19章31-37節(新約 P.226)</li><li>説教:「突き刺された神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:376</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-32615995628445448332024-02-12T00:24:00.001+09:002024-02-12T00:24:09.698+09:00当教会の Bluesky アカウントを開設しました(関連サイトも合わせてお知らせします)<p>このほど、当教会の Bluesky アカウントが開設されました。</p>
<ul>
<li>京都信愛教会 Bluesky (当ブログやYouTubeの更新情報)<br /><a href="https://bsky.app/profile/shin-ai.net">https://bsky.app/profile/shin-ai.net</a></li>
</ul>
<p>合わせて、当教会の関連サイトを案内いたします。</p>
<ul>
<li>礼拝メッセージや特別賛美などの動画 (Youtube)<br /><a href="https://www.youtube.com/user/kyotoshinai/videos">https://www.youtube.com/user/kyotoshinai/videos</a></li>
<li>京都信愛教会 Twitter (当ブログやYouTubeの更新情報)<br /><a href="https://twitter.com/kyoto_shin_ai">https://twitter.com/kyoto_shin_ai</a></li>
<li>京都信愛教会 Bluesky (当ブログやYouTubeの更新情報)<br /><a href="https://bsky.app/profile/shin-ai.net">https://bsky.app/profile/shin-ai.net</a></li>
<li>京都信愛教会 Instagram<br /><a href="https://www.instagram.com/shinainsta/?hl=ja">https://www.instagram.com/shinainsta/?hl=ja</a></li>
<li>明野キリスト教会 (大頭眞一牧師が兼任)<br /><a href="https://akeno.jccj.or.jp/">https://akeno.jccj.or.jp/</a></li>
<li>日本イエス・キリスト教団 (当教会所属)<br /><a href="https://jccj.info/">https://jccj.info/</a></li>
<li>PBA/太平洋放送協会 (TV「ライフ・ライン」/ラジオ「世の光」)<br /><a href="https://www.pba-net.com/">https://www.pba-net.com/</a></li>
<li>キンゾウじいさんの聖書人生相談 (Youtube, 当教会出身教団引退牧師)<br /><a href="https://www.youtube.com/@user-io3ds7ih4h">https://www.youtube.com/@user-io3ds7ih4h</a></li>
</ul>
<p>どうぞご利用ください。</p>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-27749998125266490702024-02-11T23:54:00.001+09:002024-02-11T23:54:08.020+09:00主日礼拝メッセージ「渇く神」ヨハネの福音書19章25-30節 大頭眞一牧師 2024/02/11<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/oz-6AyRy4Lk" width="320" youtube-src-id="oz-6AyRy4Lk"></iframe></div><br />十字架で息を引き取られたイエス。ヨハネはその最後の言葉が「完了した」であり、先立つ言葉が「わたしは渇く」であったと記します。今朝は、この二つの言葉の間に起こったできごとを聴き取ります。<p></p><h4 style="text-align: left;">【渇く神→完了した神】</h4><p>酸いぶどう酒を受けたイエス。けれどもイエスの渇きは肉体の渇きだけではなかったでしょう。そこには神であるイエスが人となって、この世に来られた目的、すなわち三つの破れの回復、そこに渇いておられました。神と人との破れ、人と人との破れ、人と被造物の破れ、がそれです。</p><p>けれども破れの繕いは十字架の上で成し遂げられました。完了しました。至聖所の幕は上から下へと裂けました。神と人との関係が回復されたのです。また、さきほど読んでいただいた27節に「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」とあります。神の家族として生きる教会、人と人との関係の回復です。被造物との関係の回復もそこから始まりました。</p><p>始まったこれらの回復は今も続いています。だから「完了した」というのは言いすぎだと感じられるかもしれません。けれども、完了したことがひとつあります。それは私たちを破れの中に閉じ込めようとする悪の力からの解放です。</p><h4 style="text-align: left;">【救いの四つ顔その3「解放」】</h4><p>救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週、先々週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは解放。</p><p></p><blockquote><p>人はみな罪の中にあります。罪とは、あの罪この罪というように数え上げることができるものというよりは、神を離れた存在のあり方そのものです。罪から離れようと思っても離れることができず、愛そうと思っても愛することができない理由がそこにあります。私たちを罪に縛りつけている力があると聖書は教えています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」。(へブル2:14〜15)</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEixqFiIhaLnql7SQpWiSjDSntY8j-iJJ7clNNOd0tcfEOwhaKcTgQBzI9TRK780PCfz_9ob-ZJ9vfEnuYl8CrXbSqtXN_R5MjGC6e4uGym-IY7f1hzNmi4-diaO80indbBY8ZazQJ_sHLqGsJuarO5pNnuaARKac1_5s9TJdPOlODvZvJ3rHU8svxe0tWJT/s398/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-02-11%20232756.png" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="259" data-original-width="398" height="130" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEixqFiIhaLnql7SQpWiSjDSntY8j-iJJ7clNNOd0tcfEOwhaKcTgQBzI9TRK780PCfz_9ob-ZJ9vfEnuYl8CrXbSqtXN_R5MjGC6e4uGym-IY7f1hzNmi4-diaO80indbBY8ZazQJ_sHLqGsJuarO5pNnuaARKac1_5s9TJdPOlODvZvJ3rHU8svxe0tWJT/w200-h130/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-02-11%20232756.png" width="200" /></a></div>罪の奴隷であった私たち。死は罪の結果ですから、私たちは死に支配された死の奴隷でもありました。奴隷というのは主人の強い力に支配されている者たちです。そのように自分よりも強い罪と死という悪の力の支配の下にあった私たちを、十字架が解き放ちました。それは暴力による解放ではありませんでした。逆に罪と死の力の暴力が、イエスに対して費やし尽くされることによる解放だったのです。こうして解放された者たちは、イエスと同じように生きることへと招かれています。悪に対して悪で酬いず、罪の連鎖を自分でとどめ、かえって悪に対して愛をもって酬いて生きる生き方です。そのためには人と自分を比べて優越感や劣等感を抱いたり、それを跳ねのけるために自分を駆り立てて生きる罪深い習慣が妨げとなります。神に愛され、神に受け入れられている恵みに安心して生きる習慣へと移ることが必要なのです。これには時間がかかるかもしれません。けれども、イエスを受け入れるとき、その人の中にはこの変化がすでに始まっているのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」89-90ページ)<br /><p></p></blockquote><p></p><p>このことは神さまの長い間の願いでした。創世記3章14節で、神はヘビが象徴する悪の力に対して宣言されました。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と。世界の始まりから抱いておられたこいの願いを、ついに神ご自身が人となって、十字架の上で完了してくださったのでした。</p><p></p><blockquote>アメリカでは1862年9月、リンカーンによって奴隷解放宣言が出されました。けれども自分が自由であることを、長い間信じることができなかった奴隷たちが多くいたそうです。イエスによる「神の国」の宣言についても同じことがあり得るのです。新しい時代が始まったことに気づかないでいることも、大いにあり得るのです。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」79ページ)</blockquote><p></p><p>主イエスによる悪の力からの解放を私たちが忘れることのないようにと願います。私たちの家族や友人、地域の方がたも一人残らず、この解放を知らないでいることがないようにとも。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「金持ちの青年の悲しみ」マタイの福音書19:16-26</li><li>※中高科はグループ聖書研究</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書3章16節(新約 P.180)</li><li>賛美:2</li><li>交読文:37 詩篇119篇(新聖歌 P.858)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:231</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書19章25-30節(新約 P.226)</li><li>説教:「渇く神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>聖餐:</li><li>賛美・献金:355</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム(左上に掲載):大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-2339103143451595462024-02-05T00:38:00.001+09:002024-02-05T00:38:49.107+09:00主日礼拝メッセージ「十字架に架けられた神」ヨハネの福音書19章16b-24節 大頭眞一牧師 2024/02/04<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/b9Ks3utCCwc" width="320" youtube-src-id="b9Ks3utCCwc"></iframe></div><br />いよいよ十字架。十字架に現れた神さまの恵みの一端を今日も受け取らせていただきます。<p></p><h4 style="text-align: left;">【主ひとり】</h4><p>他の福音書では、ゴルゴタへ向かう途中で、シモンという人が主イエスの十字架を無理やり担がされたと語られています。ところがヨハネはそれを語らず「自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた」(17)と記します。ヨハネの意図は、主イエスが<u>おひとりで</u>十字架を、つまり<u>おひとりで</u>すべての人の苦しみを、引き受けられたことを明らかにすることでした。</p><p>私たちは十字架の救いにも条件があるかのように考えがちです。私たちがちゃんと罪を悔い改めなければ救われないとか、私たちがしっかり信じなければ救われないとか。けれども私たちには、思い出すことができない罪がたくさんあります。また、思い出した罪もその重大さをどれほどわかっているか、心もとないものです。私たちの信仰もしばしば揺るぎます。ときには主イエスを見失ってしまったように思うことも。しかし主イエスはおひとりで十字架を引き受けました。おひとりで、私たちに悔い改めを、信仰を造り出したし、造り出しているし、造り出し続けるのです。</p><h4 style="text-align: left;">【ユダヤ人の王】</h4><p>主イエスの十字架の上には罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」(19b)と。ここでもヨハネは他の三つの福音書とちがって「ナザレ人」の一句を記しています。主イエスが人となったのは事実でした。神が、ナザレという町にほんとうに生き、実際の人としての悲しみ、喜び、苦しみを経験したのでした。</p><p>そしてこれもヨハネだけが「それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」(20b)と記します。ユダヤ人のへブル語、ローマ帝国のラテン語、地中海沿岸世界の共通語であるギリシア語。つまり世界のすべての人に対して、主イエスがユダヤ人の王であること、つまり神がアブラハムに約束された、世界すべての人の救い主であることを宣言しているのです。私とあなたとそしてすべての人の。</p><h4 style="text-align: left;">【救いの四つ顔その2「赦罪」】</h4><p>救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは罪の赦し。ルターによるなら「罪とは自分の内側に折れ曲がった心」。神への愛、他者への愛からそれて自分に向かう私たちの心のありようが罪。引用します。</p><p></p><blockquote><p>では神は人が犯してきた罪をただ見過ごされるのでしょうか。そうだとするなら神は虐げられた者たちの叫びに対して耳を閉ざすお方なのでしょうか。もちろん神はそんなお方ではありません。神は私たちよりも、はるかに正義を愛します。悪がはびこるのを許しません。このことは私たちには両刃の剣となります。なぜなら私たちは罪を犯してきたからです。神が正しいお方であるならば、私たちが傷つけてしまった人々の心の痛みや、私たちが愛を出し惜しんだゆえの人々の悲しみをそのまま見過ごすことはなさらないでしょう。私たちは自分の罪を償わなければならないのです。ところがここに問題があります。私たちには罪の償いをすることができません。もっている財産のすべてや命を差しだしたところで、すでに犯してしまった罪の償いとすることはできないのです。</p><p>イエスが十字架上で発したもう一つの言葉は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)です。この問いに父なる神は完全な沈黙を貫きました。イエスという子なる神が見捨てられたのです。見捨てたのは父なる神。神に見捨てられるということは、永遠の滅びを意味します。滅びとは絶望です。愛も交わりもないばかりか、いつか絶望が終わるという希望もない絶望が滅びです。宇宙船で船外活動をしている宇宙飛行士を考えてみてください。事故で彼と宇宙船をつないでいたロープが切れてしまったらどうでしょう。彼はどこまでも宇宙船から遠ざかっていきます。宇宙の彼方へとどこまでも。もう愛や交わりの中に戻ることができる見込みのない絶望の中で。滅びとは、血の池や針の山といったものではなく、神から切り離される絶望なのです。</p><p>ただし、この絶望は神が望んだものではないことを忘れてはならないでしょう。すでに見たように神は和解の手を差し伸べています。この手を払いのけ続け、拒み通した者だけが滅びます。ですから滅びは自分で選び取るものです。神を選ばないということが滅びを選ぶことです。私たちの意志に反して私たちを救うことは神にもできないのです。また、「結局のところ、イエスは3日後に復活した。だからイエスの経験した滅びは、みせかけ。本当の滅びではないのではないか」と考える人もいるかもしれません。けれども後に復活するからといってこの滅びが茶番だとは言えません。イエスの三日間の滅びは、その中では復活の望みも断たれてしまう絶望であったにちがいないからです。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDvgjGbUkK3CZID-qBvHY4sSa0_AtR5HxZgjZrUO6qgsOfes3w1KTikckbGxRYjjfjsQySulp6_k0WfSBTkNEMobQLDam7kyhYjCFQUmR_wy977GojMar3xAEEvHTyoe2DwLLcIriqp4ENz4TWA7EfVEKZx3pafGFrerINXikqlNkC2kL7LI5vJERBpYMb/s360/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-02-04%20225920.png" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="309" data-original-width="360" height="190" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDvgjGbUkK3CZID-qBvHY4sSa0_AtR5HxZgjZrUO6qgsOfes3w1KTikckbGxRYjjfjsQySulp6_k0WfSBTkNEMobQLDam7kyhYjCFQUmR_wy977GojMar3xAEEvHTyoe2DwLLcIriqp4ENz4TWA7EfVEKZx3pafGFrerINXikqlNkC2kL7LI5vJERBpYMb/w221-h190/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-02-04%20225920.png" width="221" /></a></div>こうして子なる神は、父なる神に見捨てられて滅びました。本来、滅びなければならないのは私たちでした。けれども、私たちが滅びることに耐えることができない神は、私たちの代わりにご自分で償いをしてくださいました。イラストが助けになるかもしれません(イラスト参照)。父の審きである断絶の剣が盾に突き刺さって防ぎ止められています。盾がかばっているのは罪人である私たち。その盾に描かれている十字架、この十字架には子なる神が架けられています。父なる神が子なる神を見捨てることによって、いわば自分を罰することによって私たちを赦したのでした。(「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」88-89ページ)<br /><p></p></blockquote><p></p><p>赦された私たち。たがいに赦し合いながら、この救いのいのちを喜びます。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「子どものように」マタイの福音書18:1-5</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書3章16節(新約 P.180)</li><li>賛美:1</li><li>交読文:36 詩篇116篇(新聖歌 P.857)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:あいをください</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>子どもメッセージ:(明野)大頭眞一牧師</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書19章16b-24節(新約 P.225)</li><li>説教:「十字架に架けられた神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>聖餐:(心を合わせて加わりましょう)</li><li>賛美・献金:349</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-48044650502196437812024-01-28T23:50:00.001+09:002024-01-28T23:50:49.756+09:00主日礼拝メッセージ「むち打たれた神」ヨハネの福音書19章1-16a節 大頭眞一牧師 2024/01/28<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/BcWZ5wQC_KA" width="320" youtube-src-id="BcWZ5wQC_KA"></iframe></div><br />また、心が痛む説教題にしてしまいました。語るのもつらい箇所です。けれどもやはり目をそらしてはならないとも思うのです。十字架こそが神の私たちへの愛のクライマックスなのですから。<p></p><h4 style="text-align: left;">【この人を見よ】</h4><p>他の福音書では、イエスのむち打ちは、十字架の死刑判決の後です。ところが、ヨハネは裁判の始まる前に、ピラトの命令で行われたと記します。ピラトはイエスが無実だと思っていましたから、むち打たれボロボロになったイエスの姿をユダヤ人たちに見せ、「もう十分だ」と思わせて、イエスを釈放しようとした。これがヨハネの言おうとしているところです。ところがユダヤ人たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」(6a)と叫びます。ピラトは「私にはこの人に罪を見出せない。」(6c)と言い、「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」(12a)のですが、結局は十字架刑に同意してしまったのでした。</p><p>ピラトの言葉「見よ、この人だ。」(5c)は、もともとは「このみじめな男をみろ、ボロボロじゃないか。十字架に架けてもしようがないから、ゆるしてやれ」という意味でした。けれどもキリスト教会はピラトの言葉に、ピラトが思ってもいなかった真実を見出したのでした。それをよく表すのが、新聖歌99「馬槽の中に」です。4節「この人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ」。この人を見よ、このボロボロのみじめな男を。なんとこの男は神! ぼろぼろの神、むち打たれた神。私たちのためにボロボロになることをいとわない神、私たちのためにむち打たれることをいとわない神。この神を見よ、この神を受け入れよ、この神とともに生きよ、と。</p><h4 style="text-align: left;">【見よ、神の子羊】</h4><p>いよいよ主イエスの裁判が始まりました。ヨハネはここで「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時(正午)であった。」(14b)と記します。過越の備え日、すなわち過越の小羊を屠り、過越の食事の準備する日の午後に、主イエスは十字架に架けられたのでした。まさに過越の小羊が殺される時間。思い出されるのは、かつてバプテスマのヨハネが主イエスについて語った「見よ、神の子羊」(ヨハネ1:36)です。ヨハネは一貫して、主イエスは過越の小羊だと記します。過越の小羊によって、イスラエルの民のエジプトでの奴隷の苦しみからの解放、救いが実現しました。そのように、主イエスの十字架と復活によって私たちの救いも実現したのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【救いの四つ顔その1「和解」】</h4><p>主イエスが十字架と復活によってなしとげてくださった恵みは巨大です。私たちにはその全体を知ることはできません。それでも教会は、二千年の歴史を通してさまざまな恵みを発見してきました。そのうちの主な四つを、一年12回で聖書を読む会のテキスト「聖書は物語る一年12回で聖書を読む本」に載せています。今日はそのうちの第一番めのものを取り上げることにしましょう。</p><p></p><blockquote>それは、「神と人との交わりの回復の十字架(和解)」です。神が人を創造した目的は、人と愛し合い、喜び合うため。けれども、この愛の関係は人が神に背を向けたために損なわれてしまいました。これまで何度も、最初の人の名前「アダム」は固有名詞ではなく、「人」という意味の普通名詞だと申し上げてきました。ですから聖書によれば人はみな神に背を向けており、神との関係が損なわれています。神には、このままで私たちを放っておくことができません。そうするには神はあまりに愛に満ちているからです。けれども、私たちにはそんな神の愛がわかりません。目で見ることができるならば、わかるかも知れないのですが……。いったい、どこで神の愛を見ることができるのでしょうか。それが十字架です。十字架に架けられたイエスは神。父なる神とは区別される子なる神。人となった神です。この神が十字架の上で発した言葉の一つが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)です。自分の苦しみを省みず、人のためにとりなす神の姿がここにあります。イエスのとりなしは、自分を十字架に架けたユダヤ人やローマ人のためだけではありません。神に背を向けているすべての人のためのとりなしです。このとりなしの愛を知るときに、人は心を開いて、神との関係を回復することを望み始めます。和解はすでに神から差し出されています。神の愛の迫りを知るときに、人は心を開き始めます。その和解を受け入れ始めるのです。強いられてではなく、愛にとかされて。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)とあります。この幕とは神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕です。この幕の中の至聖所には大祭司が一年に一回入る以外はだれも入ることは許されていませんでした。そこは神が人に会う場所とされていました。けれどもイエスの十字架の死と同時に隔ての幕は裂かれました。このことは神と人との和解が可能になったことの象徴です。(同書87-88頁)<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgv8Fsg5m5U-O-XQfOSuyNg9uM05Nsd75Kkh6p49fd6TWlTb_fUw6V6UTwRcUIZZmWopckDFBO2EfkFMjWYMbs0tnBEaPDmnSg8lM98Kv012sN9HH5rZ_bHDXhZs-UBXKKykdYjVj5YoC-xwxO0ltdVZ3VLPgm43ed1SnV8-tAuxm5bgOWmya1BQql8VvEu/s469/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-01-28%20222949.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="160" data-original-width="469" height="109" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgv8Fsg5m5U-O-XQfOSuyNg9uM05Nsd75Kkh6p49fd6TWlTb_fUw6V6UTwRcUIZZmWopckDFBO2EfkFMjWYMbs0tnBEaPDmnSg8lM98Kv012sN9HH5rZ_bHDXhZs-UBXKKykdYjVj5YoC-xwxO0ltdVZ3VLPgm43ed1SnV8-tAuxm5bgOWmya1BQql8VvEu/s320/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202024-01-28%20222949.png" width="320" /></a></div></blockquote><p>罪を赦すばかりか、和解さえも望み、共に生きてくださる神。人となりたる活ける神をこの朝も喜びます。</p><p></p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「山上での変貌」マタイの福音書17:1-8</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:イザヤ60章2節(旧約 P.1269)</li><li>賛美:146</li><li>交読文:35 詩篇108篇(新聖歌 P.857)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>ワーシップ:「主はわれらの太陽」Bless ※事前録画</li><li>証し:</li><li>賛美:265</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書19章1-16a節(新約 P.224)</li><li>説教:「むち打たれた神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:50</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム(左上に掲載):大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-21854569196764576342024-01-21T23:14:00.001+09:002024-01-21T23:30:41.091+09:00新年聖会礼拝メッセージ「イエスのあわれみがあるから」ルカの福音書22章54-62節 足立宏牧師 2024/01/21<p style="text-align: center;"></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/zPMtJGHhQCg" width="320" youtube-src-id="zPMtJGHhQCg"></iframe></div><br />(本日は礼拝メッセージの要約はありません)<p></p><p></p><p></p><span style="text-align: center;"><div><br /></div></span><div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><br /><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び⑥「自然災害」</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><br /><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:イザヤ60章2節(旧約 P.1269)</li><li>賛美:20</li><li>交読文:34 詩篇108篇(新聖歌 P.856)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:257</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ルカの福音書22章54-62節(新約 P.168)</li><li>説教:「イエスのあわれみがあるから」足立宏牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:385</li><li>感謝祈祷:村島健一郎神学生</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul></div>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-28257160040625219362024-01-14T18:36:00.001+09:002024-01-14T18:36:46.394+09:00礼拝メッセージ「王である神」ヨハネの福音書18章28-40節 大頭眞一牧師 2024/01/14<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/My8BBmFMnuA" width="320" youtube-src-id="My8BBmFMnuA"></iframe></div><br />新しい気持ちで始まった新年ですけれども、さっそく困難や痛みにぶつかった方がたもおられることでしょう。その中に、その中にこそ響き渡る主イエスのみ声を聴き取ります。<p></p><h4 style="text-align: left;">【ユダヤ人たちとイエス】</h4><p>「彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。」(28c)。主イエスをローマ帝国のユダヤ総督ピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちは、異邦人の家に足を踏み入れると、汚れてしまい、過越の食事ができなくなるので、中には入りませんでした。本来世界のすべての国民を神に会わせる使命のユダヤ人に歪みが生じてしまっています。</p><p>彼らとは逆に、イエスは官邸の中で、堂々とピラトに真理を語ります。ユダヤ人の憎むローマの総督をも神に会わせようとなさったのです。この朝も主イエスはすべての人を神に会わせてくださいます。罪あればあるほど。聖餐がまさにそのことを示しています。</p><h4 style="text-align: left;">【イエスとピラト】</h4><p>そんなイエスの前で、ピラトは揺れています。彼は「私はあの人に何の罪も認めない。」(38d)と言い、「あなたはユダヤ人の王なのか。」(33b)と核心をつきながらも、ユダヤ人の暴動を恐れて流されてゆきます。官邸の中からユダヤ人のところに出て(29)、中に入ってイエスを呼び(33)、再び出る(38)ピラトの姿には、ユダヤの最高権力者の権威はありません。主イエスのあわれみに気づかないゆえに、揺れるひとりのあわれな人が際立ちます。そのピラトに主イエスを静かに語り続けます。私たちにもそうしてくださり、今もしてくださっているように。</p><h4 style="text-align: left;">【真理とは何か】</h4><p>ピラトは「真理とは何なのか。」(38)と言います。核心です。けれども彼は答えを待ちませんから、真剣に主イエスに問うたのではありません。つぶやきです。ある牧師はピラトを代弁してこういう意味のことを書いています。「真理か。ひさし振りに聞いた青臭い言葉だな。そんなものはない。自分は修羅場をくぐって生きているうちに、とうの昔に、真理を問うことはなどやめてしまった。しかし、この男はなんだろう。大まじめで命の瀬戸際で真理を語っている。忘れていた何かを思い出させるような、そんな懐かしさを感じる」と。</p><p>ピラトが払いのけようとしても払い切れない真理、ピラトが心の深いところで慕う真理、それはイエス・キリストでした。この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さのすべてを取り除く主イエス・キリストこそが、真理そのものなのです。</p><h4 style="text-align: left;">【世の罪を取り除く神の子羊】</h4><p>「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:28)と、バプテスマのヨハネはイエスについて、語りました。実はヨハネと他の三つの福音書では十字架が一日ずれています。他の福音書では、最後の晩餐が過越の食事。十字架はその翌日です。けれども、ヨハネでは十字架の当日が過越なのです。ヨハネの意図は明白です。主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」、過越の小羊であることを強調しているのです。ヨハネはまた、3章で主イエスが「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と語ったことを記しています。民数記21章で荒野の旅に我慢できなくなったイスラエルが、神とモーセに逆らったときのことです。猛毒の蛇が送られ、多くの者が死ぬ。民が罪を認め、モーセが祈ったところ、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民21:8)のみ言葉があり、その通りになりました。</p><p>ヨハネは、主イエスはこの青銅の蛇と同じなのだ、主イエスを仰ぎ見る者は生きる、どんな罪にもかかわらず生きることができると、語っています。それは私たちの悔い改めが真剣であるから、ではありません。私たちには思い出すことができない多くの罪がある。直視することができない大きすぎる罪がある。弱さや愚かさにいたっては数えきれず、それらのために私たちは息もできないぐらい、ぐるぐる巻きにされている。けれども、そこに主イエスの「生きよ」とのみ声が響きます。あなたのすべての問題を、あなたのすべてのねじれと歪みをわたしが引き受けよう。わたしの王としての力、神としての力を、あなたの罪を取り除くために注ぎつくそう。そう主イエスはおっしゃり、そのために十字架に架かってくださいました。だから私たちは生きることができます。愛する自由に解き放たれて。そのことの証しである聖餐にあずかります。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「ペテロの信仰告白」マタイの福音書16:13-20</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:イザヤ60章2節(旧約 P.1269)</li><li>賛美:141</li><li>交読文:33 詩篇104篇(新聖歌 P.855)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:どうしてかわかるかな</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>子どもメッセージ:(明野)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書18章28-40節(新約 P.223)</li><li>説教:「王である神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>聖餐:(心を合わせて加わりましょう)</li><li>賛美・献金:239</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-84855501974795526302024-01-08T09:21:00.001+09:002024-01-08T09:21:10.403+09:00礼拝メッセージ「捕らえられた神」ヨハネの福音書18章12-27節 大頭眞一牧師 2024/01/07<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/SjloP4d6bu4" width="320" youtube-src-id="SjloP4d6bu4"></iframe></div><br />明けましておめでとうございます。元旦から北陸に地震が起こるという年明けになりました。けれどもやはり、このときも、どんな状況をも貫いている神さまの愛を覚えていることができるように、と思います。<p></p><h4 style="text-align: left;">【捕らえられた神】</h4><p>捕らえられた神、この説教題は衝撃です。そもそも人が神を捕らえることができるのか、神を縛り上げて、無理やり連れていくことができるのか。もちろんできないはずです。なぜなら神は人が自由にできないお方だからです。それが神の定義だからです。ところが、私たちの神は、実際に捕らえられました。「平手でイエスを打った。」(22)ともあります。私たちの神は、捕らえられたり、打たれたりする神。ですから聖書を読むことは、神の定義を、定義しなおすことです。神とは、私たちのためには、捕らえられ、打たれ、十字架に架けられることをいとわないお方なのです。</p><h4 style="text-align: left;">【神の完全、私たちの不完全】</h4><p>主イエスがまず、連れていかれたのは、アンナスのところ。ときの大祭司カヤパのしゅうとです。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(14)とあります。カヤパは、「主イエスを支持する人びとが反乱を起こしたら、ローマによってユダヤが滅ぼされてしまう。それより、主イエスを死へ追いやって反乱の芽を摘んだほうがよい」と言ったのでした。実際は主イエスはローマへの反乱を企てていたのではなく、世界が神に立ち帰り、破れた世界が回復するために来られました。ですから、カヤパの助言は的外れでした。けれども神さまは、そんな人の愚かさをも用いて、それを主イエスの死による世界の救いの預言となさいました。神さまのなさることは、完全な部品から完全な製品を作ることではありません。不完全な、たとえば欠けと弱さだらけの私たちの不完全さも、組み合わせ、生かして用いて、自在に、完全な結果を作り出すことができるお方。大胆に信頼しましょう。自分ではなく、神さまを。</p><h4 style="text-align: left;">【イエスとペテロ】</h4><p>この個所には、イエスとペテロの様子が交互に描かれています。12-14節はアンナスの前のイエス、15-18節はイエスを否むペテロ、19-24節は再びアンナスの前のイエス、25-27節は再びイエスを否むペテロ。ヨハネの意図が、主イエスとペテロを対比することにあったのは明らかでしょう。</p><p>イエスは、脅しと暴力によって従わせようとするアンナスに屈しません。「わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。」(21b)と誤りを指摘し、「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。」(23b)と諭します。打たれても「正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」(23c)といさめます。アンナスどころではない権威が、主イエスにはあります。その権威に向き合うことができずに、腰がくだけるように、アンナスは主イエスをカヤパに送るのです。</p><p>一方ペテロは、三度イエスを知らないと言います。その相手は大祭司ではありません。門番をしていた召使いの女や下役といった権威からはほど遠い人びと、そんな人びとを恐れました。大祭司(アンナスは元大祭司)を圧倒した権威あるイエスと権威なき人びとを恐れたペテロの姿は、正反対です。</p><p>先週はイエスが「わたしである」とおっしゃった箇所を読みました。神さまは人間の思いの中に納まらないお方。私たちの想像をはるかに超えた祝福を与えるお方だと。ここでもイエスは、人間の目論見を超えて、すべての人を祝福する道を歩み続けます。すべての人を祝福し続ける存在として「ある」のです。けれどもペテロは「私ではない」と言い続けます。私は弟子ではない、私はイエスといっしょではない、と。それは祝福である主イエスとの関係を否定することでした。祝福から自分を切り離すことでした。「ある」イエスと「ない」ペテロ、その断絶をつなぐのは、もちろんイエスです。</p><p>私たちもまた、主イエスを裏切ってきました。愛する者たちを愛しきれず、覆いきれなかったことも胸を刺します。ヨハネは他の三つの福音書とは違って、ペテロの涙を記していません。泣くことさえもできない絶望の中にペテロは青ざめて立ち尽くしていました。胸が痛みます。けれども、主イエスはペテロの裏切りを知っていましたから「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:31)とおっしゃっていました。</p><p>けれども「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)ともあります。ペテロの裏切りは主イエスに知られており、ペテロの裏切りのためにも主イエスは十字架に架かってくださったのでした。もちろん私たちの青ざめる罪のためにも、痛みのためにも。この愛ゆえにペテロは、やがて立ち上がり歩き始めます。泣いて悔い改めたからではなく、主イエスのあわれみゆえに。私たちもまた。何度でも、何度でも、何度でも。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「主は羊飼い」詩篇23:1-6</li><li>※中高科は3階牧師室にてグループ聖書研究です</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:イザヤ60章2節(旧約 P.1269)</li><li>賛美:166(2回)</li><li>交読文:32 詩篇103篇(新聖歌 P.854)</li><li>青年祝福祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:242</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書18章12-27節(新約 P.222)</li><li>説教:「捕らえられた神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>聖餐:</li><li>賛美・献金:300</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム(左上に掲載):大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-4261032760293028862023-12-31T23:51:00.001+09:002024-01-02T00:03:00.998+09:00礼拝メッセージ「杯を飲む神」ヨハネの福音書18章1-11節 大頭眞一牧師 2023/12/31<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/Lv81aywhxgg" width="320" youtube-src-id="Lv81aywhxgg"></iframe></div><br />今年、最後の主日を迎えました。痛みと喜びとさまざまな思いのうちに今日を迎えたおたがいです。ただひとつ、それらのすべてを貫いて、主イエスの愛が注がれていたことを思いつつ、み声に耳を傾けましょう。<p></p><h4 style="text-align: left;">【闇の力のもとに】</h4><p>マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。共通の視点から書かれているからです。それに対してヨハネは独特です。この個所でも、「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、<u>明かりとたいまつ</u>と武器を持って、そこにやって来た。」(3)に「<u>明かりとたいまつ</u>」と記しているのはヨハネだけです。夜ですから明かりは当たり前です。けれども、ヨハネはこのことによって、世界を覆っている闇の深さを際立たせようとしています。光として世に来られたイエス、そのイエスを闇の力が覆いつくそうとしています。ユダの裏切り、祭司長や律法学者たちの妬み、それらを通して働く悪の力は強大です。私たちもしばしば恐れ、しゃがみ込んでしまいます。</p><h4 style="text-align: left;">【進み出るイエス】</h4><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipDwMtRq_CqmY0C3chgQXepB3622xjH-oF2mG0lwbGoTasySl0-sTAGbUCV2hrF3KzXpv_CW8_-fiP7tf9nDipnM76uiGCiQhZpsh3m3eNWGsiVZ6fsexXvW_Xr-CjCk1ljIeJR282gRIT7axbkXV3TTIjlmNcfF2_08fQWsYwFEbbCVGE0NLos678AvOz/s297/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202023-12-31%20234855.png" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="281" data-original-width="297" height="189" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipDwMtRq_CqmY0C3chgQXepB3622xjH-oF2mG0lwbGoTasySl0-sTAGbUCV2hrF3KzXpv_CW8_-fiP7tf9nDipnM76uiGCiQhZpsh3m3eNWGsiVZ6fsexXvW_Xr-CjCk1ljIeJR282gRIT7axbkXV3TTIjlmNcfF2_08fQWsYwFEbbCVGE0NLos678AvOz/w200-h189/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202023-12-31%20234855.png" width="200" /></a></div>しかし主イエスは、闇の力に圧倒されることはありません。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた。」(4)と自ら進んで行かれました。ですから主イエスは逮捕されたというよりは、ご自分を進んで、闇の力にゆだねられたのでした。闇の力に飲まれることによって、闇の力を飲みこむために。ご自分のいのちによって、悪の力を滅ぼすために。私たちを闇の力から解放し、いのちを与えるために。<p></p><h4 style="text-align: left;">【わたしである】</h4><p>「イエスが彼らに『わたしがそれだ』と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。」(6)の『わたしがそれだ』は『わたしである』と訳したほうがよいでしょう。モーセが神さまに名前を訊ねたとき、神さまが「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エ3:14)と答えたことに由来します。モーセは、そしてイスラエルの人びとは、神の名を知ろうとしました。神を理解し、分かってしまいたい、自分の心の中にうまく収めてしまいたい、という願いの現れです。そうすれば、神さまに対してハラハラしなくてすむからです。こうやっとけば、だいじょうぶと安心できるからです。</p><p>けれども神さまは私たちの心に収められることを拒否します。世界の主人公は神さまだからです。出エジプトのように、私たちを立ち上がらせ、神さまと共に旅立たせます。私たちの想像を超えた祝福に向かって。神さまは私たちが理解できようができまいが「ある」お方です。私たちの想像を超えた喜びと祝福と共に「ある」お方なのです。</p><h4 style="text-align: left;">【地に倒れた六百人】</h4><p>ユダが連れて来た「一隊の兵士」は、ローマ兵、通常六百人ほどで、千人隊長に率いられています。イエスが彼らに「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れました。この「地に倒れる」という言葉は、クリスマスの東方の三博士がお生まれになったイエスの前に「ひれ伏した」のと同じ言葉。闇の力はイエスの前にひれ伏したのです。主イエスは神。その権威は圧倒的です。</p><p>けれども「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。」(10a)とあります。ペテロは勇敢だったのではなく、恐れのあまりわけがわからなくなって、剣を振り回したのでした。私たちも危機の中で、恐れて、自分を守ろうとして、たがいに傷つけ合います。個人のレベルでも、国家のレベルでも。</p><p>けれども、そこに主イエスのみ声が響きます。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(11c)と。「闇の力も、あなたの恐れも、今、わたしが飲み干そう、だから恐れるな。闇は十字架の上で、わたしが滅ぼす。あなたがたは、光の中を歩め。神とともに、あなたの想像をはるかに超えて『ある』神と共に。そして、この世界に、もう闇が敗れたことを、みな顔を上げて光の中を歩むことができることを告げ知らせなさい」と。</p><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「感謝の生活」コロサイ人への手紙3:15-17</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書1章9節(新約 P.175)</li><li>賛美:137</li><li>交読文:31 詩篇100篇(新聖歌 P.853)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:341</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書18章1-11節(新約 P.221)</li><li>説教:「杯を飲む神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:330</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:村島神学生</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-15654738785983050482023-12-26T00:51:00.001+09:002023-12-26T00:51:52.369+09:00クリスマス礼拝メッセージ「一つにする神」ヨハネの福音書17章20-26節 大頭眞一牧師 2023/12/24<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/i6bxu076R1c" width="320" youtube-src-id="i6bxu076R1c"></iframe></div><br />クリスマスおめでとうございます。今から2千年と少し前に、神が人となってこの世界に来られました。とても信じられないことです。さらに信じられないことに、この神は十字架に架けられて殺されました。死んで三日後に復活したのは、はるかに私たちの理解を超えています。けれども、私たちが信じようが信じまいが、私たちが理解できようが、理解できまいが、これらのことは事実だと、教会は語り継いできました。私たちはこれらを、信じようとする意志によってでもなく、理解しようとする頭脳によってでもなく、それよりはるかに大きく、不思議な、心とたましいで受け入れるのです。<p></p><h4 style="text-align: left;">【十字架の前に】</h4><p>今日の箇所は最後の晩餐の後の、主イエスの祈りの最後の部分。十字架を前に「わたし(イエス)は、ただこの人々(弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(教会、つまり私たち)のためにも、お願いします。」と。主イエスの最大の関心は、私たち。地上のご生涯の最後のときまで、主イエスは私たちを思い、私たちのために祈り、私のために、あなたのために十字架に架けられたのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【一つにする神】</h4><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDehb17NEtf1oEWeh75_wvdeXta2fCmCHezXufsCRsjbYlRoCOQw7i89_oCWFkUx109VErgZ3xhe61jqgOaCYmeEhRCT1Bje8WSJmsJHTKlJW0HX2PwmpVTgCJMRBWlWTpzTdHfPr6FckTGi6M7gzWOWwzhzYiI9a_3LWKRqS-nB_kshWk-IHnckyX2Uh_/s330/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="329" data-original-width="330" height="199" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDehb17NEtf1oEWeh75_wvdeXta2fCmCHezXufsCRsjbYlRoCOQw7i89_oCWFkUx109VErgZ3xhe61jqgOaCYmeEhRCT1Bje8WSJmsJHTKlJW0HX2PwmpVTgCJMRBWlWTpzTdHfPr6FckTGi6M7gzWOWwzhzYiI9a_3LWKRqS-nB_kshWk-IHnckyX2Uh_/w200-h199/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" width="200" /></a></div>主イエスが私たちのために祈ったのは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」(21abc)でした。二つのことが言われています。第一は、私たち、教会の仲間が一つに結ばれること。第二は、私たち、教会の仲間が三位一体の神のうちにいること。今年、しばしばみなさんにお見せした図をもう一度。父と子と聖霊の三位一体の神が愛のダンスを踊っています。救いとは何か。それは、このダンスに招き入れられ、神とともに踊り始めることです。<br /><p></p><p>悲しみ、困難、痛みのなかで、踊ることができずにしゃがみ込んでいた私たちを、神さまは立ち上がらせ、「さあ、踊ろう」と招いてくださいました。だから私たちの一致は、ただの仲良しではありません。気が合う者どうしのつきあいとはちがいます。三位一体の神の、永遠の愛の関係が、私たちの愛の一致の源であり、動力なのです。ですから、私たちがたがいに「一致しましょう」と語るなら、それは不十分な表現です。私たちは、もうすでに一致しているのです。神の愛の中で。</p><h4 style="text-align: left;">【一つになれない私たち】</h4><p>けれども、現実を見るならば、私たちがいつも一つとは言えないことも事実です。そんな経験をするときに、私たちは「聖書なんかきれいごとだ、人間なんだから、うまくいかないことがあって、当たり前だ」と思ってしまうことがあると思います。しかし、三位一体の神に似せて造られた私たちです。そして私たちの一致は、子なる神イエス・キリストの十字架によるものであることを、軽く考えてはならないと思います。キリストの十字架は事実です。キリストが私たちをひとつにしてくださったことも。</p><p>ただ、私たちが味わってきたいろいろな痛みや傷のゆえに、まだ凍りついている部分があります。愛せない人がいたり、赦せないことがあったり、自分を守ろうとして愛に欠けた言葉や思いや行動が出てしまうことも。それでもキリストが与えてくださったいのちは、私たちの凍りついた愛を解かし続けています。日々、私たちの愛は回復し続けているのです。</p><h4 style="text-align: left;">【そして世界へ】</h4><p>今日は明野キリスト教会でバプテスマが授けられます。受洗なさる方が数えてくださっていたのですが、129回の求道者会がもたれました。いろいろ話したようでも、結局は「ただ神さまが私たちをあわれんでくださった、一方的に恵んでくださった、それだけですね」と語り合ったことでした。ただあわれみゆえに、私たちを放っておくことができなくて、神が人となってこの世界へ。そして十字架へ。</p><p>それはバプテスマを受けた後も、何もかわりません。クリスチャンになったから、何かをしなければ、とか、立派であらねば、と思わないでください。今までどおり、ただ神さまの胸の中で、神さまに暖められて、凍りついた愛が解かされるままに、あふれ出るままに。置かれた場所で、神を喜び、周りの人びととともに喜ぶこと。そんな私たちを通して世界は回復していきます。クリスマスおめでとうございます。バプテスマおめでとうございます。</p><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「王なるキリストを迎える」マタイの福音書2:1-12</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書1章9節(新約 P.175)</li><li>賛美:76</li><li>交読文:30 詩篇96篇(新聖歌 P.852)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:77</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書17章20-26節(新約 P.221)</li><li>説教:「一つにする神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>証し・洗礼:</li><li>賛美・献金:75</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div><br /></div>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-28812159581077254922023-12-18T12:25:00.001+09:002023-12-26T00:52:06.479+09:00第3アドベント礼拝メッセージ「マリアに宿る神の子」ルカの福音書1章26-38節 村島健一郎神学生 2023/12/17<h4 style="text-align: left;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/QdvHo_s7ohc" width="320" youtube-src-id="QdvHo_s7ohc"></iframe></div><br />【苦しみのイスラエル・苦しみのマリア】</h4><p>ガリラヤのナザレという町に住むマリアという女性に天使マリアに告げます。「あなたは身ごもって、男の子を生む。そして、その男の子の名前はイエスと名付けられる。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれる。その子はダビデ王家の王位を継ぐ、聖なる子、神の子である」マリアも天使の言っていることが何のことかは分からなかったでしょう。マリアの関心もどんな子供かよりも、子供を宿すということに向いています。それは大スキャンダルだからです。当時のユダヤ社会で、正式には結婚していない若い女性が妊娠するなどということはあってはなりません。これはマリアには何とも酷すぎる出来事です。そして、経済的にもローマとエルサレムから搾取をされていたと言われています。マリアの生活、マリアの人生は宗教的にも、経済的にも厳しいものでした。</p><p>そこに自分の妊娠が知らされます。これ以上の試練があるでしょうか。現代の視点からは、神様はマリアにあまりにも厳しすぎるという人たちもいます。マリアは、まるで当時のイスラエルがかかえるすべての苦悩を象徴するかのようです。</p><h4 style="text-align: left;">【神の物語の始まり】</h4><p>神様はイスラエルの苦しみ、嘆きに目を留めておられました。そのようなイスラエルの中で、神はご自身の最終的な愛の物語を始められました。マリアの苦しみ、困惑もご存知でした。神様自身も苦しむマリアと共に苦しんでおられます。「マリア、すまない。でも、こうして子なる神を送らなければ、誰も救い主を信じることはできないのだ。こうしなければ、イスラエルを悪と罪と偶像礼拝という捕囚の世界から救い出すことはできないのだ」と言っておられるようです。これこそ神の最終的な被造物の救いの始まりです。これがまさに新しい出エジプトです。</p><p>イスラエルの苦しみに、神様は耳を傾け、モーセを送り、イスラエルをエジプトから脱出させました。今は、マリアを通して、イスラエルを苦しみから解き放とうとされます。これが、イスラエルの救いと解放と回復の始まりです。残念ながら、当時のユダヤ人やイエス様の弟子たちも平和はローマ帝国を滅ぼすことで得られると信じていました。</p><p>しかし、神様が私たちを救うというのは、神様の愛が民族的、社会的、性別的、経済的な境界を越えて到達し、隔ての壁を打ち壊すことです。そして、この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすことです。苦しみと悲しみが永遠に続くと思えるような状況の中で、イスラエルの人々はメシアを待ち望んでいた。マリアもその期待を感じていたでしょう。そのイスラエルの声に応えて神様は神の子、救い主、イエス様をお送りくださいました。同時に、神様もマリアを信じ、マリアに期待して、マリアと共に苦悩しながら、マリアに神の子を宿らせました。そして、マリアの応答が神の愛の物語、苦しみからの解放の物語の始まりとなります。</p><h4 style="text-align: left;">【神の平和】</h4><p>この世を支配するサタン、罪、死を打ち負かし、疲弊しきったこの世界に回復と和解をもたらすために、イエス様は世界にいらっしゃいました。世界の回復と和解、聖書はこれを平和、シャロームと呼びます。</p><p>神の子が赤ちゃんとしてマリアのお腹に宿る。象徴的です。母親のおなかは赤ちゃんが生まれるまで憩う場所です。私たちは神様を信じて、神様に平安や平和を求めます。しかし、聖書は神様も憩う場所を求めておられると言います。「わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか」(イザヤ66:1)。</p><p>神様は今も憩う場所を求めておられます。ルカの福音書では、神様の憩う場所はマリアでした。しかしマリアだけはありません。収税人、罪人、病人、女性のような当時のイスラエルでは疎外されていた人々に、神様は憩いの場所を求めました。神様は私たちを憩う所にしたいと願っていらっしゃいます。創世記の1章に書かれているような、神と神に作られたすべてのものが一緒にいて、平和と憩いに満ち溢れた世界を祝福したいと願っていらっしゃいます。神の愛の物語、世界を苦しみからの解放する物語は、マリアの応答から始まりました。世の中はまだ憩うような所ではありません。苦しみや悲しみが続きます。今神様は私たちのうちに憩う場所を見つけてくださいました。教会も私たちが神様と共に憩う場所でありたいと思います。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び⑤「戦争」大頭眞一牧師</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書1章9節(新約 P.175)</li><li>賛美:79</li><li>交読文:29 詩篇95篇(新聖歌 P.852)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>ワーシップ:「HOPE」「ヤコブの家のクリスマス」Bless ※事前録画</li><li>賛美:82</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ルカの福音書1章26-38節(新約 P.107)</li><li>説教:「マリアに宿る神の子」村島健一郎神学生 ※信愛より</li><li>賛美・献金:78</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul><br />京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-12693002873400918222023-12-11T00:52:00.003+09:002023-12-11T00:52:29.809+09:00礼拝メッセージ「とりなす神」ヨハネの福音書17章6-19節 大頭眞一牧師 2023/12/10<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/blvHCAQZdxI" width="320" youtube-src-id="blvHCAQZdxI"></iframe></div><br />待降節第二主日、明野ではろうそくが、信愛ではLEDろうそくが2本ともりました。今年はさまざまな喜びとともに、痛みも覚えた年でした。しかしこのろうそくの灯りは、たとえ暗い夜であっても、そこに主イエスがおられることを証言しています。ますます明るさを増す灯りの中で、今日も御声を聴きます。<p></p><h4 style="text-align: left;">【とりなす神】</h4><p>最後の晩餐での主イエスの祈りの二回目。弟子たちのために主イエスは祈ってくださいました。とりなしてくださいました。しかし「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」(6)、「あなたがわたしに下さった人たち」(9)とありますから、この祈りは、ペテロたちだけではなく、こうして集っている私たちのための祈りでもあります。私たちのために、私のために、あなたのために、主イエスがとりなしてくださったのです。</p><p>けれども、父と子は三位一体の神。わざわざ祈らなくても、その願いは一つで、同じであるはずです。でも、私には祈るイエスと耳を傾けるかたむける父の姿が、すぐそこに迫った十字架の悲痛に備えて、歯をくいしばって耐えようとしておられるように思えてなりません。私たちの救いという、父と子の同じ一つの望みをかみしめ、そのための十字架だと言い聞かせ合いながら。</p><h4 style="text-align: left;">【父と子の願い】</h4><p>「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(15)。これが父と子の同じ一つの望みです。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」(14b)ともあります。私たちが天国に行くように、というのではありません。私たちが、この世にあって、それぞれが置かれた場所にあって、この世のものではない生き方をすること。損なわれ、破れてしまっているこの世界の回復のために生きること。世界の破れや歪みに呑み込まれないで、世の光・地の塩として、破れを繕って生きること。それが主イエスの、そして、父の望みであり、そのための十字架でした。</p><h4 style="text-align: left;">【赦しと和解】</h4><p>「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(12)。滅びの子とは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。ユダ以外は滅びない。私たちは滅びない、だれも滅びない、そう主イエスは宣言なさいます。すでに私たちは赦されているのです。</p><p>けれども、神は、判決をくだした後は、被告人とかかわりを持たない裁判官のようではありません。赦しの後に、ほんとうの神と私たちの関係が始まります。ユダのことを思い、もし私が主イエスを裏切ったら滅びるのだろうか、と恐れないでください。たとえ私たちが不信仰になろうとも、いえ、そうなったときこそ、主イエスは私たちを守り、保ってくださるのです。そして単なる赦しではなく、私たちと和解して、私たちを神の家族として、いっしょに生きてくださいます。暮らしてくださいます。もうすでに。</p><p>「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(11c)とあります。教会に実現している和解は、三位一体に源を持ち、三位一体に似た愛の一致です。神との和解とともに人との和解もまた、すでに十字架の上でなしとげられているのです。主イエスは私たちを守り、保って、その和解を日々解き放ってくださいます。凍りついていた愛を解凍してくださっています。</p><h4 style="text-align: left;">【主イエスの喜び】</h4><p>これらすべてのことを主イエスは喜んでしてくださいました。「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。」(13)。十字架に架かろうとしている主イエスのうちには、それでも喜びがあふれていました。私たちのいのちある生き方を思って。満ちあふれる喜び! そんな喜びを私たちにあふれさせるためなら、何も惜しいと思わずに、クリスマスに人となられた主イエスを思い、今、ごいっしょに聖餐にあずかります。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「救い主誕生の預言」イザヤ書9:1-7</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書1章9節(新約 P.175)</li><li>賛美:69</li><li>交読文:28 詩篇91篇(新聖歌 P.851)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:あいをください(歌詞は裏面)</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>子どもメッセージ:(明野)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書17章6-19節(新約 P.220)</li><li>説教:「とりなす神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>聖餐:(心を合わせて加わりましょう)</li><li>賛美・献金:67</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告 (裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-8918402084858190682023-12-04T23:31:00.001+09:002023-12-04T23:31:04.889+09:00礼拝メッセージ「唯一のまことの神」ヨハネの福音書17章1-5節 大頭眞一牧師 2023/12/03<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/IqLTJrmA-_Y" width="320" youtube-src-id="IqLTJrmA-_Y"></iframe></div><br />今年もクリスマスに向かう待降節を迎えました。教会暦、教会の暦では、今日から新しい年度が始まります。私たちの歩みは主イエスを待望することから始まるのです。今日もイエスを呼びましょう。<p></p><h4 style="text-align: left;">【ご自身のための祈り?】</h4><p>最後の晩餐で主イエスが語られた言葉は16章で終わりました。17章は主イエスの祈り。5節まではご自身のための祈り、19節までは弟子たちのための祈り、20節から終わりまでが教会のための祈り。今日は、ご自身のための祈りから、主イエスのお心を聴きます。</p><p>ここで主イエスが祈っておられるのは、「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(1)です。けれども、その栄光はご自身があがめられることでもなければ、高い位につくことでもありません。そうではない不思議な栄光。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とあります。主イエスが地上で成し遂げたのは、「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与える」(2)こと。すなわち、私たちのために人となり、私たちのために十字架に架けられ、私たちのために復活して、私たちに永遠のいのちを与えることが主イエスの栄光です。</p><p>結局のところ、主イエスのご自身のための祈りは、私たちのための祈りでした。主イエスのいちばんの望みは、私たちが永遠のいのちを生きること。それが主イエスの栄光。クリスマスから十字架と復活にいたるまで、主イエスの関心はただただ私たちのいのちにありました。</p><h4 style="text-align: left;">【神が人となられた理由】</h4><p>永遠のいのちとはなにか。救いとはなにか。それは、ただ死んでから天国に行ける、というだけではありません。2世紀ごろから教会は「神が人となられたのは、人が神のようになるためである」と語り始めました。「神が人となられたのは、人が神になるためである」という表現も見られます。もちろん、人は神になりません。それにもかかわらず、このような表現が用いられたのには理由があります。</p><p>人は神のかたちに造られました。神は目に見えませんから、神のかたちは容姿ではありません。人は神のように全能ではありませんから、神のかたちは能力でもありません。</p><p>けれども「神は愛です。」とあります。神さまのもっとも神らしさは、愛し愛される愛の関係に生きることにあります。神のかたちに造られた私たちが、神のかたちを回復される。このことを教父たちは「神のようになる」「神になる」と表現しました。たがいに恐れ合い、傷つけ合う私たちが、そんな生き方から解き放たれるすばらしさ。自分と異なる人びとと受け入れ合い、自分を与え合い、覆い合って生きる、奇蹟のような生き方をそのように表現したのでした。神が人となられたのは、それ以下のことのためではありませんでした。神さまのもっとも神さまらしさである愛、その愛を私たちに満たすために主イエスは最初のクリスマスに人となってくださったのでした。これは確かにめまいがするような恵みです。</p><h4 style="text-align: left;">【主イエスの栄光】</h4><p>あまりにもすばらしすぎて、にわかには受け入れがたい恵み。けれども、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(4)とありますから、この恵みはすでに成し遂げられたのです。私たちのうちに。教会の交わりのうちに、すでに。</p><p>そして主イエスはさらなる栄光を願います。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(5)と。私たちのうちに始まった主イエスの栄光はますます輝く栄光となるというのです。私たちを通して、私たちからあふれ出して。</p><p>私たちの愛があふれ出すのをとどめている傷があるならば、私たちの愛が流れ出すのをせき止めている歪みがあるならば、主イエスはそのこともご存じです。そしてほってはおかれません。ますます私たちに愛を注ぎ、ますます仲間との愛の交わりのうちに働いて、私たちを回復させてくださいます。それがご自身の栄光だから。</p><p>今、切ないほどの主イエスの愛のうちに、そのみからだと血潮である聖餐にあずかります。私たちをいやす主イエスのいのちに。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「インマヌエル預言」イザヤ書7:1-17</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ヨハネの福音書1章9節(新約 P.175)</li><li>賛美:99</li><li>交読文:27 詩篇90篇(新聖歌 P.849)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:70</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書17章1-5節(新約 P.219)</li><li>説教:「唯一のまことの神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>聖餐:</li><li>賛美・献金:385</li><li>感謝祈祷:村島健一郎神学生</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-87397331323615994482023-11-26T17:14:00.001+09:002023-11-26T18:33:51.350+09:00礼拝メッセージ「世に勝つ神」ヨハネの福音書16章25-33節 大頭眞一牧師 2023/11/26<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/AHGmS2rtMHk" width="320" youtube-src-id="AHGmS2rtMHk"></iframe></div><br />今日の箇所は13章からの最後の晩餐での主イエスのことばのまとめのような箇所。主イエスがそのために来られ、そのために十字架に架けられた神のお心が鮮やかにされます。今日もその神さまのお心に聴き入りましょう。<p></p><h4 style="text-align: left;">【その日】</h4><p>「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」(26)とあります。父なる神と私たちの親しい交わりが実現する日です。その日とはペンテコステ。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)の実現する日です。弟子たちは「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(29-30)と答えます。これを最後の晩餐での答と考えるとつじつまが合いません。ここはペンテコステ後を生きるすべての信仰者の言葉として読むべきでしょう。私たちもまたそのひとりです。</p><h4 style="text-align: left;">【神のお心】</h4><p>イエスが最後の晩餐で語り、ペンテコステに実現した神のお心とは、私たちが「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(30b)と告白すること。主イエスが神でありながら、人となってこの世界に来られ、言葉とわざで神の国(神の愛の支配)の新たな始まりを告げ、そして、私たちの罪と責め、歪みと痛みのいっさいを十字架で担い、復活によって罪と死の力を打ち砕いて、私たちを罪と死の力からいのちへと解き放ったと告白することです。こうして私たちは父と、そして父・子・御霊の三位一体の神との親しい交わりに入れられました。</p><h4 style="text-align: left;">【散らされても】</h4><p>ところが「あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」(32b)と主イエスはおっしゃいます。これも、最後の晩餐の弟子たちだけではなく、ペンテコステ後を生きるすべての信仰者のこととして読むべきでしょう。主イエスは神だと告白した私たち。けれども、コロナによって、高齢化によって、また、それぞれのさまざまな事情によって、私たちは散らされているのを見ます。共に集まることが妨げられ、たがいの交わりが損ねられているのです。これに対して、明野では役員と有志によって「教会ニュースレター・コイノニア」が発行され、信愛ではお助け隊によってお手紙つきの週報発送が行われています。しかし、教会の交わりはただの仲良しではないことを知る必要があります。主イエスがその交わりを支えています。いえ、「しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」(32c)とあるように、主イエスとともにおられる父、そして父と子の愛の絆である聖霊が私たちの交わり、私たちの愛の絆を支えてくださっているのです。</p><h4 style="text-align: left;">【安全ではなく平和】</h4><p>「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(33)がこの個所のクライマックスです。すでに世に勝った主イエスが私たちに平安を約束しています。この平安は私たちの内側の安心・安全ではありません。キリストのいのちそのもの、世界にあふれ出すいのちです。あちこちで戦争が起こっています。ある神学者は「『平和』は『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。」と語りました。キリストのいのちは、相手を信頼すること、理解することへと私たちを踏み出させます。そして神さまと共に世界の破れをつくろわせるのです。身近なところから、じっくりと。</p><h4 style="text-align: left;">【安心しなさい】</h4><p>主イエスはそんな生き方へと、私たちを鞭打つのではありません。「勇気を出しなさい」は「心配しないでよい」とか「安心しなさい」とも訳されます。主イエスに信頼して、主イエスに安心するときに私たちのいのちはあふれます。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「日々の糧を与える神」詩篇145:8-16</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ルカによる福音書2:14(新約 P.110)</li><li>賛美:21</li><li>交読文:26 詩篇84篇(新聖歌 P.849)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>証し:(明野)</li><li>賛美:363A</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書16章25-33節(新約 P.219)</li><li>説教:「世に勝つ神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>賛美・献金:204</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム(左上に掲載):司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-16986822756608366232023-11-20T23:26:00.001+09:002023-11-20T23:26:52.898+09:00礼拝メッセージ「走り寄る神の愛」ルカの福音書15章11-32節 加藤郁生牧師 2023/11/19<p> </p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/Gyu7erjMXEs" width="320" youtube-src-id="Gyu7erjMXEs"></iframe></div><br /><p></p><br />(本日は礼拝メッセージの要約はありません)<p></p><p></p><span style="text-align: center;"><div><b>(ワーシップ 新聖歌171「今日まで守られ」 Bless)</b></div><div style="font-weight: bold;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/Pw8ylacNc1A" width="320" youtube-src-id="Pw8ylacNc1A"></iframe></div><br /><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div></div></span><div><div style="text-align: center;"><b><br /></b></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><br /><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び④「人間を探し求める神」</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><br /><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ルカによる福音書2:14(新約 P.110)</li><li>賛美:165(2回)</li><li>交読文:25 詩篇73篇(新聖歌 P.848)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>ワーシップ:171「今日まで守られ」Bless ※事前録画</li><li>賛美:209</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ルカの福音書15章11-32節(新約 P.149)</li><li>説教:「走り寄る神の愛」加藤郁生牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:176</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul></div>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-3212085830695465232023-11-13T09:31:00.001+09:002023-11-13T09:31:50.537+09:00召天者合同記念礼拝メッセージ「喜びを与える神」ヨハネの福音書16章16-24節 大頭眞一牧師 2023/11/12<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/FfpuBa6zP6s" width="320" youtube-src-id="FfpuBa6zP6s"></iframe></div><br />明野は先週、信愛は今日が、召天者記念礼拝。愛する者たちが召され、残された私たちに「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)と主イエスの御声が響きます。そう言われても、とてもそうは思えない私たちは、どうすればよいのでしょうか。<p></p><h4 style="text-align: left;">【見えない主イエス】</h4><p>主イエスがご自分の十字架と復活、昇天を語ったとき、弟子たちはそのことがよく分かりませんでした。主イエスはその弟子たちに、彼らが、そして教会が経験しなければならない悲しみを語ります。それは、やがて教会が経験する迫害もさることながら、それよりも、そんな迫害の中で主イエスが目に見えないことの悲しみです。私たちもまた、主イエスが目に見えないゆえに、「主イエスはほんとうにおられるのだろうか、主イエスの救いはほんとうなのだろうか」、と疑い、迷います。どんな信仰者であっても、です。マザーテレサを思います。</p><h4 style="text-align: left;">【再び会うイエス】</h4><p>そんな弟子たちに、主イエスは「しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(22bcd)と語ります。ここは誤解されやすいところ。やがてこの世の終わりに、主イエスが再臨するときのことだと、かん違いされることが多いのです。けれどもそうではありません。この世の終わりを楽しみに、今の悲しみに耐えなさい、というのではないのです。</p><p>主イエスは聖霊によって、今、私たちに会うとおっしゃるのです。「今、ここで。世の終わりにではなく、今、あなたがたの悲しみを喜びに満たそう。そのための十字架なのだ」と。</p><h4 style="text-align: left;">【悲しみを喜びに】</h4><p>イエスはこのことを出産の<u>苦しみ</u>にたとえます。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(21)と。この「苦しみ」という言葉は、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20d)の「悲しみ」と同じ言葉です。ですから、主イエスは私たちが今、味わっている悲しみを、単なる悲しみではなく、苦しみ、それも出産のように耐えがたい痛みをともなう苦しみだと、知ってくださっています。そして「あなたがたのその痛みをわたしがいやす。あなたの痛みを喜びに変える」とおっしゃるのです。</p><h4 style="text-align: left;">【父に求めるものは何でも】</h4><p>「そんなことを言われても」と私たちは思います。私たちの愛する者が先に召され、そんな中で私たちは、主イエスを見ることができないのですから。ましてや「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(23c)とは、どういうことか、と。「それなら、私たちの愛する者たちを返してください、そのように願えば、返してくださるのですか?!そんなことはしてくださらないでしょう。だから、そんなことは願いません」と、そのように思って、自分を納得させようとします。「神さまには、なにかご計画がおありなのだろう、私にはわからないけれど」と。</p><h4 style="text-align: left;">【痛む神】</h4><p>けれども、神はわかのわからないお方ではありません。十字架を見るなら、神は痛む神、苦しむ神です。私たちのために、私たちと共に。ですから痛みの中にあるときには、イエスはそこにおられるのです。痛みが強ければ強いほど、なお近くに。</p><p>あるカトリックの司祭が「嘆きとは、信仰の破綻ではなく、信仰から出る行為である」と言っています。なぜなら、神さまは私たちの痛みを私たち以上にご存じで、私たち以上に味わっておられるからです。神さまに手加減をする必要はありません。「神さま、どうしてですか。神さま、愛する者を返してください」と訴え続ける。そうするとき、私たちの痛みの中に、神さまが入ってくださるスペースが生まれます。あなたの痛みから、悲しみから、神さまを締め出そうとしないでください。神さまと共に痛む。神さまに痛む心を差し出す。そうするときに神さまの癒しが始まります。私たちの想像もつかない、神さまのわざが。多くの時間をかけながら、深いところで。今はとてもイメージできないけれども、喜びとしか呼びようのないいやしが。</p><p>聖餐にあずかります。この食卓には先に召された、愛する方がたもともに連なっていることを覚えつつ。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「主の再臨に備える」マタイの福音書25:1-13</li><li>※中高科は3階牧師室にてグループ聖書研究</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ルカによる福音書2:14(新約 P.110)</li><li>賛美:20</li><li>交読文:24 詩篇67篇(新聖歌 P.847)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:259</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書16章16-24節(新約 P.218)</li><li>説教:「喜びを与える神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>聖餐:</li><li>賛美・献金:216</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-91519249335596204102023-11-10T21:14:00.003+09:002023-11-13T09:33:46.219+09:00ファミリーコンサート(11/19)のお知らせ<p> <span style="color: red;">※この記事は、11/19の「</span><span style="color: red;">ファミリーコンサート」のお知らせです。</span></p><br />ファミリーコンサートが4年ぶりに帰ってきました!<br /><br />京都信愛教会の教会員や家族が、それぞれ楽器や声楽で、いろいろな音楽を奏でます。<br /><br />賛美歌を始め、クラシックやヘルマンハープまで、いろんな音楽を楽しみましょう♪<br /><br />ご家族、ご友人の方々もぜひ、お越しください!<br /><br />詳しくは、下のチラシをご覧ください。<br /><br /><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBn6ng9WXZldXsv906lBah5KNCuJlRQus9azGriXum7Yh7-MxOoZpLmXm2awsFDwU334dZKcc7NlXKqHP86l2s8Z9mKa2tF9z3iuXID904b-xZybC-N8ThQl5dZ9b-ijaJGqtp5PWSF1XmaCTG5N-Rq5NsUr-9WrYwfYkLmPOujHY6quEJtY4Z5S4S0PXM/s2339/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88_%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7_20231119.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="2339" data-original-width="1654" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBn6ng9WXZldXsv906lBah5KNCuJlRQus9azGriXum7Yh7-MxOoZpLmXm2awsFDwU334dZKcc7NlXKqHP86l2s8Z9mKa2tF9z3iuXID904b-xZybC-N8ThQl5dZ9b-ijaJGqtp5PWSF1XmaCTG5N-Rq5NsUr-9WrYwfYkLmPOujHY6quEJtY4Z5S4S0PXM/w452-h640/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88_%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7_20231119.jpg" width="452" /></a></div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><h4>■日時</h4><br />2023年11月19日(日) 13:30~15:00<br /><br /><h4>■会場・お問い合わせ</h4><br />日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会<br />京都市北区大将軍坂田町21番地12<br />TEL: (075)461-1938<br />牧師: 大頭眞一<br />※当教会は、伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。<br />京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-73466654639398634302023-11-05T22:57:00.001+09:002023-11-05T22:57:04.174+09:00礼拝メッセージ「御霊の神」ヨハネの福音書16章4b-15節 大頭眞一牧師 2023/11/05<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/s24betrtNDM" width="320" youtube-src-id="s24betrtNDM"></iframe></div><br />明野は今日、信愛は来週が、召天者記念礼拝。おりしも先週の主日、信愛の仲間がYouTubeライブで礼拝を守りながら召されていきました。悲しみでいっぱいの私たちに、主イエスは今日、何を語ってくださるでしょうか。み声に耳を傾けます。<p></p><h4 style="text-align: left;">【悲しみでいっぱいに】</h4><p>今日の聖書の箇所でも、弟子たちは悲しみでいっぱいです。「むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」(6)。弟子たちの悲しみは、主イエスが去っていかれるから。もう目で見ることができなるから。これから先は、イエスさまなしに、自分たちだけで歩まなければならない、そう思って不安と恐れの中にいるのです。私たちもそうです。イエスさまを見ることができない私たち。特に、愛する者たちが先に召されてしまうとき、なんともいえない心のざわめきを感じる私たちです。愛する者たちはどうなってしまうのか。私たちはこの人ともう会うことができないのではないか、と。再臨、復活、頭ではよくわかっていても、やはり、心はざわめくのです。</p><h4 style="text-align: left;">【聖霊が降り積もり】</h4><p>先週召された方が作詞し、配偶者の方が作曲された「Hope(希望)」という賛美があります。以前にもご紹介したことがあるのですが、その中に「私たちの上に聖霊が降り積もり」という言葉があります。聖霊が降り積もりというのは不思議な表現。聖霊は降る、というのが普通です。けれども、この表現は大切なことを教えているように思うのです。主イエスは「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(7)とおっしゃいました。そして十字架に架けられ、よみがえられ、天に昇って、聖霊を降してくださいました。でも私たちは、助け主である聖霊がすぐにはわかりません。そんな、わからない、心ざわめく私たちに聖霊は語り続けます。主イエスの愛が、私たちに沁みとおるように、降り続け、恵みを積もらせ、重ねてくださるのです。</p><h4 style="text-align: left;">【罪について、義について、さばきについて】</h4><p>心ざわめく私たちも、ふと気づくと、聖霊によって、やはり主イエスの愛を心とたましいに刻んでいただいていることに気づきます、思い出します。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(8)と、主イエスは三つの誤りを語ります。</p><p>「<u>罪について</u>というのは、彼らがわたしを信じないからです。」(9)は、罪の本質を明らかにします。それは、なにか悪いことをした、というのではありません。私たちを招いてくださっている主イエスを受け入れないこと。招かれている愛の交わりを拒絶すること、これが本当の罪です。先に召された私たちの愛する人びとは、主イエスを受け入れた人びと、本当の罪から解き放たれた人びとです。このことを喜びたいと思います。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi938q7d0gxxCbiZJ72xYIo-3rBOJZFMJH3YHhH-lA8ZegF9xVHiUnrbdMdLE7AkP-bF_XmOzqbckWZlGGcU2x1HW2kPQtSuC2d5ipZg5HJpTYkQsY_LP81J2tN8myPU5fJ_9QiZ5e-LNRrHPnLURWmyCH6VcSTqBgw2xwIaVmkObeD5kO73D88vPVsZanx/s330/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="329" data-original-width="330" height="199" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi938q7d0gxxCbiZJ72xYIo-3rBOJZFMJH3YHhH-lA8ZegF9xVHiUnrbdMdLE7AkP-bF_XmOzqbckWZlGGcU2x1HW2kPQtSuC2d5ipZg5HJpTYkQsY_LP81J2tN8myPU5fJ_9QiZ5e-LNRrHPnLURWmyCH6VcSTqBgw2xwIaVmkObeD5kO73D88vPVsZanx/w200-h199/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9.jpg" width="200" /></a></div>「<u>義について</u>とは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(10)の義は、救いの本質を明らかにします。聖書の義は正しい行いをすることではなく、神さまと正しい関係にあること。そして神さまとの正しい関係とは、愛の関係。もうおなじみの図のとおり、三位一体の神の愛の交わりの中で、神と共に、踊ること、生きることです。私たちの愛する、先に召された人びとはこのダンスに、ただ神のあわれみによって招かれ、招きを受け入れた人びとです。<p></p><p>「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(11)は、悪の力が十字架でさばかれたことを明らかにします。悪の力は私たちをかたくなにし、あるときは「自分など神の愛に値しない」と落ち込ませ、またあるときは、「自分の力でやっていける、神のあわれみなどいらない」と高ぶらせます。けれども、私たちの愛する、先に召された人びとは、悪の力から主イエスの力へと逃れた人びと。今は、主イエスの胸の中で、安全に安らいでいる人びとです。</p><p>心ざわめくときは、主イエスの十字架と復活に目を注いでください。私たちに降り積もっている聖霊が、私たちのためになにも惜しむことをされなかった主イエス愛を明らかにします。その聖霊は、私たちを放っておくことをなさらない主イエスが遣わされた助け主なのですから。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>「婚宴への招き」マタイの福音書22:1-14</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:ルカによる福音書2:14(新約 P.110)</li><li>賛美:211</li><li>交読文:23 詩篇66篇(新聖歌 P.846)</li><li>牧会祈祷:大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>賛美:233</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書16章4b-15節(新約 P.217)</li><li>説教:「御霊の神」大頭眞一牧師 ※明野より</li><li>聖餐:(心を合わせて加わりましょう)</li><li>賛美・献金:517</li><li>感謝祈祷:(明野)</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:司会者</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066tag:blogger.com,1999:blog-8914381756261748698.post-31545687095008823462023-10-29T23:19:00.001+09:002023-10-30T09:05:14.139+09:00礼拝メッセージ「証しする神」ヨハネの福音書15章26節-16章4a節 大頭眞一牧師 2023/10/29<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><iframe allowfullscreen="" class="BLOG_video_class" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/0LQB_blJezY" width="320" youtube-src-id="0LQB_blJezY"></iframe></div><br />先ほどは幸いなお証しをうかがいました。今後はだいたい毎月おひとりずつ、信愛からも明野からも、と思います。証しは、信仰の体験談だと、説明されることもあります。確かにそうなのですが、それは「自分の体験」であると同時に、とりわけ「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」そして「イエス・キリストはいかなるお方なのか」の証しなのです。<p></p><h4 style="text-align: left;">【主イエスを見ていない私たち】</h4><p>「イエス・キリストが自分に何をしてくださったか」はまだしも、「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることは難しいと思う方が多いかもしれません。なぜなら、私たちはイエス・キリストを肉眼では見ていないからです。使徒信条にあるように、主イエスは十字架に架かり、よみがえり、今は再臨のときまで、父の右におられます。十字架から二千年後に生まれた、私たちは主イエスを見たことがない。そんな私たちが「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しするのは確かに無理なことのように思えます。</p><h4 style="text-align: left;">【主イエスを見ていなかった弟子たち】</h4><p>では、イエス・キリストを肉眼で見た弟子たちはどうでしょうか。確かに彼らは、主イエスを見ていました。また時には「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。けれども主イエスが捕らえられたときには、みな逃げ去りました。「生ける神の子キリスト」と告白したペテロも三度、主イエスを知らないと言ったのです。彼らは主イエスを見ているようで、見ていなかった。ほんとうには「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を知らないでいたのでした。</p><h4 style="text-align: left;">【主イエスを見ている教会】</h4><p>ところが主イエスは不思議なことをおっしゃいます。「あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」(27)と。この「あなたがた」は12人の弟子(使徒)のことではありません。教会のことです。そもそも、ヨハネの15章からは、教会に向けて語られた言葉。最後の晩餐の場面なのですけれども、後に迫害に苦しむことになる教会に向かって主イエスが語っておられるのです。</p><p>「あなたがたも証しします」と主イエスはおっしゃる。教会は主イエスを証しすると。逃げだした弟子たちも、主イエスを見ていない私たちも、イエスを証しすると。その理由は26節。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」ペンテコステに降った聖霊によって、教会は「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができます。ペテロたち、使徒たちは、聖霊が降って、力強く証しを始めました。同じ聖霊がここにいる私たちにも遣わされています。ですから私たちは主イエスを見ていないのに、主イエスを証しすることができます。「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しすることができるのです。</p><h4 style="text-align: left;">【イエス・キリストはいかなるお方なのか】</h4><p>ですから、私たちは「イエス・キリストはいかなるお方なのか」を証しできない、などと言ってはなりません。私たちにはできます。見たことはないけれど、聖霊によって。<u>言葉は足りなくても、心と思いとふるまいで。</u>私たちを愛し、私たちをそのままにしておくことができないで、私たちのためにこの世に来てくださった神であるイエス・キリストを。私たちの傷を、重荷を、痛みを、罪を、すべて十字架で負ってくださったお方、イエス・キリストを。</p><p>先週は、才脇牧師をお招きして幸いなメッセージをお聴きすることができました。傷ついたひとりの青年に主イエスは会ってくださいました。そして、その傷をいやし、いやし続け、立ち上がらせて、「イエス・キリストは私の救い主、私のためになにも惜しむことをなさらなかったお方。私に尽きない愛を注ぎ続ける人となられた神」と証しさせてくださっているのです。</p><p>そんな証しを聴くとき、私たちのたましいも喜びの声を上げます。そんな私たちを通して、主イエスは、世界のうめきに届かれます。神と人の間が破れ、人と人との間が破れ、人と被造物の間が破れている、うめきに。イエス・キリストは世界の救い主。私を救い、私たちを救い、私たちを通して、私たちと共に働いて、世界を救う神であり、王。そして何よりも、イエス・キリストは私たちが愛するお方です。私たちもこのイエスを証しします。そして、ほんとうは証しするのは神ご自身なのです。私たちを通して、私たちと共に。</p><div><br /></div><div style="text-align: center;"><b>(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)</b></div><p><br /></p><a name='more'></a><div><br /></div><h2> 礼拝プログラム</h2><h3>■教会学校(9:30-10:15)</h3><ul><li>信仰の学び③「神さま」大頭眞一牧師</li><li>※全分級合同で3階牧師室にて</li></ul><p><br /></p><h3>■主日礼拝(10:30-11:45)</h3><ul><li>前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)</li><li>招きの言葉:申命記6章4-5節(旧約 P.325)</li><li>賛美:280</li><li>交読文:22 詩篇65篇(新聖歌 P.845)</li><li>牧会:祈祷大頭眞一牧師</li><li>主の祈り:新聖歌 P.826</li><li>証し:</li><li>賛美:260</li><li>信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)</li><li>聖書朗読:ヨハネの福音書15章26節-16章4a節(新約 P.217)</li><li>説教:「証しする神」大頭眞一牧師 ※信愛より</li><li>賛美・献金:201</li><li>感謝祈祷:</li><li>頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)</li><li>「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」</li><li>祝祷:大頭眞一牧師</li><li>カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者</li><li>祈祷:</li></ul>京都信愛教会http://www.blogger.com/profile/10990202264606158972noreply@blogger.com日本、〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町21−12 京都信愛教会35.0249381 135.72625666.7147042638211545 100.5700066 63.335171936178845 170.8825066