2015年11月29日日曜日

第1アドベント礼拝「救い主を迎える備え」

礼拝メッセージ「救い主を迎える備え」ルカによる福音書1章5~25節


長谷川和雄師


大切な人が来られるとしたら、どんな準備をしますか。掃除や食事を整えるなど様々な備えをするように、再臨の主をお迎えする準備はどうあるべきかについて、み言葉から学びましょう。

Ⅰ. ザカリヤの祈り…
ザカリヤ(「主は覚えておられる」の意)はアビヤの組(歴代志上24章参照)の祭司で、妻エリサベツは祭司アロンの家系でした。当時の民は信仰心が薄かったのに、ザカリヤ夫妻は共に神を畏れる者でした。しかし、子どもが与えられず、主に祈り続けていました。ある日、神殿に入って香をたく務めが、くじによってザカリヤに当りました(箴言16:33)。祭司にとって一生に一度あるかどうかの務めであり、ザカリヤは緊張して神殿に入り香をたいていると、主の使いが現れ、彼の不安と恐怖は大きくなりました。主の使いは彼に対し、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられた」(13)と伝えたのです。ザカリヤはその願いが何だったのか、すぐに分かりました。私たちは、祈った祈祷課題を忘れるような祈りをしないために祈り続け、約束のみ言葉を信仰を持って受け止めましょう。

Ⅱ. ザカリヤの不信仰…
主の使いはザカリヤに、妻エリサベツに男の子が産まれることを告げ、名をヨハネ(「主は恵み深い」の意)とするように命じました。ヨハネの誕生はザカリヤの喜びと楽しみだけでなく、多くの人もその誕生を喜ぶ者となるのです。ヨハネは、神に献げられた子ども(ナジル人)であり、「大いなる者」(15・マタイ11:11)となり、イスラエルの民を主に立ち返らせ(16)、神の前に立てるように罪の解決に導き、「整えられた民を主に備える」(17)使命が与えられているのです。しかし、ザカリヤは夫婦の祈りがきかれ、み言葉による約束が与えられたにもかかわらず、不信仰になり、しるしを求めたのです(18)。これは、処女懐胎のマリヤとは全く異なります(ルカ1:26-38)。ザカリヤはみ使いの言うとおり、子どもが誕生するまで、口がきけないまま務めの期間を終えて、自宅に帰りました。

Ⅲ. 主に会う備えをしよう…
その後、妻エリサベツはみごもりました。エリサベツの名前が「神は誓い」という意味でもあるように、主は約束された誓いを果たされたことを感謝しました。私たちは祈った課題がすぐにかなえられないと、不信仰におちいりやすい者です。しかし、主はみ言葉に伴うすばらしいことを成してくださる生ける主です。ですから、私たちは主を信じ、み言葉を信じて歩みましょう。ヨハネは主の先に来て、人々に主を畏れる大切さを教え、罪を示し、悔い改めの必要を伝え、神の前に立つ道備えをしました(ヨハネ1章参照)。私たちも人を赦せず、愛することができない罪などをもったままでは、神の前に立てません。また、自分の正しさや、外見を飾る善行や、信仰的な行いでは、神の前に立てません。それらは神が与えてくださった恵みのゆえに出来たのです。しかし、主が全ての人の罪を背負い十字架で死なれ、復活し永遠の命の保障となられた主を信じるだけで、神は罪を赦し、罪をきよめてくださり(1ヨハネ1:9)、永遠の命を与えてくださる主の恵みを覚えるときに、魂が砕かれ(詩篇51:17)、神の前に立つことができる者にしてくださるのです。ヨハネは神の栄光のために主を証しました(ヨハネ1:29)。私たちも神に整えられ、神に喜ばれる者とされ、人々に主の十字架の福音を証ししましょう。罪の解決を神の前にさせていただき、神に会う備えをするアドベントとさせていただきましょう。




教会の各活動


午後は、教会役員会(12月分)が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(12月1日)10:30~12:00


聖書:詩篇119篇149節
題:あなたが決めておられるように
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:423、384



○聖書研究祈祷会 水曜日(12月2日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝3章1-10節
題:美しの門での癒し
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:224、42、183



○第2アドベント礼拝 来週日曜日(6日)10:30~12:00


招詞:詩篇29篇1-2節
交読文:51  マタイ5章
聖書:ルカによる福音書1章26-38節
題:貧しい心に主を迎えよう
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:67、88、342

2015年11月22日日曜日

主日礼拝「真理の霊と惑わす霊」

礼拝メッセージ「真理の霊と惑わす霊」ヨハネの第一の手紙4章1~6節


長谷川和雄師


間違った信仰は怖いものですが、真の神への信仰は素晴らしいものです。信仰と愛は聖なる霊によって与えられます。しかし、偽りの霊について、面白半分や、素人判断で異端救出などに関わってはならないのです。

Ⅰ. 真理の霊と惑わしの霊…
神を見たと主張していたグノーシス主義者に対して(12参照)、霊の問題を取り上げ、神からのものか試し(確かめ)なさいと命じられています。教会が始まって約60年でしたが、教会の礎である主に対する様々な考えが出てきました。グノーシス主義は肉体を悪とするため、極端な厳しさと不道徳になりました。エビオン派は主の神性の否定。マルキオン派は旧約と新約の神は異なると主張し、神が苦しむはずが無いと十字架を否定。モンタヌス派は禁欲生活と主の再臨を主張。アリウス派は主の神性を否定。ネストリウス派は主の神格と人格の分離を主張。ペラギウス主義は性善説であり、自由意志による功徳を積んで救われると主張等々。教会の足らなさを問うているうちに、新しい主張に捕らわれ、人間が理解でき受け入れられることのみを信じ(合理主義)、いつしか異端になり、真の教会でなくなってしまっていたのです。現代も成果主義、積極思考、カウンセリング手法などが信仰に入り込んで私たちを惑わしています。

Ⅱ. イエスを告白する霊…
偽りの霊を見分けるには、主をどのように信じ告白しているかが基準となります(2)。仮現説は主の霊と肉を分離して考え、主を分けて考えました。現代においても、主の奇跡などを語っても、十字架の救いを語らない教会が多いので注意しなければなりません。罪を語らないので、十字架は出てきません。表面的なことだけを語っていても、罪の解決にはなりません。主の十字架以外に、私たちの罪の赦しと救いはありません。日々、自らの罪深さを認め、主を救い主として信じて告白し、十字架を仰ぎましょう。

Ⅲ. 私たちは神から出た者です…
温情主義的で、癒しや平和に心が向き、主の愛は困っている人の側に立つことや、生きる時の悪を赦してもらうことに置き換えられています。いつしか赦され受け入れられていることを忘れて傲慢になり、愛の業を誇り、主の生き方をまねをするに留まっています。主の贖いやよみがえりを覚える生活とは、全く異なる生活を送っています。しかし、私たちは主を信じ受け入れ、主の十字架によって罪を赦され、きよめられ、聖霊の宮とされ、主の体なる教会に集められ互いに愛し合う者とされました。内におられる方は、「世にある者よりも大いなる者なので」(4)サタン(罪)に打ち勝てるのです。でも、聖霊の宮とされていない者が教会に集まると教会ではなくなり、真の悔い改めがなく、分裂が生まれ、自己中心となり、神の栄光を現せません。神は互いに愛し合うために教会に戒めを与え、教会の交わりを通して愛の無さなどの罪が示されて砕かれ、十字架を仰ぐことができるのです。互いが主に寄り頼むので解決が生まれます。神から出ていない者は、十字架の言葉に生きみ言葉に耳を傾けようともしません。世の者は世を求め、神を求めません。自分の罪深さが分かり、主の十字架による救いが分かるとは何と幸いなことでしょう。私たちは日々、十字架の福音に生かされるならば、偽りの霊に惑わされません。日々、主の憐れみを求め、主の十字架の血潮を仰ぎ、福音に生かされ、よみがえりの希望に生きる生涯を送らせていただきましょう。



教会の各活動


礼拝の直後に婚約式が、
午後には、壮年会(劇練習)と青年会(クリスマス準備)が行われました。


今週~来週の予定


婚約式にて

○婦人祈祷会 火曜日(11月24日)10:30~12:00


聖書:詩篇119篇149節
題:あなたが決めておられるように
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:423、384



○聖書研究祈祷会 水曜日(11月25日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝2章37-47節
題:祝福された初代教会
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:257、145、146



○主日礼拝 来週日曜日(29日)10:30~12:00


招詞:イザヤ書45章22節
交読文:49  イザヤ書40章
聖書:ルカによる福音書1章5-25節
題:救い主を迎える備え
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:7、68、325

2015年11月15日日曜日

主日歓迎礼拝「信じることが神のわざ」

礼拝メッセージ「信じることが神のわざ」ヨハネによる福音書6章28~29節


長谷川ひさい師


日本人は、宗教は何かやることだと考える傾向があります。「ただ信じればよい」より、何か行って受けるといった方が分かりやすいのではないでしょうか。ユダヤ人も同じような考えがあったので、「神のわざを行うために…何をしたらよいでしょうか」(28)と訪ねました。この「神のわざ」は複数形で、罪を赦され、救われ、永遠の命を得るためには、色々な業をしなければならないと考えていたのです。しかし、主の答えは単数形の「神のわざ」でした。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(29)と言いました。ヨハネ伝には「信じる」との言葉が約百回出るほど「信じる」大切さを強調しています。「信じる」とは、根も葉もないことをただ信じればよいと言うことではなく、「信じる」ことは、その事実の正しい認識から始まります。その事実とは、「罪、死、主の十字架と復活」です。

Ⅰ. 罪の事実…
罪という言葉はいやな響きがあり、いいものではありません。見ても見ぬ振りし、避けたいものです。どんなに罪に蓋をしても罪は罪です。主が宮で教えておられた時、姦淫の現場で捕らえられた女性を、律法学者やパリサイ人が主の前に連れて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」(ヨハネ8:5)と、主を告発するための質問をしました。しかし、主は彼らの思いを見抜き、黙って地面に何かを書いていましたが、質問し続けたので主は、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(同8:7)と答えました。すると年寄りから始めて民が去り誰もいなくなりました。このことは、誰でも「私には罪はない」と言えないということです。もし、この罪から自分を救えるなら、救い主を信じる必要はありません。主を信じる信仰は、罪という事実を正しく認識することから始まります。

Ⅱ. 死の事実…
「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とありますが、罪の結果は、肉知的、霊的、永遠的な死です。人は誰も死に対する解決を持っていません。死は観念ではなく、厳然たる事実です。もし、死なないと言う人がいれば、その人は死の解決者である主を信じる必要がありません。救い主を信じる信仰は、死という事実を正しく認識する必要があります。

Ⅲ. 主の十字架と復活の事実…
主の十字架と復活の事実は、人間の罪と死の解決に必要なことです。その意味で、主の十字架と復活は事実でなければなりません。このことは何千年も前から預言されていたことが成就した、多くの目撃者によって記録された歴史的な事実です。私たちの信仰は、自分の感情や願望によって立っているのでも、都合よく作り上げたものでもありません。神が主を通して私たちのためにしてくださった、十字架と復活に基づく贖いの事実だということを、しっかりと知ることが大切です。「永遠の命とは…神…と…キリストとを知ること」(ヨハネ17:3)ですが、「知る」は信じると同意であり、正しく事実を知ることは信じることにつながります。また、「信じる」は「委ねる」とも訳され、信仰は頭だけの認識ではなく、主ご自身の人格に自分自身の全てを委ねてゆく姿勢が求められます。また「信じる」は「受け入れた」(ヨハネ1:12)ということです。外食を信じて食べるのに、命まで捨てて愛してくださった救い主を心に受け入れないとはなんと悲しいことでしょうか。主の十字架と復活を信じられないなら、「信仰を与えてください」と祈りましょう。信仰を与えてくださるのが神の業なのです。



教会の各活動


会堂掃除の様子
午後は、壮年会・婦人会・青年会合同での会堂掃除、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定

○婦人祈祷会 火曜日(11月17日)10:30~12:00


聖書:詩篇40篇12節
題:正直な心
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:190、266


○聖書研究祈祷会 水曜日(11月18日)19:30~21:00


聖書:ルカによる福音書11章13節
題:求めて来る者に
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:195、208、408


○主日礼拝 来週日曜日(22日)10:30~12:00


招詞:ローマ書12章1-2節
交読文:19  詩篇51篇
聖書:Ⅰヨハネ書4章1-6節
題:真理の霊と惑わす霊
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:21、458、460

2015年11月8日日曜日

主日礼拝「神の戒めに生きる」

礼拝メッセージ「神の戒めに生きる」ヨハネの第一の手紙3章19~24節


長谷川和雄師


児童祝福式の様子
私たちが神の子とされたのは、神の一方的な恵みである神の愛を豊かに受けたからなのです(3:1)。私たちは神の子とされたのだから、「兄弟を愛せよ」との戒めを守れるのです。

Ⅰ. 心を安らかに…
1) 「神のみまえに心を安んじていよう」(19)とありますが、神のみ前での確信や平安は、兄弟を愛するとか、その他のどんな業や功績によるのではありません。自分の心を正直に見つめて愛せないことが分かったら、「愛せません、愛したいのです。愛を与えてください」と、全てをご存知であっても愛してくださる神を信じて求めるとき、神の愛と平安を与えられます(ローマ5:1)。
2) 私たちがみ言葉や、御霊によって罪の指摘を受けても罪の自覚が生じないなら、それは神から離れて歩み、神に対して心を閉ざしているからです。しかし、罪の咎めを感じ、自分の愛の無さを知る時、主の十字架の愛がみえてきます。主の十字架を仰いで神に近付くならば、神は赦してくださり、罪の赦しを与えてくださいます(1ヨハネ1:8-9)。それゆえ、私たちは「神に対して確信を持つことができる」(21)のです。神の愛はなんと偉大なことでしょうか。

Ⅱ. 大胆に神に近付く…
1) 自分の心の責めが無くなれば、大胆に神の御前に出て、何でも包み隠さず、心にあるままを神の御前で祈ることができます。また、私たちは神の憐れみを受け、恵みをいただき、はばかることなく、神の恵みの御座に近付けるのです(ヘブル4:16)。
2) 神の平安があるからこそ、神の前に出て主の名によって何でも祈ることができ、神は私たちの祈りを受け入れてくださり、求めるものを与えてくださるのです。しかし、祈ったことが必ずきかれるというわけでもありません。私たちの祈りが主によって応えていただけるというのは、その祈りが主のみこころと一致する祈りと導かれるからです(ヨハネ15:7)。私たちは心にあるままを神に祈ることができます。しかし、祈っているうちに、神のみこころが示されてくるのです。その示された神のみこころを、受け入れて祈ることが必要です。主も「この杯をわたしから取りのけてください」と、ありのままを祈られました。しかし、主は「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と(ルカ22:42)、神の栄光を求め、神の栄光のために、全てを神のみ手に委ね、十字架の死に至るまで従順に従われたのです。

Ⅲ. 主を信じ、互いに愛し合うこと…
神の戒めに生きることを、神は喜んでくださいますが、その神の戒めとはどんなことでしょうか。
1) 御名を信じることです(23)。それは、主の御名、主の人格、主の全ての働きを信じ、主が与えてくださる信仰によって(使徒3:16)、主に自分の身を全て任せ、頼ることです(ヨハネ1:12、1ヨハネ5:13)。
2) 互いに愛し合うことです(23)。その愛は私たちの内にはありません。私たちが互いに愛し合うことができるのは、神がまず私たちを愛し、赦してくださったという事実があるからです。私たちは、その神の愛を知り、体験する時、神の愛によって愛し合うことができるのです。互いに愛し合うことは、神の親しき交わりがあることの証です(ヨハネ13:34-35)。ですから、主の御名を信じることが、互いに愛し合うことの原動力であり、互いに愛し合うことが主の御名を証しすることになります。主と親しく交わる時、聖霊によって愛の実を豊かに結ぶようになります(24、ガラテヤ5:22-26)。日々、主と親しく交わり、主に全てを委ね、み言葉に生きる者とならせていただきましょう。


教会の各活動


教会ファミリーコンサートの様子
午後は、教会ファミリーコンサートが行われました。


今週~来週の予定

○婦人祈祷会 火曜日(11月10日)10:30~12:00


聖書:創世記12章1節
題:アブラハムの信仰
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:38、354



○聖書研究祈祷会 水曜日(11月11日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝2章22-36節
題:イエスこそ主キリストです
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:237、272、354



○主日歓迎礼拝 来週日曜日(15日)10:30~12:00


招詞:ヘブル書4章14-16節
交読文:34  詩篇108篇
聖書:ヨハネによる福音書6章28-29節
題:信じることが神のわざ
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:264、282、275

2015年11月2日月曜日

11/8 「教会ファミリーコンサート」のご案内

※この記事は、11/8の「教会ファミリーコンサート」のお知らせです。

京都信愛教会ではこのたび、初めての試みとして「教会ファミリーコンサート」を行う事になりました。

教会員やその家族が、おのおの楽器や声楽などで、賛美歌を始め、クラシック曲や映画の主題歌などを奏でます。

賛美歌や唱歌を参加者みんなで歌うプログラムも有ります。

どなたでも入場無料です。「教会に一度は足を運びたかった」という方も、ぜひお越しください。

詳しくは、下のチラシをご覧ください。




■日時


2015年11月8日(日) 13:00~15:00


■会場・お問い合わせ


日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
京都市北区大将軍坂田町21番地12
TEL(075)461-1938
牧師: 長谷川和雄
副牧師: 長谷川ひさい
※当教会は、伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。