2015年10月11日日曜日

主日礼拝「今や神の子なのだから」

礼拝メッセージ「今や神の子なのだから」ヨハネの第一の手紙3章1~10節


長谷川和雄師

中心聖句
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」
ヨハネの第一の手紙3章6節


私たちが家に帰るのは、そこに愛があることと同じ理由で教会に集まるのではないでしょうか。神の愛と恵みを豊かに受けて、天の御国に帰る備えのため、神の子どもに相応しく整えられるのです。一人ひとりがキリストのからだとして生かされているでしょうか。

Ⅰ. 神の子とされた私たち

  1. 私たちは御父なる神から大きな愛をいただきました。愛することは、決して真似ることができません。愛は内から出てくるものです。また、愛されてはじめて愛することができるのです。教会で、お互いが愛し合うことによって、愛が分かってきます。そして、神の愛の偉大さを知るようになるのです(エペソ2:3-5)。変わろうと思っても変われない私たちですが、愛され愛を知ったとき、愛を体験したとき変わることができます。神の愛を豊かに受けるとき、私たちの内から愛が湧き出てくるのです。
  2. 神の愛によって備えられている贖いの恵みを信じ、その恵みを受け取るだけで、私たちも神の子ども、神の家族とされるのです(ローマ8:14、エペソ2:16、19)。キリストの霊に導かれて歩む者は、神の栄光を見るのです(ヨハネ17:24)。3)主にとどまり、主と共に歩むなら、主にまみえる日には主と同じ姿に変えられるのです(2)。なんと感謝なことでしょう。神の子どもとされたのですから、神の愛に生かされ、キリストを見上げて歩む者とならせていただきましょう。

Ⅱ. 罪の内を歩まない神の子

  1. 主が聖いお方だと知ったなら、神の子どもとされた私たちは聖く生きたいと願うでしょう。しかし、聖い主にとどまって歩むほど、自らの罪や汚れがあらわにされていきます。外側だけを整えようとしても、決して主の聖さに近づけません。自分の罪が示されたとき、主の十字架を仰ぎ、主に憐れみを求めていくことが大切です。これこそ神の子どもの姿です。そして、世の助けを求めず、無私になって神の御旨に生きること、神に栄光を帰す生活を送ることです。
  2. 世に心が向いている者は罪を犯し続け、神の臨在を覚えず、神のみこころを知ろうともせず、神に背き、自分勝手に生活します。しかし、主は罪を取り除き、主の心を知らせるために現れてくださいました。私たちが義とされるのは、主の血潮以外にありません(1ペテロ1:18)。惑わす者に惑わされないように、神のみ前を歩み、み言葉に生き続けましょう。

Ⅲ. 神の子の証し

  1. 神の子どもであるのかどうかは、その人の歩み、生活を見れば明確です。人に認められ、褒められたくて生きているのか、それとも神に喜ばれ、神のために生きているのか。積極思考、成果主義などに生きて自分に誉れを帰しているのか、それとも神が成してくださったと感謝し、神に栄光を帰す生活をしているかで分かります。
  2. 私たちはキリストのゆえに、サタンの支配から神に立ち返らせていただけるのです(使徒行伝26:18)。生まれ変わるとは、神のご支配の下に移され、光の子とされることであり、自らの罪深さを認めて、主に憐れみを求め、拠り頼んで生きることです(エペソ4:25-5:8)。
  3. フランス革命の時、革命家たちは王子の品性を破壊しようとしました。しかし、王子は「わたしは王になるために生まれたのだからできない」と言って、悪の誘惑に負けませんでした。神の子どもとされた私たちは、悪の誘惑に負け、神に逆らって生きるのではなく、神に愛されている神の子どもとして、主が歩まれたように悪の仲間に加わらず、神に近づき、み言葉に従い続けて歩みましょう。


教会の各活動


午後は、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月13日)10:30~12:00


聖書:詩篇86篇6節
題:泉のわく所
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:339、399



○聖書研究祈祷会 水曜日(10月14日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝 1章12-26節
題:聖霊待望と使徒補充
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2、408、392



○主日歓迎礼拝 来週日曜日(18日)10:30~12:00


招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:59  Ⅰヨハネ書4章
聖書:ヨハネによる福音書3章16節
題:ほんものの愛
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:18、108、89