2015年10月25日日曜日

主日礼拝「キリストは道、真理、命」

礼拝メッセージ「キリストは道、真理、命」ルカによる福音書1章39~45節


小岩裕一師


神奈川県警察のポスターに「息子はサギ!」と書かれています。息子と勘違いして、サギにだまされないためです。宗教も本物と偽物を見分けることが大切です。自分がどこへ行くのか、わからない時に、不安になり、自分を見失い、偽物にだまされてしまいます。

この箇所では、ペテロが、命がけで主について行く覚悟ですと言っていますが、主イエスは、「今」は、できないと言われました(13:37-38)。主イエスが〈どこかに行ってしまう〉ことは、「心を騒がせ」(1)ることです。主イエスを見失ってしまいそうになる時、主イエスのお言葉をしっかりと聞く必要があります。

Ⅰ.「神を信じ、またわたしを信じなさい」(1)

  1. 主イエスは、「神を信じ」、「わたしを信じなさい」と命じられました(1)。主イエスを信じる根拠は「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」こと、「あなたがたのために、場所を用意しに行く」ことです。人生の最後に行くべき場所は、父なる神と主イエス・キリストのいらっしゃる永遠の御国です。「あなたがたをわたしのところに迎え」ること、「わたしのおるところにあなたがたもおらせる」こととは、主イエス・キリストの再臨を信じて待ち望むことです(3)。
  2. しかし、トマスも(4)。ピリポも(8-9)、主イエスが「どこへ行くのか」(4)が理解できなかったのです。父なる神への道は、イエス・キリストを通してであることを信じられなかったからです。しかし、彼らも主イエスの十字架と復活の後に、信じることができたのです(3)。わたしたちは幸いなことに、福音書によって、主イエスの十字架と復活の事実を知り、信じることができるのです。

Ⅱ.「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)。

  1. 「道」。父なる神への道です。道を教えるのではなく、主イエスご自身が道そのものであると言われるのです。だから、私たちは、主イエスご自身と一体となって、父なる神に至るのです。主イエスの血潮を信じて、大胆に神に近づくことができるのです(ヘブル10:19-25)。最後の安住の場所があるのです。そして、今、同伴者なる主イエスと共に人生を歩むことができるのです。 「神は唯一であり、神と人との間の中保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(1テモテ2:5)。
  2. 「真理」。信頼できる、うそではない、本当という意味です。真理を教えるのではなく、主イエスご自身が、真理そのものです。主イエスの言葉と行為によって判断できるのです(10-11)。そして、その道を安心して歩むのです。主イエスの救いによって与えられる真理の御霊は、「罪と義とさばき」を示されます(ヨハネ14:7)。
  3. 「命」。人は、「道」がわかっても、力がなければ、歩むことはできません。また、罪と死に勝つ力はありません。だから、主イエスご自身が「命」となって、神による復活の力を与えてくださるのです(Ⅱコリント1:8-10)。

キリスト以外には、救いはないのです。他に付け加えてはならないのです。ただ、道、真理、命である主イエス・キリストだけを信じましょう。

教会の各活動


異端カルト対策講演会にて
午後は、異端カルト対策講演会(小岩裕一師)が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月27日)10:30~12:00

聖書:ルカによる福音書24章49節
題:父の約束
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:356、416



○聖書研究祈祷会 木曜日(10月29日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝 1章1-13節
題:聖霊の降臨
説教者:長谷川和雄師
新聖歌: 42、135、414



○主日礼拝 来週日曜日(11月1日)10:30~12:00


招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:10  詩篇31篇
聖書:Ⅰヨハネ書3章10-18節
題:行いと真実をもって愛し合おう
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:22、367、364

2015年10月18日日曜日

主日歓迎礼拝「ほんものの愛」

礼拝メッセージ「ほんものの愛」ヨハネによる福音書3章16節


長谷川ひさい師


今日のみ言葉から、神の本当の愛がいかにすばらしいか学びましょう。人間は愛なしでは生きられない存在だと言われていますが、どのような愛を土台として生きてゆけばよいのでしょうか。もし、愛が当てにならないものであるなら、人生そのものが良い人生とは言えなくなります。しかし、確かで、唯一ですばらしい神の愛があります。今日の聖句は、聖書の中で真理が凝縮された、愛の証明を見ることができる聖句です。その愛が本物であるかどうかが、次の4つの点で確かめられます。

Ⅰ. どれだけ犠牲を払うことができるでしょうか

  1. 「もし、人を愛するというならば、愛するという人のために死ねるということでなければならない」と言った人がいます。また、三浦綾子さんは、「ほんとうの愛は自分の最も大事なものを人にやってしまうことです。まことの愛とは、愛する人のために、どれだけ犠牲を払えるかによって量れます。
  2. 神は、信仰の篤いアブラハムをテストしました。彼は跡継ぎの息子がなかなか与えられませんでしたが、百歳を過ぎて約束通りの息子が与えられ、イサクと名づけ深く愛しました。ところが、神はその子をささげなさいと言われました。彼は神に従い指定された地に行き、イサクを神への生けにえとして祭壇の上に横たえ、ほふろうとした時、主の使いが、「わらべを手にかけてはならない…あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22:12)と声をかけました。彼にとって最愛の最も大切なひとり子を、神のために惜しまないでささげようとして、神への愛が本物であったことを示したのです。神もご自分の最も大切なひとり子の、イエス様のいのちを犠牲にされるほどに、私たちを愛してくださったのです。払われた犠牲の大きさから、神の大きな愛を見ることができるのです。

Ⅱ. 愛の純粋さと高さは、誰のために犠牲を払うのか。その対象によって知ることができます

  1. アブラハムも神もひとり子を犠牲にし、一見似ていますが大きな違いがあります。その違いは、愛の対象が異なっています。アブラハムは、神のみ言葉に従って故郷のウルを出てカナンの地に来ました。そして、「あなたは祝福の基となる」(創世記12:2)との約束を受け、神は財力において特別な祝福を彼に与え、大いなる勢力をもつ一族とされました。それを知っていたので神の言葉に従い、ひとり子をささげました。しかし、神は、神に背いている世の人々の罪の身代わりとして、ご自分のひとり子を提供されたのです。
  2. 人間の愛は、「~だから」や「もし…ならば」の条件付の愛です。もし、神が条件付の愛で愛するなら、愛される資格がある人がいるでしょうか。神の愛は、私たちが罪人であり、愛される資格も価値もない者のために、最大の犠牲を払った本物の愛なのです(ローマ5:7)。

Ⅲ. 愛の目的は何なのでしょうか

その目的は、「ひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」です。神がひとり子を与え、イエス様が十字架で血を流し、命をささげてくださったのは、神から離れ、神に背を向けて罪を犯し、滅びに向かっている人々を罪から救い、永遠のいのちを与えるためでした。

Ⅳ. この愛を受け取るには、どうしたら良いのでしょうか

受け取る条件は、私の罪のためにイエス様が死なれたことを信じ、感謝して受け取ることです。今朝、神の本物の愛を全員受け取っていただきたいと、神は願っています。



教会の各活動


会堂の床と扉が改装されました
午後は、壮年会(学び会)が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月20日)10:30~12:00


聖書:詩篇86篇6節
題:泉のわく所
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:339、399


○聖書研究祈祷会 水曜日(10月21日)19:30~21:00


聖書:ローマ書10章10-11節
題:救いの恵み
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:195,262、265


○主日礼拝 来週日曜日(10月25日)10:30~12:00


招詞:ローマ書12章1-2節
交読文:14 詩篇37篇
聖書:ヨハネによる福音書14章1-6節
題:キリストは道、真理、命
説教者:小岩裕一師
新聖歌:354、355、395

2015年10月11日日曜日

主日礼拝「今や神の子なのだから」

礼拝メッセージ「今や神の子なのだから」ヨハネの第一の手紙3章1~10節


長谷川和雄師

中心聖句
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」
ヨハネの第一の手紙3章6節


私たちが家に帰るのは、そこに愛があることと同じ理由で教会に集まるのではないでしょうか。神の愛と恵みを豊かに受けて、天の御国に帰る備えのため、神の子どもに相応しく整えられるのです。一人ひとりがキリストのからだとして生かされているでしょうか。

Ⅰ. 神の子とされた私たち

  1. 私たちは御父なる神から大きな愛をいただきました。愛することは、決して真似ることができません。愛は内から出てくるものです。また、愛されてはじめて愛することができるのです。教会で、お互いが愛し合うことによって、愛が分かってきます。そして、神の愛の偉大さを知るようになるのです(エペソ2:3-5)。変わろうと思っても変われない私たちですが、愛され愛を知ったとき、愛を体験したとき変わることができます。神の愛を豊かに受けるとき、私たちの内から愛が湧き出てくるのです。
  2. 神の愛によって備えられている贖いの恵みを信じ、その恵みを受け取るだけで、私たちも神の子ども、神の家族とされるのです(ローマ8:14、エペソ2:16、19)。キリストの霊に導かれて歩む者は、神の栄光を見るのです(ヨハネ17:24)。3)主にとどまり、主と共に歩むなら、主にまみえる日には主と同じ姿に変えられるのです(2)。なんと感謝なことでしょう。神の子どもとされたのですから、神の愛に生かされ、キリストを見上げて歩む者とならせていただきましょう。

Ⅱ. 罪の内を歩まない神の子

  1. 主が聖いお方だと知ったなら、神の子どもとされた私たちは聖く生きたいと願うでしょう。しかし、聖い主にとどまって歩むほど、自らの罪や汚れがあらわにされていきます。外側だけを整えようとしても、決して主の聖さに近づけません。自分の罪が示されたとき、主の十字架を仰ぎ、主に憐れみを求めていくことが大切です。これこそ神の子どもの姿です。そして、世の助けを求めず、無私になって神の御旨に生きること、神に栄光を帰す生活を送ることです。
  2. 世に心が向いている者は罪を犯し続け、神の臨在を覚えず、神のみこころを知ろうともせず、神に背き、自分勝手に生活します。しかし、主は罪を取り除き、主の心を知らせるために現れてくださいました。私たちが義とされるのは、主の血潮以外にありません(1ペテロ1:18)。惑わす者に惑わされないように、神のみ前を歩み、み言葉に生き続けましょう。

Ⅲ. 神の子の証し

  1. 神の子どもであるのかどうかは、その人の歩み、生活を見れば明確です。人に認められ、褒められたくて生きているのか、それとも神に喜ばれ、神のために生きているのか。積極思考、成果主義などに生きて自分に誉れを帰しているのか、それとも神が成してくださったと感謝し、神に栄光を帰す生活をしているかで分かります。
  2. 私たちはキリストのゆえに、サタンの支配から神に立ち返らせていただけるのです(使徒行伝26:18)。生まれ変わるとは、神のご支配の下に移され、光の子とされることであり、自らの罪深さを認めて、主に憐れみを求め、拠り頼んで生きることです(エペソ4:25-5:8)。
  3. フランス革命の時、革命家たちは王子の品性を破壊しようとしました。しかし、王子は「わたしは王になるために生まれたのだからできない」と言って、悪の誘惑に負けませんでした。神の子どもとされた私たちは、悪の誘惑に負け、神に逆らって生きるのではなく、神に愛されている神の子どもとして、主が歩まれたように悪の仲間に加わらず、神に近づき、み言葉に従い続けて歩みましょう。


教会の各活動


午後は、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月13日)10:30~12:00


聖書:詩篇86篇6節
題:泉のわく所
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:339、399



○聖書研究祈祷会 水曜日(10月14日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝 1章12-26節
題:聖霊待望と使徒補充
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2、408、392



○主日歓迎礼拝 来週日曜日(18日)10:30~12:00


招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:59  Ⅰヨハネ書4章
聖書:ヨハネによる福音書3章16節
題:ほんものの愛
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:18、108、89

2015年10月4日日曜日

主日礼拝「反キリストに対する態度」

礼拝メッセージ「反キリストに対する態度」ヨハネの第一の手紙2章18~29節


長谷川和雄師


光の中を歩むクリスチャンが、この世にあって警戒すべき第1のことは、「世を愛する」ことでした。そして、第2のことは、「反キリスト」です。

Ⅰ. 今は終わりの時…

  1. 神のご計画全体の中で、今がどのような時であるのかを知り、今を見失ってはいけません。「今は終りの時」とは、神のご計画の最終段階、主の誕生から再臨までの全期間をさしています。キリストの再臨が間近なのです(ローマ13:11)。世の終りには反キリストや不法の者が現れ、困難な時代となります(ルカ21章、2テサロニケ2:3-4、2テモテ3:1-5)。
  2. 「反キリスト」とは何でしょう。
    1. 教会との関係が崩れている者です。どんなに人間的に親しくなっても、信仰告白においてひとつになれない者は、神の家族とはなれません。教会を支配しようとしたり、教会から出ていって嘲ったり、迫害する者です。
    2. 教えの内容が異なる者です。神のこと、イエス様が救い主であることを否定します。
    3. 生活態度をみると、それは明らかに異なります(2ペテロ2-3章)。彼らは生活の中で、主を証しする生活をしていません。しかし、天国への門は狭いゆえに、神を畏れて生きる者たちは、彼らに攻撃されることがあります。
  3. 反キリストに惑わされないためには、それを見分ける必要があります。また、見分けるためには、本物を知ること、何よりも自分自身が本物のクリスチャンとなっていることが大切です。本物のクリスチャンは救いの確信があり、聖霊に満たされ、み言葉に満たされ、み言葉に生きています。目を覚まして歩みましょう。

Ⅱ. 正しい信仰告白にとどまる…

「偽り者」とは、正しい信仰告白から外れた者です。終りの時に反キリストに惑わされないためには、正しい信仰告白にとどまることが必要です。「初めから聞いた」こととは、キリストの十字架と復活の福音です。福音に生きる者とは、主こそ罪からの救い主であると信じ、このお方に賭けている人です。主が完成された方で、賢く、善良で、奇跡の力を持っている人間というだけであるなら、模範として真似をすればよいのです。しかし、真似をすることではなくて、私の唯一の罪からの救い主として信じ、この方により頼んでいることが大切です。また、御子および御父の内にとどまることです。とどまるとは、それを試し、見抜き、勝利を得るということです(黙示録2:2参照)。真理にとどまっているからこそ、光である神との交わりの中にとどまり、主が約束された永遠の命を受け継ぐことが出来るのです。

Ⅲ. キリストにとどまる…

反キリストは教会から出て行きますが、惑わす者は教会内に留まっています。もし、スパイが自制心、謙虚、大胆、誠実、冷静な判断と燃える心、清潔な手をもっているとしたら、誰が見分けられるでしょうか。反キリストも、光のみ使いを装っています(2コリント11:12-15)。それゆえ、私たちは主の内にとどまり、正しい信仰を守り通すことが重要なことです(ヨハネ15:4-5)。主にとどまるとは、主と共に歩み(2:6)、主を信頼し(28)、罪のうちを歩まないで(3:6)、神の命令を守り(3:24)、主を神の子と告白すること(4:15)です。また、「義」とは神との関係をあらわしています。行いによらない、主を信じる信仰による義です(創世記15:6)。この世的基準に合わせることではありません。神に対する正しいあり方、つまり、主につながっていることです。私たちは主の内にとどまり、神の愛を豊かに受けて、兄弟愛を実行する者とならせていただきましょう。




教会の各活動


午後は、教会役員会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(10月6日)10:30~12:00


聖書:イザヤ書49章15節
題:女たちが忘れても
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:191、205


○京都聖会準備祈祷会 水曜日(7日)19:30~21:00


聖書:ローマ書12章1~5節
題:きよめのプロセスと目的
説教者:内田純師
新聖歌:22、365,400


○主日礼拝 来週日曜日(10月11日)10:30~12:00


招詞:ヘブル書4章14-16節
交読文:11  詩篇32篇
聖書:Ⅰヨハネ書3章1-10節
題:今や神の子なのだから
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:178、266、357